政治資金規正法も公職選挙法も、政治活動や選挙運動にカネが必要なことは所与の前提としている。そのうえで、法は、経済力の格差が票数の差とならぬよう一定の量的な規制をするとともに、カネの流れの透明性を徹底することを主眼としている。それぞれの政治家のカネの流れの実態を公開し、国民の評価や批判を通じて民主的な政治過程が円滑に進展するよう期待している。
政治資金規正法第1条(目的)が、この点を次のように表現している。
「この法律は、‥政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、‥政治団体に係る政治資金の収支の公開‥の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする」
政治資金収支報告も選挙運動資金収支報告も公開される。そのほとんどをインターネットで閲覧することができる。収支の報告を通じてカネの面から見た政治家や候補者の活動が有権者の評価・批判を求めているのだ。カネの動きについて「不断の監視と批判」を行うよう、法は主権者国民に期待している。場合によっては「監視と批判」は有権者の責務でもある。
以上のとおり、収支報告書は民主主義の政治過程の基礎を支えているものとして重要な位置を与えられている。「民主政治の健全な発達寄与の基礎資料」として正確に作成されなければならない。だから、その記載に過誤があれば、故意だけでなく、重過失ある場合にも「虚偽記載罪」が成立することとされている。
今問題となっている多くの閣僚の政治資金規正法上の収支報告の過誤について、これをことさらに、「些末なことに過ぎない」「単純なミスではないか」「重箱の隅をほじるような消耗な作業」「訂正すれば済むこと」などとする論調が絶えない。これは意図的に違法な隠蔽に加担しているか、さもなくば「政治資金収支の透明性確保を基礎とした、有権者による監視と批判」という民主主義の基本構造に無理解というしかない。
各紙が「撃ち方止め」の首相発言があったと報じ、安倍首相が予算委員会で、ことさら朝日だけの名を出して、「きょうの朝日新聞ですかね、『撃ち方やめ』と私が言ったと報道が出た。これは捏造です」と言った。これは取り返しのつかない重大な安倍失言として今後の追求対象となるだろう。
本日のブログで言いたいことは、「撃ち方止め」は主権者の立場からは絶対に容認し得ない政治家間の結託であるということ。標的がある限り、徹底して撃ち合ってもらわねばならない。虚偽や杜撰な収支報告は、相手方陣営からの攻撃の恰好の標的になることは当然で、打ち合いの末に撃つべき対象がなくなって、ようやく有権者は報告書を信用することができることになる。そのとき初めて、法が想定している、収支の透明性徹底を通じての有権者の適切な判断、プラス点の評価もマイナス点の批判も可能となる。
ことは保守陣営だけの問題ではない。「革新」を名乗る陣営でも、明らかな収支報告の過誤を「単純な記載ミス」「訂正すれば済むこと」などと糊塗した実例がある。こういう候補者や選対には、保守のダーティさを攻撃する資格がなくなってしまう。心していただきたい。
10月30日、東京地検特捜部が小渕優子議員に関係する政治資金規正法違反容疑で強制捜査に踏み切った。強制捜査の令状における被疑者は元秘書となっているのだろうが、注目されるのは公民権喪失をともなう小渕優子議員の法的責任である。
元秘書氏は、「小渕氏は何も知らない。収支報告書は私が作成した」と説明しているという。議員は「秘書がやったこと」と言い、秘書は「悪いのは私」と言う。古典的な、トカゲの尻尾への責任回避ないし責任限定策である。バリエーションとして、「妻が」「亡妻が」というのもある。美談でも何でもない。「何も知らない」こと自体が、問われているのだ。政治家は自身の政治活動の収支を国民・有権者に開示する責任がある。政治家自身が自らの活動の実態を知らないで、どうしてこれを国民・有権者に知らせることができようか。「知らない」のは、「恥」のレベルではない。違法であり、犯罪にもなるのだと自覚しなければならない。民主主義社会の政治家としての自覚に欠けること甚だしいというほかはない。
江渡聡徳防衛相も、野党からの攻撃に必死の防戦だ。こちらは、「単純な事務的ミス」作戦。同氏の資金管理団体から江渡氏本人への違法な寄付が発覚した問題を巡り、野党の追及が1カ月近く続く異常事態となっている。「江渡氏は『秘書らに支給する人件費として一時的に預かり、現金で渡した』のだと強調する。だが、支給される当の秘書(会計責任者)が「寄付」と勘違いした−−という筋の通りにくい説明に、野党は『作り話だ』と批判している」(毎日)
収支報告書の正確な記載を軽んじてはならない。それは、民主主義を軽んじることと同義なのだから。
(2014年11月1日)
「20日に2閣僚が同時辞任した後も政治とカネの問題がくすぶり続けていることに、政権内ではいら立ちが募っている。地方創生や女性活躍など今国会の重要テーマもかすみかねない。首相は28日夜、公邸で自民党の佐藤勉国対委員長らと会食し『いろいろご苦労をかけて申し訳ない』と述べ、閣僚による一連の問題で国会審議が遅れている状況を陳謝した」(毎日)と報道されている。
「いろいろご苦労」「一連の問題」としてあげられているのは、望月義夫環境相、宮沢洋一経産省、江渡聡徳防衛相、有村治子女性活躍担当相、西川公也農相の面々だが、ウチワで法相の職を吹き飛ばされた松島みどりの後任に納まった上川陽子法相を加えなければならない。
「ウチワごときは柳に風と受け流しておけばよい」ことにならなかったのは、法務行政の責任者には格別の廉潔性が求められるからである。ならば、上川陽子の法相としての適格性もすこぶる怪しい。
2009年総選挙で、上川の陣営は公選法違反の摘発を受けている。選挙に携わった者の内4人が検挙され、3人は起訴猶予となったが、ひとりが略式起訴で50万円の罰金刑となって確定している。公訴事実の罰条は、運動員買収(公職選挙法221条1項)の約束罪である。選挙運動は飽くまで無償、運動員にカネを出せば犯罪。カネを出さなくても約束するだけで犯罪、約束の成立まで至らなくても、申込みだけでも犯罪として成立する。上川陣営の摘発は公選法違反の典型ケースである。
選挙直後の毎日新聞(静岡版)は次のように報じている。貴重な情報として全文転載させていただく。
「◇幹部ら会見 容疑者、違法の認識なし
政権交代が起きた先の衆院選で県内有数の激戦区だった(静岡)1区。民主党候補と競り合い、落選した自民党の上川陽子氏の陣営で選挙違反事件が発覚した。後援会の女性事務員2人の逮捕を受け、上川氏の後援会幹部らは9日夜、記者会見を開き、2人がアルバイトに投票依頼の電話をかけさせた容疑について「把握していない」と説明。逮捕された2人は接見した弁護士に『違法性があるとは思っていなかった』と話していた、と強調した。
記者会見には、白井孝一弁護士と後援会事務局員(64)が出席。午後7時半過ぎから県庁内で開かれた。白井弁護士らによると、同陣営は7月16日から公示前日の8月17日まで、静岡市葵区の人材派遣会社と契約。5、6人のアルバイトを雇い、1区の自民党支持者約8万世帯分の名簿に記載された電話番号に変更がないか、電話をかけて確認させていたという。公示日以降も契約は続け、同じ作業をさせたが、投票を依頼するような文言を言わせていたとは把握していないとしている。
これに対し県警は、上川陣営がアルバイトの女性に有権者に投票を依頼する電話をかけさせていたとみて、その際『時給1000円の日当を支払う』と交わした約束が買収にあたるとしている。県警は逮捕した2人から詳しく事情を聴き、金の出所や、陣営内で指示があったかどうかを追及する方針。
