(2020年11月4日)
明治政府はすべての国民を把握し管理するために「戸籍」を作った。国民の福祉のためではなく国民支配の道具として。その眼目は、「臣民の三大義務」とされた徴税と徴兵と義務教育実施を徹底するためにである。そして、徴兵された兵士については、各個人ごとに「兵籍簿」というものを作った。兵の移動や昇進を把握し、軍の編成のために不可欠なものとして。
「兵籍簿」には、旧陸海軍に軍人・軍属として徴兵された者についての、徴兵から召集解除(あるいは戦死)までの軍隊における記録が記載されている。現在、旧陸軍については本籍地の都道府県、海軍なら厚生労働省に問い合わせれば、その写の請求ができる。三親等以内の遺族が請求権者と定められている。
私の父は澤藤盛祐という。1914年1月1日に岩手縣和賀郡黒澤尻町に生まれ、この時代の人の避けがたい成り行きとして徴兵された。弘前聯隊に入営し、関東軍の兵士となって極寒のソ満国境、愛琿(アイグン)に駐屯している。幸い、一度の実戦の経験もなく帰還しているが、その遺族として「陸軍兵籍簿」というものの写を請求して、この度はじめて亡き父の軍歴を見た。
予想に反して、実に詳細な記述。なるほど、戦争をするということは、事務的にもたいへんなことなのだと実感する。手書きの文字が判読できないところも多少あるが、次のような軍歴が父の人生の一部である。天皇からどんなタバコをもらったのだろうか。いったいどんな味がしただろうか。もはや聞く術もないが、確かに、この国はかつて戦争をしたのだ。
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兵種 歩兵
本籍 岩手縣和賀郡黒澤尻町大字…
氏名 澤藤盛祐 大正参年壹月壹日生
出身別 幹部候補生(抹消)
第二補充兵(抹消)
予備役 (抹消)
服役区分 現役 昭和十四年八月一日
予備役 昭和十五年六月三十日
第二補充兵役 昭和九年十二月一日
位階 勲等功級 (記載なし)
特業及特有ノ技能 小
官等級 昭和一四・五・三 歩兵二等兵
昭和一四・八・一 歩兵一等兵
昭和一四・一〇・一 歩兵上等兵(乙幹)
昭和一五・二・一 歩兵伍長(乙幹)
昭和一五・五・一 歩兵軍曹(乙幹)
昭和一五・六・三〇 歩兵軍曹
同 一五・九・一五 軍曹(勅令第五百八十號ニ依リ)
賞典 昭和一七年一月二十七日
天皇・皇后両陛下ヨリ特別ノ思召ヲ以テ御莨ヲ賜フ
履歴 高等小学校卒業(抹消)
昭和五年三月九日黒澤尻中学校卒業。
昭和五年三月九日同校ニ於テ配属将校ノ行フ教練検定ニ合格。
昭和九年 一二月一日第二補充兵××(2字判読不能)ス。
昭和十四年 五月三日臨時招集ノタメ
歩兵第三十一聯隊留守隊ニ應召。
同日第七中隊編入。
八月一日幹部候補生ニ採用ス。
八月八日第四中隊ニ編入。
九月二十日歩兵乙種幹部候補生ヲ命ズ。
十月一日歩兵上等兵ノ階級ニ進ム。
十二月一日第七中隊ニ編入。
昭和十五年 二月一日歩兵伍長ノ階級ニ進メラル。
五月一日軍曹ノ階級ニ進メラル。
六月三十日昭和一五年陸支密第五九五號
ニ依リ満期除隊。
同月同日任歩兵軍曹
六月一日臨時招集ノタメ歩兵第三一聯隊
留守隊ニ応召入隊。
同日第七中隊附。
軍令乙第二十二號ニ依リ七月十日
軍備改変編成下令。
八月七日歩兵第五十二聯隊第九中隊附。
同月二十七日編成完結
昭和十六年 七月十七日臨時編成(甲)下令。
同年七月二十九日歩兵第五十二聯隊第九中隊附。
八月六日編成(甲)完結。
八月十三日弘前出発。
八月十六日大阪港出帆。
八月十九日釜山港上陸。
八月二十三日朝鮮国境通過。
同日関東軍司令官の隷下ニ入ル。
八月二十五日黒河省愛琿着。
同日ヨリ同地警備。
同年九月三十日給三等給。
十二月八日ヨリ引続き同地国境警備。
昭和十七年 三月五日軍令陸甲第十八号ニ依リ編成改正下令。
六月七日編成(甲)完結。
七月一日陸達第四十二号ニヨリ給二等給。
十一月三日内地帰還ノタメ愛琿出発。
同日愛琿縣境を通過。
同日国境警備勤務を離ル。
十一月六日鮮満国境通過。
同月九日釜山港出帆。
同日下関上陸同月十二日弘前着。
同日第五十二聯隊補充隊第九中隊ニ臨時配属。
昭和十五年陸支機密第二五四号及ビ
八月二十一日弘動第一二四五号ニ依リ
十一月十八日召集解除。
昭和十九年 昭和十九年六月二十九日動員下令。
七月十一日充員招集歩兵第百二十一聯隊ニ応召。
同日歩兵第五十二聯隊連隊本部附。
七月十五日動員完結。同日第一中隊附。
八月十五日第十三国境守備隊補充要員引率官
トシテ弘前出発。
同月十八日下関港出帆。同日釜山上陸。
同月二十日鮮満国境(安東)通過。
同月二十三日愛琿縣境通過。
同日愛琿県詰別拉着。同月二十五日詰別拉出発。
同月二十六日愛琿縣境通過。
同月二十八日鮮満国境(安東)通過。
同月三十日釜山港出帆。同日下関港上陸。
九月三日弘前着。
十二月一日任陸軍曹長。
十二月八日連隊本部附。
昭和二十年 軍令陸甲第三十四號ニ據リ
昭和二十年二月二十八日臨時動員(復員)下令。
同年四月三日歩兵第四百六十聯隊に轉属。
同月同日連隊本部附。五月十日動員完結。
同月十三日移駐ノタメ弘前出發。
同月十四日青森縣上北郡藤坂村着。
六月一日給三等給。
昭和二十年八月十八日
軍令陸甲第一一六號ニ依リ九月十二日召集解除。
(2020年9月20日)
昨日(9月19日)の午前、安倍晋三が靖国神社を参拝した。「内閣総理大臣を退任したことをご英霊にご報告」のための参拝であったという。
彼は、首相在任中に1度だけ靖国を参拝している。2013年12月26日、虚を衝くごときの突然の参拝だったが、これに対する内外の囂囂たる非難を浴びて、その後自ら参拝することはなかった。しかし、「もう首相でも閣僚でもなくなった」から、「参拝に批判の声はそう大きくはあるまい」、「7年前は厳しく批判したアメリカも、今はオバマではなくトランプの時代だ。参拝しても差し支えなかろう」という思いなのだろう。
右翼が褒めてくれたから だから12月26日はヤスクニ記念日
https://article9.jp/wordpress/?p=4110
それにしても、首相在任時の参拝も、昨日の参拝も、自分の支持基盤である、保守派ないし右翼陣営に対するポーズであるように見える。自分の政治的な影響力を保っておくためには靖国参拝が必要だ、という判断なのだ。まさしく、アベお得意の、印象操作であり、やってる感の演出である。この男、まだまだ生臭い。
当然のことながら、党内の右翼・保守派は首相退任から3日での参拝を歓迎している。戦後75年を迎えた今年8月には、自民党の右派グループ「保守団結の会」(代表世話人・高鳥修一)などから、当時の安倍首相自身による参拝を求める声が上がっていたという。時機は遅れて退任後とはなったが、今回のアベの参拝はこれに応えた形となった。
