日弁連機関誌「自由と正義」(月刊)には、巻末に全国52単位会の弁護士懲戒全例が掲載される。弁護士会の会員に対する懲戒権は弁護士自治の根幹を支えているものだから、その行使の適切に関心をもたねばならない。もちろん、我が身にまったく無縁なことでもない。読むに気の重いことではあるが、他山の石としても目を通さざるをえない。
数日前に届いた「自由と正義」1月号の、以下の記事が目にとまった。私にとって、これは注目に値する。
懲戒処分の公告
東京弁護士会がなした懲戒の処分について同会から以下の通り通知を受けたので、懲戒処分の公告及び公表等に関する規定第3条第1号の規定により公告する。
1 処分を受けた弁護士
氏 名 吉岡一誠
登録番号 51064
事務所 東京都豊島区東池袋3-1-1 サンシャイン60
弁護士法人アデイーレ法律事務所
2 処分の内容 業務停止1月
3 処分の理由の要旨
被懲戒者は、2016年8月頃に被懲戒者の所属する弁護士法人AがBから受任した、懲戒請求者とBの夫Cとの不貞行為についての懲戒請求者に対する慰謝料請求事件についてその担当となった。被懲戒者はBとCとの婚姻関係が破綻に至っておらず、不貞行為を裏付ける証拠が弁護士法人Aが作成した定型的な書式に概括的に記入されたC名義の文書のみであり、懲戒請求者に否認されたときには慰謝料請求権の存否が問われかねないものであったところ、およそ判決では認容され難い500万円もの慰謝料を請求する目的で住民票上懲戒請求者が単身で居住していることを知りながらあえて受任通知を送付せず、同年9月15日から同月19日まで多数回懲戒請求者の携帯電話に電話して不安をあおり、さらに同月20日には懲戒請求者の勤務先に電話してその不安を高め、携帯電話の履歴から電話をしてきた懲戒請求者に対し、500万円もの高額の慰謝料を請求し、その交渉材料として懲戒請求者の人事等に関する権限を有する機関への通告を検討していることを伝えて畏怖困惑させ、これにより相当な慰謝料額よりも高い賠償金を支払わせようとした。
被懲戒者の上記行為は弁護士法第56条第1項に定める弁護士としての品位を失うべき非行に該当する。
4 処分が効力を生じた日 2018年10月15日
2019年1月1日 日本弁護士連合会
処分理由の要旨を読むには少し骨が折れるが、この弁護士は女性の依頼者(B)からの相談を受け、その夫(C)の浮気相手と思われる女性(懲戒請求者)を相手に何度も電話をかけて慰謝料の請求をした。この女性(懲戒請求者)は教員だった。交渉材料としたというのは、「教育委員会に通告を検討している」旨伝えたということ。請求金額は500万円だった。
東京弁護士会がこの弁護士を「業務停止1月」の懲戒とした理由を整理してみよう。
この弁護士の受任事務は、依頼者の夫(C)と相手方女性との不貞行為にもとづく、慰謝料請求である。それ自体に、違法も不当も、弁護士としての非行もない。
弁護士としての非行があったとされたのは、次の理由だ
(1) 慰謝料請求の根拠は薄弱だった。
(2) にもかかわらず、およそ判決では容認されがたい500万円もの高額の慰謝料を請求した。
(3) 何度も相手側に電話を掛け、「教育委員会への通告を検討している」とまで言って脅した。
(1)と(2)とは相関関係にある。まとめれば、「当該の具体的状況においては、およそ判決では容認されがたい過大な金額の慰謝料を請求した。」ことが、弁護士としての非行の根拠とされている。
そして、もう一つの非行の根拠として、(3)の請求や交渉の態様の悪質さがある。
私(澤藤)は、DHCの会長である吉田嘉明から、慰謝料6000万円の請求を受けた。請求は、訴訟という形でのことだった。吉田嘉明からこの件を受任して提訴したのは、第二東京弁護士会の今村憲外2名の弁護士である。
同弁護士らが受任した件は、
(1) 慰謝料請求の根拠は極めて薄弱だった(後に、敗訴が確定している)。
(2) にもかかわらず、およそ判決では容認されがたい6000万円もの高額の慰謝料を請求した。
(3) しかも、事前の交渉はまったくなく、いきなりの2000万円請求の提訴だった。これを被告(澤藤)が、当該の提訴自体がスラップ訴訟として違法なものだとブログで反撃を始めるや、今村憲らは直ちに2000万円の請求を6000万円に増額した。
どうだろうか。今村憲らのスラップ受任は、「弁護士としての品位を失うべき非行に該当する。」と十分に言えるのではないだろうか。本来、躊躇なく、今村憲らを所属弁護士会に懲戒請求すべきだったのだと今にして思う。
スラップ訴訟とは、言論の自由を封殺しようという社会悪である。私が、吉田嘉明を批判したのは、典型的な政治的言論だつた。吉田嘉明が、渡辺喜美という政治家に、8億円もの巨額の裏金を渡して、金の力で政治を動かそうとしたことを批判したものだ。この批判を嫌って、言論を封殺しようとしたのが、DHCスラップ訴訟である。
吉田嘉明だけでは提訴はできない。こんな事件でも受任してくれる弁護士が必要なのだ。慰謝料請求の根拠は極めて薄弱で、勝訴の見込みがゼロに近いことは普通の弁護士なら分かることだ。いささかなりとも憲法感覚のある弁護士ならば、「吉田さん、およしなさい」「裁判なんかやったら、かえってあなたの立場が悪くなる」と諫めるべきだった。
にもかかわらず、今村憲外2名は、私を被告として提訴した。当初は2000万円の請求額、そしてその後には6000万円への請求の拡張。およそ判決では容認されがたいことが客観的に明らかな高額の慰謝料請求である。私の件を含め、同様のスラップは少なくとも10件あった。すべて、今村憲らが代理人として受任している。
スラップ防止の立法が困難だとすれば、スラップの提訴自体を違法とする損害賠償認容判決の積み重ねが有効だと考えてきた。しかし、スラップ受任弁護士の懲戒請求も有効ではないだろうか。結局のところ、スラップを違法という根拠は、民主主義社会における言論・表現の自由の価値に対する格別の尊重にある。それは、少なくとも弁護士会内では、十分に理解してもらえるものではないか。
裁判所にも、弁護士会にも問題を提起しつつ、商品市場ではスラップを常套とするDHCに不買運動で対応することが必要だと思う。
(2019年1月18日)
いつもカバンにくっつけているそれ。小さなポスターみたいなの。それなんなの?
ああ、これ。よく見てね。「DHC 私は買いません」っていう、ミニポスター。みんなに、「DHCの商品は買わないようにしましょう」って、宣伝して歩いているんだ。
DHCって、いっぱいコマーシャルをやってる、あの化粧品やサプリメントの会社でしょう。あの会社の商品を「買ってください」ではなくて、「買っちゃいけないっ」て宣伝しているの?
