澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

文京区教育委員会の見識を問う ― なぜ「日本兵が撮った日中戦争」写真展の後援申請を却下したのか

8月は、戦争を語り伝えるべきとき。あの戦争とは、いったいなんだったのだろう。戦地の生活とは、どんなものだったのか。そして銃後は。戦争とは、日常とどのようにつながり、どのように離れていたのだろうか。その戦争は、どうして起こったのか。どうして防げなかったのか。誰が、どんな思惑で戦争をたくらんだのか。いや、全国民の熱狂が戦争を欲したのだろうか。どうすれば、戦争の体験は、世代を超えて継承できるのだろうか。

そのようなことを語り伝え、考えるべき8月には、いくつもの恰好の企画がある。私の身近にも、今日から3日間、こんな企画がある。まず、これを宣伝したい。

「日本兵が撮った日中戦争」

平和を願う文京・戦争展
文京・真砂生まれの村瀬守保写真展

DVD上映 証言1 侵略戦争
      証言2 中国人強制連行
文京空襲  語り部 小林暢夫さん
??????????? (8月10日午後2時より)

とき8月 8日(木) 13:00?18:00
  8月 9日(金) 10:00?20:00
  8月10日(土) 10:00?16:00
ところ 文京シビック アートサロン(展示室2)
入場無料

2年半にわたり中国各地で撮影し、家族に送られた日本兵の日常

村瀬守保さん(1909年?1988年)は1937年(昭和12年)7月に召集され、中国大陸を2年半にわたって転戦。カメラ2台を持ち、中隊全員の写真を撮ることで非公式の写真班として認められ、約3千枚の写真を撮影しました。天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国各地を第一線部隊の後を追って転戦した村瀬さんの写真は、日本兵の人間的な日常を克明に記録しており、戦争の実相をリアルに伝える他に例を見ない貴重な写真となっています。一方では、南京虐殺、「慰安所」など、けっして否定することのできない侵略の事実が映し出されています。

?一人一人の兵士を見ると、
?みんな普通の人間であり、
?家庭では良きパパであり、
?良き夫であるのです。
?戦場の狂気が人間を野獣に
?かえてしまうのです。
?このような戦争を再び
?許してはなりません。
?????????? 村瀬守保 

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さて、ここからが暑苦しい話題。

この企画の主催者は、日中友好協会文京支部(代表者は、小竹紘子・元都議)である。同支部は、今年の5月31日付で、文京区教育委員会に後援を申請した。お役所用語では、「後援名義使用申請書」を提出した。

その申請書の「事業内容・目的」欄にはこう記載されている。

「保護者を含めて戦争を知らない世代が、区民の圧倒的多数を占めています。従って子どもたちに1931年から1945年まで続いた戦争日中戦争、太平洋戦争について語り伝えることも困難になっています。文京区生まれの兵士、村瀬守保氏が撮った日中戦争の写真を展示し、合わせて文京空襲の写真を展示し、戦争について考えてもらう機会にしたい。」

なんと、この申請に対して、文京区教育委員会は「後援せず」という決定にしたという。このことが、8月2日東京新聞朝刊<くらしデモクラシー>に大きく取りあげられた。

同記事の見出しは、日中戦争写真展、後援せず」「文京区教委『いろいろ見解ある』」、そして「主催者側『行政、加害に年々後ろ向きに』」というもの。

 日中戦争で中国大陸を転戦した兵士が撮影した写真を展示する「平和を願う文京・戦争展」の後援申請を、東京都文京区教育委員会が「いろいろ見解があり、中立を保つため」として、承認しなかったことが分かった。日中友好協会文京支部主催で、展示には慰安婦や南京大虐殺の写真もある。同協会は「政治的意図はない」とし、戦争加害に向き合うことに消極的な行政の姿勢を憂慮している。

 同展は、文京区の施設「文京シビックセンター」(春日一)で八?十日に開かれる。文京区出身の故・村瀬守保(もりやす)さん(一九〇九?八八年)が中国大陸で撮影した写真五十枚を展示。南京攻略戦直後の死体の山やトラックで運ばれる移動中の慰安婦たちも写っている。

 同支部は五月三十一日に後援を区教委に申請。実施要項には「戦場の狂気が人間を野獣に変えてしまう」との村瀬さんの言葉を紹介。「日本兵たちの『人間的な日常』と南京虐殺、『慰安所』、日常的な加害行為などを克明に記録した写真」としている。

 区教委教育総務課によると、六月十四日、七月十一日の区教委の定例会で後援を審議。委員からは「公平中立な立場の教育委員会が承認するのはいかがか」「反対の立場の申請があれば、後援しないといけなくなる」などの声があり、教育長を除く委員四人が承認しないとの意見を表明した。

日中友好協会文京支部には七月十二日に区教委が口頭で伝えた。支部長で元都議の小竹紘子さん(77)は「慰安婦の問題などに関わりたくないのだろうが、歴史的事実が忘れられないか心配だ。納得できない」と話している。

 村瀬さんの写真が中心の企画もあり、二〇一五年開催の埼玉県川越市での写真展は、村瀬さんが生前暮らした川越市が後援。協会によると、不承認は文京区の他に確認できていないという。

 協会事務局長の矢崎光晴さん(60)は、今回の後援不承認について「承認されないおそれから、主催者側が後援申請を自粛する傾向もあり、文京区だけの問題ではない」と話す。「このままでは歴史の事実に背を向けてしまう。侵略戦争の事実を受け止めなければ、戦争の歯止めにならないと思うが、戦争加害を取り上げることに、行政は年々後ろ向きになっている」と懸念を示した。

なんと言うことだろう。戦争体験こそ、また戦争の加害・被害の実態こそ、国民が折に触れ、何度でも学び直さねばならない課題ではないか。「いろいろ見解があり、中立を保つため」不承認いうのは、あまりの不見識。「南京虐殺」も「慰安所」も厳然たる歴史的事実ではないか。教育委員が、歴史の偽造に加担してどうする。職員を説得して、後援実施してこその教育委員ではないか。

「戦争の被害実態はともかく、加害の実態や責任に触れると、右翼からの攻撃で面倒なことになるから、触らぬ神を決めこもう」という魂胆が透けて見える。このような「小さな怯懦」が積み重なって、ものが言えない社会が作りあげられてていくのだ。文京区教育委員諸君よ、そのような歴史の逆行に加担しているという自覚はないのか。

文京区教育委員会事案決定規則(別表)によれば、この決定は、教育委員会自らがしなければならない。教育長や部課長に代決させることはできない。その不名誉な教育委員5名の氏名を明示しておきたい。

すこしは、恥ずかしいと思っていただかねばならない。そして、ぜひとも、汚名を挽回していただきたい。
教育長 加藤 裕一?
委員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
委員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
委員 坪井 節子(弁護士)
委員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)

なお、教育委員の報酬は月額231,500円である。月一回の定例会に欠席しても全額が支払われる。その勤務ぶりについて、下記の区議のブログがある。これに、寄せられた区民の声に耳を傾けていただきたい。
http://a-kaizu.net/blog/archives/224
https://blogs.yahoo.co.jp/bunkyokugi/7234471.html

(2019年8月8日)

核兵器不使用を絶対的に保証するものは、廃絶以外にない。

だれの言葉かは知らないが、「8月は6日9日15日」である。8月こそは、鎮魂の月であり、戦争の悲惨と愚かさを語り継ぐべき時、そして、あらためて平和の尊さを確認して「憲法第9条」擁護を誓うべき季節。なお、「6日9日15日」は、安倍晋三が、気の乗らない挨拶文の朗読を強いられる日でもある。