県警は9日午後、関係する数カ所を一斉に家宅捜索した。同区七間町にある上川氏の個人事務所には午後4時過ぎ、捜査員ら約25人が一斉に入った。
上川氏はこの日、取材に対応せず、後援会の藤田卓次事務所長が『電話をかけることと派遣会社との契約について違法との認識を持っていなかった。有権者と支援者にご心配をおかけし、誠に申し訳ない』とのコメントを出した。」
この報道で事態がよく飲み込める。前述のとおり、選挙運動員に金の支払いを約束すれば、運動買収(約束)罪が成立する。選挙運動は飽くまで無償のボランティアが原則なのだ。ところが、選挙運動ではなく純粋に事務作業だけを行う事務員としてなら、一日1万円までの日当を支払うことができる。逮捕された女性事務員2人が選挙運動を行っていたのか、それとも、単なる裏方の事務作業に専念していたといえるのか、そこが有罪と無罪の分かれ目となる。
有権者への投票依頼の電話掛けは、典型的な選挙運動である。当然のことながら、電話による投票依頼は自由に行うことができる。しかし、選挙運動は飽くまで無償で行われなくてはならない。対価を約束しまたは支払うことは、支払う方にも支払われる方にも、犯罪が成立する。
上記の報道では、人材派遣会社からの派遣社員が、有権者の名簿にしたがって電話を掛けたこと、その労働に時給1000円の支払いが約束されていたことは上川陣営の争うところではない。問題は、「公示日の前から公示日のあとに至るまで」「自民党支持者約8万世帯分の名簿に記載された電話番号に変更がないか、電話をかけて確認させていた」ことが、選挙運動に当たる実態のものであるか否かとなる。陣営では、「電話番号に変更がないか、電話をかけて確認させていただけで、投票依頼をさせていたわけではない」という。単純な事務作業であったといいたいのだ。
しかし、有権者8万人に電話を掛けるのだ。どのようにすれば、選挙運動にはならない電話掛けが可能なのだろうか。有権解釈における選挙運動の定義は「特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために直接又は間接に必要かつ有利な行為」というものである。8万人の有権者への電話かけは認めながら、「これは選挙運動には当たらない」とがんばる方が無理筋と言うべきだろう。
具体的な電話の内容を想定してみよう。常識的に、「こちらは衆議院議員上川陽子の事務所です」とは言うだろう。そのうえで、「前回も自民党へのご支持を戴きました」とも言うだろう。有権者の反応を見て、何か言わないはずはあるまい。意識的に「今回もよろしく」と言わないというのだろうか。県警側の、「上川陣営がアルバイトの女性に有権者に投票を依頼する電話をかけさせていた」という見方の方が常識的だ。「時給1000円の日当を支払う」と交わした約束が買収にあたることは明白と言うほかはない。捜査当局は、保守陣営にもなかなか厳格に対処している。
そもそも、このような仕事に派遣会社員を使うという上川陣営の発想自体に驚かざるを得ない。名簿ができているのだから、名簿にしたがって順次電話による投票依頼の作業を粛々と進展させるべきが当然だろう。名簿の確認のためだけの電話掛に手間暇とカネを掛けるなど、馬鹿馬鹿しくも下手な言い訳に過ぎないと思われて当然。しかし、これとて本当に必要ならボランティア運動員が行うべき作業ではないか。
カネはあるが、運動員として働いてくれる人がいない場合に上川陣営の発想になる。このような「選挙運動は無償のボランティアで」という原則の弁えもない人物にほかならぬ法務大臣が務まるだろうか。
この選挙違反の件、「身体検査」では容易に分かることだ。安倍内閣は、法務大臣にはこんなお粗末な政治家でよいと判断したことになる。私には、「選挙運動員に時給1000円」は、ウチワの比ではない重要問題だと思われるのだが。
(2014年10月29日)
お招きいただき、ジャーナリストの皆様にお話をする機会を与えていただいたことに感謝申し上げます。
私は現役の弁護士なのですが、二つの「副業」をしています。一つはブロガーで、もう一つは「被告」という仕事です。この二つの副業が密接に関連していることは当然として、実は本業とも一体のものだというのが、私の認識です。
私は、「澤藤統一郎の憲法日記」というブログを毎日書き続けています。盆も正月も日曜祝日もなく、文字どおり毎日書き続けています。安倍政権が成立して改憲の危機を感じ、自分なりにできることをしなければという思いからの発信です。改憲阻止は、私なりの弁護士の使命に照らしての思いでもあります。
憲法は紙に書いてあるだけでは何の値打ちもありません。憲法の理念をもって社会の現実と切り結ぶとき、初めて憲法は生きたものとなります。そのような視点から、ブログでは多くの問題を取り上げてきました。そのテーマの一つに、政治とカネの問題があります。「政治に注ぎこむカネは見返りの大きな投資」「少なくとも、商売の環境を整えるための保険料の支払い」「結局は政治は金目」というのが、有産階級とその利益を代弁する保守政治家の本音なのです。健全な民主主義過程の攪乱要素の最大のものは、政治に注ぎこまれるカネ。私はそう信じて疑いません。
「カネで政治は買える」「カネなくして、人は動かず票も動かない」という認識のもと、大企業や大金持ちは政治にカネを注ぎこみたくてならない。一方、政治家はカネにたかりたくてならない。この癒着の構造を断ち切って、富裕者による富裕者のための政治から脱却しなければならない。
カネで政治を動かすことが悪だというのが、私の信念。カネを出す方、配る方が「主犯」で罪が深く、カネにたかる汚い政治家は「従犯」だと考えています。だから、カジノで儲けようとして石原宏高に便宜を図ったUE社、医療行政の手心を狙って猪瀬にカネを出した徳洲会を批判しました。同様に、みんなの党・渡辺喜美に巨額の金を注ぎこんだDHCも批判しました。
メディアの多くが「渡辺喜美の問題」ととらえていましたが、私は「DHC・渡辺」問題ではないか、と考えていました。どうして、メデイアは渡辺を叩いて、DHCの側を叩かないのか、不思議でしょうがない。で、私は、3度このことをブログに書きました。そうしたところ、DHCと吉田嘉明から、私を被告とする2000万円の損害賠償請求の訴状が届きました。以来、二つ目の副業が始まりました。
2000万円の提訴には不愉快でもあり驚きもしましたが、要するに「俺を批判すればやっかいなことになるぞ」「だから、黙っておれ」という意思表示だと理解しました。人を黙らせるためには、相手によっては脅かして「黙れ」ということが効果的なこともあります。私の場合は、「黙れ」と言われたら黙ってはおられない。「DHCと吉田は、こんな不当な提訴をしている」「これが、批判を封じることを目的とした典型的なスラップ訴訟」と、提訴後繰りかえしブログに記事を書きました。これまで25回に及んでいます。
黙らない私に対して、DHCと吉田は2000万円の損害賠償請求額を、増額してきました。今のところ、6000万円の請求になっています。もちろん、私は、口をつぐんで批判の言論を止めるつもりはない。もしかしたら、請求金額はもっともっと増えるかも知れません。
私は、DHCと吉田の提訴は、日本のジャーナリズムにとって看過し得ない大きな問題だと考えています。メデイアも、ジャーナリストも、傍観していてよいはずはありません。本日はそのことを訴えたいのです。
DHCと吉田の提訴は、明らかに言論の封殺を意図した提訴です。高額の損害賠償請求訴訟の濫発という手段で、自分に対する批判の言論を封じようというのです。弁護士の私でさえ、提訴されたことへの煩わしさには辟易の思いです。フリーのジャーナリストなどで同様の目に遭えばさぞかしたいへんだろうと、身に沁みて理解できます。金に飽かしての濫訴を許していては、強者を批判するジャーナリズム本来の機能が失われかねません。