そう。DHCの商品はけっして買っちゃいけない。DHCを儲けさせちゃいけない。それが、世のため人のため。みんなのためになる。
それって営業の妨害にならないの?
もちろん、営業を妨害している。でも、言葉は選んで「不買運動」と言っている。営業妨害それ自体が目的ではなく、DHCに反省を求めての宣伝。けっして実力行使はしない。嘘は言わない。社会の利益のために、消費者の気持ちに訴えている。
へえ、そうなの。DHCって、何の頭文字?
ほら、ここに書いてある。
D デマと
H ヘイトの
C カンパニー
そうなんだ。とっても面白い。だけど、ホントは違うんでしょう。
ホントは、「大学翻訳センター」の頭文字らしいんだ。でも、デマとヘイトのカンパニーの方が、「名は体を表す」で本当っぽいよね。
DHCの商品、どうして買っちゃいけないの? デマとヘイトの会社だから?
うん、まずはデマとヘイトだ。
沖縄の平和運動に対して、デマを飛ばし偏見をあおって有名になったテレビ番組「ニュース女子」。あの番組の制作会社が「DHCテレビ」で、DHCはその親会社なんだ。「DHCテレビ」の株式の100%をもっているし、代表者も同じ吉田嘉明という男。事実上、DHCテレビはDHCの一部門といってよい。
そのDHCテレビが、「沖縄で基地建設に反対している人たちの中には、数々の犯罪や不法行為を行っている人たちがある」と、取材もしないでウソをばらまき、お正月の娯楽番組であざ笑ったんだ。ゆるせないだろう!
「ニュース女子」のムチャクチャなデマ放送は有名になったから知っている。現地の取材もしないでデマ報道。あれが、DHCの仕業なら「デマのD」は納得。「ヘイトのH」は?
DHCテレビは、「ニュース女子」以外でも、「虎ノ門ニュース」「放言Barリークス」などのネット番組で、沖縄や在日の人だちへの差別発言を繰り返しているんだ。DHC会長の吉田嘉明は、会社のホームページや産経のネットサイトで、在日の人たちを「日本の悪口ばっかり言っている似非(エセ)日本人」「母国に帰っていただきましょう」なんてヘイト発言を発信している。沖縄差別、在日差別で凝り固まっているんだね。
いまどき、そんな恥知らずなことを大っぴらに言う人がいるんだ。お灸を据えなくっちゃね。そんな会社だと知らずにDHCの商品を買うと、デマとヘイトを応援することになっちゃう。
そう。何も知らない消費者がDHCの宣伝に惑わされてその商品を買うと、そのおカネが、沖縄や在日をバッシングするデマとヘイトの資金になる。
DHCの問題って、デマとヘイトだけ? ほかにはないの?
DHCと吉田嘉明はスラップ訴訟の常習犯だ。自分に都合の悪いことを言った人を相手に、やたらと裁判を起こすんだ。2000万円支払えとか、1億円支払えとか。私もやられた。6000万円支払えって裁判。
6000万円の請求はメチャクチャ。さぞかし、びっくりしたでしょうね。
最初の請求は2000万円だった。なんの前触れもなく、ある日突然に訴状が届いた。「私のブログの記事がDHCと吉田嘉明の名誉を毀損しているから、謝罪の上2000万円を支払え」という、まったくバカバカしい提訴。無性に腹が立ってしょうがなかった。
バカバカしいのに、腹を立てたの?
こんなわけの分からない汚い輩が、カネの力だけでエラそうにしていられるこの社会に腹を立てた。こんな汚い訴訟を引き受ける弁護士がいることにも腹を立てた。
バカバカしくても、腹が立っても、裁判には付き合わなければならないから、たいへんだったでしょうね。
私は弁護士だから、「ことは言論の自由に関わる」「こんな不当に屈してはいけない」「不当な提訴とは徹底して闘う」と決意した。で、「DHCスラップ訴訟を許さない」、というDHCと吉田嘉明を糺弾するシリーズを猛然と書き始めた。そしたらすぐに、2000万円の請求が6000万円に跳ね上がった。
へー。DHCと吉田嘉明会長は、「黙れ」「批判は許さない」という目的で提訴したことを認めたも同じじゃない?
私がDHC・吉田嘉明の批判を続けたら請求金額はどんどん増額されるかとも思ったが、さすがに吉田嘉明もあきらめた。6000万円で打ち止め、そのあとの請求の拡張はなかった。DHC・吉田嘉明を批判する私のブログは、本日が140回目となる。
で、裁判は勝ったの?
私の代理人の弁護団は優秀でDHC・吉田嘉明を理論的に圧倒した。まったく勝負にならなかった。もともとDHCに勝ち目のある裁判ではなかったけど、嫌がらせが目的だから、DHC・吉田嘉明は、高裁・最高裁まで争って完敗した。DHCは判決では負けてばっかり。だけどそれでもかまわないんだ。「DHCを批判してみろ。すぐに裁判をかけるぞ。裁判やられたら面倒だろう。だから、DHCを批判するようなことを言うな」というわけだ。
じゃあ、裁判にまけても、DHCはへっちゃらなんだ。
だから、今、私が原告になって「反撃訴訟」をやっている。DHC・吉田嘉明がこんなムチャクチャな裁判を提起したこと自体が違法だという主張。来年(2019年)のうちには一審の判決が出る。
どんなブログが、6000万円の損害賠償請求の対象になったの? 読んでみたい。
これを見ると書いてある。「いけません 口封じ目的の濫訴ー『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾」
https://article9.jp/wordpress/?p=3036
DHC関係の私のブログは、下記のURLで全部読める。
https://article9.jp/wordpress/?cat=12
DHCや吉田嘉明の問題は、デマ・ヘイト・スラップということね。
まだある。吉田嘉明は渡辺喜美という政治家に8億円の裏金を渡している。その目的は、規制緩和のための政治を求めてのもの。これは、消費者問題に携わってきた私には、どうしても許せない。
分かった。デマ・ヘイト・スラップ・裏金・規制緩和、悪い会社だから徹底して抗議をしましょうってわけね。
そう。見解の相違とか、ものの見方が違う、などと言うレベルの問題ではない。DHC・吉田嘉明のやっていることは、民主主義の基本ルールを大きく逸脱している。だから、抗議というよりは、こんなとんでもない会社にお灸を据えようということ。心ある多くの人々がDHCの商品を買わないとなれば、DHCも反省しなけりゃならなくなる。DHCは商売で儲けた金を、公然とデマとヘイト、スラップ、政治家への裏金の資金にしている。その資金を断つことが民主主義のために有効だと思う。
フーン。選挙ではなく、どこの会社の商品を買うかの選択でも、世の中をよい方向にもっていくことができるんだ。
