澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「消費者主権」の視点からスラップ訴訟対策を考える ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第74弾

1月28日、DHCスラップ訴訟控訴審判決言い渡しの日の夕方、「バナナの逆襲」を作製したスウェーデン人の映画監督フレデリック・ゲルテンさんとお話しする機会があった。

その中で印象的だったのは、世界的大企業Dole社から仕掛けられた「スラップ訴訟」との闘いにおいて、「最も効果のあった闘い方は、スウェーデンでの不買運動方針の提起だった」ということ。映画の中でも描かれているが、まず消費者が声を上げる。「スーパーはDole社の商品を扱うな」と申し入れをする。理由を聞いたスーパーの経営者が、これに賛同してドール・バナナの入荷を拒否する。初めは小さかったその動きが、広がりそうな勢いとなったところで、ドールフード社が折れるのだ。なるほど、さもありなんと思う。

私は、長く消費者問題に取り組んできた。消費者運動では、単なる「消費者の権利」を超えた「消費者主権」が語られてきた。多義的に用いられる「消費者主権」だが、私は「市場での消費者の自覚的な選択を通じて消費者がよりよい社会を作っていく運動」(あるいはその力量)ととらえている。

具体的な消費者被害を通じて見えてくる現実の消費者像は市場の主権者という理想像とはほど遠い。広告に操られて怪しげなサプリメントを購入する思慮のない消費者であり、少しでも安価なものであれば安全に目をつぶっても飛びつく無自覚な消費者であり、必ず儲かるからという甘言に欺されて涙を流す金融商品購入者である。生産や流通を牛耳る事業者との対等な関係を築けていない。

それでも、消費者運動は着実に前進を見せている。理念としての消費者主権の確立を、運動の目標として高く掲げ続けている。消費者を営利の操作対象の地位から脱却させ、あるべき社会の能動的な形成者とする目標である。企業が社会を圧している現状において、市民が賢明な商品選択を通じて企業をどうコントロールするかという問題意識をもったときに、はじめて主権者としての消費者の力が現実化する。

その正反対の議論が、企業側から出て来る「対企業コントロール拒否論」である。「企業活動にもっと自由を」「労働市場も生産も流通も販売も、すべてを見えざる神の手に任せよ」「限りない規制緩和を」「規制をなくせ」という野放図なDHC・吉田嘉明流の規制緩和論である。その実現のために巨額の裏金の授受さえ行われている。

企業が提供する商品やサービスに関して、消費者が選択する基準が価格や外見だけであってはならない。広告・宣伝に踊らされてはならない。消費者には、「社会的な公正」や、「環境に配慮し自然と社会の健全な持続性」までを視野に入れた自覚的な消費行動が求められる。

ブラック企業や、アンフェアトレード企業の製品は安価かも知れない。しかし、そのような企業の跋扈は、社会的公正を害する。社会的不公正の放置は、消費者自身に手痛いしっぺ返しをもたらす。

市場における消費者の選択においては、よりよい社会を目指すための諸要素が重視されてしかるべきだ。軍需産業と結びついた企業の製品は買わない。差別や規制緩和推進を広言するような企業の商品はボイコットする。フェアトレードや原発反対を表明する企業の商品を積極的に選択する。そのなかに、スラップを提起して表現の自由を攻撃する企業を市場を通じて排除することも含まれて当然だ。

「バナナの逆襲」を観れば、産地に農薬禍をもたらしたDole社の商品はけっして買うまいと思う。アンフェアなトレードで知られるユニクロもそうだ。ブラックとして名高いワタミも同じ。せっかくの電力自由化だ。原発事故を起こした東電をボイコットして、他社に乗り換えよう。そして、スラップ訴訟の常連DHCにも同様の制裁を。

先日、姪の一人が「私、DHCはもうやめた。絶対に買わない」と言ってくれた。これは、正しい価値ある選択と言ってよい。「DHCの製品は買わない」ことの意味は、消費行動を通じての、表現の自由への攻撃を許さないという意思表示であり、規制緩和推進という消費者利益侵害への抗議でもあり、政治とカネの汚い癒着を徹底して糾弾するという宣言でもあるのだから。

この一人の選択は、第一歩として影響は小さいながらも正しい「一票」だ。選挙権の行使は投票日だけのものだが、消費者主権の行使は、日常の消費行動を通して、日々正義を実践することにほかならない。正しい「一票」は、積み上がった力となりうる。そのようにして、スラップ訴訟を仕掛けるようなダーティーな企業には、消費者主権が懲罰を与える。その経済的な打撃によって、表現の自由を擁護し、司法の健全化も実現する。

「バナナの逆襲」を観て、対DHC不買運動の提起も有効な選択肢たりうると思っている。現実の有効な手段とするためにどうすべきか。今後、大いに議論したい。
(2016年2月25日)

スラップ逆襲映画『バナナの逆襲』をお薦めする ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第73弾

真正面からスラップ訴訟をテーマにしたドキュメント映画である。是非多くの人にご覧になっていただきたい。吉田嘉明だけでなくDHCの関係者にも広くお薦めしたい。自分のやっていることを見つめ直す機会になるだろうから。

スラップの標的とされた映画監督が、その顛末を自分を主人公として丸々1本の映画にしてしまった。これが、『バナナの逆襲』第1話『ゲルテン監督、訴えられる』。そして、スラップ訴訟で上映禁止を求められたドキュメンタリー映画が、『バナナの逆襲』第2話『敏腕?弁護士ドミンゲス、現る』である。

スラップを仕掛けたのは、世界最大の青果物メジャー・米国Dole社。DHCとはケタが違う大企業。同社が、スラップを仕掛けてまで知られたくなかったのが、中米ニカラグアにおける同社バナナ農園での農薬被害の実態なのだ。

しかし、Dole社のスラップは敗北した。結局のところ、却ってスラップのおかげで、Dole社のバナナ農園での農薬被害の実態が世界に注目されるところとなった。その一連の経過が『バナナの逆襲』なのだが、これは同時に『スラップに対する表現者の逆襲』でもある。そこが、私がお薦めする理由だ。このような映画を作った監督とこれを支えた人々、そして日本での上映に努力された人々に敬意を表するとともに、感謝も申し上げたい。

この映画配給者(「きろくびと」)による案内は次のとおり。
映画人の表現の自由は守られるのか?
弁護士は巨大企業の圧力に屈してしまうのか?

バナナ農園での農薬被害をめぐる世紀の裁判が、映画界も巻き込み大騒動に発展!
2009年、スウェーデン人映画監督フレドリック・ゲルテンがある多国籍企業に提訴された。中米ニカラグアのバナナ農園で農薬被害に苦しむ労働者が起こした裁判を追った、彼の新作ドキュメンタリー映画がロサンゼルス映画祭でプレミア上映されようとしていた時だった……。なぜ監督は訴えられたのか?超巨大企業は何を隠そうとしているのか?果たして映画は上映されるのか?

本作はスウェーデンのジャーナリストでもあるフレドリック・ゲルテンが2009年に制作した”Bananas!*”(第2話)と2011年制作の”Big Boys Gone Bananas!*”(第1話)の2作品で構成されている。日本においても、メディア界の自主規制やTPP問題が話題になっている今、あるバナナ農園の労働者を描いた映画とその上映をめぐるこの2作品は、多国籍企業のビジネス戦略や表現の自由、そして世界のいびつな構造について、さまざまな問題を投げかけている。

■第1話 ゲルテン監督、訴えられる Big Boys Gone Bananas!*
バナナ農園での農薬被害をめぐる裁判を描いた新作ドキュメンタリー映画が、ロサンゼルス国際映画祭でプレミア上映されることが決まり、意気揚々とアメリカに乗り込んだゲルテン監督。しかし上映直前、企業側はなんと映画祭に上映中止を要求し、監督を訴える。われわれの想像を超える過激な妨害工作と、そこから見えてくるアメリカのメディアの暗部。果たして映画は無事に上映されるのか?(2009年/87分)
 2012年 ミラノ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞
 2012年 ワン・ワールド映画祭観客賞
 2012年 サンダンス映画祭正式出品
 2011年 アムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭正式出品など

■第2話 敏腕?弁護士ドミンゲス、現る Bananas!*
中米ニカラグアの12人のバナナ労働者が、使用禁止農薬による被害を訴え、米国の超巨大企業に対する訴訟を起こした。あまりにも強大な企業の力を前に、勝ち目はないと思われたが、裁判を請け負ったヒスパニック系弁護士ホアン・ドミンゲスは画期的な闘いを挑む!多国籍化する食料生産システムの闇だけでなく、TPP問題やグローバリズムといった世界のいびつな構造を描き出す、サスペンス・ドキュメンタリー。(2009年/87分)

