澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

一難去ってまた一難、アベなきアベ政治への批判を。

(2020年9月8日)
本郷三丁目のご近所のみなさま、ご通行中の皆さま。お馴染みの本郷湯島九条の会です。日本国憲法とその平和の理想をこのうえなく大切なものと考え、毎月第2火曜日の昼休み時間を定例の街頭宣伝活動の日と定めて、ここ本郷三丁目交差点「かねやす」前で、ささやかな訴えを続けています。少しの時間、耳を傾けていただくようお願いします。

いつもは、手作りのビラを配布し、署名をお願いするのですが、コロナ禍おさまらぬ今、手作りの横断幕とスローガンを書いたプラスターだけにしています。

まずは、プラスターをご覧ください。毎回プラスターは変わりますが、とりわけ今回はまるで様変わり。

安倍総理辞任会見は昭恵さんとご一緒に。
モリ・カケ・サクラの真相をお話ししてね。

病気理由に辞任をしても、
やった悪政チャラにはできない。

隠蔽、嘘に次ぐ嘘
継承恥じない政権は、アベ政権と同罪

一難去ってまた一難。でも、これからが正念場。
アベ後継批判 ゆるめない。

それってヘン  
無派閥・非世襲 でも アベ政治踏襲

「自助=自己責任」
成功した菅さんが、それを言っちゃオシマイよ。

8月28日、突然の安倍首相の辞意表明があり、本日(9月8日)から自民党総裁選が始まりました。9月14日に新総裁が決まって、16日には臨時国会で新首相の指名の予定です。新内閣が組閣され、ようやく政権が交代します。長すぎた安倍政権。最低・最悪の安倍政権がようやくに終わります。ですから、本来はお赤飯を炊いてお祝いしてもよいところ。

ところが、決して喜ぶべき事態ではありません。プラスターは、そのことを表現しています。安倍さんが首相の座を去っても、「アベなきアベ政治」が続きそうだからです。お赤飯どころではなく、まだまだ歯を食いしばって、訴えを続けなければなりません。この街頭宣伝も、もうしばらくは続けざるをえません。

私たちが、これまで安倍政治を批判し、「安倍さん辞めろ」と言い続けてきたのは、決して安倍晋三という個人に怨みがあるわけではなく、彼一人に帰すべき責任があると考えているわけでもありません。私たちの批判は、反憲法的なアベ政治に向けられたものです。日本国憲法に敵意を剥き出しにし、隙あらば明文改憲も解釈改憲も遠慮しないその姿勢。格差や貧困を生み出す経済政策、政治を私物化し嘘とごまかしで固めた政治手法に対する批判なのです。

国民の批判が安倍政治を追い詰めこれを倒すならば、もう少し真っ当な政治に戻るだろう。そう思っていました。安倍さんがいなくなっても、どうせ変わり映えすることのない保守政権、自民党政権が続くだけ、とは思なかつたのです。安保を強行した岸信介が倒れたあとは、池田勇人の経済重視路線に転換したように、田中角栄のあとにクリーンなイメージの三木武夫が総理になったように。

自民党という政党は、決して安倍晋三のような右翼を主流にする政党ではなかったはずです。歴代を見ても、石橋湛山、三木武夫、宮沢喜一、福田康夫など、リベラルなトップも輩出してきたのです。評判の悪い安倍政治が倒れれば、これを批判する「もっとマシな保守政権」ができるに違いない。その読みが、どうも甘かったようなのです。

なんと、アベ後継を自任する新総裁がもう決まっているのだという報道です。しかも、密室の談合で。その人は、安倍後継をウリにし、「これまでのアベ政治は、実は私がやってきたことだ」と言わんばかり。安倍さんが退いても、安倍なき安倍政治が続くというのです。安倍政治の根本的転換は望むべくもない事態と落胆せざるをえません。

もう一度、これまで世論が安倍政治を非難してきた根拠を明確に確認しておく必要があろうかと思います。

安倍晋三という人物は、若くして歴史修正主義者・改憲主義者として知られた人でした。短命に終わった、あの細川政権のころ、1993年に自民党の右派が「歴史・検討委員会」を発足させます。「東京裁判に毒された歴史観を建て直し、正しい歴史観を確立」しようという、おどろおどろしい委員会。この委員会に初当選したばかりの安倍晋三が参加します。
この委員会は後に「新しい歴史教科書をつくる会」を立ち上げる西尾幹二や高橋史朗などの歴史修正主義グループを講師に「検討」を重ね、その成果を『大東亜戦争の総括』(展転社)という書籍にまとめます。敗戦後50年の95年8月15日のこと。「大東亜戦争は正しい戦争だった」「南京大虐殺、『従軍慰安婦』はでっちあげ」という典型的な侵略戦争美化本。

その後、97年に「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(略称「教科書議連」)が結成されると、彼はその事務局長となり、NHKが企画した「戦時性暴力を裁く国際法廷」の番組に圧力をかけたNHK番組改ざん事件の黒幕として有名になります。
そして、小泉内閣の官房副長官として、拉致問題に最強行姿勢を示したことで、タカ議員としての地位を確立し、右派右翼勢力から押される形で安倍政権をつくります。

彼は、保守陣営内の右派・改憲勢力のホープとして、改憲を期待されて首相の座に就きます。彼は、宿命として改憲を言い続けなければならない立場にあったのです。明文改憲は、とうとうなしえませんでした。しかし、それまで違憲とされていた集団的自衛権行使を容認し多くの国民の反対を押し切って「戦争法」を成立させました。国民の知る権利を侵害し言論表現の自由を抑圧する秘密保護法、共謀罪法も成立させました。社会保障制度を切り崩すなど、およそ憲法に基づく政治を破壊してきました。

それだけでなく、第2次安倍政権は、7年8か月にわたって人事を通じて権力の集中をはかりました。国政を私物化しました。国政を嘘とごまかしで汚しました。モリ・カケ・サクラ、カジノに河井です。公文書の適切な管理を嫌いました。忖度政治を横行させました。政治は、大きく国民の信頼を失いました。最低・最悪の政権といわれるに相応しい、体たらくです。

安倍なき安倍政治の継続を許してはなりません。地に落ちた政治の信頼を取り戻さねばなりません。自民党総裁選における次期総裁・次期総理が安倍政権の積極的後継者でしかなく、日本国憲法に敵意を剥き出しにした政権が続くのであれば、対抗勢力を強くするしかありません。

まさしく、一難去ってまた一難の今。アベなきアベ政治継続への批判と、安倍後継政権を打倒する力をもった政治勢力を作りあげる努力を重ねようではありませんか。

「パットを外した」のは、トランプ自身ではないか。

(2020年9月3日)
類は友を呼ぶ。アベシンゾーの友は、同類のトランプやプーチンであるという。「友」もいろいろ。シンゾーもひどいが、トランプやプーチンは、これに輪を掛けたムチャクチャぶり。それぞれにムチャクチャではあるが一定の岩盤支持層を有していることが、同類の所以。

