正木ひろし(1896?1975)という著名弁護士がいた。私が学生のころ、戦後史を飾る数々の冤罪事件に取り組んで令名高く、弁護士の代名詞のような存在だった。硬骨、一徹、信念の人、在野、反権力に徹して虚飾のない生き方…。弁護士のイメージの一典型を作った人でもあった。
もちろん、褒める人ばかりではなく、敵も多かった。三鷹事件では、竹内さんの単独犯行説をまげず、被告団や自由法曹団主流の弁護士とは衝突して孤立した。丸正事件では真犯人を名指ししこれを出版までして名誉毀損で起訴されている。1審・2審とも有罪で、上告審係属中に被告人の身のまま亡くなっている。
大学の1年生のとき(1963年)だったか2年生のとき(64年)に、私はこの高名な弁護士と会っている。秋に行われる大学祭(「駒場祭」)の企画として、この人の講演会を企画し、なぜ冤罪事件が生じるのかについて語ってもらった。たしか、市谷近辺にあった自宅にまで出向いて依頼のための面談をした記憶がある。
驚いたことに、書棚に並んでいた書籍やファイルが、逆さまに置いてある。「書棚から出して開くときに、この方が時間がかからない。毎日多数回の作業だから時間の節約になる」という説明だった。徹底した合理主義者なのだ。そして、70歳に近い身で、屈伸体操をして見せた。体の柔らかいことが自慢で、これが「真向法」という体操なのだと教えられた。残念ながら、正木がしゃべった内容はまったく記憶にない。
首なし事件や、八海事件、三鷹事件、丸正事件…。関わった事件の数々だけでなく、彼が有名だったのは、戦前戦後を通じての「近きより」という個人誌を出し続けていたことにもよる。そこでは、天皇や軍部に対する批判が徹底していた。
たまたま、色川大吉の「ある昭和史―自分史の試み」(中公文庫・2010年改版)を読んでいたら、その最終章が「昭和史の天皇」となっており、天皇に対する負の評価の典型として、正木の「近きより」からの論評が引用されていた。
戦後の天皇評価については、「忠誠と反逆」という節があり、こう書き出されている。
「一億、天皇の家畜だった!」と、敗戦直後に吐いて捨てるようにいった人がいた。「陛下よ、あなたは日本人の恩人です」と涙ながらに跪いた人がいた。
その正木ひろしと、亀井勝一郎の二人の考え方は、日本国民の心理の両端を示しているばかりでなく、今日にまで流れてやまない二つの心情を代表するものとして、検討するに値しよう。
おそらくは、いまどき亀井勝一郎に興味ある方もなかろう。色川が要約して紹介する正木の天皇制に対する批判の舌鋒の鋭さを味わっていただきたい。
天皇族は史上一貫して「寄生虫的階級」であった。蜜蜂の女王のような座を占め、つねに他人の乳や命を吸うことで生きてきた。ここに日本の天皇制の不道徳の根源がある。日本の上層階級というのは、皆その役割を分担し、「天皇に利用されかつ天皇を利用した存在」だった。とくに軍人に対しては「朕が股肱」といって愛重し、自分を守る最後的番犬たらしめてきた。この番犬なくしては天皇は直ちに徳川時代の境遇に後退しよう。
従って、番犬階級や、カラクリを司る神官や御用学者、宮廷的幇間。野犬的右傾暴力団等は天皇制護持に欠くぺからざる要素である。日本の上層部の堕落は、この不合理な天皇制そのもの本質の中に伏在する必要悪である故、一人二人の首相や皇族を暗殺しても問題の解決にはならない。根本はこのような不合理を許してきた民衆の存在にある。当時の国民の大部分は無知蒙昧で、正当なる人間の道理は理解し難くなっていたことに由る。つまり、この戦争を回避せしめんとするには民族の全般的な向上進歩が絶対的の条件なのだ。
この点に関して正木ひろしはこんな比喩も使う。「これは真に二十世紀の奇蹟であった。人類の退化の大規模な実験であった。僅か三十年間に、日本の国民は、その知性において三百年、徳性において五千年の退化の実験をなした。(中略)この国情は一朝一夕に出来上がったものではないが、少なくとも過去三十年間に徐々に形成され、ことに満州事変前後から急速化し、日支事変直前には既に黴毒ならぱ第三期的症状を呈していたのである。試みに今、過去の社会状態を、その当時の新聞紙を取り出して回想して見るがよい。高級軍人、高級官史、右傾政治家、御用文士。御用思想家、御用商人等は、毎夜の如く待合に入りびたっていた(寺内大将や近衛の遊蕩は有名である。岸信介は待合で自動車を盗まれた)。しかるに彼らが待合から出て来ると、国民に向っては国体明徴を唱え、禁欲主義、滅私奉公を力説した」と。
正木ひろし。在野・反権力に徹した弁護士である。天皇への批判も仮借ない。その意味で、まぎれもなく正義の人であった。
(2018年8月7日)
遠い神代の昔のことだ。高天原という神々の世界があった。その高天原には八百万の神々がおったが、ここも階級社会じゃった。エライ神もあり、えらくないも神もあって、いろいろでな。その神々のトップが、アマテラスという太陽の神で、この神は女性であったという。
この女神様、やや情緒不安定なところがあってな。弟のスサノオの乱暴に取り乱して、引きこもってしまわれた。その引きこもり先が天岩戸というところじゃった。アマテラスが天岩戸に引きこもると、世に陽の光が失われて真っ暗になってしまったという。神の住む高天原だけでなく、人の住む葦原中国までもだ。日照がなくなれば農業は壊滅だ。当然、みんな困った。
あわてた多くの神々が天安河原で臨時の集会を開いて善後策を協議した。アマテラスといえば高天原のリーダーだ。そのリーダーに使命感のないことが露呈したのだから、「アマテラス糺弾」「リーダー失格」の意見も出たはずだが、議事録は隠蔽され、後世には廃棄されて残っていない。伝えられているのは、堅固な天岩戸の岩盤をこじ開けて引きこもりのアマテラスを実力で外に連れ出した作戦の成功だけだ。