しかも、DHC・吉田が封じようとしたものは、政治とカネの問題をめぐる優れて政治的な言論です。やや具体的には、典型的な「金持ちと政治家とのカネを介在しての癒着」を批判する言論なのです。明らかに、DHC・吉田は、自分を批判する政治的言論の萎縮をねらっています。問題はすでに私一人のものではありません。政治的言論の自由が萎縮してしまうのか否かの問題となっているのです。メディアが、あるいはジャーナリストが、私を被告にするDHC側の提訴を批判しないことが、また私には不思議でならない。
いま、吉田清治証言紹介記事の取消をきっかけに、朝日バッシングの異様な事態が展開されています。首相の座にいる安倍晋三が河野談話見直し派の尖兵であったことは、誰もが知っているとおりです。歴史修正主義者が大手を振う時代の空気に悪乗りした右翼が、「従軍慰安婦」報道に携わった元朝日の記者に脅迫状を送ったり、脅迫電話を掛けたりしています。
靖国派と言われる閣僚や政治家たち、そして匿名のネット記事で悪罵を投げ続けている右翼たち。こういう連中に、悪罵や脅迫は効果がないのだということを分からせなければなりません。大学に対して、「朝日の元記者を、教員として採用することをやめろ」という脅迫があれば、大学も市民も元記者を守り抜いて脅迫をしても効果がないもの、徒労に終わると分からせなければなりません。万が一にも、「脅かせば脅かしただけの効果がある」「退職強要が成功する」などいう「実績」を作らせてはならないと思うのです。
DHC・吉田の提訴にも、ジャーナリズムが挙って批判の声を上げることが大切だと思います。DHCは私の件を含め10件の訴訟を起こしました。異常というしかありません。これを機に、わが国でもスラップ訴訟防止のための法制度や制裁措置を定めるべきことを検討しなければならないと思います。
それと並んで、本件のようなスラップ訴訟提起を、それ自体がみっともなく恥ずかしい行為だという社会の合意を作らねばなりません。健全な民主的良識を備えた者、多少なりとも憲法感覚や常識的な法意識を持った者には、決してスラップ訴訟などというみっともないことはせぬものだ。仮に、黙っておられない言論があれば、言論には言論をもって対抗すべきという文化を育てなければならないと思うのです。それには、あらゆるメデイアが、ジャーナリストが、本件スラップ訴訟を傍観することなく、批判を重ねていただくことに尽きると思います。そうしなければ、日本のメディアは危ういのではないか、本気で心配せざるを得ません。
はからずも、私はその事件当事者の立場にあります。ぜひ、皆様のご支援をよろしくお願いします。
(2014年10月24日)
朝日の「かたえくぼ」欄に、
「『復活』 お久しぶり ?政治とカネ」 とある。
なるほど、昭電事件・造船疑獄・ロッキード事件・リクルート事件・佐川急便事件等々の政権の中枢を揺るがす超弩級事件はしばらくなかった。その意味では、小渕優子事件は「政治とカネ」の大型話題提供事件として「お久しぶり」の「復活」なのかも知れない。しかし、政治とカネとの問題は、政権中枢を揺るがすほどのものではないにせよ、常に話題となり続けてきた。保守政権が続く我が国の政治史に通有というだけでなく、民主主義が成熟するまでの半永久的なテーマなのかも知れない。しかも、このマグマはくすぶっていただけではない。ごく最近に限っても、いくつか火を噴く事件も起こしている。「UE・石原宏高事件」、「徳洲会・猪瀬直樹事件」、「DHC・渡辺喜美事件」など、いずれも政治をゆがめることにおいて悪質性は高い。
ところで、資本主義とはカネがものをいう社会である。利潤の追求を容認し、カネの力を率直に認め合うことがお約束。労働力すら売買の対象となって誰も怪しまない。その資本主義の社会において、なぜカネで票を買ってはならない(投票買収の禁止)のだろうか。なぜ、カネで人を雇って選挙運動をさせてはならない(運動員買収の禁止)のだろうか。選挙運動や政治活動までも規制して、政治献金の量的規制や透明性確保などという、あきらかに自由主義の原則に反するルール設定が何故に合理性を持つものとされているのだろうか。
政治活動も選挙運動も本来は自由のはず。憲法21条によって保障される表現の自由の範疇の行為として、その制約は必要最小限にとどめられるべきが大原則である。原則における「自由」が、「公正」という別の法価値からの規制を受けるという局面。どこまでの制約が合理的なものとして許されるか。そこが問題だ。
政治活動は、最終的に選挙結果に結実する。選挙は言論による有権者の支持獲得の競争と位置づけられる。競争の勝敗は有権者の支持の表明としての得票数によって決せられる。有権者が自ら競争に参加し、あるいは競争者間の言論に耳を傾ける過程をへて、有権者団が多数決をもって審判を下す。ここには、最大多数の支持獲得が暫定的にせよ最大幸福の実現につながるという理念がある。
「純粋な言論による競争」が選挙の基本理念なのだ。どのような政治が最大多数の利益になるのか、どのような政策がそれぞれの有権者の利益・不利益にどう関係するのか。政策の表明を中心に、有権者の支持獲得が競われることになる。
このような競争の武器は可及的に自由な言論に純化すべきことが要求され、それ以外のものはあるべき選挙の攪乱要素として排斥される。自由な言論戦を攪乱する要素の最たるものがカネである。カネの力によって獲得された支持や票は、けっして最大多数の最大幸福をもたらさないからだ。金持ちが選挙に投入するカネは、そのカネを出した少数金持ちの利益以外にもたらすものはない。けっして社会全体の利益にはならないのだ。従って、「カネがものを言って当然」という資本主義社会の経済原則は、ここでは意識的に排除されることになる。社会全体の利益を最大化する見地から、「票は金で買えない」とされるのだ。
「票は金で買えない」「票を金で買ってはならない」ことは、経済力の格差が言論戦に反映することも公正を欠くものとして容認しえないことになる。選挙を繰り返す中で、民主々義はそのような「常識」に到達したのだ。こうして、「選挙の公正」は次第に「選挙の自由」を浸蝕しつつある。
資金力の不公平を是正する限りにおいて、「選挙の公正」による「選挙の自由」の抑制は肯定されてしかるべきである。金権選挙・企業ぐるみ選挙は、徹底して排撃されなければならない。他方、言論戦それ自体の自由は最大限に保障されなければならない。だから、選挙運動の自由の規制は不当なものとして撤廃すべきであるが、選挙運動費用収支の量的質的規制や、収支報告の透明性の確保に関する規制は遵守すべきなのだ。
もっとも、「『選挙運動は無償を原則とする』などということは一方的な澤藤の思い込みで、間違った解釈である」という見解をネットで堂々と公開している「革新陣営」の弁護士もいる。多分、いまだにこの水準が多くの候補者や選挙運動参加者のホンネなのだろう。しかし、法は意識水準よりも先を行っている。「選挙運動は無償を原則とするものではない」などと信じ込まされるとたいへんな目に遭うことになる。
選挙に立候補する人、選挙運動に携わる人に申し上げたい。とりわけ、革新陣営の候補者に。「潔白に身を処すように心がけさえしておれば、問題を起こすようなことはあるまい」などと精神論だけで悠長に構えておられる時代ではない。選挙の公正を確保するための規制は、繰り返される脱法を防止するために複雑化している。もはや政治家自らが制度に精通していないではたいへんなことになりかねない。既に、「秘書にお任せ」「政党指導部にお任せ」では、政治家たる資格のない時代なのだ。
