これまで、食品業界の不祥事は星の数ほどあった。カネミ油症や森永ヒ素ミルクのような「大事件」ばかりではなく、マクドナルド、雪印、赤福、船場吉兆、白い恋人など枚挙に暇がない。そんなことに遭遇しない自分を幸運だと思っていた。ところが、自分にかかわる問題として食の安全を意識する事件に遭遇した。その顛末をご報告する。
問題食品の製品名は「明治 北海道十勝カマンベールチーズ」。製造業者は株式会社明治。このチーズに髪の毛が混入していたことが報道された。その報道の2日前、同様製品をたまたま購入していたのだ。私の購入したチーズにも髪の毛が混入しているかどうかは、「開封していないから分からない」としか言いようがない。たとえ、髪の毛混入がなくても、とても不快で食べる気はしない。
事件の顛末は、以下のごとくである。
先月(4月)25日の午後。ある男性が、熊本県天草市にあるスーパーでチーズを買った。「明治 北海道十勝カマンベールチーズ」である。そのチーズに、髪の毛が埋め込まれた状態で混入していた。男性はこれを動画に撮影した上で、製造・販売元の明治に連絡した。その後12日を経過した今月8日、同社から電話で回答があったという。「検査の結果、チーズに混入していたのは髪の毛だった」「原因は調査中」とのこと。
この件は5月11日TBSで報道され、私はそのことを同日ネットで知った。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2489405.html
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20150511-00000024-jnn-soci
たまたま私が購入したチーズも同じ「明治 北海道十勝カマンベールチーズ」。成り行きを注目したが続報はなく、明治のホームページを見てもなんの関連情報の掲載もない。
そこで仕方なく、明治のお客様相談センターに電話をかけてみた。5月13日のことだ。担当の小池忠郎氏(センター・課長)の曰く、「私どもといたしましては、万全を期して製造しております。ですが、人間のしていることですので・・。あの髪の毛の入ったチーズについての情報は私どもがTBSに提供したものではありません。その原因につきましては鋭意調査中でございます」。なお、問題の髪の毛混入チーズは、同じ「明治の北海道十勝カマンベールチーズ」ではあるが、私が購入したものとは違って、分割包装されている「切れてるタイプ」というもののようだ。製造工場も違うとの指摘があった。
製品のタイプの違いは下記のとおり。
http://catalog-p.meiji.co.jp/products/dairies/cheese/020304/4902705060050.html
「それでは調査結果の公表を待ちたいと思います。ホームページに掲載してください」と要請すると、本来そのような予定はないという態度だったが、シブシブ「社内で検討いたします」とまで譲歩した。そしてその2日後(5月15日)に、小池氏から電話がかかってきた。
「この件は製造過程ではなく、包装中に髪の毛が入ったということで、当該のお客様には納得していただきました。人間が作っているものなので、ミスの可能性は否定できません。しかしながら、当社としてはそのことについてホームページに載せるとか、公表することはいたしません。この件では当該のお客様とだけ個別に対応が必要と認識しており、ご納得いただいたことで解決済みとなりました」と、きっぱりとした明快な報告であった。
「ネットで公開された写真を見た限り、髪の毛はチーズに陥入して、埋め込まれている状態ではありませんか。包装中に混入したというのはとうてい考えられない」「事故製品を買った方が『納得した』というのも到底信じられない」「私の購入チーズは、違う工場で造られたからといって、気味が悪く食べる気はしない。送りますのでせめて代金を返してください」と言うと、「金属片が入っていたわけでもなく、健康被害があったわけでもないので、その要望にはお応えできません」とこれも歯切れよく断られた。「チーズは食べようと捨てようとお客様のご判断次第です」ともいわれた。とりつく島がないとはこのこと。
あっけにとられるばかりでは芸がないので、「明治」について調べてみる気が俄然わき起こってきた。こんなときインターネットは便利である。「明治」のホームページには立派な言葉が並んでいる。相談室の対応に接した後では空虚な美辞麗句としか思えない。
以下はホームページに記載された会社の方針から抜粋したもの。
http://www.meiji.com/corporate/management/philosophy/
◇「グループ理念」
「私たちの使命は『健康・安心』への期待に応えていくこと。私たちの願いは『お客様の気持ち』に寄り添い、日々の『生活充実』に貢献すること」
◇「経営姿勢」
「『高品質で安全安心な商品』を提供すること。『透明・健全で社会から信頼される企業』になる」
羊頭狗肉とはこのこと。「明治」および小池氏の慇懃無礼な対応は、「お客様の気持ちに」寄り添っていない。「安心安全な商品」を提供していないし、誠実に説明責任を果たそうとしない態度は「透明・健全で社会から信頼される企業」の姿勢とはほど遠い。