と言って、ドリルが用意されたのではない。この作戦のために、鏡と勾玉が作られた。賢木を根ごと掘り起こし、枝に勾玉と鏡とを懸けて真榊として飾った。岩戸の前に舞台装置ができあがると、アメノウズメが、いかがわしいダンスを披露して、座を盛り上げる。その周りで神々がヤンヤの大騒ぎ。天岩戸の中のアマテラスはいぶかしんだ。「外は真っ暗でみんな困ってると思ってたら、楽しそうにはしゃいでいるみたい。何で?」と、岩戸の扉を少しだけ開けて外を見た。
これに外から語りかける。「あなたより貴い神が現れましたので、みんな喜んでいるのです」。「えー。うっそー。そんなことありえないじゃん」「いいえ、ウソではありません。これをご覧ください」。差し出された鏡に映った自分の姿を見たアマテラス。「これが新たに現れたというライバルか。なんだ、大したものではなさそうじゃん。だけどもっとよく見せて」と、岩戸を開けて身を乗り出そうとしたところを、隠れていた力自慢のタヂカラオがその手をむんずとつかんで岩戸の外へ引きずり出した。で、世は再び、明るくなったそうな。
ところで、乱暴者のスサノオは高天原を追放されてな、出雲の国に降った。そして、その地を荒らしていた怪物八岐大蛇を退治する。前科のあるムチャクチャな乱暴者が、一躍ヒーローになった。退治した大蛇の尻尾から一振りの剣が出てきたとされておる。
天岩戸神話に出てくる鏡と勾玉、スサノオ神話に出てくる剣。この三つが、今度は天孫降臨神話に顔を出す。アマテラスは、記念にとっておいた鏡と勾玉の埃を払い、弟から取り上げた剣の錆を落として三品を揃え、「天壌無窮の神勅」とともにこれを孫のニニギの門出に贈ったのだ。これが、皇位のシンボルとされる、三種の神器の謂われだ。こうして、三種の神器は万世一系の皇位を支える「天壌無窮の神勅」とセットになり、国体イデオロギーを可視化するシンボルとなった。
周知のとおり、高天原から降臨したニニギの末裔が、初代天皇の神武。高千穂山麓から「悪者たち」を切り従えつつ東征して、大和橿原の地で皇位に就いたとされる。以来、万世一系の皇位が当代まで125代継承されていることになっている。三種の神器も常に皇位とともにあったと語り伝えられている。
何しろ、「王家」の物語である。これを記述する文書課の公務員は、王に忖度を重ねなければならない。王の権威を盛るために、やたらにカッコウをつけて難しく、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)、「八咫鏡」(やたのかがみ)、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)などと名付けた。ネーミングにさしたる意味はないが、剣は武力の、鏡は宗教的権威の、勾玉は経済力の象徴として分かり易い。この3者が王権成立の3要素だったのだろうから。
「昔話しはこれでお終い」とはならないところがチト面倒なのだ。来年(2019年)の天皇の代替わり行事に、以上の神話が大きく関わってくる。
代替わり行事として、まずは「剣璽等承継の儀」なるものが予定されている。「剣・璽」とは、神器のうちの剣と勾玉のこと。「等」とは、国璽と御璽を指す。
古来、「剣」と[璽]は常時天皇の側に置かれていたという。オバマやトランプの来日時、核のボタンの入ったトランクを持参していることが話題になった。核大国の核戦力を掌握している人物であることの象徴である。世界を威嚇しつつ、移動しているのだ。「剣」と[璽]の持参も同じ発想。こちらはもう少し年期が入って、イデオロギー誘導装置として精巧なものとなっている。
天皇の「代替わり」にあたって、この「剣」と「璽」とを、前天皇から新天皇へ移す儀式が、戦前の「登極令」における「剣璽渡御の儀」。これに「国璽」(国印)と「御璽」(天皇印)を加えて「剣璽等承継の儀」。
結局のところ、「剣」と「璽」との承継は一面神話の再確認にほかならない。これは、信仰の世界の物語り。世界は神が7日で作りたもうた。イブはアダムのあばらぼねから生まれた。当然に信仰は自由である。しかし、信仰は飽くまでも私事の世界。天皇も、純粋に私事として行うべきであって、天皇の国事行為や国家行事として行ってはならない。のみならず、三種の神器の神話が天壌無窮神勅とセットになっていることが最大の問題である。天皇制を基礎づけるすべての神話・信仰は、公権力と関わりを持ってはならない。これが、日本国憲法が定める政教分離の神髄である。
天皇は敗戦後いち早く、自ら「人間宣言」をした。自らは神ではなく、自らを神とする法や政治や制度と一切の関わりをもたないことで、その地位を保持したのだ。目本国憲法は天皇の政治的権能のすべてを剥奪し、再び神に戻さない歯止めとして政教分離の規定をおいたのだ。時代を旧に復してはならない。代替わり儀式における天皇再神格化のたくらみを許してはならない。
おとぎ話だから目くじら立てるほどでもない、なんて暢気なことを言っているうちに、天皇制が国政にも社会意識にも食い込んでくる。天皇の権威を利用した施策が当たり前になってくる。日の丸も、君が代も、元号も逆らえないようになってくる。これに徹底して抗わねばならないと思う。主権者国民が天皇制の呪縛から自らを解き放ち、自律性・主体性を自覚的に獲得するチャンスではないか。
(2018年7月22日)
ご近所の皆さま、三丁目交差点をご通行中の皆さま。お暑うございます。
こちらは地元「本郷・湯島」の「九条の会」です。憲法を守ろう、憲法の眼目である9条を守ろう。平和を守りぬき、絶対に戦争を繰り返してはいけない。アベ自民党政権の危険な暴走を食い止めなければならない。そういう志を持つ仲間が集まってつくっている小さな団体です。平和のために、少し耳をお貸しください。
それにしても、いやはや何とも暑い。敗戦の年、1945年も暑い夏だったそうです。73年前のあの年の今ころ、このあたりは焼け野原でした。3月10日未明の東京大空襲で、23万戸が全焼し、東京市民10万人が焼け死にました。首都が焼かれて一夜にして10万の死者です。こうまでされても、日本に反撃の能力のないことが明らかになりました。
