「国立大学の卒業式に国旗国歌を」という安倍晋三の押しつけに、まず朝日と毎日が批判の社説を書いた。朝日「国旗国歌―大学への不当な介入だ」、毎日「国旗国歌の要請 大学の判断に任せては」というもの。両紙とも4月11日の朝刊に掲載。安倍発言は9日で、予定されたことではなかったようだから、両紙の迅速な対応には敬意を表したい。
対して、政権ベッタリの本領を発揮したのが、14日付の産経社説。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」というもの。「読むだに恥ずかしい社説」と、私が昨日のブログで叩いたものだ。実は、昨日日経も社説に取り上げていた。「自主・自律あっての大学だ」という標題。これが、実にリベラルな立場からの明確な政権批判の内容なのだ。おそらくは、経済合理性を重んじる財界主流の意向は、安倍の非合理な復古主義にはついていけないということなのだろう。ともかく、昨日の時点で、この問題についての中央各紙の社説の姿勢は3対1で、批判派が圧倒した。
ところが今日(16日)、読売がこの問題で社説を書いた。産経の後追いである。内容はお粗末極まる。日経並みの見識を示すチャンスを逃して、産経並みでしかないことを天下に示した。ともあれ、これで批判派とベッタリ派とは、3対2の色分けとなった。東京新聞はこの件を社説に取り上げていない。4対2となるよう期待したいところ。
ネットで地方紙を探してみたが、面倒で調べきれない。北海道新聞の社説だけが目にとまった。「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」という、なんともストレートなそのものズバリの標題。以下に、日経、読売、そして道新3紙の社説を要約してご紹介したい。
日経社説の論旨は、「自主・自律あっての大学だ」という標題のとおり。大学の自治の重要性を中心に、大学の国際化の問題にも触れて、大学を萎縮させてはならない、とするもの。
「大学はその運営も教育・研究の中身も自主性、自律性が尊重されるべき存在だ。世界中から人を受け入れる空間でもある。大学のグローバル化が急務となるなかで、国公立、私立にかかわらず画一的な統制はなじまない。」
「大学に対する政府の役割は、入学式をどう営むかといったお節介でなく、教育・研究の水準向上や多様性確保である。政府はこの問題で、これ以上の口出しは控えるべきだ。国立大学協会など大学サイドでも、きちんと対応を議論すべきではないだろうか。」
以上に見られる日経社説子の筆の運びは、「なんと愚かな」「非常識な」「馬鹿馬鹿しい」「どうしてそこまでやろうというのか」という、政権に対するあきれ果てたという気分にあふれている。
さらに、こう言っていることが注目される。
「下村文科相は、各大学への要請は『強制ではなく、お願い』だという。しかしまさに首相が『税金によって賄われている』と述べたように、国立大への交付金のさじ加減は文科省が握っている。そこからきた『お願い』は大学を萎縮させる効果が十分にあろう。」
きわめて常識的なそして明解な指摘ではないか。
本日の読売社説は「大学の国旗国歌 要請で自治が脅かされるのか」というもの。タイトルのとおりの内容である。面白くもおかしくもない。
「国旗・国歌が国民の間で広く定着している状況を考えれば、式典で掲揚や斉唱を促すのは妥当と言えよう。」というのが、基本スタンス。
一応、「憲法が保障している『学問の自由』と、それを支える『大学の自治』の原則は、尊重されなければならない。」とは言う。とは言うものの、一応のものとしての理解でしかない。かたちばかりの憲法原則の尊重は、その蹂躙を許容している。
要は、「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」ということに尽きる。「強制力のない『お願い』によって簡単に揺らぐほど、大学の自治はもろいのだろうか。」とまで言っている。権力の側に立ち続けると、こういう感覚になるのかも知れない。日経の方がまことにまっとうではないか。
戦前、治安維持法や国防保安法、軍機保護法、新聞紙法、出版法などの思想弾圧法制が猛威を振るった当時、「思想統制はそんなにたいしたことはなかった。私は自分の書きたいことを書いた」という記者がいた。そりゃそうだ。権力に擦り寄っていれば書けるのだ。権力を批判する記事さえ書かなければ、「権力はたいしたことはない」のだ。読売は、長年そのようなスタンスだから、自分は安全なのだ。「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」と言っていられるのだ。そう、権力ベッタリ派は、権力の恐ろしさに向かい合うことはない。権力を警戒せよと言っても、理解不能なのだ。
北海道新聞の社説「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」は格調が高い。まずは大学の国際化から説き起こしている。
「大学の役割はますます国際的に開かれたものになりつつある。…キャンパスで伝統的に培われてきた自治や自立、自主性を尊重することが大学の個性を生む。それが世界からの評価につながる。」
「大学をナショナリズム色の強い安倍カラーに染めあげては、国際化も世界に通じる人材の育成も危うい。押しつけはやめるべきだ。」
「国がカネを出しているのだから、国立大学は政府の考えに従うのが筋―。そう言いたいのだとしたら、あまりに了見が狭い。研究や学問はそもそも国という枠にとらわれるものではない。言うまでもないが、その目的は広く世界の科学や技術、社会の発展に寄与するところに置かれている。…「国家」ばかり強調すると、研究自体がゆがんでしまわないか。」
「下村文科相は『強要するものではない』と自主性を重んじる物言いだ。しかし、本当か。国が運営費交付金の重点配分を通じて大学を選別する方針を打ち出している。だからこそ、額面通りには受け取れないのだ。」
「教育の要諦は懐の深さにある。幅広い人材を生むには鷹揚さが欠かせない。なのに政府はいま、最高学府に対しても、たがをはめつつ、国内外の大学同士を徹底的に競わせようとしているようにみえる。競争至上主義の導入といい、今回の『国旗国歌』といい、大学が持ってきた自由闊達な空気を失わせないか。それを危惧する。」
読売や産経には疾うに失われた見識や知性というものが、地方紙の論説には脈々と生きていることに清々しい思いを禁じ得ない。
なお、読売が、「自国や他国の国旗・国歌に敬意を表すのは、国際社会における常識であり、当然のマナーだ。政府がそうした教育を求めるたびに、あたかも統制強化のごとくとらえる議論が起きるのは、世界でも日本だけだろう。」と言っている。
そうだろうか。国旗国歌を国家ないし権力の象徴として、国旗国歌に抵抗の意思を示す行動は世界に共通のものだ。愛国心の強制は国旗国歌の強制とともにあり、権力批判は国旗国歌への象徴的な抗議の行動となる。これも普遍的な現象だ。
アメリカの例を引きたい。国家への抗議の意味を込めて公然と国旗を焼却する行為を、象徴的表現として表現の自由に含まれるとするのが連邦最高裁の判例なのだ。
アメリカ合衆国は、さまざまな人種・民族の集合体である。強固なナショナリズムの作用なくして国民の統合は困難という事情がある。当然に、国旗や国歌についての国民の思い入れが強い。が、それだけに、国家に対する抵抗の思想の表現として、国旗(星条旗)を焼却する事件が絶えない。合衆国は1968年に国旗を「切断、毀棄、汚損、踏みにじる行為」を処罰対象とする国旗冒涜処罰法を制定した。だからといって、国旗焼却事件がなくなるはずはない。とりわけ、ベトナム戦争への反戦運動において国旗焼却が続発し、2州を除く各州において国旗焼却を禁止しこれを犯罪とする州法が制定された。その憲法適合性について、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこした。