◇「品質マネジメントシステム」
「食品メーカーとして製品の安全性を担保することは基本中の基本です。当社はフードチェーン全体に存在するリスクを顕在化して、リスク評価を行い、リスクを許容できるレベルまで合理的に低減するための手順を決定し実行しています」
この部分は理解に苦しむ文章。「人間のやることですので髪の毛一本くらい仕方がないでしょう」という言い訳を社の方針として述べているのかとも読める。
なお、小池氏が「金属片」という言葉を出していたが、それは、「明治」が2010年8月に金属片の入った疑いのあるチーズ23万個を自主回収した前科を指していたのだということを、インターネットが教えてくれた。もちろん、明治のホームページには、そんなことの片鱗も掲げていない。
明治の担当者が、「あなたの購入製品は事故を起こした製品ではない」と言った途端から、明治と私とは、具体的な事故の当事者の関係であるよりは、事業者と一般消費者との関係に転化した。
最後は次のように、こちらからしゃべった。
「消費者の一人として申しあげるが、食の安全については万全を期してもらわねばならない」「現実に事故が起こったのだから、真摯にその原因を調査して公表し、再発を防止する策を明確にしなければならない。そのことが、消費者の信頼を回復する唯一の手段ではないか」「一個のチーズに髪の毛が混入していたことは、製造工程の異物混入防止策が不十分なことを物語っている。髪の毛だけではなく、フケでも、汗でも、唾液でも混入した可能性を否定できない」「真摯な事故対応があって、信頼できる調査結果が発表されれば、事故は限定的なものだったと納得ができる」「しかし、今回の明治の対応は、社の隠蔽体質を露わにしたと言わざるを得ない」「これでは、他のチーズにも、チーズ以外の他の食品にも同様事故があったのではないか。多くの事故を個別の対応でこっそり解決して、隠蔽し続けてきているのではないか。いったいどれだけの事故が個別対応でこっそり処理されているのだろうか。そう疑われても仕方なかろう」
結局は、のれんに腕押しの相手に、当方の住所氏名を名乗り、ブログに顛末を掲載すること、以後明治の製品は買わないこと、「カマンベールチーズ」は記念にとっておくことを告げて電話を切った。消費者は非力である。読者諸氏には明治の製品にはくれぐれもご注意をと申し上げる。
現代の社会では、ほぼすべての人の生活が全面的に事業者によって提供される商品またはサービスに依存してなり立っている。衣食住から、医療・教育・情報・趣味の分野まで、すべてが商品を購入せずにはなり立たない。しかも、高度に複雑化し専門化した商品やサービスの安全性や耐久性は消費者には解明しがたい。消費者、つまりは生活者の生活の質や安全が、事業者の提供する商品に依存しているということだ。
事業者は自社が製造し販売する製品の利便性と安全性を喧伝し、消費者はこれを信頼して購入する。ところが、時としてこの製品に対する信頼が裏切られることがあって、社会問題となる。とりわけ、食品や医薬品の安全問題が、消費者の生命や健康に直接かかわる問題として、重要である。食品事故は、消費者共通の利害にかかわる社会的重要事として、隠蔽されてはならない。
消費者は、事業者に事故情報の開示を求めよう。積極的に事故情報を発信し交換し共有しよう。もちろん、できるだけ正確にである。そのことが、消費生活の安全に資することにつながる。
(2015年5月17日)
毎日新聞の投書欄に、NHK受信料についての投稿が続けて取り上げられている。NHKに対する不審・不満の人々の気持ちを反映したものであろう。これがおそらくは氷山の一角。
5月2日に宮崎市の66歳無職氏が、「NHK(BS)受信料徴収について」、その不合理・理不尽に抗議している。
「先日から、頻繁にNHKのBS受信料を支払えと言って職員が来ます。ケーブルテレビなどBSが受信できるようになっていれば、視聴しようがしまいが、支払ってもらうということなのです。
これは、頼みもしないのに一方的に商品を送ってきて支払いを強制するのと同じことではないでしょうか。
NHKが公共放送というのなら、本来、だれでも視聴できるべきではないでしょうか。そうでなければ、受信料を徴収する方向ではなく、受信料を支払っていないところは、視聴できないようにしたらいかがでしょうか。デジタル化された今、可能でしょう。徴収する職員の人件費も節約できますよ。」
この投稿者のケーブルテレビ利用はNHKのBS受信のためではない。おそらくは、NHKBSの視聴には興味もないのだろう。それなのに、「視聴しようがしまいが、受信料は支払ってもらう」というのがNHKの高飛車な姿勢。これは不合理だ。世の中の常識では、欲しいものは吟味して、欲しいだけの量を購入して、それだけの代金を支払う。ところが、欲しくもないもの、使わぬものにまで金を支払えとは、理不尽極まる。「頼みもしないのに一方的に商品を送ってきて、支払いを強制する悪徳商法と同じではないだろうか」と率直な感想が述べられている。もっとも至極。健全な消費者感覚ではないか。
