崔善愛さんだから見えてくること
「子どもと教科書全国ネット21」の機関誌(「全国ネット21NEWS」)が先月15日付で100号となった。会の活動が充実していること、その活発な活動が求められている事態であることがよくわかる。
記事は、教科書採択問題にかかわる情報や運動を中心としながらも、これにとどまらない。教科書の内容を歪める要因となっている関連問題について、要領よくまとまった読み応え十分な記事が掲載されている。前田朗さんの「ヘイト・スピーチと闘うためにー二者択一的思考を止めて、総合的対策を」がその筆頭だろうが、心揺さぶられるものがあって、崔善愛(ちぇそんえ・ピアニスト)さんの寄稿を紹介したい。標題は、「市民にとっての『テロ』と、政府にとっての『テロ』」というもの。
冒頭の一文が、次のような問いかけとなっている。
「安倍政権が『テロとたたかう覚悟』としきりにいうとき、常に『外国人』によるテロ行為から『邦人』を守ることを想定している。しかし国内で、市民団体の平和を求めるデモが、右翼の街宣車に取り囲まれ、『殺すぞ』と大音響でののしられていることや、朝日新聞がたびたび襲撃されてきたテロにたいして『だたかう覚悟』をみせたことがあるだろうか。」
この視点は、少数者として差別される側に立たされ、果敢に差別と闘ってきた崔さんならではのものではないだろうか。
「路上で市民と警官が口論していたら、まずは市民の側に立て」とは、今は亡きマルセ太郎の遺訓である。「市民」に対する「警官」とは強者の象徴。「警官」は、政権・行政・企業・使用者・多数派・組織の上級・情報と権限の独占者・権威・世の常識などと置き換えてもよい。「市民」とは、労働者であり、消費者であり、店子であり、貧窮者であり、公害被害者であり、情報弱者であり、組織の末端であり、マイノリティーとして差別されている者のことである。要するに「弱い立場にある者」と「強い立場にある者」との衝突があれば、それぞれの主張の正邪や当不当を吟味する前に、とりあえずは「弱い立場にある者」の側に立て、という教訓である。
言うには易いが、その実践がたいへんに困難なことを幾度も経験した。「強い立場にある者」にも、それなりの世間に通りやすい言い分があるからだ。「大所高所に立って」「全体の秩序の維持のために」とのまことしやかな理由で、弱い立場にある者が切り捨てられる。弱者の側にこそ身を置こうと、常に意識し続けることは実は至難というべきなのだが、そのような姿勢を持ち続ける者にだけ不当な差別が明瞭に見えてくるのだと思う。
崔さんは続ける。
「わたしも34年前、指紋押捺拒否が報道されるや、脅迫の手紙や電話が実家に多数届いた。いつか後ろから刺されるかもしれない、と思うようになった。わたしのデビューコンサートで父は最前列に座り、右翼の襲撃があるかもしれないから、と言った。楽観的な私は、『彼ら』は遠くの人たちだ、と思うことにした。けれど最近、『彼ら』は決して亡霊でもなく、右翼だけでもなく、同じ共同体で生活する普通の隣人だった、と実感する。政治家、学者、学校、自治会、公共放送にも‥・戦争責任や君が代を問題にしようとすれば呼吸できない空間がせまる。『茶色の朝』は、このことだったのか。そして『彼ら』とは、誰なのか、その人脈が明らかになることをねがってやまない。」
崔さんは、このような視点から、植村隆さん(北星学園大学)とその家族への卑劣な「テロ」に怒り、植村隆さん支援を決意する。
さらに、耳を傾けるべきは、崔さんの実践から語られる、市民の側からの朝日への対応の在り方だ。
「これからも次々おそろしい統制が進むだろう。新聞と市民がもっと近づき応答しあわなければ、道はないのではないか。」というのがその基本姿勢。
崔さんは、最後をこう締めくくっている。
「『朝日新聞には、失望した』『大手新聞はもうだめだ』という声を、市民運動のなかでもよく耳にする。けれどもここで朝日新聞やメディアに失望したまま離れ、見離せば、結果的に朝日バッシングに加担することにもなり、わたしたちの言論の場が失われる。それこそが、『彼ら』の積年のねらい、朝日新聞を『廃刊』に追いこみ、戦争責任も『慰安婦』問題も強制連行もすべてなかったことにするための戦略なのだ。『慰安婦』問題を語るのに、君が代問題を語るのに、いちいち相当な覚悟をしなければ、公の場で語れない。昭和天皇が亡くなったときのような空気が、暗雲のようにこの国を覆いつづける。いつになれば、おもうことを存分に誰にでも話し、心おきなく議論することができるのだろう。その日をねがってやまない。」
私も、まずは崔さんの側に立って、崔さんの言葉に耳を傾けたいと思う。そうすると、指摘されて始めて気付くことが見えてくる。
(2015年3月8日)