澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「政党助成金は廃止すべきだ」・「そして企業献金も」

9月30日東京新聞投書欄に「政党助成金は廃止すべきだ」と寄稿された沼津市のFさん。僭越かと思いますが、論旨明晰なご主張に感服しました。そして、表題の「政党助成金は廃止すべきだ」とのご主張には、諸手を挙げて賛意を表します。

「我慢がならないのは政党助成金だ。支持しない政党に私の税金が使われるのは、たとえ一円であってもお断りしたい。しかもこれは、企業からの政治献金を受けないという約束の下で導入された制度ではなかったか。献金ならいくら受けてもよいが、政党助成金は返上していただきたい。」

まことに仰るとおり。「支持しない政党に私の税金が使われるのは、たとえ一円であってもお断り」「我慢がならない」というのは、民主主義社会における主権者としてのまっとうな感覚だと思います。

現行制度では、「毎年私の懐から250円が強制徴収されて、私の支持しない政党の政策実現のための費用として使われている」のですから、私の思想・良心に反した行為(金銭支出)を強制されていることになります。すべての人に思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反する制度だと言わなければなりません。

この点は、政党助成金制度に反対している日本共産党が、「政党助成金制度は、国民の思想・良心の自由を侵す憲法違反の制度(国民への強制献金)である」と言っているとおりです。同党が制度の廃止を求めているだけでなく、「政党助成金の交付を、これまで1円も受け取っていない」のは、さすがにスジの通ったことだと思います。

政治献金は主権者である国民の政治参加の重要な一形態です。「寄付をするかしないか」「どの政党にいくら寄付するか」は、国民の自由な意思によるべきもので、けっして強制されてはなりません。南九州税理士会政治献金強制徴収事件の最高裁判決(1996年3月19日)はこの理を認めています。
article9.jp/wordpress/?p=2889 を参照ください)

ここまでは、Fさんと断然意見一致するところ。しかし、次の点では、見解を異にします。財界からの政治献金も自由だという点です。
「経団連が政治献金を復活する。恐らく献金のほとんどは、自民党に充てられるのだろう。私はこれに反対ではない。支持者が自分の支持する政党に献金することは、個人企業を問わず規制する必要はないと思う。」
さて、本当にそれでよいのでしょうか。はたして、それが民主主義社会における主権者のまっとうな感覚でしょうか。

論点はいくつかあります。まず、企業(株式会社)に政治献金の自由を認めてよいのでしょうか。企業は誰のものかという論争があります。企業の金は誰のものかということでもあります。最も狭く企業が株主のものであると解しても、上場企業の無数の株主の一人ひとりにとって、「支持しない政党の政治活動に私の会社の金が使われるのは、たとえ一円であってもお断り」「我慢がならない」ということになりはしないでしょうか。

株式会社が、経営者や従業員、あるいは下請け企業や債権者や、これから株を買おうと市場を見ている人まで含めて、多くのステークホルダーに関係する社会的存在であることを考えれば、関係者間で鋭く利害が対立することが明らかな特定政党への政治献金を「規制する必要はない」と言ってよいのでしょうか。

さらに、企業の本質は営利性にあります。仮に企業献金が、特定企業の営利に結びつかないものとすれば、無駄な捨て金の支出として、支出責任者は株主に責任を取らねばなりません。では、企業への見返りを期待した企業献金が許されるか。Fさんは、「それで良い」という意見をお持ちのようですが、これはアウトです。そもそも、金の力で、政治や行政を自分の都合のよいように誘導することは許されません。個別の利益につながる政治献金は、金の力で政治をゆがめるものとして賄賂に等しく、民主々義社会における政党活動を支えるための資金とは言えないからです。

企業は主権者でもなく選挙権も持ちません。政治活動や選挙運動の主体とはなり得ない存在です。単に経済的な活動主体として法が権利主体として認めただけの存在です。私は、これに政治的活動や政治献金の権利を認めてはならないと考えています。この点は、最高裁判例の考え方とは違いますが、いずれ最高裁もその考えを改めるだろうと思っています。

次の問題は、少数の大金持ちが、政治資金を特定政党や政治家に際限なく資金を提供して政治を壟断してよいのか、ということです。

Fさんのお考えは、非常にドライでリアリスティックなものだと思います。
「そもそも政党は、国民全体ではなく、国民の中の特定の層を代表する団体にすぎないのだから‥‥、献金を受けた政党は、国民全体を代表するような顔つきはやめて、献金をしてくれた人たちの利益のために働くべきだ。」

私が忖度するに、Fさんは、こうお考えなのではないでしょうか。
「所詮、政治とは利益配分の綱引き。政治をどう動かすか、金ある者は金で勝負をすればよい。国民が利口でありさえすれば、そんな金の力に負けるはずもない。金の力に負けるような民主々義なら、それまでのこと。国民の自己責任ではないか」

この見解も一理あると思います。しかし、賛成できません。
意見の相違は、金の力への評価の差から来るものではないかと思います。政治資金の規正や、選挙の公正性の確保の歴史は、まさしく金の力をどう押さえ込むかの苦闘の連続です。政治や選挙にかかる金とは、けっして買収や供応の金ばかりではありません。優秀な専門スタッフを結集しての政策作り。マーケットリサーチの手法を取り入れた宣伝作戦。テレビや新聞のスペースを買いきった意見広告、洗練された美しいパンフレット、湯水のごときビラの配布。金がなくてはできないこと、金さえあればできることは、多々あります。経済力は、容易に政治力へと転化するのです。こうして、企業や富裕層は、金の力で政治を動かし、票を獲得することができるのです。これを看過して、「献金を受けた政党は、献金をしてくれた企業や金持ちの利益のために働くべきだ」と言っていたのでは、政治は百年たっても変わらないと思うのです。

政治・選挙は言論を手段とする闘いです。言論を手段とする闘いを経て、最終的には獲得した支持者の数が議席に反映することになります。国民の支持の大きさの差が政党や候補者の資金力の差となって表れることは当然のことです。しかし、支持者間の経済力の格差が、言論の量的格差となってしまってはなりません。企業献金自由・金持ちの政治献金の量的制限なしとなれば、政治は一方的に経済的強者のためのものとなってしまうでしょう。これを容認することはできません。

ですから、政党助成金の制度を廃止するだけでなく、企業・団体からの政治献金規制も、そして金持ちの政治献金の上限規制も、必要だと思うのです。Fさん、いかがでしょうか。

なお、下記の私のブログも参照していただけたらありがたいと存じます。
「経団連の政治献金あっせん再開は国民本位の政策決定をゆがめる」
https://article9.jp/wordpress/?p=2784
(2014年10月3日)

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