とりあえず、この請求には断固拒否すればよい。NHKとご当人との間には、「地上契約」(地デジ受信だけを内容とする契約)だけが存在していて、「衛星契約」(BS受信も内容とする契約)は未締結だと思われるからである。契約未締結では高額な衛星契約受信料支払いの義務は生じない。
もっとも、放送受信規約取扱細則6条2項は、「地上契約を締結している者が、衛星系によるテレビジョン放送を受信できる受信機を設置したときは、衛星契約について所定の契約手続を行うものとする」となっている。「契約手続を行うものとする」は微妙な表現だが、少なくも、契約締結が擬制されるわけではなく、自動的に受信料支払い債務が発生するわけでもない。飽くまで、任意の契約締結が原則なのだ。
この請求を拒否し続けていれば、NHK側の対抗手段としては訴訟の提起をするしかない。視聴者に対して衛星受信契約締結を求め、その契約成立の日以後の契約に基づく受信料を請求するという訴え。NHKにとってかなり難しい面倒な訴訟である。この訴訟における判決の確定までは、受信料支払い義務は生じない。
そもそも、契約とは締結するもしないも自由である。この投稿者の感覚こそが、法常識に適っているのだ。ところが、放送法64条が、本来自由であるはずの受信契約について、「契約をしなければならない」とする不思議な規定を置いた。「協会(NHK)の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。」というもの。
BS受信だけのことではない。地上波受信の基本契約についても同様に、受信契約締結があってはじめて、受信料支払い義務が発生することになっている。これは、NHKの放送内容やその姿勢に国民が共鳴して、公共放送としてのNHKを国民が自発的に支えることを期待しての制度にほかならない。
仮に最終的には面倒な訴訟手続を経てNHKが受信料を強制徴収できるにせよ、法は国民のNHKに対する信頼を基礎とした任意を支払いを期待しているのだ。だから、普通の感覚からは「そこまでやるの?」「NHKやり過ぎじゃない?」「悪徳商法並みの請求」などと批判されるような請求は控えるべきが当然であろう。
次いで、5月4日「NHK受信料、見た分だけに」という、横浜の主婦66歳の投書が掲載された。
「私はNHKのテレビ番組はほとんど見ません。見るのは天気予報、ニュース、地震速報くらいです。それもNHKだけに頼っているのではなく、民放との見比べです。
歌やサスペンスは好きなので民放では結構見ていますが、NHKの歌番組やドラマはBSを含めてもまず見ません。
昭和時代は、テレビといえばNHKでした。あの頃の番組にはNHKらしい品格、安心感がありました。今でも懐かしく思い出します。
NHKのテレビ番組はほとんど見ない今、2カ月4560円の受信料は年金生活の我が家にとっては、最大の出費です。
私はプリぺイドカードの導入を希望します。電気、ガス、水道、電話のように使用した分だけの料金にしてほしいと思います。」
これも、まことにまっとうな経済感覚ではないか。「必要なものを必要なだけ買いたい」というのが消費者としてのあまりに当然の要求。電気、ガス、水道、電話、みな代金は従量制ではないか。野菜を買っても、魚を買っても、余計なものまで買わせられることはない。抱き合わせで不必要なものまで渡されて、食べても食べなくても代金だけは支払え、などと理不尽なことは言われない。NHKだけがなぜかくも不合理・理不尽を主張できるのか。
2日の投稿者は、「受信料を支払っていないところ(BS)は、視聴できないようにしたらいかがでしょうか」と言い、4日の投稿者はより積極的に、「プリぺイドカードの導入を希望します。使用した分だけの料金にしてほしいと思います」と言う。それがあるべき方向ではないか。
何よりも大切なことは、契約にもとづく受信料支払いの制度の基本が、視聴者にとって魅力のあるNHK、信頼される公共放送であることなのだ。視聴に値する魅力に乏しく、政権への迎合を疑われるジャーナリズムにあるまじき報道姿勢で、しかも人格識見まことに不適格な会長や経営委員人事が実態となれば、国民が任意には受信料を支払いたくないと思うのも当然ではないか。
強制によって受信料の徴収をはかろうというのは邪道なのだ。何よりも、視聴者の信頼を勝ち得なくてはならない。これ以上の不適格はないという現会長を解任し、政権の息のかかった経営委員を交代させ、権力から独立した公共放送としての信頼を取り戻すことが喫緊の最重要課題だと知るべきである。公共放送としての信頼の回復こそが、NHKの経済的な充実の鍵であり、その最大のネックが不適格会長の居座りなのだ。
(2015年5月9日)
なんと私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回口頭弁論期日は明日4月22日(水)となった。13時15分から東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。私は、多くの人にこの訴訟をよく見ていただきたいと思っている。そして原告DHC吉田側が、いかに不当で非常識な提訴をして、表現の自由を踏みにじっているかについてご理解を得たいのだ。