上映は、2月27日(土)から。渋谷・ユーロスペースで
下記回上映後のトークも用意されている。
2/27 (土) 11:00回 横田増生さん(ジャーナリスト)
2/28 (日) 11:00回 原一男さん(映画監督)
3/05( 土) 15:00回 小林和夫さん(オルター・トレード・ジャパン) 、石井正子さん(立教大学異文化コミュニケーション学部教授)

渋谷・ユーロスペースでの上映時間は下記URLで。
  http://kiroku-bito.com/2bananas/index.html
3月19日(土)からは、横浜シネマリンで公開です。さらに下記劇場でも公開決定とのこと。
名古屋シネマテーク/大阪・第七藝術劇場/神戸アートビレッジセンター/広島・横川シネマ

1月28日、DHCスラップ訴訟控訴審判決言い渡しの日の夕方、この映画の主人公ともなったフレデリック・ゲルテン監督(スウェーデン人)と鼎談の機会があった。もうひとりの参加者は、『ユニクロ帝国の光と影』(2011年、文芸春秋)で、やはりスラップの標的とされた、フリージャーナリストの横田増生さん。最後を、監督がこう締めくくっている。

「私たち今日ここにそろった3人が発することのできる非常に重要なメッセージは、スウェーデンにしろ日本にしろアメリカにしろ、言論の自由、報道の自由というのは憲法で定められているのだから、訴訟を起こされることを恐れることはない、ということです。実際に裁判で勝つことができるんだと。もうひとつ重要なことは、ジャーナリストなど、他の誰かが攻撃されたときに、私たちは後ろで、援護射撃をしなくではいけない。支えなければならない。連帯ということが、非常に重要だと思います。
また、私の仕事の醍醐味というのは、世界中で同じように闘っている仲間と会えることです。私の作品を見て、本当にたくさんの人が私に会いに来て、自分の仕事や置かれている状況について話をしてくれます。韓国に行ったときには、どの上映会でも、自分の雇用主と闘っている組織ジャーナリストが声をかけてくれました。メキシコでは、たくさんのジャーナリストが殺害されている状況が続いていて、多くの観衆が涙を流していました。世界中のどこでもストーリーがあるのです。そして、今回お二人のお話を聞いて、日本にも兄弟がいると感じています。そういったことがとでもうれしいです。自分は一人じゃないのだと知ることはとても重要だと思います。闘い続けるためのエネルギーと勇気をくれますね。だから今日お二人にお会いできでとてもうれしく思います。またいつかお会いするまでそれぞれがんぱりましょう。そして、シンプルな話を語りつづけましょう。それこそがとても大きな力を持っているのです。」

席上、「Keep Fighting」と繰り返された。自由や権利を、紙の上の文字だけのものにせず、現実の社会に実現するには、闘い続けることが必要なのだ。この映画は、その教訓に満ちている。
(2016年2月24日)

安倍晋三の反知性。情けないだけではなく、恐ろしいといわねばならない。

2016年2月15日(月)の衆議院予算委員会の議事の記録を掲記する。政権与党の総裁であり、内閣総理大臣となっている安倍晋三という人物の反知性とそれを必死で覆い隠そうという低俗な人間性がよく表れている。これは国民必見の内容である。こういう人物が、日本の政治と行政のリーダーになっているという現実を、国民は見つめねばならない。

歴史を美化すること、歴史の恥部から目を背けることは許されない。過去に目を閉ざすものは未来に盲目となって、過ちを繰り返すことになるのだから。同様に、安倍晋三を美化し、アベ政治の恥部から目を背けることは許されない。政治の現状にも改革すべき未来にも盲目とならざるを得ないのだから。

正式な会議録はまだ公表されていない。しかし、中継動画で発言の正確性を確認することが出来る。質問者は民主党の山尾志桜里議員。以下は抜粋だが、出来るだけ恣意に陥らないように心掛けての掲載である。

○安倍首相
 …それと、テレビ番組に出演していて、私は当然、自民党総裁として呼ばれているわけであります。私も呼ばれれば、他の党の人たちも呼ばれる。その中にあっては、党として、この編集の仕方はどうなんですかということは当然言う。これは、言えば、いや、そんなことは安倍さん、ありませんよ、こうこうこうですよと反論すればそれで済む話じゃないですか。
私は、当該番組に大分昔に出たことはありますが、そのときも、拉致問題について、大きな大会をやってもおたくの番組は全然取り上げませんでしたねということを言って、当時の、筑紫さんだったかな、全く黙り込んでしまったこともございました。私は、必ずしもテレビ番組の制作方向、こういう番組をつくりたいという方向に常に協力するわけではありません。私の考え方を勇気を持って申し上げますよ。
テレビ局に対して物を言うというのは結構大変なことなんですよ。私は、それを言ったがために、当該番組から、かつて総裁選挙のときに、七三一部隊の石井中将と顔をリンクさせられて、イメージ操作されたこともあったんですよ。そういうことすらあったんですよ。これは、私にとっては相当のダメージだった。それは、私が議論をしたからなんですよ。議論をすればそういうこともあるんですよ。そういうこともあるということは、どちらの方が大きな権力を持っているか。
私は別に総理大臣として、裏において、権力を行使するときにこの番組は問題があるからといって行政組織に指示したんじゃないんですよ。この番組に一出演者として出ていて議論をしているわけであります。そういう議論がおかしいということ自体が私は、全く間違っているな、このように思います。

○山尾委員
 安倍総理がそういった答弁をされるのは、自分自身が内閣総理大臣であり、そしてまた政権与党のトップであるということ、自分がどういう力を持っているのか、政治権力とは何なのかということに全く無自覚であるから、そういう答弁ができるんだと思いますよ。
もし、自覚しておられてそういう答弁をしているのなら、総理は、憲法、特に21条、表現の自由について全く理解が足りないのではないかと思いますので、これに関して質問をさせていただきたいと思います。
総理、そもそも、時の政治権力がテレビ局の政治的公平性の判断権者となり、電波停止までできる、この制度解釈自体が検閲に当たり、許されないのではないか、こういう懸念の声もあります。総理、この電波停止ができるということは検閲に当たりますか、当たりませんか。

(高市が延々と答弁をする。)

○山尾委員
 委員長が3回注意されて、私が尋ねてもいないことを延々と述べられて、それに与党が大拍手でこの質疑を遮るというこの運営、委員長、どうなっているんですか。質疑妨害もいいかげんにしてください。
私は、憲法の21条、表現の自由、これに対する総理の認識を問うているんです。総理がちゃんと憲法21条をわかっているかどうか、国民の皆さんの前で説明をしていただきたいと思っているんです。
尋ねます。
総理、この前、大串議員に、「表現の自由の優越的地位って何ですか」と尋ねられました。そのとき総理の答弁は、「表現の自由は最も大切な権利であり、民主主義を担保するものであり、自由のあかし」という、かみ合わない謎の答弁をされました。
法律の話をしていて自由のあかしという言葉を私は聞いたことがありません。
もう一度尋ねます。優越的地位というのはどういう意味ですか。
私が聞きたいのは、総理が知らなかったからごまかしたのか、知っていても勘違いしたのか、知りたいんです。どっちですか。表現の自由の優越的地位って何ですか、総理。言論の自由を最も大切にする安倍政権、何ですか。
事務方がどんどんどんどん後ろから出てくるのはやめてください。

○安倍首相
 これは、いわば法的に正確にお答えをすれば、経済的自由より精神的自由は優越するという意味において、この表現の自由が重視をされている、こういうことでございます。

○山尾委員
 今、事務方の方から教わったんだと思います。
なぜ精神的自由は経済的自由に優越するのですか。優越的地位だということは何をもたらすのですか。

○安倍首相
 いわば表現の自由が優越的であるということについては、これはまさに、経済的な自由よりも精神的な自由が優越をされるということであり、いわば表現の自由が優越をしているということでございますが、いずれにせよ、そうしたことを今この予算委員会で私にクイズのように聞くということ自体が意味がないじゃないですか。
それと、もう一言言わせていただくと、先ほど、電波について、とめるということについては、これは民主党政権、菅政権において、当時の平岡副大臣が全く同じ答弁をしているんですよ。その同じ答弁をしているものを、それを高市大臣が答弁したからといって、それがおかしいと言うことについては、これは間違っているのではないか、このように思うわけでございます。