それでも、日本は絶望的な闘いを続けました。4月1日には、沖縄の地上戦が始まります。6月末までの2か月間で20万人の死者が出ました。沖縄戦は、本土決戦の態勢を整えるための時間稼ぎ。7月のいまころは、まだ、一億国民が火の玉となって鬼畜米英との本土決戦を闘い抜くのだ、そんなふうに思い込まされていました。
戦争の最高指導者はヒロヒトという人でした。今の天皇アキヒトという人の父親です。信じられますか。この人は神様とされていました。日本は神の国で、この国を治めるヒロヒトは、アラヒトガミとか、アキツミカミと崇められ持ち上げられていたのです。神様のすることだから、けっして間違うはずはない。本土決戦では、最後はカミカゼが吹いて日本は勝つのだ。多くの人がそう思い込まされていました。神様のすることだから批判などトンデモナイことだったのです。日本国中がオウム真理教の洗脳状態だったのです。何とバカバカしい愚かな世の中だったことでしょうか。
このアラヒトガミは、國体の護持つまりは天皇制の維持にこだわって、日本人が何万、何十万と殺されようが、戦争をやめようとはしませんでした。「もう一度、戦果をあげてから」と言い続けて、結局は無条件降伏まで多くの同胞を見殺しにし続けたのです。
8月6日には広島に史上初めての原爆が投下されます。そして、8月9日には長崎の悲劇が続きます。天皇は、ソ連に、戦争終結のための仲介を依頼して望みを繋げますが、そのソ連が対日参戦するに至って、ようやくポツダム宣言受諾を覚悟します。
こうして、敗戦を迎えて、日本国民は深刻な反省を迫られました。再び戦争は起こさない。起こさせない。再びだまされない。だまされて戦争に駆り出されるようなことはけっして繰り返さない。この国に民主主義のなかったことが、戦争の悲劇をもたらした。天皇を神とするような愚かな社会とは訣別しなければならない。その反省が結実したものが日本国憲法でした。
ところが今、その大切な日本国憲法が危機にあります。安倍晋三という人物によってです。彼は今、9条の改憲に手を付けようとしています。70年余の以前、日本の国民は近隣諸国への敵愾心を意図的に植えつけられました。台湾・朝鮮そして中国、ソ連です。不逞鮮人とか、暴支膺懲とか、さらには鬼畜米英とまで言った。
今また、安倍政権は同じようなことをしつつあるのではないでしょうか。思い出してください。去年10月の総選挙。あのモリ・カケ・南スーダン問題の雰囲気の中では、安倍自民党は大敗するだろうと大方が思いました。しかし、そうはならなかった。明らかに、北朝鮮のお陰です。
安倍自民は、この総選挙を「国難選挙」とネーミングしました。北朝鮮が危険だ。明日にもミサイルが飛んでくる。この国難を救うために強力な政府を。国防の態勢を。こう訴えて、アベ政治は生き残りました。
昔の出来事が繰り返されようとしているのではないでしょうか。安倍政権にとっては、いつまでも危険な存在としての北朝鮮が必要なのです。半島の軍事緊張が必要なのです。北の核がなくなり、南北の宥和が実現すれば、タカ派のアベ政権は無用の長物になり下がることにならざるを得ません。
再びだまされまい。近隣諸国に対する敵意の煽りに乗せられてはならない。暑いさなかですが、米朝・南北、そして日朝・日韓の関係に目を凝らしたいと思います。
米朝首脳会談の成果にケチをつけるのではなく、朝鮮半島の全体を非核化しようと動き出したシンガポール宣言を守らせる国際世論を作っていく努力を積み重ねようではありませんか。
(2018年7月10日)
人の生命はこの上なく重い。犯罪者の生命も例外ではありえない。
だから、死刑の判決には気が滅入る。被害者や肉親の被害感情を考慮しても、国家による殺人を正当化することは文明の許すところではない。死刑執行の報道にはさらに辛い思いがする。少なくとも、死刑を言い渡した裁判官も、求刑した検察官も、執行を命じた法務大臣も、死刑執行にはその全員が立ち会うべきだと思う。それが、人の死の厳粛さに向き合う国家の誠実さであろう。
昨日(7月6日)、麻原彰晃以下7名のオウム真理教幹部の死刑が執行された。
偶然の暗合だろうか。1948年12月23日、東条英機以下のA級戦犯処刑も7名であった。この日は、当時の皇太子(明仁・現天皇)の誕生日を特に選んでのこととされている。
A級戦犯7人の遺体は、横浜の斎場で火葬され遺骨は米軍により東京湾に捨てられている。遺骨を軍国主義者の崇拝の対象としないための配慮からである。死刑の執行や遺体・遺骨の処理をめぐっても、政治的な思惑はつきまとうのだ。今回のオウムの場合の政治的な意図の有無や内容はまだよく分からない。しかし、現代においては、他の刑死者と異なる取り扱いが許されるはずはなく、遺体ないし遺骨は、しかるべき親族に引き渡されることにならざるをえない。
私的な感情においては、この事件を坂本堤弁護士一家被害の立場から見ざるを得ないのだが、全体としてのオウム事件は社会史的・文明史的な事件として多様な角度から検証が必要である。
最大の問題として、信者の教祖に対する権威主義的な盲目的信仰のありかたが問われなければならない。あまりにも旧天皇制の臣民に対する精神支配構造に似ているのだ。この点についての精緻な分析の必要を痛感する。
オウムの信者とは、はたして「凡庸な教祖」と「浅薄な教義」に惑わされた、特別に愚かな被洗脳者集団であったろうか。あるいは、特殊な洗脳技術の犠牲者というべきだろうか。そうではあるまい。70余年前まで、この国の全体が「教祖とされた凡庸な一人の人物」と「浅薄な国家神道教義」に惑わされた被洗脳臣民集団が形づくる宗教国家であったのだから。
当時、支配者が意識的に煽ったナショナリズムが信仰の域に達して、天皇を神とする天皇教が国民の精神を支配した。天皇はその教義に則って現人神を演じ、国民は支配者が作り出した浅薄きわまりない天皇を神と崇める教義を刷り込まれ、信じ込まされた。あるいは、信じたふりを強要された。