トランプは退任表明をした朋友シンゾーについて「素晴らしい人物。最大の敬意を表したい」とお世辞を言っているそうだ。お互いにそう言い合おうとの魂胆が見え見えで、醜悪きわまる。もっとも、トランプの真意はこういうことだ。

「シンゾーこそ、これまでどんな無理なことも私の言うとおりに従順に従ってくれた素晴らしい人物。とりわけ、友情の証しとして、日本国民への苛酷な負担をも顧みず、ほとんど独断で不必要な大量の武器を私の言い値で購入してくれたことに、心の底からの敬意を表したい」

トランプとシンゾー。ゴルフ仲間だという。多分どちらも、パットは下手くそなのだろう。トランプが、「ゴルフの大会で、3フィートのパットでも外すことはある」と言ったことが話題になっている。もちろん、「3フィートのパット外し」は、比喩である。この出来の悪い比喩が、もしかしたら大統領選の命取りになるかも知れない。

トランプは8月31日放送のFOXニュースのインタビューで、米中西部ウィスコンシン州の警官による黒人男性銃撃事件を話題にして、警官を取り巻く非難の重圧がますます厳しくなっていると強調した。その上で、このような重圧の中では「ゴルフの大会でもそうだが、3フィート(約90センチ)のパットでも外すことはある」と述べたのだ。白人警察官が丸腰の黒人男性の背後から至近距離で7発もの銃弾を打ち込んで瀕死の重傷を負わせた深刻な犯罪行為を、お気楽に趣味のゴルフに例えたというわけだ。

「3フィートのパットを外す」という比喩は、「7度の発砲」についてのもの。恐ろしく下手くそで分かりにくいだけでなく不愉快極まる比喩ではあるが、重圧の中ではどんなゴルファーも、「3フィートのパットを外すというミス」を起こすものだ。同様に、非難の世論という重圧の中では、白人警官が「黒人男性に対する背後からの7度の発砲というミス」を起こしても不思議ではないと言いたいのだ。だから、パットミスと同様に、発砲した白人警官を責めることは酷に過ぎる、大目に見てやれ。そういう、白人層に対するアピールなのだ。白人警官の黒人に対する発砲行為が抱えている深刻な問題を見ようとせず、パットミス程度の問題と擁護しようというのだ。当然のことながら、ワシントン・ポスト紙を始め有力メディアが、批判の声を上げている。

パットミスを使った下手な比喩で、白人警官を擁護しようとしたトランプ発言だったが、実はパットを外してミスを犯したのはトランプ自身ではないか。彼は、自らの「3フィートのパットミス」発言で、差別主義者であることをさらけ出したのだから。確かに、厳しい環境に焦ると本性をさらけ出す発言で、取り返しのつかないミスを犯しがちではある。トランプがそれを証明して見せた。

ところで、トランプの友人というシンゾー君。ゴルフ仲間のシンゾー君よ。「素晴らしい人物。最大の敬意を表したい」とまでお世辞を言われているシンゾー君。そして、シンゾー後継を争う諸君。君たちもそう思うか。トランプの言うように、「白人警官が黒人男性の背後から7回も銃撃することは、パットミス程度のことか」と。また、こんな発言をするトランプと、今後も友人関係を続けようというのか、と。

菅義偉よ、かくまで「アベ後継」をウリにするというのか。

(2020年9月2日)

安倍晋三による再びの政権投げ出しである。前回のように国政選挙での与党大敗北に続く醜態とはいえないものの、明らかに八方塞がりの失政の中で、やる気を失った無責任というしかない。

その安倍政権の7年8か月に、国民はウンザリしていたはずである。アベ政権といえば、立憲主義の否定であり、日本国憲法理念の否定であり、国政の私物化であり、嘘とごまかしと忖度の政治手法であり、三権分立の軽視でもあった。経済政策では格差と貧困を深化させ、コロナ対策ではアベノマスク以外に有効な策はなく、無為・無能・無策。しかも、こんなにも公文書管理をないがしろにし、強権と忖度に支えられ、品性に欠ける振る舞いで国民からの顰蹙を買った為政者も珍しい。北方領土問題も拉致問題も1ミリも進展させることができなかった。もちろん、辺野古も、慰安婦問題も、徴用工問題も、核軍縮も。

だから今自民党は、マンネリ停滞で薄汚れたイメージのアベ政治からの脱皮のチャンスである。安保で倒れた岸信介のあとに所得倍増計画の池田をもってきて鮮やかな転身を見せたように、あるいはロッキードの田中角栄からクリーンな三木武夫に頭をすげ替えたように、自民党は国民に別の顔を見せなければならない。

ところがどうだ。後継総裁は、出馬宣言前から菅義偉に決まりという報道である。政策や抱負を語る以前から、密室の談合で派閥の論理で菅義偉に決定というのだ。既に党内7派閥のうち5派閥が菅支持に固まっているとか。少しだけ驚いた。菅といえば、アベ政権そのものではないか。アベ政治からの脱却ではなく、国民から見離されたアベなきアベ政治をこれからも続けようというのだ。

本日(9月2日)夕刻、菅は総裁選出馬の記者会見を行った。何とも新鮮味に欠け、何とも華がなく、何とも変わり映えせず、いかんとも明るい展望はまったくなく、旧態依然の政治続行の予感に改めてウンザリと言うしかない。菅は、「安倍政権の取り組みをしっかり継承し、さらに前へ進めるために私の持てる力を全て尽くす覚悟だ」と述べた。「安倍政権の取り組みをしっかり継承し」とは、内容においては新自由主義的政策を継承し、政治手法としては強権と忖度、嘘とゴマカシを続けようというのだ。そして「さらに前へ進める」とはどういうことだ。アベ政権への反省の弁がまったくないのだ。

ハト派と言われる「宏池会」の岸田文雄も、アベに対する党内批判派の石破茂も、脱アベのイメージ演出にはもってこいの存在。この2人ではなく、旧態依然アベカラーに染まりきった菅に決まりだというのだから政治の世界は分からない。その総裁選挙の日程は9月14日である。

さて、対する野党の側の事情。9月10日に、立憲・国民の合流新党が結成されて代表選が行われる。新代表に新味はなかろうが、新党の存在感を示そうとこれまで慎重だった「消費税減税」に踏み込むのではないかと報道されている。

私の主たる関心事は、改憲策動の有無である。常識的には、アベができなかった明文改憲を、アベ後継ができるはずもない。しかし、これは、アベ後継が国民世論をどう読むかにかかっている。国民世論は必ずしも「改憲反対」ではなく、「安倍のいるうちの改憲には反対」という読みもある。

