本日(9月15日)13時10分、東京地裁527号法廷において、東京「君が代」裁判(4次訴訟)の判決が言い渡された。
東京「君が代」裁判は、悪名高き「10・23通達」関連訴訟のメインをなす懲戒処分取消訴訟で、今回の判決は原告14名の教職員が、延べ19件の処分取消を求める行政訴訟。係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)で、提訴は2014年3月17日のこと。
地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。今回の原告ら14名が取消を求める処分の内訳は、以下のとおりである。
《停職6月》 1名 1件
《減給10分の1・6月》 2名 2件
《減給10分の1・1月》 3名 4件
《戒告処分》 9名 12件
計 14名 19件
判決は、減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。これは目出度いと言わねばならない。
しかし、判決は戒告処分(9名についての12件)については、取り消さなかった。これは無念というほかない。
原告の中で最も注目されていたのがQさん。Qさんが取消を求めた懲戒処分は、以下のとおり5件ある。
1回目不起立 戒告
2回目不起立 戒告
3回目不起立 戒告
4回目不起立 減給10分1・1月
5回目不起立 減給10分1・1月
公権力による教員に対する、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制が違憲であれば、懲戒の種類・量定を問うことなく、すべての処分が違法として取り消されることになる。Qさんに対する5件の処分もそのすべてが取り消されることになるが、そうはならなかった。
また、必ずしも違憲論に踏み込まずとも、戒告処分を含む全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことは可能であった。これが6年前の1次訴訟控訴審の東京高裁『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させている。しかし、これも本日の判決が採用するにいたらなかった。
だから、戒告処分は維持された。Qさんの戒告3件も取り消されることなく維持された。以上が無念と言わざるを得ない側面。
しかし、Qさんの4回目不起立、5回目不起立に対する、減給10分1・1月の処分はいずれも、重きに失するとして処分裁量の逸脱濫用にあたると判断された。その結果違法として取り消された。これが、目出度い側面。
判決は「争点10」として、「本件職務命令違反を理由として減給または停職の処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無」を判断している。
まず、一般論としては、次のように述べる。
「減給処分は,処分それ自体の効果として教職員の法的地位に一定の期間における本給の一部の不支給という直接の給与上の不利益が及び,停職処分も,処分それ自体によって教職員の法的地位に一定の期間における職務の停止及び給与の全額の不支給という直接の職務上及び給与上の不利益が及ぶうえ,本件通達を踏まえて卒業式等の式典のたびに懲戒処分が累積していくおそれがあることなどを勘案すると,起立斉唱命令違反に対する懲戒において減給又は停職の処分を選択することが許容されるのは,過去の非違行為による懲戒処分等の処分歴や不起立行為等の前後における態度等(以下,併せて「過去の処分歴等」という。)に鑑み,学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの「相当性を基礎付ける具体的な事情」が認められる場合であることを要すると解すべきである。そして,……「相当性を基礎付ける具体的な事情」があるというためには,過去の処分歴に係る非違行為がその内容や頻度等において規律や秩序を害する程度の相応に大きいものであるなど,過去の処分歴等が減給又は停職処分による不利益の内容との権衡を勘案してもなお規律や秩序の保持等の必要性の高さを十分に基礎付けるものであることを要するというべきである(平成24年最高裁判決参照)。」
判決は、以上の一般論をQさんに適用すると次のようになると結論する。
「原告Qが起立斉唱命令を拒否したのは,自らの信条等に基づくものであること,各減給処分の懲戒事由となった本件職務命令違反のあった卒業式等において,原告Qの不起立により,特段の混乱等は生じていないと窺われることをも考慮すると,原告Qの前記職務命令違反について、減給処分(10分の1・1月)を選択することの「相当性を基礎づける具体的な事情」があるとまでは認めがたい。」
つまり、こういうことだ。
減給や停職処分を選択するには、この重い処分を選択するについての「相当性を基礎付ける具体的な事情」が必要であるところ、被懲戒者の行為が、
(1)自らの信条等に基づくものであること、
(2)卒業式や入学式等に特段の混乱等は生じていないこと、
という2要件を考慮すれば、「相当性を基礎付ける具体的な事情」は認めがたい、というのだ。
本日の判決は、教員の不起立が「自らの信条等に基づくものであること」を、裁量権の逸脱・濫用判断の積極要件とした点において、一定の評価が可能というべきである。
だから、我々にとっては、残念・無念だけでない、中くらいの目出度さもある判決なのだ。
一方、都教委から見れば、今日の判決の衝撃は大きい。
都教委は、Qさんの4回目・5回目の不起立に敢えて挑発的な減給を選択して、いずれも敗れたのだ。大いに恥じ、大いに反省しなければならない。教育行政を司る機関の行為が、違法として取り消されたことの重大性を深刻にとらえなければならない。
戒告を違法としない最高裁判決も、もけっして戒告処分を結構だとしているわけではない。「当不当の問題はともかく」として、違法とまではいえないと言っているのだ。
都教委は、思想・良心の侵害をやめよ。教育の場に、国家主義のイデオロギーを持ち込むことをやめよ。
(2017年9月15日)
明後日(9月15日)13時10分、東京地裁527号法廷において、東京「君が代」裁判(4次訴訟)の判決言い渡しがある。その後14時30分からは、日比谷公園内の「日比谷図書文化会館」地下1階大ホールで「判決報告集会」が開かれる。ぜひ、多くの方々にご参加いただきたいと思う。
東京「君が代」裁判は、悪名高き「10・23通達」関連訴訟のメインをなす懲戒処分取消訴訟で、今回の判決は原告14名の教職員が、延べ19件の処分取消を求める行政訴訟。係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)で、提訴は2014年3月17日のこと。
原告ら14名が取消を求める処分は、最も軽いものが《戒告》、最も重いものが《停職6月》となっている。
内訳は、
《戒告処分》 9名 12件
《減給10分の1・1月》 3名 4件
《減給10分の1・6月》 2名 2件
《停職6月》 1名 1件
計 14名 19件
以上の数字が合わないように見えるのは、複数件の処分を争う原告もあり、《戒告処分》と《減給10分の1・1月》の処分を重複して受けている原告も一人いるから。
私たちは、14原告に対する19件の、戒告処分を含む全処分が取り消されなければならないと確信している。それが、日本国憲法の命じるところだからである。
戦前の天皇制国家や、現代なお続く軍国主義や国家主義の国家、あるいは個人崇拝の独裁国家の真似をして、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制など滑稽の極みではないか。
