お知らせしたとおり、10月4日にDHC反撃訴訟の判決が言い渡され、私(澤藤)が勝訴した。本日(10月18日)が控訴期限。私の側は控訴しなかったが、DHC・吉田嘉明の側が控訴した。これから、控訴審が始まる。DHC・吉田嘉明が控訴人となり、私(澤藤)が被控訴人となる。
普通、控訴審の期間は長くかからない。私が被告になった、「DHCスラップ訴訟」も、口頭弁論期日は1回開かれただけで、即日結審となった。皆様に、もう少しのご支援をお願いしたい。
もう一度、事案と判決の内容を整理しておきたい。
私が、当ブログに吉田嘉明を批判する記事を掲載した。DHC・吉田嘉明が、その記事によって名誉を毀損されたとして、私を被告とする損害賠償請求訴訟を提起した。この訴訟が、「DHCスラップ訴訟」(あるいは「前件訴訟」)である。
そのDHCスラップ訴訟では、一審・控訴審そして最高裁への上訴のフルコースで、私が勝訴して確定した。
しかし、私はそれだけでは納得できなかった。私は、DHC・吉田嘉明の私に対する訴訟は、社会的な強者が、自分(吉田嘉明)に対する批判を封殺する目的で提訴した典型的なスラップ訴訟として違法であることを理由に、損害賠償請求訴訟を提起した。これが「DHCスラップ『反撃』訴訟」である。
その一審で私が勝訴し、敗訴のDHC・吉田嘉明が、一審判決に不服として東京高裁に控訴した、というのが現段階である。
私が一貫して主張しているものが、表現の自由である。仮に、DHC・吉田嘉明のこんな訴訟がまかり通ることになれば、民主主義社会を支える表現の自由が枯死してしまう。私こそが表現の自由の旗を持ち、DHC・吉田嘉明がこれに敵対する者なのだ。
しかし、当然のことながら、「表現の自由」が常に他の憲法価値に優越するわけではない。
Aの表現がBの社会的評価を貶めるとき、「Aの表現の自由」と「Bの人格権」とが衝突して調整を要することになる。Bが自らの人格権を違法に侵害されたとして損害賠償請求の訴えを提起すれば、Aに違法性阻却要件具備の挙証責任が課されて審理されるのが現在の訴訟実務。
その訴訟でBが結果として敗訴しても、直ちに不当な訴えを提起したことにはならない。結果として負けた訴訟が、すべてスラップということではない。社会の正義の感覚とは相容れない司法の壁に跳ね返されて、勝つべくして勝てない訴訟はたくさんある。これを違法・不当な訴訟とは言わない。
では、どのような場合に、Bの提訴が不当・違法な訴訟となるのか。どのような状況で、どのような要件を具備した場合に、スラップと呼ぶべき違法な訴訟として、提訴自体を不法行為に問うことができるのか。まだ、必ずしも明確な基準が設定されているとは言いがたい。
つまり、「結果としては勝てなかったが、争う価値ありという提訴」と、「そのような提訴自体が違法となる提訴」をどこで分けるべきかは微妙な問題が残されている。しかし、DHC・吉田嘉明の私に対する提訴の違法性は、そのような微妙な境界事例ではない。歴としたスラップ、明々白々な違法提訴なのだ。そのことを反映して、DHCスラップ『反撃』訴訟一審判決は、逡巡のあとのない、迷いのない判断を示している。
裁判所の判断の枠組みは、民事訴訟裁判制度の趣旨目的に照らして、著しく相当性を欠く場合にあたるか否かというものである。
判決の論理の出発点は、次の最高裁判例である。
「訴えの提起は,提訴者が当該訴訟において主張した権利又は法律関係が事実的,法律的根拠を欠くものである上,同人が,そのことを知りながら,又は通常人であれば容易にそのことを知り得たといえるのにあえて訴えを提起したなど,裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に限り,相手方に対する違法行為になるものというべきである(最高裁判所・1988(昭和63)年1月26日第三小法廷判決)。
その上で、大要次のように判断する。
「DHC・吉田嘉明が澤藤に対して訴えを提起し、損害賠償請求の根拠としたブログは合計5本あるが、そのいずれについても、客観的に請求の根拠を欠くだけでなく、DHC・吉田嘉明はそのことを知っていたか、あるいは通常人であれば容易にそのことを知り得たといえる。にもかかわらず、DHC・吉田嘉明は、敢えて訴えを提起したもので、これは裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に当たり、提訴自体が澤藤に対する違法行為になる」
噛み砕いて言えば、こんなものである。
「澤藤ブログが、DHC・吉田嘉明の耳には痛く面白くないとしても、裁判をしてもどうせ勝てっこない。しかも、勝てっこないことは分かっていたはず。仮にそのことが分かっていなかったとしても、普通の人なら容易にが分かったはずなのだから、そんな提訴はしてはいけない。してはいけない提訴をしたことは澤藤に対する違法行為として、損害賠償の責任を負わねばならない」ということでもある。
問題となっている提訴が、以下の「Aを前提に、B1かB2」であれば、違法となるということである。
A「客観的に勝てない」
B1「提訴者が、勝てないことを知っている」
B2「常識的に勝てないことが分かるはず」
つまり、これがスラップ勝利の方程式。
A+(B1orB2)=スラップ
吉田の澤藤に対する提訴が、A「客観的に勝てない」ものであることは、既に答が出ている。吉田嘉明の訴えは全面的に請求棄却で確定しているからだ。残るは、B1「提訴者が勝てないことを知っている」、あるいはB2「常識的に勝てないことが分かるはず」と言えるか。判決は、迷いを見せずに、これを肯定する。この判定過程が、この判決の神髄。当該判示部分の冒頭を抜き書きする。
原告澤藤ブログ(5本)は,本件(吉田嘉明の週刊新潮)手記ないし本件朝日新聞記事に記載されている事実を前提に、他の情報を付加することなく、原告が考える政治と金銭との健全な関係の観点から、本件(8億円)貸付について、被告吉田の内心の推察を試みつつ批判を加えようとするものと読み取ることができる。そうすると、原告ブログは、本件手記ないし本件朝日新聞記事に記載されている事実を元にした社会的な評価や推論であることが理解可能である記述部分や,人の内心に係る一般的な行為の動機の問題である記述部分からなり、被告吉田の本件(8億円)貸付の動機についての事実の摘示を含むものと解することはできないのであり、このことは、一般の読者において同様の理解が容易というべきである。
控訴しても、この結論が変わるはずはない。付帯控訴によって、賠償金の増額はあり得る。その控訴審の進行は、当ブロクで詳細に報告したい。引き続きのご支援をお願いいたします。
(2019年10月18日)
風格という言葉がある。その意味するところの説明は難しいが、なんとなく分からないではない。山岳や巨樹・古木の中には、確かに風格を感じさせるものがある。遺跡や建造物についても同様である。自ずと畏敬の念を呼び起こす雰囲気。今は既に絶滅してお目にかかることはないが、昔は風格のある人物が存在していたともいう。
人間集団にも風格はありうる。ある種の企業の独特の社風に風格を感じ取ることある。デマやヘイトやスラップをもっぱらとする企業には、望むべくもないことだが。
そして、大国には、中小規模の国にはない風格があってしかるべきである。大国の自信と余裕から、大らかで寛大な風格が自ずから滲み出ることになる。
今、大国アメリカの国連の分担金滞納が話題となっている。そのため国連は、深刻な財政危機にあり、「11月の人件費をまかなえない恐れがある」と事務総長が訴える事態となっている。けちくさいトランプの小細工。堂々たる大国のやることではない。世界から、尊敬も信用も得られない、風格なきトランプのアメリカ。
もう一つの大国、中国も同様である。いま、中国は総がかりで、NBA(全米プロバスケットボール協会)と対峙している。そのまなじり決したやり方には、大国の風格のカケラもない。これでは、世界から尊敬も信用も得られまい。風格なき習近平の中国。
問題の発端は、10月4日の一通のツイートである。NBAに所属するヒューストン・ロケッツのゼネラルマネジャーであるダリル・モーリーが「香港と共に立ち上がろう」と書かれた画像をツイッターに投稿した。中国に対する批判の言論ではない。「香港と共に立ち上がろう」である。これが中国の逆鱗に触れた。大きな中国がこの一通のツイートに噛みついたのだ。何という、鷹揚さにも寛大さにも欠けた対応。余裕も自信もないことをさらけ出しているではないか。
もちろん、このツイートはNBAの公式コメントではない。ヒューストン・ロケッツのツイートですらない。あくまで、ダリル・モーリー個人の見解であることは明らかだ。NBAが責任をもつ筋合いはない。常識的には。
中国メディアの反発に対して、NBAはどう言うべきであっただろうか。
