「罵り言葉(ののしりことば)」というものがある。憎むべき相手に、最大限の打撃を与えようとして投げつけられる言葉。「悪口」・「雑言」・「悪罵」と言い替えてもよいが、「罵り言葉」が陰湿な語感をもっともよく表しているのではないか。
罵り言葉には、相手を貶め、最も深く突き刺さる言葉が選ばれる。差別用語がその典型。また、相手の身体的なコンプレックスを衝く言葉も罵り言葉の定番。しかし、罵り言葉の使い方は難しい。その鋭利な切れ味は、相手だけでなく自らをも切り裂くことになるからだ。
身体の障がいや容貌、身体的特徴についての罵りは、言葉を発したその瞬間、相手に届く以前に、自らを大きく傷つける。銃なら暴発である。既にこの種の用語は使えない時代となっているのだ。国籍・人種・民族・信仰・出自・性差等についても同様のはずだが、その理解ない人もいてまだ根絶に至っていない。そのため、ときに物議を醸すことになる。
問題は、思想的政治的立場や発言を封じようとして投げつけられる罵り言葉である。適切に使うことは難しい。何よりも言語である以上は、その言葉が人を傷つける意味を持つことについての共通の理解がなければならない。それがなければ、発言者の悪意が相手に通じることはなく、なんの打撃を与えることもできない。
多くの場合、ある属性をもっていることの指摘が悪罵となる。しかし、指摘される内容が、恥ずべきことであり、非難に当たるかは自明ではない。しかも、このような罵り言葉には、鮮度がある。陳腐なものは切れ味が落ちる。さりとてあまりに斬新を狙うと意味不明となってしまう。
かつての日本社会では、弑逆・不敬・謀反・不忠・不孝は、最高の罵り言葉であった。しかし、今やすべて死語と言ってよかろう。惰弱・卑怯・未練なども同様ではないか。また、かつてのナショナリズムの高揚とともに、漢奸・売国奴・国賊・非国民などの語彙が生まれ、育ち、猛威を振るった。これが、今は死語になったと思っていたところ、ネットの世界でゾンビのごとく甦っている様子だ。ネットは文化の飛び地に過ぎないのか、リアル世界での排外主義復活の反映なのだろうか。「反日」という、罵り言葉としてはネット特有の未熟な用語の氾濫とともに不気味さは拭えない。
罵り言葉を適切に選んで、上手に罵ることは、意外に難しいのだ。罵る側の知性も品性もはかられることになるのだから。そんなことを考えていたときに、「事件」が起きた。「安倍晋三・トンデモ罵り事件」である。
事件は、昨日(2月19日)の衆議院予算委員会でのこと。民主党玉木雄一郎議員の質問の最中、あろうことか、安倍首相が唐突に「日教組!」などとヤジを飛ばし委員長からたしなめられる一幕となった。議員の質問は西川農水相が砂糖業界から受けた寄付金を巡ってのものだったという。
以下が、安倍首相らの発言内容。
安倍首相 「日教組!」
玉木議員 「総理、ヤジを飛ばさないでください」
玉木議員 「いま私、話してますから総理」
玉木議員 「ヤジを飛ばさないでください、総理」
玉木議員 「これマジメな話ですよ。政治に対する信頼をどう確保するかの話をしてるんですよ」
安倍首相 「日教組どうすんだ!日教組!」
大島委員長「いやいや、総理、総理……ちょっと静かに」
安倍首相 「日教組どうすんだ!」
大島委員長「いや、総理、ちょ…」
玉木議員 「日教組のことなんか私話してないじゃないですか!?」
大島委員長「あのー野次同士のやり取りしないで。総理もちょっと…」
玉木議員 「いやとにかく私が、申し上げたいのは…」
玉木議員 「もう総理、興奮しないでください」
.
この応酬に、「関係ないヤジじゃないか」などのヤジで一時議場騒然だったという。なお、玉木議員は、財務省の出で日教組出身者ではないそうだ。
安倍首相に限らず、右翼の連中は総じて日教組批判が持論。「あれもこれも、教育が悪いからだ」「日本の教育を悪くしたのは日教組だ」「だから、あれもこれもみんな日教組の責任だ」というみごとな三段論法が展開される。
持論としてのこのような信念は愚論あるいは暴論というだけのこと。ところが、安倍晋三という人物の頭の構造では、「日教組!」が罵り言葉として成立すると信じ込んでいるのだ。玉木議員にこの言葉を投げつけることが、何らかの打撃になるものと信じ込んでの発言なのだ。これは、彼がものごとを客観的に見ることができないことを示している。
「日教組どうすんだ!日教組!」という彼のヤジは軽くない。まさしく、罵る側である安倍晋三の知性も品性もさらけ出す発言なのだから。飲み屋で、どこかのオヤジが騒いでいるのではない。これが一国の首相の発言なのだ。
私たちの国の首相に対しての「罵り言葉」を探す必要はない。彼の言動を正確に再現するだけで足りるのだ。その言動の確認自体が、彼への最大限の打撃になるのだから。
(2015年2月20日)
本日(2月17日)付で、標記の東京弁護士会会長声明が発表された。「朝日新聞元記者の弁護団」とは、現在北星学園大学の講師の任にある植村隆氏が今年1月9日に提訴した、文藝春秋社や西岡力氏らを被告とする名誉毀損損害賠償請求訴訟の原告側弁護団のこと。その弁護団の実務を担っている事務局長弁護士の法律事務所に、いやがらせの悪質な業務妨害がおこなわれた。会長声明はこれを厳しく糾弾している。URLは以下のとおり。
http://www.toben.or.jp/message/seimei/
従軍慰安婦に関する記事を書いた朝日新聞元記者は現在週刊誌発刊会社等を被告として名誉毀損に基づく損害賠償等を請求する裁判を追行しているが、この裁判の原告弁護団事務局長が所属する法律事務所に、本年2月7日午前5時10分から午後0時27分までの間に延べ9件合計431枚の送信者不明のファクシミリが送りつけられ、過剰送信によりメモリーの容量が限界に達してファクシミリ受信が不能となる事件が起きた。ファクシミリの内容は、朝日新聞元記者に対する中傷、同記者の家族のプライバシーに触れるもの、慰安婦問題に対する揶揄などであった。
この朝日新聞元記者に関しては、2014年5月以降その勤務する北星学園大学に対し、学生に危害を加える旨を脅迫して元記者の解雇を迫る事件が起きており、当会ではこのような人権侵害行為を許さない旨の会長声明(2014年10月23日付け)を発出したところである。しかし、その後の本年2月にも再び北星学園大学への脅迫事件は起きている。
言うまでもなく、表現の自由は、民主主義の根幹をなすがゆえに憲法上最も重要な基本的人権のひとつとされており、最大限に保障されなければならない。仮に報道内容に問題があったとしても、その是正は健全かつ適正な言論によるべきであり、犯罪的な手段によってはならない。
今回の大量のファクシミリ送信は、いまもなお朝日新聞元記者に対する不当な人権侵害とマスメディアの表現の自由に対する不当な攻撃が続いていることを意味するだけではなく、元記者の権利擁護に尽力する弁護士をも標的として、司法への攻撃をしていることにおいて、きわめて悪質、卑劣であり、断じて看過できない。
当会は、民主主義の根幹を揺るがせる表現の自由に対する攻撃を直ちに中止させるため、関係機関に一刻も早く厳正な法的措置を求めるとともに、引き続き弁護士業務妨害の根絶のために取り組む決意である。
2015年02月17日
東京弁護士会 会長 ?中 正彦
植村氏の提訴は、脅迫や名誉毀損・侮辱、業務妨害や解雇要求の強要など、言論の域を遙かに超えた明白な犯罪行為の被害に耐えきれなくなっておこなわれた。朝日新聞社へのバッシングは、「顕名の言論」と「悪質卑劣な匿名の犯罪」とが、役割を分担し相互に補完して勢力を形づくっている。表部隊と裏部隊とが一体となることによって、「言論」が「実力」を獲得して強力な社会的影響力を発揮している。
顕名の言論に扇動された匿名の犯罪者たち。あるいは犯罪すれすれの名誉毀損や侮辱の言論を繰り返す、匿名に隠れた卑劣漢たち。その「実力」行為抑止の最有効手段として顕名者を被告とする民事訴訟が決意されたのだ。その訴訟に対する匿名者の悪質な業務妨害行為は、顕名部隊と匿名部隊の一体性を自ら証明するものと見るべきであろう。
著しい非対称性が明白となっている。植村氏の言論(20年前の記者としての記事)に、すさまじい実力によるイヤガラセがおこなわれた。これを抑止しようとする植村氏の提訴の弁護団にまで卑劣な妨害行為がおこなわれる。これがリベラルな言論に対する右翼勢力(排外主義派)からの実力妨害の実態である。
