(2021年8月15日)
戦後76年目の8月15日。日本武道館で恒例の全国戦没者追悼式が行われた。出席した天皇(徳仁)の挨拶の内容は比較的穏やかなものだった。その最後の一節が次のとおり。
「ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」は、憲法の理念に沿ったものと言ってよい。もっとも、この「反省」と「責任」を最も深く負うべきは、睦仁以来の天皇の家系である。そのことの自覚がどれほどあるだろうか。
これに対し、首相の式辞では「反省」の言葉は聞かれなかった。むしろ、「積極的平和主義」などという、物騒な「アベ語」を久しぶりに聞かされて白けた。ただ、次の一節にだけは注目した。
「いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として全力を尽くしてまいります。」
「遺骨をふるさとにお迎えする」とは、遺骨を遺族に返還するということだろう。これを「国の責務として全力を尽くす」と言ったのだ。この言葉は重い。
同じ今日。靖国神社社前で一人の沖縄県人が昨日来のハンガーストライキを決行して話題になっている。沖縄は、先の戦争で国内唯一の地上戦が行われた地。とりわけ沖縄本島南部が激戦地となって、多くの県民の遺骨がいまだに地中に眠っている。この遺骨を発掘し収集して遺族に返還しようという運動を息長く続けてきた市民団体が「ガマフヤー」。その代表を務めるのが具志堅隆松さん。既に、40年もこの活動に携わってきたというから、頭が下がる。この人が靖国神社でのハンスト決行の人である。
ハンストの目的は、辺野古の米軍基地建設の埋立に、今も遺骨が眠る沖縄本島南部の土を使わないよう訴えてのこと。辺野古基地の埋立予定地に軟弱地盤があることが発覚し、これまでの計画を上回る大量の土砂が必要になった。そのため、防衛省は埋立用土砂の採掘先として沖縄本島南部を追加した。こうして、遺骨の眠っている南部の土が掘削されて、辺野古の埋め立て工事に使われる可能性が生じているという。
具志堅さんの南部の土砂使用に反対するハンストは今年3月と6月にも沖縄で実行された。今回が3回目とのこと。昨日(8月14日)から本日の夕刻までのハンストを行っている。生憎の降雨の中だが、訴えのための座り込みが続けられている。
具志堅さんは、この防衛省の計画について、本島南部の土砂に多くの戦没者遺骨が遺されている点を踏まえて、「国家のために犠牲となった戦没者の遺骨が混じる土砂を基地建設に使うのは、人道上の問題だ」「人道に反するものとして許せない」と厳しく批判している。「基地建設賛成か反対かではなく人道上の問題だ」「靖国神社に参拝に訪れる人たちには戦没者への強い思いがあるはず。関心を向けてほしい」「国が戦没者の尊厳を冒すこの問題を一緒に考えてほしい」と話しているという。
「人道上の問題」とは、こんな意味ではないだろうか。
遺骨を野に晒しておくのは、遺族にとっては忍びないこと。不本意な死を強いられた遺骨は、せめては遺族のもとに返して追悼し埋葬すべきが人道に適った当然のあり方。沖縄本島南部で、遺骨を掘り、これを同定して遺族のもとに返してきた実績のある具志堅さんらにしてみれば、本気になって遺骨の採集をすれば、もっとたくさんの遺骨を遺族に返すことができる。しかし、この土を遺骨ごと辺野古の基地建設のための埋立に投棄すれば、「戦没者の遺骨は永遠に海に捨てられてしまうことになる」。それは「遺骨に2度目の死をもたらす」ことになる。
政府は戦没者の遺骨について今年秋からDNA鑑定の対象を拡大し、身元の特定につながると期待されているという。南部の土砂使用計画はこれに逆行し、「戦没者の遺骨を永遠に遺族から遠ざける」ことになる。
遺骨を遺族に返還することが人道的な配慮である。遺骨まじりの南部の土砂を辺野古の海に沈めるのは、遺骨と遺族を永遠に引き離す非人道的行為なのだ。
(2021年8月11日)
不定期刊の「風のたより」を送ってくれる石川逸子さんから、新刊書をいただいた。「もっと生きていたかった ー 風の伝言」という33編の詩集。
出版した一葉社の解説には、「『生きたいのに生きられなかった 数え切れないほどの ひとたち』― 打ち捨てられた死者たちに想いを馳せてきた詩人・石川逸子の哀悼小詩集。」とある。
あとがきにはこうある。「この国はなんと歴史に学ばない国でしょうか。一旦、世界に目を転じれば、其処にも、かしこにも、いわれなく殺戮され、恐怖に怯えるひとびとがいて…。(性懲りもなく、再び屍の山を築く気かよ)――地底から聞こえてくる、もっと生きていたかった、ひとびとのかすかな呟きに耳を傾けねばと思うこの頃です。」
この世に生を受けた誰もが望むことは何よりも生きること、生きながらえること。できることなら、家族の愛に包まれて育ち、親しい友と交わり、友人とともに学び、そして人を愛し働き、また家族をなして子をもうけ育てること。そのような生を断ち切られた人々を静かに見つめ、その思いを代弁する33編。
生を断ち切られた人は、さまざま…。戦没者、ナチスの収容所で犠牲となったユダヤ人、日本軍に殺された朝鮮人、従軍慰安婦とされた女性、終戦間近の特攻兵、沖縄戦の犠牲者、広島・長崎の爆死者、ナバホ族の放射線死者、パレスチナで殺された少年、イラク戦空爆の死者…。ヒトでないのは、ひそひそとささやき交わす福島の牛の遺体。どの詩からも、「もっと生きていたかった」というつぶやきが聞こえる。
一編だけ、笑っている遺骨の詩がある。他とは異なる不思議な宗教詩ともいうべき雰囲気の詩。これだけを紹介させていただく。
笑 い 声
輜重兵特務一等兵 キタガワ・ショウゴ
1937年5月14日 銃弾に左胸部を貫かれ
戦死 享年24
幼い甥・姪たちへの手紙
「いまかうして戦ひあってゐる人々の中には
一人もいけない人は居やしない
ただ戦争だけがいけないことなのだ」
若者は 一発の銃も「敵」にむけないことを
おのれに課した
中国の子どもたちとのんびり遊び 里人にタバコを分ける
家の中に彼を 招待し 飴をもてなし
入浴まですすめる 里人たち
「おじさんは 憎い敵兵はただ一人も見やしなかった」
「おじさんは 戦友に文句を言われても 自分では
とてもいい気分なのさ」
「次には ロバの話 水牛の話 豚の話を書こう」
記した 若い「おじさん」は
小さな骨になって 生家に帰ってきた
骨は(だれ一人殺さずに済んだ)と
嬉しそうに 笑っていた
「僕は一つの解決を射止めて、気軽に帰ってきた。
この嬉しそうな白木の箱の中で、赤ん坊のように
