(2022年7月19日)
かつて、「国葬令」というものがあった。特定の個人の死を国家として悼む制度を法制化したものである。帝国議会の協賛を経ない勅令という法形式。1947年の日本国憲法施行にともなって失効した。
その全文(本文5か条)が以下のとおり。半角を使って、少し読みやすくしてみた。
勅令第三百二十四号
朕 樞密顧問ノ諮詢ヲ経テ国葬令ヲ裁可シ 茲ニ之ヲ公布セシム
嘉仁 裕仁 御璽 (当時、裕仁は摂政だった)
大正十五年十月二十一日 (1926年)
内閣総理大臣 若槻礼次郎(以下自署)
陸軍大臣 宇垣一成
海軍大臣 財部彪
外務大臣 男爵 幣原喜重郎
文部大臣 岡田良平
内務大臣 濱口雄幸
遞信大臣 安達謙蔵
司法大臣 江木翼
大蔵大臣 片岡直温
鉄道大臣 子爵 井上匡四郎
農林大臣 町田忠治
商工大臣 藤澤幾之輔
第一条 大喪儀ハ 国葬トス
第二条 皇太子皇太子妃 皇太孫皇太孫妃 及 攝政タル親王 内親王 王 女王ノ喪儀ハ 国葬トス
但シ 皇太子 皇太孫 七歳未満ノ殤ナルトキハ 此ノ限ニ在ラス
第三条 国家ニ偉勳アル者 薨去又ハ死亡シタルトキハ 特旨ニ依リ 国葬ヲ賜フコトアルヘシ
前項ノ特旨ハ 勅書ヲ以テシ 内閣總理大臣之ヲ公告ス
第四条 皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ 喪儀ヲ行フ当日廃朝シ 国民喪ヲ服ス
第五条 皇族ニ非サル者 国葬ノ場合ニ於テハ 喪儀ノ式ハ 内閣總理大臣勅裁を経テ之ヲ定ム
これを分かり易く意訳してみればこんなところだろうか。
第1条 天皇や皇后・皇太后の葬儀は国葬として行う。
第2条 皇太子や一定の皇族の葬儀も同様とする。
第3条 国家に特別の貢献あった者が死んだときには、天皇の特別のはからいで国葬にすることがある。
第4条 皇族でない者の国葬の日には、天皇は執務を控え国民は喪に服する。
第5条 皇族でない者の国葬の儀式のあり方は、天皇の決裁を得て内閣總理大臣が決める。
この勅令(法律と同様の効力を持つ)の眼目は、第4条の「国民喪ヲ服ス」である。「いやしくも国葬である、国民一同国家に貢献あった被葬者を悼み服喪せよ」という、上から目線の弔意の強制なのだ。「皇族ニ非サル者国葬ノ場合ニ於テハ」と限定されているようだが、実は、天皇や皇族の葬儀については、「皇室服喪令」(1909年)が先行してあり、「臣民も喪に服する」とされている。つまり、国葬は国を挙げての一大行事であって、天皇も臣民も、その死者の生前における国家への貢献に敬意を表し哀悼の意を示さなければならない。国葬の日には服喪が要求される。歌舞音曲なんぞとんでもない、のだ。
以下は宮間純一教授(近代史・中央大学)の教えるところ(要約・抜粋)である。とても分かりやすく、肯ける。
「戦前の国葬は岩倉具視にはじまり、以降、1945年まで21名の国葬が、天皇の「特旨」によって執り行われた。
国葬は、回数を重ねる中で形式を整えてゆく。「功臣」の死を悼むために天皇は政務に就かない(これを「廃朝」という)、国民は歌舞音曲を停止して静粛にする、死刑執行は停止するといったことも定型化する。
葬儀の現場東京から離れた町村・神社・学校などでも追悼のための儀式が実施された。また、メディアが発達したことを背景に、新聞などを通じてその人の死が「功臣」たるにふさわしい業績・美談とともに広められてゆく。全国各地の人びとは、追悼行事に参加することで、「功臣」が支えたとされる天皇や国家を鮮明に意識することになる。
天皇は国家統合の象徴として演出され、万世一系の元首として振る舞った。天皇から「功臣」に賜る国葬は、そうした国民国家の建設のさなかに、国家統合のための文化装置として機能することが期待されて成立した。
国葬という制度が本来的にもっている性質を理解していれば、国葬を実施することにより、「民主主義を断固として守り抜く」という発想が出てくるはずがない。国葬は、むしろ民主主義の精神と相反する制度である。国家が特定の人間の人生を特別視し、批判意見を抑圧しうる制度など、民主主義のもとで成立しようはずがない」
さて、「民主主義のもとで成立しようはずがない」という国葬が安倍晋三について強行されようとしている。国民に対しては、歌舞音曲を停止して静粛にし、安倍晋三に対する哀悼の意を表明することが事実上強制されることになる。東京から離れた町村・神社・学校などでも追悼のための儀式が実施されるに違いない。また、メディアが発達したことを背景に、新聞やテレビ、ネットなどを通じて、安倍晋三の死が「国葬」にふさわしい業績・美談とともに広められてゆく。全国各地の人びとは、追悼行事に参加することで、安倍晋三が支えたとされる、国家や自民党や右翼勢力を鮮明に意識することになる。そして、安倍の負の遺産を批判することが封じられる雰囲気がつくられていく。
やっぱりごめんだ。安倍晋三の国葬。
(2022年7月18日)
政府は、今秋安倍晋三の「国葬」を行うという。いかなる思惑あってのことであろうか。私は、岸田の胸中をこう忖度している。
今、安倍は「非業の死」を遂げた悲劇の政治家だ。国民の同情が集まっている。これまで政治に無関心だった層に、ドラマみたいな刺激を与えただけではない。アベノマスク問題で無駄金を使い、「中抜き業者ばかりを儲けさせた、無為・無能・無策のアベ」と批判していた層からも、「アベさんが何をやったかの議論はひとまず措いて」、「あんな殺され方は、たいへんにお気の毒」という同情を集めている。これはチャンスだ。このチャンスを逃しちゃならない。鉄は熱いうちに打て、国葬は興奮冷めやらぬうちに決めろ。
