澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「サッカー日本代表の皆さん。つかの間の安らぎに心からの感謝」 ― アベシンゾー

トランプもすなるツィッターといふものを、アベもしてみむとてするなり。
アベは、1918年7月3日早暁サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会でベルギーに敗れた日本代表チームへの「感謝の言葉」をツイッターに投稿した。

「最後まで全力を尽くし、たくさんの感動を与えてくれたサッカー日本代表の皆さんに、心から感謝します。毎日がわくわくで、夢のような2週間をありがとう!」

これは表向きに取り繕っての、余裕ありげな感謝のメッセージ。しかし、ホントのところは敗戦が残念至極。側近がいくつもの素案を作っていた。ボツになったそのいくつかをご紹介しよう。

「新聞もテレビも、森友や加計問題を忘れて、サッカーばかりを報じてくれた夢のような2週間をありがとう! 予選を勝ち抜いた皆さんに心から感謝します。」

「高プロもカジノも、どさくさに紛れてさしたる批判のないままうまくやれました。たくさんの恩恵を与えてくれた日本代表の皆さん、夢のような2週間ありがとう!」

「最後まで全力を尽くし、たくさんの悪法を作ってきました。国民の多くがサッカーに気をとられている隙をねらって大成功です。日本代表の皆さんありがとう!」

「低迷していた支持率も、サッカーW杯をきっかけに上向きそう。毎日がわくわくで、夢のような2週間をありがとう! 心から感謝します。」

「昔から政治の要諦はパンとサーカス。今の時代は、株高とスポーツ。政治のボロを取り繕ってくれたW杯サッカー日本代表の皆さんに、心から感謝します。」

「ホントのところ、もっと勝ち進んで、日本中の話題がサッカー一色という事態を期待してました。そうすりゃ、改憲発議もできたかも知れないのに。残念。」

「国民栄誉賞の濫発が手っ取り早い人気取り。将棋の羽生に、碁の井山、そしてフィギュアの羽生弓弦。これにサッカーW杯、負けて惜しいことをした。」

「毎日がわくわくで夢のような2週間。我が大和民族の、いざというときの一体感はすごい。これなら十分、ほかの国と闘える。」

「W杯もオリンピックも、ナショナリズム高揚の絶好機。「日の丸」振って、「君が代」唱って、感動を与えてくれた日本代表の皆さんに、心から感謝。」

「最後まで全力を尽くし、私とアキエを守り抜いた官僚の皆さんに、心から感謝します。毎日がドキドキで、悪夢のような一年をご苦労様!」

「肩をならべて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです。お国のために戦った日本代表の皆さん、ありがとう。」

「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又、以テナンジ祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン」
(2018年7月3日)

これが、教育行政のやることか。都教委の再処分に抗議する。

 一昨日(2月21日)のこと、悪名高い都教委は「国旗・国歌(日の丸・君が代)」への敬意表明の強制に服しがたいとした教員2名に、またまたの懲戒処分(戒告)を発令した。これで、「10・23通達」に基づく「不起立懲戒処分」は、延べ482件となった。

今は卒業式直前の時期、入学式も2か月先のことだ。この懲戒処分は、今年の学校行事に関してのものではない。実は昨年のことでも一昨年のことでもなく、驚くべきことだが、2009年と10年の卒業式における不起立が処分理由とされているのだ。8年前と9年前のことが今頃なぜ?

都教委の説明は以下のとおりだ。
「本件服務事故については、平成29年(2017年のこと。つまり昨年?澤藤註)9月の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分が取り消され、同処分の取消しが確定したことから、判決を踏まえて懲戒処分の程度を検討し、改めて戒告処分を行った。」

何を白々しい。正確にこういうべきなのだ。
「東京都教育委員会は、国家あっての個人という国家主義理念を徹底すること、また明治維新以来天皇制国家が進めた富国強兵の対外膨張政策の歴史的正当性を堅持することこそが都立学校の基本的な教育理念であり、都立校の教員にはこのような国家主義と大日本帝国憲法的歴史観にもとづく教育を積極的に推進する『正しい』思想の持ち主でなくてはならない。当教育委員会としては、かねてからこのような人事方針を明確にしてきたところであり、その見地から国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明は極めて重要な集団儀礼として、これを強制してきた。この当教育委員会の施策は、政権政党である自由民主党の政策とも一致するものとして妥当と考えるべきである。
 都立校の教員には、このような都教委の思想と教育方針を受容するか、少なくとも面従腹背すべきことが求められるのであって、不幸にして面従腹背をなしえないという教員には、思想的な転向をしてもらわねばならない。このことは、国家観や、歴史観、教育観においてのことのみならず、自己の信仰上の理由から国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意は表明しがたいとする者も当然に包含されるものである。
 そのため、当初当教育委員会は、不起立1回なら戒告とするが、2回目には減給1月の処分とし、3回目には減給6月、そして4回目には停職1月と処分量定を累進加重し、7回目には懲戒免職として、思想の転向ない限り当該教員を教育現場から追放することを企図していた。
 ところが、裁判所の判断がこれに横槍を入れ、最高裁も戒告はともかく減給以上は懲戒権の濫用として取り消しを命じるという、思いがけない事態となった。教員らが、いみじくも名付けた「転向強制システム」が崩壊したのだ。
 本件の2名の教員もその一場面なのだ。この2名には、当初減給1月と減給6月の各懲戒処分を発令したものであるが、人事委員会の口頭審理を経て行政訴訟に至り、平成29年(2017年のこと。つまり昨年?澤藤註)9月15日の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分を違法として取り消す判決が言い渡され、当教育委員会が控訴を断念したことから各処分の取消しが確定した。なお、同日の判決では6名・7件の減給・停職処分が取り消され、その内5名・5件の処分取り消しが確定している。
 これに対して、当然のことながら、各当事者からは過酷で違法な処分をしたことに対して教育委員会は謝罪すべきだという強い要請があったが、当教育委員会はこれを突っぱねて謝罪を拒絶し、在職教員2名について再処分に及んだものである。残念ながら、減給は取り消されたものの、戒告であれば裁判所も容認してくれるはずと考えている。
 当該教員らは、再び人事委員会の口頭審理を経て処分取消訴訟に至ることになって、過重な労力や時間あるいは費用負担を強いられることになると抗議を寄せているが、当教育委員会の知ったことではない。当教育委員会としては税金をもって争訟の費用をまかなうのであるから、闘争資金も労力も無尽蔵で痛くも痒くもないことを付言しておきたい。
 最後に、当教育委員会はこれまでどおり、国家主義にもとづく愛国教育の一環として国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制を貫徹することで、自民党や右翼の皆様のご期待に応える所存であることを申し添える。」
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平成30年2月21日