一方、右翼言論に対するリベラル派からのこのようなイヤガラセも実力行使もあり得ない。右翼勢力が原告を募集して「対朝日新聞・慰安婦報道集団訴訟」を起こしているが、この原告側弁護団への業務妨害行為などはまったく考えられない。リベラル派は、本能的に匿名発言を恥じ、卑劣行為を軽蔑する。右翼勢力は、これに付け入るのだ。
植村氏の提訴に対して、「言論人であれば、言論には言論で反論すべきではないか。提訴という手段に至ったことは遺憾」という、したり顔の批判があったやに聞く。現実をありのままに見ようとしない妄言というべきだろう。せめてもの対抗手段として有効なものは提訴以外にはないではないか。
そもそも「言論対言論」の応酬によって問題の決着がつけられるという環境の設定がない。武器対等者間での言論の応酬などという教科書的な言論空間が整えられているわけではない。排外主義鼓吹勢力が、虎視眈々と生け贄を探しているのが、実態なのだ。思想の自由市場における各言論への冷静な審判者が不在のままでの、「言論には言論で」とのタテマエ論の底意は透けて見えている。卑劣な実力を背景にした強者の論理ではないか。
このような事態に、理性に裏打ちされた弁護士会の機敏な声明はまことに心強い。弁護士会は、いつまでも、かく健全であって欲しいと願う。
(2015年2月17日)
弁護団の澤藤です。お集まりの皆さまに、弁護団を代表して冒頭のご挨拶を申しあげます。
石原慎太郎第2期都政下で、「10・23通達」が発出されたのが2003年。希望の春が憂鬱な春に変わった最初の卒業式が2004年春でした。それから年を重ねて今年は12回目の重苦しい春を迎えることになります。この間、闘い続けて来られた皆さまに心からの敬意を表明いたします。
この間、法廷の闘いでは予防訴訟があり、再発防止研修執行停止申立があり、人事委員会審理を経て4次にわたる取消訴訟があり、再雇用拒否を違法とする一連の訴訟がありました。難波判決や大橋判決があり、いくつかの最高裁判決が積み重ねられて、今日に至っています。
法廷闘争は一定の成果をあげてきました。都教委が設計した累積過重の思想転向強要システムは不発に終わり、原則として戒告を超える懲戒処分はできなくなっています。しかし、法廷闘争の成果は一定のもの以上ではありません。起立・斉唱・伴奏命令自体が違憲であるとの私たちの主張は判決に結実してはいません。戒告に限れば、懲戒処分は判決で認められてしまっています。
また、何度かの都知事選で、知事を変え都政を変えることが教育行政も変えることになるという意気込みで選挙戦に取り組みましたが、この試みも高いハードルを実感するばかりで実現にはいたっていません。
しかし、闘いは終わりません。都教委の違憲違法、教育への不当な支配が続く限り、現場での闘いは続き、現場での闘いが続く限り法廷闘争も終わることはありません。今、判決はやや膠着した状況にありますが、弁護団はこれを打破するための飽くなき試みを続けているところです。
法廷で目ざすところは、これまでの最高裁の思想良心の自由保障に関する判断枠組みを転換して、憲法学界が積み上げてきた厳格な違憲審査基準を適用して、明確な違憲判断を勝ち取ることです。まだ、1件も大法廷判決はないのですから、事件を大法廷で審査して、あらたな判例を作ることはけっして不可能ではありません。
また、憲法19条違反だけでなく、子どもの教育を受ける権利を規定した26条や教員の教授の自由を掲げた23条を根拠にした違憲・違法の判決も目ざしています。国民に対する国旗国歌への敬意表明強制はそもそも立憲主義に違反しているという主張についても裁判所の理解を得たい、そう考えています。
現在の最高裁判決の水準は、意に沿わない外的行為の強制が内心の思想・良心を傷つけることを認め、起立斉唱の強制は思想良心の間接的な制約にはなることを認めています。最高裁は、「間接的な制約に過ぎないのだから、厳格な違憲判断の必要はない」というのですが、「間接的にもせよ思想良心の制約に当たるのだから、軽々に合憲と認めてはならない」と言ってもよいのです。卒業式や入学式に「日の丸・君が代」を持ち出す合理性や必要性の不存在をもう一度丁寧に証明したいと思います。
また、違憲とは言わないまでも、大橋判決のように、「真摯な動機からの不起立・不斉唱・不伴奏に対する懲戒処分は、戒告といえども懲戒権の逸脱・濫用に当たり違法」とする手法も考えられます。弁護団は、裁判所に憲法の理念にしたがった判決を出すよう、説得を続けたいと覚悟を決めています。
ところで、この10年余の闘いを続けて思うことは多々あります。最も、印象に強くあることは、闘うことの積極的な意義です。私たちは、先人が作ってくれた近代憲法のシステムの中で権利を享受しているだけではなく、具体的な権利の拡大の運動をしているのです。
歴史的に、思想・良心の自由も、信仰の自由も、表現の自由も、始めからあったわけではありません。文字どおり、血のにじむ闘いがあって、勝ち取られた歴史があるのです。私たちは、今まさしくそのような歴史に参加しているのです。また、憲法に書かれている条文が、現実の社会生活での具体的な権利として生きるためには、それぞれの現場での闘いが必要なのです。
私たちは、国家と対決し、国家に絡め取られることのない思想・良心の自由を勝ち取るべく闘っています。これは国民主権原理を支える重大な闘いだと思います。それだけではなく、次の世代の主権者を育てるに相応しい教育を守り、作り上げる闘いもしているのだと思います。教育を、国家の僕にしてはなりません。国旗と国歌を中心に据えた卒業式とは、生徒一人ひとりではなく国家こそが教育の主人公であることを象徴するものと言わざるを得ません。
闘うことを恐れ、安穏を求めて、長いものに巻かれるままに声をひそめれば、権力が思うような教育を許してしまうことになってしまいます。苦しくとも、不当と闘うことが、誠実に生きようとする者の努めであり、教育に関わる立場にある人の矜持でもあろうと思います。
私たち弁護団も、法律家として同様の気持で、皆さまと意義のある闘いをご一緒いたします。今年の卒業式・入学式にも、できるだけの法的なご支援をする弁護団の意思を表明してご挨拶といたします。
(2015年2月14日)
昨年の2月11日、当ブログは「去年までとは違う『建国記念の日』」と題して、歴代首相として初めて、安倍晋三がこの日にちなんだメッセージを発表したことを取り上げた。是非ご一読いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=2086
今年は、右翼メディアの代表格としての産経の本日付社説を解説してみたい。「建国記念の日 『よりよき国に』の覚悟を」と標題するもの。もちろん、産経のいう「よりよき国」には独特な意味合いが込められている。安倍政権が曖昧にしか言えないことをズバリと言っている点において、産経とは貴重な存在なのだ。
「わが子の誕生を喜ばない親はまず、いまい。その後の子供の成長を願わない親もいないはずで、「這えば立て、立てば歩めの親心」とはまことにもって至言である。国家についてもまったく同じことが言えるのではなかろうか。」
冒頭の一節。こういう比喩の使い方が、騙しのテクニックの基本であり典型でもある。まったく異質の「わが子」と「国家」を、等質のものと思わせようという魂胆。うっかり、この手の論法に乗せられると、国家の誕生を祝わない国民は、子を虐待する非道の親のごとくに貶められてしまう。「非国民」概念をつくり出そうという発想なのだ。
「日本書紀によれば日本国の誕生(建国)は紀元前660年で、その年、初代神武天皇が橿原の地(奈良県)で即位した。明治6年、政府はその日を現行暦にあてはめた「2月11日」を紀元節と定め、日本建国の日として祝うことにしたのである。」
騙しのテクニックはさらに続く。日本書紀に書かれている紀元前660年に誕生した日本国と明治政府と日本国憲法下の日本国とを、何の論証もなく「連綿と同一性を保った国家」と言いたいのだ。ことさらに2月11日を選んで祝おうという狙いは、「連綿と続いた国家」を強調することにある。
当然のことながら紀元前660年の頃の日本は縄文晩期と弥生とが重なる時代、いまだ統一国家の萌芽もない。8世紀に編まれた日本書紀に、1400年も前の神武即位の年月日が特定されているわけでもない。どこの国ももっている建国神話を日本書紀が書き留め、明治政府が荒唐無稽な解釈によって、紀元前660年2月11日と擬制しただけの話。元祖歴史修正主義の所業というべきであろう。わが子の誕生日ははっきりしているが、日本国の誕生日など、歴史の見方次第でどうにでもなること。どうにでもなることだが、紀元前660年ではあり得ない。