政治利用と指摘されようと、手法が強引と批判されようと、安倍に対する国民の同情を煽り、同情の心情に方向付けをしなければならない。まずは、安倍受難の悲劇を強調することで、生前の所業に対する批判を封じることだ。安倍政治は自民党総裁として行われたもの。基本的には、今も継承されているし今後も続くことになる。ウソつきだのごまかしだの、あるいは公文書の改竄隠蔽、政治の私物化などの数々の疑惑で轟々たる安倍批判が続くことは、自民党政治の継続が危うくするということだ。これを封じなくてはならない。既に、安倍に対する儀礼的な弔意が連鎖的に重なることで、安倍批判は言い出しにくい空気が醸し出されている。これは好都合だ。
安倍批判を封じるだけでは足りない。安倍を「偉大な政治家」と天まで持ち上げることが肝要だ。真っ当なジャーナリストには、こんな恥ずかしいことは期待できない。こういうときのために暖めていた「アベ友」言論人グループの活躍のときだ。なにせ自民党と保守言論、持ちつ持たれつのズブズブの関係なんだから。
こうなれば、外国メディアも、外交筋も無視はできなくなる。どうせみんな、お世辞の付き合いなのだ。その上での、国葬だ。安倍の死を最大限利用しての国葬の実現だが、国葬が実現すればその効果は大きい。あらためて国民各層に「アベの偉大さ」を再認識させることができる。こうして、ますますアベ批判はしにくくなる。自民党政治は安泰化する。万々歳だ。
うまくいけばの話だが、安倍の死の政治利用を改憲の実現につなげることだってできない話しではない。安倍の悲願は改憲にあった。国民の同情を、「改憲の志半ばで非業の最期を遂げた政治家」に感情移入させればよいのだ。あるいは、「改憲実現の願いを凶弾に砕かれた悲劇の政治家」などというイメージの刷り込み。このことによって、「偉大な政治家安倍晋三の遺志を継いで改憲の実現を」という世論誘導もできよう。そのためのイベントとして、国葬は決定的な役割を果たすことになる。
国葬の日は「国民の休日」にしたいものだ。学校は休みにせずに、子どもたちを集めて「偉大な政治家安倍晋三」追悼の行事に参加させよう。「安倍恩赦」もしなきゃならん。もちろんこの日は歌舞音曲の類いは禁止だ。テレビのお笑い番組なんてとんでもない。どの局も、「偉大な政治家安倍晋三追悼」の特番を流さなくてはいけない。葬儀はこの上なく盛大にやろう。その様子はリアルタイムで放映し、関係者の追悼インタビューを延々とやらせよう。それから、芸能人の起用だ。関連イベントを到るところで盛大に盛り上げなければならない。外国要人に、アベシンゾーの偉大さを語らせよう。安倍追悼のパンフレットもうんとばらまこう。安倍追悼広告でまたまた電通を儲けさせることもできる。これくらいやれば、国民に自民党政治路線の正しさを刷り込むことができるだろう。そうすりゃ、岸田長期政権の実現も夢ではない。
もともと「国葬」は、天皇制政府による「死の政治利用」であったそうだ(宮間純一中央大学教授)。1878年に不平士族たちによって暗殺された大久保利通の葬儀に始まるという。国家を挙げて大久保という人物に哀悼の意を示すことで、反対派の動きを封じ込めるという明確な政治的目的をもって執り行われたとのことだ。
今回もよく似ているじゃないか。安倍国葬は明らかに「死の政治利用」だよ。政治家が、政治家の死を政治利用する、やましいところはない。とはいえ、相当無理して国葬やろうと踏み切ったのだから、このチャンスの最大限の利用価値を引き出さなくてはならない。さて、どうやろうか。
(2022年7月16日)
事件の衝撃から8日経った。メディアも政治家も落ち着きを取り戻しつつある。問題の整理もできつつあるのではないか。本日の毎日新聞夕刊に、まだやや腰が引けた感はあるものの、金平茂紀がこう述べている。
「作家の高村薫氏が毎日新聞朝刊(10日)で「(宗教団体への恨みという一部報道を受けとめれば、今回の事件は)非常に特殊な事例と言えるのではないか。安倍氏が銃撃されたことを受け、この事件を『民主主義への挑戦』や『民主主義の崩壊』ととらえる人もいるが、私は違うと思う」と述べていた鋭さに驚嘆した。
死者の追悼と、真実の報道は峻別しなければならない。まして、政治家の「非業の死」を政治利用する行為は、死者を本当の意味で悼むこととは隔たりがある。このことをテレビは今、しかと肝に銘じるべき時である。」
当然といえば当然のことだが、「死者の追悼と、真実の報道は峻別しなければならない」。「銃撃に倒れた安倍晋三の追悼と、安倍晋三が統一教会とズブズブの関係にあって多くの不幸を作り出したという真実の報道とは峻別しなければならない」のだ。 さらに、政治家安倍晋三が生前何をしたか、その評価にいささかの緩みもあってはならない。ましてや、「政治家の『非業の死』を政治利用する行為」をけっして許してはならない。これが、問題の整理である。
日本共産党の志位委員長談話が本日の赤旗トップを飾っている。
「安倍元首相礼賛の『国葬』の実施に反対する」という表題。内容は、かっちりとした立派なものだ。要旨は以下のとおり。
「昨日、岸田文雄首相は、参院選遊説中に銃撃を受け亡くなった安倍晋三元首相について、今秋に「国葬」を行うと発表した。
日本共産党は、安倍元首相が無法な銃撃で殺害されたことに対して、深い哀悼の気持ちをのべ、暴挙への厳しい糾弾を表明してきた。政治的立場を異にしていても、ともに国政に携わってきたものとして、亡くなった方に対しては礼儀をつくすのがわが党の立場である。
それは安倍元首相に対する政治的評価、政治的批判とは全く別の問題である。日本共産党は、安倍元首相の在任時に、その内政・外交政策の全般、その政治姿勢に対して、厳しい批判的立場を貫いてきたし、その立場は今でも変わらない。
国民のなかでも、安倍元首相の政治的立場や政治姿勢に対する評価は、大きく分かれていることは明らかだと考える。
しかも、安倍元首相の内政・外交政策の問題点は、過去の問題ではなく、岸田政権がその基本点を継承することを言明しているもとで、今日の日本政治の問題点そのものでもある。
