ムカシ、ムカ?シのことよ。いつ頃とも分からぬほどの大昔。
天と地とが合体してな、子が生まれた。
そんな不思議なことも、大昔にはあったということだ。
天を父とし地を母をする子のことを、人びとは天子と呼んだ。あるいは、天子様と敬った。並みの人とはまったく異なる貴いお方。生まれながらに、国土と人民と、時をも支配する霊力を備えておられた。その聖なるお身体を玉体といい、お顔を竜顔、お言葉は綸言というたな。
天の子は、当然のこととして天命を受けて皇帝となり、万民がこれに従った。皇帝には陛下という尊称をたてまつって、百姓が皇帝を崇めた。皇帝の命には下々に至るまで喜んで従った。皇帝に弓を引くことは、天の命に逆らうこと。畏れ多くて、反逆などは考えられなんだ。
もちろん、皇帝の子は皇帝となった。なにせ貴い血筋だ。天子の子孫が天子であること,皇帝の子孫が皇帝であることを誰も疑わなかった。ところが、長い歴史の中には、とんでもない暴虐な皇帝も現れる。これは、天命に逆らった皇帝の所業。こういうときには、新たに天命を受けた者が現れて、皇帝の位を継ぐこととなる。これを易姓革命というた。こうして、天の命は、常に皇帝を通じて天下万民の利益を守るようにうま?くできているんじゃな。
問題は現皇帝が天命に従っているかどうか、その確認の方法がはっきりとせんことだ。とうてい常人には分からない。不便なことにな、天は自ら声を発することができんのだな。そこで、皇帝が天意に沿うて世を泰平におさめているときには、天はその喜びの証しとして瑞祥を現わすという。その反対の場合には、天譴として災厄が起こるそうじゃ。
念のためだが、もちろんこれは嘘っぱちの話だ。天の子も嘘、血の貴さも嘘。人間に貴賤があるというのがそもそもの大嘘。武力で政権を獲得した者が、自分に都合よく作りあげた荒唐無稽の嘘八百。罪のない嘘も、やむを得ない嘘もあるが、皇帝が天子だなどというのは、最大級の悪質な嘘っぱちでな。その害はとてつもなく大きい。
こんな嘘っぱちを、皇帝の国の周囲にあった蛮夷のミニ皇帝たちが,軒並み真似をしよった。皇帝を真似て、ミニ天子を天皇と造語した国もあった。それから年を経て、皇帝は今やなくなり、他のミニ皇帝たちも消えたが、天皇だけは生き残っている。権力者に使い勝手がよかったからじゃろうが、それにしても奇妙なことよのう。
以前、天皇の末裔が、その国を大いくさに巻き込んでな。国を破滅の寸前にまで陥らせた大事件が起きた。周りの国と国民にはこの上ない不幸をばらまき、自国の民にも塗炭の苦しみを味あわせた。それでも、臣民たちは畏れ多いなどと言ってな、天皇を裁くことはしなかった。これが、嘘っぱちの効用であり、罪深さだ。
さて、ここからはムカシのことではない。その戦犯の子が、天皇の地位を嗣いだ。そのとたんにバブルがはじけて、長期の不況とその国の衰退が始まった。大地震・大津波も起こった。大津波に続いた深刻な原発事故もおきた。それだけではない。その国の現状はこんな具合だ。
「合計特殊出生率は世界最低クラスであり、自殺死亡率は世界トップクラスである。所得格差は、先進国の中でトップクラスにあると懸念され、特に母子世帯の相対的貧困率は最高である。また、税・社会保障による移転の前後で子どもの相対的貧困率を比べると、経済協力開発機構(OECD)諸国の中で日本でのみ、移転後のほうが高い」(2010年学術会議提言)という、これまでにない情けない事態た。実は、これこそ天譴ではないか。
最近、その国では天皇がまた交代したという。それ以来半年が経過したが、碌でもないことばかり。とりわけ、台風と豪雨、河川氾濫の災害は過去に例のない規模だという。これもまた天譴ではないか。何に、天は怒っているのか。常人には分かりにくいところだが、忖度するに次のようなことではなかろうか。
今回の天皇交代にかける費用は166億円と予算計上されておる。前回比で、3割増だ。台風禍、豪雨禍の被災者をそっちのけで、大規模な「饗宴の儀」の繰り返し。「饗宴の儀」とは、要するに税金を使っての飲み食いじゃ。これが、4回も行われるというんじゃな。4回のうちあと2回残っているが、まだ中止と言わない。その無神経に、天は怒っているのじゃろうて。
考えて見れば、天の怒りが権力者には向かわず罪のない庶民に被害を及ぼすのだからひどい話だ。それでも、このままでは、もっと大きな天地鳴動の天譴が起きかねない。くわばらくわばら。
(2019年10月28日・連続更新2401日)
忠臣蔵を扱った落語の演目の著名なものとしては、「淀五郎」「中村仲蔵」「庫丁稚(四段目)」「七段目」「九段目」…、あたりだろうか。いずれも、討ち入りの事件を直接の素材にしたものではなく、仮名手本忠臣蔵という芝居がテーマであり、芸談でもある。
抜きん出て知られるものが「淀五郎」であろう。昔は名人圓喬の持ちネタだったというがレコードに残る時代のことではない。録音が残る時代となってからは、「淀五郎」と言えば六代目圓生。特に圓生百席の「淀五郎」が極め付けか。また、正蔵の「淀五郎」も捨てがたく、さすがに芝居話として聞かせる。歌舞伎を知らない世代に、仮名手本忠臣蔵を上手に解説して,この点は親切で分かり易い。
よくできた芸談だが、忠臣蔵のイデオロギーを当然の前提としている点に注目せざるを得ない。正蔵の淀五郎が、大序「鶴が岡兜改めの段」の語りを述べる。これが、忠臣蔵イデオロギーの解説。
嘉肴(かこう)ありといへども食せざればその味を知らずとは。国治まつてよき武士の忠も武勇も隠るゝに、たとへば星の昼見えず夜は乱れて現はるゝ、ためしをこゝに仮名書の…
よき武士とは、忠と武勇とを備えた者。乱世には、忠と武勇は自ずと目立つことになるが、泰平の世では目立つ機会がない。しかし、忠勇の武士は昼は見えない星のごとく、隠れてはいるがなくなったのではない。いったんことあれば夜に輝く星のごとくに現われて、褒むべき活躍をする。まさしくそれが、赤穂浪士の討ち入り、というわけだ。
身分制社会の支配者の側が、被支配者の側に求めるものが忠義・忠節という徳目。支配を力で押し付けるだけでなく、支配される側がこれを倫理上の徳目として受け入れてくれれば、こんなに都合のよいことはない。
武士階級だけでなく町民までもが、忠義という徳目を価値あるものと受容していた。だからこその討ち入り賛美である。それ故に、町人文化において、仮名手本忠臣蔵が名作とはやされ、落語「淀五郎」も成立しているのだ。
淀五郎が演ずる塩谷判官は、どうひいき目に見ても短慮のバカ殿以外のなにものでもない。法に反して殿中で抜刀し老人に斬りつけたのだ。切腹は自業自得としても、お家断絶は傍迷惑な話。大企業が突然破産するに等しく、夥しい数の従業員や関連下請け業者の失業者を生み、その家族を路頭に迷わせる。