アベに近い右翼の衛藤晟一は、記者団に「非常に重たく、素晴らしい判断をされた」と褒め、右翼とは言いがたい岸田文雄までが、「(参拝は)心の問題であり、外交問題化する話ではない」と訳の分からぬことを述べている。
岸田の発言は下記のとおりで、恐るべき歴史感覚、国際感覚を露呈している。これが、外務大臣経験者の言なのだ。そして、自民党議員の平均的な靖国観というところでもあろうか。
「国のために尊い命を捧げられた方々に尊崇の念を示すのは、政治家にとって誠に大事なことだ。尊崇の念をどういった形で示すかというのは、まさに心の問題だから、それぞれが自分の立場、考え方に基づいて様々な形で示している。これは心の問題だから、少なくとも外交問題化するべき話ではないと思っている。政府においても外務省においても、国際社会に対して心の問題であるということ、国際問題化させるものではないということを丁寧にしっかりと説明をする努力は大事なのではないか。」
さて、中国が、どのように今回の安倍参拝を批判しているか、実は報道が不足してよく分からない。多くのメディアが、下記の共同配信記事を引用しているが、まったく迫力に欠ける。
中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報(電子版)は19日、安倍晋三前首相の靖国神社参拝を速報した。中国外務省が昨年、日本の閣僚の参拝について「侵略の歴史に対する誤った態度だ」と非難したことにも言及した。(共同)
また、産経は、環球時報(電子版)掲載の「過去長年にわたって参拝していなかったことへの一種の償いだ」とする『専門家の論評』を紹介している。
外交学院の周永生教授は同紙に「安倍氏は2013年の靖国参拝以降、中国と韓国から強烈な批判を受けて参拝しなくなったために日本の右翼を失望させた」と指摘。現在は日本政府を代表する立場ではなくなったため、首相辞任後すぐに参拝したと分析した。
こんな見解は、「専門家の分析」というに値しない。このようなものしか紹介されていないのは、今、中国自身が香港や台湾、ウィグル、内モンゴル問題で濫発している「内政干渉」と言われたくないのだろうか。切れ味に欠けること甚だしい。
これに比して、韓国は鋭い。【ソウル聯合ニュース】配信記事では、「韓国外交部は19日に報道官論評を発表し、日本の安倍晋三前首相が太平洋戦争のA級戦犯が合祀(ごうし)されている東京の靖国神社を参拝したことについて遺憾の意を表明した。」としている。その論評とは、次のように紹介されている。
「安倍前首相が退任直後に、日本の植民地侵奪と侵略戦争を美化する象徴的な施設である靖国神社を参拝したことに対し深い憂慮と遺憾の意を表する」とし、「日本の指導者級の人たちが歴史を正しく直視し、過去の歴史に対する謙虚な省察と真の反省を行動で見せることで、周辺国と国際社会が日本を信頼することができる」と指摘した。
簡潔ではあるが、要を得た的確な批判になっている。「政教分離」や「公式参拝」という面倒な言葉は使わない。あくまでも、《植民地侵奪と侵略戦争の被害国》の立場から、日本人の歴史観・戦争観を問うものとなっている。
靖国神社を、「日本の植民地侵奪と侵略戦争を美化する象徴的な施設」という。みごとなまでに、靖国問題の本質を衝いた定義である。「日本の指導者級の人たち」による靖国参拝は、「歴史を正しく直視し、過去の歴史に対する謙虚な省察と真の反省」に逆行する行為なのだ。
言うまでもなく靖国神社とは、天皇軍の将兵と軍属の戦没者をその功績ゆえに「英霊」と讃えて、祭神として合祀する宗教的軍事施設である。全戦没者を神として祀ることは、聖戦としての戦争を無条件に肯定することにほかならない。「英霊」に対して、「あなたが命をささげた戦争は、実は侵略戦争だった。」「植民地侵奪と不法な支配、国際法に違反した不正義の戦争だった」とは言いにくい。ましてや、「あなたやあなたの戦友たちは、被侵略地の人々に、人倫に悖る残虐な犯罪行為を重ねた」とは批判しにくい。むしろ、そう言わせぬための、靖国神社という装置であり、祭神を祀る儀式であり、要人の靖国参拝なのである。
靖国に参拝することは、戦争に対する無批判無反省をあからさまに表明することである。「歴史を正しく直視し、過去の歴史に対する謙虚な省察と真の反省の姿勢に立てば、靖国への参拝などできるはずはない」。韓国外交部の論評は、「日本の指導者級の人たち」に、そう語りかけている。
侵略戦争の加害行為を担わされた兵士たちも、実は誤った国策の犠牲者である。国を代表する資格のある者は、全ての戦没者に謝罪しなければならないが、その場所は決して靖国神社であってはならない。
(2020年9月18日)
9月18日である。中国現代史に忘れることのできない日。そして、日本の歴史を学ぶ者にとっても忘れてはならない日。満州事変の端緒となった、柳条湖事件勃発の日である。
柳条湖事件とは、関東軍自作自演の「満鉄爆破」である。1931年の9月18日午後10時20分、関東軍南満州鉄道警備隊は、奉天(現審陽)近郊の柳条湖で自ら鉄道線路を爆破し、それを中国軍によるものとして、北大営を襲撃した。皇軍得意の謀略であり、不意打ちでもある。
満州での兵力行使の口実をつくるため、石原莞爾、板垣征四郎ら関東軍幹部が仕組んだもので、関東軍に加えて林銑十郎率いる朝鮮軍の越境進撃もあり、たちまち全満州に軍事行動が拡大した。日本政府は当初不拡大方針を決めたが、のちに関東軍による既成事実を追認した。「満州国」の建国は、翌1932年3月のことである。
こうして、泥沼の日中間の戦争は、89年前の本日1931年9月18日にはじまり、14年続いて1945年8月15日に日本の敗戦で終わった。その間の戦場はもっぱら中国大陸であった。日本軍が中国を戦場にして戦ったのだ。これを侵略戦争と言わずして、いったい何と言うべきか。
この事件の中国側の呼称は、「九一八事変」である。「勿忘『九一八』」「不忘国耻」(「9月18日を忘れるな」「国の恥を忘れるな」)と、スローガンが叫ばれる。「国恥」とは、国力が十分でないために、隣国からの侵略を受けたことを指すのであろうが、野蛮な軍事侵略こそがより大きな民族の恥であろう。日本こそが、9月18日を恥ずべき日と記憶しなければならない。
ネットに、こんな中国語の書き込みがあった。
「九一八」,是國恥日,也是中華民族覺醒日。面對殘暴的侵略者,英勇頑強的中國人民從來不曾低下高昂的頭!