教   育   庁

卒業式における職務命令違反に係る懲戒処分について

東京都立学校で実施された卒業式において、一部の学校で服務事故が発生したことに伴い、以下のとおり教員の懲戒処分を行ったので、お知らせします。

1 処分の事由
平成21年度及び平成22年度に実施された卒業式において、国歌斉唱時に国旗に向かって起立し斉唱することを校長から職務命令として命じられていたにもかかわらず、起立せず職務命令に違反した。

2 処分の内容
職務命令違反を行った教員について、地方公務員法に基づく懲戒処分を行った。
処分の程度?? 戒告
該当者数? 2校 2名
学校名(当時)
都立○○○○高等学校
都立○○○高等学校

3 発令年月日
平成30年2月21日

4 その他
本件服務事故については、平成29年9月の東京地方裁判所判決により、東京都教育委員会が発令した減給処分が取り消され、同処分の取消しが確定したことから、判決を踏まえて懲戒処分の程度を検討し、改めて戒告処分を行った。

【問合せ先】
東京都教育庁人事部職員課 電話03-5320-6798(直通)

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「日の丸・君が代」強制・再処分に抗議する声明

 東京都教育委員会(都教委)は、私たちの「『再処分』を行わないこと」を求める申し入れ(2017年11月15日、2018年1月26日)にもかかわらず、東京地方裁判所(東京地裁)で減給処分を取り消された現職の都立高校教員2名に対して7年前、8年前の事案で、新たに戒告処分を出し直すこと(再処分)を決定し、2月21日付で処分発令を強行した。これにより「日の丸・君が代」を強制する10・23通達(2003年)に基づく懲戒処分の数は延べ482名となった。

東京地裁は2017年9月15日、2010年?2013年に都教委が行った減給・停職処分6名・7件が「裁量権の逸脱・濫用」で「違法」として取り消した。都教委はこのうち1名・2件の減給処分取消のみを不服として控訴し、他の5名・5件の減給・停職処分取消については判決を受け入れ控訴を断念し、処分取消が確定した。
しかし都教委は、違法な処分をしたことを反省もせず、該当者に謝罪するどころか現職の都立高校教員2名に改めて戒告処分を出し直した(再処分をした)のである。私たちは、この暴挙に満身の怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるものである。

周知のように、2012年1月16日の最高裁判決は、起立斉唱・ピアノ伴奏を命ずる職務命令が「思想及び良心の自由」の「間接的制約」であることを認め、減給以上の処分については、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」で「処分が重きに失し、社会観念上著しく妥当を欠き、懲戒権者の裁量権の範囲を超え、違法」として減給・停職の懲戒処分を取り消した。その後の最高裁、東京高裁、東京地裁の各判決もこれを踏襲して73件・63名の減給・停職処分を取り消した。

今回の再処分は、減給処分を違法としたこれらの司法の判断を重く受け止めるどころか、その趣旨を無視して、新たに戒告処分を出し直すことで教職員を萎縮させ「屈服」させようとする都教委の異常な「暴力的体質」を改めて露呈した。
今都教委のなすべきことは、東京地裁判決を謙虚に受け止め、違法な処分により筆舌に尽くしがたい精神的、経済的損害を被った被処分者への謝罪と名誉回復・権利回復を早急に行うことである。また、司法により違法とされた処分を行った組織の在り方を点検し、責任の所在を明らかにし、再発防止策を講ずるとともに、10・23通達に基づく校長の職務命令、懲戒処分、再発防止研修など「日の丸・君が代」強制の一連の施策を抜本的に見直し、反省することである。

私たち被処分者の会・原告団と弁護団は、これまで何度となく、都教育委員会及び教育庁関係部署との話し合いを求めてきた。にもかかわらず都教委は、最高裁判決の補足意見が求めている原告団・弁護団との「話し合い」を拒否して問題解決のための努力を放棄する不誠実な対応に終始している。それどころか、司法の判断をもないがしろにして、処分を乱発しているのである。

私たちは、東京の異常な権力的教育行政の抜本的転換を求めると共に、自由で民主的な教育をよみがえらせるために、「日の丸・君が代」強制に反対し、不当処分撤回まで闘い抜く決意である。「子どもたちを再び戦場に送らない」ために!

2018年2月21日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会・東京「君が代」が代」裁判原告団

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◆かくも不当な再処分を許さないために、戒告処分の取り消しと損害賠償を求めて粘り強く闘っています。東京高裁判決に何としても勝利するため傍聴支援をお願いします。

◆東京「君が代」裁判第四次訴訟・控訴審判決
?いよいよ判決です。こぞって傍聴に来てください。
4月18日(水)13時15分 東京高裁824号法廷

(2018年2月23日)

学術会議の「元号廃止 西暦採用について(申入)」決議の紹介

なんとなく、ものを言いにくい雰囲気ができつつある。安保条約批判、自衛隊批判、天皇制批判が典型3テーマ。現天皇の生前退位希望による法改正批判などは、その最たるものだろう。批判の言論の萎縮は、ものを言いにくい雰囲気醸成の悪循環を招くことになる。いうべきことを自己抑制してはならないと思う。

特に気になるのは、共闘に支障が生じるからと共闘相手の主張に媚びた言論萎縮、世論に支持を得られないからと無用に世論に諂った形での言論萎縮。堂々と自説を述べるべきだろう。でないと、言論の重心がいよいよ右に傾いていくことになる。

これから、2019年の天皇代わりまで、天皇制の存続や代替わり儀式のあり方、元号、祝日、そして政教分離原則についての議論が続くことになる。一人ひとりが、主権者として自覚をもって発言しなければならない。天皇やその親族に畏れいってはならないのだ。一言の遠慮することは、一歩の後退を意味する。一歩の後退が、その分だけ自分を発言の抑制に追い込むことになる。

まずは繰りかえし、元号問題を語りたい。「日の丸・君が代」・祝日・叙勲・元号が、天皇制護持の小道具4点セットである。中でも、国民生活に最も浸透しているのが、元号であろう。一世一元となって以来、元号は天皇の代替わりと連動してきた。元号こそは、天皇制を国民に刷り込む手段として、最有効な働きを果たしている。
その元号について、日本学術会議が、「元号廃止 西暦採用について(申入)」の総会決議を採択したことがある。1950年5月6日付。衆参両院議長と内閣総理大臣に当てたもの。新憲法制定3年後のことである。

これが、民主主義国家として再生した、戦後日本の知性のあり方というべきだろう。その後に元号法の成立(1979年6月)をみて、その限りでの事情の変化はあるが、そのほかはまったく変わらない。

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衆議院議長
参議院議長
内閣総理大臣

日本学術会議会長 亀山直人

元号廃止 西暦採用について(申入)