四段目の腹切りの場面では、判官は「由良助はまだか」と死に際に焦る。家臣団を代表する筆頭家老に詫びをしたいというのではない。自分の引き起こした不始末の事後処理を委託するというでもない。ようやく間に合った由良助に、「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」というのだ。さらに一騒動起こせと、テロを教唆して死ぬ。
こうして、47人のテロ集団が平和な江戸を騒がせることになる。ひとえに、バカ殿のせいである。ところが、芝居の見物人は「忠義なサムライの武勇談」として喝采を送る。座頭の団蔵は淀五郎に、忠臣由良助が主君の近くに擦り寄りたい心境を述べつつ、5万3千石の大名の風格の演技ができなければ、近寄ろうにも近寄れない、という。
演者も聴衆も、この支配者側のイデオロギーである忠義を当然の美徳として了解していればこその話の運びなのだ。ところで、圓喬も圓生も正蔵も、江戸時代の人物ではない。忠義・忠節のイデオロギーは、近世から近代にみごとに受け継がれた。それが、一君万民、すべての民草の天皇への忠誠と形を変えてのことである。
教育勅語では「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ」「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と教えられ、軍人勅諭では「軍人は忠節を尽すを本分とすへし 」「只々一途に己か本分の忠節を守り義は山岳よりも重く死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよ」と叩き込まれた。
忠臣蔵に喝采した町人階級の無自覚な精神が、天皇制をも支えることとなったのだ。そして、天皇の代替わりを無自覚に慶事と受容する現代の国民の精神構造は、淀五郎の時代と基本的な変化がない。
淀五郎のオチは、「待ちかねたあ?」である。由良助の着到ではなく、忠義などという支配のイデオロギーの払拭についてこそ、待ち侘びねばならない。
(2019年10月26日)
10月18日の閣議は、10月22日新任天皇の即位披露式にともなうパレードを延期し11月10日に開催することを正式決定した。
台風19号の被災者に配慮した結果の延期だというのだが、実はよく分からない。20日足らずの延期で、被災者への配慮の必要はなくなるとでもいうのだろうか。なぜ、中止にしないのだろうか。なぜ、延期をしてまでも実施にこだわるのだろうか。そして、被災者に配慮しながらも、22日式当日2000人の招待客を飲み食いさせたというのだろうか。
人気商売なのだから国民感情への配慮が必要なことは当然として、あまりに中途半端ではないか。10月23日の毎日夕刊トップが、「避難所環境 雑魚寝でいいのか?」「台風19号、公民館に身を寄せたが…」の見出しで、次の記事を載せている。
台風19号で避難所生活を送る被災者は、22日午前7時現在で3928人にのぼる。今も1000人近くが避難している長野県では、記者自身も家族と避難所へ身を寄せた。だが、そこは必ずしも安心が得られる場所ではなく、結局は自宅へ引き返した。避難所といえば「体育館で雑魚寝(ざこね)」が定番だが、その環境は国際基準に照らすとかなり劣悪と指摘される。このままでいいのか、…
「このままでいいのか」という言葉は、新天皇夫妻に届いているだろうか。
もう一つ。パレードの是非よりも、格段に重い国民への配慮の問題が、新天皇・即位披露式での「テンノーヘイカ・バンザイ」である。
この点について、石川逸子さんから、こんな詩のメールをいただいた。共感して、ご紹介する。
(2019年10月25日)
**************************************************************************
天皇より1・3メートル低い位置から
安部首相が「天皇陛下万歳」を三唱しました。
明らかに憲法違反です。
昨年度からの皇位継承に伴う式典関係費は160億円余り。
前回より30%増えたそうです。
大嘗祭違憲訴訟原告として発表した詩ですが、
ご笑読くださいませ。
(なお、詩に「現天皇」とあるのは、前天皇明仁のことですー澤藤)
テンノウヘイカバンザイ!
ー即位・大嘗祭違憲訴訟に向けて 石川逸子
テンノウヘイカバンザイ!
二度と聞きたくなかった 言葉
1990年11月12日
その言葉を聞いて あっけにとられた
あろうことか 現天皇の即位式のとき
海部首相がはるか高御座に坐る天皇を仰ぎ見
テンノウヘイカバンザイ! と三唱したのだ
そのテンノウの名によって
徴兵された 将兵たちが
「テンノウヘイカの おんために」
朝鮮に 中国に 東南アジアに攻め入って
殺戮・強かん・略奪・放火
ありとあらゆる暴虐をはたらいた事実を
忘れたとでもいうのだろうか
いわれなく殺されたアジアの死者たちが
バンザイ三唱を聞いて
地の底から憤怒の声をあげるのが
聞こえないとでもいうのだろうか
台湾からフィリピンの「慰安所」に連れていかれ
日々 殺すといわれて強かんされ
日本軍とともに山へ逃れ
たった一人生き延びた女性は
日本軍に撃たれて死んだ友の遺品に
今も 毎日供え物し 祈りながら
その償いを テンノウにこそしてほしいと
つい先ごろ 日本へ来て訴えている
皇国教育にまるごと染められ
テンノウヘイカバンザイ!
叫びながら
原爆に体ごと焼けて本川をながれていった
私と同年の広島二中1年生もいた
テンノウヘイカバンザイ!
その言葉をさらに
2013年 4月28日 ニュースで聞いた
サンフランシスコ講和条約締結日を祝う式典で
退席しようとする天皇夫妻に
安部首相以下出席者一同が万歳三唱したのだ
アジア・太平洋戦争でヤマトの捨て石にされた沖縄を
今度はアメリカに売った その日
沖縄県民にとっては 屈辱の日だというのに
なぜ 主権者となったわたしたちが
テンノウに平伏する儀式を営まねばならないのか
なぜ アジアのひとたちを逆なでする儀式を強行し
なぜ 退位の礼並びに即位の礼で
テンノウに感謝し
テンノウから「お言葉」を頂かねばならないのか
なお霧に包まれた 大嘗祭行事に付きあい
そのために 多額の税を投入しなければならないのか
テンノウといえば よみがえる苦い記憶
奉安殿への最敬礼をうっかり怠って
教師に いやというほどぶんなぐられた友人
白木の箱を捧げ 眼を伏せた遺族が先頭に立つ
町中の暗い行列
満員電車であろうと 皇居前にさしかかると
帽子を脱いで乗客全員 体をよじって最敬礼していた
滑稽な日々
「畏くも」と教師がいえば
(あ 次はテンノウヘイカという言葉が来る)と察知し
さっと 姿勢を正さねばならなかった子どもの日
テンノウヘイカバンザイ!
