本日(9月30日)仲間内のメーリングリストに、名古屋の中谷雄二弁護士からの投稿があった。彼は、「あいちトリエンナーレ」《表現の不自由展》再開を求める、仮処分申立事件の申立側弁護団長である。以下はその抜粋。
皆様からご支援していただいていた「表現の不自由展・その後」について、本日、仮処分の第3回審尋期日で、あいちトリエンナーレ実行委員会と表現の不自由展実行委員会との間で、和解が成立しました。
先週の金曜日(9月27日)の第2回審尋期日で、当方から10月1日 従前の展示どおり再開で和解をしようと投げかけました。
これに対して、あいちトリエンナーレ実行委員会は、本日、午前中に10月6日?8日の再開を想定して和解協議をしようとの文書での申し入れがありました。
これを不自由展実行委員会が受け入れる形での和解です。
その中で、「今回は中止した展示の再開であり、開会時のキュレーションと一貫性を保持すること」を確認しました。
これにより、基本的には、不自由展実行委員会の要求が基本的に容れられたと判断して和解を成立させることに致しました。
文化庁の補助金差止めというより大きな「検閲」問題が発生した時期にまずは、脅迫によって中止させられた展示の再開を勝ち取ることで、表現の自由の回復の一歩を踏み出すことができました。
申立が9月13日ですので、全国の皆様の再開を求める運動と併せて短期間に再開の合意を勝ち取ることができました。
ありがとうございました。
なお、同仮処分は「企画展実行委」が申立てたもので、その相手方が「芸術祭実行委員会(代表・大村秀章知事)」である。この点紛らわしいが、実質的には申し立てられたのは愛知県である。また、キュレーションとは門外漢にはなじみの薄い言葉だが、「展示内容」と置き換えてよいようだ。
不自由展実行委員会がこだわったのは、「中止した展示そのままの再開であり、開会時のキュレーションとの一貫性の保持」であった。その確認ができたからの和解であり、それ故の「再開の合意を勝ち取ることができた」という評価である。
この点を、朝日(デジタル)は、こう報じている。
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、中止になった企画展「表現の不自由展・その後」の実行委員会が展示再開を求めた仮処分の審尋が30日、名古屋地裁であり、展示を再開する方向で、芸術祭実行委員会側と和解した。企画展実行委の代理人・中谷雄二弁護士が明らかにした。再開時期は10月6?8日で調整する予定で、早ければ週末から再開されることになる。
記者団の取材に応じた企画展実行委の代理人・中谷雄二弁護士によると、芸術祭実行委側から30日朝に大村秀章知事が公表した再開への4条件の提示があった。?犯罪や混乱を誘発しないように双方協力する?安全維持のため事前予約の整理券方式とする?開会時のキュレーション(展示内容)と一貫性を保持し、(来場者に)エデュケーションプログラムなど別途実施する?県庁は来場者に(県の検証委の)中間報告の内容などをあらかじめ伝える――の四つで、中谷弁護士は、「この内容で和解しましょう、と申し入れました」と説明する。
その上で、?のキュレーションの一貫性について、中谷弁護士は「同じ場所で作品を動かさないという趣旨ではなく、同じ部屋の中で個々の作品を動かすことはあり得るが、その範囲であって、一貫性、同一性を崩すことはしないと確認した」と述べた。展示は、慰安婦を表現する少女像や昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品など16作家の23作品が集められていたが、それらをまとめた企画展としての「一体性」は維持された、とみているという。
中谷メールがいうとおり、「脅迫によって中止させられた展示の再開を勝ち取ることで、表現の自由の回復の一歩を踏み出すことができた」ことをまずは、よろこびたい。しかし、「文化庁の補助金不交付というより大きな『検閲』問題が発生している」のだ。表現の自由はご難つづきである。民間の暴力による展示の妨害から、今度は権力の横暴による自由の侵害である。まさしく、自由とは、市民が闘いとり守り育てていくべきものであることを実感する。
その問題で、権力の先頭に立つのは、加計学園事件の当事者である萩生田光一文科相。本日(9月30日)、議員会館で「文化庁の決定に抗議する集会」が開かれた。自ずから、矛先は安倍晋三の手先・萩生田に集中したようだ。
この集会に私は参加できなかったが、私も参加している「表現の自由を守る市民の会」が、下記のアピールを集会に持参した。これも、宛先は、萩生田光一である。このアピールをみんなに訴えたい。ぜひ拡散していただきたい。