○山尾委員
 総理、ふだんは民主党政権よりよくなったと自慢して、困ったときは民主党政権でもそうだったと都合よく使い分けるのは、いいかげんやめてもらえませんか。
ちなみに、民主党政権では、個別の番組でも政治的公平性を判断し得るなどという解釈はしたことがありませんし、放送法四条に基づく行政指導もしたことがございません。明らかに、安倍政権と比べて、人権に対して謙虚に、謙抑的に、穏やかに向き合ってきました。
総理、もう一度お伺いします。
精神的自由が経済的自由より優越される理由、総理は、優越されるから優越されるんだと今おっしゃいました。これは理由になっておりません。これがわからないと大変心配です。もう一度お答えください。どうぞ。

○安倍首相
 内心の自由、これは、いわば思想、考え方の自由を我々は持っているわけでございます。

○山尾委員
 総理は知らないんですね、なぜ内心の自由やそれを発露する表現の自由が経済的自由よりも優越的地位にあるのか。憲法の最初に習う基本のキです。
経済的自由は大変重要な権利ですけれども、国がおかしいことをすれば、選挙を通じてこれは直すことができるんです。でも、精神的自由、特に内心の自由は、そもそも選挙の前提となる国民の知る権利が阻害されるから、選挙で直すことができないから、優越的な地位にある。これが憲法で最初に習うことです。それも知らずに、言論の自由を最も大切にする安倍政権だと胸を張るのはやめていただきたいというふうに思います。

(略)

○山尾委員
 最後に、報道の自由度ランキングを御紹介して終わりたいと思います。
自民党時代、報道の自由は、42位、37位、51位、37位、29位。そして、民主党政権になって、メディアに対して大変オープンになり、11位まで上がりました。現在の安倍政権は61位、最悪のランキングです。憲法と人権に関する総理の認識を聞くと、ある意味当然の結果ではないかと私は思いました。
ぜひ、総理、もう一度憲法の趣旨をしっかり考えていただいて、本当の意味で豊かではつらつとした議論をしていただきたいと思います。
以上です。

山尾議員の問題関心は、「首相が、憲法の最初に習う基本のキがわからないでは大変心配」「総理が知らなかったからごまかしたのか、知っていても勘違いしたのか、知りたい」ということだった。これは、山尾議員ならずとも、国民の大きな関心事である。

国会で、権力によるメディアへの弾圧が話題とされているときに、一国の首相の憲法認識がこんな情けないレベルでは困るのだ。いや、情けないにとどまらない。実は、国民にとって恐ろしい事態といわざるを得ない。

安倍は、「今この予算委員会で私にクイズのように聞くということ自体が意味がないじゃないですか」と逃げを打ったが、これは「クイズ」ではない。国民が知りたい「首相の資格」の当否である。権力を預かる地位にある者が、委託されるにふさわしい資質を持っているか否かの確認であり検証なのだ。

結果は、明らかに落第である。安倍晋三には、表現の自由の重さ貴さに対する認識がないのだ。我が国の首相が、事務方のメモ(カンニングペーパー)に助けられてもなお、法学部1年生終了時の憲法理解のレベルに達していないことも明らかとなった。所轄の大臣が「歯舞」を読めないとか。環境大臣が放射線量の規制基準根拠を知らないとか、かつての首相が「未曾有」の読みを間違えるとか、そんなレベルの問題ではない。国民の基本的人権にとって、恐るべき事態が、現にここにあることを認識しなければならない。

なるほど、知らないということは恐ろしい。同時に、知らないということほど強いこともない。アベ政権が、表現の自由攻撃にかくも果敢であり、憲法改正にかくも積極的な理由も、無知ゆえとすれば合点が行く。

事態はおそるべきものであることを正確に認識しつつも、このような反知性の蛮勇に負けていてはならない。
(2016年2月23日)

ボクたち、アベ政治応援団。がんばれ高市総務相。

ボクたち「放送法順守を求める視聴者の会」。顔ぶれに新味のない、いつもの右翼の常連ですが、アベ政治応援団としてまたやりました。どうです、「放送法4条守れ」のキャンペーン。2月13日付読売新聞への全面広告ですよ。あのぎらぎらする目で睨みつける意見広告。「キモい」「感じワルーイ」「センスゼロ」「恐ろしい」…。そんな読者の声もありますが、恐がってもらうのも、われわれの狙いのうち。大きなインパクトで、テレビが萎縮してくれれば、それが何より。

しかも、高市早苗総務相の「停波あり得る発言」が2月8日だから、13日の全面広告は絶好のタイミングで援護射撃になったでしょ。

ボクたち、アベのやることなんでも賛成。アベ政治親衛隊です。なんと言っても、アベこそが右翼の星なのですから。教育基本法改正・特定秘密保護法・自虐史観攻撃・靖國神社公式参拝・従軍慰安婦の強制性否定・内閣法制局人事介入・集団的自衛権行使容認・安保法制強行成立・沖縄辺野古新基地建設強行…、そして断固高市総務相発言の容認。何よりも、戦後レジームからの脱却、そして美しい日本を取り戻す。天皇を戴く国を目指す「自民党・日本国憲法改正草案」に大賛成。

この全面広告の大きな活字のフレーズは、「視聴者の目はごまかせない」「ストップ!“テレビの全体主義”」「放送法第4条が守られ、知る権利が保障されなければ、表現の自由や、民主主義は成り立ちません」「誰が国民の『知る権利』を守るの?」というもの。そして、円グラフで特定秘密保護法や安保法制などで、「TVの電波は独占状態!」と訴えています。苦心の作だって思うでしょ。ちょっと見だと、右翼の宣伝文書に見えないところがミソ。

ボクたちも学びました。まずは、古くさい仲間内だけの右翼用語を使っていてはダメだということを。偏向だの、反日だの、ブサヨなどという用語は一切避けたのです。ボクたちの顔ぶれを見れば、大きな英断だとお分かりでしょう。

次に心掛けたのは、左翼・リベラル用語の取り入れ。内容は換骨奪胎にしても、これまでは敵の陣営が使っていた言葉を使ったのですから、どうもしっくりは来ないけれども、凄いことだと思いません?

だって、「全体主義」を攻撃しているのですよ。「知る権利」でしょう。「表現の自由」でしょう、そして「民主主義」なのです。これまでは、左翼・リベラルに独占させていた言葉をボクたちの陣営にもぎ取ったのですから、たいしたものなんですよ。もう少ししたら、「平和」も、「立憲主義」も、「反権力」も「ヘイトスピーチ反対」も、「歴史修正主義糾弾」だって、我が手にしてしまおうかと思っています。いや、ホントに。

さらなる工夫は、アベ政権応援を隠していること。もちろんボクたちアベ政治の応援団で、そのことはバレバレなんだけど、ロジックとしてはアベ政権応援は前面に出さないことにしたの。ホントは、テレビ局がアベ政権に反抗していることが怪しからんので、「アベに代わって局を打つ」の気概なんだけど、それじゃアベの人気をまた下げちゃうことになる。そこで頭をひねってね。政権ではなくて、視聴者が批判しているという形にしたの。アタマいいでしょ。

なんたって、アベ政治がポシャれば、憲法改正も夢と終わる。天皇陛下を元首とし、堂々たる国防軍を持って近隣諸国から舐められない、軍事大国を作るための憲法改正。二度とこんなチャンスはやってこない。ところがアベの人気がイマイチだ。これはみんなテレビのせい。だから、テレビを脅かして、「アベを持ち上げないと免許を取り上げる」「アベの悪口言えば、電波の停止もありうるぞ」とたしなめているの。

高市早苗総務大臣は立派だ。堂々と、テレビ局締め上げの発言をしているのだから。ボクたちアベ応援団、心一つに高市を孤立させずに支援をしよう。よいタイミングで、全面広告出せてほんとによかった。

ところで、「政治的公平」ってなんだか知ってる? そう、政権の言うとおりの報道と意見が公平で公正なんだ。だってさ、世の中にはいろんな意見がある。勝手気ままでまとまらなければこの国が滅びる。意見は政権の言うとおりにまとまることが大切で、これを公平・公正という。「それって全体主義」って言われればそうかも知れないけど、民主主義に支えられた全体主義なら悪くないんじゃない。なんてったって選挙で勝った者が国民の代表者だもの。アベ政権が国民の意見の代表者で、アベ政権の言うとおりが公平・公正で間違いないでしょ。

NHKだけがボクたちのメガネに適っている。籾井会長が言うとおり、「政権が右と言っているのに、局が左といっちゃいけない」に決まっているはずじゃない。ボクたちアベ応援団だから、権力批判はしないの。アベが、NHKの人事に介入し、番組の内容まで変えようとしているのことに、「視聴者の目はごまかせない」って声は上げない。その点は、目をつぶる。もちろん、安倍晋三と一緒に飯を喰う仲の「ジャーナリスト」の批判もしない。

えっ? ボクたちの言うこと、どこかおかしい? いや、おかしいというキミの方が、偏っているのさ。
(2016年2月19日)

