(2021年8月27日)
8月23日の当ブログで、維新の松井一郎を、傲慢で愚かな市長と批判した。が、どうも言葉が足りない。もっと、ことの本質に立ち入って論じなければならない。
問題は、大阪市教委が市立木川南小の久保敬校長を文書訓告としたことで世間の耳目を集めることとなった。この文書訓告の根拠とされたのが、同校長が大阪市長松井一郎に宛てた本年5月17日付の「大阪市教育行政への提言」である。これは単に、松井一郎の「思いつき」「気まぐれ」によるオンライン授業を巡る現場の混乱を告発すだけのものではない。「豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」という副題のとおりの、堂々たる教育論なのだ。いや、堂々たるというよりは、現場から発せられた、悲鳴にも似た切実な教育論というべきだろう。しかも、教育に対する熱い情熱が胸を打つ。
当時、朝日デジタルがその全文を掲載した。あらためてこれを末尾に転載させていただく。まずは、名指しされた松井一郎は、真摯にこれに答えなければならない。大阪市の教委も、その事務局も、市議会もこの「提言」を素材に、公教育の現状とあるべき方向を真剣に議論しなければならない。
市教育委員会は久保敬校長を招聘して議論を尽くすべきだし、市議会各派は久保敬校長から教育現場の現状と教育行政の問題点について意見を聴くべき場をつくるべきだ。聞く耳もたず、文書訓告とはどういうことだ。松井に至っては「文句を言う校長は辞めろ」と言わんばかり。世の中、おかしいのだ。
「提言」が提起した問題は、大阪市に特有のものではない。府下の学校も、全国の学校も共通の問題を抱えているはずだ。久保敬校長の危機意識が共有されなければならない。議論が巻き起こらねばならない。
虚心に提言を読んでみよう。この提言は、大阪市教育行政の現状を根底から批判している。表題が、「豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」である。大阪の学校現場には、「豊かな学校文化」が失われているのだ。「学び合う学校」にもなっていない。
「提言」は、学校の現状について、「学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している」、ずばりそう表現している。子どもたちは商品となって、テストの点によって品質管理されている。やがて商品は買い手によってテストの点を品質の基準として選別される。そのため、子ども同士は、日々の「点数競争」に晒されている。
教職員は、商品工場の品質管理担当者となっている。子どもの成長にかかわるべき教育の本質に根ざした働きができず、何のためかわからないような仕事に追われ疲弊し、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。というのだ。
その結果、子どもの幸せはどうなっているのか。
「虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。」「グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが『がんばった人間』として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。」
ここで語られているのは、社会が求める型に合わせて人を作ろうという教育への疑問である。そのための、点取り競争の教育が、子どもを不幸にしているというのだ。こういう叫びが、教育現場の校長から発せられていることを重く受けとめねばならない。そして、「提言」の最後はこう結ばれている。
「根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。」
これが、直接には、市長・松井一郎に宛てた「提言」となっている。残念ながら、松井は、この提言を咀嚼する意欲も能力もない。教育とは何であるか、子どもの成長とはどういうことであるか。本来学校は、社会は、どうあるべきか、社会と個人の関係は…。そして、教育行政は何をなすべきで、何をしてはならないのか。これらのことを考えたこともないようだ。
松井は、この提言に関する感想を、「校長なのに現場が分かってない」「社会人として外に出たことはあるんか」などと述べたという。まったく、何にも分かってはいないのだ。分かろうともしていない。実は、教育には何の関心もなく、考えているのは、自分の地方政治家としての評判のことだけ。虚しい願望かもしれないが、せめて現場の声に耳を傾け、現場を尊重し、現場とともに考え悩む市長であって欲しい。
あらためて嘆かざるを得ない。こんな人物を市長にしていることが、大阪の悲劇であり、市民の不幸なのだ。教育を変える運動は、市長を換える課題と結びつかざるを得ない。
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大阪市長 松井一郎様
大阪市教育行政への提言
豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために
子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。
学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。
今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。
現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。
また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。
つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。
「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚(むな)しく、わたしたちの教育への情熱を萎(な)えさせるものか、想像していただきたい。
子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく、子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。
あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。
間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。
「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。
コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。
根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。
令和3(2021)年5月17日
大阪市立木川南小学校 校長 久保 敬
(2021年8月23日)
世の中は広い。考えられないほど傲慢で愚かな市長がいるし、わけの分からぬ教育委員会もある。そして、何と硬骨な校長もいるものだ。なるほど、この混沌が大阪なんだ。
《『混乱極めた』オンライン授業巡り、大阪市長批判の小学校長処分》という報道。教育行政のあり方や、言論の自由の意味、そして言論の自由を抑圧することの深刻な意味などについて考えさせられる。あわせて、ものの言えない鬱屈した教育現場の惨状があぶり出されてもいる。なるほど、これが大阪の教育の実態なんだ。維新の勢力が跋扈しているうちは、大阪はアカンとちゃうか。
「大阪市立小中学校が4?5月の緊急事態宣言下に実施したオンライン学習を巡り、「学校現場が混乱した」などと指摘した提言が地方公務員法が禁じる信用失墜行為に当たるとして、市教育委員会は8月20日、市立木川南小(淀川区)の久保敬校長を文書訓告にした。
市教委は4月、松井市長による突然の方針表明を受け、原則としてオンライン学習を実施するよう各校に通知した。しかし、多くの学校でネット環境が整っていなかったため、授業動画の視聴にとどまるなど満足に実施できず、学校現場や保護者から不満の声が上がっていた。
久保校長は5月に松井市長や市教育長に実名で提言書を送付した。「市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈した」と指摘。「学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている」とし、教育行政の見直しを訴えた。
これに対し、松井市長は「言いたいことは言ってもいい」としたうえで「方向性が合わないなら組織を去るべきだ」と批判していた。」
以上が、報道されている経過の概要である。文書訓告は地方公務員法上の懲戒処分ではないが、その前段階。もう一度同様のことがあれば懲戒するぞ、という警告の意味をもつ。教委の訓告の理由は、「他校の状況を把握せず、独自の意見に基づいて市全体の学校現場が混乱していると断言したことで市教委の対応に懸念を生じさせた」「さらにSNSで拡散されたことが信用失墜行為に当たる」というもの。