「民主主義社会の普遍的理念として表現の自由がある。NBAは表現の自由を尊重し発言者を擁護する」と言うべきであったろう。おそらくは、そう言いたかったに違いない。それでこそ、「自由の国」の「自由の精神」を貫徹することになる。しかし、そうは言えなかった。アメリカは、「自由の国」であるだけでなく、「カネが支配する国」,すなわち「資本の原理が貫徹する国」でもある。表現の自由という理念よりも、儲けのチャンスを逃してはならないとする現実的な要請を優先せざるを得ない。
結局、NBAは自らは関与していないという言い訳の声明を発表しただけでなく、英語と中国語で謝罪した。
NBAにとって、中国は数十億ドルの市場だという(「ニューズ・ウィーク」)。この巨大市場を失いたくはないというNBAの現実感覚が、表現の自由擁護を追いやったのだ。
恐るべきは、巨大市場を擁する中国である。バスケットボールに限らない。スポーツ一般にも限らない。すべての経済分野で、巨大市場を武器とする中国の傍若無人が、まかり通っていることが報じられている。
米中ともに、大国の風格を欠くことにおいて兄たり難く弟たり難し。とりわけ、ナショナリズムをふりかざす中国の格好の悪さが際立っている。
国際的な批判が必要である。私も、ダリル・モーリーに倣って声を上げよう。
「香港と共に立ち上がろう」と。
(2019年10月17日)
(急ぎのお知らせ) 明日10月18日、17時から予定していた「NHK前アピール行動」は雨天の予報を受け、中止となりました。 目下、呼びかけ人の間で、近々に、同じ趣旨で代わりの企画を行う相談をしています。明日中には決定してお知らせします。 たびたびの予定変更ですが運動はしっかり続けますので,よろしくお願いします。
私は、根は親切なタチだ。多少は、お節介でもある。だから、このブログでも、何人かの人には親切心から、「おやめなさい」と言ってきた。
しかし、私が万人に親切であるわけはない。相手によっては、不親切心からの思惑あって「おやめなさい」と言うこともあれば、うまく行かないことを見越して「ぜひおやりなさい」とけしかけることだってある。
ところで、N国の立花孝志さん。あなたは、10月4日の記者会見で、小西洋之参院議員に対する民事訴訟の提訴を宣言された。小西さんの立花批判発言を名誉毀損として損害賠償請求の提訴をすると明言された。記者会見とは国民の代表への語りかけの場。あなたは、国民への約束をされた。政治家に二言はあるまじきこと。このスラップまだ提訴になっていないようだが、どうなさったか。ぜひ、おやりなさい。早くおやりなさい。躊躇していてはなりません。グズグズしているのは、あなたらしくない。
あれから10日も経っている。一度口にしたことは速やかに実行しましょう。そうでないと、政治家失格。いや、社会人失格。「埼玉補選出馬準備で忙しい」なんて言い訳は止めましょう。あなたらしくもない。名誉毀損損害賠償請求の訴状を書くのは簡単なこと。だれにだって書ける。立花さん、あなただって自分で書ける。自分で書くのが面倒なら、どんな弁護士にでも依頼さえすればよい。訴状だけならたやすく書ける。あなたは、埼玉補選に専念しておいてよいのだ。
私は、2014年4月8日、当ブログに「政治資金の動きはガラス張りでなければならない」という、DHC・吉田嘉明批判の記事を書いた。そうしたら、DHC・吉田嘉明は4月16日に私を名誉毀損で提訴した。吉田嘉明かDHCの誰かが、そのブログを最初に読んだのは、どう考えても4月9日以降のこと。とすれば、提訴を決意し弁護士に相談して依頼し、弁護士が受任して訴状を書いて提出するまで、一週間という期間でしかなかった。
しかも、この一週間は、DHCの顧問弁護士(今村憲)が、多くの吉田嘉明批判言論から、「確実に勝訴の見込みがあると判断」される事案をセレクトする作業期間を含んでいる。その一週間に、私のDHC・吉田嘉明批判のブログも「確実に勝訴の見込みがあると判断」されて、提訴対象とされたのだ。
あなたの場合の時系列を確認しておこう。
まずは、あなたのユーチューブ発言があった。
「人間の天敵はいないから、結局人間が人間を殺さざるを得ないのが戦争だと思ってる」「ある意味ものすごい大ざっぱに言うと、そういうあほみたいに子どもを産む民族はとりあえず虐殺しよう、みたいな。やる気はないけど、それを目指したら、結局そういうことになるのかな」「うちで飼っている猫とあまり変わらない人いっぱいいますよ。そういう人はご飯をあげたら繁殖するんですよ、言い方悪いけど、いっぱい子供産むんですよ、やることないから。避妊に対する知識もないし」「人種差別やめようとは思ったことない」「差別やいじめは神様が作った摂理だから、本能に対して逆らうことになるでしょ。だって誰かを差別したり、誰かをいじめることによって自分が安心できるっていう、人間持っている本来の摂理なので、それが本当に正しいのかって言うのはすごく疑問がある」
以上のあなたの発言批判を小西さんが、ツイッターに書き込んだ。これが9月27日のこと。
空前絶後の暴言。
憲法、国連憲章の全否定に等しい。
参議院規則第207条では、「議員は、議院の品位を重んじなければならない。」と明記されている。
この規則への違反は、憲法58条により懲罰処分、すなわち、除名(議席はく奪)も可能だ。
参議院の与野党の責任が問われている。
なるほど、参議院規則には、下記の各条文がある。小西さんのツイッターによるあなたへの批判の意見は、荒唐無稽なものではない。
第207条 議員は、議院の品位を重んじなければならない。
第245条 議院を騒がし又は議院の体面を汚し、その情状が特に重い者に対しては、登院を停止し、又は除名することができる。
この批判を不服とするあなたは、「小西さんに対話を求めたが応じなかった」として、10月3日に「小西氏の国会事務所を動画撮影しながら突撃した」と報じられている。
そして、翌4日の記者会見での提訴発言となった。この日程なら、小西さんを被告とする訴状を準備して、会見場で配布することもできたはず。まさか、やる気もないのに、口だけ発言ではなかったのでしょうね。そして、念のため。今さら、提訴は止めたなんて言わないでしょうね。
あなたは、同じ会見で「(小西さんが)謝罪すれば別だが、徹底的にやる」と豪語した旨報じられています。まさか、小西さんがあなたに謝罪することがあるなど、本心でお考えではないですよね。あなたは、「(議員会館での)撮影禁止は知っていたが、わざと問題のある行為をすることで先方に逃げられないようにしている」と述べたそうですがね。実は、逃げられなくなったのはあなたの方なんですよ。もう、退路はない。徹底的にやらざるを得ないのですよ。
あなたの発言は、憲法の理念に照らして、また国連憲章に照らして、社会の良識に照らして、到底看過し得ない。あなたは国会議員の任に堪えない。
10月2日の毎日社説が、的確にあなたを批判している。
「今度は『虐殺』という暴言 これ以上許してはならぬ」
https://mainichi.jp/articles/20191002/ddm/005/070/122000c
「国会は直ちに厳しく対処すべきである。そうでないと日本はこうした暴言を容認していると国際社会から見なされかねない。」
これが良識というもの。
「議院の品位を重んじなければならないとする参議院規則に違反し、除名も可能だ」という、この小西議員の発言は、真っ当な表現の自由の行使として、違法となる疑念は露ほどもない。
立花さん。この発言を不服として批判するのは、それが小西議員への人格攻撃や事実に基づかない誹謗中傷に至らぬ限りは、あなたの表現の自由に属することだ。しかし、提訴という手段で、小西議員に応訴の負担をかけるのは、スラップとして違法となる。結局あなたは、損害賠償の責めを負わねばならない。
小西議員の発言に違法の要素はなく、あなたの提訴がまったく勝ち目のないことは、明々白々というべきだ。にもかかわらず敢えてするあなたの提訴は、嫌がらせ以外の何ものでもない典型的なスラップ訴訟。民事訴訟制度の趣旨目的を大きく逸脱した提訴となる。
だから、立花さん。「もう参議院議員は辞めたのだから、小西さんへの提訴も取り止めた」などと、言い訳をしてはいけない。あなたは、いままた、参議院議員を目指しているではないか。
だから、N国の久保田学・立川市議が、フリーライターちだい氏を名誉毀損で訴えた、あのスラップ訴訟と同様に、立花さん、あなたはスラップ訴訟を提訴して完敗するしかない。そして、その反訴でも潔く負けていただきたい。そうして、スラップの汚さ、スラップの害悪、さらにはスラップ提起が自らに跳ね返ってくるリスクを世に知らしめることが、せめてものあなたの政治家としての社会への貢献になるのではないか。
だから、重ねて申しあげる。立花さん、小西議員に対するスラップを、ぜひおやりなさい。早急におやりなさい。躊躇することはありませんよ。善は急げ、不善も急げ、というではありませんか。
(2019年10月14日)