「西欧列強による植民地化の脅威が迫るなか、わが国は近代国家の建設に乗り出したばかりで、紀元節の制定は、建国の歴史を今一度学ぶことで国民に一致団結を呼びかける意義があった。」
「意義があった」は偏頗なイデオロギーによる決め付け。冷静には、「紀元節の制定こそは、嘘で塗りかためた建国神話を徹底利用して、薩長閥が作り上げた政権の神聖性を臣民に刷り込むための小道具」「天皇制の始まりとされる日を拵え、その日の祝意を強制することによって国民に国家との一体感をつくり出すための演出」というべきなのだ。
「先の敗戦で紀元節は廃止されたものの昭和41年、2月11日は「建国記念の日」に制定され、祝日として復活した。「建国をしのび、国を愛する心を養う」と趣旨にうたわれているように、国家誕生の歴史に思いをはせる大切さは、今ももちろん変わっていない。」
「祝日としての復活」は、国民を二分するイデオロギー対立の暫定決着としてのことである。明治百年論争、元号法制化、国旗国歌法制定そして憲法改正論議なども同じ問題。一方に復古主義的な、「天皇中心の国体護持論+国家主義+軍国主義+歴史美化派」のイデオロギー陣営があり、他方に「国民主権論+個人の人権尊重+平和主義+歴史修正反対派」の陣営がある。両陣営の長いせめぎ合いの末に、両陣営とも不満足ながらの「名前を変えた祝日としての復活」に至った。そして、このせめぎ合いは今も続いている。国家主義への警戒の大切さは、今ももちろん変わっていない。
「ただ忘れてはならないのは、親心と同様に、誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたことである。現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない。」
これも、欺瞞のテクニック。「誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたこと」などという抽象的な文章は、情に訴えようとするだけで実は何も語っていない。次に控えている危険な毒物を飲み込みやすいようにする準備の一文なのだ。
「日本を少しでもよい国にしようと、血のにじむ努力を重ねてきた先人」とは、何を指しているのだろうか。悲惨な戦争を画策し指導したA級戦犯たちを含んでいるのだろうか。政・商結託して大儲けをした明治の元勲たちはどうだろう。あるいは天皇制の野蛮な弾圧を担った特高警察や憲兵や思想検事たちも「少しでもよい国にしようと努力を重ねた先人」なのだろうか。一方、野蛮な天皇制の暴力に抗して平和や民主主義を目指した不屈の闘いを試みた人々はどうなのだろうか。
「現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない」は、空疎空論の見本である。めざすべき「さらによい国」とは、声高に「国」の存在や権威を振りかざす者のいない国ではないか。
「慶応義塾の塾長を務めた小泉信三は昭和33年、防衛大学校の卒業式で祝辞を述べた。その中で小泉は、先人の残したものをよりよきものとして子孫に伝える義務を説いたうえで、こう続けた。「子孫にのこすといっても、日本の独立そのものが安全でなければ、他のすべては空しきものとなる。然らば、その独立を衛るものは誰れか。日本人自身がこれを衛らないで誰れが衛ることが出来よう」(小泉信三全集から)
ようやくここで本音が出て来る。「先人らの血のにじむ努力」とは国防の努力、「さらによい国」とはさらに軍備を増強した国のことなのだ。要するに、防衛力を増強したいのだ。もう一度富国強兵を国家的スローガンに掲げたいということなのだ。そのために「国の誕生」から説き起こし、「国の誕生日への祝意」を大切なものとし、「先人の努力」と「国をよくする」とまで論理をもってきたのだ。
「57年前の言葉がそのまま、目下の国防への警鐘となっていることに驚かされる。中国の領海侵入などで日本の主権が脅かされているばかりか、国際的なテロ組織によって国民の命が危険にさらされてもいる。だが、わが国の現状は、自らの国防力を高めるための法整備も十分ではなく、その隙をつかれて攻撃される恐れもある。」
まったくの驚きだ。57年前も今日と同じ言葉で国防への警鐘がなされていたのだ。いつの時代にも同じ言葉が繰りかえし語られるということなのだ。いつもいつも、仮想敵と敵による危機が叫ばれてきた。ソ連の脅威であり、李承晩の脅威であり、赤い中国の脅威であり、北朝鮮の脅威であり、今またイスラムの脅威であり、テロの脅威である。日本を取り巻く国際環境の厳しさは、際限なく無限に進行しているのだ。
「紀元節制定時に倣って今こそ、国を挙げ「日本人自身が日本を衛る」覚悟を決めなければならない。」
これが産経社説の締めくくり。社説子の頭の中は、今日は「建国記念の日」ではなく、完全に「紀元節」である。そして、かつての紀元節が、天皇中心の国家主義的イデオロギー鼓吹の小道具であったように、「建国記念の日」を国家主義、軍国主義思想浸透のきっかけにしようというのだ。「2月11日は富国強兵思想の記念日」というわけだ。
本日の産経社説。何のことはない。「わが子はかわいい」「かわいいわが子の誕生日を祝おう」「同様にかわいい国の誕生日も祝おう」「かわいい国には武装をさせて守ろうではないか」。だから「国民よ、国防国家となるべく覚悟を決めよ」と言っているだけのこと。
個人よりも国家が大切で、国防が何よりも重要で、歴史の真実よりは国家への誇りが大切だとするイデオロギーが、メディアの一角でこうまで露骨に語られる時代を恐ろしいと思う。しかし、萎縮してはおられない。憲法や人権・平和の理念を護る覚悟が要求されているのだ。
昨年のブログの最終節はこうだった。
「建国記念の日」とは、国家主義との対峙に決意を新たにすべき日。そうしなければならないと思う。
ほとんど同じだが、産経社説の標題に倣って、今年は次のように締めておこう。
「建国記念の日 『国家主義との対決』の覚悟を」
(2015年2月11日)
昨日(1月31日)、元ドイツ連邦大統領のリヒャルト・フォン・ワイツゼッカーが亡くなった。われわれには、ドイツの大統領という存在がなかなか理解しにくい。任期5年の国家元首として、党派性の薄い立場だという。血筋ではなく、国民を代表するにふさわしい良識と知性を体現することをもって国家と国民統合の象徴としての機能を期待されているのだ。要するに、尊敬される言動が任務の内容ということではないか。これはたいへんなことだ。ワイツゼッカーといい、ガウクといい、それに相応しい人物と国民の信頼は厚いという。安倍だの麻生だのの類とは大違い。これは、残念ではあるが、ドイツ国民と日本国民の良識と知性の差でもあることを認めざるを得ない。
ワイツゼッカーが「荒れ野の40年」と題して連邦議会で演説をしたのは、ドイツ敗戦から40周年となる1985年5月8日。その10年後の8月に日本で戦後50周年の村山談話の発表となり、60周年では小泉談話が続いた。そして今年8月、余計なことに安倍談話が出るという。
安倍談話は、村山談話と対比されるだけでなく、ワイツゼッカーとも比較されることになる。良識と知性の格差は覆うべくもない。国恥となりかねないのだから、やめた方が賢明ではないか。
ワイツゼッカーの名演説は、大きな波紋を巻き起こした。「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目となる」という一節が現代の名文句として有名となった。歴史を直視し、自らが犯した罪と真摯に向き合うことで、はじめて近隣諸国との真の「和解」が可能となるという文脈。これは、同じ全体主義国家として敗戦した日本にとっての優れたお手本以外のなにものでもない。
この名演説、意外に長文である。それに、決定訳を知らない。本日の毎日新聞に、要旨が掲載されているが、これすら相当に長い。文章としてもおさまりがよくない。思いきって、我流にスクリプトして、心にとどめ置きたい。
そして、「ドイツ国民」を「日本国民」に、「ユダヤ人」を、「中国人や朝鮮人」に読み替えて、正確に歴史を記憶するところから、間違った歴史を真に終わらせる方法を考えたいものと思う。