誰が見てもこの訓告理由はおかしい。言外にこう言っているのだ。
「長いものには巻かれろ、出る杭は打たれる言うやおまへんか。もの言えばくちびる寒しでっせ。あんさんも校長や、子らには上手な世渡り教えなならん立場や。市長に逆ろうてもどないもならんことはようお分かりのはずやし、子らにも分を弁えるよう、手本をみせなならん。わしらも、教育委員いうたかて名ばかりや。何の権限もおませんのや。ここは、文訓程度でおさめるのがええとこや。腹も立とうが、何とか呑み込んでいただきとうおますのや」
松井は、この校長に「方向性が合わないなら組織を去るべきだ」と言っている。多様性を否定し、批判を封じ、教育を「一つの方向性」に引っ張っていこうという危険な発想。「組織を去るべきだ」は、『非国民』思想の復活ではないか。
松井一郎の間違いは、大きく2点ある。事前に教育現場の教育専門家の意見を聴いていないこと。だから現場は混乱し、だから校長からも批判の声が上がるのだ。さらに、事後にも現場からの批判の声に耳を傾けようという姿勢のないことだ。
この経過は看過しがたい。民主主義とは、選挙での為政者への白紙委任ではない。誰もが、常に、為政者を批判できる。為政者は批判の声に謙虚に耳を傾け、政策の修正に努めなければならない。久保校長の提言は「通信環境の整備など十分に練られること(が)ないまま場当たり的な計画で進められ」「保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている」というもの。この見解は、保護者へのアンケート調査までしての結論。松井はこの提言に聴く耳を持たない。聴く耳を持たないどころか、「方向性が合わないなら組織を去るべきだ」というのは、言語道断。これが維新の体質と理解するしかない。維新に権力を握らせることは、恐ろしい。
久保校長はこうも述べているという。
「37年間大阪で教員として育ち、本当に思っていることを黙ったままでいいのかなと。お世話になった先生方や保護者、担任をした子どもを裏切ってしまう感じがした」「今まで黙ってきた自分はどうなんやろうっていうのを、自分自身に問いかけた」
ものを言いにくい現場の空気と、意を決しての発言であることが伝わってくる。また、こうも報じられている。
「60代の市立小学校長は『声を上げにくい中でよく言ってくれた』と提言書の内容を支持した。区内の校長の間でも共感する声が多いという。『これまでも教育現場の声を聞かずに色んなことが決められてきた』。今回のオンライン学習の方針も同じだと感じるという。」
「阿倍野区の市立小学校の50代男性教諭は通信環境が整わない中でオンライン学習を進めざるを得ず、児童の学習に遅れが出ていることに危機感を抱く。「私たちは決まった方針に対して何も言えず、従うしかない。諦めていたが、この提言に心から賛同したい」と話した。
声を挙げることの困難な教育現場。声を押し潰そうという傲慢な小さな権力と、それに抗って発言しようとする良心の角逐。今、どこにもある光景であるが、実は深刻な光景なのだ。
(2021年3月21日)
都教委の悪名高い「10・23通達」(2003年)以来、都内の全公立校に卒業式・入学式のたびに、君が代斉唱時の「起立」の職務命令が発せられている。違反者には懲戒処分である。
もうすぐ懲戒処分取消の第5次訴訟の提起となる。原告は14名となる予定。3月31日と提訴日を決めて、いま訴状の作成準備を重ねている。
その準備の中であらためて思う。憲法を守るしっかりした司法があれば、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制などはあり得ないものを。嘆かわしきは、憲法に忠実ならざる司法の姿。
その訴状の冒頭の一部(未確定版)を引用しておきたい。裁判所にこの訴訟の概要を説明する一文、新聞ならリードに当たる部分の一部である。
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本件訴訟の概要と意義(抜粋)
☆ 本件は毀損された「個人の尊厳」の回復を求める訴えである
(1) 精神的自由の否定が個人の尊厳を毀損している
本件は原告らに科せられた懲戒処分の取消を求める訴えであるところ、本件各懲戒処分の特質は、各原告の思想・良心・信仰の発露を制裁対象としていることにある。原告らに対する公権力の行使は、原告らの精神的自由を根底的に侵害し、そのこと故に原告らの「個人の尊厳」を毀損している。
原告らは、いずれも、公権力によって国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明を強制され、その強制に服しなかったとして懲戒処分という制裁を受けた。しかし、原告らは、日本国憲法下の主権者の一人として、その精神の中核に、「国旗・国歌」ないしは「日の丸・君が代」に対して敬意を表することはできない、あるいは、敬意を表してはならないという確固たる信念を有している。
国旗・国歌(日の丸・君が代)をめぐっての原告らの国家観、歴史観、憲法観、人権観、宗教観等々は、各原告個人の精神の中核を形成しており、国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、原告らの精神の中核をなす信念に抵触するものとして受け容れがたい。職務命令と、懲戒処分という制裁をもっての強制は、原告らの「個人の尊厳」を毀損するものである。
(2)国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の意味
国旗・国歌が、国家の象徴である以上、原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制は、国家と個人とを直接対峙させて、その憲法価値を衡量する場の設定とならざるを得ない。
国家象徴と意味付けられた旗と歌とは、被強制者の前には国家として立ち現れる。原告らはいずれも、個人の人権が、価値序列において国家に劣後してはならないとの信念を有しており、国旗・国歌への敬意表明の強制には従うことができない。
また、国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は、歴史的な旧体制の象徴である以上、原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、戦前の軍国主義、侵略主義、専制支配、人権否定、思想統制、宗教統制への、容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
「日の丸・君が代」は、原告らの前には、日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも、日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして、日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明することはできないという、原告らの思想・良心・信仰にもとづく信念と、その発露たる儀式での不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も各教員の思想・良心・信仰を非情に鞭打ち、その個人の尊厳を毀損するものである。司法が、このような個人の内面への鞭打ちを容認し、これに手を貸すようなことがあってはならない。
(3) 教育者の良心を鞭打ってはならない
また、本件は教育という営みの本質を問う訴訟でもある。
原告らは、次代の主権者を育成する教育者としての良心に基づいて、真摯に教育に携わっている。その教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして、教育という営みは成立し得ない。また、教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各原告が、「国旗不起立・国歌不斉唱」というかたちで、その身をもって語った思想・良心は、教員としての矜持において譲ることのできない、「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。これを、不行跡や怠慢に基づく懲戒事例と同列に扱うことはけっして許されない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制によって、教育現場の教員としての良心を鞭打ち、その良心の放棄を強制するようなことがあってはならない。
(4) 原告らに、踏み絵を迫ってはならない
原告らは、公権力の制裁を覚悟して不起立を貫き内なる良心に従うべきか、あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか、その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。原告らの人格の尊厳は、この苦汁の選択を迫られる中で傷つけられている。
原告らの苦悩は、江戸時代初期に幕府の官僚が発明した踏み絵を余儀なくされたキリスト教徒の苦悩と同質のものである。今の世に踏み絵を正当化する理由はあり得ない。キリスト教徒が少数だから、権力の権威を認めず危険だから、という正当化理由は成り立たない。