そもそも、首相であろうと文科大臣であろうと、あるいは都知事であろうと都教委であろうと、国民の僕であるはずの公的機関が、教育公務員を含む国民に向かって、「国家に対して敬意を表明せよ」と強制することなどできるわけがないのだ。そんなことの強行は、価値倒錯であり背理だ。
また、憲法19条(思想・良心の自由)、20条(信教の自由)、23条(教員の専門職としての自由)、26条(教育を受ける権利の保障)が保障する原告たちの基本権の侵害は明らかに違憲である。さらに、教育基本法16条(旧法10条)が定める教育に対する公権力の不当な支配としても許されない。
これまで最高裁は頑なに違憲判断を回避してきた。私たちは、もう一歩のところまで肉薄はしてきたが、2006年9月の予防訴訟一審の『難波判決』を除いて、違憲判決を勝ち取ることができていない。
しかし、最高裁判決は変更されなければならない。今回の訴訟においても、多角的に違憲論を展開してきた。裁判所の真摯な姿勢での審理はあった。これに続く真っ当な判断に期待したい。
仮にの話だが、担当裁判所が最高裁判決の「論理」にとらわれて、違憲判決は出せないとした場合でも、全原告の全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことができる。これが6年前の東京高裁1次訴訟控訴審の『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させているのだから。
さらに仮定の話として、担当裁判所が戒告処分の限りでは違憲ではなく、裁量権の逸脱濫用もないと判断したとしても、最高裁判決の論理に従えば、減給以上の過酷な懲戒処分は、すべて裁量権の逸脱濫用として違法となる。《減給》《停職》の処分すべてが取り消されなければならない。
都教委は,「国家へ敬意を表する態度」を取らなかったこと、すなわち国旗に向かって起立し国歌を斉唱しなかったことを理由として、原告ら教職員に、戒告・減給等の懲戒処分を科してきた。このような懲戒処分は毎年、卒業式・入学式のたびに繰り返され、しかも累積すれば処分は加重されることになる。こうして職務命令違反として懲戒処分された教職員は、延べ480名余にのぼる。
これまでの最高裁判決は、国歌斉唱時に起立斉唱を命じることが思想信条の自由に対する間接的な制約であることを認め、起立斉唱命令が直ちに違憲とまではいえなくとも、各原告の有する思想・良心と一定の緊張関係を持つことは否定できず相応の配慮が必要であることまでは認めている。のみならず、教職員の不起立行為は積極的に卒業式等の進行を妨害したとはいえないこと、減給など実害をともなう懲戒処分は教職員に多大な不利益をもたらすものであることから、不起立行為等を理由として原告らに減給以上の懲戒処分を科すことは、社会観念上著しく妥当を欠き重きに失することから懲戒権の範囲を逸脱・濫用したものであるとして、懲戒処分の取り消しを命じている。
その限度で、最高裁判決は積極的な意義をもつものである。石原慎太郎都政下における都教委の強権的「日の丸・君が代」強制政策に大きな頓挫をもたらした。しかし、けっして憲法の命じるところにしたがって、「日の丸・君が代」強制は違憲で無効とは言っていない。その違憲判決を勝ち取るまで、東京「君が代」裁判は続くことになる。
今回判決を迎える事件が4次訴訟である。これまでに、1次訴訟(原告数173)、2次訴訟(原告数67)、そして3次訴訟(原告数50)があった。さらに続く5次訴訟の対象処分も行われ、提訴の準備もなされている。
これは、紛れもなく、公権力に抗って思想良心の自由を擁護する歴史的な闘いであり、教育に対する権力による不当な支配を排除する抵抗運動でもある。
私は思う。司法も問われているのだ。その本来の使命を全うしているか否かを。9月15日判決にご注目いただきたい。東京地裁が、果たして憲法に定められた人権の砦としてのその本来の使命を全うしているか、あるいは権力の走狗となってはいないかを。
(2017年9月13日)
本日(9月6日)服務事故再発防止研修を命じられているBさんを代理して、弁護士の澤藤から東京都教育委員会とセンター職員の皆様に、2点を訴えます。
第1点は、思想・良心の自由とはいったい何かということです。そのことを通じて、思想・良心の自由の大切さをご理解いただきたい。
すべての国民は人として尊重されなければなりません。しかし、それだけでは足りません。十分ではないのです。すべての国民は、単に人として遇されればよいということにはなりません。それぞれが個性をもった他ならぬ自分として尊重されなければならないのです。他の人とは違ったかけがえのない自分という存在として尊重され、受け容れてもらわねばなりません。
すべての人が、自分が他の人とは区別された自分である証し、つまりはそれぞれの人の個性とは、具体的にはそれぞれの人が他の人とは違って持っている、その人のものの考え方や感じ方、価値感のあり方を意味します。
日本国憲法は、このことを、「すべて国民は個人として尊重される」と原理的に確認し、国民個人の多様な思想および良心について、「これを侵してはならない」と定めているのです。
「これを侵してはならない」。そのように、主権者が公権力に命令をしているのです。ですから、東京都教育委員会は、生徒の多様な思想・良心の自由も、教員の思想・良心の自由も、けっして「これを侵してはならない」のです。
強調すべきは、この侵してはならないという思想・良心とは、公権力が不都合ととする内容であって初めて意味を持つということです。公権力にとって好都合で、現政権を持ち上げ、東京都の方針や東京都教育委員会の政策に迎合する内容の思想・良心については、「侵してはならない」などと命じる必要はなく、なんの意味もありません。
国民の思想・良心は多様です。多様な思想・良心・価値観・倫理観が、公権力に不都合なものも含めて、むしろ公権力に不都合なものであればこそ、尊重されなければなりません。とりわけ、信仰、国家観、歴史観、教師としての教育観などについては、行政は意識してその多様性を尊重して運用されなければなりません。いやしくも、国家や自治体や、もちろん教育委員会が、特定の思想・良心を公的に認定してこれを強制したり、不都合な思想・良心を弾圧することは許されないのです。
東京都教育委員会は、国家主義の立場から、国民は国旗国歌ないし日の丸・君が代に対しては敬意を表すべきであるという考えをもっています。しかし、それは飽くまで多様な考えの一つでしかありません。しかも、日本国憲法の理念よりは大日本帝国憲法に親和性のある相当に偏った立場。こんな考え方を都内のすべての生徒やすべての教職員に押しつけることは本来できないこと、してはならないことなのです。
本日の服務事故再発防止研修において、このような考えに基づいて、Bさんに説得しようとすれば、たちまち新たな違憲違法の問題が生じます。このことが私の訴えの第2点となります。
私たちの国の歴史は、思想・良心あるいは信仰の自由という価値を重視してきませんでした。私たちの国の権力者は、他の国の権力者にも増して、思想や信仰の弾圧を続けてきました。
中でも、江戸時代初期に広範に行われた「踏み絵」と、戦前の治安維持法体制下での天皇制イデオロギー強制が、恐るべきものだったといわねばなりません。いずれも、権力が憎む思想を徹底して弾圧しました。
今東京都教育委員会が行っている日の丸・君が代強制は、幕府の踏み絵や、天皇制警察の思想弾圧と質において変わるものではありません。