沖縄の問題や、在日差別、スラップ、政治資金規正の話題が出てきたら、「ところでDHCの商品を買うのはやめましょう」「それにつけても、DHC私は買わない」と言ってね。
了解。私だって、民主主義が好き。表現の自由が好き。デマもヘイトも大嫌いだものね。もう、絶対にDHCの商品は買わない。
(2018年11月24日)
昨夕(10月11日)、東京南部法律事務所創立50周年の記念レセプションが開かれた。大田区産業プラザのコンベンションホールを一杯にした大勢の人々の温かい祝意に包まれたよい会合だった。
私は、同事務所の創立メンバーではないが、弁護士としての職業生活をこの事務所でスタートして6年余を過ごした。先輩弁護士の誰からも手取り足取りの指導を受けた覚えはないが、当時の「南部事務所」風の活動スタイルを身につけたと思う。
不正や横暴には、依頼者と一緒に心底から怒る。そして、誰が相手でも、どんな困難な事態でも、けっして怯まない。あきらめない。それが、私の理解した東京南部の「作風」だった。昨日のレセプションで、その6年を思い出した。
東京南部法律事務所の創立は1968年4月のこと。大田と品川を自らの守備範囲と宣言した「地域事務所」だった。原始メンバーは、小池通雄・市来八郎・向武男・松井繁明の4弁護士と事務局員2人。小池・市来・向の3名は既に鬼籍に入っているが、現在の弁護士数は18名の大所帯とのこと。
私がこの法律事務所に参加したのは、1971年の4月。既に原始メンバーの外に、亀井時子・大川隆司・坂井興一・船尾徹が活躍していた。所員はいずれも若く、草創の活気に満ちていた。なによりも、地域の諸団体や労働組合との結び付きがこの上なく緊密なものとなっていた。私は、修習生のころ幾つかの法律事務所を見学して、この事務所を選択した。ここならやりがいがある、そう思ったのだ。
東京南部法律事務所は自身の歴史をこう説明している。
当事務所が設立された当時の蒲田周辺の地域は、大小の町工場が肩を寄せあいひしめき合っている街でした。周りには弁護士事務所など全くなく、霞が関や新橋といった裁判所近くの法律事務所に相談に行く時間もないような大田地域で働く人々の権利と生活、営業を守るお手伝いをするため、そしてこの国の平和や民主主義擁護に少しでも役立てるようにと、設立されました。
その後、糀谷地域の工場群が移転や倒産によって減少する一方で、羽田空港や都心へのアクセスが良い立地から、巨大な流通拠点が出現するに至りました。さらに近年では、研究所や電子・情報管理といった先端産業が多く立地しています。大田区としても人口が増えており、林立するマンションや高層団地、チェーン店や飲食産業関係が増えています。当事務所が設立されてから40数年。大田区の産業、町並みは様変わりしていることがわかります。
私たちの取り扱い分野も年ごとに拡大しつつあり、羽田に近い立地による航空労働者の労働事件を始めとした数多くの労働者側労働事件や、患者側医療過誤事件など専門的に取り組む分野もありますが、民事・刑事・家事事件を幅広く取り扱っています。しかし、働く人々の権利と生活、営業を守るという私たちの基本的なスタンスに変わりはありません。
私が、入所したころ、蒲田の周辺はまさしく「大小の町工場が肩を寄せあいひしめき合っている街」だった。工場に、空港に、タクシー会社に、流通部門に、多くの労働組合が生まれ、労働運動の活動力を誇る地域だった。
私が弁護士を志したのは、消極・積極二つの理由がある。
消極的理由は明確だった。自分に、官僚や企業人としての勤めができるとは思えなかった。さりとて、学問や文芸の分野で独り立ちできる才能はない。そのように自覚した者に、自由業としての弁護士は魅力的な生き方に思えた。
積極的理由の方は漠然としていた。漠然としたものではあったが、資本や権力と闘う生き方を思い描いていた。弁護士なら、資本や権力と闘う働きができるだろうと思えた。資本と対峙する場としては労働事件を、権力と対決する場としては政治弾圧事件が頭にあった。労働者とともに闘い、政治弾圧被害者とともに闘う弁護士というイメージ。当時の東京南部法律事務所はまさしくそのような場であった。
あれから半世紀。昨日のレセプションでお目にかかれた懐かしい人は少なかった。あの頃現場で一緒に闘った労組の幹部の皆さんは、今80代から90代。時代は変わっているのだ。往時茫々である。
(2018年10月12日)
10月3日気の置けない友人弁護士10名余と函館に宿泊して旧交を温めた。49年前に司法修習同期をともにした同窓会である。「司法反動阻止」や「阪口君罷免撤回」の運動をともにした親しい仲間だけの集まり。
思いがけなくも、集合は立派な会議室だった。宴会の前にまずは「会議」のスケジュール。その議題は二つ。一つは、「森友事件告発」問題。そして、「安倍改憲阻止」の課題。
なぜ、森友事件関連の諸告発がいずれも起訴に至らなかったのか。どうしたら、検察審査会で起訴相当の決議を得ることができるか。有益な情報交換と議論が交わされた。
そして、「安倍改憲」の情勢をどう見るか。阻止の展望がもてるか。その阻止のために、われわれは何ができるか、何をなすべきか。大幅に時間を超過して宴会の開始が遅れた。
それぞれの近況報告が各自各様で面白い。求道者のごとく(ペイしない)仕事に没頭している者もいれば、仕事は妻と子に任せて主夫業専念者もいる。が、初心を忘れている者はない。今の共通の関心は、徹底してアベを叩くこと。アベを叩くことで改憲の危機を乗り越えなければならないということ。深夜まで久しぶりに青くさい議論が続いた。
宿は、湯の川温泉の立派な旅館だったが、ギョッとするものを見せられた。イヤでも見ざるを得ない場所に誇らしげに飾られた黄綬褒章の額装である。珍しいものでもなかろうが、私には初めて見る物。しげしげと眺めた。
この宿の経営者であろう者が、天皇から「褒められたシルシ」として与えられたリボンと賞状。「農業、商業、工業等の業務に精励し、他の模範となるような技術や事績を有する者」に対して授与されるという「黄綬褒賞」。
芥川の「侏儒の言葉」の一節が思い起こされる。「わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
私にも実際不思議である。なぜこの旅館主は、酒にも酔わずに、こんなオモチャをありがたがって受け取り、飾って人にまで見せることができるのであろう?? 接客業者のあまりに無神経なオモテナシ。
褒賞授与状の主語は、「日本国天皇」であった。さすがに、今どき「朕」とは言わないのだ。
「日本国天皇は、某が××として、よく職務に精励したことについて黄綬褒章を授与する」という上から目線の、まことに素っ気ない文章。せめて、「あなたが永年職務に精励され多くの人に尽くされたことに敬意を表し、国民を代表してこの章を授与します」くらいのことが言えないのだろうか。もっとも、こんな物をもらってありがたがる者の支えあっての「象徴天皇制」なのだ。
