2年前(2014年)の2月、舛添都知事誕生の際には、ひそかに期待するところがあった。あの石原暗黒都政から脱却の展望が開けるだろうという思いである。石原は、2012年都知事選では舛添を支援することなく、こともあろうに田母神の応援に走った。こうして、舛添は石原後継の軛に縛られることのない好位置を占めたうえ、保守中道と公明票を集めて210万を越える大量得票で圧勝した。
舛添は、保守ではあるがリベラルに親和性をもつ位置に立つ。日の丸や君が代が好きなはずはない。よもや愛国心強制教育に固執するようなことはあるまい。石原アンシャンレジームに責任を負わない立場の舛添であればこそ、脱却も是正もできるのではないか。教育委員のメンバーも少しはマシになって、異常な教育行政は改善されるのではないか。そう考えたのは、甘かった。
舛添就任から1年経過しても、都教委の姿勢におよそ変化の兆しがみえない。彼の記者会見の発言を聞くうちに、「どうもこの人ダメなようだ」と思わずにはおられなくなった。この人、教育行政の実態をほとんど知らない。知ろうとする意欲がない。頭の中は、オリンピックのことだけでいっぱいなのだ。
2年待って、見切りを付けた。もう、舛添に期待するのはやめよう。舛添も闘うべき相手と見極めなければならない。そう考えを決めたころから、この人の公費の浪費や公私混同の話題が出てきた。私は何の躊躇もなく原則のとおりに批判した。
海外出張の大名旅行ぶりの指摘を受けて、この人は「トップが二流のビジネスホテルに泊まりますか?」「恥ずかしいでしょう」と居直った。おや、こういう人だったのか、と認識をあらためた。相手の批判を極端にねじ曲げたうえでの反論は理性ある人の対応ではない。批判者の誰も、「二流のビジネスホテルに泊まるべきだ」と求めてはいない。都の出張規程の上限である一泊42000円のホテルで十分ではないか。それを20万円に近いスイートに宿泊する必要はなかろうとの批判を真摯に受け止めようとしないのだ。
さらに、公用車での湯河原別荘通いが暴かれた。メデイアへの匿名内部告発が報道の発端だという。問題発覚以後の「ルールに則っているから問題ない」というこの人の姿勢に、これはダメだとあらためて思った。自分の利益のためなら、ルール最大限活用主義者なのだ。
そして、公私混同の極み。家族旅行費用を政治団体の資金から支出し、ホテルからの領収証を「会議費」とさせて、政治資金収支報告書に虚偽記載しているという報道。これまでのところ、この報道内容の信憑性は高い。これは重大問題だ。倫理や道義の問題ではなく、刑事制裁の対象となる事件だからだ。ことは、知事の座がかかる事態に発展しかねない。
公私混同よりも、政治団体のカネの流用よりも、政治資金規正法に基づく収支報告書への虚偽記載がポイントである。これは、逃れ方が難しい。
政治資金規正法第1条の(目的)規定を掲記する。ぜひ、目を通していただきたい。
第1条 この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。
「議会制民主主義下の政治活動は、国民の不断の監視と批判の下に行われなければならない」。その監視と批判を可能とすべく「政治資金の収支の公開」を制度として整える。その厳格な収支の公開を主権者の目に晒すことによって、「政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的」とすると言っている。この法律による制度の中核をなしているものは「政治資金の収支の公開」という手法である。もとより、この公開は正確でなくてはならない。虚偽の公開は、国民の不断の監視と批判を妨げることから、政治活動の公明と公正を毀損し、民主政治の健全な発達を阻害する犯罪行為とされるのだ。
その趣旨を、同法25条1項3号は、「政治資金収支報告書…に虚偽の記入をした者」は、「五年以下の禁錮又は百万円以下の罰金に処する」と定める。
もっとも、政治資金規正法25条は、会計責任者の身分犯であって、直接には会計責任者の罪科が問われることになる。会計責任者は法27条2項「重大な過失により、…第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰する」によって、故意がなかったというだけでは免責されない。
そこで、虚偽記載罪については一般に、会計責任者が「殿のために」すべてをかぶって、「殿の与り知らぬこと」となし得るが、本件の場合にはそうはいかない。
家族旅行のホテル代の領収証取得には、会計責任者は関与していない。舛添の指示のとおりに、会計責任者が報告書に虚偽の記載をしたものと考えざるをえない。しかも、正月に「会議」などあり得ないことは会計責任者の分かること。結局は、舛添と会計責任者の共同正犯(刑法60条)が成立し、身分のない舛添も処罰対象となる(刑法65条1項)可能性が限りなく高い。
それだけでない。法28条は、公民権停止を定める。
第28条 (第25条の)罪を犯し罰金の刑に処せられた者は、その裁判が確定した日から五年間(刑の執行猶予の言渡しを受けた者については、その裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間)、公職選挙法 に規定する選挙権及び被選挙権を有しない。
公民権を失うとどうなるか。
地方自治法第143条 普通地方公共団体の長が、被選挙権を有しなくなつたとき…は、その職を失う。
のである。
公職選挙法違反でも政治資金規正法違反でも、特定の犯罪で有罪になった者には、公職にある資格がないとされる。舛添の政治資金収支報告書虚偽記載罪はそのような類型の犯罪なのだ。
なお、政治資金規正法第2条は、次のように(基本理念)を掲げている。
第2条 この法律は、政治資金が民主政治の健全な発達を希求して拠出される国民の浄財であることにかんがみ、その収支の状況を明らかにすることを旨とし、これに対する判断は国民にゆだね、いやしくも政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制することのないように、適切に運用されなければならない。
政治資金はすべて国民が拠出した浄財である。任意の拠出資金だけではなく、税金から支出された政党助成金も含まれている。この浄財の公と私の財布とのケジメを無視したことは、国民が拠出した浄財をクスネたということになる。
このことによって、多くの国民が「政治資金をカンパしても、結局こんな使われ方で終わってしまう」。「馬鹿馬鹿しくってカンパなどやっていられるか」ということになってしまう。このように「政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制した」点において、舛添知事の責任は大きい。