思想・良心・信仰の自由の保障とは、まさしく踏み絵を禁止すること、原告らの陥ったジレンマに人を陥れてはならないということにほかならない。個人の尊厳を掛けて、自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。
以上のとおり、本件は毀損された原告らの「個人の尊厳」の回復を求める訴えである。その切実な声に、耳を傾けていただきたい。
(2021年2月7日)
一昨日(2月5日)、東京地裁民事1部(前沢達朗裁判長)が、典型的なスラップ訴訟に請求棄却の判決を言い渡した。スラップ提起の原告を断罪した判決と言って過言でない。
このスラップを仕掛けた原告が竹田恒泰という「人権侵害常習犯の差別主義者」。訴えられたのは山崎雅弘(戦史・紛争研究家)。状況から見て、竹田は山崎のツィートによる言論を嫌忌し本気で抑え込もうとした。弁護士を通じて、提訴を脅しにツイートの削除を要求したが山崎は毅然としてこの要求を撥ねつけた。勢いの赴くところ竹田は提訴を余儀なくされ、法廷では負けるべくして負けたのだ。
竹田恒泰は提訴時にこの訴訟を勝てる見込みのないことを知っていたはずである。それでも敢えて提訴したのは、仮に敗訴したとしても、山崎に応訴の負担を掛けさせることによって、今後の竹田批判の言論を牽制することが可能になると考えたのだろう。また、山崎以外の他の言論人に対して、「同種の竹田批判の言論には損害賠償請求の提訴をするぞ」という恫喝を意図したものでもある。
竹田恒泰による山崎雅弘に対するスラップ提訴の真の被害者は、表現の自由そのものなのである。だからこそ、内田樹を筆頭とする多くの人々が、彼らもスラップ予告の恫喝を受けながらも、(あるいは恫喝を受けたが故に)山崎雅弘支援に立ち上がっている。
竹田恒泰が嫌った山崎のツィートとは、「朝日町教育委員会か竹田恒泰を講演に招聘したことを批判」するものである。私(澤藤)は今回初めて知ったが、竹田恒泰のごときヘイトにまみれた言論人の講演を子どもたちに聴かせようという教育委員会が、この世に現実に存在するのだ。「差別や偏見、いじめはいけません」と子どもたちに教える責任を負う教育委員会が、差別やいじめの常習者を、税金で謝礼を払う行事に登壇させているのだ。山崎雅弘のツィートは、「許される」というレベルではない。適切な批判として、称賛に値すると言わねばならない。
名誉毀損の根拠となったツィートは、18年11月富山県朝日町で地元中高生らに講演する予定だった竹田恒泰について、山崎が「教育現場に出してはいけない人権侵害常習犯」などと批判した5件。思いがけなくも主催者の同町教育委員会に妨害予告の電話があり、講演会は中止となった。その後、竹田の代理人弁護士から、山崎に下記のツィートの抹消と500万円の慰謝料請求がなされた。請求拒否には、民事訴訟だけでなく、刑事告訴まで予告されていた。
そのツィートをまずお読みいただきたい。
「竹田恒泰という人物が普段どんなことを書いているか、ツイッターを見ればすぐ確認できる。それでもこの人物を招いて、町内の中・高校生に自国優越思想の妄想を植え付ける講演をさせる富山県朝日町の教育委員会に、教育に携わる資格はないだろう。社会の壊れ方がとにかく酷い。(2019年11月8日)」
「竹田恒泰という人物が過去に書いたツイートを4つほど紹介するだけでも、この人物が教育現場に出してはいけない人権侵害常習犯の差別主義者だとすぐわかる。富山県朝日町の教育委員会が、何も知らずに彼をわざわざ東京から招聘するわけがない。つまり今は教育委員会にも差別主義者がいる可能性が高い。(同日)」
「(教育行政が音を立てて崩れている。
twitter.com/20191001start/…)
これも問題ですね。大阪市教育委員会の後援ということは、竹田恒泰氏の日頃の発言内容を「問題だ」と思わない、民族差別や国籍差別、男女差別に鈍感/無感覚な人間が、大阪市教育委員会という公的組織の内部の要職にいることを意味します。(2019年11月9日)」
「今回の件が問題なのは、本来なら「差別や偏見、いじめはいけません」と子どもに教える責任を負う教育委員会という公的機関が、特定国やその出身者に対する差別やいじめの常習者である竹田恒泰氏を、税金で謝礼を払う行事に登壇させることです。差別やいじめを是認することになります。(同日)」
これを一読しての感想で、憲法感覚や言語感覚、あるいは民主主義的感性の成熟度が試される。この山崎の言論に、「いったいどこに問題があるというのか」「これを違法というなら、表現の自由はなくなる」「山崎が表現の自由市場に投じた一言論ではないか。竹田に異議があれば反論すればよいだけのこと」「これを違法として抹消せよというのは表現の自由への挑戦ではないか」と反応あれば健全なものだ。
「もしかしたらこれ違法?」「言いすぎじゃない?」と、少しでも懸念を感じる人は、民主主義社会の主権者としてあまりに臆病な自らの姿勢を反省していただかねばならない。言論の自由市場における率直で活発な意見の交換によって、われわれの社会は、大きな誤りから免れ、遅々としてでも進歩できるのだ。
訴訟では、竹田側は山崎ツィートを、「誹謗中傷し、人格攻撃を繰り返し、侮辱する行為だ」と主張したそうだが、まったくの無理筋。これは「独自の主張」として一蹴されるしかない。
今回の判決は、「竹田氏の思想を『自国優越思想』と論評することは、公正な論評で論評の域を逸脱するものとはいえない」として、竹田氏の請求を棄却した。
また判決は「竹田氏が元従軍慰安婦に攻撃的・侮辱的な発言を繰り返し、在日韓国人・朝鮮人を排除する発言を繰り返していることに照らせば、発言を人権侵害の点で捉える相応の根拠がある」と指摘。投稿が社会的評価を低下させるものであっても「一定の批判は甘受すべきた」として、名誉侵害には当たらないと判断したとも報じられている。
幾つかの感想がある。何よりも、このスラップの提訴と判決は、地方教育行政と右翼言論人との親密な結びつきを露わにした。竹田にしてみれば、影響力の源泉としても収入源としても、重要なものであったろう。これは完全に断ち切らなければならない。「差別言論を常套とする者は公教育から切り離さなくてはならない」「違法なヘイト講演による差別意識を生徒に注入してはならない」という良識をもって、右翼言論人の跳梁を許さない世論の形成が重要である。この点、山崎ツィートに学びたい。
報じられていることを前提としての判断だが、竹田恒泰のスラップは提訴自体が明らかに違法である。スラップを違法とする要件は、DHCスラップ「反撃」訴訟における東京地裁民事1部の前沢達朗判決(2019年10月4日)が、次のように定式化している。
「DHC・吉田嘉明が澤藤に対して損害賠償請求の根拠としたブログは合計5本あるが、そのいずれについての提訴も、客観的に請求の根拠を欠くだけでなく、DHC・吉田嘉明はそのことを知っていたか、あるいは通常人であれば容易にそのことを知り得たといえる。にもかかわらず、DHC・吉田嘉明は、敢えて訴えを提起したもので、これは裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に当たり、提訴自体が違法行為になる」
これを、控訴審の東京高裁第5民事部判決も踏襲し、「通常人であれば容易にそのことを知り得たといえる」根拠を詳細に判示している。
表現の自由擁護のためには、竹田恒泰のスラップ提訴を違法とする損害賠償請求の「反撃」訴訟の提起(控訴があれば控訴審での反訴、控訴なく確定すれば別訴で)があってしかるべきではないか。
「山崎雅弘さんの裁判を支援する会」が結成され、表現の自由を大切に思う多くの人々が結集してこの訴訟を支えている。その代表が内田樹氏である。敬意を表するとともに、反スラップの運動の広がりを心強く思う。
https://yamazakisanwosien.wixsite.com/mysite
(2021年1月25日)
本日の東京新聞「こちら特報部」が、都教委の「日の丸・君が代」強制問題を取りあげている。新たなニュースは以下のとおり。
「新型コロナウイルスの感染拡大を受け東京都教育委員会は、今春の都立学校の卒業式で参加者に君が代を歌うよう求めない。「日の丸・君が代」について定めた「10・23通達」を2003年10月に出して以降、教職員に「歌え」という職務命令が出ない卒業式は初めて。ただ、歌唱入りのCDを流し、起立は求めるといい、通達にこだわる都教委のかたくなな姿勢が浮かび上がった。」
2004年春以来、「10・23通達」に基づいて、都下の公立校の卒業式・入学式には、校長から全教職員に対して式中の国歌斉唱の際には、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること」という職務命令を発し続けてきた。「(国旗)起立」と「(国歌)斉唱」の命令である。
コロナ禍の今年は、「(国歌)斉唱」は命令しない。「(国旗)起立」だけの命令を求めるというが、これがむしろ、「都教委のかたくなな姿勢を浮かび上がらせている」という報道。
ところで、常に東京に対するライバル意識を絶やさないのが大阪。大阪の府教委も、その権威主義的で権力的な姿勢において東京に負けじと、競争心を燃やしている。両教育委員会、その非教育的姿勢において、また人権尊重の後進性において、兄たりがたく弟たりがたし。いや、目くそと鼻くそ、タヌキとムジナの関係。