本会議は,4月26日第6回総会において左記の決議をいたしました。
右お知らせいたします。

?日本学術会議は,学術上の立場から,元号を廃止し,西暦を採用することを適当と認め,これを決議する。

理 由

1. 科学と文化の立場から見て,元号は不合理であり,西暦を採用することが適当である。
年を算える方法は,もつとも簡単であり,明瞭であり,かつ世界共通であることが最善である。
これらの点で,西暦はもつとも優れているといえる。それは何年前または何年後ということが一目してわかる上に,現在世界の文明国のほとんど全部において使用されている。元号を用いているのは、たんに日本だけにすぎない。われわれば,元号を用いるために,日本の歴史上の事実でも,今から何年前であるかを容易に知ることができず,世界の歴史上の事実が日本の歴史上でいつ頃に当るのかをほとんど知ることができない。しかも元号はなんらの科学的意味がなく,天文,気象などは外国との連絡が緊密で,世界的な暦によらなくてはならない。したがって,能率の上からいっても,文化の交流の上からいっても,速かに西暦を採用することか適当である。

2. 法律上から見ても、元号を維持することは理由がない。
元号は,いままで皇室典範において規定され,法律上の根拠をもっていたが,終戦後における皇室典範の改正によって,右の規定が削除されたから,現在では法律上の根拠がない。もし現在の天皇がなくなれば,「昭和」の元号は自然に消滅し,その後はいかなる元号もなくなるであろう。今もなお元号が用いられているのは,全く事実上の堕性によるもので,法律上では理由のないことである。

3.新しい民主国家立場からいっても元号は適当といえない。
元号は天皇主権の1つのあらわれであり,天皇統治を端的にあらわしたものである。天皇が主権を有し,統治者であってはじめて,天皇とともに元号を設け,天皇のかわるごとに元号を改めるととは意味かあった。新憲法の下に,天皇主権から人民主権にかわり日本が新しく民主国家として発足した現在では,元号を維持することは意味がなく,民主国家の観念にもふさわしくない。

4.あるいは,西暦はキリスト教と関係があるとか,西暦に改めると今までの年がわからなくなるという反対論があるが,これはいずれも十分な理由のないものである。
西暦は起源においては,キリスト教と関係かあったにしても,現在では,これと関係なく用いられている。ソヴイエトや中国などが西暦を採用していることによっても,それは明白であろう。西暦に改めるとしても,本年までは昭和の元号により、来年から西暦を使用することにすれば,あたかも本年末に改元があったと同じであって,今までの年にはかわりがないから,それがわからなくなるということはない。

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蛇足だが、第1項は極めて分かり易く、説得力がある。学術振興の立場を前提とするする限り、反論は困難だろう。

第2項は、元号法制定によって事情が変わった。このことは、元号法制定の意図や法制定ない場合の保守派の危機感をあぶり出しているともいえるだろう。

第3項は、「新憲法の下に,天皇主権から人民主権にかわり日本が新しく民主国家として発足した現在では,元号を維持することは意味がなく,民主国家の観念にもふさわしくない」。この結論に私は大賛成だ。

第4項は、言わずもがなというところ。「アンチ西暦派」への反論だが、いま「アンチ西暦派」はほとんど絶滅している。今対決しているのは、「西暦派」対「西暦・元号併存派」なのだ。もっと正確に言えば、「元号廃止の是非」が問題となっている。

不便で不合理な元号使用の押しつけは、まっぴらご免だ。後期高齢者に近い年齢で、どうでもよいようなものだが、自分の年齢を計算することに元号では煩瑣で混乱を避けられない。

学術関係者だけでなく、ビジネスマンも同じ意見だろう。「西暦・元号の併存」によって、どれだけのビジネス効率の低下を招いていることか。私は、天皇制ナショナリズムよりも、学術会議的で資本主義的な科学的合理性に与する。
(2017年12月16日)

どう考えても、「国旗・国歌(日の丸・君が代)」強制は違憲だ

東京「君が代」裁判(第4次訴訟)の控訴理由書提出期限が12月18日とされて、俄然忙しくなっている。

課題として獲得すべき判決は二つ。「日の丸・君が代」強制が違憲であることの判決。あるいは、停職・減給だけでなく戒告も裁量権濫用に当たるとして処分を取消す判決。いずれもけっして低いハードルではないが、原告団も弁護団も元気だ。

違憲論の組み立ても幾つか試みられているが、「国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、憲法19条が保障した思想・良心の自由を侵害する」という構成が本命だと思う。どうして、司法はこのシンプルな常識的論理を認めようとしないのだろうか。

私たちの主張は、どんな内容の思想もどんな良心も、19条の効果として国家の権力作用を拒否できると考えているわけではない。国民個人に対する国家の権力発動を「思想良心を侵害するものとして拒否できる」のは、個人の人格の中核にあって、その尊厳を支えている思想や良心を侵害する場合に限定されるものではあろう。

歴史的には、近世のキリシタン弾圧や近代の天皇崇拝の強制、あるいは特高警察による思想弾圧の対象となった信仰や思想。今の世では、まさしく、「日の丸・君が代」強制を拒否する思想こそが、個人の人格の中核にある思想として国家権力の発動による侵害から守られなければならない。

いうまでもなく、憲法とは権力を統制する手段である。国家と国民個人の関係を規律して、権力の恣意的発動から個人の人権を擁護するためにある。したがって、憲法が最も関心を寄せる課題は、国家権力と国民個人の関係である。

国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する起立斉唱の命令とは、国旗・国歌が象徴する国家と個人が対峙する局面において、権力の発動によって個人に国家の優越を認めるよう強制するということなのだ。憲法の最大関心テーマであって、これを措いて思想良心侵害の場面を想定しがたい。

この強制を合憲だという最高裁の論理はかなり複雑である。シンプルには、合憲と言えないことを物語っている。
最高裁判決の論理は以下のとおり
(1) 「日の丸・君が代」への敬意表明という外部行為の強制は、個人の思想・良心を直接侵害するするものではない。
(2) しかし、間接的な制約となる面があることは否定し得ない。
(3) その制約態様が間接的なものに過ぎないから、合理性・必要性があれば間接制約は許容される。
(4) 合理性・必要性を認めるキーワードとして、国旗・国歌(日の丸・君が代)に起立して斉唱するのは、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」に過ぎないことが強調されている。

ここで、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」は、「起立や斉唱という身体的(外部的)行為」と「思想良心(内心)」との不可分一体性を否定するために使われている。しかし、果たして本当にそう言えるのだろうか。

「儀式」も「儀礼」も宗教で重んじられる。信仰という精神の内奥にあるものの表出としての「儀式」「儀礼」という身体的外部行為は、内心の信仰そのものと切り離すことができない不可分一体のものではないか。