それにしても、である。先に、田母神が逮捕された。次いで、舛添も刑事責任を追求されかねない。他の候補者・陣営は安泰なのだろうか。そして、舛添の失職と新たな都知事選があるのだろうか。風雲は急を告げている。
(2016年5月12日)
本日(5月11日)午前8時35分、雨上がりの水道橋・東京都教職員研修センターの門前。本日の服務事故再発防止研修を命じられている受講者と並んだ私がマイクを握る。センターの総務課長に正対して語りかける。
本日、卒業式での国歌斉唱の際に起立斉唱しなかったとして、心ならずも再発防止研修を命じられ、これから3時間余に及ぶ受講を強制される教員に代わって、代理人の澤藤から都教委に抗議と要請を申し上げます。
私たちは、国旗国歌に対する敬意表明の強制を、これに従えないとする教員の良心にむち打つ心ない行為と抗議を重ねてきました。最高裁裁判官諸氏も、私たちの訴えを半ばは認めているところです。
むち打たれた良心を重ねてさらにむち打つ行為、むち打たれた良心の傷に塩を塗り込むに等しい行為が、今日これから行われようとしている再発防止研修にほかなりません。
自己の良心に照らして恥じない行為を選択した教員、生徒に対して最良の教師であろうとして良心を貫いた教員に、いったいどのような研修が必要というのでしょうか。自分の良心を殺せ、国家に売り渡せ、良心よりは世渡りが大切、生徒には上手な世渡りの見本を見せろ、とでもいうのでしょうか。
本来、服務事故再発を防止するための研修とは、良心に恥じる行為をした公務員に対して、その良心を呼び覚まし、覚醒された良心に従った行動をするよう促すことにあるのではないでしょうか。
そのような見地からは、いま、舛添要一知事こそが、再発防止研修を受けるに最もふさわしい人物ではありませんか。目に余る、彼の公私混同、公費の浪費、そして開き直りは、良心にやましい行為であるに違いありません。仮に良心に恥じないというのであれば、それこそ諄々と説いて聞かせて、良心を呼び覚まし、以後は良心に従った行為をするよう研修を重ねる必要があるのです。
舛添知事は、公費で絵画・美術品を購入して、領収証の作成者には「資料代」と記載するよう求めたと報道されています。心の内では、まずいことをしているという認識があったに違いありません。良心に恥じる行為をしていたのです。この知事のような人にこそ、良心を呼び起こし、良心に従った行動をするよう善導する、服務事故再発防止研修の効果は大いに期待しうるのです。
一方、自らの良心のあり方を探し確認し、悩みながらも覚悟して自らの良心に従うことを選択した教員に、いったい何を反省せよせよというのでしょうか。結局は、思想や良心を投げ捨てよと威嚇するだけのことではありませんか。
私たちは、服務事故再発防止研修を国旗国歌強制の手段としてだけ問題にしているのではありません。それ自体が、思想・良心を侵害する違憲性・違法性の強い行為だと考えています。とりわけ、不起立の理由を執拗に問い質すようなことは、思想・良心の告白を迫る、典型的な思想・良心の侵害行為として大きな問題だと考えています。本日の研修において、けっしてそのようなことがあってはなりません。
今日の研修に携わるセンター職員の皆さまに、お考えいただきたい。
おそらくあなた方は、良心にむち打つ行為に加担することを不本意なことと内心はお考えではないか。それでも、職務だからと割り切り、あるいは諦めて、本日の任務についておられることと思う。
しかし、本日の研修受講命令を受けている教員は、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安易に職務命令に従うという選択ができなかった。
懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。多大な不利益を覚悟して、良心に忠実な行動を選択したのです。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人格ではありませんか。
研修センター職員の皆さんの良心に期待したい。是非、自分のあり方と対比して、尊敬すべき研修受講者に対して、その人格を尊重し、敬意をもって接していただきたい。このことを、代理人としてお願い申しあげる。
(2016年5月11日)
舛添要一東京都知事が袋叩きの状態となっている。海外出張での大名旅行批判に加えて、週末湯河原別荘通いに公用車利用である。しかも、居直り開き直りの弁明が、火に油を注ぐことになった。よってたかってのイジメ参加は私の趣味ではないのだが、東京都や都教委と争う立場にある者として、やはり一言いわざるを得ない。
4月27日発売の週刊文春によれば、知事は情報公開による公用車記録簿で確認された限りで、2015年5月1日から16年4月8日までの間に、神奈川県湯河原町の別荘への往または復での公用車利用を48回している。16年4月22日(金)には、文春記者が、都庁から湯河原までの公用車利用を目撃しているとのことなので、これを含めると年間49回である。
知事は、ほぼ毎週金曜日の午後2時半には公務を切り上げ、公費で温泉付き別荘に向かったことになる。片道100キロで1時間半の行程。普通にハイヤーを使えば往復8万円の距離だという。年間に換算すると400万円ほど。これが、「都庁関係者から匿名を条件とした情報提供」によって「発覚」し、2年を経過した今頃初めて問題になっていることが信じがたい。関係者には広く知られたことであったろうに、また会計監査も経ているはずなのに、どうして今頃、なのであろうか。
私が問題にしたいのは、知事の弁明のうちの、「ルール通りで問題はない」という一言。4月27日の記者会見では、「ルール通りで問題はないから、今後も続ける」との趣旨で居直っている。知事が言うルールとは、「都の規則では、移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」ということ。この「ルールに従っているのだから何の問題もない」「あらためる必要はない」という弁明の意味を考えてみたい。
世論は「ルール通り」という知事の弁明に総批判と言ってよい。「ルールに従った知事」を批判し非難する世論の方が間違っているのだろうか。そんなことはあり得ない。世論の、「そんなルールがあろうとなかろうと、知事の弁明は詭弁に違いない。到底納得できない」という感覚の方が正しいのだ。
知事の言は、「本当にルール通り」なのか。そして、「ルール通り」であれば問題はないのか。そう、問い正さねばならない。