また、候補者の掲げる政策に賛同して選挙運動に参加する人、後援会活動に参加する人に申し上げたい。選挙運動は無償に徹すべきものなのだ。選挙をアルバイトと考えてはならない。選挙で飲み食いして、足りない分を補填してもらうなどしてもらってはならない。選挙に絡んでカネをもらうことは、実は犯罪に巻き込まれる危険にさらされることなのだ。
保守政界のプリンセスであった小渕優子も、結局は「秘書にお任せ」の実態を露呈して、政治家としての資格のないことを天下にさらけ出した。この人、けっして右翼でも靖国派でもないだけに、残念な気持ちは残るが、出直しするしかない。問題はどこまで出直しが必要になるのかということ。閣僚辞任だけでは済まない。議員辞職も必要ではないか。
この間、小渕優子後援会の政治資金収支報告書における「明治座観劇会」の収支報告のでたらめさが明白となった。数字の辻褄の合わないことから、客観的に不実の記載であることが明らかなこの報告の作成行為は、収支報告書の作成者である会計責任者において、政治資金規正法第25条第1項3号の虚偽記載罪(最高刑禁固5年)が成立することになる。
この虚偽記載罪の構成要件は本来故意犯と考えられるところ、政治資金規正法第27条第2項は「重大な過失により第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰するものとする」と規定して、重過失の場合も含むものとしている。その結果、「虚偽記載」とは行為者が「記載内容が真実ではないことを認識しながら記載した場合」だけでなく、「重大な過失により誤記であることを認識していなかった場合の記載」をも含むものとなっている。
本件の場合、故意犯の可能性も高いが、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」として重過失でも有罪となるのだから、会計責任者が処罰される可能性は限りなく高い。
問題はその場合の、小渕優子自身の責任である。政治資金規正法第25条第2項は、会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合の政治団体の責任者である政治家本人の罪を定める。こちらは重過失を要せず、「会計責任者の選任及び監督についての相当の注意を怠る」という軽過失で犯罪が成立する。
法25条2項の「選任及び監督」を厳密に、会計責任者に対する「選任」と「監督」の両者についての過失を必要とするとの見解もあるようだが、些事にこだわる必要はあるまい。憲法7条の「助言と承認」、憲法19条の「思想及び良心」のいずれも、語を分けて論じる実益はないものとされている。会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に政治団体の責任者の「選任及び監督」に過失があったものと推定されなければならない。政治団体を主宰する政治家が自らの政治活動の資金の正確な収支報告に責任をもつべきは当然だからである。
この場合の責任は、政治的・道義的な責任にとどまらない法的責任である。しかも、最高刑が罰金50万円ではあっても、刑事制裁を伴う犯罪が成立するのだ。現実に罰金刑が確定すれば、公民権停止にもなる。その場合には議員としての地位を失わざるを得ない。
もっとも、今のところは明確な虚偽記載は「小渕優子後援会」の収支報告に限られ、小渕優子自身が責任者となっている資金管理団体の「未来産業研究会」については、必ずしも明確な虚偽記載があったと断定できるまでには至っていない。その意味では、小渕自身の法的責任を断定的に述べるのは尚早ではある。
しかし、自ら真摯に政治家としての出直しをするというのなら、この両者を分けて論じることに合理性を見出しがたい。真摯な反省は、国会議員を辞すところから始めるべきではないか。なお、公民権停止期間は5年間が原則である。
(2014年10月21日)
どうやら、潮目が変わってきたようだ。安倍二次内閣の終わりの始まりが見えてきた印象。改造内閣の看板とされた5人の女性閣僚がいずれも看板倒れなのが躓きの石。とりわけ、最も目立つ立場にあった小渕優子の火だるま辞任は政権にとっての大きな痛手。これに続く松島みどりの「団扇辞任」もドミノ劇を予感させるものとして政権を震撼させるに十分なインパクト。
本日の「朝日川柳」に、「親分の代わりに子分が参拝し」と並んで、「この際は皆で辞めるか五人組」とある。本日辞任の二人だけでなく、「親分の代わりに参拝した」三人の子分の地位も危うい。辞任ドミノ、大いにあり得ることではないか。
本日発売の「週刊ポスト」の広告が各紙を麗々しく飾っている。
巻頭特集のメインタイトルが大活字で、「女を食い物にした安倍内閣が 女性閣僚トラブルで万事休す」。サブタイトルの方が内容あってなかなかのもの。「『女性活躍社会』の正体は主婦増税と『ブラックパート』量産だ」「小渕優子、松島みどり、山谷えり子は『秒読み』段階?まじめに働く女性たちの怒り爆発」。保守的傾向強い小学館の辛辣な政権批判である。
「週刊現代」も負けてはいない。巻頭特集メインタイトルの仰々しい大活字は、「安倍官邸と大新聞『景気は順調』詐欺の全手口」。サブタイトルは、「全国民必読・日本経済『隠された真実』 ゴマかす、誇張する、知らんぷりする」「『消費税10%』のために、そこまでやるか!」こちら講談社の安倍政権批判の辛辣度も相当なもの。
「現代」はこれまで政権を支えてきたアベノミクスを「詐欺」呼ばわりし、「ポスト」は安倍内閣の「女性が輝く社会」(ウィメノミクス)というこれからの目玉政策と看板人事の「正体を暴く」としたのだ。政権の核心への攻撃となっている。あたかも両誌が示し合わせて分担したごとくにである。
加えて、世論調査での安倍内閣支持率の着実な低下である。50%割れも目につくようになってきた。
最新の共同通信の調査(10月18・19両日)結果は、内閣支持率は48・1%となって、9月の前回調査に比べて6・8ポイント下落した。「小渕優子経済産業相の関連政治団体をめぐる『政治とカネ』問題などが影響した可能性がある。安倍政権の経済政策による景気回復を『実感していない』との回答が84・8%に上った」と解説されている。
同日の毎日新聞の調査結果(10月18・19日)では、「安倍内閣の支持率は47%で、内閣改造直後の前回調査(9月3、4日実施)と同じだったが、不支持率は4ポイント増えて36%」。
小渕問題発覚以前だが、時事通信調査(10月10?13日)では、「支持率47.9%、前回比2.3%減」。
同じ時期のNHK調査(10月10?13日)では、「支持率52%(前月比6%減)、不支持率34%(前回比6%増)」である。
アベノミクスの馬脚が表れてきた。いつまでたっても庶民の生活実感がよくならない。それでいて、特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認、ガイドライン、オスプレイ導入、辺野古基地建設強行、武器輸出、原発再稼働、原発プラント輸出、労働法制と福祉の大改悪。そして庶民大増税とその財源捻出のための大企業優遇税制である。
庶民の生活苦に配慮しようとしないこんな政権が、いつまでも持つはずはないのだ。これからの地方選が楽しみになってきた。
(2014年10月20日)
本日発売の週刊新潮の広告に、「小渕優子経産相のデタラメすぎる『政治資金』」という大きな活字が踊る。これに小さく、「松島みどり法相の団扇どころの話じゃない」と副題が添えられている。
あとは記事のタイトルが5本。
▽50万円で後援者御一行の「巨人戦観戦」が政治活動?
▽「下仁田ネギ」400本60万円を交際費で計上。
▽秘書に買ってあげた「スーツ」は『制服代』だって?
▽姉夫婦のブティックに3年で330万円の売り上げ貢献
▽報告書とおりなら有権者の買収!?