喚き立てている僕の声を聴いて呉れたまへ」
夜更け耳をすまし ひそやかな若者の
笑い声を聴こう
発売日:2021年07月12日
著者/編集:石川 逸子
出版社:一葉社 価格1100円
ご注文は下記に
https://honto.jp/netstore/pd-book_31083493.html
(2021年8月10日)
8月は、あの戦争を振り返り、平和を語るべきとき。まさしく、そのような8月の企画として、「平和を願う文京・戦争展」(主催・日中友好協会文京支部)が今年も開催された。一昨年、昨年に続く3回目の企画である。
文京・真砂生まれの故村瀬守保の貴重な「日本兵が撮った日中戦争」の写真展示を中心に、「重慶爆撃と東京大空襲」を組み合わせた、戦争加害と被害両面の実相を訴える写真展。コロナ禍のさなかではあったが、8月7・8・9日の3日間の日程での企画が終了した。
あの戦争は侵略戦争だった。だから、主たる戦争被害は「外地」に生じた。中国、仏印、ビルマ、インド、フィリピン、そして南洋諸島。辛いことではあるが、あの戦争を振り返ることは、まずは我が国の戦争の加害責任を確認することとなる。次いで、敗戦間近となってからは日本の国土が戦地となり、あるいは非人道的な無差別大空襲と原爆投下の被害が生じた。その悲惨は、忘れようにも忘れられるものではない。何度でも繰り返し、戦争の実相をあるがままに語り続けなければならない。
「平和を願う文京・戦争展」は、戦争の実相を知るための企画として、この上ないものである。文京区(教育委員会)が、自ら主催してもおかしくはない。少なくとも、後援を求められれば、当然に後援してしかるべきである。ところが、文京区教育委員会は、展示企画主催者の後援申請(正式には、「後援名義使用申請」)を今年も不承認とした。なんということだ。
文京区は、1979年12月に、「文京区平和宣言」を発出している。宣言の文言は、下記のとおりである。
「文京区は、世界の恒久平和と永遠の繁栄を願い、ここに平和宣言を行い、英知と友愛に基づく世界平和の実現を希望するとともに人類福祉の増進に努力する。」
さらに、1983年7月には、下記の文京区非核平和都市宣言を発している。
「真の恒久平和を実現することは、人類共通の願いであるとともに文京区民の悲願である。文京区及び文京区民は、わが国が唯一の被爆国として、被爆の恐ろしさと被爆者の苦しみを全世界の人々に訴え、再び広島・長崎の惨禍を繰り返してはならないことを強く主張するものである。
文京区は、かねてより、世界の恒久平和と永遠の繁栄を願い、平和宣言都市として、永遠の平和を確立するよう努力しているところであるが、さらに、われわれは、非核三原則の堅持とともに核兵器の廃絶と軍縮を全世界に訴え、「非核平和都市」となることを宣言する。」
文京区も、形の上では平和を希求する姿勢をもつている。戦争を考える企画を自ら主催することもないわけではない。しかしその企画は、戦争被害についてだけ、あるいは日本に無関係な他国間の戦争についてのものにとどまり、日本の加害責任に触れる企画はけっしてしようとしない。後援すら拒否なのだ。
本音は知らず。その表向きの理由は、教育委員会議事録から抜粋すると次のとおりである。
教育長(加藤裕一)「皆さんのご意見をまとめますと、中立公正という部分と、あと見解が分かれているといったところ、あるいは政治的な部分、そういったところを含めて総合的に考えると、今回についてお受けできないというご意見だと思います。それでは、この件については承認できないということでよろしいでしょうか。(異議なし)それではそのように決定させていただきます。」
この結論をリードしたのは次の意見である。
坪井節子委員(弁護士)「今の情勢の中で、この写真展、南京虐殺があった、あるいは慰安婦の問題があったという前提で行われる催しに教育委員会が後援をしたとなりますと、場合によってはそうでないという人たちから同じようなことで文京区の後援を申請するということが起きることは考えられると思います。シンポジウムをしますからとか、文京区は公平な立場であるのであれば、あると言った人も後援したんだから、ないと言っている人も後援しろというジレンマに陥りはしないか。そういうところに教育委員会が巻き込まれてしまうのではないか。そこにおいて私は危惧をするんです。教育の公正性ということを教育委員会が守るためには、シビアに政治的な問題が対立するところからは一歩引かないとならないんじゃないかと…。」「そういう意味において、今回の議案については同意しかねるという風にさせていただきたい。」
この「中立・公正」論は、いま全国で大はやりである。歴史修正主義者の主張を口実に、真実から目をそらす手口なのだ。結果として、歴史修正主義に加担することになる。
たとえば、ナチスのホロコーストの存在は歴史的事実と言ってよい。しかし、ホロコースト否定論は昔からある。動かしがたいナチスの犯罪の証拠に荒唐無稽な否定論を対峙させて、「中立・公正」な立場からは、「両論あるのだから歴史の真実は断定できない」と逃げるのだ。
小池百合子の「9・1朝鮮人朝鮮人犠牲者追悼」問題も同様である。右翼団体に、「自警団による朝鮮人虐殺はウソだ」「朝鮮人が暴動を起こしたのは本当だ」と騒いでいることを奇貨として、それまで毎年追悼式典に出していた都知事による追悼文を撤回する口実に使った。
天動説と地動説、両論あるから「中立・公正」な立場からは真実は不明と言うしかない。科学者は進化論を真理というが人間は神に似せて作られたという考えも有力だ。「中立・公正」な立場からは、どちらにも与しない。
教育勅語は天皇絶対主義の遺物として受け容れがたいと言う意見もあるが、普遍的道徳を説いたものという見解もある。放射線は少量であっても人体に有害という常識に対して一定量の放射線は人体に有益という異論もある。「中立・公正」な立場から、立ち入らない。
中華民国の臨時首都であった南京で、皇軍が行った中国人非戦闘員や投降捕虜に対する虐殺には多くの証言・証拠が残されている。その規模についての論争は残るにせよ、この史実を否定することはできない。日本軍従軍慰安婦の存在も同様である。個別事例における強制性の強弱は多様であっても、日本軍の関与は否定しがたい。あったか、なかったかのレベルでの論争が存在するという文京教育委員諸氏の発言が信じ難く、その認識自体が、政治学的な研究素材となるべきものと指摘せざるを得ない。
今年の「戦争展」では、来場者に文京区長宛の「要望書」(2020年12月14日付)が配布された。A4・7ページの分量。南京事件も、従軍慰安婦も、史実である旨を整理して分かり易く説いたもの。この件についての歴史修正主義者たちのウソを明確に暴いている。
