下記は、一昨日(8月17日)の赤旗7面(文化欄)に載ったエッセイ。タイトルは、「君をハグしていい?」というもの。筆者西川悟平(1974年生)はニューヨーク在住で、「7本指のピアニスト」として知られている人だという。印象に深い内容にかかわらず、赤旗のデジタル版には掲載なく、ネットでの紹介記事も見あたらない。まずはその全文を紹介したい。
2年前の1月の寒い日、二ューヨークのマンションで2人組の泥棒にあいました。夜10時ごろ、ノックの音に、ルームメートの友達だと思いドアを開けると、黒人とラテン系の男が入ってきて、注射器を突きつけられました。中には透明な液体が入っていて、なんだか分からないままホールドアップ。1人が僕に注射器を突きつけている間、もう1人がクレジットカードやパソコンなどを盗みだしました。
初めはすごく怖かったのですが、だんだんと怒りに変わり、その後「何が彼らをこんな行動に駆り立てたんだろう?」と好奇心に変わりました。アメリカの大学で心理学を学んだことがあったんです。
恐る恐る「しゃべっていいですか?」と聞くと「うるせえ! 黙れ!」。「ごめんなさい! ただ君たちがどんな幼少期を過ごしたのか…なんでこんなことをしなくちゃいけなくなったのか…そう思っただけです!」
するとラテン系の男が一瞬動きを止めて、「お前にあのクソ痛みが分かるか…俺の親父は俺が子どもの時から俺に性的虐待をしてきた。母さんは、俺が物を盗ってきたら愛してると言ってくれたんだ」。僕は涙が出てきました。「つらかったね…。あるものはなんでも盗っていいから! 君をハグしていい?」。彼は「俺に近づくな! 今センシティブな(感じやすい)気分なんだ!」。注射器を持っていた男は「お前は日本人か? お前らは、人を深く尊敬する文化があるから、俺は好きだ」と言いだしました。
「日本から届いた緑茶があるけど飲みますか?」と聞くと、2人とも「飲む」と言うのでお茶を沸かし、3人で話しました。ラテン系の男が翌週に誕生日だというので、ハッピーバースデーをピアノで演奏しました。時計は明け方4時を指していました。
僕自身アメリカではひとりきりで、指に病気を抱えながらピアニストで頑張ってると伝えると、「お前ならきっと1年後には笑って過ごせる日がくるさ」と応援してくれました。僕は「あなたたちは、人間としての素晴らしい価値があるから、お店で働くなり、アルバイトをするなり、何か必ずできる仕事があるはずだ」と伝えました。
2人は、僕のマンションの壊れかけた暖房設備を修理し、盗んだものをすべて返してくれ、「次から相手を確認するまでドアを開けるなよ」とお説教。明るくなりはじめた頃、出て行きました。1人ずつハグをして「お前に会えて良かった」と言って。
僕は翌年そのマンションを引っ越しました。彼らが元気で幸せであることを願っています。
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このエッセイに描かれたできごとは、憲法9条の理念を寓意している。
暴力に遭遇したとき、暴力での対抗が有効か、あるいは丸腰での対応が安全か。少なくともこのケースの場合、丸腰主義と友好的対応が成功している。
いつもそうとは限らないという反論は当然にあり得る。では、このピアニストが護身用の拳銃を所持していたとして、隙を見て犯人に発砲したとすれば…。強盗被害をはるかに超えた悲惨な結末となっていたに違いない。
暴力を振るう相手に対して、「君をハグしていい?」という対応のできる人格は稀有なものだろうが、暴力に暴力で対峙の危険を避けることは常識的な発想といえよう。この「暴力に暴力で対峙する危険を避ける常識的な発想」から半歩踏み出したところに、日本国憲法の平和主義の発想がある。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というのが日本国憲法の立場である。「決意した」というのだ。非武装平和主義のリスクを引き受けるということだ。非武装の平和も、武力による平和もともにリスクはある。武力による平和を求める方策は、際限のない武力拡大競争と極限化した戦争の惨禍をもたらすという大失敗に至った。しかも、次の本格戦争には核が使われることになる。だから、非武装の平和を決意したのだ。
「決意した」は、安閑としてはいられないという認識を表している。平和のために国民が団結して、知恵を出し合い、多大な努力を重ねなければならないということなのだ。
憲法前文は、非武装平和主義を採用する根拠として、「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」としている。人間を、諸国民を、胸襟を開いて話し合えば理解しえる「ハグすべき相手」と見る思想である。
この対極にあるのが、「自国は正義」「隣国は悪」という国際観。「隣国は常に自国攻撃の邪悪な意図をもっている」「だから平和のためには可能な限りの軍備が必要」となる。もちろん核武装も厭わない。現実に核武装が困難であれば、核の傘に身を寄せる選択となる。