DHC会長の吉田嘉明は、私の言論を耳に痛いとして、私の口を封じようとした。無茶苦茶な高額損害賠償請求訴訟の提起という手段によってである。彼が封じようとした私の言論は、まずは、みんなの党渡辺喜美に対する8億円拠出についての政治とカネにまつわる批判だが、それだけでない。なんのために彼が政治家に巨額の政治資金を提供してたのか、という動機に関する私の批判がある。私は当ブログにおいて、吉田の政治家への巨額なカネの拠出と行政の規制緩和との関わりを指摘し、彼のいう「官僚機構の打破」の内実として機能性表示食品制度導入問題を取り上げた。
この制度は、アベノミクスの第3の矢の目玉の一つである。つまりは経済の活性化策として導入がはかられたものだ。企業は利潤追求を目的とする組織であって、往々にして消費者の利益を犠牲にしても、利潤を追求する衝動をもつ。だから、消費者保護のための行政規制が必要なのだ。これを桎梏と感じる企業においては、規制を緩和する政治を歓迎する。これは常識的なものの考え方だ。
私は2014年4月2日のブログを「『DHC8億円事件』大旦那と幇間 蜜月と破綻」との標題とした。以下は、その一節である。これが問題とされている。
たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。
同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。
サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。
大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される」とはガルブレイスの説示によるものだ。彼は、一足早く消費社会を迎えていたアメリカの現実の経済が消費者主権ではなく、生産者主権の下にあることを指摘した。彼の「生産者主権」の議論は、わが国においても消費者問題を論ずる上での大きな影響をもった。ガルブレイスが指摘するとおり、今日の消費者が自立した存在ではなく、自らの欲望まで大企業に支配され、操作される存在であるとの認識は、わが国の消費者保護論の共通の認識ー常識となった。
また、消費者法の草分けである正田彬教授は次のように言っている。
「賢い消費者」という言葉が「商品を見分け認識する能力をもつ消費者」という意味であるならば、賢い消費者は存在しないし、また賢い消費者になることは不可能である。高度な科学的性格をもつ商品、あるいは化学的商品など、複雑な生産工程を経て生産されたものについてだけではない。生鮮食料品についてすら、商品の質について認識できないのが消費者である。消費者は、最も典型的な素人であり、このことは、現在の生産体系からすれば当然のことである。必然的に、消費者の認識の材料は、事業者―生産者あるいは販売者が、消費者に提供する情報(表示・広告などの)ということにならざるを得ない。消費者は、全面的に事業者に依存せざるをえないという地位におかれるということである。
このような基本認識のとおりに、現実に多くの消費者被害が発生した。だから、消費者保護が必要なことは当然と考えられてきた。被害を追いかけるかたちで、消費者保護の法制が次第に整備されてきた。私は、そのような時代に弁護士としての職業生活を送った。
それに対する事業者からの巻き返しを理論づけたのが「規制緩和論」である。「行政による事前規制は緩和せよ撤廃せよ」「規制緩和なくして強い経済の復活はあり得ない」というもの。企業にとって、事業者にとって消費者規制は利益追求の桎梏なのだ。消費者の安全よりも、企業の利益を優先する、規制緩和・撤廃の政治があってはじめて日本の経済は再生するというのだ。
アベノミクスの一環としての機能性表示食品制度、まさしく経済活性化のための規制緩和である。コンセプトは、「消費者の安全よりは、まず企業の利益」「企業が情報を提供するのだから、消費者注意で行けばよい」「消費者は賢くなればよい」「消費者被害には事後救済でよい」ということ。
本日発売のサンデー毎日(5月3日号)が、「機能性表示食品スタート」「『第3の表示』に欺されない!」という特集を組んでいる。小見出しを拾えば、「国の許可なく『効能』うたえる」「健康被害どう防ぐ」「まずは食生活の改善 過剰摂取は健康害す」などの警告がならぶ。何よりも読むべきは、主婦連・河村真紀子事務局長の「性急すぎ、混乱に拍車」という寄稿。「健康食品をめぐる混乱は根深く、新制度によるさらなる被害」を懸念している。これが、消費者の声だ。
この問題で最も活発に発言している市民団体である「食の安全・監視市民委員会」は4月18日に、「健康食品にだまされないために 消費者が知っておくべきこと」と題するシンポジウムを開催した。その報道では、「機能性表示食品として消費者庁に届け出した食品の中には、以前、特定保健用食品(トクホ)として国に申請し、「証拠不十分」と却下されたものも交じっている」との指摘があったという(赤旗)。まさに、企業のための規制緩和策そのものだ。