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2019年9月30日
文部科学大臣 萩生田 光一 様
「あいちトリエンナーレ2019」に関する補助金不交付決定の撤回を求める要求書
表現の自由を守る市民の会 呼びかけ人
池住義憲(元立教大学大学院特任教授)/岩月浩二(弁護士)/小野塚知二(東京大学大学院経済学研究科教授)/小林緑(国立音楽大学名誉教授)/澤藤統一郎(弁護士)/杉浦ひとみ(弁護士)/醍醐聰(東京大学名誉教授)/武井由起子(弁護士)/浪本勝年(立正大学名誉教授)
私たち「表現の自由を守る市民の会」は、「多様な表現の自由を尊重し、発展させることを目的とし、表現の自由を侵害する公権力の介入に反対する運動に取り組む」(会則)市民団体です。
文化庁は、2019年9月26日、既に所定の審査を経て本年4月に文化資源活用推進事業の補助対象事業として採択されていた「あいちトリエンナーレ」における国際現代美術展開催事業補助金7,829万円を、”適正な審査を行うことができなかった”として、補助金適正化法第6条等に基づき、全額不交付とする決定(以下、本件決定という。)を行いました。
萩生田文科相は、本件決定の理由は手続き上の不備だけで、展示内容と無関係だと強弁しています。しかし、これは明らかに展示内容に関係した政治介入です。公権力が表現活動の抑圧にまわることは許されません。これは憲法21条が禁じる「検閲」にあたる重大な違憲の疑いがある行為です。国際芸術祭の作品展示が開始された直後の8月2日、河村たかし名古屋市長の言動、菅義偉官房長官の補助金見直しを示唆する発言を受けての決定であり、私たちはこうした経過のもとになされた本件決定を容認することはできません。
現行文化芸術基本法はその前文で「文化芸術の礎たる表現の自由の重要性を深く認識し,文化芸術活動を行う者の自主性を尊重すること」を明記し、第2条で「文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない」と定めています。
本件決定はこうした文化芸術基本法の精神に反するものであり、私たちは決して認めることはできません。
文化庁の本件決定は、企画展を脅迫等によって中断に追い込んだ卑劣な行為を追認することになります。行政が不断に担うべきことは、公共性の確保・育成です。社会的少数者や、異なる地域に暮らす人々、民族を知る貴重な窓口を保障することです。本件決定は、これに逆行します。仮に本件決定に唯々諾々として従うならば、国の意見と合わない表現を許さない悪しき前例となり、国に忖度した無難な展示しかできなくなる恐れがあります。表現者、主催・開催側らの委縮を拡げ、社会全体に委縮効果を及ぼします。
よって私たちは、貴大臣に対し、本件決定を直ちに撤回することを強く要求します。民主主義社会は、多様な表現・意見を自由に表現し、議論をかわす場を保障して初めて成り立ちます。補助金を交付する目的は、多様な文化、芸術を国民の税金で助成することであり、国の意向に沿うものかどうか展示作品の内容をチェックする権限を国に与える根拠はどこにもないことを再度、強調しておきます。
(2019年9月30日)
「えっ、まさか。」「そこまでやるか。」「いくらなんでも,やり過ぎだろう。」というのが第一印象だった。文化庁の「あいちトリエンナーレ補助金不交付」問題である。主催の愛知県は、上からは国の、下からは名古屋市の挟撃に苦戦の感。大村秀章知事は「表現の不自由展」中止の責任者ではあるが、それでも再開に向けて懸命な姿勢には、好感がもてる。これを押し潰そうというのが、いったん決まりの7800万円補助金不交付なのだ。
補助金不交付は、形式的には所管の文化庁の判断ということだが、実質は官邸の意図的な「意地悪」「イチャモン」と、誰しもが思うところ。官邸の「意地悪」は、愛知県が官邸の意向を無視しているからだ。世の中が官邸のご意向を忖度することで円滑にまわっているのに、愛知県だけはどうして忖度しないのか。この国のトップの歴史修正主義・嫌韓ヘイトの真意は周知の事実なのに、どうしてことさらに「慰安婦」や「天皇」をテーマの展示を行うのか。しかも、官邸大嫌いな表現の自由を盾にしてのことだ。
官邸は、実はこの展覧会の展示の内容が面白くない。不愉快極まるのだ。官邸に当てつけるようなこの展示を叩かずにはおられない。叩いておけば、一罰百戒の効き目があろう。忖度の蔓延だけでなく、文化の善導さえもできるというものだ。