など二度と云いたくない
そんな光景を二度と見たくない
バンザイ!を唱えることで
わたしたちの主権は侵され
バンザイ!を唱えることで 権力を得
利を得るものたちが 跋扈する
世が
再来しているではありませんか
国民主権の世に、何たることか。「テンノーヘイカ・バンザイ」とは。主権者が天皇を仰ぎ見ての「テンノーヘイカ・バンザイ」は、倒錯も甚だしい。
侵略戦争に駆りたてられた兵士が、死に際に本当は「お母さん…」と言い残したのに、「『テンノーヘイカ・バンザイ』と叫んでみごとに散った」と捏造された忌むべき言葉。ああ、平和の世に、「テンノーヘイカ・バンザイ」とは。
しかもだ。この野蛮の「テンノーヘイカ・バンザイ」を正面から批判するメディアの言論が何と萎縮し脆弱なのだ。嗚呼。
10月22日、新天皇の就任をめでたいとは思わない人々が、元号強制反対の集会を開いた。元号を語ることは、天皇制を語ると意識してのこと。以下は、私の報告に限ってのレジメである。
「安倍商店大売り出しの『新元号』は欠陥商品である」
? レジメのレジメ
☆本日は、新任天皇就任式。(「テンノーヘイカ・バンザイ」の日)
天皇という公務員職の存在は、「国民の総意」によるとされる。
演出され、作りだされる、「国民の総意」。
主権者に強制される祝意。本末転倒・主客逆転の実態。
天皇制とは、「権力に調法なもの」として、拵えられ維持されてきた。
日本の民主主義は、天皇制と拮抗して生まれ、天皇制と対峙して育ってきた。
象徴天皇制も、強固な権威主義と社会的同調圧力によって支えられている。
いま、この同調圧力に抗する「民主主義の力量」が問われている。
天皇批判言論の自由度が、表現の自由のバロメータとなっている。
☆元号とは、天皇制を支える小道具の一つである。
元号・祝日・「日の丸・君が代」・叙位叙勲・恩赦・歌会始・御用達…
賜杯・天皇賞・恩賜公園……等々。
元号とは、イデオロギーとしては、
皇帝が時を支配するという宗教的権威顕示の道具であり、
政治的には、支配と服属関係確認の制度である。
古代中国の発明を近隣の小権力が模倣したが、
「一世一元」は、明治政府の発明品。
新憲法下の皇室典範はこれを踏襲した。
元号は天皇制と一体不可分である。
国民の元号使用の蔓延が天皇制を支える構造にある。
☆元号は、「欠陥商品」である。
元号は国民の日常生活において使用される道具として、
消費生活における商品に擬することができる。
「商品」とは、消費市場における消費者の選択によって淘汰されるもの。
通常は、商品の「性能と価格」が、消費者の選択の規準となる。
その「性能」の重要な要素として、「安全性」がある。
表示され,期待された性能を持たないという意味での「欠陥」と、
一見しただけでは消費者に見えない危険の意味での「欠陥」とがある。
☆元号は、紀年法として、不便・不合理極まる欠陥を有する。
元号は、賞味期限も消費期限もあまりに短い。
元号通用の地域限定性は、耐えがたい欠陥である。
元号は必然性なく突然に変わる。
たった一人の人間の生死や都合に、他の全員が付き合わされる。
国民生活における西暦・元号の併用のコストは許容しがたい。
☆元号は、不便・不合理を越えて有害である。
元号は、天皇制を支える非民主的な存在として有害である。
元号は、天皇を神とするイデオロギーに起源をもち、
政教分離の精神に反する存在として有害である。
元号は、現体制への服属を肯定するか否かの踏み絵となる点で有害である。
歴史やニュースの国際的理解を妨げる。ナショナリズム昂揚に資する。
元号は、これを使いたくないと考える国民に、事実上使用強制となる点で、
思想・良心の自由(憲法19条)を侵害するものである。
☆いまどき、そんな欠陥商品が、何故大売り出しされるのか。
戦後民主主義の高揚期には天皇退位論だけでなく、元号廃止論が有力だった。
その典型が日本学術会議の「元号廃止・西暦採用の申し入れ」(1950年5月)
内閣総理大臣と、衆参両院の議長に宛てた申し入れ。(後掲資料)
元号の不合理だけでなく、民主国家にふさわしくないことが強調されている。
ところが、保守政権とともに、天皇制が生き延び、元号も生き延びた。
1979年には元号法が制定され、2012年自民党改憲草案には憲法に元号を書き入れる案となっている。
合理性を追及するビジネスマインドからは元号廃絶が当然の理だが、
改憲志向・戦前志向・天皇制利用志向・歴史修正主義・ナショナリズム志向の安倍政権には、新元号制定を「手柄」とし、政権浮揚の道具とする意図があったと考えられる。そして、残念なことに、少なからぬ国民とメディアがそれを許している。
? レジメ(のちほど、お読みください)
※はじめに
私は、弁護士として長く消費者問題に取り組んできました。消費者問題とは、もともとは個々の消費者が安全・安心な消費生活を送るにはどうすればよいかという問題意識から出発ています。
主として、個別の事業者と消費者間の消費者契約という関係を通じて、あるべき消費生活を考えることになります。食品の安全性の確保や悪徳商法被害の救済などが、典型例となりますが、消費者問題は、それにとどまらない背景をもっています。
市場における消費者集団の連帯した行動を通じて、より望ましい社会の形成を目指すことができるのではないか,という問題意識です。あくまで、主体は消費者、その消費者の消費市場における日常の賢い選択で、より良い社会を築くことができるはず。そういう発想です。
※そのような発想から、「元号は欠陥製品だ。この際、使うのやめよう。」という意見が出てきます。
明治・大正・昭和・平成という元号。年を表示するための道具だが、これは使い勝手の悪い、不便な道具だ。道具としては出来の悪い欠陥品というしかない。時は、切れ目なく続くのに、元号は何の合理性もなく不自然に、そして突然に時代を区切ってしまう。そこに、欠陥の本質がある。
ある人の生年月日と死亡年月日から、その人の死亡年齢を計算しようとする。西暦表示なら引き算一回で済むところを、元号表示だと、異なる元号を西暦に換算したうえでの計算を必要とする。この元号から西暦への換算は、あらゆるところで問題となり厖大なビジネスのコストとなる。
元号の欠陥は、その賞味期限限定性と、地域限定性にまとめることができる。
元号は有限であって、その期間は一世代分しかもたない。平均30年というところである。しかも、現在の元号がいつ終わるか、次の元号がいつから始まるかわからない。何よりも、次の元号が決まらないのだから、将来の年の表示ができない。これは、致命的な欠陥である。
もう一つ重大な欠陥は、このグローバルの時代に、元号は日本以外に通用しないということ。国内限定の製品なのだ。内向き、外向きで使い分ける? そんなバカバカしいことをする必要はない。すべて西暦で統一すればよいだけのこと。
平成が終わった。これを機に、こんな不便な欠陥品の押しつけは拒否しようではありませんか。
※同じ発想で、次のようなことも。
DHCとは、デマとヘイトとスラップの三位一体企業。皆様に、この場をお借りして三つのお願いを申しあげたい。
一つ、DHCという会社の商品をけっして買わないこと。
二つ、DHCという会社の商品をけっして買うことのないよう、お知り合いに広めていただくこと。
そして三つ目が、DHCという会社の不当・違法をことあるごとに話題にしていただくこと。
ときに、「それって営業妨害になりませんか」と、おそるおそる聞く人がいる。 そのとおり。私は、「みんなで、DHC・吉田嘉明の営業を妨害しましょう」と、呼びかけている。ぜひ皆様、DHC・吉田嘉明が、「デマやヘイトやスラップは、社会から反撃を受けることになって、商売上まずい」「やっぱり、真っ当な商売に徹しないと売り上げに響く」と反省するまで、できることなら、心を入れ替えるまで、その営業を徹底して妨害しようではありませんか。
不買運動の本質は、まさしく「営業妨害」である。しかし、実力(威力)やデマ(偽計)を用いる営業妨害ではない。堂々と言論を行使して、多くの消費者の理性に訴えて、不買を呼びかけようというものである。その合法性に一点の疑念もない。
サプリにせよ、化粧品にせよ、DHCの製品を買うか買わないかは、消費者の選択の自由に任されている。DHCの商品を買わなければ困ることなんてない。外の会社の製品で、間に合わない物などあり得ない。消費者の市場での購買行動は、通常は商品の性能と価格、そしてブランドイメージなどで、決まることになる。
しかし、これだけを動機とする消費行動は、賢い消費者のものとは言えない。民主主義社会の主権者としての消費者行動でもない。消費生活に、社会的な公正の視点を据えていただきたいのだ。