岸田首相が言明したように、安倍元首相を、内政でも外交でも全面的に礼賛する立場での「国葬」を行うことは、国民のなかで評価が大きく分かれている安倍氏の政治的立場や政治姿勢を、国家として全面的に公認し、国家として安倍氏の政治を賛美・礼賛することになる。
またこうした形で「国葬」を行うことが、安倍元首相に対する弔意を、個々の国民に対して、事実上強制することにつながることが、強く懸念される。弔意というのは、誰に対するものであっても、弔意を示すかどうかも含めて、すべて内心の自由にかかわる問題であり、国家が弔意を求めたり、弔意を事実上強制したりすることは、あってはならないことである。」
れいわ新選組代表の山本太郎も、「これまでの政策的失敗を口に出すことも憚れる空気を作り出し、神格化されるような国葬を行うこと自体がおかしい」と、「安倍氏国葬に反対」を表明した。参院議員辻元清美も。
公明が「(賛否について)コメントせず」と報道されていることに注目せざるをを得ない。記者団に「この件について、党としてコメントしない」と答えたという。けっして、積極賛成ではないのだ。
また、安倍とは親交が深かったという維新の松井一郎。記者団に「反対ではないが、賛成する人ばかりではない」と述べた。「『反安倍』はたくさんいる。批判が遺族に向かないことを祈っている」とも強調したという。なかなかに意味深ではないか。
こういう問題が起きたときに、何を言うかで、その人物が計られる。
(2022年7月14日)
安倍晋三は、政治を私物化したウソつき政治家だった。生前の功績など、一つとして私は知らない。罪科の方なら、いくつも数え上げることができる。端的に言えば、彼は日本民主主義を壊した。その意味で大きな負のレガシーを遺した。「こんな人物」を長く首相にしておいたことが、主権者の一人として恥ずかしい。我が国の民主主義は、ウソつきを首相に据えるにふさわしい水準だったということになる。
このウソつきが、ようやくにして首相の座を下りた。首相の時代の深刻な政治の私物化や、数々のウソや、告発された犯罪や、公文書の隠蔽・改竄、虚偽答弁の数々…。その疑惑の解明が不可避の民主主義的課題でありながら、遅々として進まぬうちに彼は亡くなった。
ところが驚いた。このウソつき政治家が死んだら、国葬だという。タチの悪いウソをつかれている思いだが、現首相は本気のご様子だ。岸田はやっぱり、右側の片耳しか聞こえないのか。そりゃあり得ない、とんでもないこと。正気の沙汰ではない。反対側の耳もほじって、考え直してもらわねばならない。
「岸田文雄首相は14日の記者会見で、8日に街頭演説中に銃撃を受けて死亡した安倍晋三元首相の『国葬儀』を秋にも執り行う考えを明らかにした。費用は全額政府が拠出する。首相は安倍氏について『ご功績は誠に素晴らしいものだ』とした上で『国葬儀を執り行うことで、我が国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くという決意を示していく』と述べた」(朝日)
これには、呆れた。「ご功績は誠に素晴らしいもの」「我が国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く」には、二の句が継げない。まるで、岸田文雄には、安倍晋三のウソつきぶりが乗り移ったごとくではないか。
長く権力を掌握した安倍晋三の生前における政治の私物化や、数知れぬウソや、告発された未解明の犯罪の数々や、公文書の隠蔽・改竄等々こそ、「民主主義が断固として許さざるところ」であった。そして今や、この安倍晋三の悪行の総てを誰への忖度もなく暴いて真実を明らかにすることこそが民主主義の求めるものなのだ。
だから、生前の安倍晋三の悪行を余すところなく明らかにすることこそが「権力に屈せず民主主義を断固として守り抜く」ことになるのだ。安倍晋三の国葬は、民主主義に反する悪行を重ねてきた安倍の死の政治利用として「民主主義を断固として破壊する決意」を示すものである。
安倍晋三の国葬は、その生前の悪行を隠蔽するためのイチジクの葉である。安倍晋三を持ち上げることで、憲法改悪や国防国家化を推し進めようとする保守勢力のたくらみを許すことでもある。安倍の死を政治利用しようという連中にとっては、安倍の悪行が明らかになっては困るのだ。その臭い物に、蓋となるのが国葬なのだ。
「国葬儀」なるもののイメージはつかみがたい。が、国家・国民こぞって、このウソつきを追悼しようというたくらみであることは確かだろう。
しかし、考えてもみよ。ウソつきを国家・国民こぞって追悼できるだろうか。お仲間だけでやっていればよいことだ。国政を私物化した人物についても同様である。プーチンと親友だった人物、トランプに卑屈だった男、そして、無為無策無能の政治家。歴史修正主義者で民族差別主義者で、ただただ日本国憲法に敵意を剥き出しにしてきた三代目の保守世襲政治家。生前も公私混同甚だしかった安倍晋三だが、死してなおこの始末。
どう考えても、ウソとごまかしをもっぱらにしてきた安倍晋三である。こんな評判の悪い人物を国葬にしちゃあいけない。当たり前のことだ。安倍晋三の生前の所業を厳しく断罪することが民主主義と国民の道義を回復する本道である。国葬は、明らかにこの本道を逆走させるものでしかない。悪いことは言わない、やめておきなさいよ岸田さん。
(2022年7月13日)
本日の産経新聞・朝刊の一面トップに、何ともおどろおどろしくも不愉快極まる大見出し。「安倍氏『国葬』待望論 法整備や国費投入課題 政府『国民葬』模索も」。その記事の一部を引用する。
「参院選の街頭演説中に銃撃され死亡した安倍晋三元首相の政府主導の葬儀について、自民党内や保守層から「国葬」を求める声が上がっている。ただ、元首相の葬儀に国費を投じることには批判的な意見も根強い。国家に貢献した功労者をどう弔うのか─。政府は今後、検討を進めるが、…」
