一昨日(9月9日)、昭和天皇実録とジャーナリズムの関係について当ブログで取りあげた。中央各紙の社説を紹介したが、その後気になって、いくつかの地方紙の社説にも目を通した。さすがに、中央各紙よりは地方紙の社説の水準が高く、姿勢もよい。
中でも琉球新報9月10日付社説が出色である。これに比べてのことだが、沖縄タイムスの10日付社説「[昭和天皇実録]戦後史の理不尽を正せ」はやや歯切れが悪く影が薄い。
琉球新報社説のタイトルは、「昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ」というもの。二つの責任とは、「戦争責任」と「戦後責任」のこと。沖縄県民の立場からの視点を明確にして、天皇の戦時中の戦争遂行についての責任と、戦後の戦争処理についての責任を、ともに明確にせよという迫力十分な内容。
同社説は、「昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている」という。内2回が「戦争責任」、1回が「戦後責任」に当たる。
「最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が『国体護持』の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は『今一度戦果を挙げなければ実現は困難』との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の『捨て石』にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。」
戦況を把握している者にとって、1945年2月には日本の敗戦は必至であった。国民の犠牲を少なくするには早期に戦争を終結すべきが明らかであった。しかし、天皇は『今一度戦果を挙げなければ実現は困難』と言い続けたのだ。この天皇の姿勢は、同年8月12日午後の皇族会議での発言(「国体護持ができなければ戦争を継続するのか」と聞かれ、天皇は「勿論だ」と答えている)まで一貫して確認されている。
この間に、東京大空襲があり、沖縄戦地上戦があり、各地の空襲が続き、広島・長崎の惨劇があり、そしてソ連参戦による悲劇が続いた。外地でも、多くの兵と非戦闘員が亡くなり、生き残ったものも塗炭の辛酸を味わった。天皇一人の責任ではないにせよ、天皇の責任は限りなく大きい。
「二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された『和平交渉の要綱』は、日本の領土について『沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする』として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から『捨てる』選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。」
国民を赤子として慈しむ、天皇のイメージ作りの演出が行われたが、実は、国体護持のためには「臣民」を「捨てる」ことにためらいはなかったのだ。沖縄県には、天皇の責任を徹底して追求する資格がある。
そして、最後が沖縄の現状に今も影響をもたらしている戦後責任。「天皇メッセージ」としてよく知られた事件だ。
「三つ目が沖縄の軍事占領を希望した『天皇メッセージ』だ。天皇は47年9月、米側にメッセージを送り『25年から50年、あるいはそれ以上』沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。『天皇メッセージ』から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して『軍事植民地』状態が続く。『象徴天皇』でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。」
社説は次のように結ばれている。
「私たちが知りたいのは少なくとも三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし、沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して『贖罪意識』を印象付けようとしているように映る。沖縄に関する限り、昭和天皇には『戦争責任』と『戦後責任』がある。この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えられない。」