被爆から間もないじきに、広島の小学校に入学した私には、8月6日は特別の日である。その日の8時15分が人類史の転換点だとも思っている。その時、人類は、種としての自死の能力を手に入れたのだ。

それから74年目の今日。広島平和記念公園で恒例の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式典」が営まれた。雨の中のしめやかな式典だったという。

松井一実市長の平和宣言は、列席した安倍晋三の目の前で朗読され、核兵器禁止条約に背を向ける日本政府に対し、「被爆者の思い」として署名・批准を求めると明確に宣せられた。

安倍晋三首相はいつものとおり、ホントにつまらない、気持ちのこもらない挨拶文を朗読した。紋切りの美辞麗句はあったが、「被爆者の思い」に応えるところはまったくなかった。

記者会見では「核兵器禁止条約には保有国が一カ国も参加していない」としてその実効性を疑問視し、「被爆者代表から要望を聞く会」に臨んでは、被爆者を前に日本政府による核兵器禁止条約の署名・批准を否定する姿勢をあらためて明確にした。この人は、本当に日本の首相なんだろうか。それとも、アメリカの属領長に過ぎない人なのだろうか。被爆者にも、被爆運動にも敵対する、日本の政府とは、首相とはいったい何なのだろう。

今日の式典で、耳目を惹いたのは、湯崎英彦広島県知事のあいさつだった。要点を抜粋してご紹介したい。

 絶望的な廃虚の中、広島市民は直後から立ち上がりました。水道や電車をすぐに復旧し、焼け残りでバラックを建てて街の再建を始めたのです。市民の懸命の努力と内外の支援により、街は不死鳥のごとくよみがえります。

 しかしながら、私たちは、このような復興の光の陰にあるものを見失わないようにしなければなりません。緑豊かなこの平和公園の下に、あるいはその川の中に、一瞬にして焼き尽くされた多くの無辜の人々の骨が、無念の魂が埋まっています。かろうじて生き残っても、父母兄弟を奪われた孤児となり、あるいは街の再生のため家を追われ、傷に塩を塗るような差別にあい、放射線被ばくによる病気を抱え今なおその影におびえる、原爆のためにせずともよかった、筆舌に尽くし難い苦難を抱えてきた人が数多くいらっしゃいます。被爆者にとって、74年経とうとも、原爆による被害は過去のものではないのです。

 そのように思いを巡らせるとき、とても単純な疑問が心に浮かびます。

 なぜ、74年たっても癒えることのない傷を残す核兵器を特別に保有し、かつ事あらば使用するぞと他を脅すことが許される国があるのか。

 それは、広島と長崎で起きた、赤子も女性も若者も、区別なくすべて命を奪うような惨劇を繰り返しても良い、ということですが、それは本当に許されることなのでしょうか。

 核兵器の取り扱いを巡る間違いは現実として数多くあり、保有自体危険だというのが、米国国防長官経験者の証言です。

 明らかな危険を目の前にして、「これが国際社会の現実だ」というのは、「現実」という言葉の持つ賢そうな響きに隠れ、実のところは「現実逃避」しているだけなのではないでしょうか。

 核兵器不使用を絶対的に保証するのは、廃絶以外にありません。しかし大国による核兵器保有の現実を変えるため、具体的に責任ある行動を起こすには、大いなる勇気が必要です。

 唯一、戦争被爆の惨劇をくぐり抜けた我々日本人にこそ、そのエネルギーと勇気があると信じています。それは無念にも犠牲になった人々に対する責任でもあります。我々責任ある現世代が行動していこうではありませんか。

?(2019年8月6日)

益子・「朝露館」(関谷興仁陶板彫刻美術館)で聴き入る石川逸子の詩

本日(6月16日)初めて、益子に「朝露館」を訪ねた。13名の小さなグループの一員として。そこで、関谷興仁・石川逸子ご夫妻に、展示内容の説明を受けた。

関谷興仁とは何者か、彼の陶板彫刻美術とは何か。丸木美術館のホームページの中に、当時同美術館館長だった針生一郎が、関谷興仁陶板作品私観」として語っている。2003年7月のこと。一部を抜粋して引用する。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2003/sekiya.htm

関谷興仁は1965年ごろまで組合活動に熱心な教師だったが、定年前にやめてクリーニング屋を経営しながら、新左翼の救援活動にたずさわるうち、80年代はじめから「何も考えずに」陶器づくりに集中しようと、益子の窯元に弟子入りした。
だが、土をこねると造形する暇もなくうかびあがるのは、大戦中のホロコースト、日本軍の殺戮、本土空襲や沖縄戦、特攻隊や原爆の無数の戦没者と、戦後の解放闘争や水俣のような公害の犠牲者たちの顔、顔だったという。

「僕には、こうして悼むしか、今に対する対し方はない。それは僕自身を悼むことである」という制作メモの一節が、わたしには切実に響く。

作品の構成をみると、主題別に厳選されたというより、これしかないと記憶からうかびあがった詩(詞)を彫りこんで焼成した陶板を組みあわせ、あるいはインスタレーション風に配置している。

金明植の叙事詩『漢拏(ハルラ)山』、石川逸子の90年代の長詩『千鳥ヶ淵へ行きましたか』、正田篠枝、深川宗俊の短歌、大原三八雄の英詩、石川逸子の詩集『ヒロシマ連祷』から成るヒロシマ・シリーズ。
とりわけ妻である石川逸子の詩は、さすがに詩的ヴィジョンの深まりを身近に受けとめてきた人生の同行者らしく、丸木位里と俊の『原爆の図』とそれ以後の共同制作に似た味わいがある。

戦争と戦後の無限の怨念をいだく死者の沈黙に迫ろうとする彼の仕事は、もしかしたら現代陶芸に新しいジャンルをきりひらくかもしれない。
(針生一郎 美術評論家・丸木美術館館長)

朝露館は、夥しい無辜の理不尽な死に想いを致す場である。本日、ここで石川逸子さんが、2編の自作の詩を朗読され、一同が聴き入った。

一編は、「千鳥ヶ淵に行きましたか」という長編詩の一節。そして、「もっと生きていたかった?子どもたちの伝言」と表題する詩集の一編「一枚の地図」。マレーシアにおける皇軍の蛮行をテーマにした、以下の詩。

一枚の地図

ここに
一枚の地図があります

市販の地図でいくら探しても
地図のなかの村は 見つからない
五十四年前
跡形なく消えてしまった村
マレーシア・ネグリセンビラン州ジュルブ県
イロンロン村

その地図を描いたのは
村が廃墟となったとき
十四歳の少女だった蕭月嬌
幻となった村の風景を
長く 胸にあたため
憤怒と悲哀のなかで 描きました

イロンロン村をゆったりと蛇行して
川はながれています
右手は鬱蒼とした山地
村の中央 川と道路の間には
大きな錫の精錬工場
蕭月嬌の家の裏手には学校

道路に面していくつかの店
小さな古い飛行場に
旗が二本 なびいています

村に入る道
また広い道路に沿って
あるいは川に沿って
家々が建ち並び
その一軒一軒に
住んでいた人の名が 丁寧に記されています
蕭来源
駱発
鐘月雲
張生
という具合に