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私たちは、この日(敗戦記念日)に向き合う必要がある。この日はドイツにとってお祝いの日ではない。多くのドイツ人は祖国のため戦うのをよしとした。だがそれは犯罪的な政権の非人間的な目的に寄与するものだった。この日はドイツの間違った歴史の終わりの日だ。
この日は記憶の日でもある。記憶とはそれが自分の内部の一部となるように正直に、純粋に思い出すことだ。私たちは独裁政権によって殺されたすべての人、特に強制収容所で殺された600万人のユダヤ人を記憶する。命を失ったドイツ国民や兵士、祖国を追われたドイツ人を記憶する。ロマ民族や同性愛者、宗教・政治上の理由で殺された人を記憶する。死者の苦しみや、傷つき、強制的に断種され、逃走し、空襲の夜を過ごした苦しみを記憶する。
どの国も戦争や暴力に罪深い間違いを犯した歴史から自由になれない。罪は少数の者に主導されたが、ドイツ人一人一人はユダヤ人の苦難に共感できたはずだ。良心を曲げ、現実を見ず、沈黙していた。
先人は重い遺産を残した。私たち全員が過去に対する責任を負わされている。それは過去を乗り越えることではないし、過去は変えられない。過去に目を閉ざす者は、現在も見えなくなる。非人間的な行いを記憶しない者は、また(非人間的な考えに)汚染される恐れがある。和解は記憶なしにはあり得ないことを理解すべきだ。
若者は当時のことに責任はない。だが歴史から生み出されるものに責任はある。若者に呼びかける。憎しみや敵意に陥らず、共生することを学び、自由を尊び、平和のために努力しよう。
(2015年2月1日)
私は、「東京君が代訴訟」弁護団の弁護士として、文科省でこの問題を担当しておられる11人の皆様に一言申しあげたい。
先ほどから、国旗の掲揚や国歌の斉唱の指導は、「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」という、あなた方の説明の文言をめぐっての応酬が膠着状態に陥っている。教育現場にいる人たちから見れば、「実際のところ内心にまで立ち入って強制しているではないか」「言っていることとやっていることがまったく違う」と言いたいのだ。私もそのとおりだと思う。
これから私が申しあげることは少し違う角度からのものだ。あなた方は、「国旗の掲揚や国歌の斉唱の指導は、児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではなく、あくまで教育指導上の課題だ」という。しかし、それはあなた方の独善的な立場においての主観的な言い分に過ぎない。問題は、あなた方がどのような意図や趣旨で指導をおこなっているかではない。国旗や国歌を強制される児童・生徒およびその保護者の側がどのようにとらえるかなのだ。精神的自由にかかわる人権侵害という微妙な問題の有無を考えるにあたって、学校や教委、国は加害者としての当事者だ。生徒が、被害者としてもう一方の当事者となっている。加害者側の意図や趣旨がどうであるかは、実はさしたる問題ではない。あくまで思想・良心・信仰を傷つけられたとする被害者の側に立って問題を考えなければならない。これは、いじめの問題と同じ構造だ。いじめの有無は何よりもまず、いじめられたとする被害者の声に真摯に耳を傾けなければならない。今、あなた方はいじめの加害者側なのだ。自分の意図や趣旨だけを語って済む問題ではない。
よく知られているとおり、神戸高専剣道授業拒否事件においては、最高裁はこのことを明らかにした。確かに、剣道の授業を受けさせようという学校側に、一般論として生徒の思想・良心・信仰を抑圧する意図や趣旨があったとは考えられるところではない。しかし、ある信仰を持つ生徒の側に立てば、問題はまったく違って見える。信仰に反する行為の強制として到底受け入れがたいのだ。学校側の意図や趣旨がどのようなものであろうとも、強制される生徒側の思想・良心・信仰が傷つけられることは珍しくなくあるのだ。
この事件で最高裁は、剣道の授業を強制した学校の行為を、生徒の信仰と相容れない行為を強制したものとして違法だと認めた。「日の丸・君が代」の強制もまったく同じ構造で問題を考えることができる。しかも、最高裁は、「日の丸・君が代」の強制が間接的にもせよ強制される者の思想・良心を侵害するものであることまでは認めたのだ。もっとも、最高裁は司法消極主義の立場から、違憲の判断にまでは踏み込まなかった。懲戒が実害のない戒告を超えて減給以上の現実的な不利益を伴う処分となれば過酷に失するとして違法、取り消すというにとどまっている。これは、ひとえに行政権に対する司法の遠慮でしかない。
文科省が、「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」と言っても、児童生徒の側から見れば、内心にまで立ち入っての強制として、思想・良心・信仰を侵害されることは大いにあり得ることなのだ。被害者がいじめを訴え、加害者が「これはいじめではない。愛のムチによる指導だ」と開き直っているのと変りがない。あなた方の説明は、児童・生徒の立場に立ってものを見る姿勢が見られない。おそよ配慮に欠けているとの批判を免れない。
あなた方が、本当に「内心にまで立ち入って強制しようとする趣旨のものではない」というのなら、そしてそのことを信用して欲しいというのなら、児童生徒やその保護者に対して、「日の丸・君が代」に対する起立・斉唱はけっして強制ではないことを周知徹底すべきではないか。これが最低限必要な配慮だ。
憲法における至高の価値は、一人ひとりの個人の尊厳なのだということを児童生徒にも保護者にも周知しなければならない。個人が不本意にも国旗国歌への敬意表明を強制される事態があってはならないと国も真剣に考えていることを明らかにしなければならない。個人の尊厳の方が、国旗国歌が象徴する国よりも、あるいは社会よりも大切なのだということを教え、実践しなければならない。私たちの社会は、一人ひとりの思想・良心・信仰の自由を保障している。しかも、国家による強制からの自由を保障しているのだ。だから、けっして国家への忠誠や敬意表明が強制されてはならない。国家を象徴する国旗や国歌への敬意表明が強制されることはあり得ない、と徹底して教えなくてはならない。国旗国歌を儀式に持ち込むとしても、「強制をしようとする趣旨でない」というからには、誤解を招かぬよう、そこまで周知徹底しなければ論理は貫徹しない。
自由主義社会とは、全体主義や国家主義、軍国主義とは違うのだ。戦前の天皇制日本やナチスドイツなどのように、国旗国歌に対する敬礼によって国家への忠誠や団結を誓うような国にしてはならない。
是非とも、個人の尊厳や自由の尊さを教育の根幹に据えていただきたい。そのためにはまず、国旗国歌強制は国の立場ではないことを明確にすることだ。一部の自治体が行っている強制は、本来あってはならない違憲違法なことと明らかにしていただきたい。
本日(1月29日)午後参議院議員会館で行われた、「『日の丸・君が代』強制に反対し、国連勧告実現を求める院内集会」での、文科省の出席者11人に対しての私の発言。もっとも、私の発言予定はなく、とっさのことだったので、こんなに整理された内容ではなかったが、趣旨は変わらない。
(2015年1月29日)
本日の朝刊に掲載された小さな記事。朝には見落として、夕方に気が付いた。世間の耳目を引かないようだが、私にはいささかの関心がある。
「慰安婦報道:『朝日新聞は名誉毀損』8749人が賠償提訴」というベタの見出し。
「朝日新聞の従軍慰安婦報道によって『日本国民の名誉と信用が毀損された』などとして、渡部昇一・上智大名誉教授ら8749人が26日、同社を相手取り、1人1万円の賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した。訴状によると、原告側が問題視しているのは、朝日新聞が1982〜94年に掲載した『戦時中に韓国で慰安婦狩りをした』とする吉田清治氏(故人)の証言を取り上げた記事など13本。『裏付け取材をしない虚構の報道。読者におわびするばかりで、国民の名誉、信用を回復するために国際社会に向けて努力をしようとしない』などと訴えている。
朝日新聞社広報部の話 訴状をよく読んで対応を検討する。」(毎日)