年1300万円の赤字が出た元後援者の「明治座貸切」
以上のタイトルだけで内容は十分に分かる。だから、新潮を買う必要は無い。
この記事は、事前に内容が話題となっていた。注目は、これだけの指摘をされた小渕が、「事実無根」と否定するのか認めるのか。そこが問題だったが、朝日の報道では、「小渕経産相は16日の参院経産委員会で『大変お騒がせし、心からおわび申し上げる』と陳謝した。一方で『観劇に関しては、私自身は出席したおひとりおひとりから実費を頂いていると承知している』と発言。関係団体にその点の確認を依頼したことを明らかにした」という。歯切れが悪く言い訳はしているが、「私は知らない。秘書が‥」ということだ。結局はアウト。
かつて、通産大臣といえば、大蔵・外務と並ぶ重要ポスト。首相へのステップとされる大物があてがわれるとされていた。女性5閣僚の中で、さすがに小渕優子は他と別格、との印象があった。なるほど、さすがに大物のやること。みみっちい「松島みどり法相の団扇」とは比較にならない。
通常、この種の記事はたれ込みがきっかけとなる。しかし、この5本のタイトルを見る限り、政治資金収支報告書を閲覧するだけで書けそう。少なくも、きっかけはつかめる。なかなかたいへんな作業ではあるが、丹念にインターネット検索をするだけで、これだけの「事件」を探り当てることができるのだ。
小渕優子の資金管理団体名は、「未来産業研究会」という。総務省のホームページで公開されている「政治資金収支報告書及び政党交付金使途等報告書」欄を開けばよい。
下記の各サイトの「未来産業研究会」欄をクリックすれば、各年の報告書(PDF)が閲覧できる。もちろんダウンロードも可能。ただし2009年以前のものは情報公開手続きを経なければ閲覧できず、2013年分の公開は今年(2014年)の11月末まで待たねばならない。
2010年分
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS3220111130.html
2011年分
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS3220121130.html
2012年分
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS3220131129.html
怪しい支出項目を見つけたら領収証のコピーがほしいところだが、これはネットに公開されてはいない。情報公開の手続きを経なければならない。
ところで、今朝の毎日はすごい。1面と社会面両方の報道。
社会面は、「小渕氏資金管理団体:不透明支出、5年間で1000万円超」「事務所費でベビー用品/組織活動費でネギ」の見出しでの報道だが、「小渕氏の資金管理団体の領収書には『ベビートドラー』や『ストール』、『売場 ハンドバッグ・雑貨』などの記載がある」と大きく領収証の写真を掲載している。情報公開請求で09年?12年の領収証を入手済みなのだ。
記事の大要は「経済産業相の資金管理団体は政治活動との関係が薄いとみられる領収書を添付し、政治資金として計上していた。不適切・不透明な支出は、実姉の夫が経営する服飾雑貨店への支出分を含めると、2012年までの5年間で1000万円を超えている。」というもの。
さらに、「毎日新聞が情報公開請求で入手した小渕氏の資金管理団体『未来産業研究会』の領収書や政治資金収支報告書などによると、同団体は09年、本来は事務所の維持に充てる『事務所費』として、ベビートドラー(乳幼児向け用品)3点と化粧品、ストールの計約4万5000円を支出していた。
また、政治活動に充てる『組織活動費』として、著名デザイナーズブランドへの支払い計3件119万円余▽下仁田ネギの送料や品代計4件261万円余−−などを計上。銀座の百貨店の『子供・玩具売り場』への支出計5件15万円余(うち1件1万円余は事務所費に計上)のうち4万1580円は、11年12月24日のクリスマスイブに支払われていた」など。
毎日の夕刊が続報で、「後援会『観劇会』費用を負担」と報道している。
「群馬県内の『小渕優子後援会』の政治資金収支報告書によると、同団体は10年と11年、東京都中央区の「明治座」で支援者向けの観劇会を開き、計約1700万円を支出し、観劇料として計約740万円の収入を記載。差額を団体が負担した可能性があり、有権者への利益供与を禁じる公職選挙法に抵触する疑いがある」
こちらは、群馬県選挙管理委員会のホームページ。下記URLの「小渕優子後援会」をクリックすれば明治座関係の収支の記載を確認できる。
2010年分 http://www.pref.gunma.jp/07/u0100119.html
2011年分 http://www.pref.gunma.jp/07/u0100223.html
毎日では、次のような弁明が報道されている。
「小渕氏は観劇会について経産委で『(有権者への)寄付行為ではないが、実費をいただいているかについて私自身は確認していないので調査している』と述べた。」という。辻褄の合わない話だが、開き直ってはいない。この人正直な人柄なのだろう。しかし、政治家は正直なだけでは務まらない。
さて、この小渕優子後援会の収支の記載が間違いだったとしよう。「単純な記載ミスだった」「記載を訂正しさえすれば済むこと」などという話はあちこちで聞かされている。その場合は、会計責任者が政治資金規正法上の収支報告の虚偽記載罪(最高刑禁固5年)を犯したことになる。
政治資金規正法第25条第1項3号の収支報告書虚偽記載罪の構成要件は、刑法総則の原則(刑法第38条第1項)に従って本来は故意犯と考えられるところ、政治資金規正法第27条第2項は「重大な過失により第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰するものとする」と規定して、重過失の場合も含むものとしている。
その結果、「虚偽記載」とは行為者が「記載内容が真実ではないことを認識した場合の記載」だけでなく、「重大な過失により誤記であることを認識していなかった場合の記載」をも含むものとなる。
本件の場合には、過失での間違いは苦しい言い訳だが、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」として、有罪となる可能性は限りなく高い。
問題はその場合の、小渕優子自身の責任である。政治資金規正法第25条第2項の政治団体の責任者の罪は、過失犯(重過失を要せず、会計責任者の選任及び監督についての相当の注意を怠る軽過失で犯罪が成立する)であるところ、会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に過失の存在が推定されなければならない。政治団体を主宰する政治家が自らの政治資金の正確な収支報告書に責任をもつべきは当然だからである。
つまり、この場合の小渕優子の責任は、政治的・道義的な責任にとどまらず、最高刑が罰金50万円ではあるが、刑事制裁を伴う犯罪が成立するのだ。現実に罰金刑が確定すれば、公民権停止にもなる。国会議員としての地位を失わざるを得ない。
さて、この小渕優子後援会の収支の記載に間違いがないものとしよう。そのときには、公職選挙法違反となる。根拠条文は、同法199条の5第1項(後援団体に関する寄付の禁止)である。読みにくい条文だが、読みやすくすれば、「特定の公職の候補者若しくは公職の候補者となろうとする者(公職にある者を含む)の政治上の主義若しくは施策を支持し推薦する政治活動を行う「後援団体」は、当該選挙区内にある者に対し、いかなる名義をもつてするを問わず、寄附をしてはならない」というもの。違反は、50万円以下の罰金である(249条の5第1項)。
どちらにしても、処罰対象になる。
5人の女性閣僚と自民党の政調会長のうち、4人はどうしようもない極右。小渕優子と松島みどりは、普通の保守政治家。そう思っていたのだが、マシな方がぼろを出した。せっかくの登用だが、輝く女性閣僚たちとはならないようだ。
(2014年10月16日)
共同通信などの複数メディアが伝えるところによると、
「江渡聡徳防衛相の資金管理団体(「聡友会」)が2009年と12年、江渡氏個人に計350万円を寄付したと政治資金収支報告書に記載していたことが9月26日に分かった。江渡氏は同日の閣議後記者会見で『事務的なミスだった』と述べ、既に訂正したと明らかにした」「江渡氏や訂正前の報告書などによると、09年に100万円を2回、12年5月と12月にも100万円と50万円を寄付したことになっていた」
という。