「過去の例に照らせば、国葬となる可能性は高くない。同42年に生前の功績を考慮して吉田茂元首相の国葬が例外的に行われたが、それ以降は首相経験者の国葬は一度もない。」
「最近では内閣と自民による「合同葬」が主流で、安倍氏もこの形式となる可能性が有力視される。
ただ、首相在職日数で憲政史上最長を誇る安倍氏に対し、最大の礼遇を望む支持者の声は強い。国葬令は失効しているが、必要な法律がなければ整備するのが政治の役割でもある。政府内からも「法律をつくって国葬にすればいい」(官邸筋)との声が上がる。」
「それでも二の足を踏むのは、葬儀に国費を投入することへの批判が根強いからだ。国と自民党が費用を出し合う合同葬でさえ、一部野党や左派メディアは反発する。全額を国が負担する国葬をあえて復活させればさらに強く抵抗し、政権運営にも影響しかねない。」
「こうしたことを考慮し、政府には「国民葬」を模索する動きもある。内閣と自民党、国民有志の主催で、佐藤栄作元首相が死去した際に行われた。」
「国葬」であれ「合同葬」であれ、はたまた「国民葬」という形においてであれ、特定の死者に対する国民への弔意の強制はあってはならない。とりわけ、安倍晋三に対する弔意の押し売りはまっぴらご免だ。
人の死は本来純粋に私的なものである。葬儀は、その人の死を真に悼む人々によって執り行なわれるべきもので、これを政治的パフォーマンスとして利用することは邪道なのだ。政治家の葬儀とは、そのような邪道としての政治的パフォーマンス、ないしは政治ショーとして行われる。本来は私的な特定人物の死を、国家がイデオロギー的に意味づける政治利用の極致が国葬にほかならない。
安倍晋三の死は、いま日本の右翼勢力と改憲派にとって貴重な政治的資源となっている。この資源を最大限利用する形態が国葬であって、当然に安倍晋三の死を悼む気持ちのない多くの人々に最も強い形で弔意を押し付けるものでもある。安倍晋三の国葬、けっしてあってはならない。
安倍晋三の葬儀は、真に安倍を悼む人々が私的に執り行えばよい。それ以外の人々を巻き込んで、弔意と費用負担の押し付けてはならない。国家に、そのような権限はない。
いったい、政治家としての安倍晋三は何をしたのか。民主主義を壊した。政治を私物化した。ウソとごまかしで政治を劣化させた。経済政策では、貧困と格差を広げた。日本の成長を止めた。アベノマスクに象徴される、無為・無策・無能の政治家だった。外交ではプーチンと親交を深めたが北方領土問題の解決の糸口もつかめなかった。拉致問題をこじらせ政治利用はしたが何の進展も見いだせなかった。こんな政治家を国葬にせよとは、厚顔にもほどがある。泉下の安倍も、赤面しているに違いない。
第1次安倍内閣の、教育基本法改悪を忘れてはならない。第二次内閣では、何よりも集団的自衛権行使を容認した戦争法制定で、憲法の中身を変えた。それだけではなく、特定秘密保護法や共謀罪を制定した。コントロールとブロックというウソで固めて醜悪な東京オリンピックを招致した。弱者に居丈高になりトランプには卑屈になるという、尊敬に値しない人格だった。
森友学園事件、加計学園問題、桜を観る会疑惑、黒川検事長・河井元法務大臣事件、さらにタマゴにカジノだ。これまで、こんなにも疑惑に満ち、腐敗にまみれた内閣があっただろうか。それだけでなく、その疑惑を隠すための公文書の隠ぺい、改ざん、廃棄までした。
彼がやりたくてできなかったのが憲法改悪の実現であった。今、彼の死を利用して、憲法改悪を推進しようとの策動を許してはならない。その一端である、安倍晋三の国葬をやめさせよう。
「えっ? アベの国葬? まさか?」「それって、ご冗談ですよね」「こんな悪い人でも、死ねば水に流して国葬ですか?」「私の納めた税金をそんなことに使うなんて絶対に認めない」
(2022年6月30日)
安倍晋三という御仁、品性に欠けること甚だしい。保守の政治家に品位や倫理を求めるのが筋違いと言われればそのとおりではあろうが、この人の国会答弁におけるウソつきぶりは並外れたものだった。のみならず、「キョーサントー」だの、「ニッキョーソ」だのという、唐突に発せられる訳の分からぬ野次の印象が強烈である。
この御仁が長く我が国行政府のトップに君臨していたのだから、これは国恥というほかはない。私はナショナリストではないが、「国民はその民度(民主主義の成熟度と言ってもよい)にふさわしい政治しかもてない」という格言に照らして、アレが我々の民度(あるいは民主主義の成熟度)を映す鏡かと思うだに気恥ずかしさを拭えなかった。
この人、「国会で118回も嘘 安倍前首相は『虚偽答弁のホームラン王』」として名を上げたため、「国会でのウソの答弁は118回」だけだったと誤解されている向きもあるようだ。念のため、申しあげておきたいが、「国会での118回の嘘」は、衆参本会議と両予算委での「桜疑惑」に関するものだけ。しかも、衆院調査局が厳格に数えた固いところでの「明らかな虚偽答弁」の回数でしかない。安倍晋三のウソは、「モリ・カケ・サクラ・クロ・カワイ」「カジノにタマゴ」と際限がない。おそらく総計では、ウソ800回にもなることだろう。
ようやく首相の座からは降りてくれたものの、この人の品性欠如は宿痾と言わざるを得ない。改心は期待しえず生涯つきまとう運命なのだ。常に新たなウソをばら撒き、新たな疑惑を招き、新たな刑事告発を受け続ける身である。さらに世界のゴロツキとして名を上げたプーチンとは、兄たりがたく弟足りがたい間柄。
「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている。行きましょう。ロシアの若人のために。そして、日本の未来を担う人々のために。ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」