その大阪府教育委員会は、1月21日付の通達で、「国歌静聴」という珍妙な命令を発した。その通達の全文が下記のとおり。
関係府立学校 教職員 様
教 育 長
令和2年度卒業式における国歌清聴について(通達)
国旗掲揚及び国歌斉唱は、児童・生徒に国際社会に生きる日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、国旗及び国歌を尊重する態度を育てる観点から学習指導要領に規定されているものである。
また、平成23年6月13日、大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例が公布・施行された。本条例では、府立学校の行事において行われる国歌の斉唱の際に、教職員は起立により斉唱を行うことが定められている。
令和2年度卒業式については、新型コロナウイルス感染症対策を徹底する観点から、平成24年1月17日付け教委高第3869号教育長通達にかかわらず、式場内のすべての教職員は、国歌は起立して清聴すること。
まことに見識に欠け、「非教育的な」両教育委員会の姿勢に比して、「こちら特報部」の報道は見識が高く、充実している。そのうちの2点を引用しておきたい。
都教委の発想は、国際的な基準から逸脱している。国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)は19年、「起立斉唱の強制は、個人の価値観や意見を侵害する」などと都教委を批判。起立斉唱したくない教員も対応できる式典のルール作りのほか、懲戒処分を回避するため教員側と対話するよう求める勧告を出している。これに対し、都教委に加え文部科学省も一切、取り合わず、耳を傾けるそぶりがない。
「日の丸・君が代」問題に詳しい東京大の高橋哲哉教授(哲学)は「都教委は自己矛盾に陥っている」と指摘する。都教委が起立斉唱を求める根拠として持ち出す「高等学校学習指導要領解説・特別活動編」には、その目的として「(生徒が将来)国際社会において尊敬され、信頼される日本人」に成長するためとうたわれている。高橋氏は「労働と教育、両国際機関の勧告を無視し、生徒の目の前で強制を繰り広げることは、国際社会から尊敬される人への成長につながらない。自ら構築した論理と相反している」と指摘し、こう続ける。「世界のあちこちで台頭している『命令にはとにかく従え』という権威主義が、戦後日本にも根強く残る。不起立で抵抗してきた教職員を懲らしめようと、コロナで歌えなくても起立を強制する都教委の手法に『権威主義の地金』がくっきり見える。昨年来、批判が続く日本学術会議の任命拒否問題とも通底している」。
まったくそのとおりと言うほかはない。そして、もう一点。
「何があっても、(日の丸・君が代)強制をやめようとしない。都教委の粘着気質は病的と感じる。起立強制問題は、今の教育現場を重苦しくしている元凶と言っても過言ではない」。08年以降、不起立で懲戒処分を受けた教職員にインタビューするなど、「日の丸・君が代」問題を取材してきたルポライターの永尾俊彦氏は、今回の都教委の方針を批判する。永尾氏は教職員らが起こした複数の訴訟の記録を読み込み、たくさんの原告に会って話を聞いた。「教師というのは生徒の心を聞く仕事だ」との元校長の言葉が印象深く記憶に残る。命令と服従は、子どもがそれぞれ備えている唯一無二の個性を伸ばす教育になじまない。
それなのに、「日の丸・君が代」の強制は教育現場に上意下達の思想を植え付ける。「教職員に命令し、服従を強い、『上には何を言っても変わらない』という雰囲気をつくる。教職員も『子どもも命令に従って当然』という意識を形成する。権力側に都合のいい人間を育てる戦前の教育と似ている」
懲戒処分を受けると、人事や昇給で不利になる。過酷な研修も科される。定年後の再任用も他の人より早く打ち切られる。「それでも何度も職務命令に従わない教職員がいるのは、子どもを上意下達型の人間にしたくないからだ」と永尾氏は語る。不起立に対し「歌わないのはけしからん」「政治的に偏っている」といった批判があるのも事実。永尾氏は、ある弁護士が語った「やりたくないことをやらなかったのではなく、子どものためにやってはならないことをやれと言われて悩み苦しみ、できなかった人たち」との言葉に共感するという。永尾氏はこれまでの取材の成果を新著「ルポ『日の丸・君が代』強制」にまとめた。取材に応じてくれた教職員は、子どもと誠実に向き合ってきた人ばかりだった。「自分もそういう先生に教えてもらいたかった。もし今度の卒業式で不起立の教職員を見かけたら、『身をていして教育を守ろうとする先生だ』という目で見てほしい」
(2021年1月20日)
1月13日、ほかならぬNHKが世論調査の結果をこう報道した。
ことし(2021年)に延期された東京オリンピック・パラリンピックについて、NHKの世論調査では、「開催すべき」は16%で先月より11ポイント減りました。一方、「中止すべき」と「さらに延期すべき」をあわせるとおよそ80%になりました。
この調査結果は、市民の感覚に合っている。NHK以外の他の調査の結果も大同小異。常識的には、どう考えても今年の7月に東京五輪などできっこない。日本が無理なだけでなく、世界全体がオリンピックどころではない。この調査に何らかの意味があるとすれば、できっこないことを承知で何が何でも東京五輪をやらねばならぬと思い込んでいる恐るべき硬直化した人々が16%もいるということ。
そのような雰囲気の中で、JOC理事である山口香が毎日新聞のインビューに応じて一石を投じた。昨年も同じようなことがあったが、おそらくはこの人の個人的見解ではなかろう。個人的見解であったとしても、主催者側の相当な賛同を確認しての発言と思われる。
昨日(1月19日)の毎日インタビューは、「五輪意義、議論避けるな 山口香JOC理事、一問一答」とのタイトル。その山口香発言を抜き書きしてみる。
◆五輪は…いつできるようになるかも見通せない。できるのかというと難しいと、客観的に見て思う。
◆今回は中止か延期かの議論でなく、やるかやらないか。どういうプロセスで誰がいつまでに判断するのか、早く示すべきだと思う。
◆(五輪で)世界の人が入ってくることが、(感染状況の)逆戻りにつながる不安がある。国の説明が足りない。五輪が勇気を与えるというのは簡単だが、経済状況がどん底の人がたくさんいる中で、「五輪をやってくれれば、ご飯を食べなくても元気になれる」とは思えない。
◆日本の組織の体質がある。議論すること自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。…この国難の中で実施する五輪とは社会にとってどんな意義があるのか。オープンな議論が求められる。
取り立てて、格別の見識が示されたわけではない。誰が考えてもできっこない東京五輪だが、主催者側は、やるかやらないかその常識的な議論さえ始まっていないと嘆いているのだ。
東京五輪、その実行は無理だと世論は結論を出している。可及的速やかに中止の結論を出した方がよい。くずぐずしていると、敗戦時の二の舞となる。敗戦の決断が遅れたことによって、どれだけの命を犠牲とし、国土を焼き、戦費を費やすことになったか。
今は、オリンピックを断念して、コロナ対策に専念すべきだ。さしあたり、空いているオリンピック選手村は、軽症患者の収容施設として活用すべきである。
山口の最後の質問と回答の全文を掲記しておきたい。
問 ――大会関係者は「開催する」としか公式には言わない。
答 ◆日本の組織の体質がある。議論すること自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。
国民はスポーツ自体を否定しているのではない。昨年12月の柔道男子66キロ級五輪代表決定戦の阿部一二三選手対丸山城志郎選手、今月の卓球全日本選手権女子シングルス決勝の石川佳純選手と伊藤美誠選手の試合はコロナ禍だからこそ、胸を打たれた。この国難の中で実施する五輪とは社会にとってどんな意義があるのか。オープンな議論が求められる。
よく読むと何を言っているのか分からぬところもあるが、「早急にオープンな議論が求められる」という趣旨には異論がなかろう。
ところで、山口香は、東京都教育委員6名の一人である。周知のとおり、東京都教育委員会は、悪名高い「10・23通達」を発して、君が代に不起立の教職員を懲戒処分にし続けてきた。その懲戒処分の量定が重きに過ぎるといくつも裁判で敗訴もしている。処分を違憲とした下級審判決もあり、最も軽い戒告処分も懲戒権の濫用として違法とした東京高裁判決もある。多くの最高裁裁判官が、教育現場での処分強行を憂いて、教育現場にふさわしく十分に話し合うべきだという意見を述べている。しかし、その話し合いは、何度申し込んでも実現しない。東京都教育委員会の問答無用の頑なな姿勢は、石原都政時代以来まったく変わらない。山口香も、その責任を一端を担っている。
山口さん、二枚舌ではなかろうか。せめてこう言ってもらえないだろうか。
◆東京都教育委員会の体質の問題がある。議論するとか、話し合いの場をもつこと自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。