あらためて「合点が行く」話しではないか。消費者の安全の強調は、企業に不都合なのだ。私は、そのような常識をベースに、サプリメント製造販売企業オーナーの政治資金拠出の動機を合理的に推論したのだ。消費者の利益を発言し続ける私の口が、封じられてはならない。
(2015年4月21日)
私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回期日は4月22日(水)13時15分に迫ってきた。法廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されているので、ぜひご参加をお願いしたい。
訴訟では、原告(DHCと吉田嘉明)両名が、被告の言論によって名誉を侵害されたと主張している。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つけられる人の存在を想定してのものである。傷つけられるものは、人の名誉であり信用であり、あるいは名誉感情でありプライバシーである。そのような人格的な利益を傷つけられる人がいてなお、人を傷つける言論が自由であり権利であると保障されているのだ。誰をも傷つけることのない言論は、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はない。
視点を変えれば、本来自由な言論によって傷つけられる「被害者」は、その被害を甘受せざるを得ないことになる。DHCと吉田嘉明は、まさしく私の言論による名誉の侵害(社会的評価の低下)という「被害」を甘受しなければならない。これは、憲法21条が表現の自由を保障していることの当然の帰結なのだ。
もちろん、法は無制限に表現の自由を認めているわけではない。「被害者」の人格的利益も守るべき価値として、「表現する側の自由」と「被害を受けるものとの人格的利益」とを天秤にかけて衡量している。もっとも、この天秤のつくりと、天秤の使い方が、論争の対象になっているわけだが、本件の場合には、DHCと吉田嘉明が「被害」を甘受しなければならないことがあまりに明らかである。
その第1点は、DHC・吉田の「公人性」が著しく高いこと。しかも、吉田は週刊誌に手記を発表することによって自らの意思で「公人性」を買って出ていることである。いうまでもないことだが、吉田は単なる「私人」ではない。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーというだけではない。公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出し提供して政治に関与した人物である。しかも、そのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのだ。
その第2点は、被告の名誉を侵害するとされている言論が、優れて公共の利害に関わることである。無色透明の言論の自由というものはない。必ず特定の内容を伴う。彼が甘受すべきは、政治に関わる批判の言論なのだ。政治とカネというきわめて公共性の高いシビアなテーマにおいて、政治資金規正法の理念を逸脱しているという私の批判の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となってしまう。
さらに、第3点は、私の言論がけっして、虚偽の事実を摘示するものではないことである。私の言論は、すべて吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づいて、論評しているに過ぎない。意見や論評を自由に公表し得ることが、表現の自由の真骨頂である。私の吉田批判の論評が表現の自由をはみ出しているなどということは絶対にあり得ない。
仮に私が、世に知られていない吉田やDHCの行状を曝露する事実を摘示したとすれば、その真実性や真実であると信じたことについての相当性の立証が問題となる。しかし、私の言論は、すべて吉田自身が公表した手記を素材に論評したに過ぎない。そのような論評は、どんなに手厳しいものであったとしても吉田は甘受せざるを得ないのだ。
私のDHC・吉田に対する批判は、純粋に政治的な言論である。吉田が、小なりとはいえ公党の党首に巨額のカネを拠出したことは、カネで政治を買う行為にほかならない、というものである。
吉田はその手記で、「私の経営する会社…の主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます」と不満を述べている。その文脈で、「官僚たちが手を出せば出すほど日本の産業はおかしくなっている」「官僚機構の打破こそが今の日本に求められる改革」「それを託せる人こそが、私の求める政治家」と続けている。
もちろん、吉田が「自社の利益のために8億円を政治家に渡した」など露骨に表現ができるわけはない。しかし、吉田の手記は、事実上そのように述べたに等しいというのが、私の論評である。これは、吉田の手記を読んだ者が合理的に到達し得る常識的な見解の表明に過ぎない。そして、このような批判は、政治とカネにまつわる不祥事が絶えない現実を改善するために、必要であり有益な言論である。