まわりを山に囲まれ
空気はあくまで清らかに
作物は実り豊かに
戦いの日にも桃源郷のように
穏やかだった 村
つつましく 堅実に
助け合って働いていた村人たち

蕭月嬌は
母と姉 弟との 四人家族
畑で せっせと働きながら
日々 ただ楽しかったのです
一九四二年三月十八日
日本軍が不意にあらわれる
その日まで

その日
十四歳の蕭月嬌は
母を 弟を 失いました

ちょうど昼休み 十九歳の姉と家の食堂にいて
自転車に乗って村に入ってくる 日本軍人らに気づき
あわてて姉と裏門から抜けだし
這ってパイナップル畑に隠れたため
二人だけ助かったのです
まさか村中殺されるとは思わず
「日本軍はクーニヤンを見ると犯す」
という噂に逃れたのでした

夜になって
さらに隣村まで逃れ
バナナ園の溝に隠れて
はるか燃え上がるイロンロン村を見ていました

姉と抱き合い
そんな遠くまで聞こえてくる
村人たちの絶叫を 震えながら 聞いていました

翌朝帰っていった村は
いっぱいの死体
母も 弟も
生きてはいなかった
幼い弟はさんざん斬られてすぐ死ねず
道に這い出したのでしょう
もがき苦しんだ姿で息絶えていました

「おう どうしてこんな目めに会わなくてはならないのか!」
一九八六年夏
日本にやってきて
むせび泣きながら
証言された蕭月嬌さん
四十四年の月日が経っていました

姉は日本軍に連行されるのを恐れて
すぐ婚約者と結婚し
孤児となって過ごした解放までの
三年八ケ月
飢え
野の草 タニシを取って
空腹をごまかし
栄養失調で目は黒ずみ
死に近い日々だった

「おうどうしてこんな目に会わなくてはならないのか!
この世から
戦争を消滅させたい
それが願いです」
ハンカチで日を押さえ 言われました

イロンロン村
今は
一面に 生い茂る草草
ところどころぽうぽうとひょろ高い樹が生え
風にしなう 荒れはてた土地

そこに
かつて美しい村があり
人々が行きかい
つつましく働き
夢を語っていたことを
一枚の地図だけが 示しています

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益子に行ったら、朝露館を訪ねてみてください。
〒321-4217栃木県芳賀郡益子町益子4117-3
電話番号 0285-72-3899
但し、開館時期は限られています。
春期(4月?6月) 秋期(9月?11月)
開館日:金曜・土曜・日曜
開館時間:12:00?16:00まで
※開館時期以外のお問い合わせはこちら
TEL:03-3694-4369(9:00?16:00)

なお、ホームページが充実しています。
http://chorogan.org/http://chorogan.org/access.html案内のユーチューブもあります。
https://www.youtube.com/watch?v=_n2xAHwSpEY
ぜひ、私のブログもどうぞ。
益子・「朝露館」(関谷興仁陶板彫刻美術館)ご案内
https://article9.jp/wordpress/?p=12202

(2019年6月16日)

「まほろばの平和の心を人問はば 上野の山の花の賑わい」

墨堤こそが桜の名所と心得の御仁には、「佃育ちの白魚さえも、花に浮かれて隅田川」であろうが、こちらは「銭湯で上野の花の噂かな」である。今年は、花の噂の出る時分からこの方、ほぼ毎日上野の山に通い続けている。人が集まる樹も、オオヒガンザクラ、ヨウコウやヒナギクザクラから、オオシマ、ソメイヨシノに移ってきた。満開に近くなって花冷えの日が続き、ソメイヨシノはずいぶんと長持ちしているが、今日は暖かい。明日は花吹雪だろう。

早朝、赤門から東大キャンパスにはいって鉄門を出る。無縁坂を下ると、不忍池の桜が見えてくる。ここで思わず頬が緩む。咲き誇ったソメイヨシノだけではなく、いくつもの品種が春を謳歌している。

行き交う人の7分か8分かは、外つ国の人々。まったく解せぬ言葉も耳に飛び込んで来る。みな賛嘆の面もち。私は、日本の自然を語る際にはナショナリストになる。花の上野は、まずは平和な国際交流の舞台である。

ところで、桜の名所には必ず「薀蓄オジさん」が出没する。この日も、出た。
多分珍しい品種なのだろう。コケシミズと名札がかかっている、白い大ぶりの花をしげしげと見ていたら、声をかけられた。「これは、オオシマの改良種なんですよ」。

オオシマよりは遙かに大ぶりの花だが、緑がかったこの風情は、なるほどオオシマの改良種と言われればまことにそのとおり。「薀蓄オジさん」には、敬意を表さねばならない。

畏まってコケシミズについての薀蓄を拝聴して、「上野公園で見るべき桜は何でしょうか」とお伺いを立てると、「ここの名物と言えば、やはり、コマツオトメでしょうね」とのお答え。「ああ。ソメイヨシノの片親と言われている、あの動物園前の」というと、遮られた。「かつては、そう言われていましたが、最新のDNA分析では、どうもそうではないようですよ。ソメイヨシノは、やはりエドヒガン、オオシマ、ヤマザクラの交配の繰り返しでできたもののようですね」。さすが、薀蓄オジさん。

薀蓄オジさんとのお別れに際しては、心からの感謝の意を表明しなくてはならない。心からの、という誠心誠意の真摯さが重要で、口先だけのおざなりなアベのごとき謝意の表明は国際関係でも紛争のタネとなる。反面教師のありがたい教えを心しなければならない。本日は、ソメイヨシノに加えて、大輪のシロタエや、ベニユタカの満開を堪能し、咲き始めたヤエベニトラノヲを愛でて帰途に。私もちょっと、薀蓄オジさんぶりがうつってきたかも。

つくづくと、平和の大切さを思う。かつて陸軍が桜を兵営に植えたのは、桜の散る様を兵の戦死になぞらえ、桜花の散り際の美しさを兵の死の潔さに喩えてのことといわれる。その桜を、文部省は全国の学校の校庭に植えたのだ。

太平洋戦争末期、戦況劣勢となってのレイテ沖海戦において、史上初めて「神風特攻隊」が編成された。その第一陣は、「敷島隊」、「大和隊」、「朝日隊」、そして「山桜隊」の計4隊、乗員13人であった。いうまでもなく、本居宣長の「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」という歌からの命名。若い兵士の命は、桜のごとく散るよう強いられたのだ。

上野の山の花と人とのにぎわいは、平和と国際協調あればこそ。平和憲法とともに、この花の美しさとにぎわいをいつまでも保ちたいものと思う。
(2019年4月5日)

本日、東京大空襲の日。10万の犠牲者の無念に合掌。

3月10日。胸が痛む日。74年前の今日、東京大空襲で一夜のうちに10万人の命が失われた。その一人ひとりに、個人史があり、思い出があり、夢があり、親しい人愛する人がいた。自然災害による被災ではない。B-29の大編隊が、東京下町の人口密集遅滞に焼夷弾の雨を降らせてのことだ。東京は火の海となって焼失し、都市住民が焼き殺された。

広島・長崎に投下された原爆も、沖縄地上戦も、この世の地獄に喩えられる惨状であったが、日本各地での都市空襲被害も同様であった。その中の最大規模の被害が東京大空襲である。

1945年3月10日早暁、325機のB-29爆撃機が超低空を飛行して東京を襲った。各機が6トンのM69ナパーム焼夷弾を積んでいたという。米軍が計算したとおり、折からの春の強風が火を煽って、人と町とを焼きつくした。逃げれば助かった多くの人が、防空法と隣組制度で消火を強制されたために逃げ遅れて、命を失った。