御名すなわち明仁の署名はなく、国璽が押捺されていた。そして、内閣総理大臣安倍晋三と内閣府勲章局長の副書。
もらう人によっては有り難いのだろうが、こんな物を見せつけられて、私は不愉快。この宿には二度と来るまいと決意を固めた。
もう一泊、少人数で白老の虎杖が浜へ。こちらは、天皇も皇族も無関係。素晴らしい好天と、入り日と星空。そして、翌朝の水平線からの日の出。こちらのホテルは、大いにまた来ようという気になった。
(2018年10月7日)
戸田謙さんは、私が師事した弁護士である。本当にお世話になった。
私は1968年の司法試験に合格した。あれから、ちょうど50年になる。翌69年3月末に在学満6年の大学を中退して、翌4月最高裁司法研修所に第23期司法修習生として採用され、71年3月まで2年間の司法修習を受けた。そして、いわゆる「司法反動」真っ盛りの71年4月に司法研修を終了して弁護士になっている。
当時の司法修習は有給で、修習専念義務は当然のことと受け入れた。カリキュラムの過密を意識することはなく、現役の裁判官・検察官・弁護士から成る教官たちは、真摯で至極真っ当な法感覚の持ち主だった。その人たちが、後輩法曹をあるべき姿に育てるようとしている情熱に敬意をもった。
当時各年500人の司法修習生は、2年間の修習期間中に、どの分野に進むかどのような法曹になるかを十分に考る機会を与えられ、自主活動も活発で余裕のある2年間だった。
司法修習は、司法研修所に集合しての前期研修から始まり、その後1年6か月全国各地に分散しての実務修習を経て、再び司法研修所での後期研修で終了する。最後に、卒業試験に相当する「二回試験」の合格をもって、弁護士・裁判官・検察官の法曹資格を得ることになる。
私の実務修習地は東京だった。配属弁護士会は第二東京弁護士会。このとき、その後二弁会長となる戸田謙弁護士が私の修習指導担当となり、4か月間西新宿の戸田謙法律事務所に通った。たまたま、戸田さんも私も西武新宿線野方駅の近くに住んでいて、よくご自宅にお邪魔もした。
戸田さんを語るには、その容貌に触れざるを得ない。顔面に大きく痛々しいケロイドあった。右手も左手も火傷の跡、指が十分に動くはずはなかった。大きな事故に遭遇した人であることが、一目瞭然であった。戦時、戸田さんは陸軍機のパイロットだった。浜松の陸軍飛行場で、終戦間際に乗機ごと炎上の事故に遭い、当然に死亡したものとして死体置き場に安置されて一晩を過ごしたという。翌日、息のあることが判明して治療を受け、一命を取り留めたと聞かされた。乗機の炎上が、戦闘による被弾だったか訓練中の事故によるものか、聞いたはずだが失念している。なにせ50年前のことだ。
奥様が、昔の写真を取り出して「事故の前は美男子だったのよ」と言っておられた。なるほど、そのとおりだった。戦後、復員した戸田さんは、東京帝大法学部に入学する。一見して負傷兵と分かる風貌は学内で目立つものだったようだ。ある授業の時に、教授が講義を中断して、戸田さんに負傷したときの様子を語らせた。そして、「将来は新生日本のために働きたい」という戸田さんの言に感動して、「今大学は、君のような学生が学問をするためにこそある」と言ってくれたという。
戸田さんは、卒業後弁護士となって、日教組弁護団員として活躍する。地方公務員労働組合のストライキに対する刑事罰からの解放や、教育権をめぐる訴訟にスポットライトが当たっていた時代のことだ。また、青年法律家協会の設立メンバーの一人にもなった。思想的には、日本社会党左派の支持者だった。そのせいもあってか、自由法曹団には縁がなかった。
労働事件だけでなく、行政事件も多く手がけておられたようだった。日教組弁護団員として各地の事件を受任していたのだから、当然に関連した依頼があったのだろう。何がきっかけだったか、「澤藤君、地方自治法の住民訴訟に、『怠りたる違法の確認』という訴訟形態があることを知っているかね」ときかれた。「いやまったく存じません。そもそも住民訴訟について殆ど何も知りません」。「地方自治法242条の住民訴訟の類型の中に、『怠りたる違法の確認』というものがある。めったに使われないが、おそらく私が始めて実務で使った。盛岡地裁でのことだ」と、楽しそうに話しをしてくれた。戸田さんの話は、いかにも受任事件を楽しんでいるという雰囲気に満ちていた。後年私は盛岡地裁で、岩手靖国訴訟を住民訴訟として闘うことになる。
戸田さんは、他のだれよりも早い時間に事務所に出て、独り起案をしていた。その訴状や準備書面・弁論要旨などは、独特の文体だった。「キミ、この件書いてみないかね」と言われて、いくつか書面の起案をしている。毎回、「キミは若いのに、えらく堅苦しい文章を書くんだね。研修所はそんな文章の書き方を教えているのかい」と、ご自分で書き直していた。戸田さんの文章は、自由闊達なのだ。「どうしたら、裁判官を説得できるか」だけが問題なのだという。
一度だけ褒められたことがある。戸田さんは、著名なペット雑誌の「ペットにまつわる法律相談」欄の連載を執筆していた。「こんな質問がある。澤藤君、書いてみないか」と言われて2編ほど書いた。私は学生時代に、原稿リライトのアルバイトを長くやっていた。依頼主の要望に沿った文章を所定の字数で書くことは苦にならなかった。私が書き上げた原稿は、ほぼそのまま雑誌の活字になった。「キミ、裁判所に出す文書以外なら、よいものを書けるじゃないか」というのが、お褒めの言葉だった。
その戸田さんが、1956年2月10日に、衆議院で参考人として意見を述べている。「公職選挙法改正に関する調査特別委員会」で、選挙運動の公正と自由について語っているのだ。肩書は、「日本教職員組合顧問・弁護士」である。その長い意見の冒頭だけを引用しておきたい。戸田さんらしい、明晰で分かり易い語り口の一端。
私は弁護士の戸田謙と申します。…日ごろわれわれ若い者が考えておる選挙というものに対する考え方を若干述べさせていただきまして、あと、そういう観点から、今日の改正案に対する部分的な意見を述べさせていただきたいと思います。