ルールもいろいろある。憲法のような根本ルールもあれば、末節のルールもある。法律や条例のような民意によって作られたルールもあれば、行政限りで作られた内部ルールもある。ルールを厳格に解釈しなければならない局面もあれば、そのことが詭弁となることもある。
知事は、ルールをもち出してはいるものの、そのルールに関する詳細な説明はしていない。できれば、「法に基づくルール」あるいは「議会が作った条例というルール」と言いたいところだが、知事は、そうは言えなかった。この「ルール」は、民意を反映して作られたルールではない。だから、そのルールに従っているとするだけでは説得力に乏しい。
東京都には、「東京都自動車の管理等に関する規則」というものがある。この「規則」とは、地方自治体が制定するものだが、国の法令に違反しない範囲で首長が定める。議会の議決を必要とするものではない。要するに、知事自身が作った内部規定に過ぎない。
その第9条によって、知事は「専用車」を使うことができる。その「専用車の使用について必要な事項は財務局長が別に定める。」となっている。通常の庁用車の使用時間は、「通常の出勤時限から通常の退庁時限までとする」とされている(同規則8条)が、専用車にはその時間の限定はない。ここまでは、ネットで容易に検索できるが、その先の「財務局長が定める知事専用車使用についての規則」は、見つからない。もっとも、苦労して見つける努力をするほどのこともない。
多分その「財務局長規則」の中のどこかに、知事が言う「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」という条項があるということなのだろう。
まず、知事の年間49回に及ぶ週末湯河原通いは「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」というルールに適合しているだろうか。
いかなるルールも文言が抽象的であることを免れず、具体的な事例への適用において宿命的に解釈を必要とする。ルールが許容(あるいは禁止)することが明確な範囲を中核として、その周囲に明確性の濃淡をなす部分があって、ルールで許容(あるいは禁止)された範囲の限界は必ずしも一律に決まるものではない。具体的な事例が、その不明確な限界の内なのか外なのか。その判断が解釈である。
知事が言う「ルール通り」は、知事自身の個人的な解釈によるものに過ぎない。それが、唯一の正しい解釈である保障はない。むしろ、かなり怪しい解釈と指摘せざるを得ない。
ルールの解釈は、何よりもそのルール設定の趣旨・目的を把握するところからスタートしなければならない。また、いかなるルールも、高次のルールによって要件や効果が限定される。知事が公用車を利用する趣旨は、知事としての適正・迅速な公務の遂行に資するため、あるいは効率化のためのものであろう。そのことを離れての公用車利用は合理性を持たない。公務から公務への移動を公用車利用とすることの合理性に疑問の余地はなく、また非公務から非公務への移動の非合理性についても明白である。しかし、公務と非公務とをつなぐ移動については、管理規則の文言如何に関わらず、都有の財産である自動車を、都の公務員である運転者を使用して公用車として利用するに際しては、自ずから限度があるものと考えざるを得ない。
手法は二つある。
まずは、規則が「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」としているのは、公務地と知事自宅の移動を認める趣旨であって、自宅以外の遊興先や別荘地は含まないと解釈することができよう。ましてや、100キロ遠方の別荘地に毎週末の利用などは、到底規則の想定するところではない、と断じる手法である。規則が、行政内部で作成されたもので、民意を反映したものでないことがそのような解釈を支えることになる。都民の良識がこのような知事の公私混同の外形を有する公用車利用を許さない、としてよいのだ。
もう一つの手法は、権利の濫用ないしは逸脱とすることだ。規則の文言から言えば、確かに都庁と湯河原の別荘との移動に公用車を利用できることになってはいる。しかし、いくら何でも、知事にそのような形式的な解釈をさせて権利を認めるのは、実質的に法の正義に反する。知事の公用車利用は、権利の濫用ないしは逸脱と解釈するのだ。諸般の事情を考慮した結果とすればよい。諸般の事情の中には、この間に表明された都民の意思も重要なファクターとなる。
さらに、問題は知事の公用車利用が規則の解釈上可能か否かにあるのではない。知事に求められているのは、「自動車の管理規則」という些末なルールに従うことではなく、もっと高次の、「都民の信託に応える行政をなすべきとするルール」ではないのか、と批判することができる。都民から預託された税金の使い方には率先して節約の模範を示し、都民の声には誠実に敏感に対応して都庁10万の職員の範たるべきではないのか。それを、都民のほとんどが知らない「ルール」をもち出して、「ルール通りで問題はない」というのは、高次のルール無視という点で「問題大いにあり」と言わねばならない。高次のルールに違反するとは、法の正義に反すること、形式的には違法ではなくとも不当な行為として、反省と改善が求められるということでもある。
実は、東京都(教育委員会)の、教員に対する「日の丸・君が代」強制による処分の濫発が、この知事の姿勢と同じ構造なのだ。形式的にルールに則っているのだから問題はない、という言い分。だから、まったく同じ批判が当てはまる。
都教委が「日の丸・君が代」を強制する根拠としての「ルール」は、学習指導要領のごく一部分の文言である。学習指導要領とは、憲法の下位にある法律の、その下位にある省令の、そのまた下位にある「文科大臣告示」でしかない。当然に、その解釈には上位のルールの制約を受けることになる。
しかし、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、思想・良心の自由を保障した憲法が許容するものではないというのが、教員側の立場。懲戒処分された教員の訴えに対して、最高裁は今のところ痛み分けとしている。最も軽い懲戒である「戒告」については懲戒は許されるとしたものの、思想・良心に基づく「やむにやまれずの不服従」と認めて、「減給」以上の処分はすべて懲戒権の逸脱濫用として違法と判断し、処分を取り消している。
それだけではない。最高裁は明らかに都教委に対して、違法とまではいえない戒告処分についても、当不当の問題は残るという姿勢を示している。教育を司る行政部門として、懲戒処分を濫発しての「日の丸・君が代」強制は、戒告処分に限れば違法とは言えないとしているものの、それでも決して褒められた行為ではない、という立場なのだ。