たとえば、価格は低廉であっても、環境問題を無視した製法による商品、少年労働によって作られた製品などは買ってはならない。同じく、パワハラやセクハラが横行している企業、政治資金規制法の脱法をしている企業の製品を購入することは、そのような体質の企業を応援することになり、社会の公正を損なうことになる。
私は、この経済社会の消費者が、同時に政治構造の主権者でもあることの自覚が大切だと思う。消費者としての行動の積み重ねによって、反社会的な企業を駆逐することができる。必ずしも駆逐する必要まではないが、企業の反社会的な行為に反省を迫り、やめさせることができる。それが、特定企業に対する商品ボイコットである。不買運動と言った方が分かり易いかも知れない。
DHCという企業は、MXテレビに「ニュース女子」という番組を提供して俄然有名になった、天下に悪名とどろくあのDHC。あれ以来、「デマ(D)とヘイト(H)のカンパニー(C)」として、全国に知られるようになった。
デマとヘイトとスラップ。DHCはこの三拍子を揃えた、三位一体の反社会的な体質をもった企業なのだ。消費者の一人が、なんとなく無意識のうちにDHC製品を買えば、デマとヘイトとスラップの三拍子に加担して、社会悪を蔓延させることになる。うっかりとDHCの製品を購入することがないよう訴えたい。貴重なお金の一部が、DHCに回れば、この社会における在日差別の感情を煽り、沖縄の基地反対闘争を貶めることになる。このことは、安倍改憲の旗振りに寄与することでもある。さらに、言論の自由を抑圧するスラップ訴訟の資金となり、こんな訴訟を引き受ける弁護士の報酬にまわることにもなる。
(以上のDHCを安倍政権に、DHC製品を元号に置き換えて、お読みください)
※ 元号は不便なだけでなく、有害なのだ。この際元号使用を止めよう。
元号とは、天皇の代替わりがあると、時代をリセットして年を数え直すという仕組み。一億人の日本人のうちのたった一人の都合に、ほかの全員が付き合わされるという無茶苦茶な年の数え方。
なぜ、誰が考えてもこんな不合理なことがまかり通るのか。為政者が国民に元号を使わせたいからだ。なぜ、為政者は国民に元号を使わせたいのか。元号と天皇制とが緊密に結びついており、国民生活に天皇制を刷り込むためには、元号使用が効果的だからだ。為政者は、なぜ国民生活に天皇制を刷り込みたいのか。天皇の権威を受容する国民こそが、御しやすい為政者に好都合な被治者だからだ。憲法が想定する、自立した主権者としての意識を確立した国民こそは、為政者のもっとも嫌うところなのだ。
だから、元号使用は「臣民」にこそふさわしい。主権者としての自立した国民に元号使用はふさわしくない。これを機会に元号使用はもうやめよう。
※「元号使用」の拒否こそが主権者としてのありかただ。
元号使用の法的義務はありません。そんな押しつけができるわけはない。しかし、為政者は巧妙に元号を使わざるを得ないような仕掛けを考えます。役所に行けば、元号の世界。断固拒否するのは、やや勇気の要ること。また、問題は、元号使用強制の社会的圧力です。一人ひとりの個人が自由であるとは、自分を取り巻くいくつもの集団の圧力に縛られないということなのですが、これがなかなかに難しいことと言わねばなりません。
とりわけ、このところ少し社会の風向きがおかしいように思うのです。気になるのは、メディアの天皇への過剰な敬語や、皇族への過剰な遠慮。なんとなく恐れ入った態度の蔓延です。
さて、天皇が交替します。天皇・明仁からその長男・徳仁へ。天皇が誰であろうと、私たちの暮らしに何の関わりもありません。あってはならないのです。この、騒ぐこともない、どうでもよいはずのことを、なんだかたいへんなことのように、大騒ぎする人々がいます。それを煽る人々がいます。天皇の交替で、時代が変わるもののごとくに。
その「時代が変わる」と思わせる仕掛けが元号の変更です。実際は何も変わりません。天皇の交替など、国民にとって、どうでもよいことなのです。元号という時の区切り方を発明した本家は中国です。こちらが、「皇帝が時を支配する」という大ウソの本家本元。中国の周りの国のミニ皇帝たちが、これを真似しました。ウソの分家です。日本もその一つ。本家の中国では、今は元号を使っていません。煩わしくて、ビジネスにも政治や経済にも日常生活にも、学問や科学技術にも、そして何よりも国際交流に、不便なことが明らかだからです。年代の表記はグローバルスタンダードである西暦一本とすることが最もシンプルで便利。いまや、元号というローカルなツールに固執しているのは、日本のみ。こんなものを後生大事に抱えていて、日本はホントに大丈夫なのでしょうか。
天皇制と結びついた、不便な元号など使わないことが、主権者としての国民に最もふさわしいありかただと思います。ところが、そうすると往々にして、社会的同調圧力が働きます。「あなたは日本人でありながら、日本に固有の元号を使わないの?」「もしかして、あなたは非国民では?」という圧力。イジメの構造と変わるところがありません。この圧力に負けてしまうと、国民主権の実質が失なわれかねません。天皇制を便利な道具としようという、政権運営の思惑を許してしまうことになってしまいます。
元号変更の機会に、ちょっとの勇気を発揮して、元号使用を止めませんか。役所や、銀行や、郵便局や、宅配業者などの窓口で、元号での年月日記入を求められることがあったら、必ず西暦で記入しましょう。それを咎められたら、「元号使用を強制するとおっしゃるのですか」「私は西暦使用にこだわります」とがんばってみてください。小さな抵抗の積み重ねが大切だと思います。勇気をもってのイジメからの離脱が、イジメをなくすることにつながるように、小さな元号使用拒否の動きが、再び天皇の政治利用を許さない、民主主義社会の形成につながるものと思うのです。
※10月22日。まったくバカげた光景が国民の眼前に展開される。仰々しく行われる一連の新天皇就任式。その儀式の中心をなすのが「即位礼正殿の儀」。その式次第の一部が次のとおりである。
1 三権の長、皇族、天皇、皇后の順に正殿松の間に参入する。
2 天皇、皇后が高御座、御帳台に昇る。
3 参列者が鉦の合図により起立する。高御座、御帳台の帳が開けられる。
4 参列者が鼓の合図により敬礼する。
5 内閣総理大臣が御前に参進する。
6 天皇の「おことば」がある。
7 内閣総理大臣が寿詞を述べる。
8 内閣総理大臣が即位を祝して万歳を三唱する。参列者が唱和する。
自衛隊により、21発の礼砲がうたれる。
以上の次第のとおり、安倍晋三は、高御座(たかみくら)の新天皇(徳仁)を仰ぎ見て、臣下として「テンノーヘイカ・バンザイ」とやるのだ。これに、衆参両院の議長や最高裁長官らが唱和する。何という、未開野蛮の恥ずべき光景。天皇と臣下との関係を可視化して、国民に見せつけようというのだ。もちろん、そうすることが、この国の国民を統御するために有効だとの思惑あっての演出である。安倍晋三は、国民代表を僭称する立場で、新天皇に臣従の意を表す。主権者としての国民代表ではなく、臣民の代表としてである。
これが、国民主権の国家儀式なのだ。一見喜劇だが、実は救いようのない悲劇ではないか。
? 資料1(日本学術会議の元号廃止 西暦採用について)
昭和25年5月6日
衆議院議長
参議院議長
内閣総理大臣
日本学術会議会長 亀山直人
元号廃止 西暦採用について(申入)
本会議は,4月26日第6回総会において左記の決議をいたしました。
右お知らせいたします。
記
日本学術会議は,学術上の立場から,元号を廃止し,西暦を採用することを適当と認め,これを決議する。
理 由
1. 科学と文化の立場から見て,元号は不合理であり,西暦を採用することが適当である。
年を算える方法は,もつとも簡単であり,明瞭であり,かつ世界共通であることが最善である。
これらの点で,西暦はもつとも優れているといえる。それは何年前または何年後ということが一目してわかる上に,現在世界の文明国のほとんど全部において使用されている。元号を用いているのは、たんに日本だけにすぎない。われわれば,元号を用いるために,日本の歴史上の事実でも,今から何年前であるかを容易に知ることができず,世界の歴史上の事実が日本の歴史上でいつ頃に当るのかをほとんど知ることができない。しかも元号はなんらの科学的意味がなく,天文,気象などは外国との連絡が緊密で,世界的な暦によらなくてはならない。したがって,能率の上からいっても,文化の交流の上からいっても,速かに西暦を採用することか適当である。
2. 法律上から見ても、元号を維持することは理由がない。
元号は,いままで皇室典範において規定され,法律上の根拠をもっていたが,終戦後における皇室典範の改正によって,右の規定が削除されたから,現在では法律上の根拠がない。もし現在の天皇がなくなれば,「昭和」の元号は自然に消滅し,その後はいかなる元号もなくなるであろう。今もなお元号が用いられているのは,全く事実上の堕性によるもので,法律上では理由のないことである。