私の手許に、「戦前不敬発言大全」という分厚い一冊がある。この本の副題が長い。「落書き・ビラ・投書・怪文書で見る、反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説」というのだ。戦前の体制側記録である「特高月報」「思想旬報」「憲兵隊記録」「社会運動の記録」などからの「不敬発言」集である。それに、コラムや解説記事が行き届いている。どこからどう読み始めても、興味深い記事ばかり。なによりも、読み易さが身上。
長い前書きの冒頭に、「特高警察、憲兵、そして現代の公安および体制の犠牲になった人々に本書を捧げる」とある。今年(2019年)6月1日発行。天皇交代直後の今だから、天皇をめぐる表現に萎縮あることを感じざるを得ない今だから、大いに読まれるべき一冊だと思う。戦前を回顧し、言論の不自由が何をもたらしたかを再確認しなければならない。
戦前の日本には、不敬罪というものがあり、国民の不敬言動が広く取り締まられた。そのため、取締対象となった不敬言動が記録として残された。この不敬言動、並べてみると、なかなかに壮観である。人は、忖度のみにて生くるものにあらず。権力の思いのままにはならぬものなのだ。
当時の日本は、国家神道(すなわち、「天皇教」)という急拵えの新興宗教体系を国家存立の基礎とも主柱ともする脆弱な宗教国家であった。その新興宗教体系の中心をなすものは、現人神としての天皇の神聖性という作られた信仰であった。
天皇とは神の子孫であるとともに、自らも神という聖なる存在である。天皇がこの国を統治する正当性の根拠は、神代の昔に、最高神アマテラスが定めたことなのだから、疑う余地はない。その神の定めに従って、この国の民のすべては、神なる天皇に臣従する立場にある。神である天皇を戴く神国日本は、他国に優越する優れた国で、神の加護の下にある…。こんなことを、大真面目に説いていたのだ。
天皇教国家は、学校教育と軍隊教育とを通じて、神なる天皇の神聖性という信仰を臣民の精神に刷り込み、「思想の善導」をはかった。が、その限界は明らかである。「思想の善導」に服さない非国民が確実に存在し、非国民への対策が必要だった。
その対策の一つが、メディアの統制であり、他の一つが、天皇の神聖性を否定する国民の言動に対する刑罰権の発動による取り締まりであった。この天皇の神聖性擁護の言動取締りが、不敬罪である。心底、天皇を敬せずともよいが、天皇に不敬の言動は厳格に取り締まる、というわけである。
初めて刑法典をひもとく人には驚くべきことに違いないないが、現行の刑法典は1907(明治40)年に制定されたものである。加除添削を重ね、ひらがな化、口語化などを経ているが、骨格は100年以上の昔のままである。
その刑法は2編からなる。第1編が「総則」であり、第2編が「罪」。総論と各論に当たる。第2編の「罪」とは、何が刑罰権発動の要件としての犯罪になるのか、その構成要件を明確にして条文化したものである。この第2編「罪」が、第1章から第40章まであって、侵害される法益の種類や行為態様によって犯罪が分類されている。
たとえば、第26章「殺人の罪」には、「第199条(殺人罪)」「第200条(尊属殺人)削除」「第201条(殺人予備)」「第202条(自殺関与及び同意殺人罪)」「第203条(未遂罪)」と、分かり易い条文が並んである。
「殺人の罪」が第26章として、では第1章は何か。言わずと知れた、「皇室ニ對スル罪」である。もちろん、戦後すぐ(1947年)に削除されたもので、今はない。
我々が今なお、日々使っている刑法。その第2編第1章に、削除以前には下記の4か条があった。
第1章? 皇室ニ對スル罪
第73条 《天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ》危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス
第74条 《天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ》不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス 《神宮又ハ皇陵ニ対シ》不敬ノ行為アリタル者亦同シ
第75条 《皇族ニ對シ》危害ヲ加ヘタル者ハ死刑ニ處シ 危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期懲役ニ處ス
第76条 《皇族ニ對シ》不敬ノ行為アリタル者ハ二月以上四年以下ノ懲役ニ處ス
上記第73条が、戦前制定された刑法各論のトップ、言わば「1丁目1番地」に位置する犯罪であった。これが、悪名高い「大逆罪」である。読みにくいが,ぜひよくお読みいただきたい。天皇や皇后に対する殺人罪ではない。「危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル」ことが犯罪行為とされている。「危害を加えようとした」だけで、「死刑ニ處ス」である。法定刑にそれ以外の選択はない。
上記の第74条と76条が、不敬罪である。不敬行為の客体は、天皇・皇族・神宮・皇稜。そして、不敬ノ行為とは「天皇等の尊厳を害する一切の行為」を指すとされた。演説から、私語から、ビラから、トイレの落書きまで、不敬言動は多岐に渡る。これを取り締まった特高もたいへんだった。
この書の著者は?井ホアン。自らを「不逞鮮人」をもじって「太いハーフ」という人。早川タダノリ氏のデビュー当時、その若さに驚いたものだが、?井ホアンは1994年生まれ、早川氏よりもさらに20年若い。
「高校時代より反権力・反表現規制活動を行う中、その過程で戦前の庶民の不敬・反戦言動について知り、そのパワフルさと奥深さに痺れて収集と情報発信を開始」という。
その奥深さとは、「天皇の批判を投書や怪文書でコッソリ表明」「犠牲を顧みる一般市民の非英雄的反体制的言論活動」という視点。本の宣伝に引用されている、不敬言辞は、たとえば以下のようなものだが、本を読めば、実にバラエティに富んだものであることがよく分かる。著者が、「痺れて収集と情報発信を開始」したのももっともなのだ。
■「皇太子殿下も機関の後継者というだけで別に変ったものでない」
■「俺も総理大臣にして見ろ、もっと上手にやって見せる」
■「俺は日本の国に生れた有難味がない、日本に生れた事が情無く思う」
■「実力のある者をドシドシ天皇にすべきだ」
■「生めよ殖せよ陛下の様に」
■「早く米国の領地にしてほしい」
■「天皇陛下はユダヤ財閥の傀儡だぞ」
■「日本の軍隊が他国へ攻め込んでそれで正義と言うのは変ではないか」
■「個人あってこそ国家があるので個人が立行かぬ様になっては国家もその存立を失う」
実はこの本。「戦前ホンネ発言大全」の1。同じ著者が同2を同時に発行している。こちらは「戦前反戦発言大全」である。「落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反軍・反帝・反資本主義的言説」という副題。
「両巻合わせて合計1184ページ 約1000の発言を収録!」という惹句で、「不敬発言大全」の表紙には昭和天皇(裕仁)、「反戦発言大全」の表紙には東条英機の写真が掲載されている。
?井ホアン(著/文) 発行:パブリブ
両巻とも、価格 2,500円+税 初版年月日2019年6月1日
http://publibjp.com/wordpress/wp-content/uploads/2019/04/戦前ホンネ発言大全FAXDM.jpg
世の空気に,しなやかに抵抗の叛骨ぶりが、好もしくも頼もしい。
(2019年10月12日)
ご近所のみなさま、ここ本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま。
こちらは、「本郷湯島九条の会」です。日本国憲法と平和をこよなく大切なものと考え、憲法の改悪を阻止し、憲法の理念を政治や社会の隅々にまで活かすことを大切という思いから、志を同じくする者が集まって、「九条の会」を作って、憲法を大切しようという呼びかけを続けています。
私たちは、毎月第2火曜日の昼休み時間を定例の街頭宣伝活動の日と定めて、これまで6年近くにもわたって、ここ「かねやす」前で、明文改憲を許さない、解釈による壊憲も許さない、憲法の理念を輝かせたいと訴え続けて参りました。いまは、「安倍9条改憲」の策動を厳しく糾弾しています。
配布しています、手製のチラシをお手にとってお読みください。大きな見出しで、「9条改憲を許さない」「軍事優先社会へ日本が変貌する」「自衛隊明記9条改憲の狙い」と並んでいるとおりです。なお、「NHKに励ましと抗議を」「元号使用強制反対」「教育の自由を守れ」などの集会のチラシも配布しています。また、9条改憲阻止の「3000万署名」にもご協力ください。