いかなる宗教も、その宗教特有の儀式においてそれぞれの宗教儀礼を行う。信仰を同じくする多数人が、同一の場に集合して、同じ行動をし、同じ聖なる歌を唱う。声を合わせて信じる神を称える。そのことによって、お互いに信仰を確認し、信仰を深め合う。そのように意味づけられた行為である「儀式」「儀礼」は宗教に欠かせない本質的な要素である。

しかも、そのことは、実は宗教儀式と非宗教的な儀式において、本質的差異はないのではないか。ナチの演出による聖火行事。あるいは、国家主義的な演出としてのマスゲームなど。最高裁がいう「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」が思想や信仰と無縁であるということではない。

戦前の国家神道の時代。臣民に神道的な儀式や儀礼が強制された。身体的な動作の強制を以て、望ましい臣民の精神形成がはかられたのだ。その伝統はなくなったのか。まさしく国旗・国歌(日の丸・君が代)への起立・斉唱の強制として、今も生きているというべきだろう。

かつてはご真影と教育勅語を中心とした学校儀式が、今は国旗・国歌(日の丸・君が代)に置き換えられている。天皇を「玉」と呼んで、その権威利用を試みた明治政府は、国家神道を発明して、国民精神を統一する道具に使って成功を見た。

戦後の保守政権も、便利な国民統合の道具として国旗・国歌(日の丸・君が代)を使い続けているのだ。国民統合とは、部分的には企業の統合であり、各官庁や公的組織の一体感獲得の方法でもある。国旗・国歌(日の丸・君が代)に従順な国民精神の形成はこの国の支配層の要求に合致しているのだ。だから、「10・23通達」は国民世論に大きな反発を受けなかったのだ。

しかし、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制は、明らかに。国家を個人のうえに置くものとして反憲法的といわざるを得ないし、そのような強制が拒絶する人格に向けられたときには思想良心の侵害となることは明らかではないか。

さて、12月18日までに、裁判所に受けいれられるような文体で、文章にしなければならない。
(2017年11月21日・連日更新第1696回)

大きな声で叫ぼう。「東京五輪を返上しよう!」

毎日新聞の牧太郎という記者の語り口が、何とも魅力的で心地よい。およそ拳を振り上げることなく、肩肘張らず、すこしシャイに、それでいて遠慮なく言いたいことを思う存分言ってのける。その文章の読後に爽快感がある。肺がんの手術を受けてから間もないとのことも、私には同病相憐れむの親近感。

毎週火曜日の夕刊に、「牧太郎の大きな声では言えないが…」を連載していて、これが楽しみ。ところが、ちょうど一月前の8月7日付コラムを見落としていた。これは失態だった。このことをある集会で配られたビラで知った。
久米宏だけではない。おお、牧太郎よ、あなたも。よくぞ言ってくれた。

東京五輪返上の声は、今や小さくない。金がかかり過ぎ。そんな金は被災地の復興に回せ。国威発揚の五輪だ。過剰なナショナリズム鼓吹。猛暑の時期、アスリートに酷。政権や都知事の人気取りに使われている。改憲にまで利用の悪乗りではないか。過剰な商業主義の横行。東京の喧噪が我慢しかねる。愚民政策…。反対理由はいろいろだが、少なくない人々が「東京五輪反対!」「東京五輪返上!」論に賛成している。五輪をダシにした世論操作の胡散臭さへの反発が大きいのだ。

牧太郎の“東京五輪病”を返上!のコラムの書き出しは、おずおずと始まる。
 東京五輪を返上しろ!なんて書いていいのだろうか? 何度もちゅうちょした。毎日新聞社は東京五輪オフィシャルパートナー。いわば、五輪応援団である。
 でも、恐る恐るサンデー毎日のコラム「牧太郎の青い空白い雲」(7月25日発売)に「日本中が熱中症になる“2020年東京五輪”を返上せよ!」と書いてしまった。すると、意外にも、知り合いの多くから「お前の言う通り!」という意見をもらった。返上論は僕だけではないらしい。

そして反対論の幾つかの理由が述べられる。
 その最大の理由は「非常識な酷暑での開催」である。日本の夏は温度も湿度も高い。太陽の熱やアスファルトの照り返し。気温35度、もしかして40度で行われるマラソン、サッカー、ゴルフ……自殺行為ではあるまいか? 沿道の観客もぶっ倒れる。
 サンデー毎日では書かなかったが、日本にとって最悪な季節に開催するのは、アメリカの3大ネットワークの“ゴリ押し”を国際オリンピック委員会(IOC)が認めてからである。メディアの「稼ぎ」のために健康に最悪な条件で行う「スポーツの祭典」なんて理解できない。

 もう一つの理由は「異常なメダル競争」である。日本オリンピック委員会(JOC)は「金メダル数世界3位以内」を目指しているそうだが、オリンピック憲章は「国家がメダル数を競ってはいけない」と定めている。日本人力士を応援するばかりに、白鵬の変化技を「横綱にあるまじきもの」とイチャモンをつける。そんな「屈折したナショナリズム」が心配なのだ。
 「東京五輪のためなら」でヒト、モノ、カネ、コンピューター……すべてが東京に集中している。地方は疲弊する。ポスト五輪は「大不況」……と予見する向きまである。

そして、久米宏同様、今からでも東京五輪返上は遅くないとして、こう言う。
 返上となると、1000億円単位の違約金が発生する。でも、2兆、3兆という巨額の予算と比較すれば、安いものではないか。

さらに、最後に牧太郎の真骨頂。
 東京五輪は安倍晋三首相が「福島の汚染水はアンダーコントロール」と全世界にウソをついて招致した。安倍内閣は「東京五輪のため」という美名の下で、人権を制限する「共謀罪」法を無理やり成立させた。東京五輪を口実に、民主主義が壊されようとしている。
 少なくとも、我々は“東京五輪病”を返上すべきだ!