ウラジーミルとは言わずもがなのプーチンのこと。読むだに恥ずかしいこのセリフをシラフで口にしたのは、ウラジーミルの親友シンゾーである。2019年、ウラジオストク「東方経済フォーラム」でのスピーチの一節。
こんな恥ずべき安倍晋三にも、今回参院選で応援を依頼する候補者もいるのだという。信じがたいのだが、それが自民党という集団の現実。
その安倍晋三の演説の特徴は、反共に徹しているという。たとえば、こんな風に。
「憲法改正に取り組んでいきたい。多くの憲法学者が自衛隊違憲と言っている。共産党も違憲だと言っている。でも共産党は、いざというときは自衛隊を活用するといっている。おかしいじゃないか」「共産党との共闘を否定しない立憲もおかしいじゃないか」
おかしいだろうか。私には、ちっともおかしいとは思えない。アベノミクスやアベノマスクの方が何層倍もおかしいじゃないか。伝わってくるのは、安倍晋三にとっては、何よりも日本共産党が邪魔でしょうがないということ。改憲も軍事増強も、アベノミクス推進も、数々の不祥事も、共産党さえいなければ、もっとうまくやれたのに。という無念さが滲み出ている。
今や安倍晋三を恐れる必要はない。しかし、心配しなければならないのは、反共主義・反共宣伝というものの恐さである。反共は、独裁の前触れ、広範な共闘の破壊者である。戦争の前夜には反共の空気が世に満ちる。
安倍晋三とは、改憲派であり、歴史修正主義者であり、国家主義者であり、好戦派であり、戦前回帰派であり、加えて新自由主義者でもある。平和も、人権も、税制改革も、ジェンダー平等も、国民一人ひとりの豊かさも、安倍晋三の唱える反共主義の克服なしには実現しない。
平和や自由や平等を求める人は、品性欠いて、ウソつきで、反共の安倍晋三が大嫌いに違いない。躊躇なく、こぞって日本共産党への投票で、安倍晋三が代表する危険な方向への時代の流れに、大きなブレーキを掛けていただきたい。
ぜひとも、比例代表の投票には、「日本共産党」とお書きください。
(2022年6月16日)
人は平等である。これは民主主義社会における公理だ。差別はあってはならない。差別を間近に見ることもおぞましい。差別に曝されている人の辛さは想像を絶する。この世からあらゆる差別をなくさねばならない。あらゆる人がのびのびと生きていけるように。
しかし、現実には差別はなくならない。この世には差別が好きな人が、少なからずいるのだ。たとえば石原慎太郎。民族差別・人種差別・女性差別・障害者差別・思想差別・不幸な者に対する差別、弱い存在に対する差別…。この天性の差別大好き人間に対する糾弾の声が必ずしも社会全体のものとならない。この恥ずべき人物を支持する一定の勢力が確かに存在するのだ。
山縣有朋の死に対して石橋湛山が送った言葉が「死もまた社会奉仕なり」だという。石原の死に際してこの湛山の言葉があらためて引用され、社会は多少健全化されたかと思ったは甘かった。安倍晋三や渡辺恒雄らが発起人となって、「お別れ会」が開催された。差別大好き陣営の総決起集会である。
安倍晋三がこの会で、石原について、「いつも背筋を伸ばし、時に傍若無人に振るまいながらも誰からも愛された方だった」と発言したという報に接して驚愕し、ややあって驚愕した自分を恥じた。私は、差別された側の民族・人種・女性・障害者・思想、総じて弱者が石原を愛するはずはないではないか、差別をあってはならないとする多くの良識ある人々が石原を軽蔑こそすれ、愛するなんてとんでもない、そう思ったのだ。
しかし、石原や安倍の眼中には、差別される人も差別に憤る人もない。石原や安倍が言う「誰からも」とは、差別を肯定し、差別を笑う、差別大好き人間だけを指しているのだ。なるほど、確かに石原は、差別大好き人間の「誰からも」愛される存在だった。そして、安倍もその同類なのだ。
差別とは心根である。人の平等を認めたくないといういびつな精神の表れである。知性に劣り自我を確立できない人物は、常に自分が多数派で強者の側に属していることを確認したいのだ。社会を多数派と少数派に分け、多数派を優れたものとし少数派を劣ったものとする「思い込み」に基づいて、自分が多数派に属することでの安心を求める。
差別大好き人間にとっては、この世の人々が平等であってはならない。社会は水平ではなく凹凸がなければならず、自分が社会の上位の部分に属することを確認せずには安心が得られない。差別はまったくいわれのない侮蔑であるが、この差別を生む構造は、まったくいわれのない尊貴とこれに対する敬意(ないしは、へつらい)とを必要とする。
この世に「貴族」あればこその「卑族」の存在である。かつてはバカバカしくも、人の価値が天皇からの距離で測られた。今なお、その残滓がある。天皇がいるから、被差別部落があり、在日差別がまかりとおる。天皇や皇族に畏れいる心根と、在日や部落差別を受け入れる心根とは表裏一体と言わねばならない。
だから、差別を許さないと考える人が、天皇大好きであってはならない。天皇こそ、日本社会の差別の根源なのだから。今ころ、天皇や皇族なんぞに畏れいってはならない。天皇や皇族に近いという家柄をひけらかす輩を、真の意味で「人間のクズ」であると軽蔑しよう。人の家柄は、誇るべきものでも、卑下すべきものでもない。
再確認しておこう。人は平等である。在日も被差別部落も天皇も、人間の尊厳においていささかの区別もない。これは民主主義社会における公理である。外国人に対するいわれのない差別や、人の血筋をもってする差別の恥ずべきことは当然だが、これと裏腹の関係にある、天皇や皇族を貴しとする感性もまた恥ずべきことと知らねばならない。
(2022年6月14日)