さて、いくつもの問題が山積している2019年10月です。まず消費税が上がりました。腹が立ちます。軽減税率という煩わしい制度にも馴染めません。何のための消費増税でしょうか。福祉を支えるため? そんなことをだれも信じていません。そんな実感は、だれにもありません。
消費税が創設されたのは1989年、以来31年間で、国が徴収した消費税総額はほぼ400兆円になります。ところが同じ時期に、法人3税(「法人所得税」「法人住民税」「法人事業税」)はほぼ300兆円減税・減収になっています。所得税・住民税も200兆円を越える減税・減収。小さく生まれて大きく育ってきた消費税は、累進性を押さえた、法人税や所得税減税分の穴埋めに消えてしまったのです。
逆進性の高い消費税を増やし、本来累進性を高めるべき所得税や法人税を減税するのは、苦しい庶民のフトコロから金を巻きあげて、金持ちや大企業にばらまいているに等しいことではありませんか。こんな税制を作ってきたのが、自公の与党政権なのです。あきらかに金持ち優遇、弱者に冷たい。憲法が定める生存権の理念に反するものといわざるを得ません。必要な税金は、あるところから、つまり儲けている大企業や富裕層に負担させるべきが当然ではありませんか。消費増税をあきらめるのではなく、今一度、税制のあり方、こんな税制を押し付けている自公政権のあり方を真面目に考えて見ようではありませんか。
もう一つだけ申しあげます。
本日(10月8日)の午後に、これまで中止となっていた、あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由・その後」が再開となります。いったんは脅迫や暴力を示唆する勢力によって中止を余儀なくされた企画展ですが、表現の自由が脅迫や暴力に屈してはならないと真剣に再開を望む良識ある世論が実ったものと喜びたいと思います。
表現の自由の本質とその限界について確認しておきましょう。まずは、その自由の限界についてです。この展示の企画や運営を批判する自由はだれにもあります。意見があれば、忌憚なく表現の自由を行使すればよいのです。しかし、批判の言論を越えて、脅迫や暴力を示唆して展示を妨害する権利はだれにもありません。それは、悪質な犯罪として、厳しく取り締まられなければなりません。
もちろん、威力による業務妨害をけしかけることも犯罪です。また、河村たかし名古屋市長や菅義偉官房長官など、権力の陣営にいる人物は、一般の国民とは違って、権力を背景に展示の可否についての発言を慎まなくてはなりません。その強い立場で、本来自由に形成されるべき国民の意見を抑制したり誘導したりせぬよう配慮が必要だからです。
そして、表現の自由の本質について強調しなければなりません。表現の自由は、時の政権や多数派を批判できるところに,その神髄があります。表現の自由は人権ですから、民主主義という理念に優越するものと考えざるを得ません。「日本人の心を傷つける」から発言を慎まなければならないとは、愚論も甚だしい。
いま、日韓関係が冷え込み、政権やメディアが、韓国バッシング一色に染まっている感があります。このようなときにこそ、日韓の歴史に思いをいたし、歴史の修正を批判して隣国との友好を大切しようという言論は貴重なものです。その意味でも「平和の少女像」の展示の権利を侵害してはなりません。
もう一つ、天皇の肖像の扱いが問題とされている作品があります。今の世は、大逆罪や不敬罪がまかりとおる時代ではありません。天皇をどう語るかについて、萎縮したり、遠慮したりする必要はありません。天皇とは、主権者国民の意思によって存在しています。天皇制を存続させるべきか否か、どのように天皇についての制度を設計するか、天皇制の維持についての経済的負担をどの限度で認めるべきか、すべては国民の意思によって決せられます。むしろ主権者としての国民は,遠慮なく天皇について語るべきなのです。天皇制についての肯定・否定両論があるのは当然のことです。天皇の存在を肯定し、天皇をことほぐ意見だけが許容されるという偏狭な考えは、憲法の国民主権原理に反する暴論と言わざるを得ません。
いま、天皇批判の言論の許容度こそが、表現の自由一般の程度をはかるバロメータとなっている感があります。今回、中止に追い込まれた「表現の不自由展・その後」の展示に天皇の肖像が関わっていることに注目せざるを得ません。いま、事を荒立てたくないから、面倒なことにかかわりたくないからとして、天皇にかかわる言論を避けて自粛することは、表現の自由の幅を著しく狭めていくことにほかなりません。
国民が萎縮し自粛して、自ら表現の自由を抑制すれば、やがて人権としての表現の自由は枯死することになるでしょう。表現の自由がなくなった社会とは、権力が何のはばかりもなく、思いのままに振る舞うことができる社会。それが、人権も平和もない、全体主義と呼ばれる社会です。「表現の不自由展・その後」の再開は、まだ私たちの社会が、人権や民主主義を枯渇させることのない復元力を持ってることを示したのだと思います。
展示再開の意味を,それぞれに、自分なりに考えようではありませんか。
(2019年10月8日)
本日(10月4日)13時15分。東京地裁415号法廷。裁判長(前澤達朗)が判決を読み上げる。朗読が「原告の…」から始まれば、棄却判決で私の敗訴。「被告らは…」で始まれば、認容判決で私の勝訴。
「主文…」。ほんの少しだけ間をおいて、「被告らは,原告に対し,」と続いた。私の勝訴である。あとは落ちついて聞くことができる。「…連帯して110万円及びこれに対する平成26年8月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え」「原告のその余の請求をいずれも棄却する」「訴訟費用は,これを6分し,その1を原告の負担とし,その余は被告らの連帯負担とする」とつづき、最後に「この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる」で、主文の朗読は終わり。
「理由は判決書をお読みください」で、裁判官3人は席を立った。法廷内の弁護団と支援の傍聴者から、期せずして拍手と歓声が起こった。「よかった。よかった」「ご苦労様」「ありがとう」。その歓声に、法廷を出ようとしていた裁判長が、くるりと傍聴席の方に向き直った。そして、「法廷では拍手をお控えください」。勝訴の法廷だから、とげとげしい雰囲気にはならなかったが、少々驚いた。いろんな裁判官がいるものだ。
前件の「DHCスラップ訴訟」では、勝訴は確実と思っていた。これに続く、今回の「DHCスラップ『反撃』訴訟」では、勝訴のはずとは思っていたが、確実とまでは思えなかった。ところが、判決の中身は、実に明確に、そして簡潔にDHC・吉田嘉明による提訴の違法を認定している。
判決の出発点は、次の最高裁判例である。
「訴えの提起は,提訴者が当該訴訟において主張した権利又は法律関係が事実的,法律的根拠を欠くものである上,同人が,そのことを知りながら,又は通常人であれば容易にそのことを知り得たといえるのにあえて訴えを提起したなど,裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に限り,相手方に対する違法行為になるものというべきである(最高裁判所昭和63年1月26日第三小法廷判決)。
その上で、大要次のように判断する。
「DHC・吉田嘉明が澤藤に対して訴えを提起し、損害賠償請求の根拠としたブログは合計5本あるが、そのいずれについても、客観的に請求の根拠を欠くだけでなく、DHC・吉田嘉明はそのことを知っていたか、あるいは通常人であれば容易にそのことを知り得たといえる。にもかかわらず、DHC・吉田嘉明は、敢えて訴えを提起したもので、これは裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に当たり、提訴自体が澤藤に対する違法行為になる」
「DHC・吉田嘉明には澤藤ブログが面白くないとしても、裁判をしても勝てっこないことは分かっていたはず。仮にそのことが分かっていなかったとしても、普通の人なら容易にそのことが分かったはずなのだから、そんな提訴はしてはいけない。してはいけない提訴をしたことは澤藤に対する違法行為として、損害賠償の責任を負うことになる」ということでもある。
660万円の請求に対する110万円の認容だから、この金額に不満は残るところではある。もっとも、判決は、「一見して負けるはずもない損害賠償請求訴訟をされたのだから、大きな精神的打撃を受けたとは言い難い」という趣旨が述べられている。
認容額の多寡はともかく、スラップ提訴の違法を簡明に認めた判断をしている点では、影響の大きな貴重な判決と言えよう。光前幸一弁護団長は、記者会見で「民事訴訟制度は社会の公器。それを強者の凶器としたのがスラップ訴訟」という名言を残している。
