澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

許せない「規制緩和という政治」の買い取りー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第40弾

私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回期日は4月22日(水)13時15分に迫ってきた。法廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されているので、ぜひご参加をお願いしたい。

訴訟では、原告(DHCと吉田嘉明)両名が、被告の言論によって名誉を侵害されたと主張している。しかし、自由な言論が権利として保障されているということは、その言論によって傷つけられる人の存在を想定してのものである。傷つけられるものは、人の名誉であり信用であり、あるいは名誉感情でありプライバシーである。そのような人格的な利益を傷つけられる人がいてなお、人を傷つける言論が自由であり権利であると保障されているのだ。誰をも傷つけることのない言論は、格別に「自由」だの「権利」だのと法的な保護を与える必要はない。

視点を変えれば、本来自由な言論によって傷つけられる「被害者」は、その被害を甘受せざるを得ないことになる。DHCと吉田嘉明は、まさしく私の言論による名誉の侵害(社会的評価の低下)という「被害」を甘受しなければならない。これは、憲法21条が表現の自由を保障していることの当然の帰結なのだ。

もちろん、法は無制限に表現の自由を認めているわけではない。「被害者」の人格的利益も守るべき価値として、「表現する側の自由」と「被害を受けるものとの人格的利益」とを天秤にかけて衡量している。もっとも、この天秤のつくりと、天秤の使い方が、論争の対象になっているわけだが、本件の場合には、DHCと吉田嘉明が「被害」を甘受しなければならないことがあまりに明らかである。

その第1点は、DHC・吉田の「公人性」が著しく高いこと。しかも、吉田は週刊誌に手記を発表することによって自らの意思で「公人性」を買って出ていることである。いうまでもないことだが、吉田は単なる「私人」ではない。多数の人の健康に関わるサプリメントや化粧品の製造販売を業とする巨大企業のオーナーというだけではない。公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出し提供して政治に関与した人物である。しかも、そのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立ったのだ。

その第2点は、被告の名誉を侵害するとされている言論が、優れて公共の利害に関わることである。無色透明の言論の自由というものはない。必ず特定の内容を伴う。彼が甘受すべきは、政治に関わる批判の言論なのだ。政治とカネというきわめて公共性の高いシビアなテーマにおいて、政治資金規正法の理念を逸脱しているという私の批判の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となってしまう。

さらに、第3点は、私の言論がけっして、虚偽の事実を摘示するものではないことである。私の言論は、すべて吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づいて、論評しているに過ぎない。意見や論評を自由に公表し得ることが、表現の自由の真骨頂である。私の吉田批判の論評が表現の自由をはみ出しているなどということは絶対にあり得ない。

仮に私が、世に知られていない吉田やDHCの行状を曝露する事実を摘示したとすれば、その真実性や真実であると信じたことについての相当性の立証が問題となる。しかし、私の言論は、すべて吉田自身が公表した手記を素材に論評したに過ぎない。そのような論評は、どんなに手厳しいものであったとしても吉田は甘受せざるを得ないのだ。

私のDHC・吉田に対する批判は、純粋に政治的な言論である。吉田が、小なりとはいえ公党の党首に巨額のカネを拠出したことは、カネで政治を買う行為にほかならない、というものである。

吉田はその手記で、「私の経営する会社…の主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます」と不満を述べている。その文脈で、「官僚たちが手を出せば出すほど日本の産業はおかしくなっている」「官僚機構の打破こそが今の日本に求められる改革」「それを託せる人こそが、私の求める政治家」と続けている。

もちろん、吉田が「自社の利益のために8億円を政治家に渡した」など露骨に表現ができるわけはない。しかし、吉田の手記は、事実上そのように述べたに等しいというのが、私の論評である。これは、吉田の手記を読んだ者が合理的に到達し得る常識的な見解の表明に過ぎない。そして、このような批判は、政治とカネにまつわる不祥事が絶えない現実を改善するために、必要であり有益な言論である。

私がブログにおいて指摘したのは、吉田の政治家への巨額拠出と行政の規制緩和との関わりである。薬品・食品の業界は、国民の生命や健康に直接関わるものとして、厚労省と消費者庁にまたがって厳重な規制対象となっている。国民自身に注意義務を課しても実効性のないことは明らかなのだから、国民に代わって行政が、企業の提供する商品の安全性や広告宣伝の適正化についての必要な規制をしているのだ。国民の安全を重視する立場からは、典型的な社会的規制として軽々にこの規制緩和を許してはならない。しかし、業界の立場からは、規制はコストであり、規制は業務の拡大への桎梏である。規制を緩和すれば利益の拡大につながる。だから、行政規制に服する立場にある企業は、なんとかして規制緩和を実現したいと画策する。これはきわめて常識的な見解である。私は、長年消費者問題に携わって、この常識を我が身の血肉としてきた。

吉田の手記が発表された当時、機能性表示食品制度導入の可否が具体的な検討課題となっていた。これは、アベノミクスの第3の矢の目玉として位置づけられたものである。経済を活性化するには、規制を緩和して企業が活動しやすくする環境を整えることが必要だという発想である。緩和の対象となる規制とは、不合理な経済規制だけでなく、国民の健康を守るための社会的規制までも含まれることになる。謂わば、「経済活性が最優先。国民の安全は犠牲になってもやむを得ない」という基本路線である。業界は大いに喜び、国民の安全を最優先と考える側からは当然に反発の声があがった。

そのような時期に、私は機能性表示食品制度導入問題に触れて、「DHC吉田が8億円出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての『規制緩和という政治』を買い取りたいからなのだと合点がいく」とブログに表現をした。まことに適切な指摘ではないか。

なお、その機能性表示食品制度は、本年4月1日からの導入となった。安倍政権の悪政の一つと数えなければならない。安倍登場以前から規制緩和を求める業者の声に応えたのだ。以下は、制度導入を目前とした、3月26日付の日弁連声明である。全文は下記URLを参照いただきたいが、日弁連がこれまで重ねてこの制度導入に反対してきたこととその理由が手際よくまとめられている。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2015/150326_2.html

法廷での主張の応酬は、表現の自由一般の問題から、政治とカネの問題をめぐる政治的言論の自由という具体的な問題となり、さらに規制緩和を求める立場にある企業の政治資金拠出に対する批判の言論の自由の問題に及んでいる。

本件スラップ訴訟は、まずは表現の自由封殺の是非をめぐる問題であるが、具体的には政治資金規正法をめぐる問題でもあり、さらには規制緩和と消費者の利益をめぐる問題でもある。消費者の利益擁護のためにも、きっちりと勝訴しなければならない。
(2015年4月19日)

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