(「9・18」は、国恥の日であるが、中華民族目覚めの日でもある。勇敢な中国人民は、暴虐な侵略者を見据え、けっして誇り高き頭を下げることはない。)
中国は、9月21日に事件を国際連盟に提訴している。国際連盟はこれを正式受理し、英国のリットンを団長とする調査団が派遣されて『リットン報告書』を作成した。これは、日本側にも配慮したものであったが、日本はこれを受け容れがたいものとした。
1933年3月28日、国際連盟総会は同報告書を基本に、日本軍に占領地から南満州鉄道付近までの撤退を勧告した。勧告決議が42対1(日本)で可決されると、日本は国際連盟を脱退し、以後国際的孤立化を深めることになる。こうして、国際世論に耳を貸すことなく、日本は本格的な「満州国」の植民地支配を開始した。
今、事件現場には「九一八歴史博物館」が建造されている。その展示は、日本人こそが心して見学しなければならない。そして、1月18日(対華21か条要求)、5月4日(五四運動)、7月7日(盧溝橋事件)、9月18日(柳条湖事件)、12月13日(南京事件)などの日は、日本人こそが記憶しなければならない。
ところで、89年前と今と、日本と中国の力関係は様変わりである。中国は、強大な国力を誇る国家になった。しかし、国内に大きな矛盾を抱え、国際的に尊敬される地位を獲得し得ていない。むしろ、力の支配が及ばない相手からは、警戒され恐れられ、あるいは野蛮と軽蔑され、国際的な孤立を深めつつある。
かつての日本は、国際世論に耳を傾けることなく、孤立のまま暴走して破綻に至った。中国には、その轍を踏まないよう望むばかり。国際的な批判の声に中国の対応は、頑なに「内政干渉は許さない」と繰り返すばかり。然るべき相互の批判はあって当然。真に対等で友好的な日中の国交と、そして民間の交流を望みたい。
(2020年9月4日)
第2回「平和を願う文京戦争展・漫画展」コロナ禍に負けず成功!
皆様の財政的ご支援に感謝申し上げます
というご通知をいただいた。
この企画については、下記のURLを参照されたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=15387
コロナの感染者が増加している中、開催された「第2回平和を願う戦争展・漫画展」は、8月10日?12日文京シビックセンターアートサロンで行われ、約500人の方々に見に来ていただきました。
アンケートも100人の方から回答していただき「初めて加害の実態を知った」「これからも続けてほしい」「もっと若い人に働きかけてほしい」等の意見が、今年もまた寄せられています。
戦争を知らない若い世代に見てほしいと思って、文京区教育委員会に“後援”の申請を出し、努力をしましたが今年もまた「不承認」となりました。
日本の侵略戦争の加害の実態を克明に告発する、村瀬氏の写真は戦争を知らない若い世代の多くの人に見てもらいたいと思っています。そのためにも来年は教育委員会の“後援”を取れるよう頑張りたいと思います。
財政的にも皆様のご協力で黒字になりました。残金は来年の展示に役立てるためプールしておくことを実行委員会で決めさせていただきました。
ご協力本当にありがとうございました。今後とも引き続くご協力よろしく
お願いします。
2020年9月
「平和を願う文京戦争展」実行委員会
支部長 小 竹 紘 子
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コロナ禍の中で、慎重に感染防止に配慮した展示企画となった。一時は入場制限もせざるを得ない運営だったが、3日間で入場者数は、ほぼ500人になったという。そして、今年もまた、文京区教育委員会に「後援申請」をしたものの、「不承認」となったのだ。「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」に追悼文送付を拒否している小池百合子並みの文京区教育委員会である。なお、同様の企画で他区では承認になっているという。
同封された中学生・高校生によるアンケートがとても興味深い。いくつか、ご紹介しておきたい。
中学生
こんなにも恐ろしい現実を写した写真があると知って驚きました。
この戦争展に来た人だけでなく、もっと沢山の人に、この現実を見て知ってほしいと思いました。ありがとうございました。
中学生
原爆詩集序にかいてある文字が、ところどころ太く書いてあって平和への願いが強く感じられました。写真がとても痛々しかったけれど、これも現実にあったことなんだと思いました。
中学生
漢字で読めない部分が少しあったが、写真で大体想像ができた。
当時はとれほど人の命が軽く見られていたのかを知り、日本人として恥ずかしかった。罪のない人々を大勢殺してそれでも平然としていた人達がいたと言うことを知り、戦争は良くないと改めて学んだ。
中学生
中国の強制連行のDVDを見ましたが、とても激しい暴力を受けていたこと、とてもかこくな労働をさせられていたことを知り、とてもつらくなりました。
中学生
今では考えられない、考えたら恐怖でしかないことが現実に起こっていたと思うと本当に怖い。二度とこんなことを起こしてはならないと強く思った。
また後世にどう伝えるかをもっと考えていくことが大切だと思う。
中学生
私の身内には戦争を経験した人がいますが、誰も戦争に話を避けています。
それほど辛く、苦しい出来事であると毎回実感します。今、学校で戦争について学んでいますが、心が苦しくなることばかりです。私は、戦争を知ることがとても重要だと思っています。これからも引き続き受継いでいきたいです。
中学生
残酷な写真も多くありましたが、中でもお正月の少しだけ楽しそうな雰囲気の写真もあって、戦場でもお正月を楽しんでいる様子がよくわかりました。
このような写真は見て、とても印象に残る物ばかりで、とても貴重なものが多かったので、ぜひこれからも、展示会などで広めていってほしいです。
高校生
私はふだん、東京高校生平和ゼミナールというところで活動していて、平和ゼミで学ぶことは、日本が被害者であるということです。しかし、日本は被害者であると共に、加害者であることを知るということが、とても少なく、原爆は危険であって核兵器はいらない! それだけでなく、日本がどんなことをして、どんな人がどういうふうに、傷ついてきたのか知る機会を増やすべきだと思う。
もちろん、核兵器のない世界をつくるために沢山の人が、様々な事を学ぶべきだとも思う。
高校生