この社説が求めていることは、歴史の要所において、沖縄県民の命を奪い、あるいは不幸をもたらした国家の政策に、昭和天皇(裕仁)個人がどのように関わっていたかを明確にすることだ。未曾有の大戦争に天皇はどう関わり、戦後はどう振る舞ったのか。無数の人々の不幸に、どのような責任をもつべきなのかを明確にせよ、との要求なのだ。
私は、感動をもってこの社説を読んだ。ジャーナリズムは、この国の中央では瀕死の状態にあるものの、沖縄で健全な姿を示している。
(2014年9月11日)
昭和天皇(裕仁)の公式伝記となる「昭和天皇実録」が宮内庁から公表された。
よく知られているとおり、中国では王朝の交替があると後継王朝が前王朝の正史を編纂した。その多くは司馬遷の史記に倣って皇帝や王の事蹟を「本紀」として中心に置く紀伝体での叙述だった。正史とは別に、各皇帝の死後にその皇帝の伝記として「実録」がつくられた。古代の日本もこれを模倣し、「帝紀」や「実録」が編まれた。いまだに、こんなことが踏襲されていることに驚く。
明治天皇(睦仁)の没後には、「明治天皇紀」がつくられ、「大正天皇実録」が続いた。「明治天皇紀」は、1933年に完成しているが、もともと公開の予定はなかった。政府の明治百年記念事業の一環として刊行されることになり、1968年から1977年にかけて刊行されたという。この間実に35年余を経過している。大正天皇実録の刊行はいまだになく、情報公開請求によって世に出たが、不都合な部分が墨塗りされたまま。この社会は、いまだに菊タブーに覆われ、情報主権の確立がないのだ。
さて、「昭和天皇実録」。61巻・12000頁に及ぶものとのこと。オリジナルは僅かに10セット。いずれも、天皇や皇族に届けられ(「奉呈」され)ているという。来春から5年かかっての公刊完成まで一般人はその内容に接し得ない。われわれは、事前に公開を受けたメディアが報道した範囲でしか、実録の内容や姿勢を判断し得ない。
今朝の主要各紙(朝日・毎日・東京・日経・読売・産経)が、「実録」に目を通したうえでの社説を書いている。
最初に各社説のタイトルを挙げておこう。
朝日「昭和天皇実録―歴史と向き合う素材に」
毎日「昭和天皇実録 国民に開く近現代史に」
東京「昭和天皇実録 未来を考える歴史書に」
日経「「実録」公開を機に昭和史研究の進展を」
読売「昭和天皇実録 史実解明へ一層の情報公開を」
産経「昭和天皇実録 「激動の時代」に学びたい」
このタイトルに目を通しただけで、当たり障りのない及び腰が推察できる。
昭和天皇の伝記となれば、どんな姿勢で読まねばならないか。自ずから、その視点は日本国憲法の理念に視座を据えねばならないことになる。「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」した立場から省みて、なにゆえに戦争が起きたのか、なにゆえ防止できなかったのか、なにゆえもっと早く戦争を終わらせることができなかったのか。
開戦と終戦遅延と、そして戦争と戦争準備に伴う諸々の悲惨や人権侵害に関して、誰が、どのように責任を負うべきか。その深刻な課題に真摯に向きあって、戦争の惨禍を繰り返さぬために、どのような教訓を引き出すべきか。その視点がなければならない。でなければ、30名もの職員を24年間もはり付けての作業と国費投入の意味はない。
当然のことながら、戦争責任は天皇一人にあるわけではない。システムとしての天皇と、天皇個人とを分けて考えるべきとの見解もあり得よう。しかし、すべての情報の結節点に位置していた天皇に、政治的・道義的・法的な戦争責任がないはずはない。「君側の奸」としての軍部を悪玉にして、天皇を免罪しようというストーリーが最も警戒すべき駄論。これに与するものでないかを慎重に見極めねばならない。
以上の視点が、各紙の社説にまったく見えないわけではない。
朝日は、「昭和の時代が教えるのは、選挙で選ばれていない世襲の元首を神格化し、統治に組み込んだ戦前のしくみの誤りだ。その反省から形成された現代の社会を生きる私たちは、絶えずその歴史に向き合い、議論を深めていく必要がある。」と述べている。「さすが朝日」と言ってよい。日本のジャーナリズムにとっての救いの一言だ。
毎日はやや微妙。「立憲君主制の自制的ルールに立ちつつ、軍部の専横を警戒し、平和を求めて確執もあったという、これまでの昭和天皇像を改めて示したといえるだろう。」という一節がある。これが、実録の立場についての言及なのか、毎日も賛意を表しているのか分かりにくい。意識的にぼかしているということかも知れない。