「史実」の論拠として挙げられているものは、まずは外務省のホームページを引用しての詳細な日本政府の見解。そして、家永教科書裁判第3次訴訟、李秀英名誉毀損裁判、夏淑琴名誉毀損裁判、本多勝一「百人斬り訴訟」などの各判決認定事実の引用、元日本兵が残した記録や証言、南京在住の外国人やジャーナリスト、医師らの証言、この論争の決定版となった偕行社(将校クラブ)のお詫び、日中両国政府による日中歴史共同研究…等々。
それでも、文京区教育委員会は頑強に態度を変えなかった。この展示の中で、一番問題となったのは、揚子江の畔での累々たる死体でも、慰安所に列をなす日本兵の写真でもなく、中国人捕虜の写真に付された下記のキャプションであったという。
捕虜の使役 「漢口の街ではたくさんの捕虜が使われていました。南京の大虐殺で世界中の非難を浴びた日本軍は漢口では軍紀を厳重に保とうとして捕虜の取り扱いには特に気を使っているようでした。捕虜の出身地はいろいろです。四川省、安徽省などほとんど全国から集められているようで、中には広西省の学生も含まれていました。貴州の山奥に老いた母と妻子を残してきたという男に、私はタバコを一箱あげました。」
この文章の中の「大虐殺」「世界中の非難」がいけないのだという。とうてい信じがたい。2年前の8月2日東京新聞朝刊の記事をあらためて思い出す。「日中戦争写真展、後援せず」「文京区教委『いろいろ見解ある』」、そして「主催者側『行政、加害に年々後ろ向きに』」というもの。
主催者のコメントとして、「このままでは歴史の事実に背を向けてしまう。侵略戦争の事実を受け止めなければ、戦争の歯止めにならないと思うが、戦争加害を取り上げることに、行政は年々後ろ向きになっている」との懸念が掲載されている。
戦争体験こそ、また戦争の加害・被害の実態こそ、国民全体が折に触れ、何度でも学び直さねばならない課題ではないか。「いろいろ見解があり、中立を保つため」に不承認というのは、あまりの不見識。教育委員が、歴史の偽造に加担してどうする。職員を説得してでも、後援実施してこその教育委員の見識ではないか。
「戦争の被害実態はともかく、加害の実態や責任に触れると、右翼からの攻撃で面倒なことになるから、触らぬ神を決めこもう」という魂胆が透けて見える。このような「小さな怯懦」が積み重なって、ものが言えない社会が作りあげられていくのだ。文京区教育委員諸君よ、そのような歴史の逆行に加担しているという自覚はないのか。
不名誉な教育委員5氏の氏名を明示しておきたい。すこしは、恥ずかしいと思っていただかねばならない。そして、ぜひとも、来夏にはその汚名を挽回していただきたい。
教育長 加藤 裕一
委員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
委員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
委員 坪井 節子(弁護士)
委員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)
(2021年8月5日)
戦争の悲惨と不合理を語り、平和の尊さを確認すべき8月。ところが、今年はコロナ禍に強行された東京五輪のことばかりを語らざるを得ない。あの戦争について何か書かねばならないと思っているところに、たまたまドキュメンタリー映画の「制作協力のお願い」というリーフレットが舞い込んできた。その映画の題名は、「戦争の足跡を追ってー北上・和賀の十五年戦争」という。これは、協力しなければならない。
私の母方のルーツは盛岡だが、父方のルーツは北上(旧町名・黒沢尻)である。父(澤藤盛祐)は黒沢尻で生まれ、ここで徴兵検査を受け、招集されて兵役に就いている。にもかかわらず、その北上(黒沢尻)と戦争との関係を私はまったく知らなかった。この地域に日本最大の軍用飛行場があったこと。かつて、アルミを国産化しようという国策会社があったこと。その軍需工場を標的とした空襲があったこと。そして、いま「北上平和記念展示館」が開設されていること…。
このリーフの中に、こんな一文がある。「東北のヘソに位置する北上市には、たくさんの戦争遺跡や遺物、歴史が残されている。戦争を二度と繰り返さないという平和への強い願いを後世に伝えるべく…」「ここには15年戦争の縮図がある。北上・和賀地方には戦時中、国産アルミニウムをつくる工場や、特攻機を製造する疎開工場などがありました。そして、和賀町藤根の後藤野飛行場からは、敗戦 6日前に特攻機が飛び立ち、3名の若者が帰らぬ人となっています。終戦直前の空襲や、残された7千通の軍事郵便など、この地方には戦争に関する様々な事柄が集中しています。」
下記の公式ホームページからは、映画作成の意図がよく伝わってくる。
http://longrun.main.jp/footsteps_war/index.html
規模は大きくなかったが盛岡も空襲を受けた。人々は空襲警報が鳴るたびに防空壕に避難した。1945年の夏、2歳に満たない私はひどいハシカだった。母は、むずかる私を背負って何度も防空壕に逃げ込んだという。物心ついて以来、母から「あんな心細い思いはしたくない。もう、2度と戦争はイヤだ」と聞かされた。それが、私の戦争観の原点となった。
岩手では、釜石の戦争被害が大きかった。凄まじい艦砲射撃で製鉄所が破壊され町が焼かれた。その衝撃音は、100キロ余も離れた盛岡にも聞こえたという。が、北上・和賀の空襲は知らなかった。この映画を制作している都鳥伸也・拓也兄弟の祖父がこう語っていたという。「戦争の頃、北上には軍需工場があって、アメリカ軍の空襲を受けたことがある。国見山の方からグラマンの編隊が飛んできたのが見えたんだ」。戦争の爪痕は、日本のどこにもあるのだ。その気になって探しさえすれば。
アジア・太平洋戦争は、天皇の軍隊による侵略戦争だった。だから、悲惨な戦場は基本的に外地にあった。最も悲惨な民衆の被害も外国でのもので、加害者は皇軍だった。15年続いた戦争の最終盤で、戦地は国内となり、多くの日本人非戦闘員戦争被害が噴出した。こうして、東京大空襲、沖縄地上戦、広島・長崎の原爆被害が、語られている。
しかし、この大規模被害も、厖大な戦争被害の一部に過ぎない。それぞれの人にとって、「自分の町にも戦争があった」のだ。日本の各地域には同じように戦争の足跡が眠っている。それを意識して掘り起こそうというのが、この映画の意図なのだ。そうすることで、すべての人に他人事ではない戦争の惨禍を思い起こさせる。