近年、金のかからない選挙とか、あるいは政界の浄化、腐敗の防止、こういうことが盛んに叫ばれ、これは国民の全世論であろうと私は考えております。しかし、それに沿った選挙法の改正というものがいつできるであろうか、私はいつもそういう観点からながめておりますが、今回の改正案を拝見させていただきますならば、それに一歩近づいたと見られる点もございますけれども、逆行したと思われる点もあると思うのであります。私が申すまでもなく、選挙というものは公正が第一の眼目でなければならないと思います。そのためには、選挙の運動その他の選挙の要素というものは、言論闘争一本、これに徹底できるような選挙法でなければならない。これが本来の理念であろうと思います。しかし、にわかにその段階に達し得ないといたしましても、その根本的な理念に沿った法律改正が進められるべきものであると考えます。民主主義を根本原則とする憲法、その憲法に基いて保障された政治に参加する権利、代表を選ぶ権利、こういうものを行使する権利並びに義務を持っている国民が、また憲法で保障しているところの言論の自由、表現の自由、思想の自由、そういう最大の基本的人権を駆使して、言論闘争一本によって選挙が完遂される、こういう時代が来ること、われわれとしては望んでおるわけであります。
そういう精神から考えますならば、選挙の手段としましては、言論闘争以外の要素は極力排除すべし、すなわち金力による選挙が行われやすいような法規は改正すべし、そういう基本理念によって法律が変えていかれなければ、いつまでたっても進歩はないと思います。そういう私の考え方を貫くならば、本来選挙の完全公営ということが理想であることは言うまでもありません。しかし、それは現段階では無理なのでありましょうが、そういう理念から考えますと、今回の細部の改正案を拝見しまして、いろいろ問題点があろうかと思います。…
私は本郷に転居して以来、近所の歯医者さんにお世話になっている。ある日、その歯医者さんが、「澤藤さん、戸田謙先生とお知り合いだそうですね」と言う。やや驚いたが、「戸田先生とは、同じカントリークラブでよく、一緒にコースをまわる仲なんですよ。」とのこと。そういえば、修習中に、「キミはゴルフをやらんのかね」と聞かれたことがある。「私はゴルフは嫌いです。自然破壊の最たるものですし、キャデイにバッグをかつがせて歩くという文化にもなじめない」と答えると、「そう、杓子定規に考えなくてもいいんじゃないか。ゴルフは面白いよ」とおっしゃる。
戸田謙さんは工夫と修練を重ね、あの障害を克服してゴルフを楽しんでおられた。ボウリングにも挑戦されていたという。脱帽するしかない。
いつか訪ねていかなくてはと思いつつ、その歯医者さんから、「実は、先日戸田先生が亡くなられました」と教えられた。逝去の日は、2005年3月26日。その後、その歯医者さんも亡くなられ、今はお嬢さんが跡を嗣いでいる。
戸田謙さんは私が師事した弁護士である。お世話になりながら、生前十分に御礼を述べる機会を失ったことか悔やまれてならない。
(2018年10月3日)
弁護士人生、なかなかに味があり捨てがたい。最近、つくづくとその思いが強い。
自分の外に自分の主人を持つ必要はない。自分の生き方を自分で決めて、自分の責任で自分の流儀を貫くことができる。誰におもねることもないこの立場をありがたいと思う。私には、カネや権力や名声を得ようという過分な望みはない。最期までこの自由をこよなく愛し謳歌しようと思っている。
この、「自由業としての弁護士」という職能をつくり出したのは、近代市民社会のすばらしい知恵である。市民社会は、権力にも資本にも屈せず、弱者の人権擁護のために闘う専門家職能としての弁護士集団を必要としたのだ。芸術や文芸や学問の才能に恵まれない私にとって、いま享受している私の自由は、市民社会からの恩恵としてあるもの。だから私は、在野に徹して、権力や資本に抗い、社会的同調圧力にも妥協しないことで、社会の期待に応えなければならない。そう思い続けている。
弁護士になるときは、自由法曹団員弁護士となることを自覚的に選択した。そして、初心を忘れてはならない、などと自分に言い聞かせてもいた。しかし、あっという間に「初心を忘れない」などという心得は不要だと悟った。権力も資本も社会的多数派も、私に相談も依頼もしては来ないのだ。その対極にある、権力や資本に人権を蹂躙された者、少数派として排斥された者だけが、私を頼ってくれることになり、初心は自ずから貫かざるを得ない立場となった。こうして、精神衛生的に快適な健康状態を保っての45年が経過した。
結局のところ、弁護士のあり方は、依頼者と依頼事件が決めることになる。勝訴の事件ばかりではない。敗訴の事件もあれば不本意な和解終了事件もある。そのすべての事件と弁護士との結びつきは、なかばは偶然だが、なかばは必然である。
私は、東京南部法律事務所で「駆け出し時代」を過ごした。文字どおり、どこにでも駆け出して行った。ストライキやロックアウトの現場は大好きだった。しばしば団交にも参加した。労働組合結成のための学習会、弾圧事件の接見、警察への抗議行動、被解雇者と一緒に会社の門前での宣伝行動参加などに躊躇することはなかった。いくつものワクワクするような労働事件の受任の機会に恵まれた。今は昔の物語である。このとき、私の受任事件のすべては、南部事務所が地域からの信頼によって得たものだった。
その後、独立したとたんに依頼事件の質が変わった。労働事件は激減し、私の依頼者は、表現の自由であり、消費者の利益であり、患者の権利であり、政教分離であり、平和あるいは平和に生きる権利であり、教育を受ける権利であり、民主主義であり、行政の公正となった。決して、私の方から依頼者や事件を追いかけたものではない。すべて、なかば偶然に事件に関わらざるをえなくなったものだ。だが、事件との関わりにはなかば必然の要素もあったのだと思っている。
いまは、あちらこちらに駆け出していくだけの体力と気力に乏しい。かつてのようにいくつもの事件を受任するだけの余裕もない。が、弁護士として役に立つ限り、出会った事件と依頼者を大切に、誠実に仕事をしていきたい。
以上は、何年か前に、自由法曹団東京支部の通信に寄稿したもの。当ブログに再掲して、自分への戒めとして書き留めておきたい。
(2018年8月19日)
東京弁護士会の月刊機関誌を「LIBRA」(リブラ)という。公平の象徴である「天秤」の意味なのだそうだ。その「LIBRA」の最新号(2018年8月号)の会員消息欄に、安達十郎さんの訃報が掲載されていた。6月29日の逝去。享年93。弁護士登録番号は6336。謹んで哀悼の意を表する。
安達さんは、私が弁護士となったきっかけを作った方。おそらく安達さんご自身には記憶になかったろうが、50年以上も昔にこんなことがあった。
私は学生で、駒場寮という学生寮に居住していた。その「北寮3階・中国研究会」の部屋の記憶が鮮やかである。ペンキの匂いも覚えている。ある夜、その部屋の扉を叩いて、集会参加を呼びかける者があった。「これから寮内の集会室で白鳥事件の報告会をするから関心のある者は集まれ」ということだった。