当時の平均的日本人は、「万世一系の天皇を戴く神の国日本に生まれ、天皇の慈しみを受ける臣民であることの幸せ」を受け入れていた。この国全体が、オウムと同様に「凡庸な教祖」と「浅薄な教義」に惑わされた狂信的信者に満ち満ちていたのだ。
天皇や、天皇の宗教的・道徳的権威に対する、国民の批判精神の極端なまでの脆弱さ。その権威主義的精神構造が、「天皇と臣民」の関係をかたちづくった。換言すれば、臣民根性の肥大こそが、神なる天皇と、神聖な天皇に拝跪する臣民の両者を作ったのだ。
敗戦によって、日本国民は天皇制の呪縛や迷妄から解き放されて、自立した主権者になった…はずだった。が、本当に国民は自立した精神を獲得したのだろうか。為政者や権威に対する批判的精神は育っているだろうか。時代は社会的同調圧力に屈しない人格に寛容だろうか。自他の尊厳を尊重する人権意識が共有されているだろうか。自分の精神の核にあるものにしたがって、理不尽な外的強制を拒否する精神の強靱を、一人ひとりがもっているだろうか。
明治150年論争が盛んである。その前半の旧天皇制の支配を許した精神構造を、後半の時代が克服し得ているか。これが最大のテーマのはず。残念ながら、オウムの事件は、これに否定的な答を出しているようではないか。天皇制を許した権威主義的国民精神の構造が、そのまま尊師の権威を尊崇する精神になっているように見えるからだ。
「たとえ人を殺しても、尊師の命令に従うことが正しいことだ」という精神構造は、「天皇のために勇敢に闘え。天皇の命じるところなのだから、中国人や鬼畜米英を殺せ。」という、あの時代の精神が伏流水のごとくに吹き出してきたものに見える。地下水脈は枯れてはいなかった。一億総洗脳の時代のカケラが、部分的洗脳となったに過ぎないのではないか。
オウムの事件は、国民の権力や権威に対する批判精神が、いまだ不十分であることを示している。天皇制を支えた国民の権威主義が払拭されずそのままであるとすれば、象徴天皇制が、いまなお国民を支配するための道具としてすこぶる有用ということでもある。オウムの事件を通じて教訓とすべき最大のものは、権威主義の克服ということであろうかと思う。
(2018年7月7日)
親しいYM弁護士は、飄々、悠々という言葉の似合う人。口角に泡というタイプとはおよそ正反対。ところが、嫌煙権と元号反対では決して譲らない。もっとも、その主張は常にマイルドである。
私は「天皇制を国民意識に刷り込む元号に反対」というが、彼は「元号は不便。便利な西暦を使おう」という。
その彼が、とある団体の機関誌に「西暦使用の勧め」を寄稿したところ、ボツになったという。その話しを聞いて、その原稿を当ブログに掲載したいと依頼し、快諾を得た。
昨日お話した幻の原稿です。多少修正しています。
おとなしい原稿ですが、ボツになることはある程度予想していたので、驚きはしませんでした。
先年、出身大学の在籍証明書を取ったところ、すべて西暦表示になっていました。外国人学生も増えていることですし、今や当然のことなのでしょうね。
金融機関も西暦に統一すれば楽なのに、なぜか「和暦」。
ちなみに手許にある預金通帳は、
みずほ「年月日」
三菱「年月日」
三井住友「年月日(和暦)」
ゆうちょ「年月日」とあって、
年月日欄だけでなく、通帳に「平成」の文字をを印刷している銀行はありませんでした。これなら、改元により、無駄になることもないのですね。
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「西暦使用の勧め」
東京オリンピックの開催が2年後、2020年7月に迫って来ました。その前、2020年4月1日には改正民法が施行されます。そして、2019年5月1日から新元号となります。
ご存知のとおり、元号は「元号法」により規定されており、その法律は、「元号は、政令で定める」、「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」との2項しかありません。日本国民は(あるいは、日本の中では)元号を使用しなければならない、との規定はどこにもありません。
裁判所は「元号」使用です。
しばらく前までは、分割金を「平成33年6月まで支払う」といったありえない年号を書いた和解条項が見受けられました。今でも、見られるのかもしれません。おそらく、こうした条項に違和感を覚えた人は少なくないでしょう。一義的、明確に、分かりやすく書くというのが和解条項だから、明らかに存在しないと分かっている年号をあえて書いていることに、そう感じたのでしょう。
日本を訪れる外国人も増えています。観光客だけでなく、長期間住み続けている人もいます。外国人が裁判の当事者になることも珍しくありません。
そうした外国人に対して、日本にいる以上は元号を使用せよ、元号だけで不便はないはずだ、というのは乱暴でしょう。
官公庁は、元号を積極的に使っているようですが、さすがに、わが国の旅券(パスポート)は、生年月日、発行年月日、有効期限ともに西暦表示であって、元号はどこにも見当たりません。世界で通用させるためには当然のことです。
新元号は2019年4月には決定されるようですが、今後どうしても元号を使用するというのなら、少なくとも西暦併記にしてもらいたいものです。時代を語るのなら元号は便利なものかもしれませんが、実用性を考えるのなら、西暦が便利です。変わらない、世界で通用する、日本にいる外国人にも分かる、期間計算をするのに便利、等等です。
期間計算で、元号が二つ、三つ、それ以上にまたがることも稀ではありません。年齢計算ですら面倒なものになります。結局は、始期、終期の元号年をいったん西暦年に直して計算することになるのでしょう。それなら、西暦表示を基本とすべきです。