新党には改憲反対の姿勢を明確にし、市民の護憲運動とスクラムを組んでいただきたい。アベなきアベ政治の継続が明文改憲に結びつく危険な事態は継続しているのだから。

決して、改憲策動に乗せられてはならない。9月16日発足の新政権が、今秋にも衆院解散・総選挙に踏み切るのではないかという声も聞こえる。もちろん、野党側の態勢不備に付け込んでのことだ。これまで、護憲派は薄氷を踏む思いで国政選挙を乗り切ってきたが、この次の総選挙も、決して楽観できるものとなりそうもない。これも、アベなきアベ政治の置き土産である。

突然の安倍退陣 ー 負のレガシー払拭の課題は今後も続く

(2020年8月28日)
 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 遠く異朝を訪ひ近く本朝を窺ふに、猛き者も奢れる者もとりどりにこそあれ、諫めをも思ひ入れず天下の乱れん事を悟らずして民間の嘆く所を知らざりしかば、久しからずして亡じにし者少なからず。間近くは、安倍晋三内閣総理大臣と申しける人の有様、憲法の定めにも従わず、政権を私物化し、嘘とごまかしで固め、数々の不祥事を重ねて、コロナ禍の裡に民の憂ふる所を知らざりしかば、何の誇り得る業績もないままに、再度にわたる政権投げ出しに至りしとぞ伝へ承るこそ心も詞も及ばれね。

本日(8月28日)午後2時頃、ネットのニュース速報で、「安倍晋三辞意表明」を知った。さしたる感慨はない。間もなくの3時前ころに、東京新聞の記者から電話がかかってきた。「安倍辞任の感想を聞きたい」と言う。まとまりなく、次のようなことを、話した…はずである。

長すぎた政権でした。そして、国民にとっては迷惑な政権国政を私物化し、嘘とごまかしと忖度の、負のレガシーで固められた政権。この政権の終焉はもちろん歓迎しますが、本来は選挙による国民の審判でこの政権に国民からの縁切り状を突きつけるべきところ。それがきちんとできなかったことが残念と言わざるを得ません。

しかし、彼が必死の執念を燃やした憲法改正は、国民の改憲阻止の世論と運動が阻止し得た。このことは、まことに喜ばしいと思います。おそらくは、「安倍のいるうちが、千載一遇の改憲のチャンス」。改憲派はそう思っていたはずです。その与望を担った安倍政権が改憲の糸口にも至らずに崩壊したことの意味は大きい。ここしばらくは、改憲の見通しは立たないでしょう。

それにしても、不祥事続きの腐敗政権でした。モリ・カケ・サクラ、カジノに河井。忖度文化の醸成、公文書管理の意識的放棄。説明責任のネグレクト、食言の数々は、長すぎた政権の腐敗の典型でもあり、安倍晋三自身の品性の問題でもあったと思います。

あらためて、この政権には何の業績もなかったことに愕然とします。この政権が存続していた間に、日本の経済力も、国際的なプレステージも、科学的な競争力も軒並み下がってしまった。北方領土問題を解決して日露間の関係改善を実現することも、拉致問題を解決して北東アジアに平和な国際関係を築くこともできなかった。ウソをついてまでして東京五輪を招致したけれどコロナによって開催の実現を阻まれた。

また、何としても歴史的な汚点は、集団的自衛権行使容認の戦争法(安保法制)を強行成立させたこと。その法律の廃止を含めて、数々の負のレガシーを払拭する努力をこれからも続けていかなくてはなりません。誰が後継首相となったとしても。

これは一陣の涼風。教科書採択にアベ政権没落のご託宣。

(2020年8月26日)
今年の夏は常の夏ではない。コロナの夏であり、異常な猛暑の夏。そして首相引きこもりのなんとも冴えない鬱陶しい夏である。そこに、思いがけない一陣の涼風が吹き込んできた。教科書採択の成果である。端的に言えば、全国的規模での、育鵬社教科書(歴史・公民)不採択の涼風なのだ。

育鵬社教科書とは何であるか。2015年9月17日付けで、「★育鵬社教科書採択570校一覧(9月17日現在)」という、勇ましいネット記事が残されている。冒頭にこうある。

「正統保守の敵『つくる会』一部首脳を追撃します。『新しい歴史教科書をつくる会』が自由社から出した教科書は反日自虐。」「教科書改善の会のメンバーが執筆した フジサンケイグループ育鵬社こそが正統保守教科書です。」

継続採択も含め私立中の採択は24校です。公立中は約550校(特別支援学校で該当生徒のいる校数が確定しないため、正確な数はまだ分かりません)で、合計約570校の生徒が育鵬社の教科書で学ぶことになりました。
 
採択冊数は、歴史が7万2000?7万3000冊(シェア6.2?6.3%)、公民が6万6000?6万7000冊(シェア5.7%前後)と推定されます。

つまり、「フジサンケイグループ育鵬社(扶桑社の100%子会社)の教科書こそが、正統保守教科書です。」というのだ。ここでいう「正統保守」とは、歴史修正主義・国家主義・排外主義・権威主義を指す。まさしく、安倍晋三を行政トップに押し上げた勢力の歴史観・政治観をいう。その立場は明らかに、《反日本国憲法》であり、同時に《親大日本帝国憲法》でもある。

そんな教科書で、毎年7万2000?7万3000人もの中学生が歴史を学んできた。これが今年度(2020年度)までの現実である。

今年は、通常4年ごとに行われる教科書採択の年。「つくる会」系教科書採択の消長は、わが国の民主主義度のバロメータともなっている。「フジサンケイグループ育鵬社の正統保守教科書」の採択状況に衆目が集まる。そして、ほぼその結果が出てきた。まさしく、一陣の涼風である。日本の民主主義勢力決して先細りではない。

「子どもと教科書全国ネット21」の集計では、公立学校での育鵬社の歴史教科書採択冊数を71,510冊、公民教科書冊数を65,480冊と報告している。

それが今回の採択では、注目すべき大型採択地域で軒並み育鵬社は敗退した。前回育鵬社を採択して、今回は逆転不採択となったのは、確認できる範囲で以下のとおりである。
 横浜市(146校) 歴史2万7000冊、公民2万7000冊
 大阪市(130校) 歴史1万8500冊、公民1万8500冊
 東大阪市(26校)            公民4200冊
 松山市(29校)   歴史4200冊
 藤沢市(19校)   歴史3500冊、  公民3500冊
 呉市(26校)    歴史1900冊、  公民1900冊
 東京都立中(10校) 歴史1400冊、  公民1400冊
 新居浜市(11校)  歴史1100冊
 四国中央市(7校)  歴史 800冊、  公民 800冊
 泉佐野市(5校)   歴史1000冊、  
 河内長野市(7校)            公民 900冊
 武蔵村山市(5校)  歴史 700冊、  公民 700冊
 四條畷市(4校)   歴史 600冊、  公民 600冊
 愛媛県立中(3校)  歴史 480冊、  公民 480冊
 東京都立特別支援学校(10校)歴史100冊、公民100冊