私がブログにおいて指摘したのは、吉田の政治家への巨額拠出と行政の規制緩和との関わりである。薬品・食品の業界は、国民の生命や健康に直接関わるものとして、厚労省と消費者庁にまたがって厳重な規制対象となっている。国民自身に注意義務を課しても実効性のないことは明らかなのだから、国民に代わって行政が、企業の提供する商品の安全性や広告宣伝の適正化についての必要な規制をしているのだ。国民の安全を重視する立場からは、典型的な社会的規制として軽々にこの規制緩和を許してはならない。しかし、業界の立場からは、規制はコストであり、規制は業務の拡大への桎梏である。規制を緩和すれば利益の拡大につながる。だから、行政規制に服する立場にある企業は、なんとかして規制緩和を実現したいと画策する。これはきわめて常識的な見解である。私は、長年消費者問題に携わって、この常識を我が身の血肉としてきた。
吉田の手記が発表された当時、機能性表示食品制度導入の可否が具体的な検討課題となっていた。これは、アベノミクスの第3の矢の目玉として位置づけられたものである。経済を活性化するには、規制を緩和して企業が活動しやすくする環境を整えることが必要だという発想である。緩和の対象となる規制とは、不合理な経済規制だけでなく、国民の健康を守るための社会的規制までも含まれることになる。謂わば、「経済活性が最優先。国民の安全は犠牲になってもやむを得ない」という基本路線である。業界は大いに喜び、国民の安全を最優先と考える側からは当然に反発の声があがった。
そのような時期に、私は機能性表示食品制度導入問題に触れて、「DHC吉田が8億円出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての『規制緩和という政治』を買い取りたいからなのだと合点がいく」とブログに表現をした。まことに適切な指摘ではないか。
なお、その機能性表示食品制度は、本年4月1日からの導入となった。安倍政権の悪政の一つと数えなければならない。安倍登場以前から規制緩和を求める業者の声に応えたのだ。以下は、制度導入を目前とした、3月26日付の日弁連声明である。全文は下記URLを参照いただきたいが、日弁連がこれまで重ねてこの制度導入に反対してきたこととその理由が手際よくまとめられている。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2015/150326_2.html
法廷での主張の応酬は、表現の自由一般の問題から、政治とカネの問題をめぐる政治的言論の自由という具体的な問題となり、さらに規制緩和を求める立場にある企業の政治資金拠出に対する批判の言論の自由の問題に及んでいる。
本件スラップ訴訟は、まずは表現の自由封殺の是非をめぐる問題であるが、具体的には政治資金規正法をめぐる問題でもあり、さらには規制緩和と消費者の利益をめぐる問題でもある。消費者の利益擁護のためにも、きっちりと勝訴しなければならない。
(2015年4月19日)
今年は、戦後70年。ということは、広島・長崎の被爆から70周年の節目の年でもある。被爆体験を風化させることなく、核廃絶の運動を大きくしていきたいものと思う。
昨年暮れの共同配信記事が、新しい形の核廃絶運動を紹介している。オランダの国際平和団体「PAX」(「平和」)は、核兵器の開発や製造に携わる「核兵器関連企業」28社を抽出し、これと取引のある企業を調べあげて、411社のリストを公表した。核兵器が「絶対悪」である以上は、「核兵器関連企業」28社は、「絶対悪」を業務とする「絶対悪企業」である。核爆弾とその運搬手段の開発・製造・管理に直接携わる企業である。ロッキード・マーチン、バブコック&ウィルコックス、ボーイング、ベクテル…など名だたる軍産複合体の中核企業の名がならぶ。死の産業の死の商人たち。これは分かり易い。
しかし、この核兵器関連企業に融資をしたり、関連企業の株式を保有する形で、これを支えている企業となると外からは見えにくい。PAXの調査による提携411社のリスト公表はこれを見える形にしたものとしてインパクトが大きい。
この公開されたリスト411社の中に、日本企業が6社ある。
三菱UFJフィナンシャル・グループ
三井住友フィナンシャル・グループ
みずほフィナンシャル・グループ
オリックス
三井住友トラスト・ホールディングス
千葉銀行
これは、貴重な情報だ。市民は直接の接触の可能性あるこの6社に対して、何らかの形で、核廃絶のメッセージを送りうるからだ。核廃絶運動が、消費者運動や市場を通じてのSRI(社会的責任投資)運動と交錯する分野が生まれた。
核廃絶運動と消費者運動との交錯とはこんなイメージだ。
あなたが、この6社のどこかに預金口座をもっていたとする。その預金の運用先としてロッキード社があるということは、あなたの預金が、銀行口座を通じて核ミサイル製造に使われているということなのだ。あなたの預金先がこの6社のどこかに限られる理由がなければ、このような銀行との取引は避けるに越したことはない。住宅ローンやら消費者ローンなど融資を受けるのも似たようなもの。利息を支払ってこのような銀行を太らせれば、核兵器企業に回す金が増えることになるだろう。