世の中は狭いようで広い。こんな訴訟の原告団に加わる「名誉教授」や、こんな提訴を引き受ける弁護士もいるのだ。この奇訴にいささかの興味を感じて、訴状の内容を読みたいものとネットを検索したが、アップされていない。靖国関連の集団訴訟などとの大きな違いだ。
それでも、「『日本国民の名誉と信用が毀損された』として、朝日を相手取り、賠償と謝罪広告掲載を求めて東京地裁に提訴した」というメディアの要約が信じがたくて、当事者の言い分で確かめたいと関連サイトを検索してみた。
「頑張れ日本!全国行動委員会」という運動体が提訴の委任状を集めており、姉妹組織「朝日新聞を糺す国民会議」が訴訟の運動主体のようでもある。これらを手がかりに検索を重ねても訴状を見ることができないだけでなく、請求原因の要旨すら詳らかにされていない。法的な構成の如何にはまったく関心なく、原告の数だけが問題とされている様子なのだ。勝訴判決を得ようという本気さはまったく感じられない。
ようやく3人で結成されている弁護団のインタビュー動画にたどり着いた。3人の弁護士が語ってはいるが、その大半は「訴訟委任状の住所氏名は読めるようにきちんと書いてください」「郵便番号をお忘れなく」「収入印紙は不要です」「委任の日付は空欄にしてもかまいません」などと細かいことには熱心だが、請求原因の構成については語るところがない。「朝日がいかに国益を損なったか」という政治論だけを口にしている。ここにも、真面目な提訴という雰囲気はない。
永山英樹という右派のライターが、次のように提訴記者会見での原告団の言い分をまとめている。おそらくは、訴状を読んでのことと思われる。
「日本の官憲による慰安婦の強制連行という朝日の宣伝により、旧軍将兵、そして国民は集団強姦犯人、あるいはその子孫という汚名を着せられ、人格権、名誉権が著しく損なわれた。日本の国家、国民の国際的評価は著しく低下して世界から言われなき非難を浴び続けている。たしかに虚報を巡って朝日は「読者」に対し反省と謝罪の意は表明した。しかし捏造情報で迷惑を被ったのは「読者」だけではないのである。国際社会における国家、国民の名誉回復の努力も一切していない。そこで朝日新聞全国版で謝罪に一面広告を掲載することと、原告に対する一万円の慰謝料の支払いを求めるのがこの訴訟なのだ」
どうやらこれがすべてのようだ。これでは、そもそも裁判の体をなしていないといわざるを得ない。
この提訴は、訴権濫用により訴えそのものが却下される可能性が極めて高い。訴訟の土俵に上げてはもらえないということだ。訴え提起が民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き信義則に反する場合には、訴権濫用として、訴えを却下する判決は散見される。このような信義則に反する場合としては、?訴え提起において、提訴者が実体的権利の実現ないし紛争の解決を真摯に目的とするのでなく、相手方当事者を被告の立場に立たせることにより訴訟上または訴訟外において有形・無形の不利益・負担を与えるなどの不当な目的を有すること、および?提訴者の主張する権利または法律関係が、事実的・法律的根拠を欠き権利保護の必要性が乏しい、ことが挙げられている。
今回の集団による対朝日提訴は、まさしくこの要件に該当するであろう。
さらに、提訴が訴権の濫用に当たることは、却下の要件となるだけでなく、提訴自体が朝日に対する不法行為を構成する可能性もある。そのときは原告すべてに不法行為による損害賠償責任が生じることになる。通常8749人に損害賠償の提訴をすることは事務の繁雑さと郵送料の負担とで現実性がないが、本件では反訴なのだから好都合だ。反訴状は正副各1通だけで済むし、送達費用はかからない。当事者目録は原告側が作ったものをそのまま利用すればよい。朝日にとってはお誂え向きなのだ。
朝日を被告としたこの訴訟は不法行為構成であろうが、何よりも各原告に、「権利または法律上保護される利益の侵害」がなくてはならない。「国益の侵害」や「日本国民の名誉と信用が毀損された」では、そもそも訴えの利益を欠くことになって、私的な権利救済制度としての民事訴訟に馴染まないことになる。この点で訴訟要件論をクリヤーできたとしても、法律上保護される利益の侵害がないとして棄却されることは目に見えているといってよい。
さらに誰もが疑問に思うはずの、時効(3年)と除斥期間(20年)について、原告側はどのようにクリヤーしようとしているのか、とりわけ除斥期間は被告の援用の必要はない。訴状に何らかの記載が必要だし、原告を募集するについて重要な説明事項でもある。しかし、この点についてはなんの説明もないようだ。
この訴訟は新手のスラップだ。勝訴判決によって権利救済を考えているのではない。ひたすらに朝日に悪罵を投げつける舞台つくりのためだけの提訴ではないか。本来の民事訴訟制度は、こんな提訴を想定していない。
朝日は、早期結審を目指すだけでなく、提訴自体を不法行為とする反訴をもって対抗すべきではないか。負けて元々の提訴で、相手を困らせてやれ、という訴訟戦術の横行を許してはならないと思う。
(2015年1月27日)
いかなるもの、いかなることについても、好悪や意味づけは人それぞれに自由である。貴重なものとして価値を認めるか否か、神聖なものとして尊ぶか否か、敬意を表すべきものとして畏れいるか否か、その判断や選択は完全に個人の自由の問題であって、これを何人からも強制される筋合いはない。スカル・アンド・クロスボーンズの海賊旗が好きでも嫌いでもよい。ワグナーがお気に入りでもよし、あれだけは勘弁してくれと言ってもよい。まったく同様に、日の丸のデザインも、君が代の歌詞やメロディも、大好きであってもかまわないし、虫酸が走るくらいに大嫌いであってもけっこうなのだ。
ところが、自分の好悪や価値観を他人に押しつけようというお節介な圧力が、やっかいな問題を引き起こす。「日の丸・君が代は、すべての日本国民が敬愛すべきもの」とするお節介族こそが問題の元凶なのだ。
このお節介族は、二種類に分かれる。確信犯派と付和雷同派とである。
この社会において、国家的秩序の構築に利益を見だしている体制派にとっては、「日の丸・君が代」は国民統合の機能をもつ重要なシンボルである。天皇や元号とセットになって、国家や国民の一体感を形成し、アイデンティティー形成のための重要な小道具としての役割が期待されている。その考えからは、すべての国民に「日の丸・君が代」を尊重すべきものと刷り込んでおかなくてはならないことになる。自民党改憲草案などには、その方向が色濃く出ている。
もう一つは、付和雷同派である。この人たちにさしたる「考え」があるわけではない。しかし、「感性」のレベルでのナショナリズムを前提とした国旗国歌への愛着があり、マナーとしての「日の丸・君が代」尊重姿勢をもっている。この人たちには、「良識ある国民は『国旗国歌=日の丸・君が代』に敬意を表すべきだ」という観念が刷り込まれている。これがやっかいなのだ。
確信犯派は一握りに過ぎない。それが、付和雷同派をリードしている。その結果、この世の多数派には、「日の丸・君が代」は日本という国のシンボルとして敬意を表されてしかるべきだ、という抜きがたい先入観念がある。マインドコントロール後遺症である。これが社会的同調圧力を形成している。
この多数派の社会的同調圧力が基礎にあって、これに乗っかるかたちで国旗国歌法というものが成立した。1999年小渕内閣が野中官房長官主導で国旗国歌法案を国会提案したとき、私は共産党が組織を上げて徹底抗戦するかと思ったが、それはなかった。社共が反対し、民主党が完全に半々に割れて半分は反対したが、粛々と審議は進行し法案は成立した。「一般国民に国旗国歌が強制されることはない」と、審議の過程では首相も文相も繰り返したが、教育現場に「日の丸・君が代」が浸透してくるだろうとは誰もが予想し、予想は当たった。
かくして、社会的同調圧力は法律上の根拠を得て、行政通達や職務命令と懲戒処分を通じて教員への権力的強制の手段を獲得した。公教育を通じて、全国民への「日の丸・君が代敬愛刷り込み」の道が拓かれたことになる。国民の自由の幅が切り縮められたのだ。
その先頭に立ったのが、右翼石原慎太郎都政下の東京都教委であった。10・23通達と附属の「卒業式等の実施指針」を出した。これにもとづく起立・斉唱・ピアノ伴奏の職務命令と、その違反を根拠とする懲戒処分の濫発とで、公立校の教員に対する「国旗国歌への敬意表明の強制」が実行されて10年となった。