以上で、歴史教科書の削減冊数は61,000冊を超え、公民は60,000冊を超える。来年(2021年)度からの育鵬社版教科書の使用冊数は、歴史は1万冊を割り、公民は5000冊に届かない。

この成果を切り拓いたものは何か。もちろん、自然にこうなったわけではない。右翼の運動に抗して各地で起こった市民運動の成果なのだ。歴史修正主義や憲法を軽んじる歴史や公民の教科書を我が子には使わせないという地道な市民運動が結実したものである。その具体的な運動のあり方は、追々語られることになるだろう。横浜・大阪だけではなく、全国至るところで教育運動が盛り上がったことの意味は大きい。

もう一つの感想がある。5年前育鵬社教科書が採択数で伸びた時期は、安倍政権の勢いがまだ安泰だった。右翼も威勢を張っていたということである。森友学園事件は、まだ世に明るみに出ていない。安倍政権をバックとして、「フジサンケイグループ育鵬社の正統保守教科書」の採択は順調だったと言えよう。しかし、今年の夏、安倍政権のたそがれが誰の目にも明らかだ。右派勢力がアベ晋三に期待した憲法改正などできっこないと認めざるを得ない。

「つくる会」系の右翼偏向教科書の採択状況は、右翼勢力の力量消長のバロメータでもあり、右翼を背景とするアベ政権の盛衰のバロメータでもある。この真夏に、そのバロメーターが示したアベ没落のご託宣はまことに目出度い。まさしく、猛暑のなかの一陣の涼風である。

「政権長きが故に貴からず」ー 無能な政権の長きを以て迷惑と為す

(2020年8月23日・連続更新1701日)

通俗道徳を説く『実語教』の冒頭に、

 山高きが故に貴からず 樹有るを以て貴しと為す
 人肥えたるが故に貴からず 智有るを以て貴しと為す

とある。これに、以下のように続けよう。

 政権長きが故に貴からず 実績有るを以て貴しと為す
 総理その座の故に貴からず 国民奉仕を以て貴しと為す
 総理看板の枚数故に貴からず 実行有るを以て貴しと為す
 総理原稿読む故に貴からず 意欲と能力を以て貴しと為す
 トランプとの誼故に貴からず 己に如かざる者を友とするなかれ

何の実績もなく忖度とオトモダチ優遇に明け暮れた安倍第2次政権が、2012年12月26日発足以来本日(8月23日)で2798日となるという。馬齢を重ねると言えば、馬に失礼になろう。これで佐藤栄作の連続在任日数に並び、明日には歴代最長となるそうだ。

佐藤政権も、ろくでもない印象しか残していないが、安倍政権ほどひどくはなかった。嘘つき、ゴマカシ、権力の私物化と、こうも国民から胡散臭いとおもわれる政権は希だろう。それが、歴代最長の政権になるというのだから情けない。

ところで、当ブログの連載開始は、安倍政権の改憲策動に危機感をもったことに始まり、昨日のブログが連続更新2700日となっている。日本の右翼・改憲派が、穏健保守を押しのけて作りあげたアベ政権である。アベで改憲ができなければ、近い将来に改憲の望みはない。靖国参拝も、拉致問題も、北方領土も、保守勢力の懸案解決の切り札としての政権。しかも、民主党の政権運営失敗からの揺り戻しの国民意識を背景に、なんでもできるのではないか。そんな時代の雰囲気の危うさに抗して、アベ政権を批判し、改憲を阻止する力の一端を担おうと書き始めたのだ。

「憲法日記」との標題でのブログの初回は政権発足直後の2013年1月1日である。しかし、今の形で、今のURLでの書き始めは、同年の4月1日。毎日更新を宣言して、2700回を超えた。当時、こんなにアベ政権が続くとは夢にも思わなかった。

安倍内閣は確かに長く続いたが、国民の批判は予想以上に強く、右派勢力が思うような政権運営はできなかった。ときに、突出した強行姿勢を見せても、常に揺り戻しが大きく、決して右翼勢力の期待は実を結ぶに至っていない。

アベは、レガシーを意識しているという。しかし、悲願であった憲法「改正」はもう無理だ。近い将来、改憲は不可能という情勢を作り出したという点において、アベはレガシーを残したと言えるかも知れない。拉致被害問題も、北方領土問題も、1ミリの進展もない。イラン問題での仲介もできなかった。経済の再生もできないまま、確実に格差貧困だけは拡大している。花道と考えられた東京五輪・パラリンピックもアベの在職中にはもう無理だろう。

世界の首脳の中でたったひとりトランプとは良好な関係を結んでいるようだが、それはアメリカとの関係良好を意味しない。大胆な無法者と臆病な無法者との誼に過ぎないが、果たしてそれが我が国民の利益となるのかどうか。

負のレガシーはいくらでもある。見えるものとして国民の記憶に新しいのは、466億円を投じてのアベノマスク配布である。これこそ政権の無能と無為無策の象徴、アベの愚策として永遠に歴史と国民の記憶に残るだろう。

直接には見えないが、最大のものは公務員の忖度文化の育成であろうか。安倍政権時代の7年で、公務員は、国民のためにではなく、上を眺めて上にへつらうことで出世競争をするようになった。そして、適正な公文書管理の忌避。検察の独立性への不信。総理の国会発言の言葉の軽さ。上の責任を下に下ろして、末端職員を自殺にまで追い込む行政組織のありかた。

さらに、絶えず何かに取り組んでいる振りの「やってる感」演出文化。思い出してみれば、「デフレ脱却」「三本の矢」「女性活躍」「地方創生」「一億総活躍」「働き方改革」「人生100年構想」「人づくり革命」等々。掛け替えた看板の数だけは、比類のないもの。

アベとアベ政権が引き起こした数々の醜聞も忘れまい。モリ・カケ・桜、カジノに河井。情報隠して、格差を広げ、政治も行政もウソをつく。

いま、既にアベ政権はレームダック状態である。改憲の旗振りなんぞ今ごろできるわけがない。首相の体調の異変も報じられている。首相がいなくても行政は動くのだ。「悪さ」や「おいた」をすることなく、アベが黙っているだなら、もうしばらくアベ政権が続いてもよい。