あの戦争が終わって76年目の夏である。直接に戦争を語れる人も、戦争の爪痕を語れる人も、少なくなっている。今、意識的に、戦争体験の承継と戦争の遺跡の保存が必要である。そのような試みの一つとして、この映画の制作に微力ながらも協力したい。リーフレットにはこう記されている。
現在、映画の製作、公開に必要な経費850万円が不足しており、一口5,000円での製作協力金の募集を始めました。映画の完成、公開に向けて皆さまのご協力を何卒、よろしくお願い致します。
ご協力いただいた方々には、完成作品の試写会招待券(指定の試写会のみ使用可)と個人視聴用DVD(上映には使用不可)をプレゼントします。
また、映画の公式サイトにお名前を掲載いたします。
試写会、劇場公開のスケジュールは決定次第ご連絡します。
DVDのプレゼントは全国上映の普及のため、劇場公開から2年後を予定しております。
5,000円以下も受け付けますが、プレゼントは試写会の招待状のみとなります。
振込先
郵便振替 口座番号 02230?3?138259
口座名義 有限会社ロングラン
通信欄 『戦争の足跡を追って』協力金、と必ずご記入ください
(参照 http://longrun.main.jp/footsteps_war/support.html)
(2021年3月9日)
皆さま、明日が3月10日です。あの東京大空襲の日。76年前の3月10日、東京下町は252機のB29による空襲で一面の火の海となりました。一夜にして10万の人々が殺戮され、100万人が焼け出されたのです。私たちは、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下とならぶ東京大空襲の被害を忘れることができません。また、けっして忘れてはならないと思います。
この日の未明、わずか3時間の間にB29の大編隊は低高度から1665トンに及ぶ大量の焼夷弾を投下しました。折からの強風に煽られた火は、たちまち大火災となって、東京の半分を焼き尽くしたのです。
この日、空襲が始まるまで空襲警報は鳴りませんでした。防空法という法律が、人々を逃げずに現場で消火にあたれと足を止めて被害を広げました。何よりも、首都の防空態勢は無力でした。グアム・サイパン・テニアンの各基地から飛び立った機の、長距離爆撃を防ぐ手立ては日本にはなかったのです。
1945年3月、首都を焼かれ100万の被災者を出して、日本の敗戦は誰の目にも明らかとなりました。それでも、この国は戦争をやめようとはしませんでした。今では知られているとおり、政権が国体の護持にこだわってのことです。国民の命よりも、天皇制の存続が大事と本気になって考えていたからなのです。
国民の戦争犠牲は、東京大空襲被害のあともとどまることなく、日本の都市のほとんどが焼け野原となり、沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキの悲劇と続きます。敗戦は8月となりましたが、国民は文字通り、塗炭の苦しみにあえいだのです。
でも、戦争の被害は日本国内だけのものではありませんでした。日本が仕掛けた戦争でしたから、主たる戦場となったのはアジア・太平洋の各地でした。そこでは、戦闘員でない一般市民が、天皇の軍隊によって理不尽な殺戮の対象となりました。
たとえば、重慶大空襲。1938年末から1941年にかけて、日本軍は当時中国蔣介石政権の臨時首都とされた重慶市に無差別爆撃をくり返し多くの人々を殺傷しました。中国側の資料によると、その爆撃回数は218次に及び、死傷者2万6千人、焼失家屋1万7千戸の被害を出しています。戦争末期に、日本はそれ以上の規模での報復を受けたことになります。
日本国憲法は戦争の惨禍を再び繰り返してはならないという日本国民の切実な願いを結実したものとして生まれました。その第9条は、再び戦争をしないという不戦の誓いを条文にしたものです。
戦争の惨禍は、加害によるものと、被害としてのものと両者があります。日本は近隣諸国の人々に筆舌に尽くせない、甚大な被害を与えました。その死者の数だけでも2000万人を下らないと考えられています。そして、自国民の被害も310万人に上っています。
二度と愚かな戦争を繰り返してはなりません。平和憲法を守り9条を守り、この9条を活かして崩れぬ平和を守り抜こうではありませんか。近隣の諸国を敵視し、あるいは威嚇するのではなく、お互いに敬意をもって接し友好を深め、民間交流も活発化して、国際紛争は誠実で真摯な外交交渉によって解決すべきです。それが、日本国憲法の示すところです。
以上で、「本郷湯島9条の会」からの今月の訴えを終わります。耳をお貸しくださりありがとうございました。
(2021年2月26日)
1936年2月26日、東京は雪であったという。降雪を衝いて陸軍青年将校のクーデターが決行された。反乱軍は、首相官邸を襲撃し「君側の奸」とされた政府要人を殺害したが、陸軍上層部の同調を得られなかった。海軍は一貫して叛乱鎮圧に動いた。結局、クーデターは失敗し首謀者の主たる者は銃殺、その他多数が厳罰に処せられた。
歴史の展開はこれで終わらない。この皇道派クーデターを押さえ込んだ統制派の「カウンター・クーデター」を担った統制派の手によって、軍部独裁への道が切り開かれていく。これが「2・26事件」である。
「2・26事件」とは何か。大江志乃夫の簡明な記述を引用しておきたい。
「いわゆる皇道派に属する青年将校が部隊をひきいて反乱を起こした「政治的非常事変勃発」である。反乱軍は、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃(岡田首相は官邸内にかくれ、翌日脱出)、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴本貫太郎に重傷を負わせ、警視庁、陸軍省を含む地区一帯を占領した。反乱将校らは、「国体の擁護開顕」を要求して新内閣樹立などをめぐり、陸軍上層部と折衝をかさねたが、この間、2月27日に行政戒厳が宣告され、出動部隊、占拠部隊、反抗部隊、反乱軍などと呼び名が変化したすえ、反乱鎮圧の奉勅命令が発せられるに及んで、2月29日、下士官兵の大部分が原隊に復帰し、将校ら幹部は逮捕され、反乱は終息した。事件の処理のために、軍法会議法における特設の臨時軍法会議である東京陸軍軍法会議が設置され、事件関係者を管轄することになった。判決の結果、民間人北一輝、西田税を含む死刑19人(ほかに野中、河野寿両大尉が自決)以下、禁銅刑多数という大量の重刑者を出した。「決定的の処断は事件一段落の後」という、走狗の役割を演じさせられたものへの、予定どおりの過酷な処刑であった。」