そこで、センター職員の皆さん。皆さんに、ご自分の立場をよく見つめていただきたいのです。あなた方の今日の立場は、思想・良心に直接鞭打つものとして、踏み絵を実行した幕府の役人と同じ役回りなのです。特高警察と同じともいわねばなりません。そのことを、十分に自覚していただきたい。
憲法97条には、こう書かれています。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である」と。この「自由獲得の努力」は、今もなお、続けられています。本日研修の対象となっているBさんは、まさしく身を挺して、自由獲得の努力をしているのです。
都教委は明らかに幕府や天皇制権力と同様に、「人類の自由獲得の努力」を妨害する側にいます。そして、センター職員の皆さん。あなた方も客観的には同じ立場なのです。あなた方は、今、この柵の向こう側にいることを恥じなければならない。せめて、その自覚に立って、自由獲得の努力を続けているBさんに敬意をもって接していただくよう、心からお願いいたします。
(2017年9月6日)
「ほっととーく」という、手作り感満載の定期刊行物が毎月郵送されてくる。
「『良心・表現の自由を!』声をあげる市民の会」の会報で、標題の上に「『日の丸・君が代』の強制に反対し、渡辺厚子さんの戒告・減給・停職処分撤回を求める」とスローガンが掲記されている。日の丸・君が代強制に反対する運動の最前線にあり続けている渡辺厚子さん支援の趣旨なのだ。
良心の自由は今は逼塞させられている。その良心を表現する自由も窮屈だ。その良心と表現の自由を市民が支えて、みんなで声をあげよう。その思いが、この「ホットトーク」の中に詰まっている。
B5版の全12ページ。2017年8月27日付の最新号が、通算で第142号。会の発足が2002年12月、会の最初の集会が2003年1月だとのこと。以来、14年8か月、「ほっととーく」の刊行は続いてきたのだ。その息の長い活動に感服するしかない。
しかも、毎号なかなかの充実ぶりだ。日の丸・君が代強制に反対する運動が、実は裾野の広い思想に支えられ、多くの対決点をもっていることを教えている。
今号の主だった記事をご紹介しておきたい。
**************************************************************************
企画の案内が盛りだくさん。
まずは、会が主催する「壊憲NO! 戦争NO! 命輝く社会へ! 11・4集会」の案内。メインの講演者は、森川輝紀さん(埼玉大学名誉教授・教育史)、演題は「ナショナリズムと教育ー「教育勅語」「国民道徳」への道ー」。
その企画の趣旨説明はかなりの長文。さわりだけを抜き書きすれば、
「主権が天皇から国民に移って70年たつというのに,今,天皇制国家教育の精神的支柱であった教育勅語が,再び政治主導で教育にはいり込もうとするとは,いったい戦後とは何だったのかと自問する人が少なからずいるのではないでしょうか。」
「長年教育史を研究してこられた森川輝紀さんをお招きし,戦前・戦中そして戦後の教育とナショナリズム,とりわけ「教育勅語」「道徳」についてたっぷりお話を伺うことにいたしました。」
「卒業式での「日の丸・君が代」の強要は、今や3・10、3・11、そして8・15の半旗・黙祷へと拡大されています。災害を利用して、或は戦争被害者を利用して、国家や国家シンボルヘの敬愛と従属をすりこもうとしているのです。」
「安倍政治の柱は教育と安保です。着々と戦争国家化を進め、改憲を粛々と準備しているのです。」「こうした中、森川輝紀さんのお話は、きっと多くの示唆と勇気を与えてくれると思います。誠実な研究者の「知」を共有させていただきましょう。」
11月4日(土)開場13時 開会13時30分
開場は、飯田橋のセントラルプラザ10階 「ボランティアセンター会議室」
次いで、東京「君が代」第4次訴訟の東京地裁判決日が9月15日(金)であることのお知らせと支援の要請。
東京「再雇用拒否」第3次訴訟 最高裁事件の支援の要請。
学校に自由と人権を! 10・22集会のご案内
西元利子「哭する女たち」展(韓国従軍慰安婦絵画)案内
**************************************************************************
渡辺さんご本人が、「金子文子忌」の一文を掲載している。
金子文子の91回忌にあたる7月23日、その生き方に惹かれる人々60人ほどが、故地牧丘(山梨県)の歌碑に集い、献花の後研究者からの最新の報告を聞く機会をもったとのこと。例年のことだという。それは知らなかった。
「朴烈大逆事件」は松本清張の昭和史発掘で知られている。瀬戸内晴美も小説の題材にしている。金子文子は朴烈の妻(内縁)で、朴烈とともに大逆罪で死刑判決を受けた女性。わずか23年の凄絶な生涯。
大逆罪の法定刑は死刑のみである。未遂だろうが予備陰謀だろうが死刑。しかも、管轄は大審院の一審のみ。これが天皇制を支えた恐怖の法制である。歴史上大逆罪の起訴は4件ある。幸徳秋水事件以上に、朴烈事件の起訴事実は根も葉もない完全なでっち上げだったとされている。
死刑宣告の直後に、「慈悲深い天皇」の恩赦によって無期懲役に減刑とされ、死刑の執行はなかったが、文子は間もなく監房で死んでいる。縊死(自殺)と公表されたが、当時から怪しまれ、真相の究明は妨害されたまま今日まで闇の中である。
渡辺さんは、こう述べている。
「文子に惹かれる理由は、鋭い感性と純真に煮詰める思想、だろうか。天皇制、ジェンダー、戸籍、国家と個人、朝鮮人と日本人、個人の自立と連帯、教育、格差、権力欲、求める社会。考え抜いた思想がそこにはある。文子は『私は私』と立っていた。」
**************************************************************************
俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21)の「教育出版小学校道徳教科書問題について」という長文の談話が掲載されている。これも、国旗・国歌(日の丸・君が代)問題に関わる。そして安倍政権の問題点があぶり出されている。
さらに、「一編集者から」という松本昌次さんの連載寄稿。今号は、№31「野党もメデイアも諦めずに」というもの。
「2020年 地方自治体非正規労働者雇用に大変動のおそれ」という、連帯労組板橋区パートからの支援要請もある。
最終ページが高根英博さんのマンガ。「『日の丸・君が代』わたなべーだ」という標題で、8コマの哲学マンガ。内容は、政権批判、天皇制批判、差別批判。これが、連載第128回だ。
**************************************************************************
中に、「自由と平和のための京大有志の会」の声明書が転載されている。有名になったもので、私も目を通していたが、その平仮名バージョンは知らなかった。これをご紹介しよう。
わたしの『やめて』
くにとくにのけんかをせんそうといいます
せんそうは「ぼくがころされないように さきに ころすんだ」
という だれかの いいわけで はじまります
せんそうは ひとごろしの どうぐを うる おみせを もうけさせます
せんそうは はじまると だれにも とめられません
せんそうは はじめるのは かんたんだけど おわるのは むずかしい
せんそうは へいたいさんも おとしよりも こどもも くるしめます
せんそうは てや あしを ちぎり こころも ひきさきます
わたしの こころは わたしのもの
だれかに あやつられたくない
わたしの いのちは わたしのもの
だれかの どうぐに なりたくない