ところが、厄介なことに憲法という邪魔者が伏在している。政府があからさまに表現のテーマや内容に立ち入るわけには行かない。だから、補助金不交付の理由は、表現の内容とは別のところに拵え上げなければならない。
そこで、官邸の手先・萩生田光一のお出ましとなる。文科相としての初仕事がこれだ。加計学園問題で頭角を表した彼の特技は「厚顔」である。その特技を生かして彼はこう強調する。
「(補助金不交付の判断材料は)正しく運営ができるかの一点であり、文化庁は展示の中身には関与していない。検閲にも当たらない」
これが昨日(9月26日)の記者会見での発言。
補助金交付対象の事業が事前の申告のとおりに、正しく運営ができていないではないか。愛知県は文化庁に対して、安全面に対する懸念などを事前に申告しておくべきだったのに、それがなされていなかった。これは、交付申請の手続きが「不適当」であったことを物語るもので不交付と判断せざるを得ない。けっして表現の内容が問題なのではない。あくまで手続の不備、というわけだ。誰も、そう思わないが、そのようにしか言いようがない。こんなときに、「厚顔」の特技が役に立つ。
本日(9月27日)にも、文化庁による補助金を全額不交付とした理由について、萩生田は重ねて「本来、(主催者の県が)予見して準備すべきことをしていなかった」と説明。判断する上で展示内容は無関係だったことを改めて強調した。さらに、「今回のことが前例になり、大騒ぎをすれば補助金が交付されなくなるような仕組みにしようとは全く考えていない」とも語っている。さすが、厚顔。
問題は、政府の意図如何にかかわらず、「大騒ぎをすれば補助金が交付されなくなるような仕組みにしようと考える」集団が確実に存在することであり、ここで政府が補助金不交付を強行すれば、そのような右翼暴力集団を勢いづかせることにある。政府は、「大騒ぎをすれば補助金交付をストップできる」という彼らの成功体験が今後にどのような事態を招くことになるかを予見し防止しなければならない。しかし、実は政府と「大騒ぎを繰り返して補助金交付をストップさせよう」という集団とは一心同体、少なくとも相寄る魂なのだ。
萩生田のコメントの中に、平穏な展示会を脅迫し,威力をもって妨害した輩に対する批判や非難の言は、一言も出てこない。あたかも、これは自然現象のごとき、正否の評価の対象外と言わんばかりの姿勢。警察力を動員しても、断固表現の自由を守るという心意気はまったく感じられない。官邸や萩生田の意図がどこにあるかは、明確と言わねばならない。
昨日(9月26日)の文化庁の補助金不交付決定発表によれば、不交付とされるのは、「あいちトリエンナーレ」に対して「採択」となっていた補助金7800万円の全額である。文化庁はその理由として、補助金を申請した愛知県が「来場者を含め、展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず、それらの事実を申告することがなかった」「審査段階においても、文化庁から問い合わせを受けるまでそれらの事実を申告しなかった」と説明した。
また、同日萩生田は「残念ながら文化庁に申請のあった内容通りの展示会が実現できておりません。また、継続できていない部分がありますので、これをもって補助金適正化法等を根拠に交付を見送った」と説明している。
ここで、補助金適正化法(正式には、「補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律」)が出てきたが、その理念は語られていない。
補助金予算執行の適正の理念はいくつかある。たとえば、その24条である。
「第24条(抜粋) 補助金等に係る予算の執行に関する事務に従事する国の職員は、(補助金等の交付の目的を達成するため必要な限度をこえて、)不当に補助事業者等に対して干渉してはならない。」
政府は、愛知県の行う、「あいちトリエンナーレ」の企画の内容に、不当に干渉してはならないのだ。つまり、「金は出しても、口は出さない」ことが大原則。
補助金交付対象事業の一部は8月3日以後中止にはなっているが、中止が確定したわけではない。暴力集団の妨害を排除しての展示再開に向けた努力が重ねられてきた。再開を求める仮処分命令申立の審理も進行している。9月25日には、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」は中間報告案を発表し、「表現の不自由展・その後」について、「条件が整い次第、速やかに再開すべきである」との方向性を示した。この助言を得て、大村知事が近々の展示再開意欲を表明したと報道されてもいた。