著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)である。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっている。なお、いずれも国旗焼却が起訴事実であるが、ストリート事件はニューヨーク州法違反、ジョンソン事件はテキサス州法違反、そしてアイクマン事件だけが連邦法(「国旗保護法」)違反である。
68年成立の連邦の「国旗冒涜処罰」法は、89年に改正されて「国旗保護」法となって処罰範囲が拡げられた。アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までが構成要件に取り入れられた。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付けた。そして、無罪の判決を得た。
アイクマン事件判決の一節である。
「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている、および尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」(土屋英雄教授作成の東京君が代訴訟における「意見書」から)
なんと含蓄に富む言葉だろう。
安倍や産経、読売に聞かせてやりたい。
「大学に国旗を押しつけることは、国旗を尊重するに値するようにさせている、まさにそのわが国の自由を冒涜し、わが国の価値を貶めることになる」のだと。
(2015年4月16日)
昨日(4月14日)の産経社説が、国立大学における国旗国歌押しつけ問題を取り上げた。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」という標題。もちろん、産経本領発揮の提灯持ち社説。こんな記事を読まされる方が恥ずかしい。
同社説は冒頭にこう言っている。
「国立大学の卒業式や入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を適切に行うよう求めることに反発がある。国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか。それを妨げる方が問題である。」
産経は、誰にどのような理由で「反発」があるかについて思いをいたすところがない。「実施できないのは、国旗国歌に背を向ける一部教職員らの反発が根強いからだろう」とだけ言って、この教職員の言い分に耳を傾けようとはしない。いったい、どこにどのような問題があるかを考えようともせず、噛み合った議論をしようという姿勢を持ち合わせていない。一方的に、自分の主張の結論を情緒的に述べているだけ。これでは幼児の口喧嘩のレベルに等しい。それが右翼メディアの本領と言えばそれまでだが、これでは、大学人の反発や懸念をますます深めるだけのものと知らねばならない。
まずは、産経の議論の立て方がおかしい。「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか」ではなく、「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜ必要なのか」と問わねばならない。さらに、「なぜかくまでに国旗国歌にこだわるのか」、「なにゆえに国旗国歌に敬意の表明を強制する必要があるのか」と問を展開する必要がある。
議論の出発点は飽くまでも個人の自由でなくてはならない。個人の思想も行動も、公権力に制約されることなく自由であることが大原則なのだ。どんな旗や歌を好きになろうと嫌いになろうと、その選択は個人に任されている。にもかかわらず、なにゆえ、国旗国歌に敬意を払わねばならないというのか。これは「国際常識」や「多数の意思」などで簡単にスルーすることはできない大きな問題である。さらに、歴史的に刻印された負の烙印をいまだに消せない「日の丸」と「君が代」への敬意を払うべきとする教育が、なにゆえに是認されるのか、政権も産経も納得のいく説明をしなくてはならない。
国家の象徴である歌や旗への態度は、個人が国家に対してどのようなスタンスをとるかを表す。これは、完全に自由でなくてはならない。日本大好きで、日の丸・君が代へ敬礼を欠かさない人がいてもよい。しかし、虫酸が走るほど嫌いで、日の丸・君が代は見るのもイヤだという国民がいてもよいのだ。国民の資格は国家への好悪が条件ではない。国民が主人公の民主主義国家においては、国家には国民に対する無限の寛容が要求される。
かつて大日本帝国大好きな臣民がいた。ナチスドイツの愛国者もいた。今、北朝鮮にもISにも熱烈な愛国者がいるだろう。しかし、国民すべてがその国を大好きなはずはない。問題は、いろんな理由で自分の国を好きではないと思う人たちが、非国民との非難を受けることなく安心して生きていけるかにある。そのことについての寛容の有無が、民主主義国家であるか全体主義国家であるかの分水嶺である。そして、国旗国歌への態度についての国の干渉のあり方は、民主主義か全体主義かのリトマス試験紙である。
憲法とは、突きつめれば個人と国家との関係の規律である。我が日本国憲法は、安倍政権や下村教育行政や産経にはお気に召さないところだが、18世紀以来の近代憲法の伝統にのっとった個人主義・自由主義に立脚している。自由な個人が国家に先行して存在し、その尊厳を価値の根源とする。国家は価値的に個人に劣後するものでしかない。いや、むしろ個人の自由を制約する危険物として取扱注意の烙印を押されているのだ。
その個人に対して、国家の象徴である国旗・国歌に敬意を払うべしとする立論には、納得しうる厳格な法的根拠が不可欠なのだ。自発的意思で国旗国歌を尊重する態度の人格形成を教育の目標とすることは、本来我が憲法下では困難というべきだろう。第1次安倍内閣が強行した改正教基法の「国を愛する」との部分は、「国」の内実の理解や、「愛する」が強制の要素を含むとすれば、違憲の疑いが濃厚である。
参院予算委員会で、安倍首相は「改正教育基本法の方針にのっとり、正しく実施されるべきではないか」と答弁した。産経はこれを「当然である。改正教育基本法では国と郷土を愛し、他国を尊重する態度を育むことを重視している」というが、浅薄きわまりない。
憲法23条は、「学問の自由は、これを保障する」と定める。誰からの学問の自由侵害を想定してこのような規定を置いたか。いうまでもなく、仮想敵は国家である。戦前、国家による数々の学問の自由への侵害事件が重ねられた。その悪夢を繰り返してはならないとする主権者の決意がこの条文である。誰にこの自由は保障されているのか。まずは個人だが、その自由を担保するための制度的保障として大学の自治が認められている。その大学に、国旗国歌の押しつけとは、おぞましい限りというほかはない。
さらに、教育基本法には産経が引用する条文だけではなく、次のようなものもある。
第2条(教育の目標)教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一号 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二号 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
第7条(大学)
1項 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
2項 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。