2018年10月から毎月1回、36回の分割払い、そのような和解条項をこれから作成するとき、皆様はどのように書きますか? 「2018年10月から2021年9月まで(36回)」と書けば分かりやすいし、明快です。
ちなみに、西暦表示の場合、わざわざ「西暦2018年」と書かなくても、単に「2018年」と書けば通用します。
裁判所の和解条項、調停条項でも、今回の元号改正を機に、元号表示から西暦表示とすることを勧める次第です。西暦は世界暦です。
以 上
う?む。これがボツか。
(2018年6月6日)
「忖度」、そりゃ大切だ。周りとうまくやるためには、一に忖度、二に忖度。
処世の要諦、これ忖度。忖度なしには、世渡りできない暮らせない。
出世しようと思うなら、ね、キミ。
上司の意中を忖度できなくっちゃね。
なんてったって、ソンタクこそは日本文化の神髄だ。忖度なくして、われわれの和の文化はあり得ない。忖度があって初めて、美しい日本の社会が存在するんだ。 17か条の憲法も、教育勅語も、忖度でできている。忖度は、大和民族の文化でもあり、伝統でもあるのだ。
そう。忖度は、男尊女卑や、大勢順応、権威追随、権力への諂いなどとともに、民族の優れた精神的遺産なのだ。天皇制とともに、いつまでも大切にしなければならない。しかも、今や、企業文化の基盤となっているのだからね。
いいかね、この社会は上位の者と下位の者とが階層をなしてできている、みんながみんな人間は平等だ、なんて言いだしたらいったいどうなる。この社会の平穏な秩序が壊れてしまうじゃないか。これを防ぐのが、忖度の文化だ。下位者の上位への自発的服従という美風だ。
社会の秩序を守るために、いにしえの聖人が道を説いてきた。たとえば、五倫。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信だ。今なら、さらに富者と貧者の和、多数派と少数派の議。あるいは諸民族間の敬であろうか。
この五倫をパクって、極端な国家主義と天皇崇拝を混ぜて拵え上げたのが教育勅語だ。臣は君に、子は父に、妻は夫に、幼は長に、そして朋友は互いに、忖度せよというわけだ。臣たる者、君命の出づる前に、主君の心中を察して行動せよ、言いにくいことを言わせるな。これが忖度の意味であり精神文化たる所以。
暴力団の鉄砲玉は、組長からあいつを襲えと具体的な指示を受けるわけではない。言われる前に、立派に忖度して組長の意に沿うのだ。そして、事後には組長から指示を受けていないと、組と組長を守ることになる。これこそ忖度文化の到達点。
戦前の天皇制がそうだった。天皇はけっして自ら命令を下さない。しかし、東条をはじめとする群臣は、例外なく、天皇(裕仁)の意向を忖度して、オオミココロに沿ったのだ。そうしてこそ、天皇の意思を実現しつつも、天皇の法的政治的責任を免じる口実をつくるのだ。
「木戸幸一日記」や「原田熊雄日記」が示すように、上奏以前の内奏等の過程で、天皇はしばしば質問(下問)や沈黙の形で、自らの意思を間接に示しており、そこから内奏者等は天皇の意思をまさに「忖度」して、その意に沿って何らかの決定を行っているのである。(横田耕一・「忖度」が横行する社会)
戦後今に至るも、この伝統は受け継がれている。いま、「天皇(明仁)の意に沿うべきだ」などと恥ずかしげなく言える空気が世に満ちている。
「和をもって貴しとなす」も同じことだ。「和」とは、もちろん主体性をもった平等者間の連帯や団結のことではない。下っ端役人は上級官僚にツベコベ言うな。官僚は天皇に逆らってはならない。上からの命令や懲罰によってではなく、下僚の上級に対する自発的な服従でできあがる官僚秩序の形成を「貴い」としたのだ。これこそ、忖度の文化と伝統の草分けではないか。いま、これがわが国の企業内人間関係に生きていて、愚物の企業経営者が、社内の「和」を説いている。
文化と伝統の墨守は、保守政党のお手のもの。モリ・カケ事件でのアベ晋三は、忖度した官僚を、トカゲの尻尾よろしく切り捨てて涼しい顔だ。「私も妻も、けっして指示なんぞしていない」というわけだ。
日大アメフト部の監督も、この辺はよく心得ている。
「弊部の指導方針は、ルールに基づいた『厳しさ』を求めるものでありますが、今回、指導者による指導と選手の受け取り方に乖離が起きていたことが問題の本質」と言ってのけた。これはホンネだろうが、たいしたものだ。
この監督は、ルール違反のタックルで相手チームの主力選手にケガを負わせろ、とまでは言っていなかったのかも知れない。しかし、当の選手には監督が何を望んでいるかは、明瞭に「忖度」可能だったのだ。だから、監督の望むとおりに実行した。
監督の側は、いざというときは、「自分は指示をしていない」「選手が忖度した結果だとすれば、それは勝手にした間違った忖度だ」と逃れることを想定している。天皇も、アベも、組長も、そして体育部の監督も、忖度文化の利益を存分に享受しているのだ。
だけどね、キミ。「忖度」がいつもうまく行くとは限らない。
出世しようと上司の意中を忖度した結果が、上司に裏切られることも、往々にしてあるんだな。その場合は、泣くに泣けない悲劇となる。
「忖度」にも、相応の覚悟が必要ってことだ。佐川や、柳瀬や、迫田や、美並などの行く末をよくよく見てみようじゃないか。
(2018年5月19日)
本日(5月11日)は、沖縄の旅最終日の4日目。糸満から那覇に戻って夕刻には羽田着の予定。4日目の予定記事となる。
今日の沖縄の状況は、戦争の惨禍とアメリカの極東軍事戦略がもたらしたものだが、その結節点に天皇(裕仁)の存在がある。そして、本土がそのような沖縄を放置し、その犠牲の上に安逸をむさぼる構造がある。ちょうど、過疎地に原発のリスクを押しつけ、その便益は中央が受益している如くに、である。
信じがたいことだが、日本国憲法の適用範囲から沖縄を切り離して米軍の統治に委ねようというアイデアは、憲法施行によって一切の権能を剥奪されたはずの天皇(裕仁)の発案だった。彼の超憲法的行動としての「沖縄メッセージ」が、沖縄をアメリカに差し出したのだ。