3.新しい民主国家立場からいっても元号は適当といえない。
元号は天皇主権の1つのあらわれであり,天皇統治を端的にあらわしたものである。天皇が主権を有し,統治者であってはじめて,天皇とともに元号を設け,天皇のかわるごとに元号を改めるととは意味かあった。新憲法の下に,天皇主権から人民主権にかわり日本が新しく民主国家として発足した現在では,元号を維持することは意味がなく,民主国家の観念にもふさわしくない。
4.あるいは,西暦はキリスト教と関係があるとか,西暦に改めると今までの年がわからなくなるという反対論があるが,これはいずれも十分な理由のないものである。
西暦は起源においては,キリスト教と関係があったにしても,現在では,これと関係なく用いられている。ソヴイエトや中国などが西暦を採用していることによっても,それは明白であろう。西暦に改めるとしても,本年までは昭和の元号により、来年から西暦を使用することにすれば,あたかも本年末に改元があったと同じであって,今までの年にはかわりがないから,それがわからなくなるということはない。
?資料2 元号法(昭和五十四年法律第四十三号)
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附 則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。
(2019年10月22日)
祝日とされた明日(10月22日)、新天皇を高御座に見上げて臣民どもが、「テンノーヘイカ、バンザイ」という時代錯誤も甚だしい滑稽劇を演じる。この国には、いまだに臣民が棲息しているのだ。その臣民の群の先頭で音頭をとるのが、臣・安倍晋三。なるほど、行政を司る地位にある者をいまだに「大臣」というわけだ。この国が、神の国であり、天皇の国であることを可視化して、広く知らしめようという魂胆。
もちろん、安倍晋三が、天皇を崇敬しているわけでも、神道を信仰しているわけでもない。彼は、天皇(統仁・睦仁)を「玉」として、政敵と取り合った維新時長州派の末裔である。天皇という存在の政治的な利用方法を意識し、心得ている。保守派の為政者にとって、ナショナリズムはこの上なく便利な政治の手段。天皇は日本型ナショナリズム発揚に欠かせない小道具なのだ。
いささかなりとも主権者としての自覚をもつ者は、10月22日を天皇制に無批判な姿勢で無為に過ごしてはならない。10月22日には、主権者としての自覚を確認することで、何とか一矢を報いたい。
ところで、天皇制を支える小道具は、いくつもある。元号・祝日・「日の丸・君が代」・叙位叙勲・恩赦・賜杯・天皇賞・恩賜公園……等々。
国民の日常生活に、最も密接に定着しているのは元号であろう。10月22日、「即位礼正殿の儀」のバカバカしさに異議ある方には、下記の講演会はいかがだろうか。
-214x300.jpg)
下記のURLをクリックしていただきたい。
10.22西暦併用を求める会講演会チラシ(表)
講師の一人が、私である。私の報告のタイトルは、「安倍商店大売り出しの『新元号』は欠陥商品である」というもの。
チラシには下記のように記載されている。
「講師の澤藤統一郎さんは元日弁連消費者委員長、元日本民主法律家協会事務局長を歴任、田中宏さんは長らく在日外国人の問題に取り組んできました。
ご一緒に元号の問題を考えましょう!参加費500円です。
西暦併用を求める会講演会
2019年10月22日(火)18:30?21:00
(開場18:00)
文京区民センタ?【2A会議室】文京区本郷4-15-14
お問い合わせ「西暦併用を求める会」:事務局TEL:090-8808-5000(藤田高景)TEL:080-1052-7714(稲正樹)seirekiheiyo@gmail.com
「西暦併用を求める会」主催だが、「すべての公文書は西暦表記に!」という「急進的」スローガンを立てている。
言うまでもなく、元号を語るとは天皇制を語ること。私の言わんとするところは、元号という紀年法の欠陥性である。消費者事件としての製品の欠陥は、単に性能劣悪というだけのことではなく有害であることを意味する。
元号は、消費期限が短く、しかも使用可能地域の限定性故に不便極まりないというだけでなく、民主主義社会に明らかに有害である。元号の欠陥性は、無理矢理に天皇制と結びつけられたその本質にある。だから、紀年法としての欠陥が必然的に国民主権への有害性に結びついている。安倍商店がこの欠陥商品の販売に躍起になるのは、むしろその欠陥故なのだ。そんな問題意識をお話ししたい。
(2019年10月21日)
雨上がりの土曜日の朝の散歩。思いがけなくも、五條天神の境内でタヌキに出会った。上野公園でタヌキ、私には初めての経験。アライグマでもハクビシンでもない、紛れもなきタヌキ一匹。もっとも、野性味に欠けること甚だしい。観光客のカメラに怯えることなく、しばらく目の前をノソノソと歩いて茂みに消えた。ご近所に声を掛けると、4匹のタヌキの家族が棲みついているのだという。「かわいいものですよ」と、聞かされた。なるほど確かにかわいい。しかし、相手はタヌキである。ダマされることのないように気をつけたい。
その五條天神の掲示板には、「今月の生命の言葉」として、本居宣長の次の和歌(のようなもの)が掲示されている。
高御座(たかみくら) 天(あま)つ日嗣(ひつぎ)と
日の御子の 受け伝へます
道は斯の道
大学者の歌なのだから、おそらくは深遠な哲学が込められているに違いない。うかつにもそんな思い込みから畏れいって読み込むと、何かしらの意味が感得されるのかもしれない。しかし、そんな思い込みが、既にバカされているのだと知らねばならない。タヌキにではなく、天皇制というイデオロギー操作装置にである。
畏れいることなく普通に読めば、まことにつまらない敬語の羅列。何の感興も湧くべくもない。宣長は、天皇なり皇道なりのコマーシャルメッセージのつもりなのだろうが、それにしてもできはよくない。
これは神なる天皇を賛美する信仰の歌である。拙劣ではあっても、「道は斯の道」だけで分かりあえる同じ信仰を持つ者だけに通用するフレーズ。理性を持ち、天皇を神と思わぬ普通の感性をもつ人には、高御座も天つ日嗣も日の御子も、興趣を惹くものではあり得ない。むしろ、その押しつけがましさに辟易するばかり。
ただ、なかなかにはっきりそうは言いにくい雰囲気が,この社会に充ち満ちている。天皇制という政治の小道具の便利さを享受したいとする保守勢力がそう仕向けている。いかに荒唐無稽でも、神話に基づく天皇制の権威の維持が大切なのだ。多くの人が、これに敢えて抗うことを避けていることがおおきな問題ではないか。批判を控えているうちに、ますます批判が難しくなる。天皇神話にバカされた振りを余儀なくされることにもなりかねない。
神社の掲示板には、併せてこんな予定が告知されている。
【十月二十二日】「即位礼当日賢所大前の儀」・「即位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀」「即位礼正殿の儀」・「祝賀御列の儀(パレード)」
そして、「即位礼正殿の儀」について、こんな解説がなされている。
天皇陛下が御即位を国の内外に宣明される儀式を「即位礼正殿の儀」と言います。
宮殿の中庭に色とりどり大小様々な旛(ばん)と呼ばれる旗が左右に列立した内側中央に一対の万歳旛(ばんざいばん)が立てられます。この旛は即位礼でのみ用いられ、神話に由来する五匹の鮎と酒壺が描かれ、大きく「萬歳」の文字が刺繍されており、陛下の御代が幾久しく続くことへの祈りが込められております。
正殿向かって右「梅の間」より天皇陛下は立纓(りゅうえい)の冠に黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)の御装束をお召しになり「高御座」にお昇りになられます。皇后陛下は御髪を大垂髪(おおすべらかし)に結い上げて五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)をお召しになり御帳台(みちょうだい)にお昇りになられます。即位を内外に宣明する陛下のお言葉を賜り、国民の代表として総理大臣がお祝いの寿詞を述べ、参列者全員で万歳を三唱し、陛下の御即位に奉祝の誠を捧げます。
何と大仰な、何と時代錯誤な、何と空疎な、そして何と国民主権にふさわしからぬ、政教分離違反の儀式。
この大仰さに畏れいってはならない。五條天神のタヌキが、確かに言っていた。
「この国家総がかりのダマシにくらべれば、私のダマシなどは、ホンの子どもダマシだ」と。