アベは原稿読むだけの総理でよい。改憲発議せぬだけを以て貴しと為す。

当ブログは、安倍晋三の在任が続く限り、改憲問題・改憲阻止をメインテーマに書き続ける。ご愛読をお願いしたい。

証人買収容疑で秋元司逮捕。安倍晋三の、首相・総裁としての幾重もの責任。

(2020年8月20日)
カジノの建設が、アベ政権経済政策の目玉のひとつとなっている。情けない経済政策ではないか。カジノとは賭博以外の何ものでもない。賭博とは、互いに相手の金をむしり合うゲームである。ゲームに加わるのは人の不幸をもって我が利益にしようというさもしい連中。賭博は金のやり取りをするだけで何の利益も生み出さない。よい齢をした大人が目の色を変えて金のやり取りにうつつを抜かす。これこそ「生産性に欠け」、怠惰と頽廃を生み出す。そのゲームに投じられる莫大な金額が人の目を眩まし、社会を歪める。そして結局は胴元が金を吸い上げるだけの装置なのだ。歪んだ政権の歪んだ政策と言うほかはない。

もちろん賭博は刑法上の犯罪である。アベ政権は、実質的に社会に犯罪を煽り犯罪の蔓延によって経済を振興しようとしたが、カジノの建設が実現する以前に身内から収賄犯罪者を出した。秋元司である。彼は、アベ政権の「国土交通副大臣兼内閣府副大臣兼復興副大臣」だった。カジノ建設担当副大臣と言ってよい。その彼が、中国企業「500ドットコム」側から、賄賂を受け取っていたとして逮捕され起訴された。公訴事実は、衆院議員会館で300万円の現金を受け取ったほか、シンポジウムでの講演料や旅費など計約760万円相当を賄賂として受け取ったということ。

収賄の金額は760万円程度だが、これが全部かどうかは疑わしい。彼は、昨年(2019年)12月25日早朝、毎日記者の携帯電話に電話をかけ「はした金はもらわねえよ。あり得ねえよ。ほんとばかたれ」「1億、2億なら別だが俺は正面から堂々ともらうんだから」「地検ははしゃぎすぎだ。こんなことで身柄拘束しやがって。徹底して戦ってくるわ」と宣って、その日のうちに逮捕となった。760万円程度のはした金にご不満だったようなのだ。

その彼が起訴となり、2月12日に保釈となった。保釈保証金は3000万円と報道されている。相当な金額と言ってよい。証拠隠滅行為を疑われれば、保釈は取消され、保釈保証金は没取(業界では、ボットリと読む)される。通常、3000万円は惜しい。よもやそんなことはあるまい、と思う。ゴーンの件もそうだったが、この世界には「よもやそんなこと」が結構頻繁に起こるのだ。

本日(8月20日)、保釈されていた秋元が再逮捕されたとの報道である。被疑罪名は、組織犯罪処罰法違反(証人等買収)。当然に保釈は取り消され、3000万円は没取となるだろう。これは、落ち目のアベ政権に小さくない衝撃となる。あらためて国民は、アベ政権というものの薄汚さを再確認しなければならないからだ。

組織犯罪処罰法7条の2の「証人等買収」罪は、結構面倒な規定だが、「自己又は他人の刑事事件に関し、証言をしないこと、若しくは虚偽の証言をする…ことの報酬として、金銭その他の利益を供与し、又はその申込み若しくは約束をした者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する。」というもの。

秋元逮捕の被疑事実は、「自分の刑事事件で、贈賄側に虚偽の証言をすることの報酬として計3千万円を渡そうとした」ものと報道されている。また、贈賄側にうその証言をするよう働きかけたとして同容疑で逮捕された淡路明人が「秋元議員から証人買収を依頼され、指示を受けた」との趣旨の供述をしているという。

多くの人名が出てきて分かりにくいが整理してみよう。

(1) 主事件は贈収賄である。主役は収賄側の秋元司。脇役が、贈賄側・中国企業「500ドットコム」の紺野昌彦と仲里勝憲の二人。なお、贈賄側2被告の公判は、収賄側とは分離して8月26日に第1回が予定されている。

(2) 派生事件が証人買収で、買収を持ちかけた側が、秋元司、淡路明人、佐藤文彦、宮武和寛の4人である。いずれも逮捕されたが、実行行為は佐藤が紺野に、宮武が仲里に働き掛けたという。紺野・中里は供与された現金を受け取っておらず逮捕されていない。

秋元は、衆院解散当日の2017年9月28日、議員会館の事務所で、IR参入を目指していた中国企業「500ドットコム」元顧問の紺野と中里の2人から現金300万円を受け取ったとされる。秋元は授受を否定し、贈賄側の両被告は公判でも起訴内容を認める方針とみられている。そこで、「9月28日は秋元議員に会っていなかった」と証言の依頼をしたということなのだ。買収資金は、最初は1000万円、次いで用意した現金2000万円を見せての話となり、最終的に3000万円の約束が持ちかけられたという。

立憲民主の安住国対委員長がこう述べている。
秋元議員に対しては、「司法手続きをゆがめるようなことをやったとなると、国会議員としては絶対にあってはならないことなので、即刻、議員辞職に値する。本人がみずから辞めないのであれば、議員辞職勧告決議案を出そうと思っている」

また、「自民党は秋元氏の処分をしないまま離党を認め、安倍総理大臣は、内閣府の副大臣に任命した経緯があり、総裁と総理としての2つの責任がある」。まったく、そのとおりである。

さらに、こんな問題も派生している。証人買収を持ちかけた側の中心に位置するのが、淡路明人である。秋元議員の支援者で会社役員とされるが、マルチ企業「48(よつば)ホールディングス」の元社長。同社は2017年10月に消費者庁から特定商取引法違反で取引停止命令を受けている。以前から、赤旗の報じるところだが、安倍晋三首相や妻の昭恵と接点があり、首相と近いことをマルチの宣伝に使っていた。「安倍さんや菅さんとツーショットを撮れるような立派な人がクローバーをやっている」とのイメージは、強力な“荒稼ぎ”の武器とされた。同社は16年9月17年6月までの10カ月間で192億円以上を“荒稼ぎ”しているという。

この機会に思い起こそう。安倍政権というものの実態を。その数々の腐敗と汚れた歴史を。

「英霊」の望むところとして、首相の靖国参拝を正当化してはならない。

(2020年8月19日)
日本遺族会は、本年8月6日内閣総理大臣安倍晋三宛に、下記「靖国神社への参拝のお願い」なる要請書を提出した。その要請は実現しなかったが、靖国神社問題についての右派の言い分が良く表れている。これにコメントを付す形で、彼我の主張の対峙を確認しておきたい。

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安倍晋三内閣総理大臣の靖国神社への参拝のお願い

 安倍晋三内閣総理大臣におかれましては、戦没者遺族に係わる諸問題につきまして、平素より格別のご高配を陽り、衷心より感謝申しあげます。
 新型コロナウイルスの世界的蔓延により、未曽有の危機的状況の中、我が国においても感染拡大防止に懸命の努力が続けられております。
 さて、本年は終戦から七十五年の節目の年であります。

 安倍内閣総理大臣は平成二十五年十二月、靖国神社に参拝され、英霊に感謝の誠を捧げられました。正に信念を貫かれ、毅然とした態度で参拝されたことに対し、戦没者遺族は等しく感謝をいたしました。