明らかな政治資金規正法違反。条文上は、法第21条の2「何人も、公職の候補者の政治活動(選挙運動を除く)に関して寄附(政治団体に対するものを除く)をしてはならない」に違反する。個人及び政党以外の政治団体は、公職の候補者(国会議員や首長など現職を含む)に対して、選挙運動に関するものを除き、金額にかかわらず政治活動に関する寄附を行うことが禁止されている。
ましてや、資金管理団体とは政治家個人の政治資金を管理するために設置される団体である。法は、政治家を代表とする資金管理団体を一つだけ作らせて、政治家個人への政治資金の「入り」も「出」も、この団体を通すことによって、透明性を確保し量的規制を貫徹しようとしている。だから、資金管理団体から政治家個人への寄付などという形で資金の環流を認めたのでは、政治資金の取り扱い権限を個人から資金管理団体へ移行しようとする制度の趣旨を没却することになってしまう。
総務省のホームページで、「政治資金収支報告書及び政党交付金使途等報告書」を検索してみた。残念ながら09年の報告は期限が切れて掲載されていない。12年の報告だけは閲覧可能である。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/contents/131129/1306400032.pdf
確かに、「聡友会」(代表者江渡聡徳)の収支報告書の支出欄に、
2012年5月25日 「江渡あきのり」への寄付100万円
2012年12月28日 「江渡あきのり」への寄付 50万円
と明記されていたものが、本年9月2日に「願により訂正」として、抹消されている。これに辻褄を合わせて、「支出の総括表」における「寄付」の項目が150万円減額となり、人件費が150万円増額となっている。これも、「9月2日 願により訂正」とされている。
記者会見による弁明の内容については、「江渡氏は『350万円は寄付ではなく、聡友会の複数の職員に支払った人件費だった』と説明。担当者が領収書を混同し、記載をミスしたとしている」(共同)と報じられている。
弁明の内容については、朝日の報道がさらに詳しい。
「江渡氏は『私から職員らに人件費を交付する際、私名義の仮の領収書を作成していたため、(報告書を記載する)担当者が(江渡氏への)寄付と混同した』と説明。人件費は数人分で、江渡氏が仮領収書にサインするのは『お金の出し入れの明細がわかるようにするため』と述べた」という。
この江渡弁明を理解できるだろうか。弁明が納得できるかどうかの以前に、どうしてこのような主張が弁明となり得るのかが理解できないのだ。
人件費としての支出には、その都度に受領者からの領収証を徴すべきが常識であろう。政治団体の場合は常識にとどまらない。政治資金規正法は、刑罰の制裁をともなう法的義務としている。
「第11条(抜粋) 政治団体の会計責任者又は、一件五万円以上のすべての支出について、当該支出の目的、金額及び年月日を記載した領収書を徴さなければならない。ただし、これを徴し難い事情があるときは、この限りでない。」
この領収証を徴すべき義務の対象において人件費は除外されていない。そして、その領収証について3年間の保管義務も法定されている。例外を認める但し書きはあるものの、職員への人件費の支払いに関して「領収証を徴し難い事情」はおよそ考えられるところではない。この11条の規定に違反して領収書を徴しない会計責任者には、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処せられる(24条3号)。政治資金規正法をザル法にしないための当然の規定というべきだろう。
江渡弁明を報告書訂正の内容と合わせて理解しようとすれば、職員に支払った人件費の支出を事務的ミスで江渡個人への寄付による支出と混同したということになる。しかし、いったいどのような経過があってどのような事情で、混同が生じたというのだろうか。職員に支払う際の義務とされている領収証を受領しておきさえすれば「混同」は避けられたはずではないか。それすらできていなかったということなのか。
なによりも、「私から職員らに人件費を交付する際、私名義の仮の領収書を作成した」ということが意味不明だ。「仮」のものにせよ、人件費の支払いを受けた資金管理団体の職員の側ではなく、支払いをした資金管理団体の代表が「領収証」を作成したということが理解できない。
政治資金収支報告書の届け出によれば、同年の「聡友会」の支出のうち、「寄付」はわずかに16件である。問題の2件を除けば14件。そのうち12件は、毎月定期的に行われる、各月ほぼ100万円の地元「江渡あきのり後援会」への寄付(合計1260万円)が占めている。他は、自民党青森県連へのものが1件と、靖国神社へ1件だけ。「江渡あきのり・個人」への2件150万円は、異色の寄付として目立つものとなっている。たまたま紛れがあって、事務的ミスが原因で報告書に記載されたとはとうてい考えがたい。直ぐには目にすることができないが、きちんと作成され保管されていた「江渡聡徳名義の領収証」があったに違いない。これを、苦し紛れに「仮の領収証」と言い訳をしたものとしか考えられない。これだけの疑惑が問題となっている。
この「事務的なミス」とする弁明は不誠実でみっともない。きちんと誤りを認めて謝罪し、再発防止を誓約することこそが、政治家としての信頼をつなぎ止める唯一の方策であろう。問題の「仮領収証」を公開することもないまま、「報告書を訂正したのだから、もう済んだ問題」として収束をはかるなどはとうてい認められない。
よく似た例はいくらでもある。たとえば、2012年都知事選がそうだった。
「上原氏の‥交通費や宿泊費など法的に認められる支出の一部にすぎない10万円の実費弁償に何の違法性もないことは明らかである」「上原さんらの上記10万円の実費弁償が選挙運動費用収支報告書に誤って『労務費』と記載されていることは事実であるが、この記載ミスを訂正すれば済む問題である」
とは、江渡弁明とよく似た言い分。
自らの手の内にあるはずの根拠となる資料を示すことなく、「この記載ミスを訂正すれば済む問題」とし、今は「既に訂正したのだから、もう済んだ問題」として押し通そうとしている。このようにして収束をはかろうなどはとうてい認められない。
誤りを認めず、反省せず、真摯に批判に耳を傾けようとしない。こういう体質は改めなければならない。でなければ、この陣営に参集した者には、石原宏高や猪瀬直樹、渡辺喜美、そして江渡聡徳らを批判する資格がないことになるのだから。
(2014年10月6日)
昨日(10月4日)の朝日が、新たな渡辺喜美関係の政治資金規正法違反疑惑を報道した。今年3月にDHC吉田からの「8億円裏金疑惑」が表に出たが、渡辺は自らすべてを報告しようとはしなかった。4月には弁護士2名と公認会計士をメンバーとした「みんなの党調査チーム」の報告書が発表されたが、これも未解明部分を残したものとなった。そして今また「新たな疑惑」である。もちろん、これで終わりではない。あきらかに解明しなければならない疑惑は残っている。この上は特捜の強制捜査に期待したい。捜査の徹底によって、渡辺喜美・みんなの党の内部だけでなく、この人物この政党と関係したすべての者との金銭の出入りを明確にしてもらいたい。
当ブログで何度も繰り返した。「政治資金の流れは透明でなければならない」「可視性が確保されなければならない」「政治資金の公開の制度は、民主々義の基本的要請である」「その監視と批判は主権者国民の責務である」。巨額の政治資金の動きが、献金ではなく貸付金だからという理由で、裏に隠されたままでよいことにはならない。しかも、本当に貸付金であるか、怪しい金の動きについては、主権者の良識が納得を得るだけの徹底した疑惑の解明が必要である。
朝日が報道した「新しい疑惑」は、その金の流れ自体は既に、本年4月24日付けの「みんなの党調査チーム・報告書」で明らかにされていたものである。同報告書は、本文12頁に、6頁の図表、3頁の別表、そして3件のメールの写で構成されている。その図表1から、昨日の朝日に掲載された「2010年参院選の前後の渡辺喜美前代表をめぐる資金の流れ」の図が作成されている。
みんなの党調査報告書の該当部分を、改めて抜き書きしてみる(すべて2010年) 。
(1) 3月26日 Aから渡辺喜美(りそな銀行衆議院支店)に5000万円貸付
(2) 3月29日 渡辺喜美からみんなの党に5000万円貸付
(3) 6 月18日 Aから渡辺(りそな銀行衆議院支店)に4000万円貸付
(4) 6月21日 渡辺喜美からみんなの党に5000万円貸付
(5) 6月21日 みんなの党が供託金(1億3800万円)支払い
(6) 6月30日 DHC吉田から渡辺(りそな銀行衆議院支店)に3億円貸付
(7) 7月13日 渡辺(りそな銀行衆議院支店)から「A」に9000万円返済
要するに、Aから渡辺に9000万円が貸し付けられ、4か月後に渡辺がこれを返還しているが、その返済の原資はDHC吉田から借用した3億円の一部である。