このタイミングでの文化庁の補助金不交付決定発表である。展示再開に水を差す、不当な補助金交付事業への介入というほかはない。官邸の「意地悪」というのは言葉が軽すぎる。やはり、悪辣な妨害といわねばならない。
取りあえずは、妨害を排除しての展示の再開が喫緊の課題。そのうえで、官邸の悪辣さに対する批判と法的措置が必要となるだろう。大村知事は国に対する提訴を予定しているという。
文化庁の補助金不交付の決定とは、補助金適正化法第6条による、補助金交付の決定を得ている愛知県に対して、補助金交付決定取り消しの行政処分にほかならない。原告愛知県が被告国(文化庁長官)に対してて行う訴訟は、「『補助金交付決定取り消し処分』の取消請求訴訟」となる。沖縄に続いて、愛知県よ頑張れ。安全保障問題が絡まないだけ、沖縄よりはずっと勝算が高い。
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文化庁の、昨日(9月26日)付報道発表は以下のとおりである。
「あいちトリエンナーレ」における国際現代美術展開催事業については,文化庁の「文化資源活用推進事業」の補助金審査の結果,文化庁として下記のとおりとすることといたしました。
補助金適正化法第6条等に基づき,全額不交付とする。
【理由】
補助金申請者である愛知県は,展覧会の開催に当たり,来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず,それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した上,補助金交付申請書を提出し,その後の審査段階においても,文化庁から問合せを受けるまでそれらの事実を申告しませんでした。
これにより,審査の視点において重要な点である,[1]実現可能な内容になっているか,[2]事業の継続が見込まれるか,の2点において,文化庁として適正な審査を行うことができませんでした。
かかる行為は,補助事業の申請手続において,不適当な行為であったと評価しました。
また,「文化資源活用推進事業」では,申請された事業は事業全体として審査するものであり,さらに,当該事業については,申請金額も同事業全体として不可分一体な申請がなされています。
これらを総合的に判断し,補助金適正化法第6条等により補助金は全額不交付とします。
これで納得できるわけはない。法第6条(抜粋)はこう定める。
「各省各庁の長は、補助金等の交付の申請があつたときは、当該申請に係る審査及び調査により、当該申請に係る補助金等の交付が法令及び予算で定めるところに違反しないかどうか、補助事業等の目的及び内容が適正であるかどうか等を調査し、補助金等を交付すべきものと認めたときは、すみやかに補助金等の交付の決定をしなければならない。」
この決定を業界では、「採択」と呼んでいる。採択の後に所定の形式的手続を経て補助金の交付を受けることになる。つまり、申請→審査→採択→補助金交付、という流れになる。「採択」とは、補助金受給資格を有していることの確認行為、あるいは「内示」というにとどまらない。6条の書きぶりからは、実質的な補助金受給権付与行為というべきだろう。愛知県は「採択通知」を得ていると報道されている。だから、原則補助金交付となるはず。それが、本事例では、「不交付」となったのだ。
採択の後の不交付は、取得した補助金受給権を取りあげる不利益な行政処分として、その取り消しを求める行政訴訟の対象となる。文化庁の言い分は、採択前に言うべきことだろう。
また、右翼の妨害が予想されることを、「実現可能な内容になっているか」「事業の継続が見込まれるか」に関わらせていることは、由々しき憲法問題と言わねばならない。これは、注目に値する大型訴訟となる。法廷で、安倍政権の反憲法的体質を暴いていただきたい。
(2019年9月27日)
「表現の不自由展・その後」と銘打った企画展は、展示の機会を奪われた経歴を持つ16点の作品に、奪われた展示の機会を回復させようというコンセプトでのプロジェクトであって、それ以上のものでも以下のものでもない。日本軍「慰安婦」を連想させる「平和の少女像」や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品などが話題となったが、展示された作品群が統一された主張をもっているわけではなく、また当然のことながら、企画展の主催者がその作品のもつ政治的主張に賛同したわけでもない。飽くまで、その作品から奪われた展示の機会を回復することを通じて、近時の表現の自由のあり方についての問題提起を試みたものである。