カール・クラウスの「炬火」に沈黙を強いた巨大な闇

池内紀著の「カール・クラウス 闇にひとつ炬火あり」(講談社学術文庫2015年11月10日)に目を通した。世の中は広い。歴史は深い。このような驚嘆に値する人物もいるのだ。

カール・クラウス(1874?1936年)は、ウィーンで活躍した「稀代の作家・ジャーナリスト・編集者」と紹介されている。「批評家、諷刺家、詩人、劇作家、論争家」でもあるという。その活動の時期は、世紀末からナチスの台頭期まで。

「炬火」は、彼が一人で編集・執筆し、生涯を通じて発行し続けた個人雑誌。1899年4月の創刊から、1936年2月の922号まで。総ページ数2万3008頁。その大半をクラウス一人が書いた。最盛期には当時のオーストリア・ハンガリー帝国内外で3万をこえる予約購読者を得ていた。イギリスの「タイムズ」が5万程度の発行部数だった当時のこと。雑誌であったが広告を一切のせず、刊行日も定めない。要するに、どこからも制約されず、世の雑音ないし権力にわずらわされず、書きたいものを書きたいときに書きたいように書いた。その我が儘を読者が支え続けたという。

彼は、この雑誌発行を手段として、激動の時代、権力に立ち向かい、政治の堕落腐敗を批判し続けた。彼の武器は『ことば』だけだった。これは、まさしく元祖ブロガーではないか。

1899年6月発行の「炬火」第9号には次のような「3か月の決算報告書」が載せられているという。これも、硬骨ブロガーの証しではないか。
 匿名誹謗文 236通
 匿名脅迫文  83通
 襲撃      1件

彼の人気は、批判の仮借なさと洗練された文体の面白さにあったという。その魅力が熱烈なファンを得たが、反面多くの敵対者も作った。
彼の考えかたが、次の文章によく表れている。
「強い熱を受けて始めてひそかな『悪』があぶり出されるとき、そしてその『悪』がもっとも問題であるというのに、ただ、証明できるものだけを述べ、ほどよい節度の下にだけ語るのが許されるとすれば、その言論の自由にどんな意味があるのだろう」

彼の社会批評は辛らつであったが、常に弱者の側に立っていた。弱者の側に立ちきれない者、権力と対峙し得ない大手新聞も仮借ない批判の対象とされた。その活躍ぶりには目を瞠らざるを得ない。

その彼の最晩年に、ドイツではヒトラーが政権をとり、全権委任法が成立してナチスの独裁がはじまる。ヒトラーの誕生日を祝って、新聞はこの「救国者」をほめたたえ、ハーケンクロイツの旗が全ドイツになびいた。

この書を読み進む読者は、当然にクラウスがナチスにどのような抵抗をし批判の言葉を浴びせたか、その一点に関心を寄せることになる。彼はユダヤ人でもあった。ところが、この点が、実はスッキリしないのだ。

この書の序言ではこう書かれている。
「そのときクラウスはすべての仕事をなげうって執筆に没頭した。新しい権力者に迎合する知識人のことばを集め、辛らつな注釈を加えた。情報宣伝相ゲッベルスの論説をことこまかに分析した。そのウソとデマゴーグぶりをとりあげた。ナチスの機関紙『フェルキッシェ・ベオーバハター』にみる残虐行為を収録した。事実を否認し、それが通用しないとなると、他人に転嫁し、そののち居直って逆襲に出る。そんなナチズムの常套手段をあばいていった。風刺技法をかたむけて、暗示し、もじり、皮肉り、嘲罵した。何にもまして一貫しているのは怒りの激しさだった。暗いトンネルをひた走るようにして『矩火』を続けた。そこにはシェイクスピアの『リア王』の引用がまじえてある。
  神よ、事態がさらに悪化せぬと誰に言えましょう?
  昔より今はもっと悪くなっています。
  そして、さらに悪化するかもしれません。
  これが最悪だと言える間は、それは最悪の事態ではないのです。」

この文章は、硬骨を貫いた表現者への手放しの讃辞である。しかし、本文を読むと事情は異なるのだ。「クラウスがすべての仕事をなげうって没頭し完成した執筆」は300頁に及ぶものだったが、彼はその作品の公刊を断念した。そして、生前これが発表されることはなかった。

「たえずひとりで執筆者と雑誌編集者と出版人を兼ねていた男だが、このたびは編集者の段階で作品を差し止めにした。優に一冊分の300ページあまりを執筆し、印刷に廻し、朱筆までいれたが『炬火』には掲載しなかった」

代わりに出た「炬火」888号(33年10月)は、わずか4頁。その最後に、次の10行詩が掲載されていたという。
   問うなかれ、このときにあたりわたしが何をなしたかと。
  わたしは沈黙をまもる、
  そしてそのわけを語らない。
  静寂があるのは、地球がすさまじい音をたてて砕けたからだ。
  この有様にかなうことばはなかった、
  われひとはただ眠りのうちから語るばかり。
  そして、かつて輝いた太陽を夢みる。
  ことは過ぎ去り、
  後になれば同じことだった。
  あの世界が目覚めたとき、ことばは永遠の眠りについた。

その後9か月の沈黙ののち、315頁の大部な号が発行された。「なぜ炬火は発行されないか」という奇妙なタイトルを付けてのもの。その全ぺージのほとんどが、先の10行詩に対する反響が収録されているのだという。そのほとんどは、自分を痛烈に批判し非難する左翼陣営の新聞、雑誌の記事で埋められていた。
 「カール・クラウスの最後の挨拶!」
 「なぜカール・クラウスは沈黙するのか?」
 「カール・クラウスの終焉」
 「カール・クラウス最期の日々」

ある新聞の論説が引用されている。
「暗い時代にこそ人間の本性が知れるものだ。これまで講演会場において、芝居がかった身振り入りで獅子吼していたというのに、まさしく口をつぐんではならないこの時代にあたり、彼は矩火の火を消そうとしている」

この同時代における批判がクラウスの対ナチス姿勢についての定説になった。事実、彼はナチスへの迎合こそしなかったが、けっして正面からは闘わなかった。「カール・クラウスは激しく彼のファンを裏切った」のだ。それゆえ、大戦後評価されることがなかった。

著者は、難解な彼の言動を、けっして裏切りではないとの立場から弁明を試みているが、それこそ難解で了解は難しい。

元祖ブロガーは、最晩年を有終の美で飾ることが出来なかった。無念ではある。しかし、時代状況は、まさしく「地球がすさまじい音をたてて砕けた」のだ。「この有様にかなうことばはなくなった」のだ。彼にして、「わたしは沈黙をまもる」「ただ眠りのうちから語るばかり」と観念せざるを得なかったのだ。あらためて思う。「ことばを永遠の眠りにつかせ」てはならない。

凡庸なわれわれブロガーが、なべて沈黙を強いられる時代を到来させてはならない。敵は、ちゃちなスラップを試みる程度の小物に限らない。権力そのものであったり、モンスターであったりもするのだ。その強大な敵に押し潰されないためには、片時も沈黙することなく、言葉を武器に語り続けなければならない。個別の表現者を孤立させてはならない。多くの表現者が連帯して、権力者の側をこそ孤立させなければならない。

何度でも呼びかけたい。「万国のブロガー団結せよ」と。
(2016年2月17日)

これは、大きな問題だ。ぜひあなたも、高市早苗と安倍政権に抗議の声を。

2月8日と9日の衆議院予算委員会における総務相高市早苗発言。放送メディアを威嚇し恫喝して、アベ路線批判の放送内容を牽制しようという思惑の広言。あらためて、これは憲法上の大問題だと言わざるを得ない。政治とカネの汚い癒着を露呈した甘利問題もさることながら、表現の自由・国民の知る権利、そして民主主義が危うくなっていることを象徴するのが高市発言。もっと抗議の声を上げなければならない。

表現の自由こそは、民主主義社会における最重要のインフラである。これなくして、民主主義も平和も、社会の公正もあり得ない。そして、この表現の自由とは、何よりも権力からの自由である。表現の自由の主たる担い手であるメデイアは、常に権力からの介入に敏感でなくてはならない。いま、放送というメディアに権力が威嚇と恫喝を以て介入しているときに、肝心のメディア自身に危機感が見えない。もっと真剣に対峙してもらいたい。

残念ながらメディアの反応は鈍く、中央紙の社説では下記の3本が目につく程度。
 毎日社説 2月10日 総務相発言 何のための威嚇なのか  
 読売社説 2月14日 高市総務相発言 放送局の自律と公正が基本だ  
 東京新聞 2月16日 「電波停止」発言 放送はだれのものか  