この空襲被害は避けることができなかったものだろうか。1941年に始まった対米戦争の終戦が早ければ貴重な人命を失うことはなかったのだ。当時既に、情報を把握している当局者には、日本の敗戦は必至の事態であった。

前年(44年)7月9日にはサイパンが陥ちている。続いて、8月1日にはテニアン、8月10日にグアム。こうして、B-29爆撃機の攻撃圏内に日本本土のほぼ全域が入ることになった。これらの諸島を基地としたB-29の本土襲来があることは当然に予想されており、東条内閣はサイパン陥落の責任をとる形で7月18日に総辞職している。

東条内閣の成立は、太平洋戦争に突入の直前。その前に首相の座にあったのが近衞文麿である。この人が、45年2月14日、東京大空襲の1か月ほど以前に、天皇(裕仁)に面会して、近衛上奏文と言われる文書を提出している。「敗戦は必至だ。早急に戦争終結の手を打つ必要がある」という内容。

やや長文のうえ候文の文体が読みにくいが、要所を摘記してみる。

敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。
敗戦は我が国体の瑕瑾(かきん?傷)たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革(天皇制の廃絶のこと)とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。

つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。

戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。彼等はすでに戦争遂行の自信を失い居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。

此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。以上

「勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続することは、全く共産党の手に乗るものと考えます。従って国体護持(天皇制維持)の立場よりすれば、一日も早く戦争終結の方法を実行するべきものと確信しています」というのが、近衛の情勢観。

開戦も終戦も、権限のすべてを握るものが天皇であった。「元首相」の立場では、精一杯のことだったろう。終戦のためには軍の実権を握る勢力(近衛は「此の一味」と言っている)を一掃しなければならず、それはなかなかに困難ではあったろうが、それができるのは天皇だけなのだ。

この日、天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」と言い、近衛は「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」と述べたとされている。

その後の経過において、天皇が言った「もう一度、戦果を挙げてから」のという機会は一度もなかった。すべては、近衛が「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか」と危惧したとおりとなった。

このあと1か月ほどで、3月10日を迎える。首都が壊滅状態となり、10万の人命が失われても本土決戦の絶望的作戦は変更にならない。4月1日には、本土への捨て石としての沖縄地上戦が始まり6月23日に惨憺たる結果で沖縄守備隊の抵抗はやむ。ここで日本側だけで19万人の死者が出ているが、まだ戦争は終わらない。全国の主要都市は、軒並み空襲を受け続ける。そして、ポツダム宣言の受諾が勧告されてなお、天皇は国体の護持にこだわり、広島・長崎の悲劇を迎え、ソ連の対日参戦という事態を迎えてようやく降伏に至る。

すべての戦争犠牲者が、天皇制の犠牲者ではあろうが、敗戦必至になってからの絶望的な戦闘での犠牲者の無念は計り知れない。とりわけ、空襲の犠牲者は、同胞から英霊と呼ばれることもなく、顕彰をされることもない。その被害が賠償されることも補償されることすらもない。

広島・長崎の原爆、沖縄の地上戦、そして東京大空襲‥。このような戦争の惨禍を繰り返してはならないという、国民の悲しみと怒りと、鎮魂の祈りと反省とが、平和国家日本を再生する原点となった。もちろん、近隣諸国への加害の責任の自覚もである。2度と戦争の被害者にも加害者にもなるまい。その思いが憲法9条と平和的生存権の思想に結実して今日に至っている。

3月10日、今日は10万の死者に代わって、平和の尊さを再確認し、平和憲法擁護の決意を新たにすべき日にしなければならない。
(2019年3月10日)

祝! 「非核市民宣言運動・ヨコスカ」に神奈川県弁護士会人権賞

毎月、 「非核市民宣言運動・ヨコスカ」から、「たより」が届く。24頁建の立派なもの。やっていることは米軍や自衛隊との対決なのだから深刻なはずなのだが、ゆるーい運動のセンスが、素晴らしい。

本日(1月24日)届いた「たより」が、実は12月号のようだ。まずは「いずも」空母化決定への抗議行動の記事。抗議のヨットと較べて、「いずも」の巨大さに目を瞠る。いかにも、市民手作りの運動なのだ。そして、9頁のお知らせを見て驚いた。

突然のお知らせですが、このたび「非核市民宣言運動・ヨコスカ」は、第23回神奈川県弁護士会人権賞をいただくことになりました。ご支援いただいているすべての皆様に、謹んでご報告致します。

受賞理由

1972年に米空母ミッドウェイが横須賀港を母港としたことを契機に発足し、基地のない町を作ろうと、平和の声を上げ続けてきた。「糾弾より対話」をモットーに、敵を作らない地道な活動を続け、1976年2月に始まった月例デモは、2017年に500回に達した。基地問題を解説したブックレットの発行や自衛官の人権問題にも取り組んでいる。

「地道な運動」は続けてきましたが、なにかをなし得たと言えるものはほとんどなく、「人権賞」受賞にふさわしいか、とまどいもあるのですが、小さな運動への励ましと受け止め、贈呈式に望みたいと思います。なにより、反基地運動を、人権という視点から見ていただけたことを、たいへんうれしく思います。 安保関連法成立後の横須賀は、米艦防護、米イージス艦への給油等、関連法発令の現場であり、海上自衛隊施設の増強等の課題が目白押しです。「人権賞」に背中を押してもらいながら、地域の皆さんとともに、対話を重ね、平和構築の歩みを続けていきたいと思います。

神奈川県弁護士会のホームページにはこうある。

2019年2月3日(日)に開催される『人権シンポ in かながわ2019』において贈呈式を行います。当日は受賞者から受賞のお言葉をいただく予定です。贈呈式は12時45分から横浜開港記念会館講堂で行いますので、ぜひご参加下さい。

神奈川県弁護士会人権賞とは

当会は、横浜市緑区で発生した米軍機墜落事故訴訟弁護団からの寄付をきっかけに、平成4年3月に人権救済基金を設立しました。その有意義な使途のひとつとして、人権擁護の分野で優れた活動をした個人、団体を表彰することにより、人権擁護の輪を広げ、人権の更なる発展と定着に寄与したいと考え、平成8年に人権賞を創設いたしました。

表彰の対象としている活動は、次のような人権擁護活動をされたものです。

人権の侵害に対する救済活動
人権思想の普及・確立のための活動
その他、人権擁護のための活動

憲法が定める様々な基本的人権の擁護、確立のための活動、特に高齢者・障がい者・子ども・外国人・刑事被告人・被疑者・犯罪被害者等の人権に関する問題、両性の平等に関する問題、消費者問題、公害環境問題、労働問題、平和問題等の人権課題など、人権の保障がまだ十分でない状態にある人たちの人権の擁護・確立のための諸活動を行い、優れた功績を挙げた民間の個人、グループ、団体に賞を贈っております。

今年(2019年)の神奈川県弁護士会人権賞 受賞決定者は2名。
もうひとりは、西野博之さん。不登校児童の問題が社会に提起され始めた頃から、子ども達の居場所作りに献身的に取り組み、生きづらさを抱える若者達、様々な障がいのある人達に、ともに地域で育ち合う場を提供するなどの活動を続けてきた方だという。

非核市民宣言運動・ヨコスカについてはこんな記事もある。

「表彰事項」

「基地の街横須賀で、40年以上持続して平和の声を上げ続けてきた。基地問題をわかりやすく解説した各種ブックレットを発行している(30冊)。自衛官ホットライン、アンケート、裁判支援等、自衛官の人権問題にも取り組んでいる。
「糾弾より対話」をモットーに、「敵を作らない活動」を続けている。