「実際に起こった二・二六事件は、『国家改造法案大綱』(北一輝)の実現をめざすクーデターが『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』(統制派)にもとづくカウンター・クーデターに敗北し、カウンター・クーデター側の手によって軍部独裁への道が切り開かれるという筋書をたどった。」
北一輝『日本改造法案大綱』の冒頭に、「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に、天皇大権の発動によりて3年間憲法を停止し両院を解散し、全国に戒厳令を布く」とある。当時の欽定憲法でさえ、軍部にはなくもがなの邪魔な存在だった。この邪魔な憲法を押さえ込む道具として、「天皇大権」が想定されていた。
軍隊は恐ろしい。独善的な正義感に駆られた軍隊はなお恐ろしい。傀儡である天皇を手中に、これを使いこなした旧軍は格別に恐ろしい。
軍事組織は常に民主主義の危険物である。軍隊のない国として知られるコスタリカを思い出す。彼の国では、国防への寄与という軍のメリットと、民主主義に対する脅威としての軍のデメリットを衡量した結果として、軍隊をなくする決断をしたという。軍を維持する費用を、教育や環境保全や、新しい産業に注ぎ込んで、国は繁栄しているというではないか。
かつてのチリ・クーデーが衝撃的だった。1970年代初め、南米各国はアメリカの軛から脱して民主化の道を歩み始めていた。中でも、チリが希望の星だった。アジェンデ大統領が率いる人民連合政権は、世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権と称されていた。それが、ピノチェットが指揮する軍部の攻撃で崩壊した。ピノチェットの背後には、米国や多国籍企業の影があった。憎むべき軍隊であり、憎むべきクーデターである。
今、ミャンマーの事態が軍事組織の危険性を証明している。民主化を求める勢力が選挙で大勝すると、これを看過できないとして、軍部が政権を転覆する。国民の税金が育てた軍が、国民を弾圧しているのだ。
そして本日、旧ソ連構成国アルメニアでクーデターのニュースである。
アルメニアの軍参謀総長らは25日、パシニャン首相の辞任を求める声明を出した。
パシニャン氏は「クーデターの試み」と反発し、参謀総長を解任。辞任を拒否して支持者に団結を呼び掛けた。AFP通信によると、パシニャン氏の支持者は約2万人が集結という。
世界の至る所で、繰り返し、軍事組織が民主主義を蹂躙している。2月26日、日本人にとっての軍隊の持つ恐ろしさを確認すべき日である。
(2021年1月8日)
「韓国裁判所が慰安婦被害者勝訴判決…『計画的、組織的…国際強行規範を違反』」こういうタイトルで、韓国メディア・中央日報(日本語版)が、以下のとおり伝えている。
旧日本軍慰安婦被害者が日本政府を相手に損害賠償訴訟を提起し、1審で勝訴した。日本側の慰謝料支払い拒否で2016年にこの事件が法廷に持ち込まれてから5年ぶりに出てきた裁判所の判断だ。
ソウル中央地裁は8日、故ペ・チュンヒさんら慰安婦被害者12人が日本政府を相手に起こした損害賠償請求訴訟で、原告1人あたり1億ウォン(約948万円)の支払いを命じる原告勝訴の判決を出した。
裁判所は「この事件の行為は合法的と見なしがたく、計画的、組織的に行われた反人道的行為で、国際強行規範に違反した」とし「特別な制限がない限り『国家免除』は適用されない」と明らかにした。
また「各種資料と弁論の趣旨を総合すると、被告の不法行為が認められ、原告は想像しがたい深刻な精神的、肉体的苦痛に苦しんだとみられる」とし「被告から国際的な謝罪を受けられず、慰謝料は原告が請求した1億ウォン以上と見るのが妥当」とした。
さらに「この事件で被告は直接主張していないが、1965年の韓日請求権協定や2015年の(韓日慰安婦)合意をみると、この事件の損害賠償請求権が含まれているとは見なしがたい」とし「請求権の消滅はないとみる」と判断した。
この判決の影響は大きい。被告は日本企業ではなく、日本という国家である。日本は、国際慣習法上の「主権免除」を理由に一切訴訟にかかわらなかった。いまさら、日本がこの判決の送達を受領して、適法な控訴をするとは考え難い。とすれば、この地裁判決は公示送達(韓国では、裁判所が書類を一定期間ホームページに掲示することで送達完了とみなすという)手続後の控訴期間徒過によって確定する公算が高い。またまた、韓国内の日本の国有財産差押えの問題が生じてくる。
菅首相がさっそく反応した。政府は、1965年の日韓請求権協定で解決済みだとする立場で、「断じて受け入れられない。訴訟は却下されるべきだ」と記者団に語っている。加藤官房長官も、「極めて遺憾で、断じて受け入れることはできない」と述べ、日本政府として強く抗議したことを明らかにしている。
あ?あ、このようにしか言いようはないのだろうか。原告となった女性に対する、いたわりやつぐないの心根はまったく窺うことができない。せめて、「原告となられた方々の御苦労はお察ししますし、我が国がご迷惑をおかけしたことには忸怩たる思いはありますが、当方としては、こういう立場です…」くらいのことが言えないのだろうか。そうすれば、韓国国民の気持ちを逆撫ですることもあるまいに。
韓国外務省の報道官は、8日の判決を受けて「裁判所の判断を尊重し、慰安婦被害者たちの名誉と尊厳を回復するために努力を尽くしていく」と論評したという。両国政府の落差は大きい。
この訴訟の原告は12人。日本政府の「反人道的な犯罪行為で精神的な苦痛を受けた」として、日本国を被告とする慰謝料の賠償請求訴訟だが、5年に及ぶ訴訟の期間に、半数の6人が亡くなったという。
「1965年日韓請求権協定で解決済み」が私的な請求権については通らない理屈であることは、実は日本政府もよく分かっている。徴用工訴訟判決で明確になってもいるし、日本の最高裁の立場も私的な請求権までが全て解決済みとは言っていない。
この訴訟の論点は、もっぱら『主権免除』適用の有無にあった。日本政府の立場は、「主権国家は他国の裁判権に服さない。これが国際法上確立した『主権免除の原則』であって、訴えは当然に却下されるべきだ」というもので、まったく出廷していない。訴状の送達も受け付けないし、当初は調停として申し立てられたこの事件に応じようともしなかった。