政府寄り・アベ御用達と揶揄されるスタンスの社も、メディアのプライドをかけて高市発言を批判しなければなるまい。この事態を放置しておけば、確実に「明日は我が身」なのだから。しかも、各紙とも系列の電波メディアを持っている。とうてい他人事ではないのだ。

メディアの反応が鈍ければ、主権者が直接に乗り出すしかない。そこで、ご提案したい。ぜひ皆さま、抗議の声明を出していただきたい。個人でも、グループでも、組合でも、民主団体でも…。声明でも、要請でも、抗議文でも、申入書でも…形式はなんでもよい。宛先は高市早苗と安倍政権。あるいは、各放送メディアへの要請もあってしかるべきだろう。手段は、ブログもよし。手紙でもファクスでもメールでもよい。

問題は、文面である。在野・市民団体の側の危機感は鋭く、高市発言以来昨日(2月16日)までに、多くの抗議の声が上げられている。その内、下記4本の声明や申入れが代表的なもので、ほぼ問題点を網羅している。いずれも、日頃からの問題意識あればこその迅速な対応としての声明文だ。それぞれに特色があるが、並べて読めば網羅的に問題点を把握できる。これを読み比べ、議論の叩き台として、見解をまとめてみてはいかがだろうか。

官邸の宛先は
〒100-8968 東京都千代田区永田町1-6-1
   内閣総理大臣 安倍晋三殿

下記アドレスから官邸へのメール発信が出来る。
  https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html

総務大臣の宛先は、
〒100?8926東京都千代田区霞が関2-1-2
     中央合同庁舎第2号館
 総務大臣 高市早苗殿

総務大臣宛には、下記URLからメールで。
  https://www.soumu.go.jp/common/opinions.html

なお、2月8日衆院予算委員会議事録のネットでの公開はまだないが、下記のサイトで、記録を起こした全文が読める。「高市早苗氏『電波の停止がないとは断言できない』放送局への行政指導の可能性を示唆」
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160209-00010000-logmi-pol

また、参考とすべき放送法は
  http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO132.html

電波法は、
  http://www.houko.com/00/01/S25/131.HTM

代表的な4本の抗議声明とは、下記のA?D。いずれも、信頼できる団体の信頼できる内容。

A 2月10日 民放労連声明
 「高市総務相の「停波発言」に抗議し、その撤回を求める」
  http://www.minpororen.jp/?p=293

B 2月12日 放送を語る会・日本ジャーナリスト会議
 「高市総務大臣の「電波停止」発言に厳重に抗議し、大臣の辞任を要求する」
  http://jcj-daily.seesaa.net/article/433733323.html

C NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ 申入れ
  「高市総務相の「停波」発言の撤回と総務大臣の辞職を求める申し入れ」
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-e9fb.html

D 2月16日 東京弁護士会・会長声明
 「高市早苗総務大臣の「放送法違反による電波停止命令を是認する発言」に抗議し、その撤回を求めると共に、政府に対し報道・表現の自由への干渉・介入を行わないよう求める会長声明」
  http://www.toben.or.jp/message/seimei/post-425.html

それぞれの特色があるが、下記の点では、ほぼ共通の認識に至っている。
(1) 高市発言の「放送法の規定を順守しない場合は行政指導を行う場合もある」「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」の部分を問題として取り上げ、これを不要不適切というのみならず、放送メディアに対する威嚇・恫喝と把握していること。

(2) 高市発言が、「放送法4条違反を理由に電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性に言及した」ことについて法の理解を間違いとしている。憲法・放送法の研究者においては放送法第4条は放送事業者に法的義務を課す規範ではなく、放送事業者の内部規律に期待した倫理規定とみなすのが定説であって、権力規制に馴染まないこと。

(3) 高市発言は、安倍政権の報道の自由への権力的介入の姿勢の象徴であるとともに、高市自身の日頃の政治姿勢の問題の発露でもあること。

(4) 電波管理行政を所管する大臣からの、メディアへの威嚇・恫喝は、憲法21条の理念に大きく違背するものとして、憲法上重要な問題であること。

(5) 高市には閣僚としての資質が欠けているとして、本人には辞任を、政権には更迭を求めていること。(弁護士会声明だけは別)

以下、各声明・申し入れの特徴を略記しておきたい。
A 2月10日 民放労連声明
さすがに、対応が迅速である。高市発言を放送の自由に対する権力的介入と捉え、これを我がこととしての当事者意識が高い。その自覚からの次の苦言が印象的である。
「今回のような言動が政権担当者から繰り返されるのは、マスメディア、とくに当事者である放送局から正当な反論・批判が行われていないことにも一因がある。放送局は毅然とした態度でこうした発言の誤りを正すべきだ。」

また、問題の根源が未熟な政府の放送事業免許制にあるとして、次の提案がなされている。
「このような放送局への威嚇が機能してしまうのは、先進諸国では例外的な直接免許制による放送行政が続いていることが背景となっている。この機会に、放送制度の抜本的な見直しも求めたい。」

B 2月12日 放送を語る会・日本ジャーナリスト会議声明
高市総務大臣の「個性」に着目して背景事情を語り、その資質を問題として糾弾する姿勢において、もっとも手厳しい。

「もし高市大臣が主張するような停波処分が可能であるとすれば、その判断に時の総務大臣の主義、思想が反映することは避けられない。
 仮に高市大臣が判断するとした場合、氏はかつて『原発事故で死んだ人はひとりもいない』と発言して批判をあび、ネオナチ団体代表とツーショットの写真が話題となり、また日中戦争を自衛のための戦争だとして、その侵略性を否定したと伝えられたこともある政治家である。このような政治家が放送内容を『公平であるかどうか』判定することになる。
 時の大臣が、放送法第4条を根拠に電波停止の行政処分ができる、などという主張がいかに危険なことかは明らかである。」
「我々は、このような総務大臣と政権の、憲法を無視し、放送法の精神に反する発言に厳重に抗議し、高市大臣の辞任を強く求めるものである。」

C NHKを監視・激励する視聴者コミュニティの総務大臣宛申入れ
小見出しを付した3パラグラフから成る。もっとも長文であり、叙述も広範囲に亘っている。
1.倫理規範たる放送法第4条違反を理由に行政処分を可とするのは法の曲解であり、違憲である。
「最高裁判決は、放送法4条の趣旨を、『他からの干渉を排除することによる表現の自由の確保の観点から,放送事業者に対し,自律的に訂正放送等を行うことを国民全体に対する公法上の義務として定めたもの』と言っている。権力的な介入を認める余地はない。」

2. 停波発言は2007年の放送法改正にあたって行政処分の新設案が削除され、真実性の確保をBPOの自主的努力に委ねるとした国会の附帯決議を無視するものである。
「高市総務相は『BPOはBPOとしての活動、総務省の役割は行政としての役割だと私は考えます』と答弁し、BPOの自立的な努力の如何にかかわらず、行政介入を行う意思を公言した。しかし、権力的介入を防止し、社会的妥当性を踏まえた自律機能を発揮するのがBPOの存在意義。高市発言は、BPOの存在意義を全面的に否定するものにほかならない。」

3. 放送法第4条に違反するかどうかを所管庁が判断するのは編集の自由の侵害である。
 「政治的に公平だったかどうか、多角的に論点を明らかにしたかどうかは往々、価値判断や対立する利害が絡む問題である。そして報道番組の取材対象の大半は、時の政権が推進しようとする国策であり、報道番組では政府与党自身が相対立する当事者の一方の側に立つのがほとんどである。放送に関する許認可権を持つ総務大臣が、放送された番組が政治的に公平かどうかの審判者のようにふるまうのは、自らがアンパイアとプレイヤーの二役を演じる矛盾を意味する。その上、放送事業者に及ぼす牽制・威嚇効果は計り知れず、そうした公言自体が番組編集の自由、放送の公平・公正に対する重大な脅威となる。」

D 2月16日 東京弁護士会・会長声明
 高市問題に関する最初の弁護士会声明である。憲法21条についての実践的重要課題として迅速に取り上げた執行部に敬意を表したい。
最後は、「よって、報道・表現の自由を萎縮させ、国民の知る権利を侵害し立憲民主主義を損なう高市早苗総務大臣の発言に強く抗議し撤回を求めると共に、政府に対し報道・表現の自由への干渉・介入となり得るような行政指導や発言を行わないよう求める。」と結ばれている。ここにも見られるとおり、高市よりは、むしろ政府に対する抗議と要請になっていることに特色がある。

「菅官房長官や安倍総理も、この(高市)発言を『当然のこと』『問題ない』として是認している。しかし、このような発言や政府の姿勢は、誤った法律の解釈に基づき放送・報道機関の報道・表現の自由を牽制し委縮させるもので、我が国の民主主義を危うくするものである。」というのが基本姿勢。