途中で小雨がぱらつきましたが、きょうは国民救援会中央本部の方も参加していただき、総勢17名の賑やかな街宣になりました。このくらいの人数になると、道行く人の注目度も上がるような気がします。参院選間近で、弁士も、プラスターを持つ人も、署名板を持つ人も、それぞれ元気いっぱいの声が本郷三丁目の交差点に響き渡りました。
マイクはロシアによるウクライナへの軍事侵略を糾弾し、火事場泥棒の如く軍事力強化を叫ぶ国内の翼賛勢力を弾劾しました。
ウクライナ侵略に乗じて「敵基地攻撃」「軍事費2倍化」「憲法9条に自衛隊を書き込め」「核共有の議論を」という大合唱を痛烈に批判し、”軍事対軍事”の悪循環は結局日本を戦争に巻き込むことになる。あくまで9条を基軸に、政治・外交の力で平和を築こうと訴えました。
さらに、これまでも「異次元の金融緩和」により異常円安をつくり出し、物価高騰を招いたアベノミクスの責任を追及しました。国民生活を守ることと戦争を阻止することが深く結びついた課題であることも訴えました。消費税を下げ、年金の切り下げを止め、高齢者医療負担2倍を止めさせ、戦争のための国債発行を止めることが岸田政権に戦争を止めさせることにもなります。
間近に迫った参院選は日本の行方を決める選挙です。投票に行きましょう。ぜひ、行ってください。このことを強く訴えました。(以上、世話人・石井彰氏)
[プラスター]★プーチンは人殺しをやめろ。女・子ども・老人を殺すな。★プーチンは核をつかうな、日本は核を持ち込むな。★破壊も人殺しもイヤ、憲法9条で平和を。★戦争できる国9条改悪ストップ。★軍事費増強NO、軍拡は戦争を招く。軍備で平和は生まれない。★まず分配、財源は法人税、株配当税。
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近所の弁護士です。私が最後の弁士となります。もう少しお耳を貸してください。明日6月15日に通常国会は閉会します。そして、6月22日来週の水曜日に参議院議員選挙の公示となり、7月10日・日曜日の投開票となります。いつにもまして大切な選挙です。
もしかしたら、その後の3年間、国政選挙はないかも知れません。この参院選に勝てば、政権にとって選挙による制約のない「黄金の3年間」が始まる、という声が聞こえて来ます。政権がなんでもできるという「黄金の3年間」にしてはなりません。
今度の参院選は、おそらくはロシアのウクライナ侵攻中の選挙です。日本の平和主義、国民の憲法意識が試される選挙になります。そして、とんでもない物価高が押し寄せ、国民の暮らしが押し潰されそうになる状況下での国政選挙でもあります。争点になるテーマは大きくは二つ。一つは何よりも平和をどう作るべきかという課題であり、もう一つは国民生活防衛の課題です。そして、この二つのテーマは深く結びついています。
ロシアによるウクライナ侵攻は、明らかなプーチン・ロシアの国連憲章違反の武力行使です。私たちは、全力を上げてロシアの違法を糾弾し、戦争を開始したロシアに対して、即時停戦・軍事侵攻の撤退を求める大きな声を上げ続けなければなりません。そして、侵略戦争の被害に苦しんでいるウクライナの人々への人道支援にも力を尽くしたいと思います。
さらに、私たちの国の、平和主義・国際協調主義を謳う憲法と、その中核にある憲法9条の理念を再確認しなければなりません。今こそ、今だからこそ、日本の平和を願う立場から、しっかりと憲法9条擁護の姿勢を確認しなければなりません。
憲法9条の理解は、これを擁護する人々の間で、必ずしも一義的なものになっていませんが、少なくとも「専守防衛」に徹するべきで、「攻撃的な武器は持たない」「軍事大国とはならない」ことは、長く保守の政権も含めての国民的な合意であったはずです。
ところが、予てから軍事大国化を狙っていた右派勢力が、今を好機と大きな声で「軍事費増やせ」「防衛費を5年以内にGDP比2%以上にせよ」「年間10兆円に」「いや12兆円に」と言い出す始末。
それだけではありません。「敵基地攻撃能力が必要だ」、「それでは足りない。敵の中枢を攻撃する能力がなければならない」「先制攻撃もためらってならない」「非核三原則も見直し」「核共有の議論を」と暴論が繰り返されています。そして、そのような軍事力の増強に邪魔となる「憲法を変えてしまえ」というのです。
これまで歴史が教えてきたことは、「安全保障のジレンマ」ではありませんか。仮想敵国に対抗しての我が国の軍備増強は、必ず仮想敵国を刺激し軍備増強の口実を与えます。結局は、両国に際限のない軍拡競争の負のスパイラルをもたらすだけではありませんか。このような愚行を断ち切ろうというのが、戦争を違法化してきた国際法の流れであり、その到達点の9条であったことを再確認いたしましょう。
平和を守り、その礎としての平和憲法を守ることが参院選の争点の一つとならねばなりません。
もう一つが、今進行を始めている恐るべき物価高です。6月の統計が発表されれば、前例のないインフレが明らかとなることでしょう。物価が上がりますが、賃金は上がりません。物価は確実に上がりますが、年金のカットは既に決められています。医療費も値上がりします。
いろんな要因が考えられますが、基本は政権与党の経済政策の失敗です。アベノミクスは、新自由主義的なイデオロギーに基づいて、大企業の活動を自由化し儲けを保障しました。庶民からむしりとった消費税を財源に法人税の大減税までして、優遇したのです。
まずは大企業を太らせれば、その利益はやがて中小企業や労働者のところにまで、したたり落ちてくるという「トリクルダウン」理論がまことしやかにささやかれました。しかし、結果は惨憺たるものです。大企業の利益は内部留保としてため込まれ、労働者に滴る利益はありません。賃金はまったく上がりません。
アベノミクスで潤ったのは大企業とその株主の金持ち連中ばかりで、結局庶民には生活苦をもたらしただけ。とりわけ、異次元の金融緩和策が、市場に金余りと円の価値切り下げをもたらしてインフレの原因となってしまいました。インフレは、年金生活者と低所得層に深刻な打撃を与えます。何とかしなければなりません。