自国を攻撃する意図をもった邪悪な隣国と対峙している以上、自国の平和のためには可能な限りの強力な武力を。どんなときにも即応できる、いつでも使える武力を。先制してでも武力の行使を辞さない能力と戦意こそが平和の保障、と考える。
だからアベは、オバマの「核兵器先制不使用宣言」には反対なのだ。日本がよるべき「核の傘」(核抑止力)は、「先制しては使わない」などという切れ味の鈍いものであってはならない。常に、日本の隣国に睨みをきかして、恫喝し続けるものでなくてはならないのだ。
アベが、広島で述べた「核兵器なき世界に向け、新たな一歩を踏み出す年に…」なんて言うのは、真っ赤なウソ。アベは憲法9条が大キライ、核抑止力大好きなのだ。アベは、自宅にピストルが欲しい。できれば、機関銃も爆弾も欲しいのだ。強盗が押し入ってきたら、撃ち殺すぞ、爆殺するぞ。そう、脅かすことが安全と平和のために必要というのだ。
あらためて、強盗二人をハグしたピアニストに敬意を表する。あなたこそ、日本国憲法の理念の体現者だ。ひるがえって、アベの何たる愚かさ。
ああ、不幸な日本よ。憲法の理念に真逆の考えの首相をもつ、ねじれた国よ。
(2016年8月19日)
昨日(8月15日)の政府主催「全国戦没者追悼式」の最高齢参列者は、フィリピンで夫を亡くした東京都の101歳、中野佳寿さん。この人の言葉が、各紙に紹介されている。「戦争は絶対に駄目」というもの。何と力強い言葉だろう。その通り、「戦争は絶対に駄目」「ダメなものはダメ」なのだ。
どんなに理屈をつけて戦争を合理化しようとも、101歳の「戦争は絶対に駄目」の強さには敵わない。聖戦、正義の戦争、自存自衛の戦争、東洋平和のための戦争も、「ダメなものはダメ」。防衛環境の変化も存立危機事態も「戦争は絶対に駄目」に抗いえない。
人殺しは駄目。絶対に駄目。ダメなものはダメ。人殺しがダメなことに理屈は要らないのと同じように、戦争は駄目。絶対に駄目、ダメなものはダメなのだ。
この言葉の強さは、戦没者の痛恨と遺族の戦後の労苦への共感から生まれている。戦没兵士だけではない。沖縄地上戦での死者とその遺族、各地の空襲死者とその遺族、広島・長崎での原爆死者と遺族、そして多くの生存被爆者・生存空襲被害者の痛苦・悲痛。国民はそれを知っているから、「戦争は絶対に駄目」に心底共感するのだ。
ところで、憲法は「戦争は絶対に駄目」という思いへの共感が結実したものだ。「戦争は絶対に駄目」と9条1項に書き付け、「絶対に駄目」な戦争を再び起こさないための保障として、戦争の手段をもたないと9条2項で宣言したのだ。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」はそういう意味なのだ。
「戦争は絶対に駄目」の思想は、自衛のための戦争なら許すという例外を認めない。第90帝国議会(制憲国会)で、共産党の野坂参三は、日本国憲法案第9条を指して、「我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それ故に我が党は、民族独立の為にこの憲法に反対」との論陣を張った。これに対する吉田茂(当時首相)の答弁を想い起こそう。
「野坂氏は国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きことを認めることが有害であると思うのであります。近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認めることが戦争を誘発する所以であると思うのであります。野坂氏のご意見の如きは有害無益の議論と私は考えます。」
また、吉田茂は戦争放棄に関する提案理由説明で次のようにも言っている。
「これ(戦争放棄)は改正案に於ける大なる眼目をなすものであります。斯かる思ひ切つた条項は、凡そ従来の各国憲法中稀に類例を見るものでございます。斯くして日本国は永久の平和を念願して、その将来の安全と生存を挙げて平和を愛する世界諸国民の公正と信義に委ねんとするものであります。この高き理想を以て、平和愛好国の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行かうと云ふ固き決意を此の国の根本法に明示せんとするものであります。」
野坂の自衛戦争肯定論に対して、吉田は「自衛のための戦争も交戦権も放棄したものであると言明」したのだ。日本国憲法第9条を、「戦争は絶対に駄目」条項と理解した姿勢である。
ここがぶれると、自衛のための戦争なら許される、となる。自衛のための戦争に必要な武力なら違憲の戦力ではないから持つことを許される。自衛のためなら核武装も違憲とは言えない。自衛のためなら敵の基地を叩く必要も認められる。攻撃こそ最大の防御なのだから自衛のための先制攻撃もあり得る。自衛のためなら海外での戦争もしなければならない。自衛のためなら同盟国の戦争を買ってもよい。そして行く着くところは、昨日(8月15日)明らかになった「核兵器の先制不使用政策は抑止力を弱体化する」というアベ発言にまで行き着くのだ。