澤藤コメント 仰るとおり、2013年12月26日安倍晋三首相は靖国神社を参拝しました。公用車で乗りつけ、「内閣総理大臣 安倍晋三」と肩書を記帳してその名義で献花し、昇殿参拝したものです。この日、首相は「国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に対して、哀悼の誠をささげるとともに、尊崇の念を表し、み霊安らかなれとご冥福をお祈りした」との談話を発表し、「在任中参拝を続けるか」との記者の質問には「今後のことについて話をするのは差し控えたい」と答えてもいます。予想されたとおり、この首相参拝に対する内外からの批判は凄まじく、安倍首相の靖国神社参拝は後にも先にも、これ1回だけでした。安倍晋三という右派の人物にして、靖国神社参拝は一回こっきり。繰り返すことは無理なのです。敢えて繰り返せば、政権がもたないのです。)

 靖国神社には、かつての大戦で国の安泰と平和、そして家族の幸せを願って尊い生命を国家のために捧げられた二百四十六万余の御霊が祀られております。

(さあ、本当にそうでしょうか。納得し得ない2点を指摘せざるを得ません。
第1点は、靖国に祀られているとされる戦没者は、本当に「国の安泰と平和、そして家族の幸せを願って尊い生命を国家のために捧げられた」のでしょうか。そのような方もいらっしゃったことは否定しません。しかし、多くの方々は、国家によって心ならずも徴兵され、その意に反して武器を持たされ、死地に赴くことを強いられたのではないでしょうか。自ら、国家のために命を捧げた、などと簡単に言ってはならないと思います。
第2点は、招魂の儀式を経て246万余柱の戦没者の霊魂がこの神社に祀られているというのは信仰の次元のお話しです。正確には「私たちは、靖国神社には246万余柱の戦没者の御霊が祀られていると信じています」と仰るべきではないでしょうか。そのような信仰をもたない他者が口を差し挟む余地はありません。しかし、信仰の次元を超えて、世俗の世界に対して「祀られております」と断定されることには、強い違和感を禁じえません。

 戦没者遺族の大多数は肉親の死を看取ることなく、遺骨すら受領していません。戦没者はたとえ肉体はくちても己の御霊は靖国神社に還ることを固く信じて散華されました。

(「戦没者遺族の大多数は肉親の死を看取ることなく、遺骨すら受領していません。」と仰ることには強く共感いたします。戦没者は国家に理不尽な死を強制されただけでなく、死後にも不当な仕打ちを受け続けているのです。この点については、必ずや国民の大多数が戦没者遺族とともに国に対する怒りを共有することになるのだと思います。
しかし、「戦没者はたとえ肉体はくちても己の御霊は靖国神社に還ることを固く信じて散華されました」は、とうてい信じがたいことと言わざるを得ません。遠い異国で没した犠牲者は故国と故郷を偲び、暖かいご家族のもとに帰りたいと願ったに違いありません。どうして、靖国神社に還りたいなどと思うことがありましょうか。もし、本当にそんな思いを抱いた戦没者がいたとすれば、哀れな洗脳教育の被害者というほかはありません。戦後75年、いまだに戦没者を欺し続けてはならないと思います。)

 また、遺族も御霊は靖国神社に必ず還っておられると信じて今日まで慰霊追悼を行ってまいりました。故に、我々戦没者遺族は靖国神社こそが我が国唯一の戦没者と遺族を繋ぐ追悼施設であると確信しております。

(宗教は多様です。死者の霊魂が存在するという宗教もあり、否定する宗教もあります。優れた死者の霊魂が神になるという信仰も、非業な最期を遂げた死者の霊の祟りを恐れる宗教もあります。しかし、国家が戦争による死者を護国の神として祀るという、靖国の教義は特異な国家宗教と考えるべきでしょう。ご遺族が、今日なおこのような国家宗教を信仰し、「御霊は靖国神社に必ず還っておられると信じて」おられるということは常識的には信じがたいところです。)

 英霊が眠る靖国神社に、国の代表である内閣総理大臣が、靖国の御霊に敬意を表し、感謝することは極めて当然であり、自然なことであります。現に世界のいずれの国においても国家のために犠牲となられた戦没者は、その国の責任において手厚く祀られております。

(靖国神社に「英霊」が眠るということが、既に信仰の世界のお話し。これを世俗の世界に持ち出してはなりません。同じ信仰を持つお仲間で慰霊追悼をお願いいたします。「国の代表である内閣総理大臣が、靖国の御霊に敬意を表し、感謝すること」は決して、当然でも自然なことでもありません。むしろ、真っ当な条理からも憲法からも、内閣総理大臣に厳重に禁止されていることで、とうてい許されることではありません。世界のいずれの国においても国家のために犠牲となられた戦没者を特定の宗教団体が神として祀るという例は、少なくも近代国家ではあり得ないことです。)

 しかしながら我が国では、内閣総理大臣の靖国神社参拝はひとえに時の総理の決断に左右されているのが現状であります。そうした中、安倍内閣総理大臣は、堂々と靖国神社に参拝されました。また、靖国神社の春秋の例大祭には大真榊を、さらには、八月十五日の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」には玉串料を泰納されておられます。我々戦没者遺族にとっても大変有難く、重ねて深謝申しあげます。

(内閣総理大臣の靖国神社参拝も、もちろん天皇の参拝も、日本国憲法の政教分離原則に反する、憲法違反の違法行為なのです。どうして日本国憲法が厳格な政教分離原則をつくったか、それはまさしく靖国の思想を否定するためと言ってよいと思います。天皇の神社靖国は、軍国神社でありました。国民を戦争に駆りたて、天皇のために戦って死ねば靖国に神として祀られる最高の栄誉を得ることができる。小学校から、そう教え込んだのです。戦死者は、侵略戦争に邁進して国民を危険に巻き込んだ国家の犠牲者ではありませんか。国民を戦争に駆りたてて犠牲を強いた「天皇の国家」は亡び、新しい「国民の国家」に生まれ変わったのです。その新しい国家の基本原則として、靖国という軍国の宗教を、完全に国家から切り離した宗教法人とし、一切の国との関わりを禁じたのです。それが、戦前の軍国主義の復活を許さず、再び日本を戦争させない国とする重要なブレーキとなっているのです。)

 国の代表である内閣総理大臣の靖国神社参拝の定着こそが、国の安寧と繁栄を願って犠牲となられた戦没者に対して応える唯一の道であり、戦没者遺族はその実現を心より願っております。

(それは、真逆なお考えです。国の代表が特定の宗教と結びつくようなことがあってはならないのです。とりわけ、国民の戦意昂揚のための軍国神社と関わるようなことは許されないのです。戦没者は、靖国に煽られて尊い命を失った、誤った国策の犠牲者ではありませんか。再びの靖国と国家との結びつきを喜ぶはずはありません)