「学問の自由を尊重」「幅広い教養」「真理を求める態度」「豊かな情操」「個人の価値を尊重」創造性を培い」「自主及び自律の精神」「学術の中心」「高い教養」「深く真理を探究」「新たな知見を創造」「大学の自主性、自律性」「大学における教育・研究の特性の尊重」等々のすべてが、権力作用と背馳する。国旗国歌を排斥する。少なくとも馴染まない。教育基本法の隻句を国旗国歌押しつけの根拠とすることはできない。
産経は、「文科相は『お願いであり、するかしないかは各大学の判断』とも述べている。大学の自主性にも配慮した要請を批判するのは疑問だ」ともいう。しかし、産経の論難にかかわらず、下村文科行政の要請が「大学の自治を損なうもの」であることは明らかだ。カネを握るものは強い。カネの配分の権限を握っているものには、迎合せざるを得ないのがこの世の現実。大旦那が大旦那であるのは、知性は欠如していてもカネが支配の力をもっているからだ。それでなくとも乏しい文教予算。その配分を削られるかも知れないという恫喝がセットになっているところに大きな問題がある。だから、教育行政は教育条件整備に徹すべきであって、恣意的な予算配分で教育を歪めてはならない。
また、産経はこうも言う。「大学人にあえて言うまでもないことだが、国旗と国歌はいずれの国でもその国の象徴として大切にされ、互いに尊重し合うことが常識だ。」
これもお粗末な意見だ。大学人なら、「国旗国歌は、いずれの国でもその国の象徴としてふさわしいものであるが故に大切にされる。建国の理念や国民の団結を示す歌や旗としてふさわしくない国旗国歌は捨て去られる」と一蹴するだろう。
第2次大戦の敗戦国であるドイツもイタリアも国旗を変えた。その旗を象徴とした過去ファシズム国家のあり方を反省し、国の理念を変えたからである。同じ枢軸国の一員として、侵略戦争や植民地支配を反省し清算したはずの日本が、「日の丸・君が代」をいまだに国旗国歌としていることに違和感をもつ国民は少なくない。日の丸・君が代は、大日本帝国の侵略戦争や植民地主義とも、主権者天皇への盲目的崇拝ともあまりに深く結びついた存在であったからである。
国旗国歌法は、国家において「日の丸・君が代」を国旗国歌として用いることを定めただけもので、国民に何らの義務を課するものではない。敬意表明を強制をするものでないことは、国旗国歌法の審議過程で確認されたが、法ができあがってから政府はこれを少しずつ国民に強制しつつある。このやり口は詐欺に等しい。
また、産経は「人生の節目の行事で国旗を掲揚し、国歌を斉唱することは自然であり、法的根拠を求めるまでもない」という。恐るべき法感覚、人権感覚、社会感覚といわざるを得ない。私の常識では、人生の節目で国家が出てくるなんぞトンデモナイ。ましてや権力や権威を恐れず真理を探究すべき大学でのこと。口を揃えて「君が代」を唱う大学生とは、主体性を喪失し、知性や批判精神の欠如したロボットに過ぎない。知性の府である大学に、日の丸・君が代は夾雑物でしかない。
産経社説は、最後をこう結んでいる。
「祝日に国旗を掲げる家庭も少なくなっている。普段から国旗と国歌を敬う教育を大切にしたい」
「祝日に国旗を掲げる家庭が少ない」ことはごく自然で望ましいこと。政権は、家庭に直接の国旗国歌の強制は難しいから、学校教育での強制に躍起になっているのだ。
教育に最も必要なものは、個人の主体性の確立である。主権者にふさわしく、自分の足でしっかりと立って、自分の頭でものを考え、自分の意見をきっぱりと発言のできる明日の主権者を育成することである。無批判に、日の丸を仰ぎ君が代を唱わせる教育からはこのような主体は育たない。教育現場の国旗国歌こそは、国家や社会に従順な、主体性と個性に欠けた国民教育の象徴と言うべきであろう。
私見と、政権や産経の立論の差異の根底にあるものは、個人と国家の価値的優劣の理解である。私は、純粋な個人主義者であり、自由主義者である。政権や産経の立場は、国家主義であり全体主義である。
私の考え方は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言、そして日本国憲法、国連の諸規約に支えられた常識的なものだ。政権や産経の立場は、旧天皇制や現在も残存する全体主義諸国家を支える思想に親和的なもの。安倍政権や産経の社説に表れた、国家主義・全体主義の鼓吹には重々の警戒をしなければならない。
(2015年4月15日)
「天賦人権・民賦国権」という対句は河上肇の書(「日本独特の国家主義」)に出て来る。当時の日本の「天賦国権・国賦人権」という実態を批判するために用いられた。河上肇は漢詩の名手としても知られた人。さすがにうまいことをいう。
「天賦人権・民賦国権」とは、「人権はほかならぬ天から与えられた生得のものだが、公権力は人民がこしらえたものに過ぎない。ところが、天皇制の我が国ではさかさまだ。まるで、天皇制国家権力が天から授かったもので、人民個人の権利は公権力によって創設されたごとくではないか」という意であろう。
河上自身が、「日本現代の国家主義によれば,国家は目的にして個人はその手段なり。国家は第一義のものにして個人は第二義のものなり。個人はただ国家の発達を計るための道具機関として始めて存在の価値を有す。」「しかるに西洋人の主義は,国家主義にあらずして個人主義なり。故に彼らの主義によれば,個人が目的にして国家はその手段たり。個人は第一義のものにして国家は第二義のものなり。国家はただ個人の生存を完うするための道具機関として始めて存在の価値を有す」と明快に解説している。
これを、ひとひねりして、「天賦民権・民賦国権」と言ってみたい。天をもち出すことにいささかのためらいはあるが、天(自然権)が民権を授け、その民権が公権力をつくったということを表現する端的なスローガンとしてである。
「天賦人権」というときの「人」は、飽くまで個人だ。基本的人権は自然人に生得に存在するという思想を表現する。これに対して、「天賦民権」というときの「民」は集合名詞だ。主権者としての国民総体をいう。前者が人権論に関わり、後者は立憲主義に関わる。「天→民→国」という序列は、それぞれの権利の根拠を表すものでもある。人民が主体となって公権力の根拠たる憲法をつくったという立憲主義を表明するスローガンとして分かり易く適切ではないか。
中江兆民の「三酔人経綸問答」に、「恢復の民権」と「恩賜の民権」という言葉が出て来る。該当の箇所は以下のとおり。
「世の所謂民権なる者は、自ら二種あり。英仏の民権は恢復的の民権なり。下より進みて之を取りし者なり。世また一種恩賜の民権と称すべき者あり。上より恵みて之を与ふる者なり。恢復的の民権は下より進取するが故に、その分量の多寡は、我の随意に定むる所なり。恩賜の民権は上より恵与するが故に、その分量の多寡は、我の得て定むる所に非ざるなり。」
「恢復の民権」とは、「下より進みて之を取りしもの」というのだから、人民が勝ち取った欠けるところのない民権である。これに対して、「上より恵みて之を与ふるもの」という「恩賜の民権」があるという。権力者の妥協によって人民に与えられた欠けた民権といってよかろう。ここで論じられている民権は、明らかに人民主権であって、個人の基本的人権ではない。
河上のいう「民権」が、「下より進みて之を取りしもの」で、「上より恵みて之を与ふるもの」でないことは明確である。民主主義社会において、主権者国民が恩賜の民権をありがたがっている図は滑稽というだけでなく、危険きわまりない。
「恩賜の民権」は、慈悲深い国王という神話を基礎として成立する。かつては、「慈愛深き天皇が臣民たる赤子を慈しんだ」という神話が語られた。植民地支配下の子どもたちにまで、である。いままた、「慈愛深き天皇皇后両陛下が被災住民に心配りをされる」「ペリリュー島で斃れた兵士に哀悼の意を捧げられた」などの、慈悲深い天皇像作りがおこなわれている。これに無警戒であってはならない。