私たちの投票の選択肢は三つあります。一つは政権を構成している自公の与党勢力です。これへの投票は、軍拡と9条破壊そして生活苦の道です。二つ目が、立憲野党です。9条を守り、軍拡を回避して9条を守り、専守防衛からはみ出さない立場。そして、三つ目が、「与党」ではないが「野党」でも「ゆ党」でもない、「悪・党」というべき維新の勢力。そして、労働組合でありながら資本の手先になり下がっている連合と結託した政治家たち。連合の推薦を受けた政治家に投票せぬようお気をつけください。
ぜひ皆様、大切な選挙にまいりましょう。そして、平和と憲法と暮らしを守るために、立憲野党に投票をしていただくようお願いをして、本郷湯島九条の会からの訴えを終了いたします。
(2022年6月11日)
え?、キシダフミオです。自分では、ごくごく普通の日本人としてのレベルの知性と教養をもっているつもりです。前任者と前々任者の知性と教養のレベルが、そりゃひどいものでしかないから、それと比べれば私は穏やかでまともに見えるでしょう。その分、確かに私は得しています。
しかも、前任者と前々任者の経済政策の失敗ぶりがひどいもの。何しろ、この10年国民の賃金がまったく上がらない。こんなことは、他国に例がなく、意識的にやろうとしてもなかなかできることではない。「アべノミクス」は見事にこれをやってのけた。そして、野放図に大量の不安定な非正規労働者群を輩出して、格差と貧困が蔓延する社会を作りあげてしまった。ですから、コロナがなくてもアベ退陣は必然だったのです。
そんな時勢で、私は意識的にアンチ・アベノミクスの立場を鮮明に、「成長よりは分配の重視」「富裕層に厳しい金融所得課税の強化」を掲げて総裁選に打って出て、念願の総理の座をつかんだのです。ところがね、政治は難しい。私の思うようにはならないのですよ。私の耳は、もっぱらアベ陣営の大声を聞かざるを得ない羽目となり、「新しい資本主義」の看板を「骨太の方針」にまとめる辺りで、私の独自色はすっかりなくなってしまった。元の木阿弥、昔ながらの失敗したアベノミクスに先祖返りなのですよ。なんたることだ。
昔から言うでしょ。「国民はそのレベルにあった政治しかもてない」って。多分、今の国民のレベルには、「アべノミクス」「アべノマスク」「…デンデン」の政治がお似合いなのかなって、私がそう思うのですよ。
でも、グチっていてもしょうがないから、私も小技で勝負せざるを得ません。
「『貯蓄から投資』へのシフトを大胆かつ抜本的に進めて、『資産所得倍増プラン』を推進する」ナンチャッテね。個人投資家向けの優遇税制「NISA」の抜本的拡充や、国民の預貯金を資産運用に誘導する仕組みの創設など、政策を総動員して努力はしているのですよ。ね、健気でしょう。
けれど私にはある程度の知性がある。多少は、廉恥の心も倫理感もある。国民の預貯金をリスクある資産運用に誘導するなどという国策を掲げることは、悪徳商法のセールスマンになってしまったような後ろめたさを禁じ得ないのです。
この点の感覚は、安倍・菅の前任者にまったく持ち合わせのないところ。無知の強み、面の皮の厚さのメリットというべきでしょうね。彼ら、政策に失敗しても、違法行為が明るみに出ても、平気な顔ですよね。私にはなかなか真似ができない。
私の政権の看板政策「新しい資本主義」の実行計画を、行動計画原案として発表したのが5月31日。これについて各紙とも、悪評さくさく。まあ、さもありなんというところでしょうな。
社説の表題だけ拾ってみると以下のとおりですよ。6月1日の朝日が「分配重視の理念消えた」、同日毎日が「アベノミクスに逆戻りだ」、同日産経「看板倒れにならぬ政策に」。2日付日経が「成長と安定を将来世代へ着実に届けよ」、3日付東京「『分配』は掛け声倒れか」、4日付読売「方向性が一層不明確になった」。もう少し忖度あってしかるべきとも思うのだがね。
総じて、私が当初掲げた「分配重視」のトーンダウンを批判する論調。朝日は「出てきた計画は、まったくの期待外れだった」「本来、優先的に取り組むべきは、働き手への利益還元である。賃上げに消極的な企業行動を改めさせる手立てこそが、計画の柱になるべきだった」という。毎日も「政策の力点が、立場の弱い人の不安解消から、成長戦略の推進にずれていったように見える」「分配重視はどこに行ってしまったのか」と嘆く。産経までもが、「抜本的に格差是正を図るには、高所得者への富の偏在を抑制できるよう、税制などを通じた所得の再分配を併せて講じる必要があろう。岸田政権はそこまで踏み込もうとはしない」と手厳しい。
ほんとのことを言うとね、「新しい資本主義」ってなんだか私にもよくわからない。もちろん、アベさんよりは私の方が、格段に経済学の基礎には詳しいはず。実はそれが仇になっている。アベさんの無知の強みはここでも発揮されていて、オウムのように「3本の矢」を繰り返していられるんですね。幸せな性分。失政が明らかになっても、同じことを言い続けることが苦痛にならない。とうてい私にはできない芸当。
アベノミクスは、規制緩和とセットの新自由主義的経済政策。目指すところは、成長至上主義。いずれは成長のおこぼれが庶民にもやって来るというんだが、待てど暮らせどおこぼれはやって来ない。替わりにやって来たのは、不安定雇用と格差拡大と貧困。さらには成長すら阻害した。誰が見てもアベノミクスは失敗で、もうダメだ。3本の矢のどれもが折れてしまった。だから、新規まきなおさなくてはならない。私は、アンチの政策をイメージして「新しい資本主義」と言ってみたわけね。