「日の丸・君が代」への好悪と、「日の丸・君が代」強制の是非に関する見解とは、まったく別の問題である。「日の丸・君が代」好悪の感情分布如何はさしたる大事ではない。教育の場に「日の丸・君が代」の強制は相応しくないという意見が圧倒的多数であったことが重要である。東京の教員の総意が10・23通達には反対だったと言って間違いではない。
当時東京新聞が都民にアンケート調査をしている。学校での「日の丸・君が代」強制には反対という意見は実に都民の7割に近い数字だった。しかし、石原都政とその提灯持ちとなった都教委のメンバーは、異様な情熱を傾けて、「日の丸・君が代」強制を実行し徹底した。
それでも、「自分が自分であるためには、日の丸・君が代の強制にはどうしても服することができない」という人たちがいる。また、「自分が選択した教師という職責を真摯に果たすためには、どうしても日の丸・君が代強制に屈することはできない」とする人々もいる。
不服従を貫いて懲戒処分を受けた教員は、これまで延べ463名に上っている。実は、不服従を貫いた人はこれよりも遙かに多い。また、このような学校の状況に絶望して職を辞した人も少なくない。この人たちは、真面目に思想や良心、あるいは信仰ということを考えた人、教育者としての使命を真摯に考え抜いた人々である。教育委員会だけを見ると日本の教育には絶望せざるを得ない。しかし、処分された教員を見ていると、日本の教育にも希望が見えてくる。
「日の丸・君が代」強制拒否の理由は実に多岐に及ぶ。本来は類型化に馴染まないのであろうが、敢えて典型的なものを挙げれば次のようなものと言えようか。
まずは、日の丸・君が代ではなく、国家のシンボルとしての国旗国歌に着目して、国家シンボルへの敬意の表明の強制があってはならない、との見解は多くの人に見られる。国旗が日の丸ではなく、国歌が君が代でなくなっても、起立も斉唱も強制されてはならないとの考えである。国家が個人を凌駕する地位をもってはならないとする、個人主義思想の表れである。
そして、「日の丸・君が代」の歴史性を問題にする人はもっと多い。「日の丸・君が代」は、まぎれもなく旧天皇制日本のシンボルとして、旧体制の理念と余りに深く結びついた。天皇主権、国民の軽視、軍国主義、排外主義、侵略主義、非知性、差別と監視の社会、思想弾圧、宗教弾圧。「日の丸・君が代」は、まぎれもなく「日本国憲法へのアンチテーゼ」と余りに緊密に結びついている。
日本の現代史は、敗戦と日本国憲法の制定によって断絶し、新たな原理の社会が再生したはずなのだ。ところが、この社会は旧悪を引きずっている。天皇制の残滓や元号の使用、そして「日の丸・君が代」である。自民党改憲草案のごとき先祖返りがたくらまれたり、政権にある人物が「戦後レジームを払拭して」「日本を取り戻す」などと叫んでいる現実がある。国も社会も本当には、生まれ変わってはいないのではないか。多くの日本人が自分の意識のなかで旧天皇制社会の名残としての「日の丸・君が代」を払拭し清算し切れていないのだ。主権を天皇から奪い取ったはずの国民が、抵抗感なく「天皇の御代の栄えいつまでも」と口を揃えて唱って怪しまれない、生ぬるい空気に満たされた社会なのだ。
戦前の日本は奇妙な宗教国家であった。明治維新を推進した政治家のプランニングによって、意識的に天皇の宗教的権威が再構成され誇張された。この天皇教は全国津々浦々の小学校を布教所として臣民をマインドコントロールし、恐るべき軍国主義的宗教国家を誕生させた。「日の丸・君が代」は、その宗教国家の生成過程で作られた宗教的シンボルでもある。日の丸とは、天皇の祖先神である日の神・アマテラスの象形、君が代とは、現人神である天皇の御代の永続を寿ぐ頌歌である。信仰を持つ者の視点からは、自らの信仰と相容れない強い宗教的シンボルである。無神論者からも到底受け入れられる余地はない。
問題は、以上のごとき思想・良心・信仰上の理由が、公務員である教員に対する「日の丸・君が代」への起立斉唱命令を拒否する理由となりうるかである。
この理は3局面において考えられる。
公権力行使の矢印を頭に浮かべていただきたい。その根元が教育委員会から発して、その先端が教員に到達する矢印を。この矢印は、職務命令と懲戒処分のセットで出来ている。もっとも、職務命令は形式的には校長が発するものだが、実質的には教委が通達に基づいて校長に強制している。この「日の丸君が代の起立・斉唱・伴奏強制」を矢印でイメージしていただけたら、その矢印の先端が鋭く教員の思想・良心に突き刺さっていることがおわかりいただけるだろう。
第一の局面はその「矢印の先」、人権が具体的に侵害されている局面である。誰もが想定する局面で、誰にも分かり易い。「日の丸・君が代」強制拒否訴訟では、最初から現在に至るまで、主要な論争局面である。
教委と教員とは、上級と下級の公務員関係にある。一般論としては、上級が下級に職務命令を発し、それに従わなければ懲戒処分を発することが可能である。それなくして、効率的な公務員秩序の形成と運用はあり得ない。しかし、矢印の先にある公務員とは実は生身の人間である。公務員という属性をもった人権主体なのであって、公務員という属性に向けられた公権力の行使が、不可避的に人権を侵害する場合には、公権力の行使が違法となり得る。具体的には公務員としての属性に対する「日の丸・君が代」強制が、人権主体である当該公務員の思想・良心・信仰の自由を侵害することになる。このような場合には、人権侵害から当該公務員を防御するために当該の公権力の行使の効果は抑制されなればならない。あるいは、公務員として上級の指示に従う義務が免除されなければならない。
これがこの局面での私たちの主張の概要だが、最高裁は結論としてこれをどうしても認めない。「日の丸・君が代」強制の公権力行使は、当該教員の思想良心の自由に対する「間接的な制約にはなる」ことまでは認めた。しかし「間接的な制約にしか過ぎない」から、厳格な違憲審査基準の適用は必要がない。「公権力の行使に一応の合理性・必要性があれば強制を認めてよい」と大きくハードルを下げて、違憲・違法の主張を斥けている。もちろん、反論が積みかさねられ、論争は継続している。
第二の局面は「矢印の根元」、そもそもそのような公権力を発することができるのだろうか、という問題設定である。
第一の局面では、個別的なそれぞれの公務員の具体的な思想・良心・信仰の内容が問題となり、これと抵触する限りにおいて公権力が制約されることになるが、第二の局面では、公権力の行使それ自体が無効にならないかという問題設定なのだから、誰に対する関係でも、その公務員の思想や良心の如何にかかわらず、違法あるいは無効となる。
第二の局面における「公権力の発動そのものが違憲・違法」だという根拠は、まさしく国旗国歌という国家シンボルを、国民の上に置くところにある。本来、国民の意思によって、便宜こしらえられている立場にあるに過ぎない国家が、国民に対して「我に敬意を表明せよ」と強制することを認めるのは、立憲主義の大原則からは倒錯であり背理であるということなのだ。
また、第二の局面の重要な柱として、教育行政は教育の内容に原則として介入してはならないとする近代憲法の大原則に依拠した主張が積み重ねられてもいる。
しかし、これに対して、まだ最高裁はなんとも答がない。
そして、今、第三の局面の議論を始めている。矢印の先にある人権侵害を問題とするのではなく、また、矢印の根元で発令を認めないとするものでもない。謂わば矢印の全体を考察の対象とし、総合的な全体像を考慮することによる違憲の根拠を構成しようという発想。
たとえば、「教員の職責」論を取り入れようという提案が検討されている。教員の職責は、主観的に決まるものではない。子どもの教育を受ける権利に奉仕するための職責として客観的に内容が決まるものであろう。その職責の中には、無批判に「日の丸・君が代」への敬意表明を肯定することに疑問を呈するべきことも含まれているはずではないか。
関連して、専門職としての教員の矜持の侵害という側面の強調すべきではないかという研究者の提言もある。
またたとえば、思想統制あるいは管理体制強化という「教育委員会の真の目的」をあぶり出す議論なども憲法論に取り込むべきではないか。
最高裁は、「判例変更」には抵抗感が強い。しかし、局面を変え、視点を変え、まだ判断していないことについての新たな問題提起としてであれば、最高裁も耳を傾けやすいのではないか。あらゆる方法を考えてみたい。