これを見て日本がひどい国だな、という結論で終わってしまうのではないかと不安だ。虐殺等々の行為というのは日本だけでなく、どの国も行っていることだ、実際在日米軍も、交戦国でない日本人に対しひんぱんに非道な行いを行ってきたわけであるし、戦争中であればなおさら多い、どの国でもどのような状態でも、軍隊では起こり得ると言うことをよく理解してほしいと思う。
そして軍の上層部は、後の世代の人間が、この非道な行いによって迷惑をこうむることになることをよく理解した上で、現場を指揮してほしいと思う。
ただ日本が悪いという感想で終わりそうな展示を改めてほしい。
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問題は、最後の「高校生」のメッセージである。企画に対する意見であるとともに、戦争というものに対する見解でもある。そして、過剰なまでに「日本」にこだわるコメント。人々の意見が多様であることは当然だとは思うのだが、私には、どうしても理解しかねる。
「これを見て日本がひどい国だな、という結論で終わってしまうのではないかと不安だ。」「ただ日本が悪いという感想で終わりそうな展示を改めてほしい。」この2行が、意見の骨格をなしている。素直に論理を運べば、「日本がひどい国だな、という結論で終わってはならない」「日本が悪いという感想で終わりそうな展示は改めるべきだ」というのだ。
彼の心情の根底にあるものは、一人ひとりの生身の戦争被害者の悲嘆の感情に対する共感ではない。戦争被害の惨状や悲嘆よりは、「日本がひどい国、悪い国と思われてはならない」という配慮こそがそれ以上の重大事なのだ。これは、恐るべきことではないか。
人には、生まれながらに備わった惻隠の情があり憐憫の情もある。他人の痛みや悲しみへの共感は、太古の昔から生得のものである。殺人を禁忌とする規範も、文明とともに確立している。これに比して、「日本がひどい国、悪い国と思われてはならない」というナショナリズムは生得のものではない。教え込まれて初めて身につけるものではないか。
写真であるいは動画で、戦争の悲惨を突きつけられれば、「こんなにも不幸な人を作り出す戦争を繰り返してはならない」と思うのが、真っ当な人間の心性ではないだろうか。反対に、「こんなに戦争の悲惨さを強調したのでは、日本がひどい国、悪い国と思われてしまうではないか」「そう思われないように配慮すべきだ」。どうしてそうなるのか、私にはどうしても理解できない。
もちろん戦争は日本だけが起こしたものでなく、戦争犯罪も日本に限ったことではない。だからと言って日本軍の「虐殺等々の行為」が免責されるわけでも相対化させてよいことにもならない。
どこの国の誰もが、それぞれの立場で、悲惨な被害をもたらす戦争そのものをなくす努力を尽くさなければならない。日本の国民は、日本が行った戦争の加害責任から目を背けてはならない。苦しくとも逃げることなく、自分の父祖の時代に、日本人が他国の民衆した加害行為を事実として正確に見つめなければならない。
「実際在日米軍も、交戦国でない日本人に対しひんぱんに非道な行いを行ってきたわけであるし、戦争中であればなおさら多い、どの国でもどのような状態でも、軍隊では起こり得ると言うことをよく理解してほしいと思う。」は、文意必ずしも明晰ではないが、皇軍が大陸でしたことは、格別非難に値するほどのことではないと、「よく理解してほしい」という趣旨の如くである。
戦争である以上、住民に対する殺戮も、略奪も、陵辱も、「起こり得ると言うことをよく理解して」、非難は避けよとしか読めない。これが高校生の意見だというのが、一入恐ろしい。
さらに、この高校生は、「軍の上層部は、後の世代の人間が、この非道な行いによって迷惑をこうむることになることをよく理解した上で、現場を指揮してほしいと思う。」というのだ。明らかに、これから起きる戦争を想定して、これから起きる戦争指導者に対する注文である。この高校生は、これからの戦争を絶対起こしてはならないものとせず、むしろ肯定しているようなのだ。
彼が語っているのは、戦争による「迷惑」である。「迷惑」という表現にも驚かざるを得ないが、誰に対する「迷惑」かと言えば、南京で虐殺された無辜の住民ではないのだ。後の世代の日本の人間、つまりは自分たちが世界の良識から非難を受けるという「迷惑」だという。その感覚がおかしいとしか言いようがない。
改めて考える。この高校生は、戦争によって理不尽に人が殺される、家が焼かれる、財産を奪われる、弱い立場の者が陵辱される、ということのリアルな受け止めができていないのだ。ゲーム感覚でしか、戦争を理解できないのではないか。
リアルな戦争の実相を伝えることが大切なのだ。改めて、文京区の教育委員各位にお願いしたい。せめて写真や動画で、戦争の現実の一端に触れることを奨励していただきたい。
来年こそは、この戦争展に関する“後援”の申請に対して「承認」していただきたい。各位のご氏名を特定して、お願い申し上げる。
教育長 加藤 裕一
委員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
委員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
委員 坪井 節子(弁護士)
委員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)
(2020年8月29日)
本日は私の誕生日。私は、1943年の今日(8月29日)盛岡で生まれた。その日、母が龍を呑んだ夢を見たとか、白虹が日を貫いたとかの奇瑞はまったく生じていない。ごく普通の暑い日だったようだ。
言うまでもなく、戦時中のことである。母が繰り返し語ったのは、終戦の年(1945年)の夏のこと。盛岡にも空襲があり、炎天下2歳に満たない私を負ぶって何度も防空壕に駆け込んだという。そのとき、私はハシカがひどくて泣き止まず、母の方が心細くて泣きたい思いだったと聞かされた。
戦争が終わってその年(45年)の秋に父は帰宅している。が、さて私が生まれた43年8月に、父は私という長男の誕生に立ち会っているのだろうか。
先日、この点について従兄弟の澤藤範次郎(金ケ崎在住)から、私の父(澤藤盛祐)が書き残したもののなかに、次の記録があると教えられた。私は散逸してしまったものである。
昭和14年5月に召集。弘前歩兵隊に入隊。幹部候補生に採用されたものの、駆足すれば落伍する、足首を捻挫するで、候補生仲間の世話になる。乙種で軍曹に任官。
昭和16年8月、弘前の部隊あげて満州国黒河省璦琿に駐屯、演習につぐ演習、行軍に強くなる。銃剣術大会のとき、ひとのみちの教えのことを思いだし、中隊優勝の因をつくったという武勇伝あり。タライのように大きい中秋の名月を二度見、零下45度の極寒を体験。ソ連が攻めてきたらひとたまりもないなあと思いながら、17年末召集解除。