「1000億円単位の違約金…、安いものではないか。」
牧太郎がそう言えば、私も同感だ。自信を持って1000億など安いものと言える。

「大きな声では言えないが…」などと、おそるおそる語る必要はない。大きな声で叫ぼう。「東京五輪を返上しよう!」「2020年東京五輪は、熨斗をつけてお返しだ!」
(2017年9月7日)

つぶやきームンフバト・ダバジャルガル青年の深刻な悩み

私、ムンフバト・ダバジャルガル。通称はダヴァ。32歳。職業は日本のプロ相撲選手。こちらでは、大相撲の力士と言うんだ。力士としての登録名は、「白鵬」。「鵬」は中国の古典に出て来るとてつもなく大きな伝説の鳥だ。一昔前に「大鵬」という強い力士がいて、それにあやかったネーミング。15歳でモンゴルのウランバートルから東京に来て、心細い思いをしながらも、我ながらよく頑張った。グランドチャンピオン(横綱)に上り詰めただけでなく、とうとう昨日(7月21日)通算1048勝という大相撲史上の新記録を樹立した。名力士「大鵬」さんもできなかったことだ。これまでの苦労を思えば、感慨一入。涙も出る。

記録達成後のインタビューの様子を、メディアは、「目を閉じて数秒間の沈黙の後に、『言葉にならないね』と喜びをかみ締めた。胸に去来するのは、努力を重ねて地位を築いた土俵人生。そして、将来の夢だ。」などと報じている。「喜びをかみ締めた」は嘘ではない。しかし、思いはもう少し複雑で微妙なんだ。

私は社会人としては若いが、現役の力士としては盛りを過ぎている。引退は先のことではない。その後は、大相撲協会の役員となり、自分の経験を生かして後輩を育成したい。そう、次の舞台の人生を描いている。日本人力士にとっては、なんの問題もないことだが、私の場合には国籍という壁が立ちはだかっている。日本相撲協会の役員として残るには、日本に帰化して日本国籍を取らねばならないとされている。しかし、日本国籍を取るということは、モンゴルの国籍を捨てるということだ。これが悩みなんだ。

私の父、ムンフバト・ジジト(76才)はモンゴル相撲の大横綱で、モンゴル人初の五輪メダリスト(1968年メキシコ五輪レスリング銀メダル)という母国の国民的英雄なんだ。その子の私にも、モンゴル民族の期待は大きい。これまで熱狂的な声援を受けてきた。私も母国の声援に応えようと、努力を重ねてきた。モンゴル国籍の離脱は、母国を裏切るものととらえられかねない。だから、かねてから父は私の帰化には反対してきた。作今、その父の体調がすぐれない。日本国籍を取得して引退に備える、という気持にはなかなかなれない。

国籍問題さえクリヤーできれば実績に文句のつけようはない。「白鵬」の名のまま相撲協会に残って、後進を指導する「年寄」になれる。そう、みんなに言っていただいている。

しかし、公益財団法人日本相撲協会の規則には、「年寄名跡の襲名は日本国籍を有する者に限る」と明示されている。現在の八角理事長(元横綱・北勝海)は「白鵬だから例外ということはない」と言っているそうだ。

私は、自分に流れるモンゴル民族の血にも、栄誉ある父の子であることにも、誇りをもっている。モンゴルの人々のこれまでの恩義も大切にしたい。モンゴルの国籍を捨てるようなことはしたくない。

また、私を育ててくれた日本という国も、大相撲も大好きだ。妻も日本人で、引退後の人生は大相撲の「年寄」として、「白鵬部屋」から立派な力士を輩出する夢を描いている。

できれば帰化などせずに、モンゴルの国籍をもったまま、「白鵬部屋」の年寄りになりたい。そう願って、この問題を考え続けてきた。

問題はふたつあると思う。一つは、大相撲協会の規則。どうして、「年寄」(親方)の資格を国籍で縛ろうというのだろうか。聞くところでは、「日本の伝統文化である以上、(規定を)変えることはありません」ということのようだが、正直のところよく分からない。伝統文化を支えているのはむしろ力士ではないだろうか。力士については日本国籍であることを要求されていない。力士として日本の伝統文化を支えた人が、年寄りになろうとすると、どうして日本の国籍が必要となるのだろうか。私の、これまでの日本の伝統や文化との関わり方を見ないで、帰化するかどうかだけが「日本の伝統文化」を大切にすることの証しなのだろうか。

大相撲は、いち早く尺貫法を捨ててメートル法に切り替えたり、伝統の四本柱をなくして釣り天井にしたり。外国人力士を受け入れたり。伝統文化を大切にしながらも、合理性は取り入れてきたと聞いている。私が帰化しさえすれば、「日本の伝統文化」が保たれたことになるというのだろうか。

私は心の底から思うのだが、私にモンゴル籍のまま力士として活躍の場を与えてくれた相撲協会のあり方こそが「日本の伝統文化」というものではないだろうか。年寄籍問題についても、もっと大らかで解放的に考えていただくことこそが「日本の伝統文化」の立場ではないだろうか。

もう一つは、法律の問題だ。私は、モンゴルの国民でありたい。しかし、場合によっては日本の国籍を取得しなければならない。そのとき、どうしてモンゴルの国籍を捨てなければならないのだろうか。どうして、両方の国籍を取得してはならないのだろうか。必ず、どちらか一つだけを選ばなければならないというのは、私の場合とても難しくつらいことだ。日本とモンゴル、どちらか一方を捨てろという選択を強いられることは、私の心を裂くに等しい。本当に何とかならないものだろうか。
(2017年7月22日)

東京オリンピックは、日の丸・君が代抜きで願いたい。

アツイ。あつい。暑い。熱い。いふまいとおもへどけふのあつさかな。「暑い」という以外に言葉はなく、話題もない。

3年後の夏、この暴力的な猛暑の東京で、オリンピック・パラリンピックが開催されるという。マラソンの日程は男女とも8月上旬だとか。恐るべき炎熱下の試練。愚かしくも非人道的な「地獄の釜」の中の苦役。東京の夏に五輪を誘致した諸君よ。キミたちはクーラーの効いた部屋で、剣闘士たちの酷暑の中の死闘を眺めようというのか。アスリート諸君よ、奴隷の身に甘んじることなかれ。

オリンピックといえば、国威発揚であり、ナショナリズムの鼓吹である。あたかも当然のごとくに国旗国歌が大きな顔をして鼻につく。どこの国の国旗国歌も愉快なものではないが、とりわけ日の丸・君が代は不愉快極まる。わが国の天皇制支配や軍国主義や侵略や植民地支配の負の歴史を背負って、歪んだ保守派ナショナリズムのシンボルとなっている。天皇教によるマインドコントロール下の大日本帝国とあまりに深く結びついたその旗と歌。今なお、日本人が無邪気にこの旗を振り、この歌を唱う感性が信じがたい。

ところで、最近こんな文章にお目にかかった。筆者を伏せて、ご一読願いたい。
《優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめようというブランデージ(当時のIOC会長)提案に私は賛成である。(略)私は以前、日本人に稀薄な民族意識、祖国意識をとり戻すのにオリンピックは良き機会であるというようなことを書いたことがあるが、誤りであったと自戒している。民族意識も結構ではあるがその以前に、もっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通じて人々が知り直すことが希ましい》

民族意識や祖国意識よりも、「真の感動」、「人間的感動」をこそ重視すべきだという。「真の感動」、「人間的感動」の何たるかはこの短い文章に盛りこまれてはいないが、国威発揚やナショナリズム鼓吹の対立物としてとらえられている。だから、「優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめよう」という提案に賛成だというのだ。真っ当な見解ではないか。

