正木ひろしが語る「家畜主義帝国」の牛馬羊豚の思想
昨日に引き続いて、下記は正木ひろしの一文。孫引きだが、正木の死後に編まれた『正木ひろし著作集』(1983年・三省堂)第4巻に所収のもの。書かれたのは1945年11月3日、明治節の日だという。天皇制批判の一文ではあるが、天皇そのものの批判ではなく、天皇制を支えてきた民衆の意識に対する痛烈な批判である。そして、後半に、官吏・職業軍人・御用学者等の天皇制の走狗への批判が付け加えられている。
正木は、天皇制日本を家畜主義帝国と揶揄し、天皇を家畜主、民衆を牛馬羊豚に喩えている。そして、その中間にある番犬層の存在とその役割の大きさを語っている。
私はこの十数年間日本人を観察した結果、日本人の大部分は既に家畜化していることを発見した。人間の家畜化ーそれを諷刺的に書いた前記の東京新聞の文章を再録すれば
家畜の精神(1945年10月8日)
家畜と野生の動物との相違点は、外形ではなく、その思想、その精神であると云ったら、人は変に思ふかも知れないが、家畜は立派な思想家であり、精神家なのである
1.野生の動物は、之を捕へて柵の中に入れて置いても、絶えず自由を求めて埒外へ出ようとするが、家畜は、与へられた自由の範囲に満足し、決して之より出ようとしない。出ようとする試みが、如何に恐ろしい鞭に値するかを知っている。即ち家畜は、反自由主義の思想家である
2.野生の動物は、なにびとにも所有されない自主的の動物であるが、家畜は恒に自己の所有者の厳存することを、半ば遺伝的に知っている。即ち家畜は祖先伝来の反民主主義者だ
3.野生の動物は、餌を与へんとする人間にすら刃向って来るが、家畜は残忍無比な所有者に、如何に虐待されても決して抵抗しない。そしてまた、如何に重い荷を背負はされても、之を振り落さうともしないし、怨みも抱かない。即ち家畜は、無限の忍耐心を持つ無抵抗主義者であり、大義名分をわきまへたる精神家である
4.野生の動物は、決して無意味な争闘は開始しないが、家畜は錬成によって、何の怨みも無い同類と死闘する。闘犬、闘牛、闘鶏はその例だ.「武士道とは死ぬことと見つけたり」といふ葉隠精神を、最もよく不言実行するのは日本犬である
この文章は、600字を以て書き上げねばならなかったので、大事なことが抜けている。それは家畜主義帝国に於ける番犬の位置についてである。死んで食用に供されるか、死ぬまで働いて奉仕するか、何れにせよ家畜主に生命を捧げることによって使命を果たし、それによって家族主義的の生活を保証されている牛馬羊豚的の民衆に対し、官吏・職業軍人・御用学者等は番犬的の存在である。番犬は牛馬を守護するがそれは牛馬の為に守護するのでなく、家畜主の為に牛馬を守護し、之を錬成し、大御宝として保存するのである。官吏は天皇陛下の官吏であり、軍は天皇の股肱であるが、民衆は民草である。民主主義国に於ては、官吏も軍人も民衆の為の番犬であり、公僕であって決して上下の階級ではない。然るに家畜主義国に於ては、政府はお上であり、上意下達、下情上通の段階に置かれる
従って、徹底せる家畜主義帝国における番犬の位地は、非常に魅力的である。何となれば、如何に下僚と雖も、民衆に対し、家畜に対する如き優越感情を持ち、且つ下賤なる労役や日々の生活の為の不安を免かれるのが原則だからである。人間が家畜を使用するに至ったことは人間としての進化であり、未開国に於ては、その所有する家畜の数によって社会的の尊卑が定められるほどだ。況んや最も有能なる人間を家畜として監督する位置に立つことが、如何に人生享楽として上乗なものであるかを考へよ
欧米文明諸国に於ては、人間を大御宝とする代りに、自然力を生活享楽化の資源とする段階にまで進化した。日本が人間の肉体的エネルギーを極度に発揮させるために、青少年に禁欲主義を説き、死の讚美を鼓吹し古人の歌を訓へ、天皇の名による機械的服従を強迫観念にまで培養せんと努力していた時、米国では科学者をして原子爆弾を研究せしめていたことは、進化論的に見て真に極端な対比である
日本の番犬階級が如何に無知無能であり、天皇は単に看板にしたる利己的な存在であったかは、戦前から終戦に至る経緯が最も之を雄弁に物語っている
この戦争が、その目的の不分明にして矛盾し、その方法が拙劣にして不真面目なりしに拘はらず一億国民を玉砕の瀬戸際までひっぱって行った所以のものは、日本の国体がこの番犬の繁殖に最も適したからである。而して明治維新以来、牛馬階級がたやすく番犬階級に躍進できる様になったため、番犬道が堕落し、今日の如き刹那的、不道徳的にして且つ無謀なる戦争が始まったのである。国体明徴論者の一派は、この番犬的存在を除去したる肇国の精神に基く大家族的国体を夢想しているが、それは歴史を逆行することが出来ぬ故に無理なる注文である
今や職を奪はれんとする番犬が狂犬となり、職を奪はれた番犬が野犬となって、国体護持に狂奔するであらう
終戦直後のこの立論に表れた憂いが、今もなお克服されていない。民衆は、相変わらず、「反自由主義の思想家」で、「祖先伝来の反民主主義者」「無限の忍耐心を持つ無抵抗主義者」でもあり、場合によっては「怨みも無い同類と死闘させられる」存在でもあるように見える。番犬階級の無知無能・無軌道はここに極まれりで、民衆は狂犬・アベをだに追い払うことを得ない。
そして、最大の疑問である。この家畜主義帝国の真の主はいったい誰なのだろうか。
(2018年8月8日)