今回の批判にさらされている舛添知事の姿勢は、まずは端的にルール違反というべきものである。仮に、下位ルールには違反していないとしても、高次のルールには違反している。さらに、いかに言い訳しようとも、不当な行為であることは明白である。別荘通いの公用車使用の濫用と、良心的不服従者に対する「日の丸・君が代」強制による処分の濫発。両方とも、早急に反省して改めていただきたい。
(2016年4月30日)
舛添さん、どうもあなたはアカンようだ。あなたには多少の期待をしていた。あの暗黒の石原都政時代が長すぎた。あなたが知事になって、都政が変わるのではないか、そう考えた私が愚かだったようだ。
あなたは庶民感覚を忘れてしまっている。それが、あなたはもうアカンという理由だ。あなたは、都民の目、都民の批判にあまりにも鈍感だ。あなたには、都民の心情に寄り添い、都民の期待を把握してそれに応えようという真摯さが感じられない。「都民からの批判あるのは当たり前、一々気にしていられるか」という為政者の感覚になってしまっている。
あなたが厚労大臣として活躍していたころには、なかなかのものだという印象をもっていた。しかも、あなたは都知事選において必ずしも石原後継というイメージを刻印されずに済んだのだ。あの石原慎太郎が、泡沫とみられていた田母神を応援したからだ。だから傲慢な石原都政とは一線を画した、中道の舛添カラー都政となるのではないかとの期待があった。
2014年都知事選では、保守・中道票は、細川・舛添・田母神に三分された。あなたは、中道リベラルの票は細川に、右翼票は田母神に侵蝕されたが、石原都政とは一線を画し、これを批判する立場に立てた。だから、都庁内の萎縮した雰囲気を変え、風通しのよい都政が期待できるかと、一瞬にせよ思わせたのだ。教育庁の人事も変わってくるだろう。現場の声に耳を傾けることになるのではないか。それが、どうもアカンことになっている。
昨日(4月23日)の毎日夕刊が、「宿泊は会議室付きスイート」「海外出張経費 都知事『高すぎ』」「首都圏3県知事が問題視」「条例上限超え総額年5686万円」「神奈川・埼玉・千葉の2?7倍」と報じている。共産党都議団の「宿泊スイートルーム1泊19万円/共産党都議団が抜調査報告」が赤旗に発表されたのが4月8日。その後各紙とも、このテーマを追っかけている。それでも、是正されないのだ。
毎日記事は、以下のとおり。
「東京都の舛添要一知事の海外出張経費について、首都圏の神奈川、埼玉、千葉3県の知事が高額さを批判している。舛添知事の宿泊費は条例の上限額を大幅に上回るが、3県知事は全員、2015年度の海外出張の宿泊費を条例の規定内に収めていた。埼玉県の上田清司知事は12日の定例記者会見で『東京都は財政に余裕があり、おおらかなお金の使い方だ。国民目線からはどうなのかなと正直思う』と皮肉った。」
「都条例では、知事の宿泊費上限は出張先で異なるが、最高で1泊4万200円。都人事委員会の確認を経れば上限を超えられる。共産党都議団が情報公開請求で得た文書によると、舛添知事は就任した14年2月以降、宿泊費が全て条例の上限を超え、最高はロンドンの1泊19万8000円。15年度末までの8回の出張で延べ10都市のホテルに宿泊し、うち7都市でスイートルームを利用した。
これに対し、上田知事は15年度の北京出張で上限額を下回る1泊2万3000円のホテルを利用。埼玉県によると、過去5年度分の海外出張の宿泊費は全て上限額を下回り、多くで随行職員と同ランクの部屋に宿泊した。
神奈川県の黒岩祐治知事も英国出張では上限額以下の1泊3万2200円。12日の定例会見で『効果が期待されるから、いくらでも使っていいということはない』と批判した。
千葉県の森田健作知事も規定内に収め、ドイツ・オランダ出張は1泊2万4200円。県の担当者は『税金を使うのだから費用対効果を考えて予算を組むよう知事から指示されている』と話す。
15年度の知事の海外出張経費総額(随行職員の経費含む)は都が約5686万円で3県の約2・2?7・7倍。3県の知事は飛行機の座席がビジネスクラスなのに、都は知事がファーストクラスで、一部職員もビジネスクラスを利用している。
舛添知事は今月12?18日の米国出張で随行職員を昨秋のロンドン・パリ出張より4人減らして15人とし、一部職員の宿泊先は廉価なホテルにした。ただ、自身の宿泊は全て会議室付きスイートルームで5泊計73万5600円(条例の上限は5泊計20万1000円)。飛行機もファーストクラスを2度、ビジネスクラスを1度使い、自身の旅費総額は298万5650円だった。」
これに対するあなたの反論が、またアカンのだ。
「帰国した18日、舛添知事は『ホテルは二流、三流だと(相手に)「その程度なら会わない」と思われてしまう』と語り、22日の定例会見でも『会議を毎日やる。スイートルームという言葉だけで遊び回っている部屋みたいな誤解があってはいけない』と述べた。」
22日定例会見の内容は、東京都のホームページ(知事の部屋)で見ることができる。そこに次の質疑が掲載されている。
【記者】IWJの城石です。ホテルの宿泊費の件なのですけれども、必要な経費として舛添知事は訴えていますけれども、日本共産党都議団の出した資料によれば、スイートルームでの会見の記録というものは、石原都知事の時代からなかったということで、やはりこのスイートルームの宿泊費というのは、見直す必要があるのでは…。
【知事】部屋について言うと、会議のための部屋を一緒につけているのを、どう呼ぶかは、スイートルームと呼んでいるホテルもあるし、そうではない名前で呼んでいるホテルもあって、つまり、会議をやるわけです、そこで、毎日。例えば今回などもものすごい頻度で会議をやったのは、熊本地震がありました。刻々、全部情報が入って、「どういう形で警察を派遣しろ」「お医者を派遣しろ」と、こういうことを刻々やるわけです。そのために会議をやらないといけない。ホテルで会議のための部屋を特別にとったら、どれぐらいお金を取られると思いますか。そういうことのために使っているので、スイートルームという言葉だけで遊び回っている部屋のような、そういう誤解があってはいけないということです。
それから、いろいろな方がお見えになりますけれども、極めて大事な政治的な話をするときに、公開すべきものではありません。ですから、来なかった、来たとかということで判断できる話ではないのです、はっきり言うと。結果として、仕事がちゃんとできないとだめだと。だから、仕事の内容を精査しておっしゃっていただきたいと思います。
【記者】朝日新聞の伊藤です。なかなか都民感覚では出張経費にかかった額に対して、やはり自分の生活感覚と比べてしまう部分もあって、理解しにくい部分があると思うのですけれども、今後、理解を得るための成果の出し方とか、伝え方で、何か具体的なアイデアがあれば教えてください。