この一文は、1964年10月11日付読売新聞に「人間自身の祝典」との標題で掲載されたものだという。筆者は、何と石原慎太郎。スポーツライターの玉木正之さんのサイトに紹介されていたもの。石原慎太郎とは、その40年後に東京都知事として、公立学校の教職員に、国旗国歌を強制する「10・23通達」を発出した張本人である。

石原に倣って、私はこう言いたい。
《学校の卒業式に国旗掲揚や国歌斉唱をとりやめようという良識ある教員たちの提案に私は賛成である。少なくとも、天皇(明仁)が米長邦雄に語ったとおり「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」というべきだろう。
私は以前、日本人に稀薄な民族意識や祖国意識、そして秩序感覚をとり戻すのに卒業式の国歌斉唱は良き機会であるというようなことを思ったことがあるが、誤りであったと自戒している。民族意識も愛国心も秩序感覚も結構ではあるが、その以前に、もっと大切なもの、すなわち、自立した人格の形成、精神的な自由の確立、斉一的な集団行動の強制ではなく、国家や集団に絡めとられない個の確立、そして教育の場での真の感動、人間的感動というものを確認する卒業式であることこそが希ましい》

オリンピックであろうと、卒業式であろうと、国旗・国歌は個人と対峙し、個人を呑み込む。アスリートよ、国の栄光のために競うな。自分のために輝け。それこそが、真の感動ではないか。卒業式の若者よ、国歌を歌うな。自分自身の魂の詩を語れ。それこそが人間的感動を確認する手段ではないか。

国威発揚の五輪に成功したのがヒトラーだった。そのドイツ民族を主役とする大祭典は第2次大戦を準備するものでもあった。2020年東京五輪が、その亜流であってはならない。国旗国歌の氾濫する20年夏は暑苦しく息苦しい。せめて、「優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめよう」くらいの五輪であって欲しい。日の丸・君が代抜きの東京五輪であれば爽やかとなろうし、少しは涼やかな東京の夏となるだろう。
(2017年7月21日)

まあ聞け。むかーし、むかしのことじゃ。

人の命の値打ちは紙くずみたいなものじゃった。模様を描いた布きれが人の命よりも大切でな、この布きれを敵に奪われると本当に腹を切ったということじゃ。で、当時の世の中がおかしくってな。「腹を切るとは立派なものだ」と褒めそやしたということだ。バカげた話よのう。

またな、人の顔を映した写真が国中の学校にあってな。この写真が校長の命よりもはるかに大事だとされていたんじゃと。それでな、火事だの地震だの、台風だのというときに、この写真を守ろうとして命を失った校長が何人もいたんだそうな。写真は何枚でも同じものが作れるだろう。何枚でもある写真の値打ちって、所詮は紙っぺら一枚よ。紙っぺら一枚のために、かけがえのない人の命を捨てることはあるまいに。バカげた話よのう。

一人ひとりの人間を大切にしない世の中ではな、所詮は布きれの旗やら、所詮は紙一枚の写真やらが、人の命やプライドよりも、大事だとされることになるわけじゃな。ホンにバカげた話よのう。

もう少し聞け。今度はむかしのことじゃない。昨日(4月13日)のことじゃ。
あの、産経新聞が騒いでおる。NHKがな、日の丸の位置をば下に、中国の五星紅旗を上にした画面構成で放送をしたんだと。これが大きな問題なんじゃそうだ。

産経はこう言っておる。
「NHKが3日に放送した番組『ニュースウオッチ9』の中で、日本の国旗を中国の国旗の真下に表示していたことが13日、わかった。岸信夫外務副大臣は同日の参院内閣委員会で、独立国の国旗を上下に位置させることについて『下の国旗は下位、服従、敵への降参などを意味し、外交儀礼上、適切ではなく、あってはならない』と答えた。

自民党の有村治子参院議員の質問に答えた。映像は航空自衛隊の戦闘機の緊急発進(スクランブル)急増に関する特集の中で使用された。有村氏は『NHKはどこの国の公共放送か』と述べて批判した。

NHK広報部は産経新聞の取材に対し『上空を飛行する中国機に対し、スクランブルをかける自衛隊機のイメージをわかりやすく示すため、両国の国旗と機体の画像を使って放送した。国の上下関係を示す意図はなかった』と説明した。」

所詮は血の通わない旗と旗。布切れと布切れ。上でも下でも、右でも左でも斜めでも、たいしたことではない。騒ぐほどのことでもなかろうに。どうしてこんなことが大ごとだというのか。こんなことを国会議員が国会で議論をする、その方がよっぽど大ごとだろう。何とも、バカげた話よのう。

本当の問題は、布切れと人との関係じゃな。旗と生身の人間と、どちらが上でどちらが下か。いったいどちらが大事なのかと言うこと。

さすがに、開けた今の世じゃ。旗や写真のために、命を懸けよというバカげたことをいう者はない。ところが、「おまえの思想や良心や信仰などは投げ捨てて、いやでも起立し旗に向かって頭を下げろ」と、大真面目に命令する知事や教育委員が本当にいるんじゃ。有村治子も外務省も産経もその尻押しじゃ。

旗の上に旗を置くことが「怪しからん」「大問題だ」とは、ちゃんちゃらおかしい。主権者である人の上に、日の丸を置いて、「これを仰ぎ見よ」「頭を垂れよ」という方が、はるかに「怪しからん」「大問題」じゃな。これこそ、「下の人は、上の旗に対して下位、服従、降参などを意味し、適切ではなく、あってはならない」というべきじゃろう。ところが、こんな面妖なことが、東京でも大阪でも、訳の分からん知事の出現以来何年も続いているんじゃ。ホンにホンにバカげた話よのう。いや、腹の立つことよのう。
(2017年4月14日)

この際、新元号の制定はやめよう。

本日(4月7日)複数のメディアが報じている。天皇(明仁)の生前退位と代替わりに伴う新元号について、政府は複数の学者に選考を依頼し、既に複数の元号案が提出されて「内閣官房で案を管理している」という。ただそれだけのことが、大新聞の一面トップの記事になっている。その記事の取扱いの大きさ自体がニュースというべきだろう。

なお、改めての感慨は中国文化の圧倒的な影響力である。「天皇」も「元号」も、所詮は中国文化からの借り物。古代中国文化の根幹から生じた枝葉、あるいは、中国文化本流からの末節なのだ。前回の天皇代替わりでの政府依頼の学者は、山本達郎(東洋史)、宇野精一(中国哲学)、目加田誠(中国文学)だったという。今回も、中国史、中国古典文学、日本古典文学などの学者に、「中国や日本の古典をもとに漢字2文字の組み合わせ」だとか。日本の古典も漢字文化の末裔。日本では、文化的な国粋主義は成り立ちえないことを痛感する。