「憲法21条2項は検閲の禁止を定めているが、これは表現内容に対する規制を行わないことを定めるものでもある。1950年の放送法の制定時にも、当時の政府は国会で「放送番組については、放送法1条に放送による表現の自由を根本原則として掲げており、政府は放送番組に対する検閲、監督等は一切行わない」と説明している。
放送法4条が放送内容への規制・制限法規範になるものではなく、放送事業者の自律性における倫理規定に過ぎないことは明らかである。」「政府が、放送法4条の「政治的に公平」という言葉に部分的に依拠しそれが放送事業者に対する規制・制限法規範であると解釈して、行政指導の根拠とすることは許されず、さらに違反の場合の罰則として電波法76条1項による電波停止にまで言及することは、憲法および放送法の誤った解釈であり許されない。」とする。
その上で、「放送法4条についての今般の解釈を許すならば「政治的に公平である」ということの判断が、時の政府の解釈により、政府を支持する内容の放送は規制対象とはならず、政府を批判する内容の放送のみが規制対象とされることが十分起こり得る。さらに、電波停止を命じられる可能性まで示唆されれば、放送事業者が萎縮し、公平中立のお題目の下に政府に迎合する放送しか行えなくなり、民主主義における報道機関の任務を果たすことができなくなる危険性が極めて高くなるものである」とたいへん分かり易い。

安倍政権は、今や誰の目にも、存立危機事態ではないか。アベノミクスは崩壊だ。閣僚不祥事は次々と出て来る。そして、メディアを牽制するだけが生き残りの道と思っているのではないか。なんとか生き延びて、悲願の改憲をしたいというのがホンネであろう。
一つ一つの課題に、抗議の声を積み上げたいものと思う。
(2016年2月17日)

プーチンの汚職疑惑を訴えるブロガーの覚悟

2月12日の各紙に小さく載った時事通信の配信記事。ロシアのブロガーが、プーチンを訴えたのだという。ほかならぬ「あのプーチン」を、である。短い記事なので全文を引用しよう。タイトルは、「ロシア大統領を提訴=政敵ブロガー、汚職と指摘」というもの。穏やかな話しではない。

【モスクワ時事】ロシアの反政権ブロガー、アレクセイ・ナワリヌイ氏は11日、プーチン大統領に汚職疑惑があるとして、モスクワの裁判所に提訴したと発表した。大統領の決定で昨年10月、娘婿が株主の石油化学会社に政府系ファンドから約18億ドル(約2000億円)が拠出されたという。
ペスコフ大統領報道官は記者団に「(大統領は訴えを)知らない」と説明した。次期大統領選の前哨戦となる9月の下院選前に、波紋を広げる可能性がある。

これだけの記事では、正確なことは分からない。汚職疑惑があるなら刑事告発をすべきところだが、プーチンの手下がプーチンを訴追することは考えがたい。では、いったい裁判所にどのような提訴をしたのだろうか。どのような勝訴への成算があるのだろうか。提訴が記事になるインパクトだけが獲得目標なのだろうか。そもそも「疑惑」は秘密のことなのだろうか。それとも誰もが知っていることなのだろうか。どれほどの根拠あっての「提訴」なのだろうか。

それはともかく、ロシアにも「反政権ブロガー」が存在するのだ。その「反政権ブロガー」が権力者プーチンの最大の政敵として、プーチンの巨大汚職を告発したのだという。「提訴したとの発表」もおそらくはブログでなされたのだろう。プーチンと渡り合うという武器となったブログの威力に興味津々ではないか。

権力的統制には弱いロシアのメディアである。遠慮のないプーチン批判は難しかろう。ましてや、プーチンの汚職摘発はハードルが高い。それでも、ブログで批判や告発がなされているという間接的な形であれば、記事にできるのではないか。「ナワリヌイがプーチンを提訴」は、現に報道されている。メディアの腰が引けているとき、これに代わるものとしてのブログの影響力は大きい。メディアが沈黙するとき、人々の情報の渇望に応えて、たったひとりが発信するブログの政治的意義ははかりしれない。

アレクセイ・ナワルヌイとは、「弁護士資格を持つロシアの人気ブロガー」だそうだ。今やプーチンの最大の政敵と自他共に認める存在で、2度の被逮捕経験があるとのこと。この逮捕された経験によって、彼はブログの世界の活動家から、リアルな反体制活動家に変身したのだという。

ブログは、使い手次第でプーチン政権とも対等に戦う恐るべき武器たりうる。組織なく資力なくとも、多くの人に事実を知らせ、多くの人を説得し、多くの人の意識を変え、多くの人に行動を促し、もしかしたら政権や体制を変革するきっかけにすらなり得るのだ。

そのためには、二つの要件がある。一つは、信念を貫く不退転の決意である。プーチンの政敵や批判者たらんとするには、暗殺の恐れを絵空事ではなく現実味あるものと想定し覚悟せざるを得ない。ナワルヌイのブロガーとしての人気は、そのような危険をも覚悟した決意に満ちた発言だからこそ、なのだろう。

私もブロガーの端くれだが、省みてナワルヌイほどの覚悟も決意もない。アベ政権批判も、DHCや吉田嘉明批判も、その他の政治家や大企業や御用メデイアや御用学者批判も、そして天皇や天皇制批判も、稲田や高市批判も、嫌がらせ程度は避けられないにせよ、暗殺を恐れるなどという大仰な覚悟は不要である。

私は、ナワルヌイに学んで、暗殺も恐れぬ覚悟と決意でブログを書こうなどとはけっして思わない。暗殺など恐れる必要なく批判の言論を展開できる自由の獲得に全力を尽くすことにこそ覚悟と決意を向けたいと思う。

そしてもう一つの要件。ブロガーの威力や影響力は、多くの人に読んでもらえてこそのこと。多くの人に読んでもらえる工夫と努力が必要だ。まずは、長い、くどいの悪評を払拭しなければならない。いまに…。そのうちに…。いつかきっと…。
(2016年2月16日)

高市早苗発言のホンネ

私、高市早苗です。総務大臣のポストにあって、微力ながらもけなげにアベ政権を支えています。甘利さん、島尻さん、丸川さん、岩城さんなど、アベ政権を支える閣僚の不祥事や問題発言、そして無能ぶりが話題になっています。しかし、私に関しては不祥事とも、問題発言とも無縁です。もちろん無能とも。私の発言はすべて計算ずく、言わば確信犯なのですから、島尻さんや丸川さん岩城さんなどと一緒にされるのは、迷惑至極と言わねばなりません。

アベ政権の反知性の姿勢が批判の対象となっていますね。島尻さん、丸川さん、岩城さんなどは、いかにも「反知性」を感じさせますが、飽くまでも私は別格です。私は、アベ政権の知性を代表して、アベ政権を支えるために日夜奮闘しているのですから。

総務省って昔の自治省と郵政省を統合したもので、郵政省が管轄していた電波監理行政は今総務大臣である私の手の内にあります。NHKも民放も、放送法の縛りの中での免許事業ですから、私の意向を忖度しながら動かなければなりません。それが当然、当たり前のことではありませんか。

放送に携わる多くの方には、私が何を考えているか、どうすれば私の意に沿う放送内容になるのか、またどうすれば私の逆鱗に触れることになるのか、よくご理解いただいています。それくらい気がきかなければこの世界で生き抜いていくことが出来るとは思えませんものね。「憲法9条を守れ」だの、「解釈改憲は怪しからん」だの、「アベ政権の姿勢はおかしい」「アベノミクスは大失敗」だのといえば、免許権を持っている官庁との間に無用の摩擦が生じてものごとが面倒になる、そのくらいのことは大人の分別をお持ちの方ならよくお分かりのはず。

でも、今に限っては、「よくお分かりのはず」では不十分なのです。テレビやラジオの放送事業に携わる者の大部分はものわかりのよい方ばかりですが、ごく一部ではありますが変わり者もいます。「ジャーナリズムの真髄は政権批判にある」などと訳の分からぬことを言う人たち。普段ならともかく、今はこういう確信犯的人物の出番をなくさねばなりません。そのために、放送事業者に絶えずシグナルを送り続けなければならないのです。

何しろ、これから無理をしてでも、国民に不人気な明文改憲をやろうというアベ政権なのです。今のメディアの状況が続けば、アベ政権批判が噴出して、もたないことになるかも知れない。その危機感は閣内全体のものとなっています。だから、私がアベ政権を支える立場から、メディアの政権批判を抑制するよう火中の栗を拾わなければならないのです。