今度は横須賀海軍工廠造兵部へ徴用されました。18年9月。浦郷寄宿舎の寮長となる。海軍工廠の弁論大会で優勝したことと、15歳の少年工員が脳脊髄膜炎を患った折、ひとのみちの話をしてあげ、奇跡的に全快したのが思い出。胃潰瘍を患い、20日ほど入院。
19年7月、二度目の召集で弘前へ。曹長となる。青森県三本木に駐屯。急性肺炎にかかり、危うく命を取りとめる。夏終戦。秋帰宅。足掛け7年のうち、家にいたのは十か月。
そうなのか。父は、私の出生時には家族とともにいたのだ。そして、8月29日に生まれた嬰児と妻を残して、翌9月には横須賀に出立せざるを得なかったのか。「お国のため」に勇躍して出かけたはずはない。生まれたばかりの我が子と出産直後の妻を気遣って、後ろ髪を引かれる思いであったろう。が、父の生前その思いを聞かされたことはない。それにしても「足掛け7年のうち、家にいたのは十か月」というのが、戦争適応世代であった大正生まれの貧乏くじだったのだ。
母は、自説を押し通すというタイプではなかったが、「戦争だけは絶対にイヤだ。あんな目には二度と遭いたくない」と、この点は断固として譲らず、揺るがなかった。夫のいない心細さだけでなく、子育ての苦労は一入だったのだろう。語らない苦労も多くあったに違いない。この母の思いは、私が受け継いでいる。
母の妹は、東京日本橋で恵まれた結婚生活を送っていたが、夫が戦争の最終局面で遅い招集となり戦死した。サイパン行きの輸送船とともに爆沈されたという。妹の悲しみも、母が「戦争だけは絶対にイヤ」という大きな理由だった。
母が語る銃後の戦争と、上記の父が兵歴を語るトーンには明らかなズレがある。幸いに実戦に遭遇する機会なく無事帰還した父には、兵役や徴用は「貴重な思い出」でもあったようなのだ。戦後、「戦友」との友情を暖めてもいた。もちろん、「戦争は絶対に繰り返してはいけない」とは言っていたが、その言葉に母ほどの迫力は感じられなかった。戦後の国民感情における反戦・厭戦意識の濃淡の差を考えさせられる。
陸軍の旧軍人軍属の兵籍は、本人の本籍地のある都道府県庁が保管して照会に応じている。海軍の方は、厚労省だという。この際、父の軍歴を徹底して調べてみようと思う。一人の日本国民と家族に、徴兵や徴用がどれほど負担だったかという視点をもって。
ところで、8月29日とは、夏の盛りを過ぎたころで秋未満である。活動的な夏のスケジュールが終わって一息の頃で、秋はまだ始まっいない頃。子どもにとってはもうすぐ夏休みも終わろうというころだが、二学期はまだ始まっていない。そんな中途半端な夏と秋との端境期。だから、私の誕生日に関心をもつ人は、昔も今も殆どない。
が、今日は特別だった。夕餉に鯛の煮付けが出た。
(2020年8月24日)
8月の終わらぬうちに、戦争にまつわる記憶を書き留めておきたい。1943年生まれの私は、むろん直接には戦争を知らない。知っているのは、「戦後」の社会と大人たちから聞かされる戦争の辛さである。どの家族にも召集令状が届き、縁者に戦死者のない人はいなかった。
私が子どもの頃、大人とは戦争体験者であった。学校の先生も八百屋のオジさんも豆腐屋の兄さんも、男たちは皆鉄砲担いだ兵隊の経験をもっていた。なかには「敵」に実弾を発射した人もいただろうし、南方のジャングルからの帰還兵もいただろう。女性は銃後を護っていた人たち。そういう目で大人を見ていた。
私の父は招集されて関東軍の兵となり、ソ満国境の守備隊に駐屯した。愛琿の近くという以外に、その場所がどこかは正確には知らない。ノモンハン事件の前に曹長として召集解除となって帰郷し、その後2度内地で応召して、終戦は弘前で迎えている。
父は兵役にあって、好運にも「敵」との遭遇の機会はなく、まったく実戦を経験せぬまま除隊となったと言っていた。たった一度、「明日にも、敵がソ満国境を越えて来襲するという情報がある。戦闘態勢につけ」という通知をもらったことがあるという。中隊本部でその通知を受け、自分の兵舎に着くまでさほど遠くない帰途で、緊張の余り3度の排尿をしたという。結局、その情報は誤りで敵との遭遇はなく安堵したと繰り返し語った。
その父が、戦地から新婚の妻(私の母)の許に、こまめに絵入りのハガキを書き続けていた。父は器用な人で、絵も書もよくした。墨の濃淡を描き分けて、現地の風景や人物、兵隊の暮らしぶりを描いていた。その絵には「?運壮」という落款があった。軍曹をもじってのことだが、好運を身につけたいという願望の表れであったろう。「軍事郵便」として届いたそのハガキを母は大切に保存していた。
よく記憶しているのは、隊内の演芸会で演じた自身の「ガマの油」の口上の図。袴に襷掛けの自画像を巧みに描いていた。草原で寝転ぶとその音が聞こえるという、草にとまって鳴く小さな蝉。ノロという現地の小型の鹿。荷を牽くロバ、防具を着けた銃剣術稽古の兵…。
中で忘れられないのは、自分の手と指の写生。それに、いろいろと説明を書き加えている。妻に、自分をよく知って欲しいという気持の表れだったろう。あの絵入りの便りは、いかにも古代中国風の砦を表紙にあしらった一冊のアルバムに入っていた。そのアルバムは、いま九州の次弟の許にある、はず。
父は、運良く召集解除となって満州から帰宅し、戦後を永らえた。しかし、ノモンハン事件(1939年)のあと、関東軍の主力は南進に転じ、戦友の多くは南方に送られて戦死したという。
一昨日(8月22日)の毎日新聞朝刊に、軍事郵便の記事があった。「戦後75年 家族の手元に祖父の愛400通 沖縄で戦死」「孫、足跡追う」の記事。リードは、以下のとおり。
「太平洋戦争末期、32歳の若さで沖縄で戦死した伊藤半次さんが、福岡市で暮らす家族に送った絵手紙など約400通が残っている。ほとんどは長く出征していた旧満州(現中国東北部)からで、転戦した沖縄からも3通が届いた。『祖父の最期を知りたい』。同市早良区の会社役員で孫の博文さん(51)はこの数年、家族への愛がにじむ手紙を頼りに、祖父の足跡をたどり続けてきた。」
伊藤さんが、旧満州から家族に宛てた絵手紙2点が掲載されている。職人として日本画を学んだ人の立派なもの。この絵手紙を描いた伊藤さんは、ノモンハン事件後の41年にソ満国境の警備に配属され、その後44年10月に沖縄に転戦、45年6月に糸満で戦死されたという。
その記事の最後が孫の言葉として、こう結ばれている。
「家族を残して戦地に行ったのは祖父だけではない。『会いたい』『帰りたい』と素直につづれなかった時代があったことを、祖父の手紙を通じて多くの人に伝えたい」