白鳥事件とは、札幌の公安担当警察官・白鳥一雄警部が、路上で射殺された事件である。武闘方針をとっていた共産党の仕業として、札幌の党幹部が逮捕され有罪となった。そして、再審請求の支援活動が市民運動として盛り上がりを見せていた。
当時、私は毎夜家庭教師のアルバイトをしており帰寮は遅かった。集会の始まりは深夜といってよい時刻だったと思う。なんとなく参加した少人数の集会だったが、その報告者の中に、若手弁護士としての安達十郎さんと、まだ30代だった国民救援会の専従・山田善二郎さんがいた。もちろん私は両者とも初対面。自由法曹団も、国民救援会も殆ど知らなかったころのことだ。
具体的な会合の内容までは記憶にない。格別にその場で劇的な出来事があったわけではない。しかし、初めて弁護士が受任事件について情熱をもって語るのを聞いた。安達さんの報告に好感を持ったのは確かなこと。私はその集会をきっかけに、国民救援会と接触し、札幌の白鳥事件の現地調査に参加し、山田さんに誘われて鹿地事件対策協議会の事務局を担当し、やがて弁護士を志すようになる。
弁護士を志す最初のきっかけが、安達弁護士と山田さんの、あの駒場寮での深夜の集会だった。そして、弁護士になるなら、当然自由法曹団に参加するものと決めていた。私が弁護士になったころ、安達さんは、池袋にあった青柳盛雄法律事務所(現・城北事務所)の番頭格の弁護士だった。蒲田の東京南部法律事務所の所員となった私が頻繁に接する人ではなかった。
私の同期で親しかった門屋征郎君が、青柳盛雄法律事務所に入所して安達さんから哲学や経済学の薫陶を受けたと聞いていた。しかし、私が安達さんに直接、学生時代こんなことがありました、とお話しする機会は最後までなかった。
安達さんは、自由法曹団東京支部の通信に、次のような一文を寄せている。飾らない人柄がよく出ているこの文章をご紹介して、故人を偲びたい。
1 私は昭和49年秋城北法律事務所を退所して、池袋に安達法律事務所を開き、いわゆる「個人団員」となった。
その頃、個人団員は団活動から遠ざかり、事務所の経営に精力を集中するのが一般であったが、私は前と同じく団の市民部会(現「市民委員会」)に出席し、団活動を続けていた。
弁護士というものは、「丸ビル」内に事務所を張って、大企業を顧客として収入をあげる極く少数の弁護士を除くと、あまり儲からない仕事である。団活動をやめて経営に集中したからといって、大きく収入が増えるというものではない。
私は「個人団員」となって数年後、団市民部会に持ち込まれた千葉県松戸市の石材店組合の「所得税課税処分取消請求訴訟」を担当し、千葉地裁松戸支部の法廷で証人尋問をしていたことがあった。
私はその日から数日後、私の尋問を傍聴していたある「病院経営者」からその経営する病院の法律顧問に就任して欲しい、との申出を受けた、この申出は、私の尋問技術ではなく、国家権力の不当な処分に立ち向かってゆく姿勢を評価してくれたものと思われる。
私は病院の法律顧問に就任してから、ある造園業者を紹介され、その業者の法律顧問となった。
自由法曹団での活動は、事務所の経営を圧迫するのではなく、かえって、市民の信頼を得ることによって、その経営にプラスすることもあるのである。
2 昭和53年頃から大型小売店舗(スーパー)が既存の商店街に進出し、その出店によって地域の小売業者が倒産するなどの大打撃を受けるようになった。
? 団の市民部会所属の団員は幾度も団本部に集合し、地元商店会の役員、地域民主商工会の役員・事務局員などにも来てもらって対策を協議した。
? その結果、地元商店会の皆さんがスーパー進出に反対する旗印として掲げた「生業権」をスーパーの出店を制約する法理論として構成することが出来ないかとの問題提起があり、私がその理論構成の担当者にされた。
? 私は、私の考えを「『生業権』試論」という論文に取りまとめ、「法と民主主義」(125号)に掲載してもらった。私は、商店会や民主商工会などから寄せられた資料に、私の乏しい法知識、経済学、経済哲学、倫理学などの知識を総動員して、「生業権」の理論構成を試みたが、出来上がったものは、現実にスーパーの出店を差し止める程の権利とまでは、いえなかった、しかし、この論文はある大学のある学部のゼミナールの教材として使用され、また、「法律時報」の1998年12月号でその要旨が紹介された。
3 私は、新自由主義経済の時代に入ってから自由法曹団の諸活動に関連して、この経済社会を批判する主張を「特別報告」としてとりまとめ、団の5月集会に提出したことが何回かあった。
? 私の独自の主張を読む団員はいないだろうと思っていたが、意外にも、毎回いく人かの団員から、「面白かった」、「啓発された」というような感想を頂戴した。
自由法曹団は、私にとって、まことに居甲斐のある団体である。
学生時代のあの日。駒場寮内の薄暗いあの部屋での集会に参加しなかったら、法学とは縁もゆかりもなかった私が弁護士を志すことは多分なかっただろう。弁護士になったとしても、「『丸ビル』内に事務所を張って、大企業を顧客として収入をあげる極く少数の弁護士」を志していたかも知れない。
多くの人との出会いの積み重ねで、自分が今の自分としてある。安達十郎弁護士と山田善二郎さんには、大いに感謝しなければならない。なお、駒場寮の存在にも感謝したいが、いま駒場のキャンパスに寮はなくなっている。寂しい限りと言わざるを得ない。
(2018年8月13日)
昨日に引き続いて、下記は正木ひろしの一文。孫引きだが、正木の死後に編まれた『正木ひろし著作集』(1983年・三省堂)第4巻に所収のもの。書かれたのは1945年11月3日、明治節の日だという。天皇制批判の一文ではあるが、天皇そのものの批判ではなく、天皇制を支えてきた民衆の意識に対する痛烈な批判である。そして、後半に、官吏・職業軍人・御用学者等の天皇制の走狗への批判が付け加えられている。
正木は、天皇制日本を家畜主義帝国と揶揄し、天皇を家畜主、民衆を牛馬羊豚に喩えている。そして、その中間にある番犬層の存在とその役割の大きさを語っている。
私はこの十数年間日本人を観察した結果、日本人の大部分は既に家畜化していることを発見した。人間の家畜化ーそれを諷刺的に書いた前記の東京新聞の文章を再録すれば
家畜の精神(1945年10月8日)
家畜と野生の動物との相違点は、外形ではなく、その思想、その精神であると云ったら、人は変に思ふかも知れないが、家畜は立派な思想家であり、精神家なのである
1.野生の動物は、之を捕へて柵の中に入れて置いても、絶えず自由を求めて埒外へ出ようとするが、家畜は、与へられた自由の範囲に満足し、決して之より出ようとしない。出ようとする試みが、如何に恐ろしい鞭に値するかを知っている。即ち家畜は、反自由主義の思想家である