天皇制とは、天皇を傀儡として徹底的に利用した支配層の演出政治であった。国民の理性を封じ、国民の精神生活に深く介入して、国民全体を洗脳しようとした非合理的な体制であった。その演出の基本が、天皇を神格化するとともに、慈愛深い家父長というイメージを作ることにあった。
戦後社会の支配の仕組みにおける、象徴天皇の利用価値を侮ってはならない。現天皇の意思を忖度して君側の奸を攻撃する類の言説をやめよう。親しみある天皇像、リベラルな天皇像、平和を祈る天皇像は、「天賦民権・民賦国権」の思想を徹底する観点からは危険といわざるを得ない。もちろん、「恩賜の民権」などの思想の残滓があってはならない。われわれは、主権者として自立した主体性を徹底して鍛えなければならない。そのためには、天皇の言動だけでなく、その存在自体への批判にも躊躇があってはならない。
(2015年4月13日)
「国立大学の入学式や卒業式に国旗掲揚と国歌斉唱を」という参院予算委での安倍首相答弁(4月9日)に驚いた。下村文科相も「各大学で適切な対応がとられるよう要請したい」と具体的に語っている。「安倍右翼政権の粛々たる壊憲プログラムの進行の一つでしかない。今さら驚くにも当たるまい」という見解もあるのだろうが、あまりにも唐突だ。
朝日と毎日が、素早く本日の社説に取り上げた。いずれも明確な批判の論調。朝日は「政府による大学への不当な介入と言うほかない。文科省は要請の方針を撤回すべきである」とし、毎日は「判断や決定は大学の自主性に委ね、(国旗国歌実施の)『要請』は見送るべきだ」と結論している。両紙の姿勢に敬意を表しつつも、驚きとおぞましさが消えない。
安倍政権のスローガンが戦後レジームからの脱却である以上は、国民主権や民主主義を支えるすべての制度を敵視していることは明らかだ。安保防衛問題だけでなく、学問の自由も大学の自治も、国民の思想良心の自由も、すべてを押し潰して「富国強兵に邁進する日本を取り戻したい」と考えているだろうとは思っていた。
しかし、安倍とて愚かではない。そうは露骨になにもかにもに手を付けることはできなかろう。そのような甘い「常識」を覆しての「国立大学に適切な国旗国歌を」という意向の表明である。やはり驚かざるを得ない。
安倍晋三の頭のなかは、「いつ、いかなる事態においても、時を移さず武力を行使しうる国をつくらねばならない」「いざというときには、躊躇なく戦争のできる日本としなければならない」という考えで凝り固まっているのだ。「強い国家があって初めて国民を守ることができる」。「平和も人権も、実際に戦争ができる国家体制なくては画に描いた餅となる」。単純にそう考えているのだろう。
そのためには法律の制定だけでは足りない。「戦争のできる国作り」のためには、何よりも国民をその気にさせなければならない。国民意識を統合し、挙国一致して国運を隆昌の方向にもっていかなくてはならない。安倍政権にとって、ナショナリズムの鼓舞は大きな課題なのだ。国民こぞって、自主的に国旗を掲揚し、国歌を斉唱する国をつくらねばならない。これにまつろわぬやからは非国民と排斥されてしかるべきだ。そのようにして初めて、戦争を辞さない精強な国民と国家ができあがる。強い国日本を中心としたる新しい国際秩序をつくることができる。祖父岸信介が夢みた五族共和の東洋平和であり、八紘一宇の王道楽土だ。
政権が根拠とする理屈は、結局のところ、「国立大学が国民の税金で賄われている」ということ。「国がカネを出しているのだから、国に口も出させろ」「スポンサーの意向は、ご無理ごもっともと、従うのが当然」という理屈。これは経済社会の常識ではあっても、こと教育には当てはまらない。教育行政は教育の条件整備をする義務を負うが、教育への介入は禁じられている。このことは、戦前天皇制権力が直接教育を支配した苦い経験からの反省でもあり、世界の常識でもある。
問題は、安倍・下村の醜悪コンビがこの非常識な発言を恥ずかしいと思う感性に欠けていることだ。なりふり構わずスポンサーの意向を押しつけ、「要請」に従わない大学には国からのイヤガラセが続くことになるだろう。
「国旗掲揚国歌斉唱の実施要請に法的な根拠はありません。ですから飽くまでお願いをしているだけで、文科省の意見に従えとは口が裂けても申しません。とはいえ、予算を握っているのは私どもだということをお忘れなく。要請に対する、貴大学の協力の姿勢次第で、どれだけの予算をお回しできるか、変わってくることはあり得るところです。『魚心あれば水心』というあれですよ。よくおわかりでしょう」
もう一つ、安倍第1次内閣が改悪した新教育基本法の目的条項が根拠とされている。
第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
第5号 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
ここに、「我が国と郷土を愛する」がある。だから、「入学式や卒業式では、日の丸・君が代を」というようだ。国を愛するとは、「国旗に向かって起立し、口を大きく開いて国歌を斉唱する」その姿勢に表れる、という理屈のようだ。
国家の権力から強く独立していなければならないいくつかの分野がある。教育、ジャーナリズム、司法などがその典型だ。弁護士会の自治も重要だが、大学の自治はさらに影響が大きい。国立大学は、けっして安倍政権の不当な介入に屈してはならない。
もう、いかなる国立大学も、政権の方針に従うことができない。この件は大学の自治を擁護する姿勢の有無についての象徴的なテーマとなってしまった。政権への擦り寄りと追従と勘ぐられたくなければ、学校行事の日の丸・君が代は、きっぱり拒絶するよりほかはない。そうでなくては、際限なく日本は危険な方向に引きずられていくことになってしまう。
(2015年4月11日)
中学生の皆さん。君たちは、明日の主権者です。もうすぐ、この社会を背負って立つことになります。今の国や社会のありかたには私たち大人が責任を持たねばなりませんが、バトンタッチは間近です。君たちが責任を持たなければならない時代がすぐそこにやってきます。
この世に生まれたすべての人が人として平等に尊重され、誰もがのびやかに自由に暮らすことのできる国。貧困や暴力に苦しむ人のいない暖かく明るい社会。障がいや病気や家族の不幸があっても、社会全体が困っている人に手を差し伸べるやさしい世の中。そして、国境を越えて、人々が仲良く暮らせる平和な世界。私たち、今の大人が目ざして果たせなかった、そのような輝く未来をつくることができるのは君たちなのです。
君たちは、その輝く未来をつくるために学んでいます。学校は、そのような学びの場としてとても重要です。そこではこれまでの多くの人々が長い年月をかけて確認してきた「真理」や「真実」の基礎を効率よく君たちに伝えようとしています。
君たちは、学校で「真理」「真実」を学ぶだけでなく、今の社会のよいものとよくないものとを区別してよいものを選びとる能力、さらに自分の考えでよりよいものをつくり出す能力を身につけなくてはなりません。それは、自分自身で、ものを見、ものを考え、自分の意見を持ち、自分の意見を堂々と語り、自分の意見のとおりに行動する力です。これは、簡単に身につくことではありません。しかし、とても大切で必要なことなのです。
学校とは、真理を学ぶとともに、自分でものを考え判断し行動する能力を身につけるところ。このことはけっして当たり前のことではありません。1945年の敗戦まで、学校とは真理を教えるところではなく、国家が都合がよいことを教える場所でした。自分でものを考え判断し行動する能力ではなく、国家が教えることを疑わずに従う態度を身につけるよう教えられたのです。一言で言えば、国家が望むような国民(当時は国民ではなく「臣民」と言いました)をつくりあげるための場所だったのです。