賢い消費者行動とは、安価に商品やサービスの提供を受けることだけを求めるものではない。環境やフェアトレードや労働基準や、種々のコンプライアンスに配慮した企業との取引を意識的に選択することによって、企業活動を適切にコントロールし、社会の健全化をはかることなのだ。核兵器関連企業と提携する企業6社との取引をボイコットすることは、消費者としての積極行動を通じての核廃絶運動へ寄与することになる。
核廃絶運動とSRI(社会的責任投資:Socially responsible investment)との交錯とはこんなことだ。
どの上場企業も、証券市場から資金を集めるために株主の意向を尊重しなければならない。大衆投資家やその資金を束ねたファンドが、株式の収益性だけでなく、企業倫理や企業の社会的責任のあり方を基準に投資活動をするようになれば…、企業は環境や資源保護や福祉や人権や平和などに配慮の姿勢を採らざるを得なくなる。SRIとは投資を通じて企業倫理(CE)や企業の社会的責任(SCR)を追求する運動である。投票行動とは別次元での市民による社会参加であり、企業統制でもある。
核兵器に関与する会社の株などは買うまい、買っていたら引き上げよう。あるいは株主として会社に、核兵器企業とは縁を切るよう働きかけよう、というのがSRI活用の核兵器廃絶運動形態である。(もう少し用語を整理して、使いやすくならないものか)
ところで、共同通信は、国内6社に直接取材をしているようだ。どの社も、けっして開き直りの態度はない。核兵器関連企業と取引あることの公開を好ましからざることと受け止めてはいるようだ。
三井住友トラストは報告書について「個別取引については答えられない」としている。千葉銀は「核兵器関連企業と認識しての融資ではない。いまは融資していない」という。また、オリックスは「当社が90%の株式を保有するオランダの資産運用会社の金融商品に、指摘された会社が入っていると思われる」(広報担当者)と説明。資金を直接提供しているわけではないと話している、などの反応だ。このような社会的雰囲気がある限り、「核兵器廃絶を目指す消費者運動とSRI」は成功しうる土壌をもっている。
また、共同はSRIの実践者として筑紫みずえ氏のコメントを紹介している。
「大変意義がある情報だ。マララ・ユスフザイさんがノーベル平和賞受賞のスピーチで『戦車を造るのは易しいのに、なぜ学校を建てるのは難しいのか』と問いかけたが、それは私たちのお金が学校より戦車や核兵器に使われているからだ。企業も個人もこうした情報を生かして、それぞれの価値観に沿った投資をするべきだろう。」
このコメントは舌足らずで、どうしても補っておかなければならない。
問題は、「なぜ、私たちのお金が学校より戦車や核兵器に使われているか」であり、「企業も個人も、それぞれの価値観に沿った投資をするべきだ」が当たり前のことととされる資本主義社会で、投資の方向をどうしたら「核兵器から、学校へ」切り替えることができるだろうか、ということにある。
「なぜ、私たちのお金が学校より戦車や核兵器に使われているか」
その問に対する答は簡単である。その方が儲かるからなのだ。資本の論理が貫徹する社会では、集積された資金は最大利潤を求めてうごめくのだ。
だから、「企業も個人も、それぞれの価値観に沿った投資をするべきだ」と傍観していたのでは、けっして問題解決には至らない。どうすれば「核兵器から学校へ」と投資のトレンドを変えていくことができるのか、と問題を立てなければならない。個人もファンドも、そして企業も、利潤追求の価値観が支配する資本主義原則とは別の次元で、投資先を選択する文化を創っていかねばならない。どんなに効率よく儲けることができても、兵器や麻薬への投資は社会の恐怖や病理として結実することにしかならない。
消費者運動もSRIも資本主義の枠内での運動である。しかも、民主主義的政治過程を利用しての権力的規制ではなく、市場原理に基づいた取引ルールを使っての企業統制の試みである。いまは、消費者運動もSRIも、経済社会のメイントレンドではなく、核兵器を廃絶する力をもたない。しかし、将来は未知数である。三菱や三井の企業グループが、「これまでは兵器産業は儲けが大きいと考えていたが、グループ内に軍事企業を抱えているとイメージが極端に悪くなる。消費者は商品を買ってくれないし、個人投資家やファンドは株も社債も買ってくれない。核関連産業と手を切らないと、商品は売れないし株は下がりっぱなしだし…。結局儲からない」と思わせられるところまで社会の成熟があれば、企業を核兵器関連事業から離脱させることができることになる。欧米では、これを夢物語とは言わせない運動があるという。
消費者運動とSRI。市民による資本主義的経済合理性を逆手にとっての企業統制の手法である。体制内運動として、その限界を論じることはたやすい。しかし、その可能性を追求すること、その可能性を核廃絶に結びつけること、すこぶるロマンに満ちているではないか。
(2015年1月8日)
商品先物取引法の施行規則(農林水産省・経済産業省令)改正案についてのパブコメ募集に関して、その第102条の2第1号・2号案に反対します。この部分の改正案を撤回されるよう求めます。