2.野生の動物は、なにびとにも所有されない自主的の動物であるが、家畜は恒に自己の所有者の厳存することを、半ば遺伝的に知っている。即ち家畜は祖先伝来の反民主主義者だ
3.野生の動物は、餌を与へんとする人間にすら刃向って来るが、家畜は残忍無比な所有者に、如何に虐待されても決して抵抗しない。そしてまた、如何に重い荷を背負はされても、之を振り落さうともしないし、怨みも抱かない。即ち家畜は、無限の忍耐心を持つ無抵抗主義者であり、大義名分をわきまへたる精神家である
4.野生の動物は、決して無意味な争闘は開始しないが、家畜は錬成によって、何の怨みも無い同類と死闘する。闘犬、闘牛、闘鶏はその例だ.「武士道とは死ぬことと見つけたり」といふ葉隠精神を、最もよく不言実行するのは日本犬である
この文章は、600字を以て書き上げねばならなかったので、大事なことが抜けている。それは家畜主義帝国に於ける番犬の位置についてである。死んで食用に供されるか、死ぬまで働いて奉仕するか、何れにせよ家畜主に生命を捧げることによって使命を果たし、それによって家族主義的の生活を保証されている牛馬羊豚的の民衆に対し、官吏・職業軍人・御用学者等は番犬的の存在である。番犬は牛馬を守護するがそれは牛馬の為に守護するのでなく、家畜主の為に牛馬を守護し、之を錬成し、大御宝として保存するのである。官吏は天皇陛下の官吏であり、軍は天皇の股肱であるが、民衆は民草である。民主主義国に於ては、官吏も軍人も民衆の為の番犬であり、公僕であって決して上下の階級ではない。然るに家畜主義国に於ては、政府はお上であり、上意下達、下情上通の段階に置かれる
従って、徹底せる家畜主義帝国における番犬の位地は、非常に魅力的である。何となれば、如何に下僚と雖も、民衆に対し、家畜に対する如き優越感情を持ち、且つ下賤なる労役や日々の生活の為の不安を免かれるのが原則だからである。人間が家畜を使用するに至ったことは人間としての進化であり、未開国に於ては、その所有する家畜の数によって社会的の尊卑が定められるほどだ。況んや最も有能なる人間を家畜として監督する位置に立つことが、如何に人生享楽として上乗なものであるかを考へよ
欧米文明諸国に於ては、人間を大御宝とする代りに、自然力を生活享楽化の資源とする段階にまで進化した。日本が人間の肉体的エネルギーを極度に発揮させるために、青少年に禁欲主義を説き、死の讚美を鼓吹し古人の歌を訓へ、天皇の名による機械的服従を強迫観念にまで培養せんと努力していた時、米国では科学者をして原子爆弾を研究せしめていたことは、進化論的に見て真に極端な対比である
日本の番犬階級が如何に無知無能であり、天皇は単に看板にしたる利己的な存在であったかは、戦前から終戦に至る経緯が最も之を雄弁に物語っている
この戦争が、その目的の不分明にして矛盾し、その方法が拙劣にして不真面目なりしに拘はらず一億国民を玉砕の瀬戸際までひっぱって行った所以のものは、日本の国体がこの番犬の繁殖に最も適したからである。而して明治維新以来、牛馬階級がたやすく番犬階級に躍進できる様になったため、番犬道が堕落し、今日の如き刹那的、不道徳的にして且つ無謀なる戦争が始まったのである。国体明徴論者の一派は、この番犬的存在を除去したる肇国の精神に基く大家族的国体を夢想しているが、それは歴史を逆行することが出来ぬ故に無理なる注文である
今や職を奪はれんとする番犬が狂犬となり、職を奪はれた番犬が野犬となって、国体護持に狂奔するであらう
終戦直後のこの立論に表れた憂いが、今もなお克服されていない。民衆は、相変わらず、「反自由主義の思想家」で、「祖先伝来の反民主主義者」「無限の忍耐心を持つ無抵抗主義者」でもあり、場合によっては「怨みも無い同類と死闘させられる」存在でもあるように見える。番犬階級の無知無能・無軌道はここに極まれりで、民衆は狂犬・アベをだに追い払うことを得ない。
そして、最大の疑問である。この家畜主義帝国の真の主はいったい誰なのだろうか。
(2018年8月8日)
正木ひろし(1896?1975)という著名弁護士がいた。私が学生のころ、戦後史を飾る数々の冤罪事件に取り組んで令名高く、弁護士の代名詞のような存在だった。硬骨、一徹、信念の人、在野、反権力に徹して虚飾のない生き方…。弁護士のイメージの一典型を作った人でもあった。
もちろん、褒める人ばかりではなく、敵も多かった。三鷹事件では、竹内さんの単独犯行説をまげず、被告団や自由法曹団主流の弁護士とは衝突して孤立した。丸正事件では真犯人を名指ししこれを出版までして名誉毀損で起訴されている。1審・2審とも有罪で、上告審係属中に被告人の身のまま亡くなっている。
大学の1年生のとき(1963年)だったか2年生のとき(64年)に、私はこの高名な弁護士と会っている。秋に行われる大学祭(「駒場祭」)の企画として、この人の講演会を企画し、なぜ冤罪事件が生じるのかについて語ってもらった。たしか、市谷近辺にあった自宅にまで出向いて依頼のための面談をした記憶がある。
驚いたことに、書棚に並んでいた書籍やファイルが、逆さまに置いてある。「書棚から出して開くときに、この方が時間がかからない。毎日多数回の作業だから時間の節約になる」という説明だった。徹底した合理主義者なのだ。そして、70歳に近い身で、屈伸体操をして見せた。体の柔らかいことが自慢で、これが「真向法」という体操なのだと教えられた。残念ながら、正木がしゃべった内容はまったく記憶にない。
首なし事件や、八海事件、三鷹事件、丸正事件…。関わった事件の数々だけでなく、彼が有名だったのは、戦前戦後を通じての「近きより」という個人誌を出し続けていたことにもよる。そこでは、天皇や軍部に対する批判が徹底していた。
たまたま、色川大吉の「ある昭和史―自分史の試み」(中公文庫・2010年改版)を読んでいたら、その最終章が「昭和史の天皇」となっており、天皇に対する負の評価の典型として、正木の「近きより」からの論評が引用されていた。
戦後の天皇評価については、「忠誠と反逆」という節があり、こう書き出されている。
「一億、天皇の家畜だった!」と、敗戦直後に吐いて捨てるようにいった人がいた。「陛下よ、あなたは日本人の恩人です」と涙ながらに跪いた人がいた。
その正木ひろしと、亀井勝一郎の二人の考え方は、日本国民の心理の両端を示しているばかりでなく、今日にまで流れてやまない二つの心情を代表するものとして、検討するに値しよう。
おそらくは、いまどき亀井勝一郎に興味ある方もなかろう。色川が要約して紹介する正木の天皇制に対する批判の舌鋒の鋭さを味わっていただきたい。