【知事】それは、随行なさった方は分かると思いますが、現場でちゃんと記者会見をして、どういう成果があったということを言っていますので、それは皆さん方もちゃんと伝えてくださっていると思いますし、また、ホームページを通じて申し上げたいと。
ただ、遊びに行っているわけではありません。物見遊山ではありません。仕事で行っているのだということをご理解いただいて、きちんと仕事ができる状況を整えるということも重要だということもご理解いただければと。
舛添さん、あなたは「遊びに行っている」「物見遊山をしている」と批判されているわけではない。都民の金銭感覚からすれば、交通費も宿泊費も高額に過ぎる。都民が拠出した税金の使い方が荒すぎはしまいかと疑問視され、その点を批判されているのだ。
都条例での知事の宿泊費上限は最高で1泊4万200円だという。この額は都議会が決めたものだ。近隣3県の知事は、各県条例の上限を遵守していて、どうして舛添さん、あなただけがその何倍もの宿泊費が必要となるというのだ。3県の知事は、出張先で会議などしていないというのだろうか。
本日(4月24日)の赤旗には、「『大名旅行』と批判殺到」の見出しで、次の記事がある。
「東京都の舛添要一知事が12?18日に米国出張し、航空運賃と宿泊費だけで計298万5650円を支出していたことが22日、わかりました。
舛添知事はニューヨークとワシントンに出張し、両市長と懇談。桜の苗木を植樹し、証券取引所を訪問しました。都政策企画局によると、知事の宿泊ホテル代(5泊)は73万5600円で、航空運賃には225万50円を支出。往復ともファーストクラスで、米国内の移動はビジネスクラスでした。
知事が宿泊した部屋は1泊14万100円?15万1800円のスイートルームで、都が条例で定めている上限額の3・5?3・8倍と高額でした。
都によると、知事宿泊室での現地要人との面会はなく、招き入れたのは現地メディア2社の計2回だけで『社名や人数は言えない』としています。」
「都には『大名旅行だ』などと21日までに2469件の批判・意見が殺到しています」
政(まつりごと)の要諦は、「民の信なくんば立たず」にある。舛添さん、都民はあなたに、到底信を寄せることはできない。言い訳は見苦しい。都民の目からは、あなたは貪欲な裸の王様以外のなにものでもない。
(2016年4月24日)
めぐり来る春は、卒業式・入学式のシーズンである。東京の春は、「日の丸・君が代」強制の季節。今年も、東京都教育委員会は、懲りることなく全教職員に対して、卒業式では「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」とする職務命令を発した。さらに、これに従えないとする者に懲戒処分を科している。昨日(4月5日)、卒業式の不起立で懲戒処分を受けた教員に対する、服務事故再発防止研修という名の加重懲罰が実施された。早朝8時半。水道橋の研修センター門前に、都教委に抗議し研修受講者を励ます60人が参集した。私も、マイクを握って、研修の責任者である総務課長に申し入れをした。
東京「君が代」裁判弁護団の澤藤です。本日、服務事故再発防止研修受講の業務命令を受け、不本意ながらもこれから研修を受けるためこのセンターに入構する教員を代理して、都の教育委員諸氏と、教育庁の全職員に抗議と要請を申しあげます。
まず、憲法19条を再読いただきたい。
そこには、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と、強い命令形で書かれています。命令しているのは主権者である国民。憲法制定権者でもある国民が命令しているのです。命令されているのは、公権力を担う者。東京都教育委員会であるとともに、あなた方教育庁の全職員が「思想及び良心の自由を侵してはならない」と命令を受けているのです。
誰の「思想及び良心の自由」を侵してはならないとされているか。国籍や地位、身分、年齢や性別、思想・信条などあらゆる区別なく、すべての人に思想と良心の自由が保障されているのです。もちろん、懲戒された教育公務員にも自由が保障されています。
いかなる思想の自由、いかなる良心の自由が憲法上の保障を受けるものであるか。
憲法における自由とは、公権力の束縛からの自由を意味します。強大な権力を持つ国家を暴走させないための憲法なのですから、思想の自由とは何よりも国家が公定する思想の束縛からの自由でなくてはなりません。「国家は正しい」「国家には従うべきだ」「国家は大切なものだ」とする思想を拒絶する自由こそが最大限の保護をうけなければならないのです。
国家が国民に対して、愛国心の涵養を強制することはけっして許されません。自由主義の国家においては、憲法が最も警戒する思想こそ愛国心である、と言って差し支えないのです。
また、究極において、憲法とは国家と個人の関係の規律ですから、国家と国民個人との関係についての考え方こそ、憲法が最も関心をもつ思想領域なのです。この点についての国民の思想は、徹底して自由でなくてはなりません。国家が特定の思想を排斥したり、特定の考え方を押しつけることは許されないのです。国家と個人の関係についての思想こそ、他のいかなるテーマにも増して、幅の広い自由が保障されなければなりません。
ですから、国民は、国家大好きであっても、大嫌いであっても、まったくの無関心であってもいっこうに差し支えないのです。愛国心を強制することは許されず、国家の象徴である国旗や国歌に敬意を表明することの強制は本来憲法が許さないことというほかはないのです。
そして良心です。本日研修を強制される教員たちは、自らの教員としての良心を貫く立場から、「日の丸・君が代」への敬意表明ができなかったのです。戦前、天皇制とあまりに深く結びつき、子どもたちの心を軍国主義一色に染め上げる道具であった、学校儀式での日の丸と君が代。教師を志した初心に省みて、子どもたちの精神の自由を守るために、この歌と旗を受け容れることは出来ないと決意したのです。
本来は、国旗国歌あるいは「日の丸・君が代」への敬意表明の強制からの自由が保障されなければなりません。しかし、今、「日の丸・君が代」が踏み絵となって、思想の転向が迫られ、良心がむち打たれる事態となっているではありませんか。是非このことを理解していただきたいのです。
したがって、本日の研修はまったく必要のないものです。いや、本日予定されている研修はけっしてあってはならないものというべきなのです。東京都の教育委員とあなた方教育庁の職員は、違憲違法な行為を強行しようとしているのです。
研修が必要なのは、日の丸・君が代の強制に屈せず、教員としての良心を守り抜いた教員ではありません。むしろ、あなた方、東京都教育委員の諸君と教育庁の幹部職員にこそ、研修が必要と言わざるを得ません。