展示の機会を奪われたという経歴をもつ作品は、いずれも何らかの意味で、権力や権威、あるいは社会の多数派から疎まれ嫌われる存在なのではあろう。そのような作品であればこそ、失われた展示の機会が与えられて然るべきだとするコンセプトは、表現の自由を重んじる民主主義社会の理念によく適合したものというべきであろう。
ところが、この展示を敵視する側は、表現の自由一般ではなく、飽くまで個別の作品がもつ具体的な政治性に反応して攻撃する。たとえば、河村たかし名古屋市長は、「日本国民の心を踏みにじる行為であり許されない」として展示の中止を求めた。
企画展主催者は、表現の内容を問題することなく、多数派から排除された表現に展示の機会を回復した。これに対して、河村市長は、もっぱら表現の内容を問題とし、「日本国民の心を踏みにじるもの」となどとと主張したのだ。一方に、「日本国民大多数が歓迎しない表現だから展示を中止せよ」という意見があり、他方に「多数派から排斥される表現であればこそ展示の機会を与えることに意義がある」とする見解があって、議論が噛み合わぬまま対立している。
このような基本構造をもった問題が生じ、幾つかのフレーズが、大手を振ってまかり通っているの感がある。これに反論を試みたい。
※公共団体が一方的な政治的意見の表明に手を貸すべきではない。
☆「愛知県が今回の展示で一方的な政治的意見に手を貸した」というのは、誤解ないし曲解というべきでしょう。「表現の不自由展・その後」がしたことは、民主主義の土台である表現の自由が侵害されている深刻な事態を可視化して、これでよいのかと世に問うたということにほかなりません。民主主義成立のための土台の整備という事業は、公共団体がするにふさわしいものというべきです。
☆表現の自由の保障は憲法上の基本的価値なのですから、自由になされた多様な表現の共存が望ましいありかたです。ところが、現実には、「発表を妨害された表現」が少なくないのです。これでよいのか、民主主義社会のあるべき姿に照らして再考すべきではないのか。その問題提起が「表現の不自由展・その後」にほかなりません。公共団体が「発表を妨害された表現」を展示して、多様な表現の共存を回復することは、公共団体のもつ公共性に適合することではないでしょうか。
※少なくとも両論併記しないと、公共性が保てない。
☆「両論」という言葉遣いが、「『表現の不自由展・その後』が特定の立場の政治的見解を発信しようとしている」という前提に立つもので、誤解あるいは曲解のあることを指摘せざるを得ません。
「特定の意見」の表明と、「表現一般の自由を保障せよという意見」の表明とを、ことさらに混同してはなりません。「表現の不自由展・その後」は、「特定の意見」を表明するものでも、特定意見に与するものでもなく、「特定の意見」の表現妨害例を紹介することで「表現一般の自由を保障せよ」と意見表明したものです。特定意見の内容に与しているのではありませんから、両論を併記せよという、批判ないし要望は的を射たものにはなっていません。
☆もしかしたら、「両論併記」要望は、こういう意見ではないでしょうか。
「この展示は、『表現一般の自由擁護』という名目で、実質的に『国策と国民多数派の意見を批判する表現』の肩を持つことになっているではないか」「公共機関としては、国策に反する意見の肩をもつべきではない」「百歩譲っても、国策側の意見も明記しておかねばならない」。とすれば、実はこの意見は危険なものを含んでいるといわねばなりません。
この場合の「両論」とは、「国策とそれを支える多数派の意見」と、「国策を批判する社会の小数派の意見」の対立を意味しています。考慮すべきは、この「両論」間の圧倒的な力量格差です。歴史の知恵は、民主主義の成立要件として、「少数意見の尊重」と「多数派の寛容」を求めてきました。
妨害され排斥されて表現の場を奪われてきた「国策に反する意見」「少数派の意見」に、表現の機会を確保して少数派の意見を紹介することは、「国策」「多数派の意見」を否定することではなく、国民に選択肢を提示して議論の素材を提供するものとして、公共性の高いことというべきなのです。
※どうして、大切な公共の税金を反日的なものに使うのか。
☆「反日」というレッテル貼りは、かつての「非国民」「売国奴」「スパイ」と同様、議論の展開を閉ざしてしまうものとして、危険な言葉と指摘せざるを得ません。
国策や多数派の意見に反し、国民に心地よくない意見が、実は長い目では高次の国民の利益に適うものであったことは歴史上いくらもあったことで、近視眼的に「税金を『反日的』な目的に使うな」と拳を振り上げるべきではありません。