推薦理由

「平和なくして人権なし」平和憲法の理念を守る当団体の活動はまさに人権賞にふさわしいと考える。

「たより」が、「反基地運動を、人権という視点から見ていただけたことを、たいへんうれしく思います。」と言っているのが、印象的である。弁護士会は、当然のごとく、人権課題の例示として平和問題を挙げている。人が平和に暮らすことは人としての権利なのだ。しかも、平和でなくては精神的自由も、経済的権利も成立し得ない。多くの人権をなり立たせるものとしての基礎的な人権。平和的生存権という名称を冠するか否かにかかわらず、平和は人権である。まさしく、「平和なくして人権なし」なのだ。

なお、「たより」は毎月発行。年間定期購読料は郵送料込みで2000円。

なお、「たより」は毎月発行。年間定期購読料は郵送料込みで2000円。
申込先は、下記のとおり。
横須賀市本町3?14 山本ビル2F
電話/FAX 046?825?0157

(2019年1月24日)

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『人権シンポ in かながわ2019』
2月3日(日)
横浜開港記念会館講堂

9:30
映画「新・あつい壁」上映
製作:「新・あつい壁」製作上映実行委員会
監督:中山 節夫
出演:趙 珉和、安藤 一夫、ケーシー高峰
講演 死刑廃止に向けた日弁連の取り組み
講師:小池 振一郎さん(弁護士・第二東京弁護士会)
詳細はこちら

12:45
神奈川県弁護士会人権賞贈呈式
受賞者
西野 博之さん(NPO法人フリースペースたまりば理事長)
非核市民宣言運動・ヨコスカ
14:00
シンポジウム「自衛隊は必要」と考えるあなたへ
?でも、「憲法に明記」はこんなに危険?
講演?「憲法に自衛隊を書かないことの意味」
長谷部 恭男さん(早稲田大学法学学術院教授・憲法学)
講演?「いま軍隊化する自衛隊」
半田 滋さん(東京新聞論説兼編集委員)

あたらしい憲法のはなし 『戰爭の放棄』を読む

「あたらしい憲法のはなし」は、青空文庫で読むことができる。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html

これに目を通して驚いた。底本が、日本平和委員会発行のものだという。この底本平和委員会版「あたらしい憲法のはなし」は、1972年11月3日初版発行で、2004年1月までに、なんと38版を重ねている。確かに、ロングセラーなのだ。日本平和委員会発行ということは、日本の正統護憲勢力からお墨付きを得ていると言ってよい。何を隠そう、私も日本平和委員会の末端会員である。

護憲勢力から最も評価されたのが、「第6章 戰爭の放棄」であろう。確かに、ここは違和感なく読める。まず、全文を掲出しよう。

六 戰爭の放棄
? みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

 そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
? もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
? みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。

いくつも、心に留めなければならないフレーズがある。

こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。

戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。

(戰力の放棄に関し)みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

立派な文章だと思う。しかし、どうしても手放しでの賛美はできない。この文章の足らざるところに、やはり批判が必要だ。

まず何よりも、ここには被害感情と厭戦の気分は書き込まれているが、加害責任については、まったく触れられていない。

この一文は「こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。」から始まっている。そのとおり、「日本は兵隊を戦地に送り出した」のだ。だから、戦争とは長く、「外地」でのできごとだった。その「外地」に、兵隊として「送りだされたおとうさんやにいさんたち」は何をしたか。もちろん、侵略者として闘ったのだ。明らかな加害者だった。

「こんなおそろしい、かなしい思い」は、実は皇軍に蹂躙された近隣諸国の民衆が真っ先に味わったことなのだ。その加害の責任に、この書が言及するところはない。

もう一つ。戦争の加害責任に触れないだけでなく、日本の植民地支配にも触れていない。台湾・朝鮮・満州などの支配について、「いったい、日本はこれまでどんなことをしてきたのでしょうか」と反省を述べるところが皆無なのだ。

また、「どうして戦争が起きたのでしょうか」「誰に責任があったのでしょうか」と考えさせる視点もない。国民を戦争に駆りたてた、教育や言論統制や国民監視体制や、思想統制についての反省も皆無である。

戦争を命じた天皇の責任、「上官の命令は天皇の命令」として軍を統帥した天皇の責任、戦争を煽る道具としてこの上なく便利な役割を果たした神なる天皇についても一言も書かれていない。

この教科書をつくる過程で、どのような綱引きが行われたのだろうか。次の文章には、筆者が言いたいことが押さえつけられたような印象をもたざるを得ない。
「だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。」
これは、日本としての反省を文章化したものだろうか。

終わりは、「あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように」で文章を終わらせず、「戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。」と結んである。

戦争は、自然災害ではない。「二度とおこらないように」祈るだけではなく、「二度とおこさないようにいたしましょう」と、やや主体性ある姿勢を見せているのだ。さらに、「おこさせないようにいたしましょう」だと、天皇や財閥や保守政治家に釘を刺す内容となったはずなのだが。

ところで、「護衛艦『いずも』の空母化」や、「政府 F35戦闘機を105機購入へ」と話題となる時代が到来している。

「ほかの國よりさきに、正しいことを行ったはずの日本」が、今や「正しくないこと」に手を染めている。まこと、「世の中に正しいことぐらい強いものはなく、正しくないことぐらい弱いものはありません」。だから、われわれは、いま、安倍政権のもとで、心ぼそい思いをしなければならないのだ。

たまたま本日(12月13日)、日中戦争での日本軍南京入城の日。
(2018年12月13日)

「1941年12月8日未明」と、「2018年12月8日未明」と。

12月8日である。1941年の本日早朝、全国民がNHKの臨時ニュースに驚愕した。「大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」というのだ。

77年後の本日未明、幸いにして大本営発表はない。代わって報じられたものは、本8日未明における参院本会議での諸悪法案の可決成立である。国会前に集まった抗議の人々のプラカードの中に、「審議が足りない」「議論を尽くせ」「数の暴力を許すな」「生煮え法案反対」という文字が躍っている。哀しい事態と言わざるを得ない。議会制民主主義が壊れかかっている。

1941年の今日、天皇制日本は自滅への行動を開始した。恥ずべき奇襲攻撃をもって英米に対する戦争を開始したのだ。この日、多くの日本人は不安を抱えつつも昂揚した気分に包まれていたという。いま、歴史は繰り返さないと自信をもって言える事態だろうか。

本日、大本営発表はない。しかし近い将来の12月8日に、再びの悪夢はめぐってこないだろうか。また、本日が大本営発表の日の前年、あるいは前々年の12月8日と近似しているとは言えないだろうか。大本営が発表した開戦と、審議らしい審議のない議会制民主主義の実質的破壊との間に、どれだけの距離があるだろうか。

確認しておこう。満州事変にせよ、日中戦争にせよ、そして英領マレー奇襲も真珠湾攻撃も、すべて日本の方から仕掛けていることだ。日本は、けっして「やられたから、やむなく反撃した」のではない。常に征戦したのだ。だから、戦争の最終盤まで、戦地とは外地のことだった。近隣諸国が、いまだに日本の好戦性を危惧することには、歴史的に拭いがたい根拠があるのだ。

もう一つ。天皇制軍国主義における軍部の専横は、議会制民主主義の衰退と裏腹であった。議会制民主主義が国民の支持を失ったとき、天皇制とは軍国主義・侵略主義と同義になった。当時の政党政治がいかに未熟なものであれ、軍部の跳梁に対抗しうる貴重な機構だった。だが、議会制民主主義が自壊した。国民とメディアが議会を見限った。学校教育もである。こうして、軍部専横が、敗戦まで続くことになる。