しかし、ソウル中央地方裁判所は本日の判決で、原告側の主張を容れて、主権免除の原則について「計画的かつ組織的に行われた反人道的な犯罪行為」には適用外とし、今回の裁判には適用されないとする判断を示した。
また、原告の損害賠償請求権は、1965年「日韓請求権協定」や、2015年の「慰安婦問題をめぐる日韓合意」の適用対象に含まれず、消滅したとは言えないとも判示しているという。
来週の13日(水)には、元慰安婦ら20人が計約30億ウォンの賠償を求めている事件での判決が言い渡される。おそらくは、本日と同様に請求認容の判決となるだろう。
これに自民党内からは韓国に対し、激しい怒りの声が上がっているという。佐藤正久外交部会長は「国家間紛争に発展する可能性がある」とツイートしたという。これは穏やかではないし、危険で愚かな対応でもある。
戦後補償問題においては、加害国・加害企業・加害者が、被害者本人と向き合わなければ、いつまでも真の解決にはならない。日本国対戦時性暴力被害者が、直接に向き合う恰好の舞台が設定されているのだ。日本政府は、これを好機として被害者と直接に向き合い真の解決を試みるべきではないか。
(2021年1月3日)
昨日の毎日新聞デジタルに、「『へいわって…?』 激動の香港で日本の絵本が読まれている理由」という記事がある。
https://mainichi.jp/articles/20210101/k00/00m/030/175000c
「中国政府による締めつけが続く香港で、日本の絵本『へいわって どんなこと?』が読まれ続けている。日中韓の3カ国で出版された後、2019年12月に新たに「香港版」が刊行され、現地の出版賞も受賞した。」という内容。
浜田桂子さんが執筆した、この絵本には「へいわって どんなこと?」の問いかけに、考え抜かれたこんな答が連ねられている。
「きっとね、へいわってこんなこと。
せんそうをしない。
ばくだんなんかおとさない。
いえやまちをはかいしない。
おなかがすいたら だれでもごはんがたべられる
おもいっきり あそべる
あさまで ぐっすり ねむれる」
それだけでなく、
「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる。」
そしておしまいが、
「へいわって ぼくがうまれて よかったっていうこと
きみがうまれて よかったっていうこと
そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」
と結ばれているという。
浜田さんは「平和絵本は戦争の悲惨さを伝えるものが中心で、これが平和だよと伝えるような作品がないと感じていました。自分にとって平和とは何かを考えられるようなものを作りたいという思いが、ずっとありました」と語っている。
この絵本の制作は中国・韓国・日本の3カ国12人の作家によるプロジェクトによって生まれた。「悲惨な戦争ない状態の平和」にとどまらず、積極的に平和とその価値を語ろうという試み。その結論は、「ぼくがうまれて よかったっていうこと。きみがうまれて よかったっていうこと。そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」と収斂する。なるほど、と頷かざるを得ない。
今、香港に、せんそうはない。ばくだんなんかおとされていない。いえやまちがはかいされているわけでもない。しかし、明らかに「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」状況にはない。「ぼくがうまれて よかったっていうこと。きみがうまれて よかったっていうこと。そしてね、きみとぼくは ともだちになれるって いうこと」とは、ほど遠いものと言わざるを得ない。
だから今、「香港にはこの絵本が必要」とされているのだという。香港で絵本は増刷され、2020年末までの1年間で6000部発行された。2020年7月には、この絵本が公共放送局「香港電台(RTHK)」が主催する出版賞「香港書奨」(Hong Kong Bookprize)の9作品に選ばれた。30年以上続く伝統ある賞で、作品は「子どもの視点から、平和とは何かを伝えている。人間性の真善美を示している」と評されたと、毎日は伝えている。
この記事の示唆するとおり、香港は「平和」ではない。そのとおりだと思う。だとすれば、中国本土にも「平和」はない。香港以上に、「いやなことは いやだって、ひとりでも いけんが いえる」状況にはないからだ。言論が抑圧され、平和なデモ参加者が逮捕され有罪とされる社会は「平和」とは言えない。その地に、「ぼくがうまれてよかったって。きみがうまれてよかった」という安心が得られないからだ。
日本国憲法は、人権と民主主義と平和を3本の柱として成り立っており、それぞれの柱は互いに緊密に支えあっている。日本国憲法だけではない。いずれの国や社会においても、人権と民主主義を欠いた、「平和」はあり得ない。専制が人権を蹂躙するところ、たとえ隣国との交戦はなくとも「平和」ではない。
(2020年12月10日)
天皇の軍隊内での上官による兵隊イジメは、伝統であり文化でもあった。兵に対する指揮命令系統は、そのままイジメの構造と一体でもあった。これを容認し支えた日本人の精神構造は、連綿と今も生き続けている。そのことを強く印象づけるのが、防衛大学校の下級生イジメ事件である。
上級生のイジメに遭って退学を余儀なくされた元学生の起こした訴訟が、防大での下級生イジメの実態をあぶり出した。いうまでもなく、防衛大学校は、「大学」ではない。幹部自衛官養成のための訓練施設である。「採用試験」に合格した学生の身分は特別職国家公務員たる「自衛隊員」であって、学費は徴収されず、「学生手当」の名目で給与が支給される。まぎれもなく、ここは自衛隊の一部である。
その防大での上級生による下級生に対するイジメの実態は凄まじい。一審判決の認定によれば、たとえば、下級生を裸にして陰毛に消毒用アルコールを吹きかけライターで火をつける、ズボンと下着を脱がせてその陰部を掃除機で吸引する、など狂気の沙汰である。こういう連中が、自衛隊の幹部になって、武器を扱うのだ。
訴訟によって明るみに出た陰湿で執拗で凄惨なイジメの手口は、旧軍から受け継いだ防大の伝統となっているいってよいだろう。ところが、国を被告としたこの損害賠償請求訴訟の一審、福岡地裁判決は原告が敗訴した。昨年(2019年)10月のこと。監督すべき立場にある者にとっては、上級生のやったことは、「予見不可能」であったと認めたからである。「予見不可能」であれば、その行為を止めるべき作為義務も生じては来ないのだ。信じがたい結論である。