(2019年10月19日)
私の手許に、「戦前不敬発言大全」という分厚い一冊がある。この本の副題が長い。「落書き・ビラ・投書・怪文書で見る、反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説」というのだ。戦前の体制側記録である「特高月報」「思想旬報」「憲兵隊記録」「社会運動の記録」などからの「不敬発言」集である。それに、コラムや解説記事が行き届いている。どこからどう読み始めても、興味深い記事ばかり。なによりも、読み易さが身上。
長い前書きの冒頭に、「特高警察、憲兵、そして現代の公安および体制の犠牲になった人々に本書を捧げる」とある。今年(2019年)6月1日発行。天皇交代直後の今だから、天皇をめぐる表現に萎縮あることを感じざるを得ない今だから、大いに読まれるべき一冊だと思う。戦前を回顧し、言論の不自由が何をもたらしたかを再確認しなければならない。
戦前の日本には、不敬罪というものがあり、国民の不敬言動が広く取り締まられた。そのため、取締対象となった不敬言動が記録として残された。この不敬言動、並べてみると、なかなかに壮観である。人は、忖度のみにて生くるものにあらず。権力の思いのままにはならぬものなのだ。
当時の日本は、国家神道(すなわち、「天皇教」)という急拵えの新興宗教体系を国家存立の基礎とも主柱ともする脆弱な宗教国家であった。その新興宗教体系の中心をなすものは、現人神としての天皇の神聖性という作られた信仰であった。
天皇とは神の子孫であるとともに、自らも神という聖なる存在である。天皇がこの国を統治する正当性の根拠は、神代の昔に、最高神アマテラスが定めたことなのだから、疑う余地はない。その神の定めに従って、この国の民のすべては、神なる天皇に臣従する立場にある。神である天皇を戴く神国日本は、他国に優越する優れた国で、神の加護の下にある…。こんなことを、大真面目に説いていたのだ。
天皇教国家は、学校教育と軍隊教育とを通じて、神なる天皇の神聖性という信仰を臣民の精神に刷り込み、「思想の善導」をはかった。が、その限界は明らかである。「思想の善導」に服さない非国民が確実に存在し、非国民への対策が必要だった。
その対策の一つが、メディアの統制であり、他の一つが、天皇の神聖性を否定する国民の言動に対する刑罰権の発動による取り締まりであった。この天皇の神聖性擁護の言動取締りが、不敬罪である。心底、天皇を敬せずともよいが、天皇に不敬の言動は厳格に取り締まる、というわけである。
初めて刑法典をひもとく人には驚くべきことに違いないないが、現行の刑法典は1907(明治40)年に制定されたものである。加除添削を重ね、ひらがな化、口語化などを経ているが、骨格は100年以上の昔のままである。
その刑法は2編からなる。第1編が「総則」であり、第2編が「罪」。総論と各論に当たる。第2編の「罪」とは、何が刑罰権発動の要件としての犯罪になるのか、その構成要件を明確にして条文化したものである。この第2編「罪」が、第1章から第40章まであって、侵害される法益の種類や行為態様によって犯罪が分類されている。
たとえば、第26章「殺人の罪」には、「第199条(殺人罪)」「第200条(尊属殺人)削除」「第201条(殺人予備)」「第202条(自殺関与及び同意殺人罪)」「第203条(未遂罪)」と、分かり易い条文が並んである。
「殺人の罪」が第26章として、では第1章は何か。言わずと知れた、「皇室ニ對スル罪」である。もちろん、戦後すぐ(1947年)に削除されたもので、今はない。
我々が今なお、日々使っている刑法。その第2編第1章に、削除以前には下記の4か条があった。
第1章? 皇室ニ對スル罪
第73条 《天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ》危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
第74条 《天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ》不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス 《神宮又ハ皇陵ニ対シ》不敬ノ行為アリタル者亦同シ
第75条 《皇族ニ對シ》危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處シ 危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期懲役ニ處ス
第76条 《皇族ニ對シ》不敬ノ行為アリタル者ハ二月以上四年以下ノ懲役ニ處ス
上記第73条が、戦前制定された刑法各論のトップ、言わば「1丁目1番地」に位置する犯罪であった。これが、悪名高い「大逆罪」である。読みにくいが,ぜひよくお読みいただきたい。天皇や皇后に対する殺人罪ではない。「危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル」ことが犯罪行為とされている。「危害を加えようとした」だけで、「死刑ニ處ス」である。法定刑にそれ以外の選択はない。
上記の第74条と76条が、不敬罪である。不敬行為の客体は、天皇・皇族・神宮・皇稜。そして、不敬ノ行為とは「天皇等の尊厳を害する一切の行為」を指すとされた。演説から、私語から、ビラから、トイレの落書きまで、不敬言動は多岐に渡る。これを取り締まった特高もたいへんだった。
この書の著者は?井ホアン。自らを「不逞鮮人」をもじって「太いハーフ」という人。早川タダノリ氏のデビュー当時、その若さに驚いたものだが、?井ホアンは1994年生まれ、早川氏よりもさらに20年若い。
「高校時代より反権力・反表現規制活動を行う中、その過程で戦前の庶民の不敬・反戦言動について知り、そのパワフルさと奥深さに痺れて収集と情報発信を開始」という。
その奥深さとは、「天皇の批判を投書や怪文書でコッソリ表明」「犠牲を顧みる一般市民の非英雄的反体制的言論活動」という視点。本の宣伝に引用されている、不敬言辞は、たとえば以下のようなものだが、本を読めば、実にバラエティに富んだものであることがよく分かる。著者が、「痺れて収集と情報発信を開始」したのももっともなのだ。
■「皇太子殿下も機関の後継者というだけで別に変ったものでない」
■「俺も総理大臣にして見ろ、もっと上手にやって見せる」
■「俺は日本の国に生れた有難味がない、日本に生れた事が情無く思う」
■「実力のある者をドシドシ天皇にすべきだ」
■「生めよ殖せよ陛下の様に」
■「早く米国の領地にしてほしい」
■「天皇陛下はユダヤ財閥の傀儡だぞ」
■「日本の軍隊が他国へ攻め込んでそれで正義と言うのは変ではないか」
■「個人あってこそ国家があるので個人が立行かぬ様になっては国家もその存立を失う」
実はこの本。「戦前ホンネ発言大全」の1。同じ著者が同2を同時に発行している。こちらは「戦前反戦発言大全」である。「落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反軍・反帝・反資本主義的言説」という副題。
「両巻合わせて合計1184ページ 約1000の発言を収録!」という惹句で、「不敬発言大全」の表紙には昭和天皇(裕仁)、「反戦発言大全」の表紙には東条英機の写真が掲載されている。
?井ホアン(著/文) 発行:パブリブ
両巻とも、価格 2,500円+税 初版年月日2019年6月1日
http://publibjp.com/wordpress/wp-content/uploads/2019/04/戦前ホンネ発言大全FAXDM.jpg
世の空気に,しなやかに抵抗の叛骨ぶりが、好もしくも頼もしい。
(2019年10月12日)
本日(10月10日)の赤旗からの引用である。
「『即位の礼』 一連の儀式参列せず」「小池氏 憲法原則と両立しない」という見出し。この見出しだけでも、分かることは分かる。
日本共産党の小池晃書記局長は9日、国会内で記者会見し、天皇の代替わりにかかわり行われる「即位の礼」の一連の儀式への態度について問われ、「『即位礼正殿の儀』および『饗宴の儀』には参列しない」と述べました。
小池氏は、日本共産党が天皇の代替わりに伴う儀式等については、憲法の国民主権、政教分離の原則にかなったものとすることを求めてきたが、政府が昨年4月に閣議決定した「即位の礼」の一連の儀式は、戦前の明治憲法下の天皇主権・国家神道のもとで代替わりの儀式を定めた「登極令」のやり方を踏襲するものだと指摘。「とりわけ『即位礼正殿の儀』は、神によって天皇の地位が与えられたことを示す『高御座』から天皇が即位を宣明し、その即位を内外の代表が祝う儀式であり、神道行事である『大嘗祭』と一体不可分に行われるものだ。『饗宴の儀』は、こうした『即位礼正殿の儀』と一体の行事に他ならない」として、「わが党は、これらの儀式が現行憲法の国民主権、政教分離の原則とは両立しないことを指摘し、国事行為である国の儀式とすることに反対を表明してきた。こうした見地から『即位礼正殿の儀』および『饗宴の儀』には参列しない」と述べました。