GHQの政治顧問シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた1947年9月22日付公文が残されている。
沖縄県公文書館のインターネットによる資料紹介では、以下のとおりである。
“天皇メッセージ”
(シーボルト書翰の)内容は概ね以下の通りです。
?(1)(天皇は)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
?(2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
?(3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
メモ(シーボルト書翰)によると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。
沖縄県には遠慮があるようだが、「沖縄メッセージ」の核心は、「共産主義の脅威とそれに連動する国内勢力が事変を起こす危険に備え、アメリカが沖縄・琉球列島の軍事占領を続けることを希望する。それも、25年や50年、あるいはもっと長期にわたって祖借するという形がよいのではないか」というものである。
昭和天皇(裕仁)には、憲法施行の前後を通じて自分の地位に決定的な変更があったという自覚が足りなかったようだ。1948年3月には、芦田首相に「共産党に対しては何とか手を打つことが必要と思うが」と述べてもいる。
「沖縄メッセージ」の負い目からであろう。昭和天皇(裕仁)は、戦後各地を訪問したが沖縄だけには足を運ばなかった。運べなかったというべきだろう。
「沖縄についての天皇の短歌」「天皇に対する沖縄の短歌」について、内野光子さんから、いくつかを教えてもらった。
「思はざる病となりぬ沖縄をたずねて果たさんつとめありしを」
これは、死期に近い1987年の天皇(裕仁)の歌。気にはしていたのだ。やましいとは思っていたのだろう。しかし、彼がいう「沖縄をたずねて果たさんつとめ」とは何なのだろうか。謝罪を考えていたとすれば、立派なものだが原爆投下による惨禍についても「やむを得ないことと」と言ってのけた彼のこと。沖縄の民衆に手を振ることしか脳裏になかったのではなかろうか。
父に代わって、現天皇(明仁)は妻を伴って、皇太子時代に5回、天皇となってから6回、計11回の沖縄訪問をして、その都度歌を詠み、琉歌までものしている。多くは沖縄戦の鎮魂の歌であり、それ以外は沖縄の自然や固有の風物・文化にかかわるもの。主題は限定され、現在も続く実質的な異民族支配や基地にあえぐ現実の沖縄が詠まれることはない。
一方、天皇に対する在沖の歌人たちは、次のような厳しい歌を詠んでいる。
日本人(きみ)たちの祈りは要らない君たちは沖縄(ここ)へは来るな日本(そこ)で祈りなさい(中里幸伸)
戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ(神里義弘)
おのが視野のアジア昏れゆき南海に没せし父よ撃て天皇を(新城貞夫)
根底に、沖縄の人びとのこの激しい憤りと悲しみがあってのこと。かつては天皇の国に支配され、天皇への忠誠故に鉄の嵐の悲惨に遭遇し、そして天皇によって米国に売り渡され、事実上異民族支配が今も続く沖縄。
傍観者としてではなく、沖縄の人びとのこの怒りを真摯に受け止めねばならないと思う。
(2018年5月11日)
2018年5月1日。第89回メーデーである。「働く者の団結万歳!? 世界の労働者万歳!」。今年は、「安倍9条改憲反対 戦争法廃止! 市民と野党の共闘で安倍政権退陣を」「過労死合法化、雇用破壊の安倍『働き方改革』反対」「8時間働いて普通に暮らせる賃金・働くルールの確立」「なくせ貧困と格差 大幅賃上げ・底上げで景気回復、地域活性化」「めざせ最賃1500円、全国一律最賃制の実現」などを統一スローガンに、天候に恵まれた全国各地で諸行事が行われた。
ところで元号で表記すれば、第89回メーデーの今日の良き日は、平成30年5月1日である。では、来年第90回メーデーの日を元号で表そうとすると、…できない。平成は31年4月30日で終わる。その次の日、2019年5月1日は平成ではないことは確実で、しかも新元号は未定なのだ。2019年5月1日以後の平成表記はできない。元号とは、なんと不完全で不便・不合理な年代表記方法だろうか。原理的に現天皇在位終了後の将来を表記できないのだ。
本日5月1日は休日ではない。裁判所は開いている。全国の裁判所で多数の民事事件の和解が成立していることだろう。将来の給付を約束する和解条項についての合意の調書も作成されているはずだ。たとえば、次のような和解条項。
「被告は原告に対して金1000万を100回に分割して、2019年5月から2028年8月まで、毎月末日限り各10万円を原告指定の銀行口座に送金して支払う。」
この条項が元号では書けない。裁判所の文書は元号表記だが、これを無理に「平成」に換算して書くとすればあまりにバカげている。いや、平成31年5月も、平成40年8月も存在しないのだから、平成での表記をすべきではない。和解調書だけではない。判決書の中にも将来の年月日の特定は必要だ。これも、西暦で表示するしかないだろう。
昭和の最末期、天皇の下血報道が始まって昭和が間もなく終焉を迎えることは誰の目にも明らかだったその頃。裁判所は平然と「昭和70年」、「昭和80年」と表記した。不自然ではあっても、昭和存続の可能性が絶対にないとは言えない。だから、「表記が間違いとは言えない」。「元号が変われば、事後に換算すればよい」。それが、裁判所の姿勢だった。
今度はそうはいかない。「平成31年5月以後」は存在しないことが確定しているからだ。各裁判官が独立して判断することにはなろうが、西暦表示を使うしかあるまい。