君が代に不起立の教員が、真面目な教育を否定しているわけではない。むしろ、真面目な教員ほど、国旗・国歌(日の丸・君が代)に関わる歴史や教育効果を真剣に考え、あるべき教育像や教師像を持っているからこそ、その信念に基づいて敢えて起立することができないということは私にもよく分かっている。それでも、教育現場においてなぜ国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意の表明が必要なのか、社会にとって、民主主義国家においてどんな意義があるのか。また、教員や生徒一人ひとりの思想・良心の保障とどう折り合いを付けるべきか、訴訟の場とは別に、教育あるいは教育行政の場におけるオープンな議論が早急に求められる。
(2020年10月23日)
今年も10月23日がめぐってきた。2003年のこの日、東京都教育委員会が悪名高い「10・23通達」を発出した。横山洋一教育長名だが、実質的には石原慎太郎という極右政治家の意図によるもの。今、日本人の多くがトランプを大統領に選出したアメリカ国民の知的水準を嗤っているが、石原慎太郎のごときトンデモ人物を首都の知事に選んだ日本人も同列なのだ。
「10・23通達」は、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を強制する内容。具体的には、東京都内の公立校の全ての校長に対する命令という形式となっている。各校長に、所管の教職員に対して、入学式・卒業式等の儀式的行事に、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」よう職務命令例を発令せよ、職務命令違反には処分がともなうことを周知徹底せよというのだ。
以来、東京都内の全ての公立校の教職員は、入学式・卒業式の度に、「起立・斉唱」を義務付ける職務命令を受け取る。口頭と文書の両方でだ。違反には、懲戒処分が待っている。それでも、どうしても起立できないという教職員がおり、この17年間、抵抗を続けているのだ。この抵抗は、真面目な教員と支援する市民の、人間としての尊厳を求め、公権力の教育への不当な介入を阻止しようという運動である。
「10・23通達」については、これまで何度も当ブログに取りあげてきた。主なものは、下記のとおりである。
10・23通達関連訴訟を概観する
https://article9.jp/wordpress/?p=140
都教委の諸君、君たちは「裸の王様」だー10・23通達から10年の日に
https://article9.jp/wordpress/?p=1397
「10・23通達」発出からの11年
https://article9.jp/wordpress/?p=3745
「10・23通達」発出のこの日に、「明治150年記念式典」
https://article9.jp/wordpress/?p=11330
入学式卒業式に「日の丸・君が代」など、かつての都立高にはなかった。それが、「都立の自由」の象徴であり、誇りでもあった。ところが、学習指導要領の国旗国歌条項の改訂(1989年)あたりから締め付けが強まり、国旗国歌法の制定(1999年)後には国旗の掲揚と国歌斉唱のプログラム化は次第に都立校全体に浸透していく。それでも、強制はなかった。多くの教師・生徒は国歌斉唱時の起立を拒否したが、それが卒業式の雰囲気を壊すものとの認識も指摘もなく、不起立不斉唱に何の制裁も行われなかった。単なる不起立を懲戒の対象とするなどは当時の非常識であった。
17年前、その「非常識」が現実のものとなった。驚愕しつつも、こんなバカげたことは石原慎太郎が知事なればこその事態、石原が知事の座から去れば、「10・23通達」は撤回されるだろう、としか考えられなかった。
しかし、今や石原も横山もその座を去り、悪名高い教育委員であった米長邦雄や鳥海巌は他界した。当時の教育委員は内舘牧子を最後にいなくなった。教育庁(教育委員会事務局)の幹部職員も入れ替わっている。しかし、「10・23通達」はいまだに、その存在を誇示し続け、教育現場を支配し続けている。
そして、抵抗の運動も、続けられている。主軸となる訴訟としては、まず、通称「予防訴訟」(「国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟」)が提起され、次いで、処分取消訴訟が第1次訴訟から第4次訴訟まで続き、現在第5次訴訟を準備中である。
第5次訴訟での原告側主張の目玉となるだろうものが、「国旗国歌の強制を避ける」べきことを内容とする国連の日本政府に対する勧告である。
国連の、ILOとユネスコとは、教員の労働条件に関して、各専門家の合同委員会(セアート)を構成している。そのセアートが、日本の教職員組合からの申立に基づいて、昨年(2019年)日本政府に、下記に記した6項目の勧告を出した。この政府に対する勧告の中に、「愛国的な式典における国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるよう」対話に応じよ、「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける」べきこと、などが明記されている。
「消極的で混乱をもたらさない不服従」を罰してはならない。教員に対する国旗国歌(への敬意表明)の強制などは、世界の良識に照らして非常識なものであって、是正されねばならないのだ。
悪名高き「10・23通達」発出の日に、あらためてその撤回を求める決意を確認したい。
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合同委員会(セアート)は、ILO理事会とユネスコ執行委員会が日本政府に対して次のことを促すよう勧告する。
(a) 愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設ける。その目的はそのような式典に関する教員の義務について合意することであり、規則は国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるものとする。
(b) 消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒のしくみについて教員団体と対話する機会を設ける。
(c) 懲戒審査機関に教員の立場にある者をかかわらせることを検討する。
(d) 現職教員研修は、教員の専門的発達を目的とし、懲戒や懲罰の道具として利用しないよう、方針や実践を見直し改める。
(e) 障がいを持った子どもや教員、および障がいを持った子どもと関わる者のニーズに照らし、愛国的式典に関する要件を見直す。
(f) 上記勧告に関する諸努力についてそのつど合同委員会に通知すること。
(2020年10月3日)
スガ政権による、日本学術会議会員人事への介入事件。その第一報は、10月1日赤旗一面のトップ記事だった。「菅首相、学術会議人事に介入」「推薦候補を任命せず」「安保法批判者ら数人」「前例ない推薦者外し」というもの。
これに目をやって、なんともイヤーな気持ちになった。日本は、こんなところまで落ちてしまったのか、いったいこれからどうなるのか、という失望と焦慮との入りまじった感情。ともかく、たいへんなことになったというのが「第一感」。
本日(10月3日)の毎日朝刊コラム「土記」に、専門編集委員の青野由里が、こう述べている。「(学術会議に)菅義偉政権が人事介入したと知って、背すじがざわっとした。理屈以前に、『民主国家でやってはならないこと』と直感的に信じてきたからだ。」とある。
青野さんの言うとおり、《理屈以前の直感》において「背すじがざわっとした」という感性・感覚が大切だと思う。この種の問題については、憲法感覚、人権感覚、歴史感覚、主権者感覚…が重要なのだ。理論的な思考を経て到達する以前に、事態の適否と重要性を受けとめる直感や感性がなくてはならない。
その感性の出所は、歴史の読み方や、社会の見方の積み重ねによって培われるもので説明はしにくいが、この件を平然と「それがナニカ?」「政権の何が問題?」という人とは、付き合いたくない。
おそらくは、個人対国家、人権対秩序、自由対集権…という社会を語る基本枠組みにおいて、強権的国家主義秩序の側に立つことを容認するか否かの「感性の試金石」が問われているのだ。
いかなる権力も、腐敗・暴走を免れない。いかなる権力も危険を内包している。過度に集中し、過度に強力な権力は、過度に危険な権力でもある。権力機構は分散させ、権力には批判が必要である。
そのために、司法は権力から独立していなければならない。検察官の独立も必要である。地方自治も不可欠である。そして、学問も、教育も、メディアも、宗教も、権力から独立していなければならない。それが、健全な政府と社会のありかたであり、個人の尊厳や自由を擁護するための鉄則である。政府批判は、許容されねばならない。批判を封じる権力は、実は脆弱なのだ。
日本学術会議の創設は、学術・科学を国家の恣意的な支配に任せることは危険であるという基本発想になるものである。政府に建言する専門家の叡智の結集の在り方を、専門家の自治と自主性に任せ、独立を保障した組織としている。権力の、学問・教育への介入の愚かさと、その帰結がもたらす悲惨とは、全国民が骨の髄まで身に沁みたことではないか。あの愚をまたまた繰り返そうというのか。