天皇族は史上一貫して「寄生虫的階級」であった。蜜蜂の女王のような座を占め、つねに他人の乳や命を吸うことで生きてきた。ここに日本の天皇制の不道徳の根源がある。日本の上層階級というのは、皆その役割を分担し、「天皇に利用されかつ天皇を利用した存在」だった。とくに軍人に対しては「朕が股肱」といって愛重し、自分を守る最後的番犬たらしめてきた。この番犬なくしては天皇は直ちに徳川時代の境遇に後退しよう。
従って、番犬階級や、カラクリを司る神官や御用学者、宮廷的幇間。野犬的右傾暴力団等は天皇制護持に欠くぺからざる要素である。日本の上層部の堕落は、この不合理な天皇制そのもの本質の中に伏在する必要悪である故、一人二人の首相や皇族を暗殺しても問題の解決にはならない。根本はこのような不合理を許してきた民衆の存在にある。当時の国民の大部分は無知蒙昧で、正当なる人間の道理は理解し難くなっていたことに由る。つまり、この戦争を回避せしめんとするには民族の全般的な向上進歩が絶対的の条件なのだ。
この点に関して正木ひろしはこんな比喩も使う。「これは真に二十世紀の奇蹟であった。人類の退化の大規模な実験であった。僅か三十年間に、日本の国民は、その知性において三百年、徳性において五千年の退化の実験をなした。(中略)この国情は一朝一夕に出来上がったものではないが、少なくとも過去三十年間に徐々に形成され、ことに満州事変前後から急速化し、日支事変直前には既に黴毒ならぱ第三期的症状を呈していたのである。試みに今、過去の社会状態を、その当時の新聞紙を取り出して回想して見るがよい。高級軍人、高級官史、右傾政治家、御用文士。御用思想家、御用商人等は、毎夜の如く待合に入りびたっていた(寺内大将や近衛の遊蕩は有名である。岸信介は待合で自動車を盗まれた)。しかるに彼らが待合から出て来ると、国民に向っては国体明徴を唱え、禁欲主義、滅私奉公を力説した」と。
正木ひろし。在野・反権力に徹した弁護士である。天皇への批判も仮借ない。その意味で、まぎれもなく正義の人であった。
(2018年8月7日)
私が弁護士という職業人を初めて目にしたのは18歳の春のこと、その弁護士は津田騰三と言った。戦前「ひとのみち教団」に対する弾圧事件を担当した弁護士。戦後は、免田事件や徳島ラジオ商事件の再審を手がけ、日弁連人権委員長としても活躍された。
私は、「ひとのみち教団」の後身であるPL教団が経営する高校を卒業して大学受験のために上京していた。そのとき、宿泊していた教団の施設でこの人と会話するする機会があった。およそ、知識人としての雰囲気とはほど遠い人だった。
ひとのみち弾圧事件とは、天皇制政府による国家神道教義(天皇神格化教)と相容れない宗教弾圧の一典型であって、不敬罪が弾圧法規となった。教義が不敬というのである。
高校時代週一度の「宗教の時間」があって教団史を学んだ。ひとのみち教団がどんなに理不尽な弾圧を受けたかについての説明はビビドで印象に深い。言いがかりとしか言いようのない姑息な手口を駆使した特高警察や思想検事、そして天皇の裁判所には憤りを覚えた。
古参の教団幹部が語る弾圧事件の顛末の中に、若き弁護士津田騰三の名があった。教団への功労者として記憶されれた人だったが、どんな弁護方針をとったかについてまで語られるところはなかった。おそらくは、不敬罪と闘ったのではなく、教団や教義がいかに天皇制に従順であるかを強調したのだろう。教団の教組であった被告人は、忠良なる臣民で、いささかも天皇を最高神とする思想に背くところはない。不敬の廉は甚だしい誤解であり心外この上ない、という弁護活動。
そんな弁護方針ではあっても、当時、不敬罪被告事件弁護の受任は大きな覚悟が必要であったろう。その覚悟には敬意を表しなければならない。
津田弁護士は、教団の幹部とも言えない私の父を知っている風だった。「あんたのお父さんは、ずいぶん酒がいける口だそうじゃないか」「ええ。本当かどうか怪しいものですが、若いころには一晩で2升空けたこともあるなんて言っています」
津田さんは、ちょっと横を向いて、ぼそっと一言。「一生(一升)で二升飲む人もいるか」
この人の話は、とりとめのないことが多かった。「一生で二升飲むか」という語り口。「学生時代は勉強なんかしなかった。私は相撲ばかりやっていた。それでも、卒業すれば弁護士になれた時代で有り難かった」「憲法なんかろくに知らなかったけど、戦後すっかり変わったから、余計な勉強しなくて正解だった」
その後何度かお目にかかる機会があった。確か、徳島ラジオ商殺し事件で何次目かの再審請求が却下となったころ、短時間ながら印象に残る話しを聞いた。まだ、私は弁護士になろうなどとは考えていない学生だった。
私は、こんな風に質問したと思う。「冤罪と言われる事件の訴訟の記録は膨大だと思うのですが、誰が読んでも無罪だと分かるものですか」
これに答えて、津田弁護士かく語りき。
「冤罪といわれる事件でも、訴訟記録は有罪立証に十分の体裁が整えられている。まあ、誰が読んでも有罪だろうと思うように上手にできているものさ。少しでも立証に欠けるところや怪しいところがあれば、それは冤罪ということだ」
そのときはよく分からなかった。有罪には有罪の証拠があり、無罪なら無罪の証拠があるはずではないか。有罪立証に欠けるところがあったとして、限りなく黒に近い灰色というだけで冤罪というわけではなかろう。漠然と、そんなふうに反論したいような気分だった。
今にして分かる。刑事事件とは、飽くまでも無罪が推定される。検察官が被告人の有罪を、「合理的な疑いを入れない程度にまで」立証して初めて有罪。それができなければ無罪なのだ。有罪か無罪かのどちらか。その中間の灰色の世界はない。
6月11日の袴田巌さんについての、東京高裁(大島隆明裁判長)再審開始取消決定。「推定無罪」も、「疑わしきは被告人の利益に」の原則もない。津田さんに言わせれば、「有罪立証に十分の体裁は上手に整えられてはいる」「でも、少しでも立証に欠けるところや怪しいところがあれば、それは冤罪」なのだ。
大島隆明決定は、袴田さんの有罪確定判決を覆した静岡地裁決定で採用された本田克也・筑波大教授によるDNA鑑定手法に疑義を呈した。「研究途上の手法で有効性には重大な疑問が存在する」としたうえで「手法を過大評価した地裁決定は不合理」と結論づけている。これは決して「合理的な疑いを入れない程度にまで」有罪の立証ができたとしていることにはならない。ならば、冤罪として再審開始決定をなすべきではないか。他にも、「有罪立証に欠けるところや怪しいところ」はいくつもある。
改めて津田騰三弁護士の飄々とした風貌を思い出す。この人の刑事弁護士としての大局観の正しさを反芻している。1971年私が弁護士となってからは殆ど接点はないまま、1982年に亡くなられた。
(2018年6月21日)