分量的にはもっとも長い毎日社説の中には、「なぜ私たちが昭和史を絶えず振り返り、そこから学び取ろうとするのだろうか。今の時代が抱える大きな課題の根っこが、昭和にあるからだ。政治、外交、経済のみならず、生活様式や価値観まで多岐にわたる。そして、続けなければならないのは『なぜ、あの破滅的な戦争は回避できなかったのか』という問いかけである。この実録の中でも、開戦前後の事態の推移がとりわけ注目されたポイントの一つだった。しかし解明にはまだ遠い。」「あの戦争で、坂道を転じるように、雪だるま式に危機を膨らませ破綻したプロセスは、決して単線的ではなく、その解明は容易ではない。しかし、それは今極めて重要な教訓になるものである。」と述べている箇所もある。
天皇の責任まで踏み込んでいないことに不満は残るが、問題意識は了解できる。
以上の2紙以外に、頷ける問題意識を見せているものはない。
日経が、「昭和は日本史上まれな激動の時代であり、昭和天皇は第一の証言者である。昭和の研究は皇室をタブー視する意識を超えて進んでいるが、実録には一層の進展を促すヒントが数多くあるだろう。と同時に、実録は完全な言行録ではないことを知り宮内庁の編さんの意図を読み取る必要もある。」と、思わせぶりな記述をしている程度。
読売は、「実録は、国の歴史を後世に伝える上で、極めて重要な資料である。昭和から平成となって、既に四半世紀が過ぎた。軍国主義の時代から終戦、戦後の復興、高度経済成長へ――。実録は、激動の昭和を振り返る縁(よすが)ともなろう。」というのみ。「軍国主義の時代」に言及しながら、大元帥として陸海軍を統帥し軍国主義の頂点に位置していたいた天皇との関連に関心を寄せているところはない。
産経が言いそうなことは読まなくても分かる。
「実録の全体を通して改めて浮き彫りになったのは、平和を希求し国民と苦楽を共にした昭和天皇の姿である。」「注目された終戦の「ご聖断」までの経緯では、ソ連軍が満州侵攻を開始したとの報告を受けた直後に木戸幸一内大臣を呼び、鈴木貫太郎首相と話すよう指示を出したことも書かれている。」「昭和21年から29年にかけ、戦禍で傷ついた国民を励ます全国巡幸は約3万3千キロに及んだ。天皇は一人一人に生活状況を聞くなど実情に気を配った様子も分かる。」と、徹底した天皇善玉論。
意外なのは、東京新聞。
「大きな戦争の時代を生きた昭和天皇であったために、さまざまな場面での発言が重みを持って伝わる。1937年の日中戦争直前、宇垣一成陸軍大将に『厳に憲法を遵守し、侵略的行動との誤解を生じないようにして東洋平和に努力するように』と語った?。」「41年に対米戦争に踏み切ったときは『今回の開戦は全く忍び得ず』と詔書に盛り込むように希望した?。45年8月の御前会議では『戦争を継続すれば国家の将来もなくなる』と終戦の聖断を下した?。戦争に苦悶する昭和天皇の姿が浮かび上がる。」
原発問題で見せている徹底した批判精神はどこに行ったのか。現政権への批判の健筆の冴えはなにゆえここには見えないのか。不可解というしかない。
ジャーナリズムは、体制・政権・強者への批判を真骨頂とする。自主規制によってタブーの形成に加担してはならない。
各メディアのジャーナリスト魂は、菊タブーへの挑戦の姿勢によってはかられる。今回の「実録」の取り上げ方は、その面から各社の姿勢をよく表していると思う。
(2014年9月9日)
本日は、昭和の日。昭和天皇と諡された裕仁の誕生日。かつての天長節である。
祝日法では、「昭和の日」の趣旨を「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」としている。「激動の日々」とは、天皇制ファシズムと戦争の嵐の時代のこと。「復興を遂げた昭和の時代を顧み」とは、敗戦を機として社会と国家の原理が大転換したことを指し、「国の将来に思いをいたす」とは再びの戦前を繰り返してはならないと決意をすること。
いうまでもなく昭和という時代は1945年8月敗戦の前と後に2分される。戦前は富国強兵を国是とし侵略戦争と植民地支配の軍国主義の時代であった。戦後は一転して、「再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることの決意」から再出発した平和憲法に支えられた時代。戦前が天皇のために滅私奉公を強いられた時代であり、戦後が国民個人の自由や人権を尊重すべき原則の時代といってもよい。