私の父は、好運と倶に旧満州から内地に帰還した。しかし、父の多くの戦友は南方に送られて命を失った。伊藤さんは沖縄で散った。さぞかし無念であったろう。8月、それぞれの戦争との関わりを思い起こし、戦争の悲惨と愚かを確認しよう。
(2020年8月18日)
例年8月15日は、人々がそれぞれに過去の戦争と向き合う日である。戦争の悲惨さや愚劣さを思い起こし、語り継ぎ、語り合うべき日。そして、再びの戦争を繰り返してはならないとの真摯な誓いを新たにすべき日。が、なかにはまったく別の思惑をあからさまにする人々もいる。
今年の8月15日、靖国神社境内で恒例の「戦没者追悼中央国民集会」が開催された。「英霊にこたえる会」と「日本会議」との共催である。産経の伝えるところでは、この集会において「天皇の靖国参拝実現に向け、首相や閣僚の参拝の定着を求めたい」「ところが、安倍首相は2013年以来今日まで参拝をしていない」「首相はすみやかに靖国を参拝して天皇親拝への道を開くべきである」と声が上がったという。
そのアベ晋三、内心は靖国に参拝したいのだ。なぜ? もちろん、票になるとの思惑からである。今日の自分の地位を築いてくれた右翼勢力の願望だからでもある。右翼への義理を欠いては、明日の自分はないとの思いが強い。
しかし、右翼のいうことばかりに耳を貸していたのでは、真っ当な世論に叩かれる。国際世論も国内世論も靖国にはアレルギーが強いのだ。なぜ? 靖国こそは軍国神社であり戦争神社だからである。平和を希求する場としてふさわしい場ではない。いうまでもなく、アベの本性は親靖国にある。しかし、それでは日本国憲法下の首相は務まらない。両者にゴマを摺る手管が必要となる。
そこでアベは、またまた近年定着している姑息な手を使った。自分では参拝しないのだ。内外の世論には「参拝見送り」と妥協した姿勢をアピールする。一方、代理人に参拝させて玉串料を奉納し、右翼勢力には「現状これで精一杯」とアピールする。その姑息なやり方が、今両者からの不満を呼んでいる。
内閣総理大臣の「代理参拝・玉串料奉納」が、政教分離原則(憲法20条1項後段、同条3項)違反である疑いは限りなく濃厚である。しかし、これを法廷で裁く有効な手続き法上の手段に欠けるのだ。ことは、政治的に解決を求められている。
既述のとおり、右翼勢力の願望は「首相や閣僚の参拝定着を露払いとして、天皇の靖国親拝を実現に道を開く」ことにある。ところが、首相の参拝もままならないのが現状。そこに、閣僚の中から4人が、「8・15靖国参拝」を買って出た。高市早苗(総務相)、萩生田光一(文科相)、衛藤晟一(沖縄北方担当相)、小泉進次郎(環境相)である。これこそ、右派の鑑、右翼の希望である。名うての右派と並んだ小泉進次郎が話題となり、またまた、真っ当な世論からは叩かれてブランドイメージを失墜することとなっている。
そこで考えたい。靖国とは、いったいなんなのだ。
靖国とは、まずは何よりも「天皇の神社」である。近代天皇制を創出した明治政府が、天皇制の付属物として発明した新興の宗教施設なのだ。幕末の騒乱や戊辰戦役で戦死した官軍側将兵の「魂」を祭神とする急拵えの「創建神社」として出発し、やがて対外戦争で天皇のために戦死した皇軍将兵に対する特別の慰霊の場となった。戦死者を生み出した戦役の都度、新祭神の合祀のための臨時大祭が行われ、勅使ではなく天皇自身の親拝が例とされた。九段の母たちは、亡くなった我が子に拝礼する天皇の姿に感涙したのだ。
そして、靖国とは「軍国神社」である。軍国とは、戦争の完遂を最重要の目的とする国家のことだから、軍国神社は「戦争神社」でもある。軍国神社としての靖国は、宗教的軍事施設でもあり、軍事的な宗教施設でもあった。靖国の宮司は陸海軍大将が務め、その境内の警備は警察ではなく憲兵が行った。皇軍の将兵ばかりでなく、学生も生徒も靖国参拝を強いられた。無名の国民も、軍人となり戦死することで神にもなれるのだ。こうして靖国は、国民を軍国主義の昂揚に駆りたてる精神的支柱となった。
さらに靖国は侵略神社でもあった。大日本帝国は、武力をもって、台湾・朝鮮・満州と侵略を進め、やがて中国本土をも戦場にする。その戦争拡大にいささかなりとも疑義を呈することは、「護国の英霊」を侮辱するものとして許されなかった。侵略戦争を正当化しこれに反対する者を黙らせる装置として作動した。戦後の今もなお、靖国のその姿勢に変化はない。
また、戦前の靖国は、国民に対する戦意高揚の道具でもあった。修身(小4)では、「靖国神社には、君のため国のためにつくしてなくなった、たくさんの忠義な人びとが、おまつりしてあります」「私たちは、天皇陛下の御恵みのほどをありがたく思うふともに、ここにまつられてゐる人々の忠義にならって君のため国のためにつくさなければなりません」と教えられた。戦後、宗教法人となった靖国神社は、「信仰における教義」としてこの考え方を維持している。天皇が命じた戦争は聖戦であり、聖戦に殉じることは国民の最高道徳である。これが、今にしてなお払拭できていない「靖国の思想」の根幹である。
最も厄介なことは、靖国神社は一定の民衆の支持を得ているという点にあり、その民衆の支持のあり方が不正常なのだ。本来、戦没者は国家の誤った政策の犠牲者である。天皇の戦争に駆りだされ、天皇の命令で死地に赴いた戦没者は、天皇を怨んで当然である。ところがそうなつていない。
遺族にとっては、どのような形でも戦死者を忘れられた存在にしたくない。無意味な戦争での犬死であったとされることはなおさらに辛い。靖国が、戦死を「聖戦の犠牲」「祖国の大義に殉じた名誉の戦死」と意味づけ、死者を賞讃して厚く祀ってくれることは、この上なく有難いことなのだ。靖国は「英霊」を尊崇する場である。皇軍の将兵の死にだけ奉られた「英霊」という美称が心地よい。そのような遺族の耳には、侵略戦争論、天皇の戦争責任、皇軍の加害責任、日本の不正義の論調は入りにくい。しかも、靖国に祀られることと、軍人恩給を受給することとは重なるように制度の運用がなされてもいる。靖国こそは、最強のマインドコントロール装置というべきである。
戦没者遺族の心情に配慮して靖国批判は慎むべきだという意見がある。しかし、批判を慎んでいるだけでは、靖国に取り込まれた遺族の意識の変化を期待することはできない。マインドコントロール解除の努力を積み上げていくしかない。とりわけ、首相や閣僚の靖国参拝には批判が必要である。
政教分離の眼目のひとつは天皇を神とする儀式の禁止にあるが、もう一つが、政府と靖国との接近・癒着の禁止にある。首相や閣僚の靖国参拝や玉串料奉納は、中国や韓国との外交上の配慮から政策的に禁止されているというものではない。わが国民が過ぐる大戦の惨禍を繰り返すまいとして確定した日本国憲法が命じているところなのだ。