2018年の12月8日。暗澹たる気持で、わが国の議会制民主主義の現状を見ざるを得ない。何たる自民・公明の体たらく、そしてこれに追随した維新。この3党の醜態と責任とを忘れてはならない。

ことの重大性は、入管法・水道法・漁業法・日欧EPA等の個別悪法の内容の問題だけではない。いつの間にかここまで忍び寄っている、議会制民主主義形骸化の恐怖である。

何年かあとに、「1941年12月8日未明」と同じニュアンスをもって、「2018年12月8日未明」が語られる日の来ることを恐れる。
(2018年12月8日)

「あたらしい憲法のはなし 『天皇陛下』」を読む

周知のとおり、日本国憲法は、1947年5月3日に施行された。その年の8月、文部省は新憲法の解説書をつくっている。よく知られている「あたらしい憲法のはなし」である。新制中学校1年生用社会科の教科書として発行されたもの。1947年8月2日文部省検査済とされている。

「憲法」「民主主義とは」「國際平和主義」「主権在民主義」「天皇陛下」「戰爭の放棄」「基本的人権」「國会」「政党」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」「改正」「最高法規」の15章からなるもの。《再軍備》《逆コース》が災いして、1950年に副読本に格下げされ、1951年から使われなくなった。そういわれている。

ときに礼賛の対象とされてきた「あたらしい憲法のはなし」だが、今見直して、その内容は時代の制約を受けたものと言わざるを得ない。とりわけ、天皇に関する解説は、萎縮して何を言っているのかよく分からない。こんなものを戦後民主主義の申し子のごとく、褒めそやしてはならない。以下に、第5章『天皇陛下』の全文とその批判を掲記しておきたい。

五 天皇陛下
 こんどの戰爭で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。

 えっ? 「こんどの戰爭で、天皇陛下は、国民の皆様にたいへんごくろうをかけてしまいました」のお間違いではありませんか。天皇(裕仁)もその家族も苦労なんかしていませんよ。国民は、天皇が始めた戦争で、文字通り辛酸を嘗めたのです。「苦労しました」なんてものじゃない。徴兵され、あるいは徴用され、上官からのビンタを受け、戦地で死の恐怖に曝され、ジャングルの中で飢えに苦しみ、空襲で焼け出され、実に310万人もの死者を出したのです。天皇(裕仁)とその家族は、戦地へ行くことも死の恐怖に怯えることもなく、なによりも飢えていないじゃないですか。

 なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかったので、國民の考えとはなれて、とうとう戰爭になったからです。

 「なぜならば」って、「なぜ、天皇が、こんどの戰爭でたいへんごくろうをなされたのか」という理由ですよね。そんなこと、わざわざ教科書に書くことじゃないでしょう。でも、「天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかった」だけは、多分正しい。たとえば、東条英樹に組閣を命じたのは、國民ぜんたいではなく、天皇(裕仁)自身だったのですからね。

 そこで、これからさき國を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。

「二度とこのようなことのないように」って、日本語の正確な読み方では、「二度と天皇陛下が、たいへんごくろうをなさるようなことのないように」ってこと。そんなことのために、憲法をこしらえたの? そんなふうに憲法をこしらえるために苦心したというの? ヘンなの。でも、「天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。」は、そのとおり。ここだけ、天皇に「陛下」が付いていませんね。これは偶然?

憲法は、天皇陛下を「象徴」としてゆくことにきめました。みなさんは、この象徴ということを、はっきり知らなければなりません。日の丸の國旗を見れば、日本の國をおもいだすでしょう。國旗が國の代わりになって、國をあらわすからです。みなさんの学校の記章を見れば、どこの学校の生徒かがわかるでしょう。記章が学校の代わりになって、学校をあらわすからです。いまこゝに何か眼に見えるものがあって、ほかの眼に見えないものの代わりになって、それをあらわすときに、これを「象徴」ということばでいいあらわすのです。こんどの憲法の第一條は、天皇陛下を「日本國の象徴」としているのです。つまり天皇陛下は、日本の國をあらわされるお方ということであります。

 こんな説明で分かるはずはありません。「天皇は『日本の國をあらわされるお方』」って言うんですか。それって何のことだか分かりません。ほんとうは、この文章を書いた人もさっぱり分かっていないんですね。天皇自身だって、なんだか分からない。だから、「はっきり知らなければなりません。」といわれても、「なんだか分かりません」としか言いようがない。分かったふりをする必要はありませんよね。
それぞれの学校にバッジがあり校旗があって、バッジを付けていたり校旗を掲揚していれば、どこの学校の生徒かがわかります。象徴の説明としてはよく分かりますね。でも、天皇って本当にバッジみたいなもんですか。校旗みたいなもんですか。アメリカにも、フランスにも、中国にも韓国にも、天皇はいません。なぜ戦後の日本に天皇がまだいるのか、本当に必要なのか、ここには何も書いてありません。書けないんですよね。なんだか得体が知れないけれど、否定しがたくともかく存在するもの。語るときには、敬語を使わなければならないもの。それが天皇ですね。天皇ってなんだ、と説明しなければならないので、憲法に書いてあるとおり、「象徴」と書き込んでみただけ。でも、本当にはなんの説明にもなっていない。そんなものですよね。

 また憲法第一條は、天皇陛下を「日本國民統合の象徴」であるとも書いてあるのです。「統合」というのは「一つにまとまっている」ということです。つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本國民の象徴でいらっしゃいます。これは、私たち日本國民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです。それで天皇陛下は、日本國民ぜんたいをあらわされるのです。

この辺が、文部省の本音でしょうか。「一つにまとまっている」のが良いことだと考えているんですね。戦時中、日本の国民は「一億火の玉」となり、「一つにまとまって」侵略戦争に邁進しました。その「火の玉」の中心にいたのが天皇ですが、その反省はないのでしょうか。日本の国民を、もう一度天皇中心の「一億火の玉」にしたいのでしょうか。どうしてまた、あらためて日本國民ぜんたいがこんなにも危険な天皇を中心にまとまらなければならないというのでしょうか。

 このような地位に天皇陛下をお置き申したのは、日本國民ぜんたいの考えにあるのです。これからさき、國を治めてゆく仕事は、みな國民がじぶんでやってゆかなければなりません。

 おや、そうでしょうか。天皇制をなくそうという意見もあったはずです。多くの国民が天皇の名による戦争で苦しみ、10万もの人が、治安維持法によって天皇の警察に逮捕されひどい目に遭わされたのですから。けっして、「日本國民ぜんたい」の考えであったはずはないとおもいますが。

 天皇陛下は、けっして神様ではありません。國民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。

 これって、教科書の文章ですよね。とてもヘン。二つの文を結ぶ順接の接続詞「ですから」が理解不能です。前の文は「天皇は神でない」ということで、後の文は「天皇にごくろうのないようにしなければなりません」ということ。なぜ、「天皇は神でない」ということを理由ないし根拠として、「ですから、私たちは、天皇を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません」と言えるのでしょうか。論理として成立し得ません。「これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。」と言われたって、金輪際分かるはずがない。