当時、日本の主人公は国民ではなく天皇でした。天皇は神であり、神の子孫であるとされたのです。日本は天皇をいただく特別の神の国であると、学校の先生が授業で、大真面目にそう教えたのです。
その頃の教科書は国がつくりました。これを国定教科書と言います。全国の小学校・中学校が、国がつくった同じ教科書を使って、国に都合のよいことを教え込んだのです。真理や真実よりは、国に都合よい考え方でできあがった教科書でした。
敗戦後、日本は国民が主人公の国として生まれ変わりました。教育についての考え方も世界の常識に基づいたものに変わります。「国が教育の内容を決めてはならない」「学校が生徒に教える内容に国が口出ししてはならない」そういう原則を確認しました。戦前の間違いを繰り返してはならないと、国定教科書は廃止されました。こうして、教科書は、出版社が自由に発行することができるようになったのです。
ところが、だんだんと政府は教科書の内容に口出ししてきました。いま、政府を動かしている人々にとって不都合な内容の教科書は書き直しを命じられ、これに応じないときは許可しないとされているのです。次第に、教科書のあり方は国定教科書時代にどんどん近づいて、とりわけ来年から使われる中学校の教科書の内容には批判の声が高くなっています。
いまや、教科書の記載内容が、真理や真実で貫かれているのか、疑うことが必要になっています。かつて、日本の多くの人が国定教科書で洗脳されたように、来年から新しくなる教科書が君たちを洗脳しようとしているのではないか、よく考えなければなりません。
たとえば、どこの国に属するかについて争いのある竹島や尖閣諸島について、「日本固有の領土であると教科書に記述せよ」というのが政府の方針です。多くの教科書出版会社は、悩みながらもこれに従わないわけにはいかなくなっています。
国際的な紛争で、相手方に言い分がないことなどはありません。しかも、領土問題は、こじれれば国際紛争に発展しかねません。お互いが、相手国の言い分にも、耳を傾けなければならない微妙な問題と言わねばなりません。日本の言い分だけが絶対に正しいと断定する教科書の記載は、中国や韓国を刺激することになるでしょう。
日本と同じく第2次大戦の敗戦国だったドイツは、歴史教科書を作成するについて、フランスやポーランドなど戦争被害を与えた近隣諸国の意見を取り入れて作成し、現在では、ドイツ・フランス共通歴史教科書が作成されています。
日本はドイツと違って、侵略戦争を仕掛けたこと、植民地支配をしたことについて、被害国の国民に対する謝罪や反省が不十分との批判が絶えません。この度の教科書作成はさらに、近隣諸国の批判の声を大きくしかねないと心配になります。
教科書に基づいて勉強しないわけにはいきませんが、教科書には真実が書いてあるはずなどと思い込むことは早計です。今の教科書作りには、大きな批判があることをよく知ってください。そして、日本だけが正しいという思い込みを捨てて、相手の言い分にも耳を傾け、何が正しいのかを自分の頭で考える力をぜひ身につけていただきたいと思います。
私たち大人の力が足りないばかりに、中学生の君たちに問題のある教科書しか提供できないことをお詫びするしかありません。それでも君たちには、何が正しいかを見抜く力を身につけて、輝く未来をつくっていただきたいのです。
(2015年4月7日)
大阪府立体育館での大相撲春場所が終わった。荒れる春場所とはならなかった。予定調和のごとく白鵬(モンゴル)が優勝。これを追う逸材として照ノ富士(モンゴル)が名乗りを上げた。大関候補というよりは、逸ノ城(モンゴル)とともに近い将来の横綱候補といってよい。さらに、栃の心(グルジア)、大砂嵐(エジプト)、臥牙丸(グルジア)など、やがて上位を外国勢が独占する勢い。
2006年初場所の大関栃東を最後に、連続55場所日本人力士の優勝が途絶えている。公平に見て、さらにしばらくは日本人力士の優勝はなかろう。しかし、大相撲の心地よさは、よい相撲を見せる力士には人種や国籍を問わず声援が飛ぶことだ。
日本相撲協会の公式サイトでは来場者アンケートによる「敢闘精神あふれる力士」を毎日掲載している。千秋楽は、トップが照ノ富士、2位日馬富士、3位白鵬とモンゴル勢の独占。場所を通じてのトップは断然照ノ富士だった。
http://www.sumo.or.jp/honbasho/main/kanto_seishin
かつて実力ナンバーワンだった小錦の横綱昇進が見送られたとき、差別の臭いを感じさせられた。が、今そんなことをしていては、興行としてなりたたない。協会の姿勢をここまで糺した、日本の相撲ファンはけっこう質が高いのではないか。
で、目出度く千秋楽かといえば、実はちっとも目出度くはない。千秋楽の君が代斉唱には以前から大きな違和感あって異議を唱えてきた。外国人力士の活躍はその違和感をいっそう大きくしている。くわえて今場所は、別の問題が生じている。君が代斉唱の伴奏が、「陸自第3音楽隊」になったというのだ。
私は産経は読まないし、絶対に買わない。ささやかな経済制裁を続けている。その産経の関西版に、こんな記事があることを教えてもらった。
「国技の国歌斉唱、ぜひ国の守り手で」春場所千秋楽、陸自第3音楽隊が初の伴奏(産経・関西)
http://www.sankei.com/west/news/150321/wst1503210024-n1.html
「22日の千秋楽での表彰式前に行われる国歌斉唱の伴奏を、陸上自衛隊第3音楽隊(兵庫県伊丹市)が今場所初めて担当する。春場所以外の本場所(東京・名古屋・福岡)ではすでに各地の自衛隊音楽隊が伴奏を担当。大阪での第3音楽隊の初登場で、全ての本場所で自衛隊音楽隊が“そろい踏み”となる。
『国技の本場所での国歌斉唱はぜひ、国の守り手の自衛隊にお願いしたい』
春場所の表彰式での伴奏について、日本相撲協会から自衛隊大阪地方協力本部を通じて、第3音楽隊に要請があった。
昨春までは約30年間、大阪市音楽団(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラに名称変更)が担当。昨年4月に同市直営から一般社団法人化したことで、相撲協会との交渉で演奏料などの折り合いがつかず、降板することに。そこで、第3音楽隊に白羽の矢が立った。
第3音楽隊の阿部亮隊長=1等陸尉=は『たくさんの観客の前での演奏なので、立ち居振る舞いから緊張感をもって行いたい』と練習に余念がない。22日は表彰式での賜杯授与時の『得賞歌』と優勝パレード出発時『国民の象徴』の各演奏も担当する。
第3音楽隊は昭和35年に発足した陸自第3師団の直轄。現在40人の編成で音楽を主任務とする専門部隊だ。」
恥ずかしながら、「大相撲の年6回の本場所では、東京では陸自東部方面音楽隊などが、名古屋では陸自第10音楽隊が、福岡では陸自第4音楽隊などが、それぞれ国歌斉唱などの伴奏を担当している」ことは知らなかった。何よりも、「国技の国歌斉唱は国の守り手の自衛隊に」という協会の姿勢は、到底許容しがたい。
ところで、公益財団法人日本相撲協会は、その定款(今は「寄付行為」という言葉は使わない)における設立目的に「太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させる」とある。協会は、「我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序」とは、日本の軍事とともにあるという認識なのだ。だから、「国技」(相撲)と「国歌斉唱」(君が代)と「国の守り手」(自衛隊)とは、よく似合うというわけだ。