うみが ひろいのは ひとをころす きちを つくるためじやない
そらが たかいのは ひとをころす ひこうきが とぶためじやない
げんこつで ひとを きずつけて えらそうに いばっているよりも
こころを はたらかせて きずつけられた ひとを はげましたい
がっこうで まなぶのは ひとごろしの どうぐを つくるためじやない
がっこうで まなぶのは おかねもうけの ためじやない
がっこうで まなぶのは だれかの いいなりに なるためじやない
じぶんや みんなの いのちを だいじにして
いつも すきなことを かんがえたり おはなししたり したい
でも せんそうは それを じやまするんだ
だから
せんそうを はじめようとする ひとたちに
わたしはおおきなこえで 「やめて」というんだ
じゆうと へいわの ための きょうだい ゆうしの かい
この市民の運動の充実ぶりが頼もしい。良心を支え、表現の自由を実現する支えになっているではないか。このような市民運動の試みが積み重なって、よりよい社会を作ることになるのだと思う。
なお、会にはささやかながらもホームページがある。URLは下記のとおり。
http://hotmail123.web.fc2.com/
(2017年9月4日)
午前9時。水道橋の東京都教職員研修センター正門前で「被処分者の会」主催の抗議と激励の集会が始まる。9時10分、私がマイクを取って、センターの総務課長に申し入れを行った。私が敷地の外、総務課長が内側で対峙する位置関係。総務課長への語りかけだが、私の呼びかけ先は課長の背後にいる教育長であり都知事である。
《都立高校教員のAさんを代理する立場で、弁護士の澤藤から、東京都教育委員会と都知事に対して、そして、本日研修を担当されるセンター職員の皆さんにも、抗議と要請とを申し上げる。
都教委は、Aさんに対する「服務事故再発防止研修」の受講を命令し、本日(8月29日)これから、その研修が実施されようとしている。研修受講命令発令の理由は、今年3月の卒業式において、Aさんが「君が代」斉唱時に起立しないことで戒告処分を受けたこととされている。
都教委は、「君が代」不起立が研修を実施することによって再発防止が可能な「服務事故」であると考えていることになる。しかし、この考え方にはいくつもの大きな間違いがある。
なによりも、「君が代」斉唱の強制が間違いといわねばなならない。威儀を正して国歌を唱えという命令は、日本という国家に敬意を払えという命令にほかならない。しかし、国家と個人の関係をどうとらえるかは、優れて個人の価値観に関わる問題として、国家が特定の立場を強制してはならない。私たちは、国家主義・軍国主義の時代の苦い歴史的教訓を踏まえて、現行憲法を制定し、個人の尊厳は国家を凌駕するものだという大原則を確認している。そして、個人の尊厳に関わる基本権として、「思想・良心の自由」を精神的自由権条項群の冒頭に憲法第19条として書き込んだのではなかったか。これを忘れてはならない。ましてや、教育の場で、特定の価値観を押しつけることなどあってはならない。
教員一人ひとりには、その人なりの国家観や歴史観があり、また教育観がある。さらに、歴史的に日の丸や君が代が果たした役割についても、さまざまな見解がある。それをすべて切り捨てて、日の丸・君が代を強制することは、思想を統制することにほかならない。これに従えないとする教員に対する懲戒処分は、思想弾圧であり、良心に鞭打つものと言わざるを得ない。
特に申しあげたいのは、懲戒処分にともなう再発防止研修の本質についてである。都教委がプログラムした説示や説得によって、日の丸・君が代強制を受容しない態度や考え方をあらためよ、ということではないか。これは、自らの思想・信念や良心に基づいて日の丸・君が代強制には服しがたいとする教員に対する、直接的な思想的転向の強制であり、良心に鞭打って、その屈服を促す行為というほかはない。
Aさんは、自らの信念と良心の声に忠実であったことから、今日これから、この場で、反省を迫られようとしている。しかし、Aさんの行為に反省すべきところはない。むしろ、反省すべきは都教委ではないか。国民の思想・良心を蹂躙していること、教育の場に国家主義を持ち込んでいることを、憲法や教育基本法に照らして反省しなければならない。
以上の理由をもって、憲法に保障された「思想・良心の自由」と「教育の自由」を踏みにじる都教委の「再発防止研修」の強行に満身の怒りを込めて抗議する。
飽くまでも、この違憲違法の研修の中止を求めるが、仮に実施するにしても、絶対にAさんの良心に鞭打つような行為があってはならない。Aさんは、教員としての本分を尽くすことを真摯に考え、煩わしさや不利益を覚悟して、自分の良心を貫くことを決意して、今ここにいる。
本日の研修を担当するセンター職員諸君、Aさんには敬意をもって接していただきたい。あなた方にも、教育に携わる者としての矜持があろうことを期待したい。Aさんには、ぜひとも尊敬の念を失わず、礼を失しない態度をもって接していただくようお願い申しあげる。》
(2017年8月29日)
スポーツは多彩だ。多彩なだけに、スポーツがみな見て面白いというわけでもない。
アメリカンフットボールなるもの、私には面白いともおかしいとも思えない。ところが、アメリカでは、これが最大の観客を集めるビッグスポーツなのだそうだ。プロリーグ(NFL)が一大産業であるだけでなく、大学アメリカンフットボールがまた盛んで、プロリーグの隆盛を支えているともいう。この人気が米国内に限られているのが興味深い。アメリカンフットボール世界大会などもあるようだが、注目度は極めて低い。盛りあがるのはNFLの国内試合だけ。
そのNFLの試合の都度、国旗(星条旗)を掲揚して、国歌(The Star-Spangled Banner)を唱うのが慣例のようだ。このときの国旗・国歌とはどんな作用を果たしているのだろうか。
国旗国歌の象徴としての作用には、対外的な識別機能と対内的な統合機能があると説かれる。NFLの場合、国際試合ではないのだから識別機能は問題とならず、もっぱら対内的な統合機能だけが働くことになる。
両チームとその応援者そして大観衆が、一つの旗を注視し、一つの歌を唱うことによって、情緒的な集団的一体感を醸成する。その一体感は、旗や歌が象徴する国家という抽象的な存在に集中する。まさしく国家に統合されることとなる。
かくして、NFLの試合のたびに、国旗と国歌の国民統合作用が多くの国民に印象づけられることになる。このスポーツの一大イベントは、国旗国歌を中心とする、一大国民意識確認セレモニーであるのだ。
だが、選手と観衆のすべてが、このような国民統合に肯定的であるとは限らない。そもそも国家という存在に個人が絡めとられることを潔しとしない立場もあろうし、国旗国歌を今ある現実の国家の象徴ととらえて、現政権への批判の立場から、国旗国歌への敬意の表明を拒絶するという立場もある。
とりわけ、国家が差別を容認するとき、差別される側は、とうてい国家に敬意を表することはできない。国民の一体が喪失され、差別する側の国と意識したとたんに、差別する側の国を象徴する旗や歌に敬意を表することはできなくなる。
ことは差別だけではない。国民として国家の不合理を容認し得ないとき、とうていその国の国旗も国歌も受け容れがたいこととなる。そのとき、国旗国歌を拒絶することが思想の表明行為となる。
人種差別を容認したトランプ政権への抗議が、NFL選手の国歌斉唱拒否の行動に表れているという。そのことを一昨日(8月23日)の近藤徹さんの、下記メールで教えられた。近藤さんは、「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」の事務局長。定年前は英語の先生だから、いち早く、米国の情報をキャッチして伝えてくれる。