(2015年1月17日)
本日(1月16日)は、東京「君が代」裁判・3次訴訟(東京地裁民事11部)の判決期日。原告50名が、56件の懲戒処分(戒告25件、減給29件、停職2件)の取り消しと、慰謝料の支払いを求めた訴訟。
いつものことながら、判決言い渡しの前は緊張する。広い103号法廷が水を打ったように静かになって、裁判長の主文朗読に耳を傾ける。
「原告らの請求をいずれも棄却する」なら全面敗訴だが、そうではない。朗読は、「東京都教育委員会が別紙『懲戒処分等一覧表』の…」と始まった。少なくとも全面敗訴ではない。処分が取消される原告の氏名が次々と読み上げられる。指折り人数を数えるが、26人の名前で止まった。そして「…の各原告に対してした各懲戒処分をいずれも取り消す」という。結局、50人の原告のうちの26人について31件の減給・停職処分が判決で取消された。
しかし、ここまで。その余の戒告処分者の取り消しはなかった。減給・停職の処分を取り消された原告についても、国家賠償としての慰謝料請求は棄却された。これまでの最高裁判例の枠内での判決。ということは、憲法論については進展がないということだ。
法廷の緊張は解けた。裁判官3名はそそくさと退廷する。満員の傍聴席から、ため息やらつぶやきやらが聞こえてくる。「最高裁判決へのヒラメか」「裁判官はどこを見てるんだ」「裁判所がしっかりしないから、都教委がつけあがる」…。
とは言え、獲得したものもけっして小さくはない。前進の期待があっただけに落胆が前面に出た本日の判決だが、都教委は処分を違法として取り消されたことの重大性を知るべきである。しかも、26人についての31件の処分取り消しである。
行政が、司法から「違法に人権を侵害した」と糾弾を受けているのだ。まずは真摯に謝罪しなければならない。そして、責任をあきらかにせよ、さらにしっかりと再発防止策を策定せよ。その第一歩が、控訴の放棄でなくてはならない。
やがて判決正本と謄本が届いて、弁護団が分担して解読を始める。「素晴らしい判決だ…」「ここが使える…」などという声は出て来ない。弁護団見解まとめ役の植竹和弘弁護士は、「最高裁判決の枠組みから一歩の前進もない判決」「控訴理由書が書きやすい判決」との総括的評価。
で、原告団・弁護団連名の声明は、次のようなものとなった。やや悲観的、否定的なトーンが見て取れるだろう。
「都教委は、2003年10月23日通達及びこれに基づく職務命令により、卒業式等における国旗掲揚・国歌起立斉唱を教職員に義務付け、命令に従えない教職員に対し、1回目は戒告、2、3回目は原則減給、4回目以降は原則停職と、回を重ねるごとに累積加重する懲戒処分を繰り返し、さらに「思想・良心・信仰」が不起立・不斉唱の動機であることを表明している者に対しても反省を迫り実質的に思想転向を迫る「服務事故再発防止研修」を強要するなどの「国旗・国歌の起立斉唱の強制」システムを実施してきた。
2012年1月16日、最高裁判所第一小法廷は、これらの処分のうち、「戒告」にとどまる限りは懲戒権の逸脱・濫用とはいえないものの、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要となる」とし、原則として社会通念上著しく妥当を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとした。本判決は、この最高裁判決の内容を維持したものである。本判決が、原告ら教職員の受けた減給以上の懲戒処分を違法としたことは最高裁に引き続き、「国旗・国歌強制システム」を断罪したものであって、都教委の暴走に歯止めをかける判断として評価される。
しかしながら、2006年度の規則改訂により、2007年度以降に戒告処分を受けた本訴原告らは、2006年以前に減給処分を受けた場合以上の金銭的な損害を受けているのであり、その実質的な検討をしないまま、形式的に2012年最高裁判決に従った判断を下したことは真に遺憾である。
更に、本判決は、10・23通達・職務命令・懲戒処分が、憲法19条、20条、13条、23条、26条に各違反し、教育基本法16条(不当な支配の禁止)にも該当して違憲違法であるという原告ら教職員の主張については、従前の判決を踏襲してこれを認めなかった。また、原告らの予備的主張(国家シンボルの強制自体の違憲性)には何ら言及しないまま合憲と結論づけている。さらに、原告らの精神的苦痛には一切触れることなく、都教委に国賠法上の過失はないとして、国家賠償請求も棄却した。これらの点は事案の本質を見誤るものであり、きわめて遺憾というほかはない。」
少し、噛み砕いて説明しておきたい。
10・23通達とこれにもとづく職務命令・懲戒処分によって、教職員に、国旗・国歌への起立・斉唱およびピアノ伴奏を強制することについては、これまで、「予防訴訟」、「君が代」裁判、同2次訴訟という大型集団訴訟において争われ、最高裁は一応の判断を示している。「懲戒処分の違憲性は否定しつつも、戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要となる」とした。原則として「減給」及び「停職」処分は重きに失して社会通念上著しく妥当を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用するものとし、原則違法として取り消してきた。
本件の審理もこの点に集中し、「戒告を超える処分についてこれを正当化する特別の事情があるか」が攻撃防御の焦点となった。結果的には、すべてそのような特別の事情はないとされて、31件の減給・停職事案全部が取り消された、その成果は強調されてしかるべきである。
3次訴訟で最も注目されたのは、戒告処分を受けた原告の懲戒権逸脱濫用の違法がないかということである。実は、規則の変更によって、1次・2次訴訟の減給処分者よりも、3次訴訟の戒告処分者の方が経済的不利益が大きいという逆転が生じていたのだ。
最高裁は、1次・2次訴訟の減給処分者の経済的不利益に着目して「重きに失する」とし、それゆえ「減給は処分権の逸脱または濫用に当る」と判断したのだ。ならば、それ以上の経済的不利益を科されている3次訴訟の戒告処分者についても処分権の逸脱または濫用と判断されるべきが当然ではないか。
これについて、本日の判決は次のように言っている。
「確かに,本件規則改訂の結果,本件規則改訂後においては,戒告処分により,昇給及び勤勉手当について,本件規則改訂前に減給処分を受けた場合よりも大きな不利益を受けていることが認められる。
しかしながら,これらの昇給及び勤勉手当の不利益は,戒告処分自体による不利益ではなく昇給及び勤勉手当について定めた規則上の取扱いによるものであり,当該事情が,戒告処分の選択に係る都教委の裁量権の逸脱・濫用を基礎付けるものとはいえないことは,本件規則改訂前と同様であり,これに反する原告らの前記主張は採用することができない。」
なんという冷たい形式論であろうか。権利濫用論とは、可能な限りのあらゆることを考慮要素とした実質的な総合判断でなければならない。規範的に除外すべき考慮要素がありうるとしても、被処分者に不利益となる経済的事情を除外してよいはずはない。これでは教委のお手盛りで、いかようにも戒告処分の不利益を過酷化できることになるではないか。
また、期待されていたのが、国家賠償請求の認容である。処分取消の違法よりは国家賠償の違法のハードルは高いとされている。それでも、停職処分取消とともに慰謝料の支払いが命じられた前例がある。2件の停職処分取り消しとともに、55万円の慰謝料請求の認容があってしかるべきだった。
これを否定して、判決は次のように言っている。
「原告らは,違法な本件各処分を受けたことにより精神的苦痛を披ったとして,これに対する国家賠償法1条1項に基づく慰謝料の支払を求めている。しかしながら,本件各処分のうち,戒告処分については,前述のとおりこれを違法であると認めることはできない。また,減給処分以上の本件各処分については,…それらについての処分量定に係る評価・判断に問題のあることを確実に認識したのは本件各処分のされた後であると考えられること等からすれば,減給処分以上の本件各処分を行った時点において,都教委がこれらの本件各処分を選択したことについて,職務上尽くすべき注意義務を怠ったものと評価することは相当ではなく,この点について都教委に国家賠償法上の過失があったとは認められない。」