スラップが横行するところ、公共の言論は萎縮し、民主主義は形骸と化すことにならざるを得ない。本日の判決は、東京地方裁判所民事一部の判決として、重みをもつ。近時のスラップ横行の潮流に歯止めを掛けるものとして評価に値する。
さて、吉田嘉明に聞いてみたい。彼は裁判所から本人尋問のために出廷の呼出を命じられていながら出廷を拒否した。出廷していたら,ぜひとも聞いてみたいことがあった。現時点ではこういう問になる。
「在日で反日の徒の原告、在日の原告弁護団、在日の裁判長だから敗訴した」とお考えですか、と。
一審判決のPDFを掲載しておきたい。下記URLから読むことができる。
https://drive.google.com/file/d/1998RJj5Z-J2m5EG4D7PCGDc8jCAHLcl8/view?usp=sharing
本日・10月4日は、記念すべきよき日だった。本日は、枕を高くして、ぐっすりと寝よう。
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DHCスラップ「反撃」訴訟の構図と論点
※本日(10月4日)判決のこの事件は、
DHC・吉田嘉明の「国民の裁判を受ける権利(民事訴訟提起の権利)」(憲法32条)と,澤藤の「表現の自由」(憲法21条)の衝突の調整という図式です。
※「国民の裁判を受ける権利」も濫用は許されません。民事訴訟制度は、国民が自らの権利を擁護するためにこそあります。自らの権利擁護の目的を逸脱して、社会的強者が,自らへの批判の言論を封殺する目的での提訴は、訴権の濫用として提訴自体が違法とならざるを得ません。それがスラップの本質です。
※光前幸一弁護士は、このスラップの本質を「市民の公器が強者の凶器と化している」と表現し、「公共的言論の『不当な裁判から免れる権利』」を確立しなければならないと言っています。まさに、本日の判決では、このことが問われています。
※DHC・吉田嘉明による当初2000万円、訴訟係属中に増額して6000万円請求の前件提訴は、以下の要件から、スラップ性が明白だと考えられます。
☆週刊誌への自らの手記が批判の言論を招いたものであること。
☆批判の言論における事実摘示は、吉田手記にもとづくものでその内容の真実性にまったく問題のないこと。
☆関連10件のスラップ提訴は明らかに濫訴と考えられること。
☆常識的な事前交渉のない、唐突な提訴であること。
☆もともと、2000万円の請求が、高額に過ぎること。
☆しかも、澤藤がブログで反撃をはじめるや、6000万円に請求の拡張を行っていること。⇒言論封殺の目的を自白しているに等しい。
☆反撃訴訟において、吉田嘉明は、裁判所の呼出にもかかわらず、出廷を拒否していること。⇒真摯な、訴訟利用の態度ではない。
☆違法と主張されているブログは、いずれも常識的な表現であること。
※以上のとおり、DHC・吉田嘉明は自らの権利擁護のためではなく、敗訴は当然と知りながらも、批判の言論を威嚇し、自らへの批判を萎縮させる効果を狙って提訴に及んだもので、提訴・請求の拡張・上訴が、いずれも違法なのです。
※本日の判決がスラップの蔓延に歯止めとなり、その害悪を防止するものとなり得たことを喜びたいと思います。
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DHCスラップ訴訟・『反撃訴訟』経過の概略
☆スラップ提訴以前
2013年4月1日 ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」新装開店
(以来毎日連続更新・本日で2380回)
2014年3月27日 吉田嘉明手記掲載の週刊新潮(4月3日号)発売
2014年3月31日 澤藤・違法とされたブログ(1)掲載
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
2014年4月2日 違法とされたブログ(2)掲載
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
2014年4月8日 違法とされたブログ(3)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
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☆DHCスラップ訴訟の経過
(原告 DHC・吉田嘉明、被告 澤藤統一郎
東京地裁民事24部 H26年(ワ)第9408号)
2014年4月16日 提訴(当時 石栗正子裁判長)
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズ開始
13日 第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」
8月20日 705号法廷 実質第1回弁論期日。
8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額) 書面提出
新たに下記2ブログ記事が名誉毀損とされる。
7月13日の「第1弾」ー違法とされたブログ(4)
「いけません 口封じ目的の濫訴」
8月8日「第15弾」ー違法とされたブログ(5)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務
2015年7月1日 第8回(実質第7回)弁論 結審(阪本勝裁判長)
2015年9月2日 請求棄却判決言い渡し 被告(澤藤)全面勝訴
2015年12月24日 控訴審第1回口頭弁論 同日結審
2016年1月28日 控訴審控訴棄却判決言い渡し 被控訴人全面勝訴
2016年2月12日 DHC・吉田嘉明上告受理申立
2016年2月12日 最高裁DHC・吉田嘉明の上告受理申立不受理決定
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☆DHCスラップ「反撃」訴訟の経過
(本訴 原告 DHC・吉田嘉明、被告 澤藤( ⇒取り下げられている)
(反訴 原告 澤藤、反訴被告 DHC・吉田嘉明)
2017年9月4日 DHC・吉田嘉明が澤藤を被告として
債務不存在確認請求訴訟を提起? H29年(ワ)第30018号
東京地方裁判所民事1部に係属⇒裁判長 後藤健(41期)
2017年11月10日 澤藤から反訴提起? H29年(ワ)第38149号
損害賠償請求660万円
2018年10月5日 反訴原告 澤藤と吉田嘉明両名の本人尋問申し出
2018年10月26日 裁判長交代・前澤達朗(48期)
2019年1月11日 人証採用決定(3名)
澤藤と吉田両本人と内海拓郎(DHC総務部長)
2019年4月19日 吉田呼出に応ぜず不出頭 澤藤と内海拓郎尋問
2019年7月4日 結審
2019年10月4日 13時15分 判決言い渡し
勝訴 110万円の請求認容
(2019年10月4日)
本日(9月30日)仲間内のメーリングリストに、名古屋の中谷雄二弁護士からの投稿があった。彼は、「あいちトリエンナーレ」《表現の不自由展》再開を求める、仮処分申立事件の申立側弁護団長である。以下はその抜粋。
皆様からご支援していただいていた「表現の不自由展・その後」について、本日、仮処分の第3回審尋期日で、あいちトリエンナーレ実行委員会と表現の不自由展実行委員会との間で、和解が成立しました。
先週の金曜日(9月27日)の第2回審尋期日で、当方から10月1日 従前の展示どおり再開で和解をしようと投げかけました。
これに対して、あいちトリエンナーレ実行委員会は、本日、午前中に10月6日?8日の再開を想定して和解協議をしようとの文書での申し入れがありました。
これを不自由展実行委員会が受け入れる形での和解です。
その中で、「今回は中止した展示の再開であり、開会時のキュレーションと一貫性を保持すること」を確認しました。
これにより、基本的には、不自由展実行委員会の要求が基本的に容れられたと判断して和解を成立させることに致しました。
文化庁の補助金差止めというより大きな「検閲」問題が発生した時期にまずは、脅迫によって中止させられた展示の再開を勝ち取ることで、表現の自由の回復の一歩を踏み出すことができました。
申立が9月13日ですので、全国の皆様の再開を求める運動と併せて短期間に再開の合意を勝ち取ることができました。
ありがとうございました。
なお、同仮処分は「企画展実行委」が申立てたもので、その相手方が「芸術祭実行委員会(代表・大村秀章知事)」である。この点紛らわしいが、実質的には申し立てられたのは愛知県である。また、キュレーションとは門外漢にはなじみの薄い言葉だが、「展示内容」と置き換えてよいようだ。
不自由展実行委員会がこだわったのは、「中止した展示そのままの再開であり、開会時のキュレーションとの一貫性の保持」であった。その確認ができたからの和解であり、それ故の「再開の合意を勝ち取ることができた」という評価である。