国や社会の将来に思いをいたすためには、過去に目を閉ざしてはならない。昭和の日とは、なにゆえに戦争が生じたのか、誰にどのような戦争責任があるのか、を主権者としてじっくりと考えるべき日。とりわけ、この日には昭和天皇の戦争責任について思いをいたさなければならない。同時に、「戦後レジームからの脱却」などと叫ぶ政権の歴史認識検証の日でもある。
かつて、祝日には学校で、「祝日大祭日唱歌」なるものを歌った。1893(明治26)年8月12日文部省告示によって「小学校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞並楽譜」として『祝日大祭日歌詞並楽譜』8編が撰定された。その「第七」が「天長節」という唱歌。歌詞を見るだに、気恥ずかしくなる。
今日の吉き日は 大君の。
うまれたまひし 吉き日なり。
今日の吉き日は みひかりの。
さし出でたまひし 吉き日なり。
ひかり遍き 君が代を。
いはへ諸人 もろともに。
めぐみ遍き 君が代を。
いはへ諸人 もろともに。
なお、全編を挙げれば、以下のとおり。
第一 君が代
第二 勅語奉答
第三 一月一日
第四 元始祭
第五 紀元節
第六 神嘗祭
第七 天長節
第八 新嘗祭
あまり知られていない、「第二 勅語奉答」の歌詞も挙げておこう。こんなものを子どもたちに歌わせていたのだ。こちらは、気恥ずかしさを通り越して、腹が立つ。なお、作詞者は旧幕臣の勝海舟だという。
あやに畏き 天皇(すめらぎ)の。
あやに尊き 天皇の。
あやに尊く 畏くも。
下し賜へり 大勅語(おほみこと)。
是ぞめでたき 日の本の。
国の教(をしへ)の 基(もとゐ)なる。
是ぞめでたき 日の本の。
人の教の 鑑(かがみ)なる。
あやに畏き 天皇の。
勅語(みこと)のままに 勤(いそし)みて。
あやに尊き 天皇の。
大御心(おほみこころ)に 答へまつらむ。
なお、現天皇明仁が誕生したとき(1933年12月23日)には「皇太子さまお生まれになった」(作詞北原白秋・作曲中山晋平)という奉祝歌がつくられ唱われた。
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
天皇陛下喜び みんなみんなかしは手
うれしいな母さん 皇太子さまお生まれなつた
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
皇后陛下お大事に みんなみんな涙で
ありがとお日さま 皇太子さまお生まれなつた
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
日本中が大喜び みんなみんな子供が
うれしいなありがと 皇太子さまお生まれなつた
天皇(皇太子)誕生への祝意強制の社会的同調圧力には、背筋が冷たくなるものを感じる。天皇を中心とした「君が代」の時代は、戦争と植民地支配の時代であり、自由のない時代であった。今日、昭和の日は、「君が代」の時代を決して繰り返してはならない、その決意を刻むべき日である。
(2014年4月29日)
本日は、「建国記念の日」である。国家主義復活を目指す保守勢力と、これに抵抗する勢力のせめぎ合いを象徴する日。憲法の理念のとおりの個人の尊重を重んじる勢力とこれを圧しようとする勢力のせめぎ合いを象徴する日であると言い換えてもよい。
国民の祝日に関する法律によれば、「建国をしのび、国を愛する心を養う」と趣旨が規定されている。「建国」の国とはなんぞや。「国を愛する」の国とはなんぞや。「愛する」とは、なにゆえに、そしていかに。疑問は尽きない。
ところで、祝日法には、「建国記念の日」は「政令で定める日」とのみ規定され、2月11日と特定されているわけではない。したがって、政令次第で、8月15日にも、5月3日にも変更が可能なのだ。
言うまでなく、2月11日は日本書紀の神武天皇即位の日を換算したとされる日。その根拠は何度聞いても分からない。もともとが荒唐無稽な神話の世界のこと。しかも天皇制政府が自ら作りあげた天皇制美化のストーリーの一挿話。それをむりやり、明治政府が「紀元節」とした。1872(明治5)年のこと。この日を、いにしえの天皇制国家誕生の日とすることによって、明治政権の正当性を国民意識に植えつけようとの意図によるもの。だから、臣民こぞって盛大に祝うべきことが強制された。