簡明な理由と簡明な結論。これでよかった。共産党ともあろう者が、高御座の新天皇を仰ぎ見て、安倍晋三の音頭に唱和して、「テンノーヘイカ・バンザイ」などという愚かな真似をやれるはずもなかろう。共産党を支持し、これに票を投じた少なからぬ国民を代表する立場で、きっぱりと「一連の儀式参列せず」としたことを評価したい。
これを産経が「共産党が天皇陛下ご即位の儀式に欠席表明」と報じている。「天皇陛下ご即位の儀式」には、国民こぞって参列し、「テンノーヘイカ・バンザイ」と祝意を表明すべきだと言わんばかりの記事のつくり。
芥川はこう言った。「わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
芥川に倣って,今はこう言わねばならない。「わたしには実際不思議である。なぜ主権者たる国民が、酒にも酔わずに、『テンノーヘイカ・バンザイ』などと叫ぶことができるのであろうか?」
私は、代替わり(天皇の交代)を祝うという感性が、自律した個人にふさわしからぬものと思う。これは、日本国憲法以前の、言わば近代のもつ自然法的な大原則だと思う。
共産党は、そこまでは言わない。キーワードは、「国民主権」と「政教分離」。代替わり(天皇交代)儀式のあり方がこの憲法上の両原則に反するという。象徴天皇制を尊重しつつ、天皇交代の儀式のありかたを、天皇の存在に優越する他の憲法諸原則に照らして問題とする姿勢。もちろん、日本国憲法遵守至上主義に文句の付けようはないが、私には、やや物足りない。
ところが、世の中には、いろんな人がいて、いろんな見方がある。この共産党の「憲法遵守至上主義」を、「共産党は改憲派」という自民党議員の発言が飛び出した。何だいったいそれは。私の頭が混乱しているのか、当該議員の発言が混乱しているのか。
自民党の井野俊郎という議員が、本日(10月10日)の衆院予算委員会で「共産党の皆さんは改憲派」と発言し、一騒動あったという。
発言した当の自民党議員にしてみれば、「改憲派」とは、自分のことだ。共産党を「改憲派」というのは、自分と同じということ。これでは、罵り言葉にならない。
朝日が伝えるところでは、井野の発言は「憲法第1章、天皇制について言えば、我々自民党は護憲。他方、共産党の皆さんは改憲派になると思う」というもの。井野という人物、最近の共産党の姿勢を知ってのことか、知らないのか。
野党の席から「違うよ!」「でたらめなこと言うな!」と激しいヤジが飛び、委員会室は一時騒然となった。井野氏は「(共産党は)即位の礼に参加しないじゃないですか」と反論したが、ヤジは収まらなかった。
こうした状況を受け、午後に再開された同委の冒頭、棚橋委員長は井野氏の発言について、「公党に対して誤解を与えるような発言がありました。発言には十分に注意してほしい」と述べ、注意を促した。
井野議員の発言は「憲法第1章、天皇制について言えば、我々自民党は護憲。他方、共産党の皆さんは改憲派になると思う」は、本来の共産党のあるべき姿の指摘といえよう。国民の多くが漠然とそう考えているものと思われる。その改憲とは、歴史の進歩に沿う方向でのもの。
もちろん、天皇制について、「自民党が護憲派」はウソだ。歴史に逆行する形での改憲志向政党である。2012年4月28日発表の「自民党改憲草案」は、その前文の冒頭を、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって…、」としている。日本国憲法とは大違い。
そして、残念ながら、「共産党の皆さんは改憲派になると思う」も間違いなのだ。野党の席から「違うよ!」「でたらめなこと言うな!」と激しいヤジが飛んだとおり、共産党は「護憲一辺倒」なのだ。確かに、共産党は即位の礼に参加しない。しかし、それは現行憲法の大原則に反するからであって、象徴天皇制そのものに反対し、天皇制をなくしていこうという積極的改憲路線とは無縁なのだから。
(2019年10月10日)
**************************************************************************
NHKへの抗議と激励の「アピール行動」は台風のため延期となりました。
10-18-kanpo-1.pdf
日時:10月18日(金) 17時?18時
場所:NHK放送センター西門周辺
(最寄り駅:澁谷・原宿・明治神宮駅)
ご近所のみなさま、ここ本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま。
こちらは、「本郷湯島九条の会」です。日本国憲法と平和をこよなく大切なものと考え、憲法の改悪を阻止し、憲法の理念を政治や社会の隅々にまで活かすことを大切という思いから、志を同じくする者が集まって、「九条の会」を作って、憲法を大切しようという呼びかけを続けています。
私たちは、毎月第2火曜日の昼休み時間を定例の街頭宣伝活動の日と定めて、これまで6年近くにもわたって、ここ「かねやす」前で、明文改憲を許さない、解釈による壊憲も許さない、憲法の理念を輝かせたいと訴え続けて参りました。いまは、「安倍9条改憲」の策動を厳しく糾弾しています。
配布しています、手製のチラシをお手にとってお読みください。大きな見出しで、「9条改憲を許さない」「軍事優先社会へ日本が変貌する」「自衛隊明記9条改憲の狙い」と並んでいるとおりです。なお、「NHKに励ましと抗議を」「元号使用強制反対」「教育の自由を守れ」などの集会のチラシも配布しています。また、9条改憲阻止の「3000万署名」にもご協力ください。
さて、いくつもの問題が山積している2019年10月です。まず消費税が上がりました。腹が立ちます。軽減税率という煩わしい制度にも馴染めません。何のための消費増税でしょうか。福祉を支えるため? そんなことをだれも信じていません。そんな実感は、だれにもありません。
消費税が創設されたのは1989年、以来31年間で、国が徴収した消費税総額はほぼ400兆円になります。ところが同じ時期に、法人3税(「法人所得税」「法人住民税」「法人事業税」)はほぼ300兆円減税・減収になっています。所得税・住民税も200兆円を越える減税・減収。小さく生まれて大きく育ってきた消費税は、累進性を押さえた、法人税や所得税減税分の穴埋めに消えてしまったのです。
逆進性の高い消費税を増やし、本来累進性を高めるべき所得税や法人税を減税するのは、苦しい庶民のフトコロから金を巻きあげて、金持ちや大企業にばらまいているに等しいことではありませんか。こんな税制を作ってきたのが、自公の与党政権なのです。あきらかに金持ち優遇、弱者に冷たい。憲法が定める生存権の理念に反するものといわざるを得ません。必要な税金は、あるところから、つまり儲けている大企業や富裕層に負担させるべきが当然ではありませんか。消費増税をあきらめるのではなく、今一度、税制のあり方、こんな税制を押し付けている自公政権のあり方を真面目に考えて見ようではありませんか。
もう一つだけ申しあげます。
本日(10月8日)の午後に、これまで中止となっていた、あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由・その後」が再開となります。いったんは脅迫や暴力を示唆する勢力によって中止を余儀なくされた企画展ですが、表現の自由が脅迫や暴力に屈してはならないと真剣に再開を望む良識ある世論が実ったものと喜びたいと思います。
表現の自由の本質とその限界について確認しておきましょう。まずは、その自由の限界についてです。この展示の企画や運営を批判する自由はだれにもあります。意見があれば、忌憚なく表現の自由を行使すればよいのです。しかし、批判の言論を越えて、脅迫や暴力を示唆して展示を妨害する権利はだれにもありません。それは、悪質な犯罪として、厳しく取り締まられなければなりません。
もちろん、威力による業務妨害をけしかけることも犯罪です。また、河村たかし名古屋市長や菅義偉官房長官など、権力の陣営にいる人物は、一般の国民とは違って、権力を背景に展示の可否についての発言を慎まなくてはなりません。その強い立場で、本来自由に形成されるべき国民の意見を抑制したり誘導したりせぬよう配慮が必要だからです。