あらためて確認しよう。日本国憲法の平和主義とは、頑固でぶれない「戦争は絶対に駄目」「ダメなものはダメ」なのだ。その平和主義の実現はけっして安易なものではない。国民に安閑としていることを許さない。国民は、勇気と知恵とを総動員して、武力によらない平和を実現すべく努力を求められているのだ。
(2016年8月16日)
各紙がオリンピック一色で辟易していたところに、本日の東京新聞朝刊一面トップは憲法制定経過に関する報道だった。「9条は幣原首相が提案」「マッカーサー、書簡に明記」「『押しつけ憲法』否定の新史料」というもの。
ここで言う「マッカーサーの書簡」とは、1958年12月15日付「マッカーサーから高柳賢三(憲法調査会会長)宛の書簡」のこと。これが新資料。ここに、「9条は幣原喜重郎(憲法改正を審議した第90回帝国議会当時の首相)が提案」したことが明記されている。内容、以下のとおり。
「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです。首相は、わたくしの職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対してわたくしがどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関しておそるおそるわたくしに会見の申込みをしたと言っておられました。わたくしは、首相の提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」
新資料はこれまでの定説の確認だが、ダメ押しと言えよう。東京新聞が、「『押しつけ憲法』否定の新史料」というとおりだ。この新資料は、国会図書館に眠っていたもの。これを掘り起こしたのは、堀尾輝久さん。堀尾さんといえば、人も知る教育学・教育法学の大家。憲法史の専門家ではないのに、たいしたもの。
同じ報道によると、堀尾さんは、もう一通の新資料も発掘している。「同年12月5日付のマッカーサーから高柳賢三宛の書簡」。
「(憲法9条は、)世界に対して、精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原首相の先見の明と英知と経国の才とえい知の記念塔として永存することでありましょう。」
東京新聞はこの資料の影響を慎重にこう述べている。
「史料が事実なら、一部の改憲勢力が主張する『今の憲法は戦勝国の押しつけ』との根拠は弱まる。今秋から各党による憲法論議が始まった場合、制定過程が議論される可能性がある。」
「改憲を目指す安倍晋三首相は『(今の憲法は)極めて短期間にGHQによって作られた』などと強調してきた。堀尾氏は『この書簡で、幣原発案を否定する理由はなくなった』と話す。」
堀尾さんのインタビューでの回答がよい。
?幣原がそうした提案をした社会的背景は。
「日本にはもともと中江兆民、田中正造、内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で押しつぶされていたが、終戦を機に表に出た。民衆も『もう戦争は嫌だ』と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、パリ不戦条約に結実したように、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、先駆的な九条に結実したと考えていい」
?今秋から国会の憲法審査会が動きだしそうだ。
「『憲法は押しつけられた』という言い方もされてきたが、もはやそういう雰囲気で議論がなされるべきではない。世界に九条を広げる方向でこそ、検討しなければならない」
いまさら、「押しつけ憲法」でもあるまい。国民はこの憲法を日々選び取って、既に70年になるのだ。米国と、これと結んだ日本の保守層の改憲策動を封じての70年間は、「押しつけ憲法」論を色褪せたものにし、「勝ち取り憲法」論を日々新たにしている。
そもそも、いったい誰が誰に押しつけたというのだろうか。すべからく憲法とは、為政者にしてみれば、押しつけられるものである。
日本の国民が為政者に押しつけた憲法であったか。大局的に見て、強固な天皇制支配の大日本帝国が、敗戦と連合国の圧力がなければ、あの時期の日本国憲法制定に至らなかったことは誰もが認めるところであろう。これを「押しつけ」というのなら、素晴らしくも、何と有り難い「押しつけ」ではないか。
しかも、もっと大局的に見るならば、堀尾さんが述べたとおり、「日本にはもともと平和思想があり、民衆も『もう戦争は嫌だ』と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、平和憲法をつくった」と言えるだろう。
さらに、憲法9条は、GHQの押しつけではなく、当時の首相の発案であったことが明確になった以上は、もう「押しつけ」憲法観の押しつけも、蒸し返しもたくさんだ。
制憲議会における次の幣原喜重郎答弁がよく知られている。