私は、裁判所に提出する書類は、訴状・準備書面をはじめ、すべて西暦表示で統一している。だから、元号変更の際の煩わしさとは一切関わりがない。これまでは、判決文を西暦表示で書いてもらえなかったが、この際、判決文も西暦表示でお願いしたいものと思っている。そして、日本の社会から、不便・不合理極まりない元号を一掃すべきではないか。
元号の使用や、西暦との併用の不便・不合理は既に明らかである。元号は平成を最後になくすべきが、事務の効率化と国際化を重視する時代の要請である。にもかかわらず、時代の区分を一人の自然人の死という偶然性によって画する不合理を承知で、元号を維持しようというのか。天皇制の存続にこだわるからである。なぜ天皇制の存続にこだわるのか。統治の道具として、現在なおそれが有用で有効だからだ。どのように統治に有効か。日本国民の主権者意識の鈍麻のために、である。換言すれば、国民の自立した主権者意識ではなく、臣民根性の涵養に有益なのだ。
日本国憲法の第1章は「天皇」であって、「(主権者としての)国民」となっていない。1条から8条までが、大日本帝国憲法の残滓たる天皇条項なのだ。市民革命を経ての憲法でないことの限界と指摘されるとおりである。以来、70年余。日本国民は良くこの憲法を「守って」はきたが、十分な主権者意識を育てあげたとはいいがたい。
天皇制と一体となっている諸制度をなくすること。とりあえずは元号を捨て去ること、叙勲の制度をなくすこと、「日の丸・君が代」の強制を一掃すること、などが憲法に手を触れることなく主権者意識を確立するための制度改革となるだろう。
(2018年5月1日)
4月29日。かつての天皇誕生日で、その前は天長節だった。戦争責任を免れた昭和天皇裕仁が誕生したこの日を選んで、「春の叙勲」受賞者が発表されている。その数4151人。かたじけなく、うやうやしく、天皇から格付けられたクンショウをもらってありがたがっているのだ。
この4151人に、芥川龍之介の言葉を贈ろう。
「軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなったものではない。勲章も―わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
勲章をもらうのは軍人だけでない。なぜ良い齢をした大人が酒にも酔わずに、勲章をもらったことを人に知られて、それでも恥ずかしげなく往来を歩けるのであろうか。
たまたま、本日の東京新聞9面「読書」に、「沖縄 憲法なき戦後」(古関彰一・豊下楢彦共著)の書評が出ている。表題が、「米軍にささげた『捨て石』」というもの。沖縄を「捨て石」として米軍に捧げた人物、それがほかならぬ天皇裕仁である。
この書評が指摘するとおり、「沖縄に基地が集中したのは地政学上の理由ではなく、そこが『無憲法状態』にあったからだ」「沖縄の運命を決める政策決定の〈現場〉に、当の沖縄は不在だった。」「アメリカにフリーハンドを与えることを提案した昭和天皇の『沖縄メッセージ』の役割は大きい」(評者・田仲康博)。まことにそのとおりだ。今日は、この指摘を噛みしめるべき日だろう。
昭和天皇(裕仁)は、自由なき国家の主権者の地位にあったことだけで、責任を問われねばならない立場にある。のみならず、国の内外にこの上ない戦争の惨禍をもたらしたことについての最大の責任者でもある。さらに、敗戦後には何の権限もないはずの身で、沖縄を米国にささげたのだ。なんのために…。保身以外には考えられない。
そんな人物ゆかりの日に、クンショウもらってニコニコなどしておられまいに。
いま、天皇や天皇制を批判する言論に萎縮の空気を感じざるを得ない。アベやその取り巻きにおもねる言論が大手を振って、権力や権威の批判が十分であろうか。「国境なき記者団」が今月25日に発表した「報道の自由度ランキング・18年度版」では日本は67位とされている。昨年の72位よりも5ランク上げた理由は理解し難いが、43位の韓国や45位の米国の後塵を拝しているのは納得せざるを得ない。
言うべきことは言わねばならない。空気を読んで口を閉ざせば、空気はいっそう重くなるばかり。萎縮せず、遠慮せず、躊躇せず、黙らないことが大切だ。「私は黙らない」と宣言し続けねばならない。
昨日の新宿「アルタ」前での若者たちの『私は黙らない』行動。セクハラ批判に声を上げた彼らの行動を頼もしいと思う。持ち寄られたカラフルなプラカードには、「With You」「どんな仕事でもセクハラは加害」「私は黙らない」などの文字。
ここでも「勇気を出して声をあげる」ことが大切なのだ。一人の声が、他の人の声を呼ぶ。多くの人が声を合わせれば、社会の不合理を変える。「萎縮して黙る」ことは、事態をより悪くすることにしかならない。
集会は「いつか生まれる私たちの娘や息子たちが生きる社会のため、ここから絶対に変えていきましょう」との言葉で締めくくられたそうだ。
安倍や麻生が権力を握るこの時代。ときに絶望を感じざるを得ないが、社会の不当に黙ることなく声を上げる人々がいる限り確かな希望は消えない。天皇や天皇制や叙勲についての不合理の指摘や批判の言論についても、黙してはならない。
(2018年4月29日)
本日(4月19日)の朝刊で、武田清子さんが4月12日に亡くなられていたことを知った。思想史学者で国際基督教大名誉教授。1917年のお生まれは、丸山真男(1914年生)や鶴見俊輔(1922年生)らと同世代で、享年がちょうど100となる。
靖国訴訟に携わった際に、「天皇観の相剋ー1945年前後ー」に目を通した。
その際には、アメリカ占領軍の対日占領政策における天皇制廃止論と天皇制存続論との「相克」としてだけ理解した。戦後民主化の障害物として廃止の対象とする天皇観と、効率的に支配と民主化に利用できるものみる天皇観との相克。