こうして、「日の丸・君が代」と自衛隊とが、一緒になって市民生活に入り込んでくる。そして、君が代斉唱に唱和するよう社会的同調圧力が強まることになる。大相撲だけではない。オリンピックも、国民体育大会も、プロ野球開幕式も同じように警戒しなければならない。
とりあえずは、産経だけにではなく、大相撲も個人的経済制裁の対象としよう。金輪際大相撲などは観に行かない。関連グッズも買わない。まことにささやかだが、宣言的効果くらいはあるのではないか。
(2015年3月23日)
八紘一宇とは、かつての天皇制日本による全世界に向けた侵略宣言にほかならない。しかも、単なる戦時スローガンではなく、閣議決定文書に出て来る。1940年7月26日第2次近衛内閣の「基本国策要綱」である。その「根本方針」の冒頭に次の一文がある。
「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」
紘とは紐あるいは綱のこと。八紘とは大地の八方にはりわたされた綱の意。そこから転じて全世界を表す。全世界を一宇(一つの家)にすることが、皇国の国是(基本方針)というのだ。一宇には家長がいる。当然のこととして、天皇が世界をひとまとめにした家の家長に納まることを想定している。「皇国を中核とする大東亜の新秩序を建設する」というのはとりあえずのこと、究極には世界全体を天皇の支配下に置こうというのだ。
「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」「不逞鮮人」「鬼畜米英」「興亜奉国」「五族共和」「大東亜共栄圏」「大東亜新秩序」等々と同じく、侵略戦争や植民地支配を正当化しようとした造語として、今は死語であり禁句である。他国の主権を蹂躙し、他国民の人権をないがしろにして省みるところのない、恥ずべきスローガンなのだ。到底公の場で口にできる言葉ではない。
ところが、この言葉が国会の質疑の中で飛び出した。3月16日の参院予算委員会の質問でのこと、国会議員の口からである。恐るべき時代錯誤と言わねばならない。
私は世の中のことをよく知らない。三原じゅん子という参議院議員の存在を知らなかった。この議員が元は女優で不良少女の役柄で売り出した人であったこと、役柄さながらに記者に暴行を加えて逮捕された経歴の持ち主であることなど、今回の「八紘一宇」発言で初めて知ったことだ。
この人が「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」と述べている。こんな者が議員となっている。これが自民党の議員のレベルなのだ。しかも党の女性局長だそうだ。安倍政権と、八紘一宇と、愚かで浅はかな女性局長。実はよくお似合いなのかもしれない。
この人には、八紘一宇のなんたるかについての自覚がない。ものを知らないにもほどかある。いま、こんなことを言って、安倍政権や自民党にだけではなく、日本が近隣諸国からどのように見られることになるのか。そのことの認識はまったくなさそうなのだ。
自分の存在を目立たせたいと思っても、哀しいかな本格的な政策論議などなしうる能力がない。ならば、セリフの暗記は役者の心得。世間を驚かせる「危険な言葉」をシナリオのとおりに発することで、天下の耳目を集めたい。そんなところだろう。この発言には誰だって驚く。「八紘一宇」発言は確かに世間を驚かせたが、世間は何よりも発言者の愚かさと不見識に驚ろいたのだ。
発言内容を確認しておきたい。八紘一宇が出てきた発言は、麻生財務相に対する質問と、安倍首相に対する質問とにおいてのものである。質問は、租税回避問題についてであった。歴史認識や教育や教科書採択や、あるいは戦争や植民地支配の問題ではない。八紘一宇が出て来るのが、あまりに唐突なのだ。その(ほぼ)全文を引用しておきたい。
「三原参院議員:私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の、影の部分に、もう、私たちが目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで、皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむ」とおっしゃったことに由来する言葉です。今日皆様方のお手元には資料を配布させていただいておりますが、改めてご紹介させていただきたいと思います。これは昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。
『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』
ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならないんです。麻生大臣、いかが、この考えに対して、いかがお考えになられますでしょうか。」
「三原参院議員:これは現在ではですね、BEPS(税源浸食と利益移転)と呼ばれる行動計画が、何とか税の抜け道を防ごうという検討がなされていることも存じ上げておりますけれども、ここからが問題なんですが、ある国が抜けがけをすることによってですね、今大臣がおっしゃったとおりなんで、せっかくの国際協調を台なしにしてしまう、つまり99の国がですね、せっかく足並みを揃えて同じ税率にしたとしても、たったひとつの国が抜けがけをして税率を低くしてしまえば、またそこが税の抜け道になってしまう、こういった懸念が述べられております。
総理、ここで、私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税の歪みは国家の歪みどころか、世界の歪みにつながっております。この八紘一宇の理念の下にですね、世界がひとつの家族のように睦み合い、助け合えるように、そんな経済、および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものをですね、安部総理こそがイニシアティブをとって提案すべき、世界中に提案していくべきだと思うのですが、いかがでしょうか?」
三原議員は、麻生財務相に対する質問の中で、清水芳太郎『建国』の抜粋をパネルに用意し、これを読み上げた。こんなものを礼賛する感性が恐ろしい。こんな批判精神に乏しい人物を育てたことにおいて、戦後教育は反省を迫られている。この『建国』からの抜粋の部分について、批判をしておきたい。
『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。』
そんな馬鹿な。国際関係を戦前の「家」になぞらえる、あまりのばかばかしさ。世界のどこにも通用し得ない議論。聞くことすら恥ずかしい。「世界が一家族のように睦み合うべき」とするのは、「一番強い家長を核とする秩序」を想定している偏頗なイデオロギーにほかならない。他国を侵略して、天皇の支配を貫徹することによって新しい世界秩序をつくり出そうという無茶苦茶な話でもある。「一番強いものが弱いもののために働いてやる制度」とは、「強い」「弱い」「働いてやる」の3語が、差別意識丸出しというだけでなく、「3・1事件」や関東大震災時の朝鮮人虐殺などの歴史に鑑み、虚妄も極まれりといわざるを得ない。こんな妄言を素晴らしいと思う歪んだ感性は、相手国や国民に対する根拠のない選民思想の上にしかなり立たない。
『これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。』