この判断も納得しがたい。国賠法1条1項は、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる」と定めている。
賠償の責任が生じるためには、「違法性」と「故意又は過失」が必要とされているところ、判決は「過失がない」(もちろん故意もない)と言って切って捨てたわけだ。
過失とは、注意義務違反ということである。都教委には管轄下にある教員に対して、各教員がそれぞれの思想や良心・信仰を貫徹することができるように環境を整え、各教員に「自分の思想や良心あるいは信念や信仰を貫徹すること」と「職務命令違反としての処分の不利益を免れること」との二律背反に陥って葛藤することのないよう十分な配慮をすべき注意義務があるのに、これを怠った。と言えばよいだけのことなのだ。「最高裁判決を知ったあとでなければ過失がない」などと言うことはあり得ない。「最高裁判決で違法を知ったあとでの減給以上の処分」があれば、過失ではなく故意が成立するというべきであろう。
憲法論のレベルではまったく見るべきもののない判決となった。この点、最高裁の呪縛下の下級審裁判官は、管理者に縛られて自由や裁量を剥奪されている教員の悲哀に思いをいたして判決を書くことができなかったのだろうか。
「日の丸・君が代」訴訟は、まだまだ続く。4次訴訟も係属中であるし、5次訴訟も予定されている。都教委の違憲違法な教育支配の続く限り、闘いも訴訟も続いていくことになる。
(2015年1月16日)
ここ、本郷三丁目の交差点で、お昼休みのひとときに、今年はじめての訴えをさせていただきます。少しの間、耳をお貸しください。
私たちは、「本郷・湯島九条の会」の会員です。この近所に住んでいる者が、憲法九条を大切にしよう、憲法九条に盛り込まれている平和の理念を守り抜こうと寄り集まって作っている小さな会です。私も近所の本郷五丁目に住んでいる弁護士で、憲法と平和を何よりも大切にしようとしている者のひとりです。
今年は、「戦後70周年」をもって語られる年です。70年前と比較すれば、今年のお正月は平和に明けました。戦争のないお正月。空襲警報は鳴りません。敵機の来襲もなく、特高警察も憲兵もありません。徴兵も徴用も、宮城遙拝の強制もなく、治安維持法や軍機保護法で痛めつけられることもありません。ラジオの臨時ニュースが大本営発表をしているでもありません。
70年前の正月、私たちの国は激しい戦争をしていました。戦争のために、国民生活のすべてが統制され、一人ひとりの自由はありませんでした。空襲は日増しに激しさを増し、3月10日には都内の10万人が焼け死んだ東京大空襲の悲劇が起こります。6月には沖縄の地上戦が陰惨を極め、8月には広島・長崎に原爆が投下されて、15日の敗戦の日を迎えます。その日までに、日本国民310万人が戦争で尊い命を落としました。また、日本軍が近隣諸国に攻め込んだことによる犠牲者は2000万人にのぼるとされています。
戦争は日本の国民に、被害と加害の両面において、このうえない惨禍をもたらしました。どんなことがあっても、再び戦争を繰り返してはならない。これが、生き残った国民の心からの思いでした。どうして戦争が起こったのか、どうして戦争を防ぐことができなかったのか。そして、どうすればこのような悲惨な戦争を繰り返さないようにすることができるのだろうか。
真剣な議論の答の一つは、民主主義の欠如ということだったと思います。戦争で最も悲惨な立場に立つことになる庶民の声が反映されない政治の仕組みこそが問題ではないのか。国民が大切な情報から切り離されて、政治に参加できないうちに一握りの財閥や軍人や政治家たちの思惑に操られて戦争に協力させられてしまった。国民一人ひとりが、自分の運命に責任を持つことができるように、国民自身の手に政治を取り戻さねばならない。それができれば、国民を不幸にする戦争を、国民自身が始めることはないだろう。民主主義の発展こそが、平和の保障だという考えです。
もう一つの答が、憲法9条に盛り込まれた平和主義であったと思います。人類は、身を守るために長く暴力に頼ってきました。でも、次第に暴力を野蛮なものとし、暴力ではなく他と相互に信頼関係を築くことで安全を守ることに切り替えてきたのではありませんか。これが文明の進歩というものではないでしょうか。国家という集団でも同じことです。国の平和を守るためには軍事力が必要だというのが長らくの常識でした。しかし、武力の行使や戦争を違法なものとする考え方が次第に成熟し、国連憲章を経て、日本国憲法にこのことが銘記されることになったのです。
日本国憲法9条第1項は、「戦争を永久に放棄する」としています。そして、同第2項は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と、軍隊をもたないことを宣言したのです。戦争はしないと宣言し、軍隊をもたないという謂わば捨て身の覚悟で、日本は平和を獲得しようとしたのです。
放棄されたものは、明らかに侵略戦争だけでなく自衛戦争までを含むものでした。当時政権を担っていた吉田茂や幣原喜重郎などの保守政治家が、「古来すべての戦争が自衛の名のもとに行われてきた。日本国憲法の平和主義は自衛の名による戦争を許さないものである」「文明と戦争とは両立し得ない。文明が戦争を駆逐しなければ、戦争によって文明が駆逐されしまうだろう」と述べています。
ところが、これが冷戦の中で、変化してきます。厳密な自衛のための武力行使や戦争は憲法が禁じているところではない、とする説明が出てきたのです。これが集団的自衛権行使は認められないとした上で、個別的自衛権なら認められるという理屈です。専守防衛に徹する限りにおいて自衛隊は合憲なのだというのです。
この考え方で60年が過ぎました。ところが、安倍政権は昨年これをも覆して、集団的自衛権行使容認の閣議決定をしてしまいました。これは恐るべき事態。憲法の条文を変えないで、解釈を変えることで憲法の根幹を骨抜きにしてしまおうというのです。
もっとも、閣議決定だけでは自衛隊をうごかすことができません。今年の国会では、安倍内閣は、集団的自衛権を現実に行使できるようにするためのたくさんの法律案を提案し、その多くが対決法案となることでしょう。
戦争を始めるためには、それだけでは足りません。教育とマスコミの掌握は不可欠なものです。煽られた戦争の相手国の一人ひとりと仲良くしていたのでは戦争はできません。我が日本民族が優れて他は劣っているとし、近隣諸国への排外主義を煽るには、教育とメデイアの役割が欠かせないのです。
そのような目で安倍内閣を見直すと、憲法改正、集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法の制定、村山談話や河野談話の見直し、武器輸出三原則の撤廃、侵略戦争の否定、靖国神社参拝、教育再生、NHKのお友だち人事、国家安全保障会議の設置、、日米ガイドライン改訂…等々の動きは、明らかに70年前の敗戦時に日本の国民が共通の認識としたところとは大きくへだったものになってきています。
そのほか、安倍政権がやろうとしていることは、原発再稼働であり、原発輸出であり、派遣労働を恒久化する労働法制の大改悪であり、福祉の切り捨てであり、大企業減税と庶民大増税ではありませんか。そして、このような状況で民族差別を公然と口にするヘイトスピーチデモが横行しています。従軍慰安婦報道に比較的熱心だった朝日新聞に対する嵐の如きバッシングが行われています。
庶民の生活にとっても、民主主義の良識に照らしても良いことは何にもなく、危険な事態が進行しています。このようなことを見せつけられた近隣諸国の人々は、日本は本当に先の戦争の反省をしているのだろうか。平和を大切にしようとする意思があるのだろうか。そう疑念を持たざるを得ないのではないでしょうか。安倍政権は、緊張関係を煽っているのではないでしょうか。
皆さん、戦後70年の平和をこれからも続けようではありませんか。安倍政権による危うい政治を正して、戦争ではなく平和をと声を上げていこうではありませんか。
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寒さの中で、声を枯らしたが、「くどい」「長すぎる」「工夫が足りない」「もっと短いフレーズで」と悪評サクサクだった。が、めげてはならない。がんぱらなくちゃ。
(2015年1月13日)