ひとことで言えば、私の言う「新しい資本主義」とは、「奪アベノミクス」ということ。その目玉のキャッチが「分配重視」。そうしなければ、既に失速しているこの国の経済の再生はないし、そうすれば分厚い中間層の底上げで格差の是正もできるし、成長へとつなげることも期待できると考えたのですよ。
ところが、私は甘かった。これからの政策転換で潤うはずの多くの国民の支持よりは、既得権を失う大企業や富裕層の反発が強かった。庶民減税も、金持ち増税も無理。金融所得課税の強化など引っ込めざるを得ない。「成長と分配の好循環」なんて、いったい何を言っているのか、私にも分からなくなった。
はっきり言って、日本経済には展望がない。「脱アベノミクス」「アンチ・アベノミクス」の政策は、自民党政権ではできないからです。大企業と富裕層に支えられた現政権を打破する以外に、分厚い中間層の底上げで格差を是正することはできない。ロンドンのシティーで「インベスト・イン・キシダ」なんてしゃれてみたけど、リターンはない。今度の選挙、大企業幹部と富裕層以外に与党に投票する有権者がいるとは信じられないね。経済再生は、与党惨敗からしかないと思っていますよ。もちろん、これ、オフレコの話しね。
(2022年4月8日)
いうまでもないことだが、ジャーナリズムの神髄は権力に対する批判にある。多くのジャーナリストがそのことを肝に銘じて、自らの姿勢を糺している。取材のために権力と接しても権力との距離を保たねばならないとし、権力に擦り寄ることを致命的な職業倫理違反であり恥としている。
しかし、どこの世界にも例外というものがある。国政を私物化し嘘とごまかしで固めた安倍政権に擦り寄った恥を知らない「忖度ジャーナリスト」として、TBSに山口敬之、NHKに岩田明子、東京新聞に長谷川幸洋、そして時事通信に田崎史郎などが知られてきた。
まさか朝日には…。いや、朝日にもいたのだ。その記者(編集委員)の名を、峯村健司という。昨日、朝日がその旨を明らかにし、1か月の停職処分とした。このことを「朝日新聞社編集委員の処分決定 「報道倫理に反する」 公表前の誌面要求」という見出しで報じている。
峯村は何をしたのか。朝日の調査によれば、以下のとおりである。
「(週刊ダイヤモンド)編集部は外交や安全保障に関するテーマで安倍氏にインタビューを申し入れ、3月9日に取材を行った。取材翌日の10日夜、峯村記者はインタビューを担当した副編集長の携帯電話に連絡し、『安倍(元)総理がインタビューの中身を心配されている。私が全ての顧問を引き受けている』と発言。『とりあえず、ゲラ(誌面)を見せてください』『ゴーサインは私が決める』などと語った。副編集長に断られたため、安倍氏の事務所とやりとりするように伝えた。記事は3月26日号(3月22日発売)に掲載された」
朝日の記事は、「公表前の誌面を見せるように要求した峯村記者の行為について、報道倫理に反し、極めて不適切だと判断した」と述べている。「極めて不適切」どころではなかろう。奇妙奇天烈、摩訶不思議というしかない。なお、このインタビューで安倍は、「核共有の議論をタブー視してはならない」と語ったのだという。
なぜ、安倍晋三本人なり安倍事務所が直接ダイヤモンド編集部に「ゲラを見せていただけないか」と申し入れをせずに、峯村に依頼したのか。峯村が背負っている朝日のブランドに着目したからとしか考えようはない。朝日の依頼なら、ダイヤモンド社は応じるのではないか。
ダイヤモンド社編集部は怒った。怒りの矛先は朝日に向けられ、「編集権の侵害に相当する。威圧的な言動で社員に強い精神的ストレスをもたらした」との抗議になって、朝日の調査が開始された。
朝日は、「政治家と一体化して他メディアの編集活動に介入したと受け取られ、記者の独立性や中立性に疑問を持たれる行動だったと判断し、同編集部に謝罪した」と公表している。当の峯村は、「安倍氏から取材に対して不安があると聞き、副編集長が知人だったことから個人的にアドバイスした。私が安倍氏の顧問をしている事実はない。ゲラは安倍氏の事務所に送るように言った」と説明している。
峯村は「安倍氏とは6年ほど前に知人を介して知り合った。取材ではなく、友人の一人として、外交や安全保障について話をしていた。安倍氏への取材をもとに記事を書いたことはない」と説明している。どうやらこの記者、「折りあらば、安倍のために一肌脱いで、貸しを作っておこう」と思っていたようだ。
毎日は、「朝日新聞編集委員 処分 安倍氏記事 事前に誌面要求」と報じた。その中で、「峯村氏は反論」という小見出しで、「重大な誤報を回避する使命感をもって説得し、『(安倍氏の)全ての顧問を引き受けている』と言った。安倍氏からは独立した第三者として助言する関係だ」と峯村の言い分を紹介している。
NHKは、「朝日新聞 記者を処分 安倍氏記事事前に閲覧週刊誌に要求」と見出しを付け、東京新聞は、共同配信の記事として、「安倍晋三元首相の記事、事前に見せるよう要求 朝日新聞が編集委員を懲戒処分」としている。
本日の赤旗は、この件を社会面のトップで扱っている。「安倍元首相と『朝日』編集委員 週刊誌に“圧力” 『核共有』記事 公表前点検要求」という見出し。リードだけを紹介しおきたい。
自民党の安倍晋三元首相が、週刊誌に掲載される自身のインタビュー記事を公表前にチェックするよう朝日新聞の編集委員に依頼していたことが7日、明らかになりました。朝日新聞社は同日、峯村健司編集委員(47)が週刊誌側に公表前の誌面(ゲラ)を見せるよう求めたことを公表しました。同社は「政治家と一体化して」他メディアに圧力をかけたと受け止められる行動だったとして峯村氏を停職1カ月の懲戒処分にしました。(取材班)
この峯村という記者、今月20日には朝日を退社する予定という。さて朝日退社後も、「安倍の番犬」という大きな名札を付けて、「ジャーナリスト」として職業生活を継続しようというのだろうか。やっていけるほど日本の言論界は甘いのだろうか。