この点を、朝日(デジタル)は、こう報じている。
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、中止になった企画展「表現の不自由展・その後」の実行委員会が展示再開を求めた仮処分の審尋が30日、名古屋地裁であり、展示を再開する方向で、芸術祭実行委員会側と和解した。企画展実行委の代理人・中谷雄二弁護士が明らかにした。再開時期は10月6?8日で調整する予定で、早ければ週末から再開されることになる。
記者団の取材に応じた企画展実行委の代理人・中谷雄二弁護士によると、芸術祭実行委側から30日朝に大村秀章知事が公表した再開への4条件の提示があった。?犯罪や混乱を誘発しないように双方協力する?安全維持のため事前予約の整理券方式とする?開会時のキュレーション(展示内容)と一貫性を保持し、(来場者に)エデュケーションプログラムなど別途実施する?県庁は来場者に(県の検証委の)中間報告の内容などをあらかじめ伝える――の四つで、中谷弁護士は、「この内容で和解しましょう、と申し入れました」と説明する。
その上で、?のキュレーションの一貫性について、中谷弁護士は「同じ場所で作品を動かさないという趣旨ではなく、同じ部屋の中で個々の作品を動かすことはあり得るが、その範囲であって、一貫性、同一性を崩すことはしないと確認した」と述べた。展示は、慰安婦を表現する少女像や昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品など16作家の23作品が集められていたが、それらをまとめた企画展としての「一体性」は維持された、とみているという。
中谷メールがいうとおり、「脅迫によって中止させられた展示の再開を勝ち取ることで、表現の自由の回復の一歩を踏み出すことができた」ことをまずは、よろこびたい。しかし、「文化庁の補助金不交付というより大きな『検閲』問題が発生している」のだ。表現の自由はご難つづきである。民間の暴力による展示の妨害から、今度は権力の横暴による自由の侵害である。まさしく、自由とは、市民が闘いとり守り育てていくべきものであることを実感する。
その問題で、権力の先頭に立つのは、加計学園事件の当事者である萩生田光一文科相。本日(9月30日)、議員会館で「文化庁の決定に抗議する集会」が開かれた。自ずから、矛先は安倍晋三の手先・萩生田に集中したようだ。
この集会に私は参加できなかったが、私も参加している「表現の自由を守る市民の会」が、下記のアピールを集会に持参した。これも、宛先は、萩生田光一である。このアピールをみんなに訴えたい。ぜひ拡散していただきたい。
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2019年9月30日
文部科学大臣 萩生田 光一 様
「あいちトリエンナーレ2019」に関する補助金不交付決定の撤回を求める要求書
表現の自由を守る市民の会 呼びかけ人
池住義憲(元立教大学大学院特任教授)/岩月浩二(弁護士)/小野塚知二(東京大学大学院経済学研究科教授)/小林緑(国立音楽大学名誉教授)/澤藤統一郎(弁護士)/杉浦ひとみ(弁護士)/醍醐聰(東京大学名誉教授)/武井由起子(弁護士)/浪本勝年(立正大学名誉教授)
私たち「表現の自由を守る市民の会」は、「多様な表現の自由を尊重し、発展させることを目的とし、表現の自由を侵害する公権力の介入に反対する運動に取り組む」(会則)市民団体です。
文化庁は、2019年9月26日、既に所定の審査を経て本年4月に文化資源活用推進事業の補助対象事業として採択されていた「あいちトリエンナーレ」における国際現代美術展開催事業補助金7,829万円を、”適正な審査を行うことができなかった”として、補助金適正化法第6条等に基づき、全額不交付とする決定(以下、本件決定という。)を行いました。
萩生田文科相は、本件決定の理由は手続き上の不備だけで、展示内容と無関係だと強弁しています。しかし、これは明らかに展示内容に関係した政治介入です。公権力が表現活動の抑圧にまわることは許されません。これは憲法21条が禁じる「検閲」にあたる重大な違憲の疑いがある行為です。国際芸術祭の作品展示が開始された直後の8月2日、河村たかし名古屋市長の言動、菅義偉官房長官の補助金見直しを示唆する発言を受けての決定であり、私たちはこうした経過のもとになされた本件決定を容認することはできません。
現行文化芸術基本法はその前文で「文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し,文化芸術活動を行う者の自主性を尊重すること」を明記し、第2条で「文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない」と定めています。
本件決定はこうした文化芸術基本法の精神に反するものであり、私たちは決して認めることはできません。
文化庁の本件決定は、企画展を脅迫等によって中断に追い込んだ卑劣な行為を追認することになります。行政が不断に担うべきことは、公共性の確保・育成です。社会的少数者や、異なる地域に暮らす人々、民族を知る貴重な窓口を保障することです。本件決定は、これに逆行します。仮に本件決定に唯々諾々として従うならば、国の意見と合わない表現を許さない悪しき前例となり、国に忖度した無難な展示しかできなくなる恐れがあります。表現者、主催・開催側らの委縮を拡げ、社会全体に委縮効果を及ぼします。
よって私たちは、貴大臣に対し、本件決定を直ちに撤回することを強く要求します。民主主義社会は、多様な表現・意見を自由に表現し、議論をかわす場を保障して初めて成り立ちます。補助金を交付する目的は、多様な文化、芸術を国民の税金で助成することであり、国の意向に沿うものかどうか展示作品の内容をチェックする権限を国に与える根拠はどこにもないことを再度、強調しておきます。
(2019年9月30日)
「えっ、まさか。」「そこまでやるか。」「いくらなんでも,やり過ぎだろう。」というのが第一印象だった。文化庁の「あいちトリエンナーレ補助金不交付」問題である。主催の愛知県は、上からは国の、下からは名古屋市の挟撃に苦戦の感。大村秀章知事は「表現の不自由展」中止の責任者ではあるが、それでも再開に向けて懸命な姿勢には、好感がもてる。これを押し潰そうというのが、いったん決まりの7800万円補助金不交付なのだ。
補助金不交付は、形式的には所管の文化庁の判断ということだが、実質は官邸の意図的な「意地悪」「イチャモン」と、誰しもが思うところ。官邸の「意地悪」は、愛知県が官邸の意向を無視しているからだ。世の中が官邸のご意向を忖度することで円滑にまわっているのに、愛知県だけはどうして忖度しないのか。この国のトップの歴史修正主義・嫌韓ヘイトの真意は周知の事実なのに、どうしてことさらに「慰安婦」や「天皇」をテーマの展示を行うのか。しかも、官邸大嫌いな表現の自由を盾にしてのことだ。
官邸は、実はこの展覧会の展示の内容が面白くない。不愉快極まるのだ。官邸に当てつけるようなこの展示を叩かずにはおられない。叩いておけば、一罰百戒の効き目があろう。忖度の蔓延だけでなく、文化の善導さえもできるというものだ。
ところが、厄介なことに憲法という邪魔者が伏在している。政府があからさまに表現のテーマや内容に立ち入るわけには行かない。だから、補助金不交付の理由は、表現の内容とは別のところに拵え上げなければならない。
そこで、官邸の手先・萩生田光一のお出ましとなる。文科相としての初仕事がこれだ。加計学園問題で頭角を表した彼の特技は「厚顔」である。その特技を生かして彼はこう強調する。
「(補助金不交付の判断材料は)正しく運営ができるかの一点であり、文化庁は展示の中身には関与していない。検閲にも当たらない」
これが昨日(9月26日)の記者会見での発言。
補助金交付対象の事業が事前の申告のとおりに、正しく運営ができていないではないか。愛知県は文化庁に対して、安全面に対する懸念などを事前に申告しておくべきだったのに、それがなされていなかった。これは、交付申請の手続きが「不適当」であったことを物語るもので不交付と判断せざるを得ない。けっして表現の内容が問題なのではない。あくまで手続の不備、というわけだ。誰も、そう思わないが、そのようにしか言いようがない。こんなときに、「厚顔」の特技が役に立つ。
本日(9月27日)にも、文化庁による補助金を全額不交付とした理由について、萩生田は重ねて「本来、(主催者の県が)予見して準備すべきことをしていなかった」と説明。判断する上で展示内容は無関係だったことを改めて強調した。さらに、「今回のことが前例になり、大騒ぎをすれば補助金が交付されなくなるような仕組みにしようとは全く考えていない」とも語っている。さすが、厚顔。