日本こそが、近隣諸国に対して、弱肉強食策をとり、弱い国を搾取し、力によって無理を通して、弱い民族をしいたげてきた。八紘一宇の思想は、その帝国主義的侵略主義、他国民に際する差別意識の上になり立っているのだ。その差別意識は完膚なきまでにたたきのめされて、我が国は徹底して反省したのだ。今にして、八紘一宇礼賛とは、歴史を知らないにもほどがある。
『世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』
あからさまに日本を「世界中で一番強い国」として、自国が世界を支配するときに、世界平和が実現するという「論理」である。中国にも、朝鮮にも、ロシアにも欧米にも、「世界中で一番強い国」となる資格を認めない。日本だけが強い国であり神の国という、嗤うべき選民意識と言わざるを得ない。
いかに愚かな自民党議員といえども、一昔前なら、「八紘一宇」を口にすることはできなかったであろう。露呈された安倍政権を支える議員のレベルを嗤い飛ばす気持ちにはなれない。時代の空気はここまで回帰してしまったのか。民主主義はここまで衰退してしまったのか。自民党安倍政権の危うさの一面を見るようで気持が重い。
もしかしたら、日本の国力が衰退して国際的地位が低下しつつあることへの危機感の歪んだ表れなのかも知れない。それにしても、歴史と現実を踏まえた、もう少しマシな議論をしてもらいたい。
(2015年3月19日)
「子どもと教科書全国ネット21」の機関誌(「全国ネット21NEWS」)が先月15日付で100号となった。会の活動が充実していること、その活発な活動が求められている事態であることがよくわかる。
記事は、教科書採択問題にかかわる情報や運動を中心としながらも、これにとどまらない。教科書の内容を歪める要因となっている関連問題について、要領よくまとまった読み応え十分な記事が掲載されている。前田朗さんの「ヘイト・スピーチと闘うためにー二者択一的思考を止めて、総合的対策を」がその筆頭だろうが、心揺さぶられるものがあって、崔善愛(ちぇそんえ・ピアニスト)さんの寄稿を紹介したい。標題は、「市民にとっての『テロ』と、政府にとっての『テロ』」というもの。
冒頭の一文が、次のような問いかけとなっている。
「安倍政権が『テロとたたかう覚悟』としきりにいうとき、常に『外国人』によるテロ行為から『邦人』を守ることを想定している。しかし国内で、市民団体の平和を求めるデモが、右翼の街宣車に取り囲まれ、『殺すぞ』と大音響でののしられていることや、朝日新聞がたびたび襲撃されてきたテロにたいして『だたかう覚悟』をみせたことがあるだろうか。」
この視点は、少数者として差別される側に立たされ、果敢に差別と闘ってきた崔さんならではのものではないだろうか。
「路上で市民と警官が口論していたら、まずは市民の側に立て」とは、今は亡きマルセ太郎の遺訓である。「市民」に対する「警官」とは強者の象徴。「警官」は、政権・行政・企業・使用者・多数派・組織の上級・情報と権限の独占者・権威・世の常識などと置き換えてもよい。「市民」とは、労働者であり、消費者であり、店子であり、貧窮者であり、公害被害者であり、情報弱者であり、組織の末端であり、マイノリティーとして差別されている者のことである。要するに「弱い立場にある者」と「強い立場にある者」との衝突があれば、それぞれの主張の正邪や当不当を吟味する前に、とりあえずは「弱い立場にある者」の側に立て、という教訓である。
言うには易いが、その実践がたいへんに困難なことを幾度も経験した。「強い立場にある者」にも、それなりの世間に通りやすい言い分があるからだ。「大所高所に立って」「全体の秩序の維持のために」とのまことしやかな理由で、弱い立場にある者が切り捨てられる。弱者の側にこそ身を置こうと、常に意識し続けることは実は至難というべきなのだが、そのような姿勢を持ち続ける者にだけ不当な差別が明瞭に見えてくるのだと思う。
崔さんは続ける。
「わたしも34年前、指紋押捺拒否が報道されるや、脅迫の手紙や電話が実家に多数届いた。いつか後ろから刺されるかもしれない、と思うようになった。わたしのデビューコンサートで父は最前列に座り、右翼の襲撃があるかもしれないから、と言った。楽観的な私は、『彼ら』は遠くの人たちだ、と思うことにした。けれど最近、『彼ら』は決して亡霊でもなく、右翼だけでもなく、同じ共同体で生活する普通の隣人だった、と実感する。政治家、学者、学校、自治会、公共放送にも‥・戦争責任や君が代を問題にしようとすれば呼吸できない空間がせまる。『茶色の朝』は、このことだったのか。そして『彼ら』とは、誰なのか、その人脈が明らかになることをねがってやまない。」
崔さんは、このような視点から、植村隆さん(北星学園大学)とその家族への卑劣な「テロ」に怒り、植村隆さん支援を決意する。
さらに、耳を傾けるべきは、崔さんの実践から語られる、市民の側からの朝日への対応の在り方だ。
「これからも次々おそろしい統制が進むだろう。新聞と市民がもっと近づき応答しあわなければ、道はないのではないか。」というのがその基本姿勢。
崔さんは、最後をこう締めくくっている。
「『朝日新聞には、失望した』『大手新聞はもうだめだ』という声を、市民運動のなかでもよく耳にする。けれどもここで朝日新聞やメディアに失望したまま離れ、見離せば、結果的に朝日バッシングに加担することにもなり、わたしたちの言論の場が失われる。それこそが、『彼ら』の積年のねらい、朝日新聞を『廃刊』に追いこみ、戦争責任も『慰安婦』問題も強制連行もすべてなかったことにするための戦略なのだ。『慰安婦』問題を語るのに、君が代問題を語るのに、いちいち相当な覚悟をしなければ、公の場で語れない。昭和天皇が亡くなったときのような空気が、暗雲のようにこの国を覆いつづける。いつになれば、おもうことを存分に誰にでも話し、心おきなく議論することができるのだろう。その日をねがってやまない。」
私も、まずは崔さんの側に立って、崔さんの言葉に耳を傾けたいと思う。そうすると、指摘されて始めて気付くことが見えてくる。
(2015年3月8日)
曾野綾子という作家。普段は読んで不愉快にならぬよう避けて遠ざけている存在。しかし、今回は産経への彼女の寄稿が人種差別だとして批判が高まっている。無視してすますわけには行かないようだ。しかも、批判の先鞭をつけたのが南アの大使だというから、関心を持たざるを得ない。
曾野は、批判に反論している様子だが、その反論の仕方にも興味津々である。この代表的右派をもってしても、「差別して何が悪い」とは開き直れない。「私が人種差別主義者とは誤解だ」と弁明に努めざるを得ないのだ。
遅ればせながら、2月11日産経の話題のコラムを読んでみた。「曾野綾子の透明な歳月の光」と題する連載のコラムのようだ。この回の標題は「労働力不足と移民」。「『適度な距離』保ち受け入れを」という副題が付けられている。
一読して、「えっ? こりゃなんじゃ?」「これはひどい」という感想。およそ作家の文章としての香りも品格もエスプリもない。ただただ、内に秘めた差別意識を丸出しに表にしただけの代物。さすがに、産経の紙面に相応しいというべきか。
コラム前半の内容をこうまとめて、大きくは間違ってない。
「今、日本は若い世代の人口が減少し、若年労働力補充のために労働移民を受け入れざるをえない」「特に高齢者の介護のために、近隣国の若い女性たちに来てもらう必要がある」「その移民には、法的規制を守ってもらわなければならない」
この人の文章は、ひねりのない平板な内容なのに文意をつかみにくい。「移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らなければならない」という一文がある。うっかり、「日本人の雇い主に対して移民労働者の権利を守らせるよう制度を作れ」というのだと誤解してははならない。「条件を納得の上で出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである」と文章が続くのだ。「厳重に守るべき移民としての法的身分」とは、移民者の権利ではなく義務を指している。「法的身分を弁えてこれを守れ」と主張するのは、移民を受け入れる日本人の側なのだ。出稼ぎ労働者の虐待が問題になっているこの時代にナショナリストの面目躍如である。