同規則同条各号の改正案は、個人顧客を相手方とする商品先物取引について、現在原則禁止となっている不招請勧誘(顧客の要請をうけない訪問・電話勧誘)を実質において解禁するものです。その結果として、今沈静化している商品先物取引被害が再び蔓延することは灯を見るより明らかで、多くの人に不幸をもたらすことになります。その立場から、強く反対の意見を申し述べます。
私は消費者サイドの弁護士として、約40年にわたって消費者被害と向き合ってまいりました。痛感することは、電話という簡便なツールから始まる消費者被害があまりに多いということです。利殖勧誘だけでなく、商品勧誘や役務勧誘タイプの消費者被害も、悪徳詐欺商法も、その多くが電話から始まっています。
まさしく、「被害は一本の電話から始まる」のです。
あるいは、「不幸は電話線を伝わってやって来る」のです。
この不幸の源をしっかりと断ち切らなければなりません。いったん断ち切ったはずの不幸の源を、なんとまた復活させようなどとはもってのほかと言わねばなりません。
商品先物取引への参加者は2種類に分かれます。そのひとつは、「当業者」として最終的に商品の売り手買い手となる者。主として大規模な生産者や商社などの事業者がこれに当たります。もうひとつは、スペキュレーター(「投機家」)として、売買差益を求めて取引に参加する者。この人々の中には、取引を知り尽くした「投機家」の名にふさわしいプロもあり、仕組みやリスクに理解のない素人も含まれています。実は、これまで多くの素人が先物業者の勧誘によって取引に参加し、短期間で大きく損をして取引から去っていく。常に新しい素人の補給を繰り返すことで成り立っていたのが、この業界の実態でした。
先物取引における「投機」は、いわゆる「投資」とは違って、新たな価値や利潤を生むことはありません。「投機家」間の賭博の掛け金の拠出に過ぎないのです。「賭博をしているに等しい」と比喩的に表現しているのではありません、文字どおり「賭博そのもの」、丁半博打とまったく同じなのです。サイコロの目の替わりに変動する売買価格となっているだけのこと。賭博の勝ちは、必ず同額の(正確には寺銭をプラスした)負けを伴います。先物取引もまったく同じ。取引差益は、必ず同額の(正確には手数料をプラスした)差損から生じます。手数料を捨象すれば、差益と差損は常にゼロサムとなる世界。ウィンウィンは絶対にあり得ないのです。
プロとアマとが混じって賭博をしているのですから、勝負は目に見えています。一時的なフロックは別として、アマに勝ち目はありません。絶えずリクルートされ続けている多数の素人が、一握りのプロと手数料稼ぎの先物取引業者のカモになっている構図が浮かびあがってきます。こうして深刻な先物取引被害が蔓延しました。その、被害者集団を常に補給し続ける手段の主たるものが電話勧誘だったのです。
電話による甘い勧誘文言に乗じられての先物取引被害は、消費者被害の典型でした。勧誘する方はプロですから、「利益が生ずることの断定」は避けつつ、巧みに利益を得られそうな幻想をふりまいて、新規顧客を誘うのです。ちょうど、食虫植物がその甘い香りで虫を誘うように、です。
ですから、先物取引被害の防止の決め手は、不招請勧誘の禁止と認識され続けてきました。2009年7月の法改正で、ようやくその実現があり、2011年1月からの施行によって、確実に被害の減少に実効をあげてきたのです。なんと、それをこのほど実質解禁しようというのです。到底容認し得ません。
なぜ、今、こんな時代に逆行する「改正」なのか。ひとえに「規制改革」「規制緩和」なのです。今回の省令改正は、規制緩和策の一環として行われるものです。それだけ事態は深刻と言わねばなりません。
改正の趣旨について、主務省は、「規制改革実施計画(平成25年6月14日閣議決定)を踏まえた不招請勧誘禁止等に関する見直しを行うため、『商品先物取引法施行規則』及び『商品先物取引業者等の監督の基本的な指針』について所要の改正を行うものです」と明記しています。
商品先物取引における規制緩和とは、「業者の商行為の自由を拡大して、委託者保護のための規制を緩和する」とということであり、消費者の保護よりは業者の利益を優先する姿勢の表れにほかなりません。「消費者被害は自己責任、それよりは萎縮せずにのびのびと企業の経済活動をさせるべき」という、新自由主義的な発想がこのような政策の転換をもたらしているものではありませんか。
商品先物取引の制度そのものをなくせとまでは主張しません。しかし、過去幾多の委託者トラブルが明らかにしているとおり、仕組みが複雑でリスクが高い商品先物取引は、本来、投資知識が豊富で余裕資金のあるプロの投機家の世界で素人が手を出せる世界ではありません。少なくとも、電話・訪問による不招請勧誘は禁止が大原則でなくてはなりません。
もし、仮にこのまま改正案が省令となるようなことがあるとすれば、アベノミクスの3本目の矢の正体は、消費者を狙った毒矢であると指摘せざるを得ません。多くの人を不幸にする不招請勧誘禁止の実質解禁には強く反対いたします。
(2014年5月7日)