とりわけ強く申しあげたい。あなた方は、教員との裁判で12連敗している。正確に言えば、判決と執行停止の決定ととをあわせて、この2年間というもの一貫して負けつづけています。これは重大事だと、自覚してもらわねばなりません。
たった一つでも裁判に負けた場合、都教委の行為が違法と判断されたのですから、まず違法な公権力の発動によって迷惑をかけた相手に対して心からの陳謝をすべきが当然の社会常識です。そして、自分が間違っていた旨を公表し、責任の所在を明確にして、責任者にはしかるべき制裁措置が必要です。それだけでなく、どこでどのように間違えたのかを真摯に反省することによって、再発防止策を見つけねばなりません。そして、その具体策を実行しなければなりません。そして、責任者には再発防止研修を受けさせなければなりません。
教育委員諸君と、あなた方こそが再発防止研修を受けなければなりません。本日の研修の主体と客体はまさに逆転しています。おかしいのです。
教育委員は、教育の本質を学ばなければならない。憲法や教育基本法についての研修を受けなければならない。戦前の教育のどこがどう間違い、それをどのように反省して今日の教育法体系やシステムができているのか。憲法や教育基本法は、教育や教員のあり方をどのように定めているのか。しっかりと十分な理解ができるまで研修を繰り返して、違憲・違法な教育行政の再発防止に努めていただきたい。ついでに、国旗国歌法の制定経過とその趣旨もよく学んでいただきたい。
本日研修受講を命じられている教員は、教育の本質と教員としての職責を真摯に考え抜いた結果、自己の良心と信念に従った行動を選択したのです。このように良心と信念に基づく行動に対して、いったいどのように「反省」をせよと言うのでしょうか。信念にもとづく行為に対して「再発防止」を迫るということは、思想や良心を捨てよと強制することにほかなりません。日の丸・君が代への強制に服しない者への公権力による処分自体が思想・良心を侵害する公権力の発動として許されることではありませんが、これに加えて再発防止研修に名を借りた転向強要は、絶対にあってはならない違法行為といわざるを得ません。
そのような観点から、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげます。あなた方が本日行おうとしている研修の強行は、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為です。おそらく皆様には、内心忸怩たる思いがあることでしょう。キリシタン弾圧の役人や特高警察になぞらえられるようなことを進んでやりたいとは思っているはずはない。だが、仕事だから仕方がない。上司の命令だから仕方がない。組織の中にいる以上は仕方がない。「仕方がない」ものと割り切り、あるいはあきらめているのだろうと思います。
しかし、お考えいただきたい。本日の研修受講命令を受けている教員たちは、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安易に職務命令に従うという選択ができなかった。
懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。この教員たちは多大な不利益を覚悟して、それぞれの良心に忠実な行動を選択したのです。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人格、模範的な教員ではありませんか。是非、そのことを肝に銘じていただきたい。
あなたがた研修センター職員の良心に期待したい。その尊敬すべき研修受講者に対して、心して研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう要請いたします。
(2016年4月6日)
毎日新聞署名コラムの中で、山田孝男「風知草」の論調には、歴史認識や立憲主義の理解の点で違和感が大きい。安倍晋三に招かれて、ともに会食などしているとこうなるのではないか。その山田が、国立競技場建設費問題を戦争中の戦艦武蔵の「悲劇」になぞらえている。武蔵は、世界最大の戦艦としての威信を誇示した。しかし、時代遅れの大艦巨砲主義は戦略あいまいなままに出撃して何の戦果を挙げるでもなく、巨費とともに沈んだ。両者の類似の指摘は頷かせる。安倍と会食をともにする記者の記事でさえなければ立派な記事だ。
国立競技場建設費用は2520億円!!。金額だけではなく、その金額の決め方にまつわる無責任体制が、戦争責任や原発開発とも重なる。「ドタバタ劇」として、「負のレガシー」として国民に完全に定着した。あの「読売」の世論調査でも、81%が建設計画を見直すべきだという結果である。「責任の所在があいまいなまま突っ走り、『決まったことだから』と、途中でやめることができない。これが日中戦争から太平洋戦争にかけての日本の歴史。と思っていたら、新国立競技場をめぐる問題も、そっくりです。」とは池上彰の毎日紙上発言。2520億円問題は、誰も彼も大っぴらに批判のできるテーマとなっている。
もちろん、この問題にも、諸悪の根源としての安倍晋三が絡んでいる。この競技場のデザインと、福島第1原発の放射能問題の解決が東京五輪招致成功の2本の柱だった。これを国際公約といっているわけだ。放射能は「完全にコントールされ、ブロックされています」というこちらの柱は、大ウソだったことがとっくに明確になっている。もう一つもウソとなれば、「大ウソ2本立て」。招致の根拠が崩れるというわけだ。せめて競技場のデザインだけは遺したい。これが政権と、その意を体した無責任体制関連人脈のホンネのところ。
しかし、この計画を推進するには2520億の巨費を調達しなければならない。安倍や森、下村の懐を痛めての負担ではない。身銭を切るのは国民なのだ。批判の荒波を覚悟しなければならない。政権を揺るがすことにもなりかねない。
この計画を頓挫させれば、日本の威信にかかわる? そんなことはない。安倍政権とJOCの威信でしかなかろう。安倍晋三が引責辞任すればよいだけのことだ。
何とも、無責任極まる安倍晋三・森喜朗・下村博文、そしてJOCだ。FIFAのカネまみれ体質が明らかになったが、あまり人々が驚いていない。所詮、そんなものだろうという受け止め方。商業主義蔓延のオリンピックも同様ではないのか。2520億という巨額のカネの取扱いの杜撰を見ていると、オリンピックが美しいものなどとは到底思えない。こんなに金のかかる競技場なら作る必要はない。入場式なんぞは原っぱで十分だ。雨が降ったら傘をさせばよい。そんな非常識なことはできない、というのならオリンピックなんかやめてしまえ。わけの分からぬ東京オリンピックを返上しろ。