紀元節は、三大節あるいは四大節のひとつとして、国家主義と天皇礼賛の小道具の一つとされた。戦後は、当然に日本国憲法の精神にふさわしからぬものとして姿を消したが、1967年に「建国記念の日」としてよみがえった。
今年の「建国記念の日」は、国家主義復活をめぐるせめぎ合いに、新たな1ページを書き加えた。歴代首相として初めて、安倍晋三がこの日にちなんだメッセージを発表したことによって。
全文は結構長い。抜粋する。
「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨により、法律によって設けられた国民の祝日です。この祝日は、国民一人一人が、わが国の今日の繁栄の礎を営々と築き上げたいにしえからの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を誓う、誠に意義深い日であると考え、私から国民の皆様に向けてメッセージをお届けすることといたしました。
10年先、100年先の未来を拓(ひら)く改革と、未来を担う人材の育成を進め、同時に、国際的な諸課題に対して積極的な役割を果たし、世界の平和と安定を実現していく「誇りある日本」としていくことが、先人からわれわれに託された使命であろうと考えます。
「建国記念の日」を迎えるに当たり、私は、改めて、私たちの愛する国、日本を、より美しい、誇りある国にしていく責任を痛感し、決意を新たにしています。
国民の皆様におかれても、「建国記念の日」が、わが国のこれまでの歩みを振り返りつつ先人の努力に感謝し、自信と誇りを持てる未来に向けて日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望いたします。
この首相メッセージは、「誇りある日本」「私たちの愛する国」「美しい国」「自信と誇り」「先人の努力に感謝」「日本の繁栄」と、歴史修正主義者たちの常套用語で満ちている。
自民党改憲草案の前文が、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」と言っていることと軌を一にしている。
さらに、本日の産経「主張」は、これに輪をかけたもの。
「そもそも「建国記念の日」は明治5年、日本書紀が記す初代神武天皇の即位の日に基づいて政府が定めた「紀元節」に始まる。
紀元節の制定は、国の起源や一系の天皇を中心に継承されてきた悠久の歴史に思いを馳せるとともに、日本のすばらしさを再認識することで、国民が一丸となって危機に対処する意味があった。
それから約140年を経た現在の日本にも、対処を誤ってはならない脅威が迫っている。わが国の領土・領海が中国や韓国などに侵され、日本民族が誇りとする歴史も歪曲されて世界に喧伝されている。反日攻勢も絶え間ない。
脅威に対して日本国民は、紀元節制定時の精神にならって一丸となり、愛国の心情を奮い立たせるべきなのだが、現実はとてもそのような状況とはいえない。
日本や日本人をどこまでもおとしめ、国民を日本嫌いに仕向けるがごとき言動を繰り返す政治家やメディアが少なくない。学校教育でも戦後は、神話に基づく建国の歴史が排除され、若い世代の祖国愛の芽が摘まれてきた。
「建国をしのび、国を愛する心を養う」との祝日の趣旨は明らかに空洞化しており、これを打開するには、国が率先して祝うことが何より必要だ。」
安倍政権下に、田母神が61万票を獲得する時代。右翼メディアはこれだけ、活気づいている。
「建国記念の日」とは、国家主義との対峙に決意を新たにすべき日。そうしなければならないと思う。
(2014年2月11日)
本日は「九・一八」。中国では「国恥の日」とされる。1931年9月18日深夜、審陽(当時「奉天」)近郊の柳条湖村で南満州鉄道爆破事件が起き、続いて日本軍が動いた。これが「満州事変」のきっかけとなり、15年戦争のきっかけともなった。
何年か前、事件の現場を訪れた。事件を記念する歴史博物館の構造が、日めくりカレンダーをかたどったもの。そのカレンダーの日付が「九・一八」となっており、「勿忘国恥」と書き添えられていた。侵略された側が「国恥」という。侵略した側は、この日をさらに深刻な「恥ずべき日」として記憶しなければならない。
柳条湖事件は関東軍自作自演の周到な謀略であった。関東軍は、鉄道爆破の直後に「張学良を中心とした中国側の攻撃が行われた」として本格的な戦闘を開始し、直ちに奉天の兵営を攻略した。そして、この日の鉄道爆破が関東軍の謀略であることは、日本の国民には終戦まで知らされなかった。いわば、最高の国家秘密であり続けたのだ。リットン調査団の報告は、政治的な思惑からこの点必ずしも明確にされていない。