 故に日本遺族会は、総理並びに閣僚の皆様には靖国神社に、また、知事及び遺府県議会議長には護国神社に参拝いただくよう、引き続き運動を推進してまいる所存でございます。

(それは、違憲・違法な運動を推進するということです。決して、心ある国民の賛意を得ることにはなり得ません。むしろ、過ぐる大戦で日本軍の侵略の被害を受けた近隣諸国の民衆や、民間戦争被害者と連帯して、国家の行為によって再び戦争を起こしてはならないという運動に方向を転換すべきではないでしょうか。それこそ、平和を実現する礎となり、戦没者の真に願うところではないでしょうか)

 今日の我が国の平和と繁栄のために、二百四十六万余の尊い生命が礎となられたことを決して忘れてはなりません。安倍内閣総理大臣におかれましては、外国の干渉などに屈することなく、この節目の年に、我が国を代表して、堂々と靖国神社へ参拝していただき、英霊に尊崇と感謝の誠を捧げていただきますよう心からお願い申しあげます。

(日清戦争以来、日本軍は外征して戦争を繰り返しました。外国を「日本の生命線」として、侵略戦争に明け暮れたのです。その侵略戦争が続く間、日本の軍国主義の精神的支柱となった靖国神社に、内閣総理大臣が堂々と参拝するようになったら、近隣諸国が日本を再び危険視することになるでしよう。遺族会は、かつては靖国神社国営化にこだわりましたが、今そんなことは忘れられています。公式参拝要請も止めませんか。一部の政治家の煽動に乗るだけのこと。戦没者にも遺族にも益のないことではありませんか。再びの戦争や軍国の復活を許さず、揺るがぬ平和を打ち立てることこそ、真に戦没者の犠牲を活かすことであり、確かな戦没者への追悼の在り方ではないでしょうか。)

  令和二年八月六日
                     一般財団法人 日 本 遺 族 会
                             会 長 水落敏栄
内閣総理大臣安倍晋三殿

靖国神社とはなんであるか。今、靖国とどのように向き合うべきか。

(2020年8月18日)
例年8月15日は、人々がそれぞれに過去の戦争と向き合う日である。戦争の悲惨さや愚劣さを思い起こし、語り継ぎ、語り合うべき日。そして、再びの戦争を繰り返してはならないとの真摯な誓いを新たにすべき日。が、なかにはまったく別の思惑をあからさまにする人々もいる。

今年の8月15日、靖国神社境内で恒例の「戦没者追悼中央国民集会」が開催された。「英霊にこたえる会」「日本会議」との共催である。産経の伝えるところでは、この集会において「天皇の靖国参拝実現に向け、首相や閣僚の参拝の定着を求めたい」「ところが、安倍首相は2013年以来今日まで参拝をしていない」「首相はすみやかに靖国を参拝して天皇親拝への道を開くべきである」と声が上がったという。

そのアベ晋三、内心は靖国に参拝したいのだ。なぜ? もちろん、票になるとの思惑からである。今日の自分の地位を築いてくれた右翼勢力の願望だからでもある。右翼への義理を欠いては、明日の自分はないとの思いが強い。

しかし、右翼のいうことばかりに耳を貸していたのでは、真っ当な世論に叩かれる。国際世論も国内世論も靖国にはアレルギーが強いのだ。なぜ? 靖国こそは軍国神社であり戦争神社だからである。平和を希求する場としてふさわしい場ではない。いうまでもなく、アベの本性は親靖国にある。しかし、それでは日本国憲法下の首相は務まらない。両者にゴマを摺る手管が必要となる。

そこでアベは、またまた近年定着している姑息な手を使った。自分では参拝しないのだ。内外の世論には「参拝見送り」と妥協した姿勢をアピールする。一方、代理人に参拝させて玉串料を奉納し、右翼勢力には「現状これで精一杯」とアピールする。その姑息なやり方が、今両者からの不満を呼んでいる。

内閣総理大臣の「代理参拝・玉串料奉納」が、政教分離原則(憲法20条1項後段、同条3項)違反である疑いは限りなく濃厚である。しかし、これを法廷で裁く有効な手続き法上の手段に欠けるのだ。ことは、政治的に解決を求められている。

既述のとおり、右翼勢力の願望は「首相や閣僚の参拝定着を露払いとして、天皇の靖国親拝を実現に道を開く」ことにある。ところが、首相の参拝もままならないのが現状。そこに、閣僚の中から4人が、「8・15靖国参拝」を買って出た。高市早苗(総務相)、萩生田光一(文科相)、衛藤晟一(沖縄北方担当相)、小泉進次郎(環境相)である。これこそ、右派の鑑、右翼の希望である。名うての右派と並んだ小泉進次郎が話題となり、またまた、真っ当な世論からは叩かれてブランドイメージを失墜することとなっている。

そこで考えたい。靖国とは、いったいなんなのだ。
靖国とは、まずは何よりも「天皇の神社」である。近代天皇制を創出した明治政府が、天皇制の付属物として発明した新興の宗教施設なのだ。幕末の騒乱や戊辰戦役で戦死した官軍側将兵の「魂」を祭神とする急拵えの「創建神社」として出発し、やがて対外戦争で天皇のために戦死した皇軍将兵に対する特別の慰霊の場となった。戦死者を生み出した戦役の都度、新祭神の合祀のための臨時大祭が行われ、勅使ではなく天皇自身の親拝が例とされた。九段の母たちは、亡くなった我が子に拝礼する天皇の姿に感涙したのだ。

そして、靖国とは「軍国神社」である。軍国とは、戦争の完遂を最重要の目的とする国家のことだから、軍国神社は「戦争神社」でもある。軍国神社としての靖国は、宗教的軍事施設でもあり、軍事的な宗教施設でもあった。靖国の宮司は陸海軍大将が務め、その境内の警備は警察ではなく憲兵が行った。皇軍の将兵ばかりでなく、学生も生徒も靖国参拝を強いられた。無名の国民も、軍人となり戦死することで神にもなれるのだ。こうして靖国は、国民を軍国主義の昂揚に駆りたてる精神的支柱となった。

さらに靖国は侵略神社でもあった。大日本帝国は、武力をもって、台湾・朝鮮・満州と侵略を進め、やがて中国本土をも戦場にする。その戦争拡大にいささかなりとも疑義を呈することは、「護国の英霊」を侮辱するものとして許されなかった。侵略戦争を正当化しこれに反対する者を黙らせる装置として作動した。戦後の今もなお、靖国のその姿勢に変化はない。