問題は、政府の意図如何にかかわらず、「大騒ぎをすれば補助金が交付されなくなるような仕組みにしようと考える」集団が確実に存在することであり、ここで政府が補助金不交付を強行すれば、そのような右翼暴力集団を勢いづかせることにある。政府は、「大騒ぎをすれば補助金交付をストップできる」という彼らの成功体験が今後にどのような事態を招くことになるかを予見し防止しなければならない。しかし、実は政府と「大騒ぎを繰り返して補助金交付をストップさせよう」という集団とは一心同体、少なくとも相寄る魂なのだ。
萩生田のコメントの中に、平穏な展示会を脅迫し,威力をもって妨害した輩に対する批判や非難の言は、一言も出てこない。あたかも、これは自然現象のごとき、正否の評価の対象外と言わんばかりの姿勢。警察力を動員しても、断固表現の自由を守るという心意気はまったく感じられない。官邸や萩生田の意図がどこにあるかは、明確と言わねばならない。
昨日(9月26日)の文化庁の補助金不交付決定発表によれば、不交付とされるのは、「あいちトリエンナーレ」に対して「採択」となっていた補助金7800万円の全額である。文化庁はその理由として、補助金を申請した愛知県が「来場者を含め、展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告することがなかった」「審査段階においても、文化庁から問い合わせを受けるまでそれらの事実を申告しなかった」と説明した。
また、同日萩生田は「残念ながら文化庁に申請のあった内容通りの展示会が実現できておりません。また、継続できていない部分がありますので、これをもって補助金適正化法等を根拠に交付を見送った」と説明している。
ここで、補助金適正化法(正式には、「補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律」)が出てきたが、その理念は語られていない。
補助金予算執行の適正の理念はいくつかある。たとえば、その24条である。
「第24条(抜粋) 補助金等に係る予算の執行に関する事務に従事する国の職員は、(補助金等の交付の目的を達成するため必要な限度をこえて、)不当に補助事業者等に対して干渉してはならない。」
政府は、愛知県の行う、「あいちトリエンナーレ」の企画の内容に、不当に干渉してはならないのだ。つまり、「金は出しても、口は出さない」ことが大原則。
補助金交付対象事業の一部は8月3日以後中止にはなっているが、中止が確定したわけではない。暴力集団の妨害を排除しての展示再開に向けた努力が重ねられてきた。再開を求める仮処分命令申立の審理も進行している。9月25日には、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」は中間報告案を発表し、「表現の不自由展・その後」について、「条件が整い次第、速やかに再開すべきである」との方向性を示した。この助言を得て、大村知事が近々の展示再開意欲を表明したと報道されてもいた。
このタイミングでの文化庁の補助金不交付決定発表である。展示再開に水を差す、不当な補助金交付事業への介入というほかはない。官邸の「意地悪」というのは言葉が軽すぎる。やはり、悪辣な妨害といわねばならない。
取りあえずは、妨害を排除しての展示の再開が喫緊の課題。そのうえで、官邸の悪辣さに対する批判と法的措置が必要となるだろう。大村知事は国に対する提訴を予定しているという。
文化庁の補助金不交付の決定とは、補助金適正化法第6条による、補助金交付の決定を得ている愛知県に対して、補助金交付決定取り消しの行政処分にほかならない。原告愛知県が被告国(文化庁長官)に対してて行う訴訟は、「『補助金交付決定取り消し処分』の取消請求訴訟」となる。沖縄に続いて、愛知県よ頑張れ。安全保障問題が絡まないだけ、沖縄よりはずっと勝算が高い。
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文化庁の、昨日(9月26日)付報道発表は以下のとおりである。
「あいちトリエンナーレ」における国際現代美術展開催事業については,文化庁の「文化資源活用推進事業」の補助金審査の結果,文化庁として下記のとおりとすることといたしました。
補助金適正化法第6条等に基づき,全額不交付とする。
【理由】
補助金申請者である愛知県は,展覧会の開催に当たり,来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず,それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した上,補助金交付申請書を提出し,その後の審査段階においても,文化庁から問合せを受けるまでそれらの事実を申告しませんでした。
これにより,審査の視点において重要な点である,[1]実現可能な内容になっているか,[2]事業の継続が見込まれるか,の2点において,文化庁として適正な審査を行うことができませんでした。
かかる行為は,補助事業の申請手続において,不適当な行為であったと評価しました。
また,「文化資源活用推進事業」では,申請された事業は事業全体として審査するものであり,さらに,当該事業については,申請金額も同事業全体として不可分一体な申請がなされています。
これらを総合的に判断し,補助金適正化法第6条等により補助金は全額不交付とします。
これで納得できるわけはない。法第6条(抜粋)はこう定める。
「各省各庁の長は、補助金等の交付の申請があつたときは、当該申請に係る審査及び調査により、当該申請に係る補助金等の交付が法令及び予算で定めるところに違反しないかどうか、補助事業等の目的及び内容が適正であるかどうか等を調査し、補助金等を交付すべきものと認めたときは、すみやかに補助金等の交付の決定をしなければならない。」
この決定を業界では、「採択」と呼んでいる。採択の後に所定の形式的手続を経て補助金の交付を受けることになる。つまり、申請→審査→採択→補助金交付、という流れになる。「採択」とは、補助金受給資格を有していることの確認行為、あるいは「内示」というにとどまらない。6条の書きぶりからは、実質的な補助金受給権付与行為というべきだろう。愛知県は「採択通知」を得ていると報道されている。だから、原則補助金交付となるはず。それが、本事例では、「不交付」となったのだ。
採択の後の不交付は、取得した補助金受給権を取りあげる不利益な行政処分として、その取り消しを求める行政訴訟の対象となる。文化庁の言い分は、採択前に言うべきことだろう。
また、右翼の妨害が予想されることを、「実現可能な内容になっているか」「事業の継続が見込まれるか」に関わらせていることは、由々しき憲法問題と言わねばならない。これは、注目に値する大型訴訟となる。法廷で、安倍政権の反憲法的体質を暴いていただきたい。
(2019年9月27日)
DHCスラップ「反撃訴訟」判決言い渡しが近づくこの時期に、昨日に続いてのスラップ訴訟のご紹介だが、本日は朗報。スラップを違法と断じた判決(一審)のお知らせ。これは、幸先がよい。
まずは、こんなスラップの提訴があった。
裁判所? 千葉地裁松戸支部(江尻禎裁判官)
提訴日 2018年11月
原 告 久保田学(N国所属の立川市議)
被 告 ちだい氏(フリー・ジャーナリスト、本名石渡智大)
請 求 名誉毀損慰謝料200万円
これに、被告が反訴を提起した。スラップの提起を不法行為としたもの。
反訴提起日 2019年6月
反訴原告 ちだい氏
反訴被告 久保田学
請 求 慰謝料とスラップ応訴費用等120万円
判決はこうなった
裁判所? 千葉地裁松戸支部(江尻禎裁判官)
判決日 2019年9月19日
本 訴 原告久保田から被告ちだいに対する請求は棄却
反 訴 反訴原告ちだいから反訴被告久保田に対する請求は一部認容
認容額 78万5600円(久保田がちだいに支払わねばならない金額)
200万円のスラップ提起に対して、スラップ被害者の慰謝料と応訴費用とで、78万円を認容したことの意義は大きい。スラップ提起への警鐘となり得る判決と評価してよい。
その概要を毎日がこう報道している。
「NHKから国民を守る党(N国)」の東京都立川市議がフリーライターの男性を名誉毀損(きそん)で訴えた訴訟。千葉地裁松戸支部(江尻禎裁判官)は19日、N国の立花孝志党首が「裁判をして相手にダメージを与えるためにやったスラップ訴訟」と公言していたことなどを踏まえ、提訴は「著しく相当性を欠く」などとして市議に約78万円の支払いを命じた。」
ちだいさんは昨年6月、立川市議選に立候補し、当選した久保田学氏について、「立川市に居住実態がほとんどない」とする記事を書き、久保田氏から「名誉毀損だ」などとして同11月に200万円の賠償請求訴訟を起こされた。久保田氏は今年5月に訴訟取り下げの意向を示したが、ちだいさんは同6月、「正当な表現活動を萎縮させる目的のもとになされたスラップ訴訟だ」などとして約120万円の賠償を求めて反訴した。