イメージというものは恐ろしい。あのキールアーチのデザインは、最初の頃こそ斬新・清新なイメージだった。しかし、報道が積み重ねられるうちに、既に完全な負のレガシーとしてのイメージが定着した。あのデザインそのままでは、オリンピックのバカバカしさ、薄汚さのシンボルとして半永久的な語りぐさとなる。
さて、問題はここからだ。こんな馬鹿馬鹿しいものの建設費はムダ金であり、捨て金だ。捨て金の支出など許してはならない。舛添知事は、これまでは比較的常識的な姿勢で都民の支持を維持してきた。「国側からきちんとした説明をいただかなければ、都民の税金を費やすわけには行かない。」という至極真っ当な姿勢。ところが、7月7日有識者会議以来、どうも雲行きがおかしい。
舛添さん、都民の知らぬ裏の場で、安倍・森・下村などから一席設けられ、振る舞い酒に酔うなど、けっしてないように。何とはなしに話をつけて、都の財政から500億のつかみがねを支出するようなことがあれば、都民の怒りを買うことになりますぞ。500億を出したらあなたの2期目はない。オリンピックの年まで知事でいたいのなら、なによりもこの捨て金を出さないと明言することが肝要だ。
このところ多くの人が、地方財政法上、国の支出の一部を地方が負担することは禁じられていると指摘している。つまり、都財政からの500億円支出は、単に不当というだけでなく、違法なのだ。違法な支出は、都民がたった一人でも住民監査を経て住民訴訟の提起が可能である。
最終的には、知事個人が違法支出の責任をとらねばならない。応訴にもかかわらず、舛添敗訴となれば、500億円を個人として東京都に支払うよう命じられる。500億円全額回収に現実性はないものの、違法支出の抑止効果は十分に期待できる制度だ。知事や議会は多数派が握っている。多数派の横暴に歯止めをかけて、統治の合法性を確保するための貴重な制度である。
ところが、今、国立市で問題となっている一つの裁判が、この制度を無にしかねない重大な問題をはらんでいる。仮に、国立競技場の建設費の一部として舛添知事が500億を都の財政から支出し、これを裁判所が違法と認めたとする。その場合でも、都議会の自民党が舛添免責の決議を提案して議会がこれを採択すれば、東京都が舛添知事個人に対する損害賠償請求権の行使はできなくなる、というのだ。現実に、そのような地裁判決が出ている。
詳しくは、下記の当ブログを参照されたい。
2014年9月26日「株主代表訴訟と住民訴訟、明と暗の二つの判決」
https://article9.jp/wordpress/?p=3589
当該の判決についての報道は、以下のとおり。
「高層マンション建設を妨害したと裁判で認定され、不動産会社に約3100万円を支払った東京都国立市が、上原公子元市長に同額の賠償を求めた訴訟の判決が(2014年9月)25日、東京地裁であり、増田稔裁判長は請求を棄却した。
増田裁判長は『市議会は元市長に対する賠償請求権放棄を議決し、現市長は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」(時事)
今回の事例に置き直せば、以下のようになるのだ。
「先行する住民訴訟の判決で、国立競技場建設費用500億円の知事の支出は違法とされた。この判決に基づいて、東京都が原告となって舛添要一知事に500億円の賠償を求めた訴訟の判決が東京地裁であり、裁判長は原告の請求を棄却した。裁判長は『都議会は知事に対する賠償請求権放棄を議決し、知事は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」
要するに、舛添知事の責任を都議会多数派の意思次第で免責することが可能だというのである。これは制度の趣旨を根本から突き崩すものではないか。上原元市長の行為が違法であるかどうかについては私は論評を控えたい。事情を詳らかにしないだけでなく、結論がどちらでも、事例判決を一つ積み重ねるだけでさしたる問題ではない。議会で首長の責任を免責できるか否かが大問題なのだ。
住民訴訟とは、民主主義・多数決原理に限界を画するものである。住民の多数派から選任された首長が、どのような「民意に基づく行為」であったにせよ、法体系に反することはできないのだ。首長らに財務会計上の違法行為があれば、住民たった一人でも、原告となってその是正を求める提訴ができる。これを、議会の多数決で違法行為の責任を免ずることができるとすれば、せっかくの住民訴訟の意義を無にすることになる。
首長の違法による損害賠償債務を議会が多数決で免責できるとすることには、とうてい納得し難い。国立市はいざ知らず、東京都をはじめ、ほとんどの地方自治体の議会は、圧倒的な保守地盤によって形成されている現実がある。首長の違法を質すせっかくの住民訴訟の機能がみすみす奪われることを認めがたい。
もし仮に、最高裁までが議会の決議による首長の債務免責を認めることになれば、免責決議に賛成した議員の法的責任追及が必要になるものと考えている。
(2015年7月12日)
東京都議選は4年に一度のビッグイベント。そのたびごとに、「総選挙の前哨戦」「国政を占う首都の選挙」として注目されてきた。今回は、「参院選の前哨戦」「改憲の行方を占う選挙」との位置づけである。
16年前、1997年の東京都議選をご記憶だろうか。石原慎太郎が知事に初当選したのが99年4月だから、その2年前。青島知事の時代。その97年都議選から、01年、05年、09年、そして今回の13年都議選まで、5回の都議選における改憲・護憲勢力の消長を俯瞰してみたい。そのうえで、目前に迫った参院選の展望に一言する。
その16年前の都議選の結果は、以下のとおり。
第1党 自民党 116万票(得票率31%) 議席54
第2党 共産党 80万票(得票率21%) 議席26
第3党 公明党 71万票(得票率19%) 議席24
第4党 民主党 39万票(得票率10%) 議席12
ネット 10万票(得票率 3%) 議席 2
社民党 7万票(得票率 2%) 議席 1
共産が、第2党として存在感を示していた。その得票数は、第1党の自民のほぼ70%である。
改憲勢力の主柱としての自民党のその後の消長を見てみよう。
116万票(得票率31%)⇒172万票(得票率36%)⇒134万票(得票率31%)⇒146万票(得票率26%)⇒163万票(得票率36%)
最近5回の都議選での得票数は、116万?172万票。得票率は26?36%で推移している。
自民党の強固な同盟者である公明党については以下のとおりである。
71万票(得票率19%)⇒72万票(得票率15%)⇒78万票(得票率18%) ⇒74万票(得票率13%)⇒64万票(得票率14%)