■2人の白人選手、NFLでこれまで最大の国歌斉唱時の抗議に加わる?ブラウンズの選手たち
*報道されていない必見の注目ニュース。
↓
アメリカ・インターネットニュース”SALON”
http://www.salon.com/2017/08/22/browns-national-anthem-protest-kneel/#.WZ0Qw
pdzpNc.facebook
日本のどの新聞も報じていない注目のニュースです。
米プロフットボールリーグ(NFL)で人種差別に抗議して国歌斉唱を拒否する動きが広がっている。
シーホークスのベネット選手が国歌斉唱を拒否してベンチに座り続けて抗議した(既報)のに続き8月21日(米時間)、今度はクリーブランド・ブラウンズの10名の選手がニューヨーク・ジャイアンツとの試合前の国歌斉唱時にひざまづいて人種差別に抗議の意思を表した。
これは「NFL史上最大のデモンストレーション」で、しかもこれも史上初だが、白人選手2名が黒人のチームメートに加わった。人種差別に抗議する黒人選手と白人選手の連帯の行動に拍手を送りたい。
上記”SALON”によると、10名の選手たちが、国歌演奏中輪を作って、祈る形で互いの肩に手を置いた。加えて5名の選手が立ったまま、ひざまづいているチームメートの肩に手を置き、連帯を表明した。何と計15名のブラウンズの選手が公然と抗議を表明し、内2名が白人だったのだ。
なお、この膝をつくポーズ(“ニーダウン”)は、2016年8月、NFLのサンフランシスコ・フォーティーナイナーズのコリン・キャパニック選手がとったポーズと同じだ。
今後もこうした人種差別に抗議する行動がアメリカのスポーツ界に広がるかも知れない。
近藤さんは、「卒入学式で『君が代』斉唱時に起立せず、不当にも都教委に処分され、処分撤回を求めて裁判を闘っている私たちも励まされる。」とも言っている。
近藤さんが、メールを送信した頃は、「報道されていない必見の注目ニュース」だったが、その後幾つかの記事が出ている。
たとえば、スポニチ。詳細な報道になっている。
「NFLは21日にオハイオ州クリーブランドでプレシーズンの1試合を行ったが、ホームチームでもあるブラウンズの11選手が国歌斉唱の際、膝をついて整列しなかった。
“ニーダウン”したのはRBデューク・ジョンソンJR(23歳)、ジェイミー・コリンズ(27歳)、QBディショーン・カイザー(21歳)といったアフリカ系アメリカンの選手が中心。しかし白人でプリンストン大出身のTEセス・ディバルブ(24歳)もこの輪の中に加わっており、NFL選手による抵抗運動は人種に関係なく拡大する気配を見せている。
この行動は警察官による黒人射殺事件が続いた昨年からBLM(BLACK LIVES MATTER=黒人の命も大切)というフレーズとともに顕著になり、49ersのQBコリン・キャパニック(29歳)らはシーズン通して試合前に無言の抵抗を続けていた。今月になって白人至上主義団体をめぐるトランプ大統領の対応が各地で批判を浴び、昨年とは違った要因でNFLにBLM運動が再燃している。」
メキシコオリンピック(1968年)時の米黒人選手の黒人差別への抗議の行動が印象に深い。男子200メートル競争を世界記録で優勝したトミー・スミスと3位のジョン・カーロスが、表彰式でアメリカ合衆国国歌が流れて星条旗が掲揚される間、壇上で首を垂れ、黒い手袋をはめた拳を空へと突き上げていた。あれが、“ブラックパワー・サリュート”だった。アメリカ公民権運動で黒人が拳を高く掲げ黒人差別に抗議する示威の姿勢である。
“ニーダウン”も“ブラックパワー・サリュート”も、国家に対する抗議の行動。NFLのニーダウンは全米注視のなかで、トミー・スミスのブラックパワー・サリュートはオリンピックの表彰式というこの上ない晴れ舞台でのパフォーマンス。国家の象徴が国旗と国歌なのだから、具体的な抗議の行動の対象が、国旗国歌とならざるを得ない。強力な国家に対する象徴的な抗議の行為が、国旗国歌への敬意表明の拒絶となるのだ。
国家に対する国民の抵抗も抗議の行動も止めようがない。アメリカに人種差別が存在する限り、政権が差別を容認する姿勢である限り、“ニーダウン”も“ブラックパワー・サリュート”も続くことにならざるを得ない。
ひるがえって、都教委の「10・23通達」に基づく日の丸・君が代強制への不服従。こちらは、教員の思想や良心の救済行為としての貴重な抵抗である。この魂の抵抗も、教育の場での理不尽な強制が続く限りけっして途絶えることはない。国家の横暴に対する個人の良心の抵抗の灯はこの上なく貴重なものである。これを消してしまうようなことがあってはならない。多くの心ある人々の手で、守り抜いていかなければならないと思う。
(2017年8月25日)
ラジオが元気だ。とりわけ、TBS。森本毅郎、荻上チキ、そして久米宏。多彩なパーソナリティが魅力的だ。
「久米宏 ラジオなんですけど」は毎週土曜日午後1時からの放送。俄然注目されているのは、6月17日の「リスナー国民投票 東京オリンピック・パラリンピック、今からでも返上するべき?」というテーマでの放送があったから。
この「国民投票」は2度目だそうだ。あと3年に迫った「2020年東京オリンピック・パラリンピック」、「今からでも返上すべき」か、それとも「このまま開催すべき」か。投票結果を、番組のホームページは次のように伝えている。
常々「東京オリンピック」には反対を表明しているパーソナリティの番組…とはいえ、最終的に2000票を超える投票が集まる中、実に8割を超えるリスナーが「返上」への支持を表明するという結果となりました。また、年代が高くなるほど「返上」の割合が高まっていくという傾向も見えました。ご投票いただいたみなさん、ありがとうございます。
全体の投票結果は、以下のとおりだったという。
投票総数:2193票
東京オリ・パラ、今からでも返上するべき:83%
開催すべき:17%
もちろん、これが世論の分布と同一であるはずはない。リスナーも、投票者も、バイアスをもっている集団であることは間違いない。しかし、それにしても、この数字刮目すべきではないか。どこか大手紙が、母集団を都民全体とした調査をしてみてはどうだろうか。正確に、これだけ金がかかる、これだけの問題点があることを明示して。案外、返上派が多数になるかもしれない。
私の実感としては、東京オリンピックに市民の支持の熱意は希薄である。「施設の建設や運営にこんなに金がかかるのなら、無理にやるほどのことではない」というのが、平均的な感覚ではないだろうか。「石原都政以来、オリンピック誘致と関連計画は、利権がらみの胡散臭さがつきまとう。とうてい歓迎いたしかねる」という意見も、おそらくは過半の人のものだ。オリンピックはうるさい。混雑する。交通規制は迷惑だ。治安も心配。どうしてこんなものをわざわざ東京にもってきたのか。歓迎派は、儲けを当て込む輩と、暗示に弱い幼児だけだろう。
明らかに、ポピュリストたちが東京オリンピックを煽っている。とりわけ、安倍晋三と小池百合子。そして、多くの企業がこれに便乗して儲けようといる。操られ、むしられているのが、都民であり、国民ではないか。東京オリンピック反対は、市民の意識革命だ。久米宏の言に、精一杯のエールを送りたい。
以上が第1幕。その話題性に着目して、日刊ゲンダイが久米宏のインタビュー記事を掲載した。これが第2幕。7月31日のことだ。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/210304
この第2幕が滅法面白い。反権力の痛快さだけではなく、本質を衝いた議論になっている。こうなると、久米宏だけでなく、日刊ゲンダイの元気な姿勢にも拍手を送りたい。