非論理的で出来の悪い文章。当時の文部省のお役人は、こんな程度だったのでしょうかね。もしかしたら、結論が先に決まっていたのかも知れません。「ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません」とまとめる必要があったのでしょうね。また、もしかしたら「ですから」って付けたのは、わざと子どもたちへの突っ込みどころをこしらえたのかも知れません。わざわざヘンな文章をこしらえて、子供たちに天皇の存在に対する疑問を醸成するよう深謀遠慮があったのかも。これも文部官僚による面従腹背の伝統だと思えば、当時の文部省のお役人の優秀さがよく分かります。

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?「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」からの訴えです。
「会」は、麻生財務大臣の辞任を求める<署名運動>と<財務省前アピール行動+デモ>を呼びかけています。

財務省前アピール行動+デモ
11月11日(日)
13時? 財務省前アピール行動
14時  デモ出発

■<署名>と<財務省前アピール行動+デモ>の資料一式をまとめたサイト■
http://sinkan.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/1111-5336-1.html
ぜひ、これをメールやツイッタ?で拡散してください。

■できるだけメッセージを添えてネット署名を■
上記の「まとめサイト」の右サイド・バーの最上段に、
1.署名用紙のダウンロード http://bit.ly/2ygbmHe
2.ネット署名の入力フォーム http://bit.ly/2IFNx0A
3.ネット署名のメッセージ公開 http://bit.ly/2Rpf6Pm
が貼り付けられています。

ぜひとも、ご協力をよろしくお願いします。もちろん、メッセージを割愛して、ネット署名だけでも結構です。
なお、署名の文面は以下のとおりです。
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財務大臣 麻生太郎 様

無責任きわまりない麻生太郎氏の財務大臣留任に抗議し、即刻辞任を求めます

森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会

10月2日に発足した第4次安倍改造内閣で麻生太郎氏が財務大臣に留任しました。しかし、第3次安倍内閣当時、財務省では、佐川宣寿氏が理財局当時の国会での数々の虚偽答弁、公文書改ざんへの関与の責任をとって国税庁長官の辞任に追い込まれました。また、福田淳一氏は女性記者への破廉恥なセクハラ発言を告発され、事務次官の辞職に追い込まれました。いずれも麻生氏が任命権者の人事でした。
しかし、麻生氏は厳しい世論の批判にも居直りを続け、事態を放置しました。それどころか、森友学園への国有地の破格の安値売却について、録音データなど動かぬ証拠を突きつけられても、なお、「処分は適正になされた」「私は報道より部下を信じる」と強弁し続けました。
福田次官のセクハラ行為については、辞任が認められた後も「はめられたという意見もある」などと暴言を吐きました。
なによりも、第3次安倍内閣当時、財務省では公文書の隠蔽、決裁文書の改ざんという前代未聞の悪質きわまりない国民への背信行為が発覚しましたが、それでも麻生氏は、会見の場で記者を見下す不真面目で下品下劣としか言いようがない答弁を繰り返しました。
こうした経歴の麻生氏が私たちの税金を預かり、税金の使い道を采配する財務省のトップに居座ることに、私たちと大多数の国民は、もはや我慢の限界を超えています。
麻生氏を留任させた安倍首相の任命責任が問われるのはきわめて当然のことですが、任命権者の意向以前に私たちは、麻生氏自身が自らの意思で進退を判断されるべきだと考え、次のことを申し入れます。

申し入れ

麻生太郎氏は財務省をめぐる数々の背任、国.に対する背信の責任をとって直ちに財務大臣を辞任すること

私は上記の申し入れに賛同し、以下のとおり、署名します。

(2018年11月8日)

徴用工訴訟・韓国大法院判決に真摯で正確な理解を(その2)

10月30日韓国大法院(最高裁に相当する)の徴用工判決。原告である元徴用工の、被告新日鉄住金に対する「強制動員慰謝料請求」を認容した。

この判決に対する日本社会の世論が条件反射的に反発しあるいは動揺している事態をたいへん危ういものと思わざるを得ない。政権や右派勢力がことさらに騒ぎ立てるのは異とするに足りないが、日本社会の少なからぬ部分が対韓世論硬化の動きに乗じられていることには警戒を要する。まずは、同判決を正確に理解することが必要だと思う。それが、「真摯な理解を」というタイトルの所以である。判決は、けっして奇矯でも、反日世論迎合でもない。法論理として、筋が通っており、条理にかなっていることも理解しなけばならない。

昨日のブログは、時間の足りないなか急いで書いた。文章が練れていない生硬な読みにくさがあるし、判決の全体像を語ってもいない。あらためて、大法院広報官室の本判決に関する「報道資料」(日本語)にもとづいて、紹介記事の続編を書き足したい。

同事件において、被告側は「原告の請求権は日韓請求権協定(1965年)の締結によってすべて消滅した」と抗弁した。この抗弁の成否、つまり、「日韓請求権協定で原告らの損害賠償請求権が消滅したと見ることができるか否か(上告理由第3)」を判決は核心的争点と位置づけている。

この核心的争点における被告の抗弁の根拠は、同請求権協定2条第1項「両締約国及びその国民間の請求権に関する問題が…完全かつ最終的に解決されたことになるということを確認する」、及び同条3項「一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対する全ての請求権として同日以前に発生した事由に起因するものに関しては、如何なる主張もできないことにする」との文言が、原告ら元徴用工の被告企業に対する一切の請求権を含むものであって、「解決済み」で、「如何なる主張もできないことになっている」ということにある。

しかし、この被告の抗弁を大法院は斥けた。その理由を、多数意見は「協定交渉の経過に鑑みて、原告の被告会社に対する『強制動員慰謝料請求権』は、協定2条1項の『両締約国の国民間の請求権』には含まれない」とし、だから同条約締結によって原告の請求権は消滅していない、との判断を示した。これは、論理としては分かり易いもので、昨日のブログで詳細に紹介したとおりである。
https://article9.jp/wordpress/?p=11369

この多数意見とは反対に、請求権協定における「両締約国の国民間の請求権」には、本件の「強制動員慰謝料請求権」も含まれる、とする5名の個別意見がある。

そのうちの2人は、「だから、協定締結の効果として、韓国国内で強制動員による損害賠償請求権を訴として行使することも制限される」「結論として、原判決を破棄して原審に差し戻す」という意見。要するに、原告敗訴の意見。いま、日本政府や産経などが主張しているとおりの結論。

残る3人の意見は、違ったものである。結論から言えば、「強制動員慰謝料請求権」も、「解決済み」ではあるが、解決済みの意味は、国家間の問題としてだけのことで、国の国に対する権利は放棄されているものの、「個々の個人が持つ請求権は、この放棄の限りにあらず」ということなのだ。実は、この見解、日本政府の見解と同じなのだ。多数意見と理由を異にするが、上告棄却で原告徴用工勝訴の結論は同じものとなる。日本政府も反対しようがないのだ。

「報道資料」は、この3裁判官意見をこう紹介している。

「原告らの損害賠償請求権は請求権協定の対象に含まれると解するべきである。ただし原告ら個人の請求権自体が請求権協定によって当然消滅すると解することはできず、請求権協定により、その請求権に関する大韓民国の外交的保護権のみが放棄されたに過ぎない。したがって原告らは依然として大韓民国において被告に対して訴によって権利を行使することができる。」

 この3裁判官見解では、「請求権協定の締結によって『外交的保護権』は放棄された」が、「原告ら個人の被告企業に対する『請求権自体』は、請求権協定によって消滅していない」ということになっている。だから、韓国内での裁判による権利行使は可能という結論なのだ。