私は知性派ですから、必要な限りでホンネを発言しつつ、突っ込まれても躱せるように、切り抜け策を十分に準備しています。それが、「忖度と萎縮効果期待作戦」あるいは「ホンネチラ見せ戦術」と言うべきものなのです。私の独創ではなく、敏腕の政治家や官僚の常套手段といってもよいのではないでしょうか。

「おまえ、人を殺すようなことをするなよ」とか、「嘘を言うものじゃないよ」と言えば、言われた方は怒ります。「オレを人殺しだというのか」「嘘つきだというのか」と。でも、「『人を殺すようなことをしてはいけない』も『嘘を言ってはいけない』も、当然のことを言ったまでのことで、あなたを人殺しや嘘つきと決めつけたわけではない。だからなんの問題もない発言」と切り返すことを準備しているのです。これがアベ政権の悪知恵、いや知能犯、でもなく知性のあるやり方なのです。

私は、2月8日の衆院予算委員会で、「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合には、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性がある」と確かに言いました。でも、飽くまで、一般論を述べただけ、「人を殺すようなことをしてはいけないのは当たり前だろう」と開き直って切り抜けられるように計算した発言なのです。何が政治的な公平性を欠くものか、どこの局のどのような番組にその虞があるのか、具体的な決め付けは何もしていません。

それでも、停波可能性発言のあとに、「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」「私の時に(電波停止を)するとは思わないが、実際に使われるか使われないかは、その時の大臣が判断する」と続けました。ここまで言っておけば、放送事業者には私の真意を十分に忖度していただけるはず、そして萎縮してくれることが十二分に期待できるのです。

当たり障りのないことを言っているようで、実は萎縮狙いの効果抜群の私の発言。知性派である私なればこそ出来ることで、私がアベ政権をけなげに支えていると申しあげた意味も十分にお分かりいただけるものと思います。

ところで、「政治的な公平性」とは何か、誰が判断するのか、ということがにわかに議論となってまいりました。

「政治的な公平性」あるいは「公平性を欠く」という判断は誰がするのか。その判断の権限は、主務官庁の責任者である私にあることは明らかです。私は、逃げることなくその判断をいたします。

考えてもいただきたい。民主主義の世の中です。選挙で主権者の多数からご支持をいただいて政権が出来ています。私の職責も、主権者国民から委託されたものなのです。私がその職責を果たさないことは、国民を裏切ることになろうというものです。

では、「政治的な公平性を欠く」とはどういうことか。私が申し上げましたとおり、「国論を二分する政治課題で一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」で十分だと思います。これで、多くの放送事業者はものわかりよく、「憲法を守れ」「9条改憲反対」「アベ政権は非立憲」などと言ってはいけないのだと、正確に呑み込んでいただけるはず。これをアウンの呼吸とか、魚心あれば水心というものでしよう。これにツッコミを入れるなんて野暮というものではありませんか。

えっ? なんですって? 「あなたの目は結局政権だけに向いていて、国民の方には向いていないのか? とおっしゃるのですか」

その質問がおろかなのです。国民が選んだ政権ではありませんか。アベ政権こそが、国民の意思を体現しているのです。ですから、軽々にアベ政権批判は慎んで戴きたいという私の真意は、国民の意思を尊重することでもあるのです。お分かりでしょうか。

ああ、私って、なんて知性派。
(2016年2月14日)

表現の自由を護るための、スラップ防止対策シンポジウム構想 ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第71弾

先週の木曜日、1月28日にDHCスラップ訴訟控訴審の判決が言い渡されて本日でちょうど1週間が経過した。上告ないし上告受理申立期間は本来は来週の木曜日、2月11日までだが、この最終日が休日(「建国記念の日」)なので、2月12日(金)となる。DHC・吉田嘉明は、おそらく期限ぎりぎりまで考え続けるのだろう。

上告も上告受理申立も、これが受理され審理されるのはきわめて制限された狭い門である。本件の場合も、この高いハードルを乗り越えての逆転など万に一つの目もない。そのことは、一審・二審と完全な敗訴を続けたDHC・吉田側もよく分かっているはず。いや、最初から勝訴の見通しなど持っていなかったというべきなのだろう。勝訴の見通しなくても、提訴自体の言論封殺効果をねらっての典型的スラップ訴訟。だからこそ、威嚇として十分な非常識高額請求訴訟となったのだ。

DHC・吉田の当初の請求は2000万円だった。私が、この訴訟をスラップ訴訟として当ブログで反撃を開始した途端に、請求額は6000万円に跳ね上がった。当初は2000万円の請求金額で威嚇効果十分と考えたのが、予想外の反撃を受けてこの程度の金額では提訴の持つ威嚇効果不十分と認識したからこその請求の拡張、それもいきなりの3倍化ということなのだ。

DHCスラップ訴訟の被害者は、被告とされた私だけではない。社会の多くの人が、「DHCや吉田嘉明を批判すると、やたらと訴訟を提起されて面倒なことになる」ことを恐れてDHC・吉田に対する批判を自制している現実がある。言論の萎縮効果が蔓延しているのだ。

私は、当事者として、また弁護士という職業上の使命において、このような言論の萎縮をねらった社会悪に立ち向かわなければならない。いかに面倒であっても、逃げるわけにはいかない。飽くまで闘うのみである。

DHC・吉田の上告(受理申立)可否についての考慮の構図は、次のようなものだ。

積極方針の根拠。
「最初から覚悟していたことではあるが、こんなみっともない敗訴には腹が立つ。万に一つでも逆転の可能性があるのなら最高裁まで争ってみたい」「それだけではない。もともとが澤藤に負担をかけることを目的とした提訴だ。少しでも長く、被告の座に坐らせ、少しでも大きな財政的心理的な負担をかけようという初心にたちかえって最高裁に上訴すべきだろう」「幸い、我が方にはカネの力がある。弁護士費用なぞはいくらかかってもかまわない。上告の手数料(貼用印紙)は、わずか40万円余だという。貧乏人には高いハードルとして評判悪いが、私にはなんの負担感もない」

消極方針の根拠。  
「最高裁でもほぼ確実に敗訴を重ねる公算が高い。3度めの恥の上塗りはみっともなさを天下に曝すことになる」「スラップだ、濫訴だ、不当提訴だと、また叩かれることになる」「渡辺喜美に8億円を提供したことをまた蒸し返され、結局は規制緩和を求めて裏金を渡したと世間に印象づけることになってしまう」「化粧品やサプリメントを販売している当社にとって、ダーティーな商品イメージにつながって商売に影響を及ぼすことが心配だ」「結局は、上告をやめてこのトラブルを早めに終息させた方が経営上は得策だろう」

どちらでも、よく考えてみるがよい。どちらにしても針のムシロ。自分で播いた種だ。自分で刈り取るしかない。

スラップ訴訟は、訴権を濫用して、表現の自由を萎縮させる深刻な社会悪である。スラップ訴訟の提起者には、相応の制裁があってしかるべきだ。控訴・上告に至ったスラップには、比例原則にしたがった制裁措置がなくてはならない。制裁の方法や制裁が及ぶべき範囲についてはいろいろと考えられるが、まずはその方法を考える大きなシンポジウムを開催したい。仮称「スラップ訴訟とDHC」である。

シンポジウムは2部構成とする。
第一部は、スラップ訴訟一般について。スラップの何たるか、その実態と弊害。憲法的な問題点、訴訟法的な問題点、米国のスラップ事情、どのように、スラップ防止の仕組みを構築すべきか。そしてスラップ提起者や代理人弁護士に、どのような実効性ある具体的制裁が可能か。

第二部は、もっぱらDHC問題。DHCが過去に起こしたスラップ訴訟の総ざらい。そして、DHCスラップ訴訟対澤藤事件における、上告(受理申立)理由の徹底検証を公開の場で行う。

メディアも招待して、自分の問題として考えもらうきっかけとしたい。記録を映像化し、また書籍化して、多くの人に広めたい。

先日、「バナナの逆襲」というドキュメント映画を製作したフレデリック・ゲルテン監督(スウェーデン人)と対談の機会があった。世界的な大企業であるドールフードからの「上映差止請求スラップ訴訟」との闘いを、そのままドキュメントにしたもの。このスラップ訴訟を取り下げさせた監督の述懐として、「最も効果のあった闘い方は、スウェーデンでの不買運動方針の提起だった」とのこと。

バナナとサプリメントでは商品の違いも、流通経路の違いもあるだろう。対DHC不買運動の提起が有効かどうか。どのようなやり方があり得るか。この点も大いに議論したいところ。

シンポジウムでは、上告(受理申立)から50日を期限として、上告(あるいは上告受理申立)理由書が出て来る。これを徹底して検討し叩く場にしたい。連休明け頃がこのシンポジウムの時期となるだろう。ぜひお楽しみにしたいただきたい。
(2016年2月4日)