長いインタビューで、論点は多岐にわたっているが、「酷暑のオリンピックは非常識」、そして「『今更やめられない』と言ってはならない」の2点が白眉。「安倍晋三の国際的な詐欺的演説で誘致した東京オリンピックだから歓迎はしかねるが、ここまで準備が進行したのだから、今更止めるわけにはいかないだろう」という多くの良識派に、久米の舌鋒が鋭い。そのような市民の消極姿勢が、現体制を利することになるという指摘だ。
久米宏独壇場のさわりをご紹介する。
――この季節、東京はうだるような暑さが続いています。
競技を行うには暑すぎます。台風も来るし。日本にとって最悪の季節に開催するのは、アメリカ3大ネットワークのごり押しをIOCが聞き入れているだけ。今からでもIOCに10月に変えてと懇願すべきです。
――アスリートファーストをうたいながら、選手には過酷な環境です。
ウソばかりつきやがってって感じですよね。なぜ真夏開催でOKなのか。本当に聞きたいんです、組織委の森喜朗会長に。アンタは走らないからいいんだろ、バカなんじゃないのって。この季節の開催は非常識の極み。開催期間の前倒しは難しいけれど、3カ月ほどの後ろ倒しは、それほど無理な注文じゃないと思う。工事のスケジュールも楽になる。絶対に開会式は前回と同じ10月10日にすべき。それこそレガシーですよね。
――こうした不都合な真実を報じるメディアも少ない。朝日、読売、毎日、日経が東京五輪の公式スポンサー。いわば五輪応援団です。誘致の際の裏金疑惑などを追及できるのか疑問です。
国際陸連の前会長の息子が、黒いカネを派手に使ったって、みんな気付いているんですけど。なんで追及しないのかねえ、あんな酷いスキャンダルを。
オリンピック憲章をプリントアウトしました。第1章6項1に〈選手間の競争であり、国家間の競争ではない〉、第5章57項には〈IOCとOCOG(オリンピック組織委員会)は国ごとの世界ランキングを作成してはならない〉とある。
ところが、日本政府はもう東京五輪の目標メダル数を発表しているんです。ハッキリ言ってオリンピック憲章違反。国がメダルの数を競っちゃいけないのに、3年も前からJOCがメダルの数を言い出す。こういうバカさ加減が、子供の頃から変だと…。しかも、メダルの色や数で競技団体が受け取る助成金まで上下する。差別ですよ、完全に。
五輪開催について都民の声を一切聞かない。巨額の税金を使うのに、都民に意見を聞かずに開催していいのか。非常に疑問です。今からでも賛否を問う住民投票を行う価値はあります。
――多くの人々は「ここまで来たら」というムードです。
それと「今さら反対してもしようがない」ね。その世論が先の大戦を引き起こしたことを皆、忘れているんですよ。「もう反対するには遅すぎる」という考え方は非常に危険です。日本人のその発想が、どれだけ道を誤らせてきたか。シャープや東芝も「今さら反対しても」のムードが社内に蔓延していたからだと思う。
五輪を返上すると、違約金が1000億円くらいかかるらしいけど、僕は安いと思う。それで許してくれるのなら、非常に有効なお金の使い道です。
――五輪反対を公言する数少ないメディア人として、向こう3年、反対を言い続けますか。
何で誰も反対と言わないのか不思議なんですよ。そんなに皆、賛成なのかと。僕は開会式が終わっても反対と言うつもりですから。今からでも遅くないって。最後の1人になっても反対します。でもね、大新聞もオリンピックの味方、大広告代理店もあちら側、僕はいつ粛清されても不思議ではありません。
そのあと、第3幕が開いた。
この久米宏発言に、東京五輪の組織委員会が噛みついたのだ。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会から久米宛に「反論」書が届いたというのだ。これを久米が、8月12日(土)午後の番組で朗読した。
「第32回オリンピック競技大会においては招致の段階で、開催時期は2020年7月15日から8月31日の期間から選択するものと定められていました。この期間外の開催日程を提案した招致都市は、IOC理事会で正式に候補都市としてすら、認められていませんでした」
これに対して久米は、こう言った。
「いかにバカかわかるでしょう。日本にオリンピックを招致した人たちは、夏の開催だということを承知して引き受けたんです。つまり、東京オリンピックに世界中から集まるアスリートたちのコンディションを考えてるんじゃない。オリンピックを招致することがいかに大切かを考えたんです。アスリートファーストなんていうのはウソ八百なんです」
さらに、「期間をIOCが決めてて、それ以外の開催時期が選べなかったんだから、しょうがないじゃないかとすべての責任をIOCに押し付けているんです」とも。
そして、名セリフ。「彼らはスポーツマンを愛しているわけではない。オリンピックだけを愛している」。
また久米は、最後に「組織委員会の広報の方は、今日の放送をどうお聴きになったか、またご感想があったら送ってください。またご紹介したいと思います。よろしくお願いします」と締めくくっている。
そんな次第で、本日(8月19日)の放送を楽しみに聞いたのだが、「組織委員会からの再度の感想」は送られてこなかったようだ。久米がこの問題に触れることはなかった。
やや、ものたりないと思いつつ、毎日新聞の夕刊を開くと、ベルリン五輪の写真発掘の記事。言うまでもない、「ヒトラーの五輪」だ。そのなかに、走り幅跳びで田島直人が3位となった表彰旗掲揚の写真があった。真ん中に「星条旗」。これはオーエンス優勝の表彰であろう。その両脇に、2位と3位の旗。これが、みごとに「ハーケンクロイツ」と「日の丸」なのだ。
いま、「ハーケンクロイツ」は公の場から姿を消したが、運命をともにすべき「日の丸」は生きながらえている。やっぱりオリンピックは、いやなもんだ。国威発揚の舞台であり、ナショナリズム涵養の場なのだ。ナショナリズムこそが、世界の国際協調の敵対物ではないか。表彰式での国歌や国旗なんてすっぱりやめて、ナショナリズムと縁を切ったオリンピックなら、そして金のかからない税金を使うことのないオリンピックなら、さらに東京に混雑や治安の懸念をもたらさないオリンピックなら、私も声援を送ってもよいのだが。
(2017年8月19日)
アツイ。あつい。暑い。熱い。いふまいとおもへどけふのあつさかな。「暑い」という以外に言葉はなく、話題もない。
3年後の夏、この暴力的な猛暑の東京で、オリンピック・パラリンピックが開催されるという。マラソンの日程は男女とも8月上旬だとか。恐るべき炎熱下の試練。愚かしくも非人道的な「地獄の釜」の中の苦役。東京の夏に五輪を誘致した諸君よ。キミたちはクーラーの効いた部屋で、剣闘士たちの酷暑の中の死闘を眺めようというのか。アスリート諸君よ、奴隷の身に甘んじることなかれ。
オリンピックといえば、国威発揚であり、ナショナリズムの鼓吹である。あたかも当然のごとくに国旗国歌が大きな顔をして鼻につく。どこの国の国旗国歌も愉快なものではないが、とりわけ日の丸・君が代は不愉快極まる。わが国の天皇制支配や軍国主義や侵略や植民地支配の負の歴史を背負って、歪んだ保守派ナショナリズムのシンボルとなっている。天皇教によるマインドコントロール下の大日本帝国とあまりに深く結びついたその旗と歌。今なお、日本人が無邪気にこの旗を振り、この歌を唱う感性が信じがたい。
ところで、最近こんな文章にお目にかかった。筆者を伏せて、ご一読願いたい。