韓国外務省報道官は、4閣僚の靖国参拝に対し「深い失望と憂慮を表明する」「日本の責任ある指導者らが歴史に対する心からの反省を行動で示してこそ、未来志向的な韓日関係を構築し周辺国や国際社会の信頼を得られる」との声明を発表した。
このコメントでは、「歴史に対する心からの反省を示す行動」の真逆の行動として閣僚の靖国参拝が語られている。被侵略国からの指摘として、重く受けとめなければならない。
公 開 質 問 状
2020年8月17日
関東弁護士会連合会
理事長 伊藤茂昭殿
質問者 別紙に記載の弁護士 計65名
私たちは、関東弁護士会連合会傘下の単位会に所属する弁護士の有志です。
連合会執行部におかれては、弁護士・弁護士会の使命に則り会務に精励しておられることに謝意を表します。
とりわけ、昨年9月の第66回定期大会(新潟市)における、「日本国憲法の恒久平和主義と立憲主義を尊重する立場からの決議」や、本年5月11日の「東京高検黒川弘務検事長の勤務延長閣議決定の撤回を求め、検察庁法改正案に反対する緊急理事長声明」など時宜を得た機敏な見解の表明には深甚の敬意を惜しまないところです。
しかし、連合会が本年6月30日付で発行された「関弁連だより」(№272、2020年6月・7月合併号)の冒頭記事「関弁連がゆく」の内容が、極端な反憲法的姿勢や行動で知られる企業体を取りあげていることにおいて違和感を禁じえません。弁護士や弁護士会の在り方はけっして私事ではなく、優れて公的なものとして公益に適うものでなければならないと考えますが、問題の記事は、この点において連合会会報記事として決してふさわしいものではなく、弁護士会に対する社会的な信頼を傷つける恐れがあると疑義を呈せざるを得ません。
よって本状をもって、以下の質問を申し上げます。本書到達後2週間以内に、下記質問者代表の弁護士澤藤統一郎までご回答いただくようお願いいたします。
なお、本質問は、公開質問状として、質問とご回答を公表させていただきたいと存じますので、この旨ご了承ください。
記
第1 問題の記事の特定
本年6月30日発行の「関弁連だより」(№272、2020年6月・7月合併号)の冒頭に、「関弁連がゆく」と表題されたシリーズの第33回として、第1面及び第2面の全面を占める、「アパホテル株式会社 代表取締役専務 元谷拓さん」のインタビュー記事。以下、これを「アパホテル記事」といいます。
第2 質問事項
1 「関弁連だより」に「アパホテル記事」を掲載されたのは、どのような趣旨によるものでしょうか。その趣旨は、アパホテル記事のどこにどのように表現されているでしょうか。また、その趣旨が連合会の会報にふさわしいとお考えになった理由をお伺いいたします。
2 アパホテルの全室には「真の近現代史観」という表題の書籍が備え付けられていることで知られています。その書籍の内容は、「南京虐殺」も「従軍慰安婦強制連行」も事実無根であり、日本は謂れなき非難を受けて貶められているというものにほかなりません。
また、2008年以来、アパホテルグループは、「真の近現代史観」懸賞論文を募集しています。その第1回大賞受賞が当時現役の航空幕僚長・田母神俊雄氏の「日本は侵略国家であったのか」でした。以来、竹田恒泰氏、杉田水脈氏、ケント・ギルバート氏など日本国憲法の理念を否定する傾向をもつ諸氏が続き、アパホテルの強固な反憲法的姿勢のイメージを形作ってきました。
「関弁連だより」の編集者は、同「たより」に「アパホテル記事」を掲載するに際して、以上の事実をどう認識し、どう評価しておられたのでしょうか。
3 また、アパホテルグループの創業者で代表でもある元谷外志雄氏は、「我が国が自虐史観から脱却し、誇れる国「日本」を再興するため」として勝兵塾という政治塾を主宰しており、同塾の講師には多くの改憲派政治家が名を連ねています。さらに同氏は、憲法改正、非核三原則撤廃、核武装論者としても知られ、事業活動と言論(政治)活動とは相乗効果を発揮しており、今後も『二兎(事業活動と言論活動)を追う』と広言しています。
反憲法的な思想や行動と緊密に結びついたこのような企業を、弁護士会連合会の会報に無批判にとりあげることが適切とお考えでしょうか。
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(2020年8月17日)
本日、上記の公開質問状を、関弁連に郵便で発送した。
関弁連とは何か、アパホテル記事とは何か、については当ブログの本年7月5日付下記の記事をご覧いただきたい。
「不見識きわまれり、弁護士会広報紙にアパホテルの提灯記事」
https://article9.jp/wordpress/?p=15193
もちろん、全ての人には思想の自由も表現の自由もある。関弁連にも編集の権限がある。そのことは当然として、弁護士会の広報紙でアパホテルを取りあげることには大きな問題がある。
弁護士会は現行憲法の理念を遵守して人権と平和と民主主義擁護を宣言している。一方、アパホテルグループといえば、歴史修正主義の立場を公然化し、改憲の必要を説いて、非核三原則を否定し核武装総論者としても知られている。両者は、言わば水と油の関係にある。
その弁護士会が、あたかもなんの問題もないごとくに、アパホテルを取りあげては、世間に誤解を生む。アパホテルが変わったのか、あるいは弁護士会が変質したのか、と。
まさか、「関弁連だより」の編集者が、アパホテルについてなんの問題もない企業と考えていたわけではあるまい。どんな事情があって、あれだけのスペースを割いて改憲勢力の一角をなす企業の提灯記事を書いたのだろうか。まずは、礼を失することにないように、質問をしてみようということなのだ。
この公開質問状は、是非、転送・拡散をお願いしたい。関弁連からの回答あり次第、またお伝えする。
(2020年8月15日)
8月15日。75年前の今日、「戦前」が終わって「戦後」が始まった。時代が劇的に変わった、その節目の日。天皇の時代から国民の時代に。国家の時代から個人の時代に。戦争と軍国主義の時代から平和と国際協調の時代に。そして、専制の時代から民主主義の時代に…。
その時代の変化は、「敗戦」によって購われた。「敗戦」とは、失われた310万の国民の生命であり、幾千万の人々の恐怖や餓えであり、その家族や友の悲嘆である。人類にとって、戦争ほど理不尽で無惨で堪えがたいものはない。敗戦の実体験をへて、国民は戦争の悲惨と愚かさを心に刻んで、平和を希求した。
再びの戦争の惨禍を繰り返してはならない。その国民の共通意識が、平和憲法に結実した。日本国憲法は、単に9条だけではなく、前文から103条までの全ての条文が不再戦の決意と理念にもとづいて構成されている。文字どおりの平和憲法なのだ。