この秘密を知った者が、「実は、あの奉天の鉄道爆破は、関東軍の高級参謀の仕業だ。板垣征四郎、石原莞爾らが事前の周到な計画のもと、張学良軍の仕業と見せかける工作をして実行した」と漏らせば、間違いなく死刑とされたろう。軍機保護法や国防保安法、そして陸軍刑法はそのような役割を果たした。安倍内閣のたくらむ「特定秘密保護法」は、同様の国家秘密保護の役割を期待されている。
この事件は、中央政府からみて関東軍の独走であり暴走であった。事件を知った奉天総領事館側は、その日のうちに事件首謀者の板垣征四郎をいさめようとしたが、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と、抜刀しての威嚇を受けたと伝えられている。これこそ、国防軍というものの正体とみなければならない。また、天皇の権威はこのような形で利用された。中央政府は事変不拡大の方針を決めたが、現地軍の暴走を止めることができなかった。
その背景に、熱狂した国民の支持があった。「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」のスローガンは既に人心をとらえていた。「中国になめられるな」「軟弱な外交が怪しからん」「満州も中国も日本の手に」「これで景気が上向く」というのが圧倒的な「世論」だった。
軍部が国民を煽り、煽られた国民が政府の弱腰を非難する。そして、真実の報道と冷静な評論が禁圧される。巨大な負のスパイラルが、1945年の敗戦まで続くことになる。
さて、翻って今。国防軍創設の提案、天皇元首化の動き、日の丸・君が代の強制、秘密保護法の制定、ナショナリズム復活の兆し、ヘイトスピーチの横行、朝鮮や中国への敵視策…、1930年代と似ていると言えば似ている。そう言えば、関東軍参謀長であった東條英機の時代に官僚として満州経営の衝にあたったのが岸信介。その岸を尊敬するという孫が首相になっているのも、不気味な暗合である。
隣国との友好を深めよう。過剰なナショナリズムの抑制に努めよう。今ある表現の自由を大切にしよう。まともな政党政治を取り戻そう。冷静に理性を研ぎ澄まし、安倍や石原や橋下などの煽動を警戒しよう。そして、くれぐれもあの時代を再び繰り返さないように、力を合わせよう。
(2013年9月18日)
春はセンバツから。毎日新聞がつくったキャッチフレーズであろうが、しばらく前までは心地よい響きをもっていた。私の母校は、甲子園の強豪校で、春の甲子園での14連勝の記録をもっている。かつて、母校が首里高校と対戦して21奪三振の記録を作った。私は、その試合を観戦していたが、武士の情けを知らぬ母校ではなく、健気な首里高に声援を送った。ところが今、そのような余裕はなく、「春はセンバツから」というフレーズがむなしい。今日の日記は、わが母校、最近不振の愚痴であり、八つ当たりである。
今年のセンバツも本日でおしまい。特に関心をもたなかったが、準優勝校の校名が済美(サイビと読むようである)であるという。済美の原典は漢籍の古典にあるのだろうが、教育勅語の一節として知られる。該当箇所は「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」というところ。同校のホームページには、その前身である済美高等女学校の開校が1911年とされている。教育勅語の発布から20年ほど後のこと。
「世世、その美を済(な)せる」の内実は、「我が臣民が、よく忠に、よく孝に、心を一つにしている」ことだという。そして、臣民の忠孝の精神こそが、天皇をいただく我が国柄のすばらしさであり、教育の根源がここにある、という。
戦前、忠と孝とが、臣民としての道徳の中心だった。これを「美をなす」ものとし、国体の精華であり、教育の淵源とまで言った。儒家では、おなじみの「修身・斉家・治国・平天下」(「大学」)という。孝という家の秩序と、忠という国家の秩序との整合が求められた。孝の強調は忠のモデルとしてのものである。
勅語は、さらに臣民の徳目を語るが、最後を「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と結ぶ。
「常に国憲を重んじ」とは、天皇が国民に与えた欽定憲法の遵守を命じているのだ。「憲法とは、人民が君主の横暴を縛るために生まれた」「近代憲法とは、主権者国民が国政を預かる者に対する命令である」という考えの片鱗もない。