連合国の天皇や天皇制への批判は厳しかった。たとえば、同書の中に、終戦直前のワシントンポスト(1945年6月29日付)が報じるギャラップ世論調査の紹介がある。天皇(裕仁)の取り扱いに関するアメリカの世論は、以下のとおりである。
処刑 33%
終身刑 11%
追放 9%
裁判で決定 17%
日本を動かすパペットに利用せよ 3%
軍閥の道具だから何もしない 4%
雑・回答なし 23%
天皇個人を処罰し天皇制を廃止すべし、というのが圧倒的な戦勝国の世論だった。「日本の天皇制が根こそぎに除去されるまで、日本人を文明人の仲間とすることは不可能である」(『シカゴ・ニュース』)、「あの、中世的ミカド・システム(天皇制)が、温存されている限り、太平洋にはけっして平和はあり得ない」(『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』)、「裕仁は、日本の軍事的冒険に直接的に責任がある」(雑誌『ネーション』)などの米国内の論調が紹介されてもいる。オーストラリアの世論は、さらに天皇や天皇制に厳しいものだったという。
しかし、天皇(裕仁)は「処刑」・「終身刑」・「追放」にはならず、「裁判で決定」にすらならなかった。この範疇の世論合計が70%にも達していたにもかかわらずである。彼は、戦犯としての起訴を免れ、3%の支持しかなかった「日本を動かすパペットに利用」という政策が採られることになった。
これは、奇妙ではないか。圧倒的な世論を背景とした峻厳なラティモアらの天皇制廃止派と、占領政策の効率的な運用という観点からのグルーら妥協的天皇制温存派の「相克」において、どうして前者が敗れて後者の採用となったか。当時の私はその関心だけで読んだ。しかし、これは皮相な読み方だったようだ。
この書の広告文に、「廃止か保持か―日本降伏をめぐる英・米・オーストラリア・中国など連合国側のさまざまな天皇観の対立・相剋をはじめて実証的に明らかにし、戦後改革を伝統社会の変容のドラマとして解明した画期的研究。諸外国の「鏡」に映し出された天皇制のイメージは、同時に日本人のいかなる思考や集団行動様式を反映しているのか。」とある。相克は、「諸外国の『鏡』に映し出された日本自身の天皇制の二重のイメージ」だということがこの書の眼目のようなのだ。
著者自身が、朝日.comのインタビューで、次のように分かり易く、明快に語っている。
「1945年前後の連合国では、天皇観が対立していました。アメリカの中国専門家オーエン・ラティモアは『アジアにおける解決』で、天皇制を廃止しなければ日本の民主化はできないと主張しました。オーストラリアも天皇制廃止論の強い国の一つでした。一方で、アメリカの駐日大使だったジョセフ・グルーは、天皇は秩序維持に不可欠な『女王蜂』であり、右翼や軍国主義者を排除すれば天皇がいても日本は民主化できる、と楽観的でした。
この相剋の帰結は、天皇の人間宣言や象徴天皇制となりますが、実は外国という鏡に映った日本の中の相剋だったというのが私の見方です。そもそも明治維新のシンボルとしての天皇観に対立があった。吉田松陰は『天下は一人の天下』と絶対主義的な天皇観であり、山県太華は『天下は天下の天下』と制限君主的な天皇観でした。
明治憲法の起草者である伊藤博文の思想も二重構造でした。『万世一系ノ天皇』は『神聖ニシテ侵スヘカラス』だから、天皇は憲法も超える存在だと民衆には説く。他方で、政治家や民権論者に対しては、憲法は君主権を制限するものだという解釈を示す。これはその後、超国家主義である国体明徴運動と、民本主義の大正デモクラシーや天皇機関説とに分解していきます。
二重構造の天皇観が、敗戦で連合国という異質の文化と出会い、民主化というドラマが始まりました。その時、連合国と共演した日本人は誰なのか。私は、天皇の側近だったようなオールドリベラリストではなく、大正デモクラシーや天皇機関説でインパクトを与えられ、民主化への希望を懐に持っていた一般民衆だったと思いました。そういう人たちが新憲法を支持した。(以下略)」
なるほど、相克しているのはもともとわが国に古くからあった「二重構造の天皇観」なのだ。これをキーワードに読み直すと、いろんなことが見えてくる。
著者は、近代日本の形成過程の中に、天皇に関する二つのイメージ、二つの相対立する天皇観が存在し、その両要素がパラドキシカルな緊張関係を保ちながら機能していた、と分析する。
単純化していえば、「神話的・絶対主義的・大権主義的天皇観」と、「憲法の制限のもとに君主権を行使するところの『民主主義』的天皇観」との、二つの天皇のイメージが、近代日本を貫いて二重構造・二元制をなして機能してきた。これが近代日本の内包する天皇観の相克で、こうした相矛盾する天皇観が外国の鏡に自らを投影し、それが無条件降伏後の日本の占領政策にはね返ってきた、というのだ。
具体的には、「神話的・絶対主義的・大権主義的天皇観」からは天皇制廃止の方針しか出てこない。しかし、「憲法の制限のもとに君主権を行使するところの『民主主義』的天皇観」からは天皇制を温存しつつ、平穏な民主化という選択肢が現実的なものと映ることになる。日本の占領政策は後者をメインに折れ合って、天皇の権威を利用して成功裡に平穏な民主化を実現したことになる。
この分析は、天皇・天皇制の考察を中心に、戦前と戦後の連続性と断絶性の契機を考える基本視点を提供するものでもある。天皇制の相克の折り合いは、戦前と戦後の断絶性と連続性との折り合いでもある。天皇制を温存した戦後は、戦前的な多くのものを引きずって今日に至っている。天皇制温存の「民主化」は平穏な過程というメリットとともに、自ずから不徹底な限界を内在する宿命にもあったのだ。
わが国戦後の天皇制存続下の民主化は、昨今における北朝鮮の金体制温存下での民主化の課題を彷彿とさせる。微温的に天皇制を温存しつつこれを「無力化」した日本の戦後民主主義改革の如くに、金体制の存続を保証しつつ、民主化や国際協調が可能なのだろうか。
(2018年4月19日)