以下のとおり、憲法前文は国際協調と平和主義に貫かれている。8月15日にこそ、あらためて読み直すべきある。
「日本国民は、…われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果…を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、この憲法を確定する。」(第1文)
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」(第2文)
「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(第3文)
とはいえ、日本国憲法を理想の平和憲法というつもりはない。この前文には、日本の加害責任についての反省が語られていない。そして、この戦争の被害・加害を作り出した国家の構造と責任に対する弾劾への言及がない。
「戦争の惨禍」という言葉は、戦争による日本国民の被害を意味する。政府と国民が近隣諸国に及ぼした、遙かに巨大な被侵略国の被害を含むものと読み込むことはできない。日清戦争以来日本が関わった戦争の戦場は、常に「外地」であった。敗戦の直前まで、「本土」は戦場ではなかったのだ。日本本土の国民にとって、戦争とは、外征した日本の軍隊が、遠い外国で行うものだった。その遠い外国に侵略した皇軍に蹂躙された近隣諸国の民衆の悲嘆に対する認識と責任の意識が欠けている。
また、日本の植民地支配・侵略戦争をもたらし支えた日本の国家機構が天皇制であり、その最大の戦争責任が天皇裕仁にあることは自明というべきである。にもかかわらず、日本国憲法は、その責任追及に言及することなく、象徴天皇として天皇制を延命してさえいる。敗戦の前後を通じ、大日本帝国憲法と日本国憲法の両憲法にまたがって、裕仁は天皇でありつづけたのだ。
国民を戦争に動員するために、聖なる天皇とはまことに便利な道具であった。神なる天皇の戦争が万が一にも不正義であるはずはなく、敗北に至るはずもない。日本男児として、天皇の命じる招集を拒否するなど非国民の振る舞いはできない、上官の命令を陛下の命令と心得て死をも恐れず勇敢に闘う。ひとえに陛下のために。天皇制政府はこのように国民をマインドコントロールすることに成功していたのだ。
3代目の象徴天皇(徳仁)が、本日全国戦没者追悼式に臨んだ。主権者国民を起立させての発言の中に、「過去を顧み、深い反省の上に立って」との一節がある。「過去天皇制が自由や民主主義を弾圧したことに顧み、その罪科の深い反省の上に立って」との意であれば立派な発言なのだが…。
また、同式典では、アベ晋三がいつものとおり、こう式辞を述べた。
今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、終戦から75年を迎えた今も、私たちは決して忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。
この言い回しに、いつも引っかかる。「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたもの」とはいったいどういうことなんだ。
天皇のための死も、国家のための死も、死はまことに嘆かわしく虚しいものだ。これを「尊い犠牲」などと美化してはならない。天皇と政府は、戦没者とその遺族にひたすら謝罪するしかないのだ。特攻の兵士の死が、レイテで餓死した将兵の死が、東京大空襲や沖縄地上戦での住民の死が、何故「尊い犠牲」であろうか。全ては強いられた無意味な死ではないか。その死を強いた者の責任をこそ追及しなければならない。
(2020年8月13日)
詩人の石川逸子さんからの「風のたより」が不定期に届く。「たより」から聞こえる風のこえは、忘れてはならないものを思い出させる。そして、弱い者、さびしい者たちの心を伝えている。
「たより」は、戦争の悲惨、戦争の不条理、戦争の悲哀、戦争の理不尽を、繰り返し繰り返し訴え続けている。ときに、その迫真さにたじろぐ。
「たより」の20号に、17ページに及ぶ「原爆体験記」が掲載されている。筆者は高校生(新制)である。広島県立二中(旧制)の2年生当時の被爆体験を、4年後の49年に綴ったもの。その詳細な記述の生々しさに驚かざるを得ない。
そして、「戦争とカニバリズム」の記事。「カニバリズム」は比喩ではなく、その言葉どおりの記録である。加害者は敗戦を信じなかった皇軍兵士たち、被害者はフィリピンの山村の住民。戦犯裁判の記録として確認されているところでは被害者89名を数えるという。45年10月以後47年2月までのことであるという。まさしく、鬼気迫る記事。
また、次のような心に沁みる詩も掲載されている。作者は「亡き詩人 庚妙達(ユ・ミュンダル)さん」とのこと。
チュムイ 巾着
わたくしの
ハルムニムは
枯木のように
細うございました
庭の日溜りに座る
ハルムニムに
抱きつくと
チュムイから
お小遣いが
出てきます
三角形にしぼられた
小さい巾着袋です
するするっと紐を
引っ張ったり 桔んだり
折れそうな腰にまきつけて
遊びました
そして
魔法のチュムイは
チマに隠れます
隣の釜山から
玄界灘の海を越え
はるばるくっついてきた
素朴な巾着は
祖母の母の手縫いだったろうか
手のひらに軟らか
朝鮮紙幣が
小さく きちんと
折りたたまれていても
目本国では 決して
使用できないのです
白髪を束ね 銀のピネを挿す
チョゴリ チマのハルムニムは
遠い向うから
白一点の美しさで
わたくし達 孫の所へ
訪ねてくるのです
さすらいの地へ
ひっついてきた
チュムイは
さいごのお伴にも
黙っていっしょでした
ああ
ひそやかな痛み
ひそやかな愛を
閉じこめられていたであろう
袋のなか
ついに
何もチュムイに
入れてやれなかった
わたくしでした
石川さんご自身の、こんな、老化を楽しむ詩もある。
脳の奥で・石川逸子
脳の奥で
引っぱり出してもらえない
コトバ が うようよ うごめいています
(あらら わたしの番なのに
どうして呼んでくれないの)
(おや 今度はわたしだ
ほら 退いてよ あなたが邪魔してるから
出ていけないんでしょ)
ハハ
どうか 喧嘩しないでくださいね
花の名前
野菜の名前
昆虫の名前
歴史上の人物
なつかしい友だちの名
脳の奥で
ひしめきあって
出たがっているけど
なかなか 出てきてくれないんだよね
ハハン
それが「老化」です
ひとことで片づけられてしまったけど
脳の奥で
ひしめきあい
出番を待ってるコトバたちを
想像すると
ときに 楽しくなってしまいます