そして、表現の自由の本質について強調しなければなりません。表現の自由は、時の政権や多数派を批判できるところに,その神髄があります。表現の自由は人権ですから、民主主義という理念に優越するものと考えざるを得ません。「日本人の心を傷つける」から発言を慎まなければならないとは、愚論も甚だしい。
いま、日韓関係が冷え込み、政権やメディアが、韓国バッシング一色に染まっている感があります。このようなときにこそ、日韓の歴史に思いをいたし、歴史の修正を批判して隣国との友好を大切しようという言論は貴重なものです。その意味でも「平和の少女像」の展示の権利を侵害してはなりません。
もう一つ、天皇の肖像の扱いが問題とされている作品があります。今の世は、大逆罪や不敬罪がまかりとおる時代ではありません。天皇をどう語るかについて、萎縮したり、遠慮したりする必要はありません。天皇とは、主権者国民の意思によって存在しています。天皇制を存続させるべきか否か、どのように天皇についての制度を設計するか、天皇制の維持についての経済的負担をどの限度で認めるべきか、すべては国民の意思によって決せられます。むしろ主権者としての国民は,遠慮なく天皇について語るべきなのです。天皇制についての肯定・否定両論があるのは当然のことです。天皇の存在を肯定し、天皇をことほぐ意見だけが許容されるという偏狭な考えは、憲法の国民主権原理に反する暴論と言わざるを得ません。
いま、天皇批判の言論の許容度こそが、表現の自由一般の程度をはかるバロメータとなっている感があります。今回、中止に追い込まれた「表現の不自由展・その後」の展示に天皇の肖像が関わっていることに注目せざるを得ません。いま、事を荒立てたくないから、面倒なことにかかわりたくないからとして、天皇にかかわる言論を避けて自粛することは、表現の自由の幅を著しく狭めていくことにほかなりません。
国民が萎縮し自粛して、自ら表現の自由を抑制すれば、やがて人権としての表現の自由は枯死することになるでしょう。表現の自由がなくなった社会とは、権力が何のはばかりもなく、思いのままに振る舞うことができる社会。それが、人権も平和もない、全体主義と呼ばれる社会です。「表現の不自由展・その後」の再開は、まだ私たちの社会が、人権や民主主義を枯渇させることのない復元力を持ってることを示したのだと思います。
展示再開の意味を,それぞれに、自分なりに考えようではありませんか。
(2019年10月8日)
「戦争の8月」「侵略の9月」が終わって、「天皇制の10月」である。祝日とされた今月22日には、新天皇を高御座に見上げて臣民たちが、「テンノーヘイカ、バンザイ」という愚劣な滑稽劇を演じる。音頭をとるのが、臣・安倍晋三。なるほど、行政を司る地位にある者をいまだに「大臣」というわけだ。この国が、神の国であり、天皇の国であることを可視化して、広く知らしめようという魂胆。
もちろん、安倍晋三が、天皇を崇敬しているわけでも、神道を信仰しているわけでもない。彼は、天皇(統仁・睦仁)を「玉」として、政敵と取り合った長州派の末裔である。天皇という存在の政治的な利用方法をよく心得ている。保守派の為政者にとって、ナショナリズムはこの上なく便利な政治の手段。天皇は日本型ナショナリズム発揚に欠かせない小道具なのだ。
いささかなりとも主権者としての自覚をもつ者、10月22日を天皇制に無批判な姿勢で無為に過ごしてはならない。10月22日には、何とか一矢を報いたい。
ところで、天皇制を支える小道具は、いくつもある。元号・祝日・「日の丸・君が代」・叙位叙勲・恩赦・賜杯・天皇賞・恩賜公園……等々。
国民の日常生活に、最も密接に定着しているのは元号であろう。10月22日、「即位礼正殿の儀」のバカバカしさに異議ある方には、下記の講演会はいかがだろうか。
-214x300.jpg)
下記のURLをクリック願います。
10.22西暦併用を求める会講演会チラシ(表)
講師の一人が、私である。私の報告のタイトルは、「安倍商店大売り出しの『新元号』は欠陥商品である」というもの。
チラシには下記のように記載されている。
「講師の澤藤統一郎さんは元日弁連消費者委員長、元日本民主法律家協会事務局長を歴任、田中宏さんは長らく在日外国人の問題に取り組んできました。
ご一緒に元号の問題を考えましょう!参加費500円です。
西暦併用を求める会講演会
2019年10月22日(火)18:30?21:00
(開場18:00)
文京区民センタ?【2A会議室】文京区本郷4-15-14
お問い合わせ「西暦併用を求める会」:事務局TEL:090-8808-5000(藤田高景)TEL:080-1052-7714(稲正樹)seirekiheiyo@gmail.com
「西暦併用を求める会」主催だが、「すべての公文書は西暦表記に!」という「急進的」スローガンを立てている。
私の言わんとするところは、元号という紀年法の欠陥性である。消費者事件としての製品の欠陥は、単に性能劣悪ということではなく有害であることを意味する。
元号は、消費期限が短く、しかも使用可能地域の限定性故に不便極まりないというだけでなく、民主主義社会に明らかに有害なのだ。安倍政権は、なぜそのような欠陥商品の販売にこだわり躍起になるのだろうか。そんな問題意識をお話ししたい。
以下、チラシからの引用である。
**************************************************************************
元号の押しつけは許されない。
元号の不合理性は、日常的にイライラさせられる事柄として現れます。
NHKのニュースが、「平成13年から始まった○○が・・」、と放送する時、それは何年前なのか、瞬時には分からず、思考が途切れます。歴史の中にいる感覚が分断されるのです。
銀行通帳に記帳される日付が5月1日を境に、突然31から1に代わったり、あり得ない平成40年とかいう数字が残っている契約書、これらを作っている方々は、「顧客満足」という言葉をどう考えているのでしょうか。なぜ、お互いにわかりやすく年の表記はしましょう、というあたりまえのことが通用しないのでしょうか。
その事を考え、それを変えていくために、私たちはこの講演会を企画しました。
西暦表記に反対したり、ためらう方々は様々な理由を挙げます。
Q:世界にはいろんな暦がある、国の個性なのだからいいではないか。
A:暦の多様性が問題なのではありません。「世界で唯一」年の数え方を途中でリセットしてしまう制度だということが問題なのです。しかも、天皇という生身の人間の状態を変更のきっかけとしているので、いつリセットされるか不確定。一年の途中からでも変更されてしまう。だから、「元号」で未来の年を表記しようとすることは厳密に言えば原理として不可能! そのような紀年法を公文書に使い続けるというのは異様です。「世界で唯一の・・・」は、誇れることでは全くないのです。
Q:西暦はキリスト教のものだから特定の宗教の紀元など使うべきでない。
A:世の中のものにはそれが出来上がってきた経過があります。一宗教に起源があったとしても現在は紀年法としてほぼ世界標準になっており、2016年にサウジアラビアもイスラーム暦であるヒジュラ暦からグレゴリオ暦(西暦)に変更しました。
Q:世の中、合理性だけで割り切れない、日本の伝統・文化を守るべきだ。
A:「元号」は中国からの輸入品ですが、「わが国の伝統・文化」とされています。
1868年(慶応4年)9月8日の明治改元は、それまで天皇の代替わりだけでなく、ことあるごとに元号を変更していた「日本の伝統文化」を打破して「一世一元」としました。
1872年(明治5年)11月9日、それまでの「日本の伝統文化」であった太陰太陽暦(旧暦:天保暦)を現在使われている太陽暦に大変更、明治5年12月3日を明治6年1月1日とする荒技も見せました。11月15日には神話上の初代天皇である「神武天皇」の「即位日」を“紀元”と定めた(西暦に660年を足した数字となる)「神武天皇御即位紀元」が制定されました。1940年(昭和15年)には「紀元二千六百年」という歌も作られました。
自分が物心ついた時、昔からそれがあったから、というのではなく、現にある制度自体の合理性、妥当性を皆で議論して、今後どのようにしていくのかを、皆で決めていかなくてはなりません。
「伝統・文化」という言葉に「思考停止のゆりかご」を求めてしまうような態度は、「国家・社会」のためにはなりません。
過去の人達と同じように、今、私たちも、新しい「伝統・文化」を作る心意気を持って踏み出すべきではないでしょうか。不合理をあきらめたり、黙認するのではなく、私たちのことを、変化しないように現状に縛り付けようとする思想、を充分吟味し、日本社会をより生きやすくするために共に一歩を踏み出しましょう。
(2019年10月2日)