昨日(12月9日)、その控訴審である福岡高裁は逆転判決を言い渡した。「防大いじめ、元学生が逆転勝訴 国に賠償命令、福岡高裁」(西日本新聞)などと大きく報道されている。
増田稔裁判長は、国の責任を認めなかった一審福岡地裁判決を変更し、「元学生に対する暴力や、精神的苦痛を与える行為を予見することは可能だった」として国の責任を認め、約268万円の支払いを命じた。
増田裁判長は、規律順守を目的に学生が他の学生を指導する「学生間指導」について、元学生の在学期間に「上級生による下級生への暴力や、不当な精神的苦痛を与える行為がしばしば行われていた」と言及。防衛大は「実態把握が必要との認識を欠き、調査などの措置を講じておらず、内部で防止策の検討も不十分だった」と述べた。
その上で、国や防衛大の教官は元学生への暴行やいじめについて、発生前から加害学生の行動などから予見可能だったとして「教官が適切な指導をしなかったため防げなかった」と指摘。発生後に教官が上司に報告しなかった点も考慮し、国と教官に安全配慮義務違反があったとして、元学生の体調不良に伴う休学や退校との因果関係を認めた。
なお、元学生が上級生ら8人に慰謝料などを求めた訴訟は昨年2月、福岡地裁が7人に計95万円の支払いを命じ確定しているという。
高裁判決の要旨は、国が学生の負うべき安全配慮義務の内容として、「具体的な危険が発生する場合には、これを防止する具体的な措置を講ずべき義務も含まれる」と判断。「学生間指導の実態を具体的に把握する必要があるのに、その意識を欠き、実態の把握のために調査などの措置を講じていなかった」ことを安全配慮義務違反と認めた。
この防衛大学校のイジメの伝統について、吉田満「戦艦大和ノ最期」の一節を思い出す。戦記文学の傑作として持ち上げる人が多い。大和が、天一号作戦で出撃する前夜にも、兵に「精神棒」を振り回す士官が描かれている。
江口少尉、軍紀オョビ艦内作業ヲ主掌スル甲板士官ナレバ、最後ノ無礼講ヲ控エ、ナオ精神捧ヲ揮フテ兵ノ入室態度ヲ叱責シ居リ 足ノ動キ、敬礼、言辞、順序、スベテニ難点ヲ指摘シテ際限ナシ サレバー次室ヘノ入室ハ、カネテ兵ノ最モ忌避スルトコロナリ
老兵一名、怒声二叩カレ、魯鈍ナル動作ヲ繰返ス 眸乾キテ殆ンド勤カズ 彼、一日後ノ己レガ運命ヲ知リタレバ、心中空虚ナルカ、挙動余リニ節度ナシ 精神棒唸ッテ臀ヲ打ツ 鈍キ打撲音 横ザマニ倒レ、青黒キ頬、床ヲ撫デ廻ル 年齢恐ラクハ彼が息子ニモ近キ江口少尉 ソノ気負イタル面貌二溢ルルモノ、覇気カ、ムシロ稚気カ
「イイ加減ニヤメロ、江口少尉」叫ブハ友田中尉(学徒出身) 江口少尉、満面二朱ヲ注ギ、棒ヲ提ゲテソノ前二立チハダカル
また、兵学校71期出身の俊秀とされる臼淵大尉の、作者への鉄拳制裁に伴う次のような叱責も紹介されている。欠礼した兵を殴らなかった筆者を責めてこういうのだ。
「不正ヲ見テモ(兵を)殴レンヨウナ、ソンナ士官ガアルカ」「戦場デハ、ドンナニ立派ナ、物ノ分ッタ士官デアッテモ役二立タン 強クナクチャイカンノダ」「ダカラヤッテミヨウジャナイカ 砲弾ノ中デ、俺ノ兵隊が強イカ、貴様ノ兵隊が強イカ アノ上官ハイイ人ダ、ダカラマサカコノ弾ノ雨ノ中ヲ突ッ走レナドトハ言ウマイ、ト貴様ノ兵隊ガナメテカカランカドウカ 軍人ノ真価ハ戦場デシカ分ランノダ イイカ」
上記の江口は軍隊内の部下への理不尽な暴力を、臼淵は合理的な制裁を象徴しているごとくである。しかし、その差は紙一重というべきであろう。要は、「アノ上官ハイイ人ダ、ダカラマサカコノ弾ノ雨ノ中ヲ突ッ走レナドトハ言ウマイ」と舐められないための部下への暴力なのだ。殴りつけておけばこそ、「弾ノ雨ノ中ヲ突ッ走レ」と命令できるのだという論理である。その伝統と文化は、確実に防大に生きている。いや、それだけでなく、今の教育の中に、スポーツの中に、運動部の中に、あるいは組織一般の中に残ってはいないだろうか。
一言、付け加えておきたい。私は、この防衛大学校訴訟に表れた幹部自衛官養成の実態に接して、幹部自衛官という人々を見る目が変わった。自衛隊という組織を恐るべきものと感じざるを得なくなった。この判決を読んでなお、子息を防衛大学校にやろうとする親がいるとはとうてい思えない。
この訴訟提起の意義は、幹部自衛官教育の実態と、そうして教育された幹部自衛隊員の人格の実像を世に知らしめたことであろう。原告となった元学生に感謝したい。
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2020年12月9日
福岡高裁判決に対する弁護団声明
防衛大いじめ人権裁判弁護団
本件は、一審提訴が2016(平成28)年3月18日で、国に対する一審判決は、2019(令和1)年10月3日でした。本日の高裁判決まで提訴以来、約4年9ヶ月が経過しました。
一審判決は、どの学生が、いつどこでどのような加害行為を行うかは予見不可能であるとして、防衛大の安全配慮義務違反を認めませんでした。これは学生が学生を指導する学生間指導において現実に多発する暴力を追認すると言わざるを得ない判断でした。
今回の高裁の判決は、学生間指導により、具体的な危険が発生する可能性がある場合には、この危険の発生を防止する具体的な措置を講ずべき義務も含まれる、と安全配慮義務の内容について、より踏み込んだ判断をしています。
その上で、防衛大は、学生間指導の実態を具体的に把握する必要があるのに、その意識を欠き、実態の把握のために調査等の措置を講じていなかったとしています。
本件で問題となる、学生による加害行為のうちA学生が、粗相ポイントの罰と称して、一審原告の体毛に火を付ける行為について、見回りにきた教官が、確認を怠ったこと、同じA学生が一審原告に反省文を強要していることを、母親が防衛大に情報提供したにもかかわらず、注意だけですませ、そのような事案についての対応の検討を防衛大内部で行わなかったこと、指導記録に記載しなかったこと、ボクシング部の主将B学生による暴行行為についても注意するだけで、情報共有しなかったことを安全配慮義務違反としました。さらに、一審原告2学年時に福岡帰省の事務手続き不備を指摘され、中隊学生長のC学生から暴行行為を受けた際、指導を指示した教官が、C学生が暴力を振るう可能性があると認識できたとしてやはり安全配慮義務を怠ったとしています。