『請求権自体』とは異なる、『外交的保護権』という、一般にはなじみの薄い概念がキーワードとなっている。

『外交的保護権』(あるいは、「外交保護権」)とは、大法院の広報部の「報道資料」の表現によれば、

「自国民が外国で違法・不当な扱いを受けた場合、その国籍国が外交手続きなどを通じて、外国政府を相手に自国民の保護や救済を求めることができる国際法上の権利」と解説されている。

法律学小辞典(有斐閣)を引用すれば、

「自国民が他国によってその身体や財産を侵害され損害を被った場合に、その者の本国が加害国に対して適切な救済を与えるよう要求すること。国家がもつこのような権利を外交保護権という。」

この裁判官3人の意見は、

「原告らの個人請求権自体は請求権協定だけでは当然消滅すると見ることができず、ただ請求権協定によってその請求権に関する大韓民国の外交的保護権が放棄されることにより、日本の国内措置により当該請求権が日本国内で消滅したことにはなるが、その意味するところは、大韓民国がこれを外交的に保護する手段を失うことになるだけである。」ということ。

つまり、国家は自国民の特定の権利については、国民に代わって相手国に対して救済を求める国家自身としての権利をもつ。まさしく、徴用工の日本企業に対する請求権はそのようなもので、韓国が日本に対して「自国民である徴用工の権利について適切な救済を与えるよう」要求する国家としての権利をもっていた。この権利が外交保護権。しかし、65年請求権協定によってその「国家(韓国)の国家(日本)に対する権利」は消滅したのだ。しかし、「この国家間の協定によって、個人の権利が消滅させられたわけではない」というわけだ。

「報道資料」には、その理由としてこんな説明が付されている。

「請求権協定には、外交的保護権の放棄にとどまらず「個人請求権」の消滅について日韓両国政府の意思の合致があったと見るだけの十分かつ明確な根拠がない。」「国家と個人が別個の法的主体であるという近代法の原理は、国際法上も受け入れられているが、権利の『放棄』は、その権利者の意思を厳格に解釈しなければならないという法律行為の解釈の一般原則によるとき、個人の権利を国家が代わりに放棄する場合には、これをさらに厳格に解釈すべきである。」「請求権協定では『放棄(waive)』という用語が使用されていない。」

さらに重要なのは、以下の日本側の意思についての指摘である。

「当時の日本は請求権協定により個人請求権が消滅するのではなく国の外交的保護権のみ放棄されると解する立場であったことが明らかである。」「日本は請求権協定直後、日本国内で大韓民国国民の日本国及びその国民に対する権利を消滅させる内容の財産権措置法を制定・施行した。このような措置は、請求権協定だけでは大韓民国国民個人の請求権が消滅していないことを前提とするとき、初めて理解できる。」

実はこの点は、日本政府がこれまで国会答弁などで公式に繰り返し表明してきたことなのだ。よく引用されるのは、1991年8月27日参院予算委員会における、当時の柳井俊二外務省条約局長答弁。

大事なところだ。正確に引用しておこう。清水澄子委員の質問に対する、政府委員谷野作太郎アジア局長と柳井俊二外務省条約局長の各答弁。

○清水澄子 そこで、今おっしゃいましたように、政府間(日韓間)は円滑である、それでは民間の間でも円滑でなければならないと思いますが、これまで請求権は解決済みとされてまいりましたが、今後も民間の請求権は一切認めない方針を貫くおつもりでございますか。
○政府委員(谷野作太郎君) 先ほど申し上げたことの繰り返しになりますが、政府と政府との間におきましてはこの問題は決着済みという立場でございます。
○政府委員(柳井俊二君) ただいまアジア局長から御答弁申し上げたことに尽きると思いますけれども、あえて私の方から若干補足させていただきますと、先生御承知のとおり、いわゆる日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。
 その意味するところでございますが、日韓両国間において存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできないこういう意味でございます。

極めて明瞭に、日韓請求権協定によって「最終かつ完全に解決し」「消滅した」のは、国家が有する外交保護権であって、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではないことが述べられている。だから、個人が国内法に基づいて訴訟提起することは、当然に可能ということになる。

1992年2月26日衆議院外務委員会での柳井俊二外務省条約局長答弁は、さらに踏み込んでいる。質問者は土井たか子。さすがに切り込んだ質問をしている。

○柳井政府委員 … …
 しからばその個人のいわゆる請求権というものをどう処理したかということになりますが、この協定におきましてはいわゆる外交保護権を放棄したということでございまして、韓国の方々について申し上げれば、韓国の方々が我が国に対して個人としてそのような請求を提起するということまでは妨げていない。しかし、日韓両国間で外交的にこれを取り上げるということは、外交保護権を放棄しておりますからそれはできない、こういうことでございます。

○土井委員 (あなたは、)るるわかりにくい御説明をなさるのが得意なんですが、これは簡単に言えば、請求権放棄というのは、政府自身が持つ請求権を放棄する。政府が国民の持つ請求権のために発動できる外交保護権の行使を放棄する。このことであぅて、個人の持つ請求権について政府が勝手に処分することはできないということも片や言わなきやいけないでしょう、これは。今ここ(日韓請求権協定)で請求権として放棄しているのは、政府白身が持つ請求権、政府が国民の持つ請求権に取ってかわって外交保護権を発動するというその権利、これでしょう。だから、個々の個人が持つ請求権というのは生きている。個々の個人の持つ請求権というのはこの放棄の限りにあらず、これははっきり認められると思いますが、いかがですか。

○柳井政府委員 ただいま土井先生が言われましたこと、基本的に私、正確であると思います。この条約上は、国の請求権、国自身が持っている請求権を放棄した。そして個人については、その国民については国の権利として持っている外交保護権を放棄した。したがって、この条約上は個人の請求権を直接消滅させたものではないということでございます。
 ただ、先ほど若干長く答弁させていただきましたのは、もう繰り返しませんけれども、日韓の条約の場合には、それを受けて、国内法によって、国内法上の根拠のある請求権というものはそれは消滅させたということが若干ほかの条約の場合と違うということでございます。したがいまして、その国内法によって消滅させていない請求権はしからば何かということになりますが、これはその個人が請求を提起する権利と言ってもいいと思いますが、日本の国内裁判所に韓国の関係者の方々が訴えて出るというようなことまでは妨げていないということでございます。

同様の問題は、ソ連との間でも、中国との間でも起きている。
1991年3月26日参議院内閣委員会での、シベリア抑留者に対する質疑では、「条約上、国が放棄をしても個々人がソ連政府に対して請求する権利はある、こういうふうに考えられますが、本人または遺族の人が個々に賃金を請求する権利はある、こういうことでいいですか」という質問に対して、高島有終外務大臣官房審議官が、こう述べている。

私ども繰り返し申し上げております点は、日ソ共同宣言第六項におきます請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということでございます。したがいまして、我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないというふうに考えております。

国家間で請求権の問題が解決されたとしても、個人の請求権を消滅させることにはならない。このことは、韓国・ソ連・中国との関係において、日本政府自身が繰り返し言明してきたことなのだ。

徴用工訴訟・韓国大法院判決を法的に批判することは、少なくも日本政府のなし得るところではない。22万人と言われる強制動員された徴用工。過去の日本がいかに大規模に、苛酷で非人道的な振る舞いを隣国の人々にしたのか。まず、その訴えに真摯に耳を傾けることを行わない限り、公正な解決はあり得ない。

また、政府も企業も肝に銘じなければならない。戦争も植民地支配も、けっしてペイしないものであることを。ツケは必ず回ってくる。それは、けっして安いものではあり得ないのだ。
(2018年11月2日)

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