? 千葉地裁松戸支部の判決は、久保田氏が東京都江戸川区平井のマンションで昨年3月に作成した動画で「平井を引き払って落ちたらどうすんの? 住む場所なくなっちゃうじゃん」などと発言していたことや、立花党首が今年5月作成の動画で「この裁判は、そもそも勝ってお金をもらいにいく裁判じゃなくて、いわゆるスラップ訴訟。裁判をして相手に経済的ダメージを与えるための裁判の事をスラップ訴訟というんですよ」などと発言したことを認定した。
そのうえで、「原告は、被告が本件記述を真実と信じたことについて相当な理由があることを知りながら、あえて本訴を提起したもので、訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くものと認めざるをえない。よって、原告による本訴提起は、被告に対する不法行為を構成する」などと指摘。反訴したちだいさんの訴えを一部認め、久保田氏に78万5600円の支払いを命じた。
ちだい氏コメント
「批判できないというのは民主主義において致命的で、このままみんなが黙ってしまうと独裁国家に近づいていく。ファシズムの初めだと思っている。議員2人の政党だけでなく、たとえば与党がやり始めると、本当にみんな何もしゃべれなくなる。今回の判決は、民主主義を守るうえで大事な判決だったのではないか」
これに、専修大の内藤光博教授(憲法)による解説が続く。
スラップ訴訟とは「政府、地方自治体、政党や大企業など、政治的・社会的・経済的に優位にある団体や集団、個人などが、反対意見や異議申し立てを行う市民、市民団体やジャーナリストなど力の弱い立場にある側を相手取り、言論活動を抑制することを目的に、名誉毀損訴訟など高額の賠償を請求する民事損害訴訟」をさす。恫喝訴訟とも言う。反対者や批判者、異議申立者の言論を封じることが目的なので、訴訟の勝敗は問題ではなく、敗訴しても、「訴えたこと」で目的が達成される。
スラップ訴訟は、被告側に敗訴した場合の損害賠償や裁判にかかる高額の費用、時間的拘束などを恐れさせ、反対意見や異議申し立てなどの言論活動を思いとどまらせる「萎縮効果」を与え、訴えられた被告だけでなく、被告以外の市民やジャーナリストなどの言論活動にも大きな萎縮効果を与える。
この判決は、一見特殊な事情があってのもののように見える。「立花党首が今年5月作成の動画で『この裁判は、そもそも勝ってお金をもらいにいく裁判じゃなくて、いわゆるスラップ訴訟』と、言わば提訴権の濫用についての自白があったことからのスラップ断罪ではないののだろうか。
しかし、この立花の「スラップ自白動画」が作成され、被告(反訴原告)がこれを入手できたのは、偶然のなせる業と言わねばならない。おそらく多くのスラップ提訴の陰には、動画には撮られることのない「スラップ謀議」が行われている。普通なら、表に出てくることのないスラップの意図を間接証拠の積み上げで認定しなければならない。
私(澤藤)が被告にされたDHCスラップ訴訟でも、提訴の事前にDHCの社屋の一室で、スラップ謀議があったに違いない。しかし、そのような証明は不可能なのだ。事実経過を積み重ねて、「本件提訴は、著しく相当性を欠く」ものと認定しなければならない。
私に対するDHC・吉田嘉明の提訴が、自らの権利実現のためではなく、自らに対する批判の言論の萎縮を狙ってのものということについては,種々の間接事実の積み重ねで十分な立証ができている。
以下は弁護団長作成の記者レク資料の末尾の一文である。
本件(DHCスラップ訴訟)は、経済的強者が、その資金力にものを言わせ、勝訴の見込みなどはお構いなしに、批判する個人や団体を被告席に座らせ、一般公衆の批判言論に威嚇を加えたもので、スラップ訴訟の典型であり、恰好の題材である。吉田が裁判所の出頭命令に応じないという態度も、吉田らの裁判濫用の意図を端的に示している。
裁判所も、本件では、スラップ性の判断にあたり、これまでとは一線を画した訴訟指揮を採った。公共的言論の「不当な裁判から免れる権利」について、エポックとなる判決を期待したい。
(2019年9月26日)
一昨日(9月17日)の夕刻、「表現の不自展・実行委員会」が主催する「《壁を橋に》プロジェクト 今こそ集会(in東京)」に足を運んだ。200人の参加で、盛会だったことに安堵の思いである。
仮処分申立報告と支援要請を中心とした、事実上の東京版提訴決起集会。法的手続が常に望ましい解決方法でないことは共通の理解の上で、時期を失すれば展示再開が不可能になるという懸念の中でのやむを得ない選択であることが強調された。
「〈壁を橋に〉プロジェクト」とは、耳に馴染まないネーミング。このネーミングに込められた思いが、配布されたリーフに次のように語られている。
いまもなお、「表現の不自由展・その後」の入り口は巨大な壁で塞がれています。これは検閲というかたちで、真実の開示と表現の自由を阻もうとする、人の心がつくり出した隔たりです。美術の検閲を主題とした不自由展に強いられたこの状況は、まさしく日本社会の現実そのものではないでしょうか。
しかし、人の心がつくった壁は歴史上すべて壊されてきました。不特定多数の市民の自発的かつ勇気ある行動は、冷戦の象徴であったベルリンの壁を倒壊させました。いまアメリカとメキシコに立てられた「排外主義」の象徴である「壁」も、アーティストの創意と想像力によって風穴が開けられつつあります。私たち不自由展実行委員会は、自由を求める人の心の力を信じています。
目の前に立ちはだかる「壁」を壊すべく、新たなステップに歩み出したいと思います。司法の良識を信じ、多くの人の応援を拠り所に、壁を打ち倒す。
「壁が横に倒れると、それは橋だ」(アンジェラ・デーピス)という言葉があります。ここから、私たち不自由展実行委員会は、再開を求める行動を「〈壁を橋に〉プロジェクト」と命名しました。
なるほど。「壁」は人と人との断絶の象徴であり、「橋」は人と人との連帯の象徴。今、「表現の不自由展・その後」の入り口を塞ぐ巨大な壁を倒すことは、差別という人と人との断絶を克服すること。そして、倒された壁は、表現の自由から民主主義に通じる橋となるのだ。
いまある厚い堅固な壁は、実は民衆に支えられている。一握りの攻撃的な右翼活動家は、歴史修正主義者・安倍晋三の政権を支持する少なからぬ民衆の中から生まれている。〈壁〉を倒すには、対話あるいは説得によることが望ましい。しかし、状況がそれを許さず、時間の制約もあるからには、法的手続によることを躊躇する理由はない。その法的手続の具体的な手段が、9月13日の仮処分命令申立である。
弁護団長・中谷雄二さんの説明によれば、その申立の趣旨は、「展示会場入り口の壁を撤去し、『表現の不自由展・その後』を再開せよ。」というもの。立ちはだかる『壁』の撤去がまずもっての具体的な獲得目標となっている。
この仮処分命令申立の債権者は5人(アライ=ヒロユキ・岩崎貞明・岡本有佳・小倉利丸・永田浩三)からなる「表現の不自由展」実行委員会。債務者は「あいちトリエンナーレ実行委員会」(権利能力なき社団)とのこと。この両当事者間に詳細な「作品出品契約」が締結されているという。
被保全権利の構成は、第1に「人格的利益にもとづく差し止め請求権」であり、第2に「作品出品契約にもとづく展示請求権」というもの。いずれも、その請求権を根拠付ける事実の疎明は容易である。問題はその先、債務者が当該債務の履行は事実上不可能となっているという疎明に成功するか、である。債務者が、警察力の庇護のもと最大限の防衛策を講じてもなお、展示の再開が不可能と言えるか否か、自ずから争点はこの一点に絞られる。
この局面で、講学上の「敵意ある聴衆の法理」や「パブリック・フォーラム」論の適用妥当性が争われることになる。判例に照らしてみる限り、申立が却下となることは考え難い。
9月13日の申立当日のうちに、係属裁判所は9月20日と27日の2回の審尋期日と指定したそうだ。また、具体的に追加すべき疎明資料の提出も求めたという。裁判所の「やる気」を感じさせるに十分と言ってよい。表現の自由のために、朗報を待ちたい。
なお、この日関係者からの印象的な発言がいくつも重ねられた。永田浩三さんが言ったことだけをご紹介しておきたい。
この16人の展示作品は、いずれも闇夜でマッチを擦るような意味をもつことになりました。それぞれの作品が灯すマッチの火が、闇の深さを照らし出しています。この火が照らし出した今の社会の闇の深さ、あるいはジャーナリズムの闇の深さにたじろがずにはおられません。あらためて、この闇を克服する「表現の自由」の大切さを思い、また、その自由を求めて闘い続けてきた先人たちからのバトンをいま手渡されているのだという責任の重さを感じます。
「表現の不自由展」再開の可否が日本の自由や民主主義についての将来を占うものとなっている。
(2019年9月19日)