野暮じゃありませんか、日弁連の「べからず選挙」。

昨日の私のDHCスラップ訴訟控訴審判決法廷に、徳岡宏一朗さんが私の代理人のひとりとして出廷してくれた。記者会見にも出席して、著名ブロガーとしての自らの体験から、ブロガーの表現の自由の大切さを語った。

徳岡さんは、私の「万国のブロガー団結せよ」という呼びかけに呼応して、「リベラルブロガーの団結」の機会を作ろうと具体的プランを練っている。その彼が、記者会見の席で、ブロガーの表現の自由を守り通すことの困難な状況をも語った。

その困難な状況のエピソードのひとつとして、日弁連会長選挙に関連した彼のブログ記事が、「選挙管理委員会から削除を要請された」と報告された。その理由は、「候補者以外の会員による選挙活動は禁止されている」からだという。徳岡さん自身は、会見の場では選挙管理委員会の措置を不当とも不満とも言わなかったが、これは看過できない問題ではないか。

私は、これまで刑事弁護活動に際して公職選挙法に目を通す機会は多く、「べからず選挙」となっている選挙活動の制約過剰を批判し続けてきた。かなり以前のことだが、「戸別訪問禁止は憲法(21条)違反」という判決を勝ち取ったこともある。(もっとも、無罪は一審段階限りで、検事控訴によって覆り最高裁でも上告棄却で終わったが)

日弁連会長選挙が、公職選挙法に類する「べからず」選挙とは知らなかった。今回、初めて会長選挙規定を一読して、首を傾げた。なるほど、これはおかしい。社会正義と人権の擁護者としての弁護士の組織が行う選挙である。選挙における民主主義や人権は、国の法律よりも抜きん出て重んじられなければならない。にもかかわらず、なんと古色蒼然たる理念に基づく規定であろうか。

関連規定は、以下のとおり(読み易く一部省略)である。
第56条の2(ウェブサイトによる選挙運動)
1項 候補者は、ウェブサイトを利用する方法により、選挙運動をすることができる。
2項 選挙運動のために利用するウェブサイトは、選挙運動の期間中に限り開設される選挙運動専用のものでなければならない。

第58条(禁止事項)
候補者及びその他の会員は、選挙運動として次に掲げる行為をし、又は会員以外の者にこれをさせてはならない。
第4号 第56条の2の規定に違反してウェブサイトを利用する方法による選挙運動をすること。

要するに、ウェブサイトを利用する選挙運動は、候補者だけに可能とされ、一般会員有権者には禁止されているのだ。規定がこうなっている以上、任務に忠実を心掛ける謹厳な選管委員氏が、徳岡さんのブログを看過できないとしたわけだ。だが制裁措置は予定されていない訓示規定。どう運営するかは選管次第。看過したところでなんということもないのだ。むしろ、規定の方に大いに問題があり、異議ありなのだ。

この会長選挙規定をおかしいという根拠の一つは、選挙運動主体についての理念を古色蒼然で戦前型といわねばならないことにある。私は、民主主義社会の選挙運動の主体は候補者でもその取り巻きでもなく、主権者国民であることを疑わない。かつて、普通選挙法(1925年改正衆議院議員選挙法)成立後敗戦までの間は、「演説又は推薦状による場合を除き、候補者、選挙事務長、選挙委員又は選挙事務員でない第三者は選挙運動をすることができない(第96条)」と規定された。この「第三者」とは有権者国民のことである。選挙運動の主体は、候補者と、登録された運動員に限られ、「第三者」たる一般国民には選挙運動が禁止されていた。国民は選挙運動の主体ではなく、もっぱら選挙運動の受け手に留め置かれたのだ。可能な限り臣民に民々主義的な政治感覚を育てたくないとする天皇制政府の(悪)知恵の所産である。日弁連の会長選挙規定がこの思想を受継しているかにみえることに一驚せざるを得ない。

選挙とは、本来的に有権者相互間の言論戦である。選挙運動としての言論の規制を合理的だというためには、カネがかかりすぎるか、虚偽や詐術の場合以外には考えがたい。しかし、ブログこそは最も金のかからない言論手段ではないか。また、虚偽や詐術には反論を第一とすべきであろう。後見的に選管が注意や勧告をするのはよくよくのことがなくてはならない。

徳岡さんのケースを具体的に見る必要があるだろう。彼の1月25日付ブログに次の記事がある。

「さっき、日本弁護士連合会選挙管理委員会の副委員長さんから、わざわざお電話をいただきました。わたくし、なんかの選挙にも出た覚えがないので、ビックリしたのですが、なんと私のブログ記事が日弁連の選挙管理規定に違反するので、削除して欲しいと言うのです。」
問題となったのは以下の記事。2016年1月17日付け記事で、
「【悲報】日本弁護士連合会の執行部側○○○○候補が、稲田朋美自民党政調会長に何度も献金していた。」というもの。
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/91b8d2267e07171d450b4c1dd6ab2c65

選管は、同候補が稲田朋美に献金をしていたことが事実かどうかを問題にするのではなく、形式的に「日弁連の選挙管理規定違反」だけを削除要求の理由に挙げたようだ。

私は、今回の候補者のひとりが稲田朋美という極右の政治家に政治献金をしていたという事実を知らなかった。徳岡ブログによって、貴重な私自身の投票行動の判断基準となるべき重要事実を知ることとなった。明らかに、候補者以外の会員が発するブログ記事は有益である。

もっとも、今回は、選管が動いたということが大きな話題となって、末端会員である私も、某候補者と極右稲田との関係を知るところとなった。選管の徳岡ブログ削除要求は話題作りの高等戦術なのか、あるいは単なるオウンゴールなのかは判然としない。

稲田朋美が何者であるか、いったんは私も情報を整理しようとしてみたが、その必要はない。徳岡さんが、これ以上はないという綿密さで、見事なプロファイリングをしてくれた。これを読めば、稲田が政治家としても、弁護士としても、いや市井のひとりしても、人間性を疑問視されるべきトンデモナイ人物であることが一目瞭然である。これも、選管介入の賜物であろうか。ぜひとも多くの人に読んでいただきたい。大いに拡散したいものである。
「日本弁護士連合会会長候補が献金していた稲田朋美政調会長とは、こんな極右政治家。」
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/db48f4b75b6bf719015cffa4eb8f2d57

公正を期すために、稲田との関係を指摘された候補者の釈明(抜粋)を記載しておきたい。
「年数万円の政治献金だけが事実で、あとはみなでたらめです。しかも、私が献金しているのは、稲田議員だけではありません。
稲田議員は、私と同じ大阪弁護士会に所属しており、旧知の間柄であるだけではなく、給費制やTPPの弁護士に関する条項の問題では、弁護士会と同じ立場に立って活動しています。法曹人口問題や法曹養成問題、給費制など、弁護士をめぐる様々な問題は、政治問題でもありますので、政治家への働きかけは欠かせません。私はこう考え、弁護士議員を中心に、与野党を問わず、幅広い議員に政治献金をしています。ここで個人名を挙げるのは控えますが、憲法問題でおよそ稲田議員と対極の立場にある野党議員にも献金しています。それを言わないで、稲田議員のみを取り上げるのは、ためにする議論としかいえません。」「弁護士の立場を守る議員は与野党を問わず応援するが、個別の政見については是々非々で対応する。これが私の立場です。もっとも、今までは一人の弁護士として献金してきましたが、公的な立場である日弁連会長となった暁には、全議員に対して献金を控えることといたします。」

稲田への「年数万円の政治献金だけが事実」と認めた上で、堂々とその理由を述べている。これはこれで見識と言えよう。「極右稲田もいまや有力な与党政治家なのだから、これと上手に付き合う必要がある」「弁護士会の利益のために、清濁併せ呑むべきは当然」「良い人とだけつきあっていたら選挙落ちちゃうんですね」「濁の濁たる稲田とでも付き合わなくては」との考え方である。他方「こんな輩とエールを交換することは断じてあってはならない」とする潔癖な批判は当然にある。考え方は、いろいろあってよい。が、「某候補者に対稲田献金あり」との事実摘示のブログを削除せよとする選管のやり方は穏やかではない。

必要にして十分な情報の交換とともに、批判と反批判の応酬の場を保障して、判断は有権者に任せればよいだけのことではないか。いずれ、この首を傾げざるを得ない日弁連会長選挙規定は変わらざるをえない。それまでの間、この点についての四角四面の厳格運用は野暮ではないか。野暮とは、法形式のみにとらわれて、民主主義の本質についての理解に欠けるという程度の意味合いである。
(2016年1月29日)

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