ともかく、事態は深刻である。以下に、目についた記事や論稿を採録しておきたい。このような無数の批判の論稿が発表されることを期待したい。
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第25期新規会員任命に関する要望書
令和2年10月2日
内閣総理大臣 菅 義偉 殿
日本学術会議第181回総会第25期新規会員任命に関して、次の2点を要望する。
1.2020年9月30日付で山極壽一前会長がお願いしたとおり、推薦した会員候補者が任命されない理由を説明いただきたい。
2.2020年8月31日付で推薦した会員候補者のうち、任命されていない方について、速やかに任命していただきたい。
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日本学術会議会長殿
要請書 日本学術会議会員への任命拒否の撤回に向け総力であたることを求めます
私たちは、2020年8月、第25-26期日本学術会議会員候補者として推薦されました。小澤は2008年10月から12年にわたり、岡田と松宮は2011年10月から9年にわたり、連携会員として日本学術会議の活動に誠心誠意参画してきました。私たちはこうした参画とこの度の推薦を栄誉なことと思い、会員候補者としての諸手続きを済ませ、事務局からの総会、部会等への出欠の問い合わせにも応じて、10月1日からの総会等への参加を準備していました。ところが、9月29日、突如として、内閣総理大臣による任命がされない旨伝えられました。日本学術会議としても前代未聞の事態と聞きます。
私たちの日本学術会議会員への任命を拒むにあたり、内閣総理大臣からは理由など一切の説明がありません。これは、日本学術会議の推薦と同会議の活動への私たちの尽力をまったく顧慮しないものとして、到底承服できないものです。もしも私たちの研究活動についての評価に基づく任命拒否であれば、日本国憲法第23条が保障する学問の自由の重大な侵害として断固抗議の意を表します。
また、今回の事態は、私たちだけの問題ではなく、日本学術会議の存立をも脅かすものです。日本学術会議は、「わが国の科学者の内外に対する代表機関」(日本学術会議法第2条)として、「科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること」などの職務を「独立して」行い(同法第3条)、「科学の振興及び技術の発達に関する方策、科学に関する研究成果の活用に関する方策、科学を行政に反映させる方策」などについて、「政府に勧告することができる」(同法第5条)とされています。こうした日本学術会議の地位、職務上の独立性、権限は、会員の任命が内閣総理大臣の意のままになれば、すべて否定されてしまい、学問の自由は、この点においても深刻に侵されます。
貴職におかれては、このような重大問題をはらむ私たちに対する日本学術会議会員への任命拒否の撤回に向けて、会議の総力を挙げてあたることを求めます。
2020年10月1日
小澤隆一 東京慈恵会医科大学教授 憲法学
第21-24期日本学術会議連携会員
岡田正則 早稲田大学法学学術院教授 行政法学
第22-24期日本学術会議連携会員
松宮孝明 立命館大学大学院法務研究科教授 刑事法学
第22-24期日本学術会議連携会員
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前川喜平(右傾化を深く憂慮する一市民)@brahmslover?10月1日
菅首相が学術会議の推薦した会員候補者を任命しなかったのは、
憲法が保障する学問の自由を踏みにじる行為だ。
日本会議会議法にも反する行為だ。
糾弾されるべき行為だ。
国民はこの行為の問題性をはっきり認識するべきだ。
メディアはしっかり追及するべきだ。
なぜ任命を拒否したのか、菅首相は説明せよ。
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菅首相による違憲・違法の学術会議会員任命拒否に断固抗議し、
撤回を求める声明
菅首相は、2020年10月1日から任期が始まる日本学術会議の新会員について、同会議が推薦した105名の候補のうち6名の任命を拒否した。
日本学術会議は日本の科学者を内外に代表する機関で首相所轄であるが、政府から独立して政策提言等をし、会員は特別職の非常勤国家公務員である。日本学術会議法は、会員(210名)を同会議の推薦に基づいて、首相が任命すると定め、会員の任期は6年間で3年ごとに半数が交代する。
日本学術会議が推薦した候補が任命されなかった例は過去になく、過去の国会答弁によれば、首相の任命権は形式的なものに過ぎない。任命を拒否された6名は安保法制や共謀罪、沖縄の新基地建設等に反対を表明する等してきた。本件任命拒否は、安倍政治の継承をうたう菅首相によって、6名の候補の研究活動を理由としてなされたものであることは明らかであり、日本学術会議法に違反するとともに憲法23条が保障する学問の自由に対する重大な侵害である。
日本学術会議の2020年10月1日の総会においても、退任した山極寿一前会長(京都大学前総長)と選出された梶田隆新会長(東京大学教授、ノーベル物理学賞受賞者)は本件任命拒否を重大な問題である旨述べている。
菅首相は、自民党総裁選の際、政治的な決定に反対する官僚がいた場合、異動させる旨述べる等していたが、本件任命拒否は政権に批判的な研究活動は許さないという菅首相による宣言である。こうした菅首相の姿勢は学問の分野以外にも当然及び得るのであり、さらなる人権侵害、委縮効果を引き起こすこと確実である。
自由法曹団東京支部は、菅首相による違憲・違法の学術会議会員任命拒否に断固抗議し、撤回を求めるとともに、政権に批判的な活動を許さないという菅首相の姿勢自体もまた改めることを求めるものである。
2020年10月2日
自由法曹団東京支部
支部長 黒岩哲彦
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私たち、全国の教員・退職教員・市民による全国ネットワークである<許すな!『日の丸・君が代』強制、止めよう!安倍・菅政権の改憲・教育破壊全国ネットワーク>は、菅義偉内閣総理大臣によって、「学者の国会」ともいわれる日本学術会議で長年守られてきた人事の独立が破られ、日本国憲法23条の「学問の自由」を蹂躙する日本学術会議会員の人事への政治的介入により、日本学術会議への6人の新会員の任命が拒否されたことに対し、満腔の怒りを込めて抗議し、6人が任命されなかった理由を明らかにするとともに、6人の任命拒否の撤回と6人の任命を改めて求める。
1.菅義偉内閣総理大臣は、10月1日、「日本学術会議法」の規定に基づいて日本学術会議が新会員として推薦した105人のうち6人を任命しなかった。会員に任命されなかったのは、芦名定道・京都大教授(宗教学)、宇野重規・東京大教授(政治思想史)、岡田正則・早稲田大教授(行政法学)、小沢隆一・東京慈恵会医科大教授(憲法学)、加藤陽子・東京大教授(日本近代史)、松宮孝明・立命館大教授(刑事法学)の6人である。
「日本学術会議法」では、「優れた研究、業績がある科学者のうちから会員候補者を選考し、首相に推薦する」と定めており、推薦に基づき首相が会員(210
人)を任命する。任期は6年で3年ごとに半数を改選している。会員210人の日本学術会議は3年に1回、半数の105人を改選する。
日本学術会議は2020年9月末で会員の半数が任期満了を迎えることから、学術研究団体などから提出された推薦書をもとに、2020年2月から学術会議の選考委員会で選考が進められ、7月9日の臨時総会で候補者105人が承認された。8月31日、安倍晋三首相(当時)あてに、8月31日に6人を含む計105人の推薦書を提出した。9月末に学術会議事務局に示された任命者名簿には6人を除く99人の名前しかなかったという。
菅義偉首相によって6人が任命されなかった理由について、政府からの説明は一切なく、学術会議事務局が任命されなかったことを事前に問い合わせたところ、政府からは「間違いや事務ミスではない」と返答があったという。任命を拒否された6人以外の新会員99人は10月1日付で菅義偉首相に任命された。
「学者の国会」と呼ばれ、高い独立性が保たれる学術会議の推薦者を首相が任命しなかったのは、現行の制度になった2004年度以降では初めてである。政府は拒否した理由を明らかにしていないが、6人の中には、安全保障関連法や「共謀罪」を創設した改正組織犯罪処罰法を批判してきた学者が複数含まれている。
2.加藤勝信官房長官は10月1日の記者会見で、学術の立場から政策を提言する政府機関「日本学術会議」が推薦した新会員候補の一部を菅義偉首相が任命を見送ったと明らかにした。加藤勝信官房長官は、6人が任命されなかった理由について、「個々の候補者の選考過程、理由については人事に関することでありコメントは差し控える」と説明を避け、「結果の違いであって、これまでの対応の姿勢に変わりはない」とし、法律に基づいた正当な判断であると主張し、「学術会議の目的において、政府側が責任を持って(人事を)行うのは当然だ」、「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」「推薦を義務的に任命しなければならないというわけではない」と述べている。政治判断による人事介入は憲法が保障する「学問の自由」の侵害になるのではないかと問われると、加藤官房長官は、「直ちに学問の自由の侵害にはつながらないと考えている」と応えている。現在の任命の仕組みになった