☆表現の自由は、より良い民主主義社会を形成するために不可欠なもので、意見の正否は、国民的な議論の場の中で国民自身が判断することになります。その議論の場を作るための税金の投入は、税金本来の使い方として、適切なものというべきです。「表現の不自由展・その後」のコンセプトはそのようなもので、税金本来の使い方から逸脱するものとは考えられません。
☆よく引用されるとおり、公共図書館の蔵書が好例です。税金で様々な立場の書籍が、揃えられていますが、図書館が特定の書物の見解に与するものではありません。「図書館が税金で、『反日』の本を買って怪しからん」というのは民主主義を理解しない滑稽な意見です。名古屋市長の意見は、公共図書館の蔵書の中の特定のものを「焚書」せよ、と言っているに等しいものというほかはありません。
☆かつては、「地動説」も「種の起源」も少数派の意見であり、政治弾圧も受けました。税金を投入しているから、権力や多数派の承認しない表現は受け付けない、では人類の進歩に逆行することになりかねません。
※「反日」と言えないまでも、結局は特定の政治的意見表明らしきものに税金を使うことに納得しがたい。
☆「表現の不自由・その後」の展示は、表現の自由保障というベーシックな民主主義的価値の現状についての訴えであり、そのことを通じての民主主義の環境整備です。仮に、作品がもつ固有の「政治性」を個人的な不愉快と考えても、その展示の公共性・公益性に照らして、受忍していただくしかありません。
☆国や自治体が税金を投入することで、特定の意見に国民を誘導することは禁じ手です。国民が正確な議論と選択ができるよう、民主主義の環境を整えることが、国や自治体のなすべきことです。「反日と言えないまでも、政治的表明らしきもの」は公的な場から追放すべきだという考え方は、結局「国策に適う多数派意見」だけを、公的な場で公費を使って表現させることになります。そのような、国策への意見の統一を望ましいとすることこそが、民主主義に反する危険な意見なのです。
※公共団体の一方的な政治的意見の表明で,たくさんの国民が傷ついている。
☆表現の自由の保障は、人を傷つける表現を想定してこれを許容しています。むしろ、誰をも傷つけることない、誰にとっても心地よい表現は、その自由を保障する意味がありません。
☆「平和の少女像」が訴えている日本軍「慰安婦」問題ですが、旧日本軍が組織的に慰安所を設置し、これを管理し運営したことは、厳然たる歴史上の事実です。強制性も否定することができません。日本人の心が傷つくとして、この議論に蓋をすることこそ、韓中蘭など多くの国の国民を傷つける行為ではありませんか。
☆表現が人を傷つけるのではなく、歴史的事実が人を傷つけているのです。傷ついても、苦しくても、知らねばならない歴史の真実というものがあります。これに蓋をするのではなく、向かい合ってこそ、再びの過ちを繰り返さないことができることになります。
※こんなに反対の多い企画は,そもそもやってはならない。
☆この展示は、表現の自由侵害の現状を世に問うた立派な企画として評価しなければなりません。この企画の展示内容だけでなく、この企画への社会の対応も、今の社会が民主主義の理念から逸脱して危険な現状にあることをまざまざと示すものとなりました。この展示の企画よりは、この企画を妨害してやめさせたことの責任の方がはるかに大きいのものと考えなければなりません。
企画に賛否の意見があることは当然としても、「ガソリンをまく」など、明らかな脅迫を手段とする威力業務妨害の犯罪行為には、毅然と対処しなければなりません。批判されるべきは、暴力的に展示を妨害した犯罪者らと、これを煽った政治家たちです。とりわけ、河村たかし名古屋市長の責任は重大です。
☆賛成が多く、反対が少ない企画だけが、許されるとすれば、「国策に沿うもの」「現政権に忖度しているもの」「社会の多数派の意見に迎合するもの」だけの展示になります。それは、少数派の意見も尊重されるべきとする表現の自由の理念から、けっして許されません。
☆また、今後の教訓とすべきは、一部勢力の表現の自由に対する組織的な妨害があることを想定しての対応だと思います。主催者は、電話の発信元を確認しすべて録音する、暴力的な電話やファクスは即時公表し、警察に告訴する。事前に、このような心構えをスタッフが共有しておくこと…などでしょうか。今の時代、表現の自由を守るには、相応の覚悟が必要となっています。本件は、そのことを教えています。
(2019年9月13日)