さて、ここまでを前提として「外国人を理解するために、居住をともにするということは至難の業だ」と、話はいったんまとめられる。意味上は、これが結論。要するに、日本の老人の介護のために、近隣諸国の若い女性労働力を移民として受け入れざるを得ないが、「職は与えても、居住をともにして交流することはごめんだ」というのだ。これを差別という。
コラムの記事はこれで終わらない。唐突に、話題は南アに移る。「職は与えても、居住をともにして交流することはごめんだ」という結論の根拠を補充するためにである。
彼女は、ヨハネスブルグの一軒のマンションについて語る。アパルトヘイト政策の時代には白人だけが住んでいたマンションに黒人が住むようになった。彼らは買ったマンションにどんどん一族を呼び寄せた。マンションの水の使用量が増えて水栓から水が出なくなり、白人は逃げ出して住み続けているのは黒人だけになった、
これをもって、曾野は結論を繰り返す。
「爾来、私は言っている。『人間は事業も仕事も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がよい』」
曾野の、嘘か真か検証のしようもないこの話に頷いた人があれば恥じるがよい。あなたも立派な差別主義者なのだから。
曾野が語っているのは、移民受け入れに伴う制度についてである。「労働力としての移民は受け入れざるをえないが居住は分離する」という制度についてなのだ。その制度の合理性の例証に、アパルトヘイト後の南アの「実例」を語って、居住を分離する必要を説いているのだ。
曾野のこの文章を読んで、なお曾野を差別主義者と言わないのは差別を容認する共犯者と言わねばならない。
曾野の主張はアパルトヘイトそのものである。本来、アパルトヘイトとは、差別という意味ではなく、「分離」という意味に過ぎない。「それぞれが多様な伝統や文化、言語を持っている。それぞれのグループが独自に寄り集まって発展するべきだ」「アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」とされた。公民権運動が主敵とした「セパレート・バット・イコール」の思想と通底している。「けっして差別はしませんよ。あなた方にも同等の権利を与える。ただ、一緒には暮らさない。コミュニティは別にするだけ」という。この「分離」自体が「差別」なのだ。これでは永遠に宥和は訪れない。紛争と不安の火種が永続するだけ。
アパルトヘイトでは居住区を分離したうえで出稼ぎを認めた。曾野の発想とまったく同じである。曾野は明らかに出稼ぎ移民者の宗主国意識でものを語っている。近隣諸国が怒って当然。ダシににされた南アが怒って当然。日本人である私も、不愉快で腹が立つ。
(2015年3月6日)
省かれた手間
??無責任体制その1
誰も命令しなかったし
誰も強制しなかったが
赤紙は容赦なく配達されて
若者達は否応なく死地へと旅立った
従軍慰安婦になれと
誰も命令しなかったし
誰も強制しなかった??という
只 口車に乗せた奴はいる
集団自決せよとは
誰も命令しなかった??という
が 生きて虜囚の辱めを受けるなと
手榴弾を配った奴はいる
特攻隊に志願せよと強制した
上官は居なかった??という
只 忠君の〈大義〉に殉ぜよとの
説諭は全将兵を呪縛した
〈愛国〉という名の〈大義〉が
今 再び偽造されつつある
命令する手間を省き
強制する手間を省くために
ピラミッド
??無責任体制その3
責任には重さがある
不思議なことに
大きな責任ほど 軽く
小さな責任ほど 重い
大きかろうが小さかろうが
とにかく重さがあるからには
責任は下へ下へと滑り落ち
次第次第に重くなる
責任は最高責任者から
上位・中位・下位責任者へと
次々 次々と分割委譲され
最下位責任者へと辿り着く
最下位責任者から その先は
何と! 責任者とは縁無き衆生の
庶民の肩に食らい付くなり
(自己責任)と改名する!
かくて 最高責任者は
最高無責任者になり
以下の各位責任者もまた
以下同様ということになり
ありとあらゆる責任はすべて
庶民の自己責任ということになり
巨大な無責任体制のピラミッドが
庶民の暮しに華を添える
市場(いちば)と市場(しじょう)
市場(いちば)と市場(しじょう) それとこれとは
目で見れば 全く同じ漢字の造語だが
耳で聞くなら それとこれとの間には
天国と地獄ほどの違いがある
市場(いちば)??その響きのあたたかさ
そこには市井の人々の哀歓が交差する
だが市場??そこには困窮する人々や
国土でも食い荒らす化物がたむろする
市場(いちば)と市場(しじょう) 人間界と化物界
生産力の増大につれ生まれ 育ち
共存し 排斥しあう
この互いに似ても似つかぬ双生児!
防 衛
万里の長城は総延長八千八百キロを超える
それは中国全土を防衛できる筈だったが
蒙古軍の怒涛の進撃を阻むことは出来なかった
建設に駆りだされた膨大な数の人民の
塗炭の苦しみは遂に徒労に帰した
中国が世界に誇る万里の長城
世界文化遺産として登録されているのだが
それは正に大いなる愚行の記念碑として
永く保存されるべきである
その後も 規模の大小こそあれ
防衛線なるものは次々と出現した
独仏国境には マジノ線 ジークフリート線
また冷戦を象徴したベルリンの壁 等々
破られない防衛線なぞ遂になかった
すべては破られる為にのみあった
真の防衛とは 防衛しないこと
敵意と不信と邪悪な野望を捨てること
虚心に 対等に 互いに尊重し合うこと
内外にあまねく扉を開くことではなかろうか
**************************************************************************
以上の詩は、松村包一さんの「詩集 夜明け前の断絶?テロと国家と国民と?」からの抜粋である。詩集は158頁、54編の詩が掲載されている。
「英霊に捧ぐ」「テロの源流」「ガザの子どもたち」「言葉の綾」「日米同盟とオスプレイ」「愛国心」「安全と主権の行方」等々。題名から内容のおおよそは推測できるだろう。徹底して民衆に寄り添い、徹底して国の無責任を追求する内容。それが、詩になっている。
詩集に掲載の略歴によると、松村さんは、「1931年水戸市で出生。茨城中学(旧制)、水戸高校(旧制)、茨城大学文理学部を経て1957年東京大学文学部卒」とある。その後の職歴が「劇団東演に所属して演劇活動後、川崎市立中学校教諭」と非凡である。
この詩集は、松村さんご自身からいただいた。2013年11月、ささやかな同窓会の席上でのこと。以来、ときどき頁をめくって読んでいる。滅法面白いので、人に紹介したくなって、4編を抜き出してみた。
後書きに、こうある。
「…疑いの目で日本の国や諸外国をつらつら眺めてみると、殆どの〈国〉が〈国民の為に〉存在しているのではないような気がしてきます。このような疑いの目に映った諸々の情景を描いてみたのが、この一連の作品です。私の目が狂っているのか、私の目の前の世界が狂っているのか、この作品を読まれた方々の忌憚のないご意見を聞かせて頂ければ幸いです」
詩集の奥付を見ると発行がその年の1月29日となっている。安倍政権発足直後のこと。その後の日本の情景はもっと狂っている。松村さんには、安倍政権批判のあらたな詩集を期待したい。
なお、詩集は頒価1000円となっているものの、出版社からの刊行ではない。松村さん、あまり売る気はなさそうなのだ。
(2015年3月2日)