しかし、やはり事務手続き不備とされる件についてのD・E学生の暴行、3年生のF学生の恫喝的指導、G・H学生による一審原告に対する葬式ごっこと退学を迫る大量のラインスタンプの送付行為、相談室相談員が相談に訪れた一審原告に対して何の対応もしなかったことについては、安全配慮義務の違反を認めませんでした。
損害額については、請求額の約2300万円を大幅に減額しています。一審原告が請求していた幹部自衛官の収入と全国の平均収入との差額約776万円の他、慰謝料についても50万円しか認めませんでした。しかし他方で、医療費、休学により学生手当を受けられなかったことのほか、2学年で退学せざるを得なかったことによる、3学年と4学年の学生手当を失ったことによる損害賠償を認めたことは評価に値します。
不十分な点はありますが、学生間指導に名を借りた3人の学生の加害行為について防衛大の安全配慮義務違反を認めたことは画期的で、学生間指導に司法のメスが入ったことを意味します。国と防衛大に対しては、この判決について上告せず受けり入れ、暴力が蔓延する防衛大の現状を改善することを強く求める次第です。
以 上
(2020年12月8日)
本日は定例の「本郷・湯島9条の会」の街宣活動の日。これが、文京母親会議の「12月8日行動」と重なった。本郷三丁目交差点では、いつにないにぎやかさ。マスク姿の22名が、マイクを持ち、プラスターを掲げ、「赤紙」を配った。平和を願う市民の運動おとろえず、である。
私にまでマイクはわたってこなかった。だから、下記は漠然と考えていた発言予定の内容。
12月8日です。1941年の本日未明、帝国海軍の機動部隊がハワイ・オアフ島のパールハーバーを攻撃しました。太平洋戦争の開戦です。現地時間では、12月7日・日曜日の早朝を狙った奇襲は、宣戦布告なく、交渉打ち切りの最後通告もない、日本のだまし討ちでした。
当時、日本は中国との間に10年も戦争を続けていました。中国との戦争の泥沼にはまった日本が、さらに強大な国を相手に始めた展望のない戦争。しかし、79年前のこの日、NHKが報じる大本営発表の大戦果に、日本中が沸き返ったといいます。
いくつか今日述べておくべき感想があります。国民は開戦のその日まで、軍の動きも内閣の動きも、まったく知りませんでした。知らされてもいなければ、知る術もなかったのです。それでも知ろうとすればスパイとして処罰される世の中。そんな時代に逆戻りさせてはなりません。政府のやることの透明性を確保し、説明責任を全うさせなければなりません。国民の表現の自由、政府に反対する行動の自由を大切にしなければならないと、あらためて思います。いまの政権が真っ当なものではないだけに、国民の不断の努力が必要だと思います。
私たちの父母・祖父母の時代の日本人は、大本営発表の戦果に歓呼の声を上げました。勝てそうな戦争なら支持をしたということです。そして、4年後の夏に、国土を焼き払われ、多くの死者を出して敗戦の憂き目を見ることになります。戦争は、決して負けたから悲惨なのではなく、勝者にも甚大な被害をもたらします。全ての人々にこの上ない悲劇、不幸をもたらします。二度と戦争の惨禍は繰り返させない。その決意を、今日こそ再確認すべきではありませんか。
戦争をたくらむ指導者に欺されてはなりません。鬼畜米英や暴支膺懲などという、スローガンに踊らされてはなりません。他民族に対する敵愾心や優越意識は、極めて危険です。民族差別を許してはならないのです。安倍政権の発足当たりから、差別的な言動が繁くなっています。ネットの空間でも、リアルの世界でも。この動きを批判して、差別を許さない社会の空気を作っていく努力を重ねようではありませんか。
もう一つ、申し上げたい。一国を戦争に導こうとする者は、決して戦争狂の恐ろしい形相をしているわけでも、好戦的で威嚇的な言動をしているわけでもないということです。むしろ、平和を望むポーズをとりつつ、「平和を望む我が国はこんなに隠忍自重してきたのに、好戦的な敵国の振る舞い堪えがたく、自衛のために開戦のやむなきに至った」というのです。これに、欺されてはなりません。
天皇が作った和歌を御製といいます。明治天皇(睦仁)の御製として最も有名なのが、
「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」
というものでしょう。
事情を知らずにこの歌だけを読むと、明治天皇(睦仁)は、まるで平和主義者のごとくです。「世界中の人々がみんな兄弟のように仲良くしなければならないと私は思っているのだが、どうしてこんなにも平和を掻き乱す時代の波風がたちさわぐのだろう」というのです。「波風のたちさわぐ」は、あたかも自分の意思とは無関係な平和にたいする障碍のようではありませんか。つまり、「私は平和を願っているのだが、どうしてその平和は実現しないのだろう。嘆かわしいことだ」と言っているのです。
しかしこの歌、実は、日露戦争の開戦直前に、ロシアに対する先制攻撃を決定した当時の作とされています。「たちさわぐ波風」は、これから自分が作り出そうとしている対露開戦を意味するものとして読むと景色はまったく変わってきます。
「世界中の人々がみんな兄弟のように仲良くしなければならないとは私も思っているのだが、どうして戦争を決意せざるをえないことになってしまうのだろう」と言うことになります。「本当は平和を望んでいるのだけど、マ、しょうがない。戦争の仕掛けもやむを得ないね」ともとれます。
明治維新以後、日本は侵略戦争を続けてきました。しかし、表向きは「平和を望む」と言い続けたのです。「平和を望みなが、戦争もやむを得ない」として、積極的に侵略戦争を重ねてきました。この歌は、その文脈の中にあります。
そして、この歌は太平洋戦争開戦を決定した「1941年9月6日御前会議」の席で昭和天皇(裕仁)が読み上げたことで知られています。読みようによっては、「自分も祖父同様、平和を願いつつも不本意な開戦を決意せざるを得ない」と責任逃れのカムフラージュをしたようでもあり、「今や平和は空論に過ぎず、ここに開戦を決意する」と意思表明したようにも読めます。
いずれにせよ、「よもの海みなはらからと思ふ世に」(世界の平和を望む)は、枕詞のごとくに必ず謳われるのです。自分は平和主義者だ。しかし、敵は、平和を望まない。だからやむなく戦争を始める。戦争するとなれば、こちらから先制攻撃することに躊躇してはおられない。
睦仁も裕仁も、こうして大戦争を始めました。戦争指導者とは、「平和を望むポーズで、戦争を決意する」ものと知るべきだとおもうのです。それが、今につながる教訓ではないでしょうか。