この報告書では、Aを個人と明示してはいない。しかし、Aが政治資金規制法における収支報告を義務づけられた政治団体だとも指摘していない。多くの読み手は、AをDHC吉田と同様の個人と理解してしまうだろう。うかつにも、私もその一人だった。朝日は調査して、このAが政治団体「渡辺美智雄政治経済研究所」(栃木県宇都宮市・代表者渡辺喜美)だと報道したのだ。自分が主宰する政治団体から自分に9000万円を貸し付け、これを政党に貸し付けている。はて、面妖な。
2010(平成22)年の「渡辺美智雄政治経済研究所」の総務省への収支報告書は以下のURLで読むことができる。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/contents/111130/2460000021.pdf
4000万円の支出も、5000万円の支出も記載がない。「貸付先ごとの残高が100万円を超える貸付金」「借入先ごとの残高が100万円を超える借入金」について、「無」と明記されてもいる。繰り越しを含む年間総収入が592万円、支出総額が527万円である。9000万円の支出などできるはずもない。
朝日が、どんな資料を把握しているのかは分からない。慎重に、出稿前に渡辺喜美側に取材し言い分を聞いている。記事は次のとおり。
「渡辺喜美前代表の事務所は3日、朝日新聞の取材に対し、9千万円の貸し付けと返済について『渡辺議員に対する貸し付けは、ご指摘の政治団体(渡辺美智雄政治経済研究所)の資金ではありません。政治団体の収支に関係しないので収支報告書に記載する必要はありません。政治資金規正法に反するのではないかとの指摘は誤りです』と書面で回答した。同研究所名義の銀行口座から出入金されたかどうかの質問には、回答がなかった。」という。
朝日は、「同研究所名義の銀行口座から9000万円の出入金があったか」と質問したが、渡辺側からの「回答はなかった」という。常識的には、「これで勝負あった」ということになる。
もっとも、渡辺喜美側は、4日になって「朝日の指摘は全く当たらない」と反論するコメントを発表した、という。
「コメントは『口座の名義は、政治団体の経理担当者の政治団体名の肩書を付けた個人名義』と説明。『政治団体の資産ではなく、収支報告書に記載すべき収支には当たらない』としている」(時事)という。
これは不自然きわまる苦しい言い訳。「政治団体の経理担当者の政治団体名の肩書を付けた個人名義」って、いったいそりゃ何のことだ。個人名義と言いたいのだろうが、それならなぜ政治団体名を付したのか。本当に、経理担当者個人が9000万円を渡辺喜美個人に貸し、9000万円を返してもらったというのか。いったい何のために、そんな操作をしたのか。そもそも経理担当者(収支報告書には、「会計責任者薄井等」とされている)が、どのようにして9000万円を調達したというのだろうか。
今回の朝日の報道では問題とされていないが、みんなの党の報告書にはAだけではなく、B、C、D、Eまで出てくる。特に、BはAと並んで同時期(2010年6 月18日)に、渡辺喜美に8000万円を貸し付けている。このBとは誰のことだろうか。やはり、政治資金規正法上の収支報告を義務づけられている政治団体である可能性が高い。
渡辺喜美もみんなの党も、そして調査チームも、徹底解明の意欲に欠けている。朝日の報道で、調査チーム報告の疑惑解明不徹底が明瞭になった。私もこの件の告発代理人の一人に名を連ねている。特捜には、是非とも徹底して疑惑を解明してもらいたい。かりに、現行法での捜査の限界があるというのであれば、貸付金の報告義務や量的制限についての立法措置の必要まで視野に置くべきであろう。
(2014年10月5日)
9月30日東京新聞投書欄に「政党助成金は廃止すべきだ」と寄稿された沼津市のFさん。僭越かと思いますが、論旨明晰なご主張に感服しました。そして、表題の「政党助成金は廃止すべきだ」とのご主張には、諸手を挙げて賛意を表します。
「我慢がならないのは政党助成金だ。支持しない政党に私の税金が使われるのは、たとえ一円であってもお断りしたい。しかもこれは、企業からの政治献金を受けないという約束の下で導入された制度ではなかったか。献金ならいくら受けてもよいが、政党助成金は返上していただきたい。」
まことに仰るとおり。「支持しない政党に私の税金が使われるのは、たとえ一円であってもお断り」「我慢がならない」というのは、民主主義社会における主権者としてのまっとうな感覚だと思います。
現行制度では、「毎年私の懐から250円が強制徴収されて、私の支持しない政党の政策実現のための費用として使われている」のですから、私の思想・良心に反した行為(金銭支出)を強制されていることになります。すべての人に思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反する制度だと言わなければなりません。
この点は、政党助成金制度に反対している日本共産党が、「政党助成金制度は、国民の思想・良心の自由を侵す憲法違反の制度(国民への強制献金)である」と言っているとおりです。同党が制度の廃止を求めているだけでなく、「政党助成金の交付を、これまで1円も受け取っていない」のは、さすがにスジの通ったことだと思います。
政治献金は主権者である国民の政治参加の重要な一形態です。「寄付をするかしないか」「どの政党にいくら寄付するか」は、国民の自由な意思によるべきもので、けっして強制されてはなりません。南九州税理士会政治献金強制徴収事件の最高裁判決(1996年3月19日)はこの理を認めています。
(article9.jp/wordpress/?p=2889 を参照ください)
ここまでは、Fさんと断然意見一致するところ。しかし、次の点では、見解を異にします。財界からの政治献金も自由だという点です。
「経団連が政治献金を復活する。恐らく献金のほとんどは、自民党に充てられるのだろう。私はこれに反対ではない。支持者が自分の支持する政党に献金することは、個人企業を問わず規制する必要はないと思う。」
さて、本当にそれでよいのでしょうか。はたして、それが民主主義社会における主権者のまっとうな感覚でしょうか。
論点はいくつかあります。まず、企業(株式会社)に政治献金の自由を認めてよいのでしょうか。企業は誰のものかという論争があります。企業の金は誰のものかということでもあります。最も狭く企業が株主のものであると解しても、上場企業の無数の株主の一人ひとりにとって、「支持しない政党の政治活動に私の会社の金が使われるのは、たとえ一円であってもお断り」「我慢がならない」ということになりはしないでしょうか。
株式会社が、経営者や従業員、あるいは下請け企業や債権者や、これから株を買おうと市場を見ている人まで含めて、多くのステークホルダーに関係する社会的存在であることを考えれば、関係者間で鋭く利害が対立することが明らかな特定政党への政治献金を「規制する必要はない」と言ってよいのでしょうか。
さらに、企業の本質は営利性にあります。仮に企業献金が、特定企業の営利に結びつかないものとすれば、無駄な捨て金の支出として、支出責任者は株主に責任を取らねばなりません。では、企業への見返りを期待した企業献金が許されるか。Fさんは、「それで良い」という意見をお持ちのようですが、これはアウトです。そもそも、金の力で、政治や行政を自分の都合のよいように誘導することは許されません。個別の利益につながる政治献金は、金の力で政治をゆがめるものとして賄賂に等しく、民主々義社会における政党活動を支えるための資金とは言えないからです。
企業は主権者でもなく選挙権も持ちません。政治活動や選挙運動の主体とはなり得ない存在です。単に経済的な活動主体として法が権利主体として認めただけの存在です。私は、これに政治的活動や政治献金の権利を認めてはならないと考えています。この点は、最高裁判例の考え方とは違いますが、いずれ最高裁もその考えを改めるだろうと思っています。
次の問題は、少数の大金持ちが、政治資金を特定政党や政治家に際限なく資金を提供して政治を壟断してよいのか、ということです。
Fさんのお考えは、非常にドライでリアリスティックなものだと思います。
「そもそも政党は、国民全体ではなく、国民の中の特定の層を代表する団体にすぎないのだから‥‥、献金を受けた政党は、国民全体を代表するような顔つきはやめて、献金をしてくれた人たちの利益のために働くべきだ。」
私が忖度するに、Fさんは、こうお考えなのではないでしょうか。
「所詮、政治とは利益配分の綱引き。政治をどう動かすか、金ある者は金で勝負をすればよい。国民が利口でありさえすれば、そんな金の力に負けるはずもない。金の力に負けるような民主々義なら、それまでのこと。国民の自己責任ではないか」
この見解も一理あると思います。しかし、賛成できません。