2004年以降、推薦された候補が任命されなかったケースについても、「そうした事例があるとは承知していない」と述べている。
10月2日、閣議後の記者会見で、加藤官房長官は、「総理大臣の所轄のもとの行政機関である『日本学術会議』について、任命権者である総理大臣が法律に基づいて任命を行った。こうした説明を引き続き行っていきたい」、「専門領域の業績のみにとらわれない広い視野に立って、総合的、ふかん的観点からの活動を進めていただくため、累次の制度改正がなされてきた。これを踏まえ、総理大臣の所轄のもとの行政機関である『日本学術会議』について、任命権者である総理大臣が法律に基づいて任命を行った。こうした説明を引き続き行っていきたい」と述べた。
3.菅義偉内閣総理大臣が「日本学術会議法」の規定に基づき日本学術会議が新会員として推薦した105人のうち6人を任命しなかったことに対し、学術会議会員らからは「学問の自由を保障する憲法に反する行為」と批判が相次いでいる。
10月1日の日本学術会議の総会で退任した日本学術会議前会長・山極寿一・京都大前総長は、オンラインを含め会員ら230人が出席して開かれた挨拶の冒頭で、「6人の方が新会員に任命されなかった。初めてのことで、大変驚いた。菅首相あてに文書で説明を求めたが、回答はなかった」と述べている。学術会議は8月末、政府に105人を推薦していた。しかし、6人が任命されないことを山極会長が知らされたのは9月28日の夜だという。総会後、「私たちは理由を付して新会員を推薦したのに、理由をつけずに任命しないという事実がまかり通ってしまったことは大変遺憾。学術にとって非常に重大な問題だ」と話した。
新会長に選ばれたノーベル賞受賞者の梶田隆章・東京大宇宙線研究所長は、「極めて重要な問題で、しっかり対処していく必要がある」と述べ、6人を任命しなかった理由について菅首相に説明を求めることを検討すると述べた。推薦した人が任命されなかった例は平成16年度に今の制度になって以降なく、日本学術会議は10月2日に開かれた総会で、緊急にこの件を協議した。6人が任命されなかった理由を明らかにすることと、6人の任命を改めて求める要望書をまとめることを決めた。総会のなかで、日本学術会議新会長の東京大学梶田隆章教授は「非常に重要な件だと思うので、引き続き部会で議論して、学術会議としてしっかりと対応したい」と述べた。総会後に梶田隆章会長は「学術会議は政府からある程度、独立して学問を基礎に発信するものなので、その基本が変わることがあってはならない」と話している。
4.日本学術会議は、人文・社会科学や生命科学、理工など国内約87万人の科学者を代表し、科学政策について政府に提言したり、科学の啓発活動をしたりするために1949年に設立された。「学者の国会」とも言われる。210人の会員は非常勤特別職の国家公務員で任期は6年間。3年ごとに半数が交代する。1954年には、原子力の平和利用について「自主、民主、公開」の原子力三原則を打ち出し、55年の原子力基本法に盛り込まれた。軍事研究のあり方についても、「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を1950年と1967年に発表し、2017年にも、防衛装備庁が創設した研究助成制度をめぐり、軍事研究を禁じた過去2回の声明を継承するとの声明を発表した。
5.今回任命されなかった6人のうちの一人、東京大学の加藤陽子教授(日本近代史)は「共謀罪」法案などに反対の立場を取ったことがある。加藤教授は、「首相が学術会議の推薦名簿の一部を拒否するという、前例のない決定をなぜしたのか、それを問題にすべきだ。学術会議内での推薦は早くから準備され、内閣府から首相官邸にも8月末には名簿があがっていたはずだ。それを、新組織が発足する直前に抜き打ち的に連絡してくるというのは、多くの分科会を抱え、国際会議も主催すべき学術会議会員の任務の円滑な遂行を妨害することにほかならない。欠員が生じた部会の運営が甚だしく阻害されている。この決定の背景を説明できる協議文書や決裁文書は存在するのだろうか、私は学問の自由という観点からだけでなく、この決定の経緯を知りたい。」「学術会議の担うべき任務について、首相官邸が軽んじた点も問題視している」などとコメントした。
任命されなかった小沢隆一・東京慈恵会医科大教授、岡田正則・早稲田大教授、松宮孝明・立命館大教授は1日、梶田会長に、任命拒否の撤回に向け、学術会議の総力をあげてあたることを求める要請書を手渡した。要請書で3氏は、首相から理由の説明がなく、「私たちの研究活動についての評価に基づく任命拒否であれば、憲法23条が保障する学問の自由の重大な侵害」、「(任命が首相の意のままになれば)日本学術会議の地位、職務上の独立性、権限は、会員の任命が内閣総理大臣の意のままになればすべて否定されてしまい、学問の自由はこの点においても深刻に侵されます」などとしている。小沢氏は「私は2015年、安保法制をめぐる国会での中央公聴会で『憲法違反だ』と述べた。仮に、学問上の意見を国会で述べたことが任命拒否につながっているのだとすれば、学問の自由の侵害だ」と話している。
6.私たち、全国の教員・退職教員・市民による全国ネットワークである<許すな!『日の丸・君が代』強制、止めよう!安倍・菅政権の改憲・教育破壊全国ネットワーク>は、菅義偉内閣総理大臣によって、「学者の国会」ともいわれる日本学術会議で長年守られてきた人事の独立が破られ、日本国憲法23条の「学問の自由」を蹂躙する日本学術会議会員の人事への政治的介入により、日本学術会議への6人の新会員の任命が拒否されたことに対し、満腔の怒りを込めて抗議し、6人が任命されなかった理由を明らかにするとともに、6人の任命拒否の撤回と6人の任命を改めて求めるものである。
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石破 茂 です。
日本学術会議会員の任命にあたって、推薦された候補者のうち6名を任命しなかったことが取りざたされています。総理大臣が任命権者である以上、任命権があるのなら拒否権も当然あるものと考えるのが自然でしょう。ただ、従来の内閣との関係(推薦された候補者全員をそのまま任命する)がなぜ変わったのか、ということについては、政府側が十分な説明を尽くす必要があるでしょう。
日本学術会議は文部科学省ではなく内閣府の所管ですから、その担当大臣がいます。組織のルールとして、いきなり総理大臣が任命を拒否するとは考えられず、内閣府の担当大臣の承認を経て総理に上がると考えるのが自然ですが、今回どういう手続きを踏まれたのかも明確にしておいた方がいいのではないでしょうか。
なお、この件に関連して、自民党の憲法改正草案では、国民の権利と義務の章に「国は国政上の行為につき国民に説明する責務を負う」と定めています。憲法改正は第9条や緊急事態に限られるものではありません。自民党で党議決定した唯一の案であるこの草案が等閑視されているのは本当に残念なことです。
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三浦瑠麗さんは、「業績の中身を知りもしない人間(官邸)が新聞記事程度の情報をもとに、こういうつまらない口出し(人事介入)をやり出したとき、社会は劣化する」と批判。
今回の人事介入は、学術界だけに留まらないという指摘も。東京大の佐倉統教授は「これは政治信条が右翼か左翼かとか、学者かそうでないかとか関係なく、とても危険な問題だ。首相の意に沿うかどうかという基準だけで選抜されるのだから、権力者におもねる者だけが生き残るという恐怖政治への第一歩だ。右か左かではなく自由か不自由かの問題だ。」(10月2日・東京新聞)
(2020年8月27日)
香港教育当局が「愛国教育」を重視する中国の習近平指導部の意向を受け、学校で使う教科書への管理を強化している。今年の検定では複数の出版社が当局の修正要求を受け、香港に「三権分立」の仕組みがあるとの記述や、民主化運動に関する写真などを削除した。香港各紙が18日に報じた。民主派は「教科書を通じて『親中国政府』の考え方を浸透させる狙いだ」と強く反発している。(毎日)
人民支配の鉄則は「アメとムチ」…だが、それだけでは十分でない。全人民にムチすることは現実には不可能であり何より非効率で愚策である。ムチよりはアメが先行するが、アメの量は常に限られている。のみならず、人民は必ずしもアメのみにて生きるものではない。アメとムチ以外に、人民の精神を自発的服従に仕向ける工夫が必要なのだ。
それを「マインドコントロール」と言っても、「洗脳」と言ってもよい。あるいは、端的にダマシとか、イデオロギー支配、共同幻想、ナショナリズム喚起とでも。その結果としての、国家ないし権力への忠誠心の醸成、少なくとも意識的な抵抗心の放棄がなければ、安定した人民支配はできない。そのために、手垢のついた愛国心が持ち出される。