《優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめようというブランデージ(当時のIOC会長)提案に私は賛成である。(略)私は以前、日本人に稀薄な民族意識、祖国意識をとり戻すのにオリンピックは良き機会であるというようなことを書いたことがあるが、誤りであったと自戒している。民族意識も結構ではあるがその以前に、もっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通じて人々が知り直すことが希ましい》
民族意識や祖国意識よりも、「真の感動」、「人間的感動」をこそ重視すべきだという。「真の感動」、「人間的感動」の何たるかはこの短い文章に盛りこまれてはいないが、国威発揚やナショナリズム鼓吹の対立物としてとらえられている。だから、「優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめよう」という提案に賛成だというのだ。真っ当な見解ではないか。
この一文は、1964年10月11日付読売新聞に「人間自身の祝典」との標題で掲載されたものだという。筆者は、何と石原慎太郎。スポーツライターの玉木正之さんのサイトに紹介されていたもの。石原慎太郎とは、その40年後に東京都知事として、公立学校の教職員に、国旗国歌を強制する「10・23通達」を発出した張本人である。
石原に倣って、私はこう言いたい。
《学校の卒業式に国旗掲揚や国歌斉唱をとりやめようという良識ある教員たちの提案に私は賛成である。少なくとも、天皇(明仁)が米長邦雄に語ったとおり「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」というべきだろう。
私は以前、日本人に稀薄な民族意識や祖国意識、そして秩序感覚をとり戻すのに卒業式の国歌斉唱は良き機会であるというようなことを思ったことがあるが、誤りであったと自戒している。民族意識も愛国心も秩序感覚も結構ではあるが、その以前に、もっと大切なもの、すなわち、自立した人格の形成、精神的な自由の確立、斉一的な集団行動の強制ではなく、国家や集団に絡めとられない個の確立、そして教育の場での真の感動、人間的感動というものを確認する卒業式であることこそが希ましい》
オリンピックであろうと、卒業式であろうと、国旗・国歌は個人と対峙し、個人を呑み込む。アスリートよ、国の栄光のために競うな。自分のために輝け。それこそが、真の感動ではないか。卒業式の若者よ、国歌を歌うな。自分自身の魂の詩を語れ。それこそが人間的感動を確認する手段ではないか。
国威発揚の五輪に成功したのがヒトラーだった。そのドイツ民族を主役とする大祭典は第2次大戦を準備するものでもあった。2020年東京五輪が、その亜流であってはならない。国旗国歌の氾濫する20年夏は暑苦しく息苦しい。せめて、「優勝者のための国旗掲揚で国歌の吹奏をとりやめよう」くらいの五輪であって欲しい。日の丸・君が代抜きの東京五輪であれば爽やかとなろうし、少しは涼やかな東京の夏となるだろう。
(2017年7月21日)
国政も国際情勢も慌ただしいが、身近なところで都議選が近い。人も車も動き出した。候補者の声が聞こえる。ポスターもにぎやかになってきた。
「改憲と共謀罪にノー」という勢力に、都政でも大きく伸びてもらいたい。自民・公明・維新の保守ブロックと、公明との連携を明確にした「都民ファーストの会」(以下、「都ファ」)には、小さく縮んでもらいたい。
何が都議選のテーマか。話題になるのは、まずは築地市場の移転の是非。築地を建て直すことでいいじゃないか派と、新設豊洲への早期移転派の角逐。後者は実のところは、都政を財界に売り渡し、大規模再開発推進第一の立場なのだ。もちろん、食の安全も絡んでいる。今のところ、自公の豊洲移転促進と、共産の築地でいいじゃないかの対立の図式。都ファは、この最大関心事にまだ態度未定という。知事派でありながら、信じがたいこの無責任。
次いで、住民福祉だ。保育園と特養問題。そして、良くも悪くもオリンピック。開発が伴うことから資本が群がるが、都民の側から見れば浪費と疑惑にまみれた、時代錯誤の大イベント。今さら中止は難しかろうが、狂騒とコストを最小限に抑えなければならない。防災問題もある。中小企業支援も…。
教育問題も注視しなければならない。従来からの小池百合子という政治家の国家主義的姿勢を懸念せざるを得ない。この点では、舛添さんの方が、はるかにマシだった。
5月11日の朝日が次のように報道している。
「この春、東京都内にある七つの都立看護専門学校の入学式は、いつもと少し様子が違った。小池百合子・都知事が議会で『要望』したのを受けて、今回から式典に国歌斉唱を採り入れたからだ。小池氏の狙いとは。
『国歌斉唱。ご起立ください』。都立広尾看護専門学校(渋谷区)で4月10日にあった入学式。『君が代』の演奏が流れ、新入生と在校生が歌い出した。都によると、他の看護専門学校でも国歌斉唱があった。今回が初という。
知事の発言『忖度』
きっかけは、小池氏の(議会での)発言だった。3月の都議会で自民都議の質問に答える形で『グローバル人材の育成の観点からも、国旗や国歌を大切にする心を育むことこそ重要』などとし、看護専門学校や首都大学東京の入学・卒業式での国歌斉唱を『望んでいきたい』と述べた。
その月末。関係者によると、看護専門学校の校長が集まる会議で、入学式で君が代を歌うことを申し合わせたという。都の関係者は『知事が答弁したことなので。まあ、今はやりの「忖度(そんたく)」なのかもしれませんけど』と言う。」
あの石原慎太郎都知事の時代に、教育長名の悪名高き「10・23通達」が発出されて、都内の都立高校と特別支援学校、そして公立中学校・小学校は、例外なく苛烈に「日の丸・君が代」の強制が実行された。しかし、石原の時代にも、石原後継知事の時代にも、都立看護専門学校に「日の丸・君が代」は持ち込まれなかったのだ。看護師と「日の丸」、医療と「君が代」。どう考えても、似つかわしくない。それが、小池都政1期目で、全看護専門学校の入学式に「日の丸・君が代」である。
朝日の記事にある、「3月の都議会で自民都議の質問」というのが、以下のとおりである。質問者が、自民党の松田康将(板橋)、元は下村博文の秘書だったという人物。下記のとおりのお先棒担ぎ。
○松田 …都立の学校教育施設であっても、福祉保健局所管の都立の看護学校七校では、国旗掲揚はされているものの、国歌の斉唱はありません。また、独立行政法人ではありますが、公立大学首都大学東京の入学式、卒業式においても同様であると伺っております。
平成二十七年六月には、当時の下村博文文部科学大臣が、国立大学長を集めた会議で、各大学の自主判断としながらも、…事実上の実施要請をしたことによって、今年度の入学式では、新たに六校で国歌斉唱が行われました。
都立の看護学校、首都大学東京と、どちらも学習指導要領の法的拘束力が及ばない教育施設ではありますが、…入学式、卒業式において、国歌斉唱をされるのは自然であると考えますが、小池知事の見解を伺います。
○小池 教育に関してのご質問でございます。国旗・国歌、国民の自覚と誇りを呼び起こすものとして、いずれの国でも尊重されていると、このように認識しております。また、グローバル人材の育成の観点からも、国旗や国歌を大切にする心を育むということこそ重要かと考えます。
…今ご指摘がございました都立の看護専門学校、そして、首都大学東京でございますが、ご指摘のとおり学習指導要領の適用が及ばないことにはなります。しかしながら、いわゆる国旗・国歌法の趣旨を踏まえますと、例えば、都立の看護専門学校におきましては、国旗掲揚は行われているが、国歌の斉唱は行われていない、しかしながら、国歌の斉唱を進めることを望みたいと思います。それから、首都大学東京におきましても、国旗の掲揚は行われているけれども、国歌の斉唱については行われていないという報告を受けておりますが、これも国歌斉唱についても行うよう望んでいきたいと思っております。