私は未見なのだが、映画「主戦場」が大きな話題となっている。2019年4月20日公開で、その2か月後の興行成績を朝日新聞は、「東京の映画館では満席や立ち見状態になり、上映後には拍手が起きる『異例のヒット』」と報じている。全国各地に上映館が拡大している。この種の映画としては、紛れもない「最大級の異例のヒット」。世論への影響も小さくない。
テーマは慰安婦問題。劇映画ではなく、多数者へのインタビューを重ねた地味なドキュメンタリー。これがなぜ異例のヒットとなったか。何よりも、異例の宣伝が功を奏したからだ。出演者自らが勤勉な宣伝マンとなって話題作りに励み、この映画の題名や内容や評判を世に知らしめ、多くの人の鑑賞意欲を掻き立てたのだ。制作者の立場からは、こんなにありがたいことはなかろう。
5月30日、この映画の出演者の内の7人が、共同で上映中止を求める抗議声明を発表した。そのうち、3人が共同記者会見をしている。これが、この映画の存在と性格を世に知らしめる発端になった。言わば、これが話題作りパフォーマンスの発端。多くの人は、この記者会見で、こんな映画があり、こんな問題が生じていることを初めて知ることとなった。
「主戦場」を異例のヒットに導いた7人の宣伝マンの名を明記しておかなくてはならない。多くは、おなじみの名だ。ほかならぬこの7名が、映画の出演者として自らが出演した映画の上映中止を求めている。それだけで、映画の宣伝としての話題性は十分。この声明と記者会見で、この映画を観るに値すると考え、映画館に足を運ぼうと思いたった数多くの人がいたはずである。
??? 櫻井よしこ(ジャーナリスト)
??? ケント・ギルバート(タレント)
??? トニー・マラーノ(テキサス親父)
??? 加瀬英明(日本会議)
??? 山本優美子(なでしこアクション)
??? 藤岡信勝(新しい教科書をつくる会)
??? 藤木俊一(テキサス親父のマネージャー)
「共同声明」は、彼らが映画の上映中止を求める理由を7項目にわたって書いている。その7項目のタイトルが下記のとおり。
1、商業映画への「出演」は承諾していない
2、「大学に提出する学術研究」だから協力した
3、合意書の義務を履行せず
4、本質はグロテスクなプロパガンダ映画
5、ディベートの原則を完全に逸脱
6、目的は保守系論者の人格攻撃
7、出崎(監督のデザキ)と関係者の責任を問う
上映や出版の中止を求める場合、普通は「事実が歪曲されている」「事実無根の内容によって名誉と信用を毀損された」とする。表現の自由も、「事実を歪曲する自由」を含まないからだ。しかし、この7項目に、そのような主張は含まれていない。具体的に、真実と異なる表現を指摘できないと理解せざるを得ない。
毎日「夕刊ワイド」が詳細に報じているとおり、「『主戦場』は、出演者の発言と表情を克明に追う。抗議声明に名前を連ねているケント・ギルバート氏は3月の試写会鑑賞後、毎日新聞の取材に対し『取り上げる意味のない人物の発言を紹介している』と批判を加えた一方で、自身の発言部分については『まともに取り上げてくれています。それは大丈夫です』と話している。」というのだ。
藤岡信勝は「学術研究とは縁もゆかりもない、グロテスクなまでに一方的なプロパガンダ映画だった」と強調したというが、本来プロパガンダ映画作りも、表現の自由に属する。
その上、「商業映画への出演は承諾していない」「大学に提出する学術研究だから協力した」「合意書の義務を履行せず」の主張は、彼らにとって旗色が悪い。
一方、デザキ氏と『主戦場』配給会社の東風は6月3日、東京都内で記者会見した。デザキ氏は、出演者が「撮影、収録した映像、写真、音声などを私が自由に編集して利用することに合意する合意書、承諾書に署名した」と指摘した。藤岡氏ら2人については、公開前の確認を求めたため、昨年5月と9月に本人の発言部分の映像を送ったという。その後、連絡がなかったため大丈夫だと考えたという。デザキ氏は、出演者には「試写会」という形で一般公開される前に全編を見てもらう機会を与えたとも強調した。(週刊金曜日)
にもかかわらず、6月19日、この7人のうちの5人(ギルバート、マラーノ、山本、藤岡、藤木)が原告となって映画の上映差し止めと計1300万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。どういうわけか、櫻井よしこ、加瀬英明の二人は、提訴をしていない。
いずれにせよ、勝ち目を度外視したにぎやかな提訴がまたまた話題を呼び、この映画の社会的関心を盛り上げることに成功している。有能な宣伝マンたちの、献身的な行為と賞讃せざるを得ない。