国家の経営者は、国民に経済的利益を与えることに腐心し、権力にまつろわぬ者には刑罰を与えるだけでなく、当該の国家や権力を正義とするマインドコントロールに知恵を絞る。その知恵の働かせどころは、まずは教育であり、次いでメディアである。情報と考え方をコントロールして、権力に好都合なことだけにバルブを開き、不都合なことはシャットアウトするのだ。
だから、国家や権力に絡めとられぬように、教育もメディアも、権力から独立して自由でなければならない。これが、市民革命を経た近代社会の常識であり、約束ごとである。もちろん、前近代の天皇制国家は、教育にもメディアにも徹底して介入を試みた。今なお日本の現実は、この弊風を払拭しきれていない。
が、中国の香港教育への介入のこの露骨さは驚くべきものだ。あらためて、中国には、民主主義思想も人権思想もなく、一党独裁あるのみと確認するほかはない。「党は正しい方針を持っている。だから近視眼的な批判は慎むべきだ」という思想と対決しなければならないと思う。
香港は、中国とはまったく別のリベラルな教育制度を運用してきた。その象徴が、「通識」という科目だという。日本の公民に近いものだろうか。日本でも一時流行った「リベラルアーツ」教育のようでもある。《幅広い社会問題を学んで批判的精神や多様な見方を育てる》というのが科目の目標で、高校の必修科目となっている。これが、中国から危険視の対象となった。
この「通識」が、香港の若者の民主的な思考や態度を養ってきたと言われ、2019年6月に本格化した政府への抗議デモでは、高校生らが校舎前で手をつないで政府に抗議の意思を示す「人間の鎖」が各地で繰り返し見られた。
中国にしてみれば、これを何とかしなければならない。《絶対であるべき党のものの見方を相対化して、幅広く社会問題を学び、批判的精神や多様な見方を育てる》ことは危険視されるのだ。中国政府は昨年来、この通識を「愛国心ではなく、批判的思考を育んでいる」として非難してきた経緯があるという。
中国政府はよく分かっている。《批判的な精神》と《愛国の精神》とは、真っ向から対立する理念なのだ。香港に対する統制を強化する「香港国家安全維持法」(国安法)が6月に施行されたことを踏まえ、香港当局は中国の意を受けて愛国教育を徹底する方針を打ち出した。まずやり玉に上げられたのが、通識教育である。
「通識」の教科書の書き換えが要求された。「香港教育図書社」の教科書の例では、「香港の法制度の特徴として『三権分立の原則に従い、個人の自由と権利、財産の保障を極めて重視する』との記述があった。だが検定後は削除され、代わりに『デモで違法行為をした場合、関連の刑事責任を負う』との記述が加えられた。」(香港明報)という。他の三つの出版社でも「香港では三権分立の制度が取られている」との表記が削除された。
なるほど、中国には権力分立の観念はない。立法・行政・司法の各権力の上に、党という「権威兼権力」が君臨している構造なのだ。あたかも、大日本帝国憲法において、議会と内閣と司法の上に、天皇という「権威兼権力」が君臨していたごとくに。
この他にも教科書の検定では、14年の民主化要求デモ「雨傘運動」の現場や政府への抗議メッセージを記した付箋が貼られた壁を撮影した写真や、19年の政府への抗議デモに関して「警察がデモを禁止したことで市民の自由が侵害された」「政府が経済、政治、生活に関する市民の要求に応じなかったことも一因」などの記述が削除された。いずれも民主派の抑え込みを図る当局の意向が反映されたとみられる。(毎日)
香港では19年、抗議活動に関連して18歳以下の学生約1600人や19歳以上の学生約2000人、教職員100人以上が拘束された。中国政府は教育現場への締め付けを強めるため、国安法で学校に対して「宣伝、指導、監督および管理を強化する」と明記し「国家安全教育」を進めると盛り込んだ。香港当局は6月、教育現場で国歌斉唱などを義務づける「国歌条例」も施行。教育現場への締め付けは着実に強まっている。(毎日)
1989年の天安門事件や2014年の雨傘運動など民主化デモに関する記述の削除・削減が加速した。教師ら学校関係者は21日、「洗脳教育を断固拒否する」との声明を発表、反発を強めている。(産経)
また、ある教科書では「私は香港人だ」と記された旗を持つデモ参加者のイラストが、「中国の経済発展の成果を享受できて、私は中国人であることが誇らしい」と説明されたイラストなどに差し替えられた。(産経)
中国国営新華社通信は21日、「通識科の『消毒』は、香港の教育が正しい道に進む第一歩だ」と題する論評を配信し、教科書改訂を歓迎しました。ある在日香港人は本紙に「今回の改訂は、政権に従順な新しい世代をつくり出すための第一歩だ」と警戒感を示しました。(赤旗)
(2020年8月26日)
今年の夏は常の夏ではない。コロナの夏であり、異常な猛暑の夏。そして首相引きこもりのなんとも冴えない鬱陶しい夏である。そこに、思いがけない一陣の涼風が吹き込んできた。教科書採択の成果である。端的に言えば、全国的規模での、育鵬社教科書(歴史・公民)不採択の涼風なのだ。
育鵬社教科書とは何であるか。2015年9月17日付けで、「★育鵬社教科書採択570校一覧(9月17日現在)」という、勇ましいネット記事が残されている。冒頭にこうある。
「正統保守の敵『つくる会』一部首脳を追撃します。『新しい歴史教科書をつくる会』が自由社から出した教科書は反日自虐。」「教科書改善の会のメンバーが執筆した フジサンケイグループ育鵬社こそが正統保守教科書です。」
継続採択も含め私立中の採択は24校です。公立中は約550校(特別支援学校で該当生徒のいる校数が確定しないため、正確な数はまだ分かりません)で、合計約570校の生徒が育鵬社の教科書で学ぶことになりました。
採択冊数は、歴史が7万2000?7万3000冊(シェア6.2?6.3%)、公民が6万6000?6万7000冊(シェア5.7%前後)と推定されます。
つまり、「フジサンケイグループ育鵬社(扶桑社の100%子会社)の教科書こそが、正統保守教科書です。」というのだ。ここでいう「正統保守」とは、歴史修正主義・国家主義・排外主義・権威主義を指す。まさしく、安倍晋三を行政トップに押し上げた勢力の歴史観・政治観をいう。その立場は明らかに、《反日本国憲法》であり、同時に《親大日本帝国憲法》でもある。
そんな教科書で、毎年7万2000?7万3000人もの中学生が歴史を学んできた。これが今年度(2020年度)までの現実である。
今年は、通常4年ごとに行われる教科書採択の年。「つくる会」系教科書採択の消長は、わが国の民主主義度のバロメータともなっている。「フジサンケイグループ育鵬社の正統保守教科書」の採択状況に衆目が集まる。そして、ほぼその結果が出てきた。まさしく、一陣の涼風である。日本の民主主義勢力決して先細りではない。
「子どもと教科書全国ネット21」の集計では、公立学校での育鵬社の歴史教科書採択冊数を71,510冊、公民教科書冊数を65,480冊と報告している。
それが今回の採択では、注目すべき大型採択地域で軒並み育鵬社は敗退した。前回育鵬社を採択して、今回は逆転不採択となったのは、確認できる範囲で以下のとおりである。
横浜市(146校) 歴史2万7000冊、公民2万7000冊
大阪市(130校) 歴史1万8500冊、公民1万8500冊
東大阪市(26校) 公民4200冊
松山市(29校) 歴史4200冊
藤沢市(19校) 歴史3500冊、 公民3500冊
呉市(26校) 歴史1900冊、 公民1900冊
東京都立中(10校) 歴史1400冊、 公民1400冊
新居浜市(11校) 歴史1100冊
四国中央市(7校) 歴史 800冊、 公民 800冊
泉佐野市(5校) 歴史1000冊、
河内長野市(7校) 公民 900冊
武蔵村山市(5校) 歴史 700冊、 公民 700冊
四條畷市(4校) 歴史 600冊、 公民 600冊
愛媛県立中(3校) 歴史 480冊、 公民 480冊
東京都立特別支援学校(10校)歴史100冊、公民100冊
以上で、歴史教科書の削減冊数は61,000冊を超え、公民は60,000冊を超える。来年(2021年)度からの育鵬社版教科書の使用冊数は、歴史は1万冊を割り、公民は5000冊に届かない。
この成果を切り拓いたものは何か。もちろん、自然にこうなったわけではない。右翼の運動に抗して各地で起こった市民運動の成果なのだ。歴史修正主義や憲法を軽んじる歴史や公民の教科書を我が子には使わせないという地道な市民運動が結実したものである。その具体的な運動のあり方は、追々語られることになるだろう。横浜・大阪だけではなく、全国至るところで教育運動が盛り上がったことの意味は大きい。
もう一つの感想がある。5年前育鵬社教科書が採択数で伸びた時期は、安倍政権の勢いがまだ安泰だった。右翼も威勢を張っていたということである。森友学園事件は、まだ世に明るみに出ていない。安倍政権をバックとして、「フジサンケイグループ育鵬社の正統保守教科書」の採択は順調だったと言えよう。しかし、今年の夏、安倍政権のたそがれが誰の目にも明らかだ。右派勢力がアベ晋三に期待した憲法改正などできっこないと認めざるを得ない。
「つくる会」系の右翼偏向教科書の採択状況は、右翼勢力の力量消長のバロメータでもあり、右翼を背景とするアベ政権の盛衰のバロメータでもある。この真夏に、そのバロメーターが示したアベ没落のご託宣はまことに目出度い。まさしく、猛暑のなかの一陣の涼風である。