「第9条は戦争の放棄を宣言し、わが国が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立って、指導的地位を占むることを示すものであります。(中略)文明と戦争とは結局両立しえないものであります。文明がすみやかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるでありましょう。私はかような信念を持って憲法改正案の起草の議にあずかったのであります」
彼の手記には、簡潔にこうあるそうだ。
「文明が戦争を撲滅しなければ
戦争のほうが文明を撲滅するでありましょう。」
既に核の時代、戦争を回避する以外に人類の生存はない、それが9条の精神なのだ。
幣原喜重郎に日本の保守政治家の良心を見る。ああ、いま日本の保守は落ちぶれて、アベとイナダが、幣原の理念を嘲笑し、「戦争をもって文明を撲滅」しようとしているのだ。
(2016年8月12日)
本日は日本民主法律家協会の第52回定時総会。かつてない改憲の危機の存在を共通認識として、国民的な改憲阻止運動の必要と、その運動における法律家の役割、日民協の担うべき任務を確認した。そのうえで、この大切な時期の理事長として渡辺治さんの留任が決まった。
総会記念のシンポジウム「東アジアの平和と日本国憲法の可能性」が、有益だった。パネラーは、中国事情報告の王雲海さん(一橋大学教授)と、韓国の事情を語った李京柱さん(仁荷大学教授)。お二人とも、達者な日本語で余人では語り得ない貴重な発言だった。その詳細は、「法と民主主義」に掲載になるが、印象に残ったことを摘記する。
王さんは、中国人の歴史観からお話を始めた。「近代中国の歴史はアヘン戦争に始まる」というのが共通認識。以来、帝国主義的な外国の侵略からの独立が至上命題であり続けている。だから、中国における「平和」とは、侵略を防いで独立を擁護することを意味している。改革開放路線も、「外国に立ち後れたらまた撃たれる」という認識を基礎とした、中国なりの「平和主義」のあらわれ。
1972年の国交回復後しばらくは、「日中蜜月」の時代だった。9条を持つ日本の平和主義への疑いはなく、日本の非平和主義の側面は米国の強要によるものという理解だった。それが、90年代半ばから、日本自身の非平和主義的側面を意識せざるをえなくなり、「尖閣国有化」以後は、「核武装して再び中国を侵略する国となるのではないか」という懐疑が蔓延している。一方、日本は予想を遙かに超えた経済発展の中国に対して、「中華帝国化」「海洋覇権」と非難している。
今、日中相互不信の危険な悪循環を断たねばならない。民主々義は衆愚政治に陥りやすい。ナショナリズムを煽る政治家やそれに煽動される民衆の意思の尊重ではなく、憲法原則としての平和主義が良薬となる。民主主義の尊重よりは、立憲主義を基礎とした平和主義の構築こそが重要な局面。「市民」ではなく、法律家や良識人の出番であり、その発言と民意の啓蒙が必要だと思う。
李さんは、「たまたま本日(7月27日)が朝鮮戦争停戦協定締結60周年にあたる」ことから話を始めた。朝鮮戦争当時南北合計の人口はおよそ3000万人。朝鮮戦争での戦争犠牲者は、南北の兵士・非戦闘員・国連軍・中国軍のすべて含んで630万余名。産業も民生も徹底して破壊された。当時マッカーサーは、「回復には100年以上かかるだろう」と言っている。朝鮮半島の平和の構築は、このような現実から出発しなければならなかった。
それでも、南北の平和への努力は営々と積みかさねられ、貴重な成果の結実もある。南北間には、1991年の「南北基本合意書」の締結があり、南北の和解の進展や不可侵、交流協力について合意形成ができている。92年には「韓半島非核化に関する共同宣言」もせいりつしている。そして、国際的な合意としては、2005年第4次6者会談における「9月19日共同声明」がある。ここでは、非核化と平和協定締結に向けての並行推進が合意されている。一時は、この合意に基づいた具体的な行動プログラムの実行もあった。
しかし、今、南北の関係は冷え切ったどん底にある。平和への道は、9・19共同声明と南北基本合意書の精神に戻ることだが、それは日本国憲法の平和主義を基軸とする「東アジアにおける平和的な国際関係構築の実践過程」である。その観点からは、日本における9条改憲と集団的自衛権容認の動きは、朝鮮半島の平和に悪影響を及ぼす。
王さんも李さんも、日本国憲法9条の平和主義にもとづく外交の重要性を語った。平和主義外交とは、相互不信ではなく、相互の信頼に基づく外交と言い換えてもよいだろう。会場から、浦田賢治さん(早稲田大学名誉教授)の発言があり、「日本外交の基本路線は、アメリカ追随の路線ではなく、独自の軍事力増強路線でもなく、憲法9条を基軸とした平和主義に徹した第3の路線であるべき」と指摘された。
中・南・北・日のすべての関係国が、「他国からの加害によって自国が被害を受けるおそれがある」と思い込む状況が進展している。ここから負のスパイラルが始まる。これを断ち切る「信頼関係の醸成」が不可欠なのだ。憲法9条墨守は、そのための貴重な役割を果たすことになるだろう。9条の明文改憲も、国家安全保障基本法による立法改憲も、そして集団的自衛権行使を認める解釈改憲も、東アジアの国際平和に逆行する極めて危険な行為であることを実感できたシンポジウムであった。
(2013年7月27日)