意見の相違は、金の力への評価の差から来るものではないかと思います。政治資金の規正や、選挙の公正性の確保の歴史は、まさしく金の力をどう押さえ込むかの苦闘の連続です。政治や選挙にかかる金とは、けっして買収や供応の金ばかりではありません。優秀な専門スタッフを結集しての政策作り。マーケットリサーチの手法を取り入れた宣伝作戦。テレビや新聞のスペースを買いきった意見広告、洗練された美しいパンフレット、湯水のごときビラの配布。金がなくてはできないこと、金さえあればできることは、多々あります。経済力は、容易に政治力へと転化するのです。こうして、企業や富裕層は、金の力で政治を動かし、票を獲得することができるのです。これを看過して、「献金を受けた政党は、献金をしてくれた企業や金持ちの利益のために働くべきだ」と言っていたのでは、政治は百年たっても変わらないと思うのです。
政治・選挙は言論を手段とする闘いです。言論を手段とする闘いを経て、最終的には獲得した支持者の数が議席に反映することになります。国民の支持の大きさの差が政党や候補者の資金力の差となって表れることは当然のことです。しかし、支持者間の経済力の格差が、言論の量的格差となってしまってはなりません。企業献金自由・金持ちの政治献金の量的制限なしとなれば、政治は一方的に経済的強者のためのものとなってしまうでしょう。これを容認することはできません。
ですから、政党助成金の制度を廃止するだけでなく、企業・団体からの政治献金規制も、そして金持ちの政治献金の上限規制も、必要だと思うのです。Fさん、いかがでしょうか。
なお、下記の私のブログも参照していただけたらありがたいと存じます。
「経団連の政治献金あっせん再開は国民本位の政策決定をゆがめる」
https://article9.jp/wordpress/?p=2784
(2014年10月3日)
誰もが自分の権利・利益を保護するために裁判を申し立てる権利を持つ(憲法32条)。とはいえ、裁判は自分の権利・利益の保護を求めてのもの。自分の権利の保護を離れての訴訟提起は法が想定するところではない。正義感から、公益のために、世の不正や違憲の事実を裁判所に訴えて正そうと、裁判を提起することは原則として許されない。
もっとも、これにはいくつかの例外がある。自分の権利保護を内容としない訴訟を「客観訴訟」と言い、客観訴訟が認められる典型例が地方自治法上の「住民訴訟」。地方自治体の財務会計上の行為に違法があると主張する住民は、たった一人でも、住民監査を経て訴訟を提起することができる。住民であるという資格だけで、全住民を代表して原告となり、自治体コンプライアンスの監視役となって訴訟ができるのだ。
よく似た制度が「株主代表訴訟」。これも、取締役らの不正があったと主張する株主は、たった一人で裁判所に提訴ができる。各取締役個人を被告として、「会社に与えた損害を賠償せよ」という内容になる。原告にではなく、会社に支払えという裁判。住民訴訟同様に、原告となる株主個人が、全株主を代表して損なわれた会社の利益を回復する仕組みであり、この制度あることによって取締役の不正防止が期待されている。
株主代表訴訟と住民訴訟、両者とも私益のためではなく、「公益」のために認められた特別の訴訟類型。はからずも本日(9月25日)東京地裁で、両分野で、注目すべき判決が言い渡された。
まずは、株主代表訴訟。西松建設事件である。
「旧経営陣に6億円賠償命令 西松建設の株主代表訴訟
西松建設の巨額献金事件で会社が損害を受けたとして、市民団体「株主オンブズマン」(大阪市)のメンバーで個人株主の男性が、旧経営陣10人に総額約6億9千万円の損害賠償を求めた株主代表訴訟の判決で東京地裁は25日、6人に対し総額約6億7200万円を西松建設に支払うよう命じた。
事件では、会社が設立したダミーの政治団体に幹部社員らが寄付し、賞与の形で会社が穴埋めするなどの方法で政治献金が捻出されていた。10人は、献金当時に役員を務めていた。
大竹昭彦裁判長は、うち社長経験者ら6人が『役員としての注意義務違反があった』と指摘した。」(共同通信)
西松建設は、実体のない政治団体を使って国会議員に裏金を献金していた。2008年から東京地検特捜部が本社を捜索し、2009年に事件は「偽装献金事件」として政界に波及した。自民党や民主党の多数政治家に大金が流れていた。
西松建設幹部と国会議員秘書など計5人が、政治資金規正法違反として起訴され、4人が執行猶予付きの禁錮刑となり、1人が略式手続きによる罰金刑となって、刑事事件は確定した。
刑事事件は確定しても、会社から違法に流出した政治献金の穴は残ったまま。各取締役個人に対して、これを賠償せよというのが、今回の株主代表訴訟の判決。
たった一人の株主が、会社の不正を質した判決に到達したすばらしい実践例。「株主オンブズマン」(大阪市)の日常的な活動があったればこその成果といえよう。
もう一つは、住民訴訟関連の判決。報道の内容は次のとおり。
「高層マンション建設を妨害したと裁判で認定され、不動産会社に約3100万円を支払った東京都国立市が、上原公子元市長に同額の賠償を求めた訴訟の判決が25日、東京地裁であり、増田稔裁判長は請求を棄却した。
増田裁判長は『市議会は元市長に対する賠償請求権放棄を議決し、現市長は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」(時事)
先行する住民訴訟において、東京地裁判決(2010年12月22日)が、元市長の国立市に対する賠償責任を認め、この判決は確定している。元市長は任意の支払いを拒んだので、国立市は元市長を被告として同額の支払いを求める訴訟を提起した。
ところが、その判決の直前に新たな事態が出来した。市議会が、11対9の票差で裁判にかかっている国立市の債権を放棄する決議をしたのだ。今日の判決は、この決議の効果をめぐっての解釈を争点としたものとなり、結論として国立市の請求を棄却した。
こちらは、せっかくの住民訴訟の意義を無にする判決となって、高裁、最高裁にもつれることになるだろう。
問題は、たった一人でも行政の違法を質すことができるはずの制度が、議会の多数決で、その機能が無に帰すことになる点にある。
たとえば、総務省の第29次地方制度調査会「今後の基礎自治体及び監査・議会制度のあり方に関する答申」(2009年6月16日)は、次のように述べている。
「近年、議会が、4号訴訟(典型的な住民訴訟の類型)の係属中に当該訴訟で紛争の対象となっている損害賠償請求権を放棄する議決を行い、そのことが訴訟の結果に影響を与えることとなった事例がいくつか見られるようになっている。
4号訴訟で紛争の対象となっている損害賠償又は不当利得返還の請求権を当該訴訟の係属中に放棄することは、住民に対し裁判所への出訴を認めた住民訴訟制度の趣旨を損なうこととなりかねない。このため、4号訴訟の係属中は、当該訴訟で紛争の対象となっている損害賠償又は不当利得返還の請求権の放棄を制限するような措置を講ずるべきである。」
私は、この答申の考え方に賛成である。首長の違法による損害賠償債務を議会が多数決で免責できるとすることには、とうてい納得し難い。国立市はいざ知らず、ほとんどの地方自治体の議会は、圧倒的な保守地盤によって形成されている現実がある。首長の違法を質すせっかくの住民訴訟の機能がみすみす奪われることを認めがたい。
とはいえ、現行制度では、自治体の権利の放棄ができることにはなっており、その場合は議会の議決が必要とされている。問題は、議会の議決だけで債権の放棄が有効にできるかということである。
最高裁は、古くから「市議会の議決は、法人格を有する市の内部的意思決定に過ぎなく、それだけでは市の行為としての効力を有しない」としてきた。高裁で分かれた住民訴訟中の債権放棄議決の効力について、最近の最高裁判決がこれを再確認している。
2012(平成24)年4月20日と同月23日の第二小法廷判決が、「議決による債権放棄には、長による執行行為としての放棄の意思表示が必要」とし、これに反する高裁判決を破棄して差し戻しているのだ。
国立市の現市長は、「長による執行行為としての放棄の意思表示」をしていないはず。最高裁判例に照らして、「現市長は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない」は、すこぶる疑問であり、不可解でもある。
首長の行為の違法を追求可能とするのが住民訴訟の制度の趣旨。この判決では、市長派が議会の過半数を味方にすれば責任を逃れることが可能となる。さらに、前市長・元市長の違法を追求しようという現市長の意図も、議会の過半数で覆されることになる。
このままでは、せっかくの住民訴訟の制度の趣旨が減殺される。上級審での是正の判断を待ちたいところではある。
(2014年9月25日)