○松田 保守政治家としての小池百合子都知事、さすがです。ありがとうございます。
なんとも自民党内右派と相性抜群の小池都政なのだ。こんな知事を持ち上げてはならない。
「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」事務局の近藤徹さんから、下記のコメントをいただいた。
「小池都知事は日本会議国会議員懇談会副会長の『実績』の持ち主。教育観は、「都民ファースト」どころか「『君が代』ファースト」だ。「日の丸・君が代」を強制する10・23通達(2003年)に基づく延べ480人もの教職員の大量処分に象徴される権力的教育行政を見直そうという「気配」もない。
今年度より厚労省の保育所の運営指針、文科省の幼稚園の教育要綱に「国旗・国歌に親しむ」と明記され、小中高校で「日の丸・君が代」が強制され、学習指導要領に「指導するものとする」とされ、それを専門学校・大学まで広げ、幼児から大学生まで「日の丸・君が代」で染め上げようというのだ。
安倍政権の『教育勅語』や「ヒットラーの『わが闘争』の教材化容認の閣議決定は、つい最近のこと。そして安倍首相の『2020年までに改憲を』の発言。その先にあるものは、「日の丸・君が代」強制を道具にして『お国(天皇)のためにいのちを投げ出せ』ということだ。悲惨な痛恨の歴史を繰り返してはならない。『子どもたちを戦場に送るな』の誓いを新たにしよう。」
まったく同感である。都議選では、「自・公・維+都ファ」が、全て都民福祉と民主主義教育の敵だ。
(2017年5月15日)
5月3日「第19回公開憲法フォーラム」におけるアベ晋三・ビデオメッセージで現れた「9条改憲新提案」に必要な反論をしておきたい。
アベ新提案は、「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」というもの。意外性十分である。
これまでの改憲案の最大テーマは、9条2項(戦力不保持)の存否をめぐってのものだった。たとえば自民党改憲草案は、9条2項を全面削除するものとなっている。その上で9条の2を新設して、1項から5項までの規定を置き、詳細に国防軍の設置を定めている。明らかに、現状の自衛隊とは異なる、戦争を目的とした実力組織をもつことを明文化しようとするもの。その結果、装備も編成も、自ずから対外戦争を遂行するに足りる水準のものにならざるを得ない。空母も原潜ももちうることになる。日本が、戦争を政策の選択肢の一つとする国家であることを明示し宣言することを意味し、近隣諸国への威嚇ともなって、確実に緊張関係を高めることとなろう。
ところが、新提案はそうなっていない。あっさりと「9条2項を残す」という。その上で、前後の文脈からは「(現在ある)自衛隊を、(現在ある自衛隊のまま、憲法上の存在として認めるよう)明文で書き込む」というだけの内容に読みとれる。この新提案には、本音の改正願望を抑制した「過小な」改憲提案と評価される余地がある。しかし、この新提案を「過小な」ものと見くびってはならない。
まず、なによりも、これまで囁かれてきた「現実的な発議の落としどころ」が、緊急事態に関連した衆議院の解散への制約程度の「些事」についての「お試し改憲」提案であった。言わば、本丸からははるかに遠い、二の丸、三の丸の、石垣の一部に爪を立てようという程度のものだったはず。それが、とにもかくにも9条の本丸に手を延ばしてきたことを深刻な重大事と受けとめなければらない。
また、この9条改憲新提案には、公明や維新も、あるいは民進の一部も抵抗なく受容するのではないかという思惑が感じられる。さらに、護憲派と言われてきた運動の一部にも、動揺が及ぶのではないかと懸念される。
かつて、東京新聞「こちら特報部」(2015年10月)が「平和のための新9条論」を大きく取り上げた。「安倍政権の暴走に憤る人たちの間からは、新9条の制定を求める声が上がり始めた」、「戦後日本が平和国家のあるべき姿として受け入れてきた『専守防衛の自衛隊』を明確に位置づける。解釈でも明文でも、安倍流の改憲を許さないための新9条である」との紹介の仕方だった。肯定評価という域を超えて、この方向に意見と運動を誘導しようという意図が見えた。
専守防衛に徹する自衛隊の存在を肯定し、個別的自衛権を行使容認を明記した明文改憲によって、新9条を制定しようというのだ。条文と現実との乖離を最小化して「解釈の余地を政権に与えない」憲法を制定しようとの発想だという。
この点について、2015年10月23日の当ブログで、次の批判の記事を書いた。
「新9条論」は連帯への配慮を欠いた提言として有害である
https://article9.jp/wordpress/?p=5803
目的や位置づけに差異があることは当然として、現象としては、アベの口から「新9条論」が語られたのだ。護憲の意味の再検討が迫られる。
憲法は現実を批判する規範として理想を語っている。現実との乖離は永遠の課題であって、常に現実を理想に近づける努力を続けなければならない。この乖離の存在を理由に、現実を理想に近づける努力を放棄して、理想の方を現実に合わせて引きずり下ろそうということには賛成しかねる。理想を一歩現実の方向に動かせば、現実は二歩も三歩も逃げていく。戦力不保持から一歩退いた「専守防衛」は、先制的防衛や予防的防衛という現実をもたらすことになるだろう。
9条護憲派には大別して2種ある。「自衛隊は違憲、安保条約も違憲。自衛権の発動としても一切の武力行使はできない」という伝統的護憲派陣営(A)と、「自衛隊は合憲、安保も合憲。集団的自衛権の行使は違憲だが、個別的自衛権の行使としてなら武力行使は可能」という旧来の保守本流の専守防衛陣営(B)。
統一した運動においては、A陣営は、B陣営との連携のために、Bの主張を前面に押し出すことになる。安倍政権と自公両党が、現状を大きく変えようと強権の発動をしている以上、現状を維持しこれ以上悪化させないためにはB論で一致することとなる必然性があったからだ。その逆の連携のあり方は非現実的で、あり得ることではない。一見すると(A+B)の全体が、あたかもBの見解で統一されたかのごとき観を呈したが、実際にはA陣営護憲派は、その見解を留保してきたのだ。
今、アベ新提案に、自衛隊違憲論のA陣営が揺らぐはずはない。専守防衛論のB陣営の人々に訴えたい。自衛隊を明文で認めることは、自衛隊を法的にコントロールすることにつながるよりは、自衛隊が大手を振って闊歩する時代の現出となる危険の大きいことを。
私は、国旗国歌法制定の国会審議を思い出す。首相も文部大臣も、口を揃えて言ったものだ。「法案は現状を追認するだけ」「人々になんの義務を課すものでも、権利を制限するものでもない」「教育現場になんの変化もない」「法は強制も制裁も予定していない」。しかし、法が制定されたあとは、国会での答弁とはまったく違った光景が現実のものとなった。教員に対する強制と処分の濫発がまかりとおる事態となり、権力による教育への管理統制の弊害は目を覆わんばかりである。確かに、国旗国歌法自体は強制の根拠とはなり得ない。しかし、「日の丸・君が代」に、国旗国歌としての法的認知がなされるや、公務員法、教育関係法の運用ががらりと変わったのだ。
おそらくは、自衛隊の憲法的認知は、同じ効果をもたらすことになろう。今、「新9条論」再論ではなく、これまで共闘してきた(A+B)の全体が、実質的にA論で統一して、アベ新提案を拒否する運動となることを望む。絶対に、アベに明文改憲をさせてはならない。
(2017年5月5日・連続第1496回)