元号とは、「もともと古代中国で皇帝が時を支配するという思想から生まれた」といえばもっともらしいが、なに、皇帝の政治的影響力誇示のパフォーマンスに過ぎない。本家の中国には、今こんなものはない。日本が、旧態依然にこんな不便なものをありがたがっている必要はない。せっかくの天皇(明仁)の生前退位。これで平成が終わる。元号法を廃止して、新元号などやめてはどうか。西暦表示一本に統一して、誰も困らない。

世の中は、着実に西暦表示派が優勢になりつつあるが、これに逆行して話題となったのが、「しんぶん赤旗」の題字脇の元号併記。今年の4月1日から突然に始まって、今日で1週間になる。一昨日(4月5日)の紙面、「知りたい聞きたい」欄に、読者の疑問に答えるかたちで、「『赤旗』が元号併記したのは?」という、釈明記事を載せている。私にとっては大事な問題なので、全文を引用しておきたい。

 「しんぶん赤旗」が4月1日付から日付に元号を併記したことにいくつかの質問、意見が寄せられています。
 今回の措置は、「西暦だけでは不便。平成に換算するのが煩わしい」「元号も入れてほしい」など読者のみなさんからの要望をうけた措置です。これらは折に触れ、手紙やファクス、メールで編集局に寄せられていました。
 元号そのものについては、西暦か元号かどの紀年法を用いるかは、歴史と国民の選択にゆだねるべきで、法律による使用の強制には反対するというのが、日本共産党のかねてからの主張です。1979年の元号法制化に際しては、天皇の代替わりごとに改元する「一世一元」は、主権在民の憲法下ふさわしくないとして、その法制化・固定化に反対しました。そのさい、元号の慣習的使用に反対するものではないこと、「昭和」後の元号についても慣習的使用の延長として憲法の範囲内で法的強制力をもたない適切な措置を検討する用意があることも表明していました。
 なお、「赤旗」は昭和天皇が死去した1989年1月7日付まで西暦に加え「昭和」の元号を併記していました。
 今回の元号併記の措置は、こうした経緯と考え方も踏まえてのものです。

残念だが、読者の疑問に真摯に答えるものとなっていない。もっと丁寧に、もっと率直に語るべきだと思う。なによりも、「西暦か元号かどの紀年法を用いるかは、歴史と国民の選択にゆだねるべき」と言うだけでは、何も語っていないに等しい。「歴史と国民の選択」の是非が問われているのではなく、赤旗自身の見解が問われているのだ。元号というものを歴史的にどうとらえ、今それが国民生活や国民意識にどう関わっていると認識しているのか。ことは、明らかに天皇制の評価に関わる。同様の問題を、「日の丸」も「君が代」も、叙位叙勲も祝日も抱えている。

いったいなぜ、「1989年1月7日付まで西暦に加え元号を併記し」ていたのか、なぜ「1989年1月8日付から2017年3月31日まで元号併記をやめた」のか、そしてなぜ「2017年4月1日から元号併記を復活した」のか、赤旗の原理原則との関わりで説明が必要と考えざるを得ない。

私は本心で提案したい。この際、赤旗も「新元号は不要だ」という社説を書いてみてはどうだろうか。

元号維持派の論理というのはまことに脆弱である。霞ケ関カンツリー倶楽部の男性優位論程度のもので、いとも簡単に崩れ落ちる体のもの。

元号維持派の、まとまった論稿にはなかなかお目にかかれない。典型として、毎日新聞論説陣の保守派で、安倍晋三の寿司友の一人としても知られる山田孝男のコラム「風知草」の「元号について」(毎日新聞2017年1月16日 東京朝刊)を取り上げてみよう。山田孝男の元号維持肯定説は、驚くべき貧弱な「論理」である。

「新元号など無用、という声は出ていない。」
少なくも、私は声を出している。無視しないでいただきたい。

「天皇の戦争責任が問われた第二次大戦直後は、元号廃止論が優勢だった。元号は『不合理』『反民主主義的』で『国際社会に通用せぬ』と腐された。」
その点は、認識が一致する。

「曲折を経て元号廃止論は鳴りを潜めたが、元号が社会にどう定着したかといえば微妙だ。元号を否定しないにせよ、『なくたっていい』と考える人も少なくないのではないか。」
「元号廃止論は鳴りを潜めた」には異論がある。「元号が社会にどう定着したかといえば微妙」はそのとおり。むしろ、『なくたっていい』と考える人が優勢になりつつある、というべきだろう。

「なくたっていいか。私はそうは思わない。」
ほう。その積極理由をお聞かせいただきたい。

「元号…廃止派の論拠の一つは『日本でしか通用しない遺物』といった、今で言うグローバリズム。」
そのとおり。「日本でしか通用しない遺物」であることが「論拠の一つ」であることに異論はない。この「論拠の一つ」への反論の論拠として引っ張り出されるのは、「the保守」福田恒存を引用するだけのこと。

「それに対し、そういう議論は『明治以来、相も變(かわ)らぬ、拝外心理の現れ』に過ぎぬとかみついたのが評論家の福田恒存(12?94年)である。拝外心理=欧米コンプレックスということだろう(読売新聞76年12月6日付の寄稿「元号と西暦、両建てにすべし」)。」
福田もお粗末だが、今頃これを引用して何かを言ったつもりになっている山田も山田。グローバリズムを、「拝外心理=欧米コンプレックス」というのだ。保守が共有する劣等意識のなせるところなのだろうか、それとも福田と山田に固有のものか。いずれにしても、一顧だにする必要のない愚論というほかはない。

その愚論の具体的論拠として、福田が挙げているものが3点ある。
▽元号廃止は歴史、伝統の断絶と文化の荒廃をもたらす。たとえば元禄、天明の文化??と言えばイメージできるものも、西暦表記では分からない。
この程度のつまらぬことが元号維持論の論拠なのだ。既に、歴史は西暦で語られているではないか。元号使用以前の紀年は元号では語れない。改元は偶然の産物で長短不揃い。歴史を既述するツールとして不合理・不便この上ない。「元号廃止は歴史、伝統の断絶と文化の荒廃をもたらす」とは、誇張も甚だしい。
なお、将来に元号を廃止することは、過去の歴史を改竄することではない。新元号がなくなった時代でも、歴史を語る際に「元禄の芭蕉、天明の蕪村」と言ってなんの差し支えがあろうか。

▽西暦一本化論は、「酒1合」と言わせず、「180ミリリットル」を強要するようなもので、情緒を奪い、世の中を窮屈にする。
今、尺貫法はほぼ駆逐された。不便だからである。メートル法と尺貫法の併用による社会的コストの負担には耐えがたいからでもある。相撲界でさえ、力士の身長や体重を尺貫法からメートル法表示に変えてなんの不都合もない。すっかり馴染んだではないか。これを、情緒を奪い窮屈になったという声は聞かない。元号も同じだ。昭和の終わり頃、天皇が病牀にあった時期に、和解調書には「昭和73年12月末日限りの履行」などと書いていた。だれの目にも不合理が明らかだったのに、である。いま、50年間の定期借地権の期間を、「平成29年から、平成79年まで」と表記するのは滑稽ではないか。そして、不便で不合理なのだ。