当然のことながら、この勅語には人権も民主主義も出てこない。人が平等という観念もない。ひたすらに天皇制の秩序に順応して、いざというときには天皇に身を捧げよ、という「臣民根性」を叩き込もうとしている。
天皇制政府は、これを津々浦々の小学校で暗唱させた。「教育の内容・目的を国家が決めるのは当然」との考えに基づいている。しかし、そのような考え方は民主主義社会の非常識である。公権力は、国民に対して教育条件整備の義務を負うが、教育内容を定める権限はない。日本国憲法と教育基本法の採る立場でもある。最高裁判例(旭川学テ事件・大法廷判決)も基本的に同様の立場である。
当然のことながら、今の済美高校に勅語教育の影は見られない。私学経営の常道として、進学率の向上とスホーツの成績に熱心の様子である。
甲子園では、ときに思わぬことに出くわす。これもかなり昔のこと。盛岡一高が甲子園に出場し、勝者となってその校歌が全国に響いた。歌詞は何を言っているのか分からなかったが、そのメロディは明らかに軍艦マーチであった。さすがに米内光政の出身校、と感心した次第。いまでも、変わらないのだろうか。
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さて、新装開店記念のエッセイ第3弾。
『ツバキのこと』
春は桜ばかりがもてはやされるけれど、今の時期、どこの植物園や公園に行ってもツバキが盛大に咲いている。桜は日当たりのよい真ん中で華やかに目を引くが、ツバキは端っこの日陰に押し込められているので目立たない。常緑の葉っぱが黒々として花を隠してしまうのも不利にはたらく。
ツバキは素人園芸家にとっては様々な利点を持っている。切りつめに強いので場所をとらない形で栽培できるし、乾燥にも強く丈夫で、初心者でも簡単に花を咲かせられる。日陰のベランダでもコンパクトな鉢植えで育てられる。鉢に植えて根っこを窮屈な状態にしておいた方がかえって蕾を持ちやすいのだ。それに、桜の花期が寒桜から八重桜までせいぜい二、三ヶ月なのに対して、ツバキは上手に種類をとり混ぜれば、9月から4月まで八ヶ月もの長い間花を咲かせることができる。丈夫でながもちというところが日本人好みではないと言われてしまうと困るのだが。
色は、白、クリーム、黄、ピンク、赤、紅、紫、紺、黒と多彩。配色も単色、絞り、覆輪、斑入りなど無数の組み合わせがある。花形も花弁が5から6枚の一重咲きから100枚もの花弁を持った千重咲きまである。花の大きさも開花時の直径4?の極小輪から20?もある極大輪まで様々。雄しべについての分類も詳細である。葉の形状も面白くて、柳葉、柊葉、鋸葉などは想像しやすいが、盃葉や金魚葉などという変わりものもある。香りの追求もされている。室町時代から茶道、生け花とともに発展してきた花木なので、愛玩のされ方も生易しいものではないのだ。
容易に交配して種ができ、それを蒔いて5年もすれば花が咲く。だから、種類は際限もなく増えていく。日本では花が小ぶりの侘助ツバキが好まれているけれど、西洋では大きくて、花びら数も多いバラやボタンに見まごう豪華絢爛な花が競って作出された。デュマの「椿姫」のカメリアのイメージはどうしても「白侘助」というわけにはいかない。
一時、ツバキ狂いをして100種類近く集めたことがあった。寝ても覚めても、あれもこれも欲しくて、椿図鑑をめくってはため息をついていたことがあった。一説には日本で4000種、世界で10000種もあると言われているのだから、頭がクラクラした。でも幸い、私は熱しやすく冷めやすいたちなので、今は回復している、と思う。
好きなツバキをふたつ。
「酒中花は掌中の椿 ひそと愛ず」 石田波郷
酒飲みにはこたえられない図でしょう。
“しゅちゅうか”は白地に紅覆輪、牡丹咲きの中輪。江戸時代から伝わる。
「落ざまに水こぼしけり花椿」 芭蕉
この落ち椿はぜったいに真っ赤な五弁のヤブツバキでなくてはならない。普通ツバキといえば第一番にこの花姿がうかぶし、事実圧倒的な人気を誇っているけれど、園芸分類上はヤブツバキという名前は出てこない。これこそヤブツバキとおもわれる、よく似たツバキがたくさんあって立派な名前がついているけれど、素人にはほとんど見分けがつかない。出雲大社藪椿、富泉院赤ヤブ、専修庵、森部赤ヤブ、信浄寺紅、等々日本各地に保存されているとのことである。似ているはずである。みな親がヤブツバキなのだから。
以上はツバキについてほんのさわりで、話は奥が深くて、混沌として、ヤブノナカなので、またまた迷ってはいけないのでこのくらいで終わり。