また、戦前の靖国は、国民に対する戦意高揚の道具でもあった。修身(小4)では、「靖国神社には、君のため国のためにつくしてなくなった、たくさんの忠義な人びとが、おまつりしてあります」「私たちは、天皇陛下の御恵みのほどをありがたく思うふともに、ここにまつられてゐる人々の忠義にならって君のため国のためにつくさなければなりません」と教えられた。戦後、宗教法人となった靖国神社は、「信仰における教義」としてこの考え方を維持している。天皇が命じた戦争は聖戦であり、聖戦に殉じることは国民の最高道徳である。これが、今にしてなお払拭できていない「靖国の思想」の根幹である。

最も厄介なことは、靖国神社は一定の民衆の支持を得ているという点にあり、その民衆の支持のあり方が不正常なのだ。本来、戦没者は国家の誤った政策の犠牲者である。天皇の戦争に駆りだされ、天皇の命令で死地に赴いた戦没者は、天皇を怨んで当然である。ところがそうなつていない。

遺族にとっては、どのような形でも戦死者を忘れられた存在にしたくない。無意味な戦争での犬死であったとされることはなおさらに辛い。靖国が、戦死を「聖戦の犠牲」「祖国の大義に殉じた名誉の戦死」と意味づけ、死者を賞讃して厚く祀ってくれることは、この上なく有難いことなのだ。靖国は「英霊」を尊崇する場である。皇軍の将兵の死にだけ奉られた「英霊」という美称が心地よい。そのような遺族の耳には、侵略戦争論、天皇の戦争責任、皇軍の加害責任、日本の不正義の論調は入りにくい。しかも、靖国に祀られることと、軍人恩給を受給することとは重なるように制度の運用がなされてもいる。靖国こそは、最強のマインドコントロール装置というべきである。

戦没者遺族の心情に配慮して靖国批判は慎むべきだという意見がある。しかし、批判を慎んでいるだけでは、靖国に取り込まれた遺族の意識の変化を期待することはできない。マインドコントロール解除の努力を積み上げていくしかない。とりわけ、首相や閣僚の靖国参拝には批判が必要である。

政教分離の眼目のひとつは天皇を神とする儀式の禁止にあるが、もう一つが、政府と靖国との接近・癒着の禁止にある。首相や閣僚の靖国参拝や玉串料奉納は、中国や韓国との外交上の配慮から政策的に禁止されているというものではない。わが国民が過ぐる大戦の惨禍を繰り返すまいとして確定した日本国憲法が命じているところなのだ。

韓国外務省報道官は、4閣僚の靖国参拝に対し「深い失望と憂慮を表明する」「日本の責任ある指導者らが歴史に対する心からの反省を行動で示してこそ、未来志向的な韓日関係を構築し周辺国や国際社会の信頼を得られる」との声明を発表した。

このコメントでは、「歴史に対する心からの反省を示す行動」の真逆の行動として閣僚の靖国参拝が語られている。被侵略国からの指摘として、重く受けとめなければならない。

戦争における死を、「尊い犠牲」と美化してはならない。

(2020年8月15日)
8月15日。75年前の今日、「戦前」が終わって「戦後」が始まった。時代が劇的に変わった、その節目の日。天皇の時代から国民の時代に。国家の時代から個人の時代に。戦争と軍国主義の時代から平和と国際協調の時代に。そして、専制の時代から民主主義の時代に…。

その時代の変化は、「敗戦」によって購われた。「敗戦」とは、失われた310万の国民の生命であり、幾千万の人々の恐怖や餓えであり、その家族や友の悲嘆である。人類にとって、戦争ほど理不尽で無惨で堪えがたいものはない。敗戦の実体験をへて、国民は戦争の悲惨と愚かさを心に刻んで、平和を希求した。

再びの戦争の惨禍を繰り返してはならない。その国民の共通意識が、平和憲法に結実した。日本国憲法は、単に9条だけではなく、前文から103条までの全ての条文が不再戦の決意と理念にもとづいて構成されている。文字どおりの平和憲法なのだ。

以下のとおり、憲法前文は国際協調と平和主義に貫かれている。8月15日にこそ、あらためて読み直すべきある。

「日本国民は、…われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果…を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、この憲法を確定する。」(第1文)

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」(第2文)

「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(第3文)

とはいえ、日本国憲法を理想の平和憲法というつもりはない。この前文には、日本の加害責任についての反省が語られていない。そして、この戦争の被害・加害を作り出した国家の構造と責任に対する弾劾への言及がない。

「戦争の惨禍」という言葉は、戦争による日本国民の被害を意味する。政府と国民が近隣諸国に及ぼした、遙かに巨大な被侵略国の被害を含むものと読み込むことはできない。日清戦争以来日本が関わった戦争の戦場は、常に「外地」であった。敗戦の直前まで、「本土」は戦場ではなかったのだ。日本本土の国民にとって、戦争とは、外征した日本の軍隊が、遠い外国で行うものだった。その遠い外国に侵略した皇軍に蹂躙された近隣諸国の民衆の悲嘆に対する認識と責任の意識が欠けている。

また、日本の植民地支配・侵略戦争をもたらし支えた日本の国家機構が天皇制であり、その最大の戦争責任が天皇裕仁にあることは自明というべきである。にもかかわらず、日本国憲法は、その責任追及に言及することなく、象徴天皇として天皇制を延命してさえいる。敗戦の前後を通じ、大日本帝国憲法と日本国憲法の両憲法にまたがって、裕仁は天皇でありつづけたのだ。

国民を戦争に動員するために、聖なる天皇とはまことに便利な道具であった。神なる天皇の戦争が万が一にも不正義であるはずはなく、敗北に至るはずもない。日本男児として、天皇の命じる招集を拒否するなど非国民の振る舞いはできない、上官の命令を陛下の命令と心得て死をも恐れず勇敢に闘う。ひとえに陛下のために。天皇制政府はこのように国民をマインドコントロールすることに成功していたのだ。

3代目の象徴天皇(徳仁)が、本日全国戦没者追悼式に臨んだ。主権者国民を起立させての発言の中に、「過去を顧み、深い反省の上に立って」との一節がある。「過去天皇制が自由や民主主義を弾圧したことに顧み、その罪科の深い反省の上に立って」との意であれば立派な発言なのだが…。

また、同式典では、アベ晋三がいつものとおり、こう式辞を述べた。

 今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、終戦から75年を迎えた今も、私たちは決して忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。

 この言い回しに、いつも引っかかる。「私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたもの」とはいったいどういうことなんだ。

天皇のための死も、国家のための死も、死はまことに嘆かわしく虚しいものだ。これを「尊い犠牲」などと美化してはならない。天皇と政府は、戦没者とその遺族にひたすら謝罪するしかないのだ。特攻の兵士の死が、レイテで餓死した将兵の死が、東京大空襲や沖縄地上戦での住民の死が、何故「尊い犠牲」であろうか。全ては強いられた無意味な死ではないか。その死を強いた者の責任をこそ追及しなければならない。

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