▽第一、クリスチャンでない日本人、ユダヤ人、アラブ人が、なんでキリスト教紀元にのみ付き合わねばならぬのか……。
日本人が中国人のつくり出した漢字をなぜ使わねばならないか。便利だからである。西暦は世界標準歴として、これを使うことの利便性がすぐれているから使うのだ。さらに、元号との並立・両建は、反民主的で、社会生活上の不便をきたすから賛成できないのだ。

山田は、この文章の最後をこう結んでいる。
「元号はカビのはえた記号ではない。飛鳥朝以来、通算247回目の改元まであと715日。」
敢えて言おう。「元号はカビのはえた記号」だ。それも、『不合理』『反民主主義的』で『国際社会に通用せぬ』有害なカビだ。カビは、きれいさっぱりなくした方が良い。放置しておくと蔓延して人畜に害をなす。よい潮時だ。新元号の制定はやめるに越したことはない。
(2017年4月7日)

永年の読者の一人として「赤旗」に要望します。元号併記はおやめいただきたい。

私は、長年の習慣として赤旗は丹念に読む。貴重な情報が提供されているからでもあるし、同紙の意見や論評に敬意を有してもいるからだ。

昨日(2017年4月1日)も、いつもと同じように赤旗に目を通したが、問題となった紙面の変化には気付かず、各紙夕刊の報道で初めて知った。あらためて読み直して各紙報道の正確性を確認し、いささか落胆した。第1面「しんぶん赤旗」の題字の右横、号数を特定する「2017年4月1日 土曜日 日刊第23800号」の表記に、小さな活字で「(平成29年)」と添えられていたのだ。

さらに注意して紙面に目を通すと、第2面の左下に小さな囲み記事。7行の「お知らせ」があった。「『しんぶん赤旗』は、読者のみなさまのご要望を受け、本日付より1面題字横の日付に元号(平成29年)を併記します」という、事務的な文章。

これは、いけない。いただけない。小さく目立たないようで、原則に関わる重大な変化。赤旗に元号は似つかわしくない。是非とも、元に戻して、赤旗紙面から元号を駆逐していただきたい。でなくては、赤旗に対する共感も敬意も失せてしまうことになりかねない。

私は1971年弁護士登録以来10年間は、業務として作成する書面の作成日付を慣行に従って元号で表示していた。作成日付だけでなく、文面の内容でも年の特定は元号で行っていた。引っかかるものはあったが、読み手のある文章。私だけが西暦表示では、独りよがりでもあり裁判所や相手方にも不便とも考えてのことであった。

転機は1981年に岩手靖国違憲訴訟を受任したことだった。この訴訟を通じて、あらためて天皇制や国家神道、それを支える諸々の大道具小道具のことを学び直し、真剣に考えた。明治維新をなし遂げた中央集権政府は、人民の精神の内奥にまで立ち入った支配のシステムを構想し、国家神道という時代錯誤の天皇教を作りあげた。この宗教国家を維持するために、硬軟さまざまな手法が編み出されたが、一世一元の制もその一つである。

敗戦によって天皇主権と、国家神道は制度上なくなったが、その残滓は至るところにある。日の丸・君が代・元号の存在が大きい。それだけでない。叙位・叙勲・祝日・賜杯・天皇賞・恩賜・「皇室御用達」の類。すべては、権威に従順な国民意識涵養のための小道具である。その影響力を可能な限り小さくすることが、憲法の理念を実践しようとする者の努めだと思い至った。

それ以来、陛下や殿下の呼称を拒否しよう。叙勲を祝うことはやめよう。君が代斉唱時には起立しない、そして元号使用をやめようと決意した。思想が変わったわけではない。思想を行動に移さなければならないと思いを定めたわけだ。私は弁護士だ。社会から行動の自由を与えられている。この自由を、憲法の理念を全うする方向で行使しなければならないという意識もあった。

こうして、元号使用をすっぱりとやめた。訴状も準備書面も、弁論要旨も告訴状も、内容証明郵便も、すべて西暦で書くようになって、既に35年ほどにもなる。元号使用をやめて西暦表示に切り替えた最初は、いろいろ面倒なこともあった。なにしろ、元号使用一色の世界に、強引に西暦表示を持ち込むという雰囲気。裁判官からいやな顔をされたことも再三ある。あからさまに、「西暦だと感覚的に分かりにくい。相手方の主張との対比も面倒なので、元号表示にしていただけないか」といわれたことが、記憶の限りで2度ある。もちろん、これを拒否して元号使用を強制されることはなく、そのことが私の依頼者の不利益となることは皆無だった。

いま、明らかに世の空気は変わった。ビジネスの世界では、世界標準である西暦の利便性が元号を圧倒している。メディアの世界も、NHKと産経だけはいざ知らず、西暦表示が席巻している。これを旧に復する愚を犯してはならない。

苦労して西暦表示に切り替え実践していたころ、思想的に同じ姿勢を貫いていた最有力勢力が赤旗だった。旧天皇制に最も苛烈な弾圧を受け、最も果敢に闘ったのが日本共産党だったのだから、当然といえば当然。その一貫した姿勢が、頼もしかった。

報道では、「赤旗は1947年以降、西暦と元号を併記してきたが、昭和天皇の死去以降、西暦のみにした」とのことだが、どの新聞よりも、西暦表示統一に熱心だったし、元号使用の強制に反対する立場だった。

それを、今頃元号併記に逆戻りとは情けない。西暦表示使用にがんばっている多くの人に失望を与える。政治的なインパクトは小さくない。赤旗は、軽々に動かしがたい原理原則をもつことで、固定層としての読者を獲得してきたはず。「利便」や「読者の要望」で、その原理原則をゆるがせにしていくと、核となる読者層から見離されることになりかねない。「この程度は原理原則とは関係なかろう」と譲歩を重ねていくと、ラッキョウの皮を剥いていくように芯が見えなくなってしまうのではないか。そのときは、誇り高き前衛の旗がしおたれてしまうことになる。

昨日の赤旗は、「読者のみなさまのご要望を受け、本日付より1面題字横の日付に元号(平成29年)を併記します」とあった。私も「読者のみなさま」の一人として申しあげる。
「天皇制に対するこれ以上の迎合も譲歩もやめ、国民主権や立憲主義の原理原則を徹底する立場を堅持して、元号表記はすっぱりとおやめいただきたい」
(2017年4月2日)

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