自公の得票率合計の推移は、
50%⇒51%⇒49%⇒39%⇒50%と安定している。民主躍進の09年選挙を除けば、49?51%であり、今回選挙はその例に戻った。
改憲阻止勢力の主柱である共産党の獲得票の推移は以下のとおり。
80万票(得票率21%)⇒75万票(得票率16%)⇒68万票(得票率16%)⇒71万票(得票率13%)⇒62万票(得票率14%)
今回の都議選で共産党は議席を倍増させて「大きな勝利」を獲得した。しかし、往年の得票の回復には至ってない。今回の「勝利」は、維新や生活・みどり・みんななどの分立や民主の候補者乱立の失敗に助けられてのものという側面を否めない。
しかし、今回の選挙における「勝利」によって、共産党は反自民、改憲勢力批判の票の受け皿としての地位を獲得した。改憲反対票を取り込む唯一の政党としての地位を確立したと言い切ってよい。このことの意義は極めて大きい。
中間政党の第1党である民主党の得票推移は以下のとおりである。
39万票(得票率10%)⇒64万票(得票率14%)⇒107万票(得票率25%)⇒230万票(得票率41%)⇒69万票(得票率15%)
一見して明らかなとおり、獲得票の振幅が極端である。風の吹き次第で、消長激しい政党の典型といえよう。
今回得票数は前回票数のちょうど30%である。09年都議選で民主党に投票した有権者の実に70%が、今回は棄権にまわったか、あるいは他党に投票したのである。ちなみに、昨年12月総選挙における民主党の比例代表区獲得票数は963万票、09年8月の総選挙の票数2984万票に比較して32%であった。有権者の民主党離れは、6か月を経てさらに進行している。おそらくは、参院選では20%台に落ち込むこととなるだろう。
その余の中間政党は存在感を失っている。社民も生活もみどりも、その他諸々の党派もである。唯一ネットだけに存在感がある。5回の選挙の消長は以下のとおり。
10万票(得票率3%)⇒ 14万票(得票率3%)⇒18万票(得票率4%)⇒11万票(得票率2%)⇒9万票(得票率2%)
維新は、今回初めての都議選に挑戦して失敗した。鞍替え組の現有3議席すら守ることのできない惨敗・完敗・大敗。新聞の見出しにもそう書かれ、自らも認めている。醜悪な2人の指導者が、どう取り繕うとも、党内亀裂を覆い隠すことはできない。雨降って地固まることもあろうが、都議選の結果は洪水並みの大雨。大雨は地盤も土台も押し流してしまう。この政党も、勢いや「風」頼みである。候補者も支持者も理念ではなく、勢いや「風」で集まってきた連中。風向きが変わった今、雲散霧消して跡形もなくなる運命が見えてきた。参院選が厳しいというレベルではなく、早晩消滅するということだ。「もう終わったね…、この党」という以外にない。
維新に比して「みんな」は手堅い。自滅・自壊という可能性が小さい。極端な新自由主義政党であり、改憲志向政党として徹底して具体的に政策の批判をしなければならない。
さて、目前の参議院議員選挙である。7月4日(木)公示で、7月21日(日)が投票日。今度は前哨戦ではなく、正規戦である。日本国憲法の命運ががかかっているという意味で、かつてない重い選挙でもある。前哨戦で見たとおり、自公の保守勢力は侮りがたい。中間政党は見る影もない。どうしても主力である共産党に期待するほかはない。票の集中を他党支持の有権者にも呼び掛けたい。
戦後民主々義を懸けての選挙戦といっても過言ではない。憲法や平和・人権・民主々義を大切に思う人々に、共産党への大きな支援を訴えたい。
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『政治家「大串博志」の空っぽブログ』
政治家「大串博志」とは、衆議院議員佐賀2区選出の民主党議員。野田内閣の内閣府大臣政務官だった。その大串が、本日の毎日新聞一面トップに登場した。「プルサーマル米に約束ー昨秋 民主政権 国民に説明せぬまま」という見出。記事の内容は、「昨年9月野田佳彦首相の代理として訪米した大串博志内閣政務官(当時)が米エネルギー省のポネマン副長官に『プルサーマル発電』の再開をひそかに約束していた」というもの。
当時、「使用済み燃料の再処理工場」、「高速増殖炉もんじゅ」はトラブル続きで、稼働のメドなどまったくたっていなかった。それは現在も同じ状態でかわりはない。だから使用済み燃料の再処理は、イギリスやフランスにずつと依頼している。再処理で出来上がったMOX燃料(燃えかすからプルトニウムを取り出して含有量を増やして作る)は、もとのウラン燃料の4倍と高価だが、もともとは高速増殖炉「もんじゅ」の燃料として発電に使う予定だった。ところが、これが失敗続きで稼働の見通しはない。そこでやむなく普通の原発のウラン燃料に、3分の1ほどのMOX燃料を混ぜ込んで、おそるおそる燃やす。この過程を「プルサーマル」という。
大串政務官は、アメリカから「増え続ける核爆弾の原料のプルトニウムをどうするつもりか」とせめられて、「プルサーマルで使いますからご安心を」と約束してきたというわけだ。原発をやめさせたくないアメリカ原発産業の強い要請もあったのだろうし、原発再稼動をやりたくて仕方がない野田政権のホンネもあったろう。エライことを約束してきたものだ。しかも、まったく秘密裡に。
その日(2012年9月14日)の「大串ひろしブログ」は、政府がエネルギー・環境会議で「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう」決定したことを紹介し、「今回の出張で米国の関係者に対しては、これまでの日本の議論の経過などについて意見交換を行い、今後も十分意見交換を行っていこうということになっています」と述べている。
次の日のブログは「世界を股にかける、というとカッコよくきこえますが、トンボがえりの海外出張は、役所勤務時代もよくやりましたし、慣れっこです」とごきげんだ。プルサーマル密約など窺うべくもない。これが「空っぽブログ」。
本日の毎日新聞では、大串氏は取材に対して「誰に面会したのかは外交上言えない。(プルサーマルに関しては)覚えていない」と答えたと伝えている。
大串氏が密約してきたアメリカとの路線を渡りに舟として、安倍政権はプルサーマル再開をめざす方針だ。民主党と大串氏は、大はしゃぎでアメリカに出かけていって、「覚えていない」密約を結んできた責任をどうとるつもりなのか。
プルサーマル発電のあとには、「使用済みMOX燃料」を処理するための「第2再処理工場」の建設が必要になる。これが、格段に危険なものといわれている。大串氏は自分の選挙区の佐賀県に、その危険な施設をつくる覚悟があるのか、無責任な政治家に腹が立つ。
(2013年6月25日)