なお、朝日の報道に、原告らは「映画で『歴史修正主義者』『性差別主義者』などのレッテルを貼られ、名誉を毀損(きそん)された」とある。
フーン。彼らにも、『歴史修正主義者』『性差別主義者』などは、名誉を毀損する悪口だという認識があるのだ。
「歴史修正主義」とは、歴史的事実をありのままに見ようとせず、自らのイデオロギーに適うように歴史を歪めて見る立場をいう。イデオロギーに、事実を当てはめようという倒錯である。典型的には、「天皇の率いる日本軍が非人道的な行為をするはずがない」という信念から、「従軍慰安婦などはなかった」とする立場。あるいは、日本という国を美しいものでなくてはならないとする考え方から、日本の過去の行為はすべて美しいものであったという歴史観。原告ら5人は、この映画制作進行の過程で、こう指摘される結論に至ったのだ。その過程が示されていれば、名誉毀損にも侮辱にも当たらない。
また、「性差別主義者」についてである。「例えば、上映中止を求めている一人の藤木俊一氏。『フェミニズムを始めたのは不細工な人たち。誰にも相手にされないような女性。心も汚い、見た目も汚い』との内容を語る様子がスクリーンに映し出される。だが、記者会見でこの発言について確認を求められた藤木氏は『訂正の必要はない』と述べている。」(毎日・夕刊ワイド)
『主戦場』という映画のタイトルは、いまや日本でも韓国でもなく、当事国ではないアメリカこそが、この論争の主戦場になっているという、映画の中での右派の言葉からとったものだという。
あるいは、これまでの論争を総括し集約して、このスクリーンこそが従軍慰安婦問題の主戦場である、という主張なのかも知れない。いや、スクリーンにではなく現実の社会の論争喚起にこそ主戦場がある、との含意かも知れない。何しろ、安倍晋三を首相にしているこの日本の歴史認識状況なのだから。
この映画と映画をめぐる諸事件が、従軍慰安婦問題論争に火をつけ、活発なメディアの発言が続いていることを、歴史修正主義派を糾弾する立場から歓迎したい。
(2019年6月21日)
本日(9月17日・第3月曜日)は敬老の日。「国民の祝日に関する法律」(祝日法)では、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」趣旨とある。おや、そうなのですか。
そもそも「国民の祝日」とは何か。「自由と平和を求めてやまない日本国民が、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日である」(同法1条)とのこと。
「敬老」とは、「自由」と「平和」と「美しい風習」と「よりよき社会」と「より豊かな生活」のどれに関わるのだろうか。「多年にわたり社会につくしてきた老人」だけが、「敬愛」と「長寿を祝う」対象となるのだろうか。「多年にわたり社会につくしてはこなかった老人」はどうなるのだろう。その線引きは?
それはともかく、敬老の日は戦前はなかった。戦後の賜物である。
明治期には「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344号、1873年10月14日施行、1878年6月5日・1879年7月5日改正)によって、大正期・昭和初期には「休日ニ関スル件」(大正元年勅令第19号、1912年9月3日施行、1913年7月16日・1927年3月3日改正)によって定められていた。(ウィキペディアからの引用。ウィキは便利だ)
よく知られているとおり、戦前の祝日と祭日とは、すべて天皇制と天皇神話に結びついたものだった。祝祭日だけではなく、一世一元・「日の丸・君が代」・ご真影・修身・国史・教育勅語・軍人勅諭・靖国神社…。なにもかにもが、天皇賛美のマインドコントロールの道具立てだった。あるいは、天皇教という空疎な信仰の教典・教具。オウムがやろうとしてできなかったことを天皇制国家は大規模に現実のものとしていたのだ。
明治以来150年の前半に構築された狂信のシステムはその半ばで崩壊した。が、根絶はされずしぶとくその根を生き残らせている。天皇も、元号も、「日の丸・君が代」も。そして祝日の一部もである。なによりも、国民一人ひとりの感性の底に、権威主義というかたちで。
本日・敬老の日は、その成り立ちが天皇制とは無縁のようで、その点は清々しい。とはいうものの、なんとなく、「敬老」には、取って付けたような不自然さがある。社会は、本音のところ高齢者を「敬」してなどいない。無理して口裏を合わせているというニュアンス。「敬老」の「敬」は「敬して遠ざく」の敬。
本日の産経社説が「敬老の日 地域で高齢者を見守ろう」と題するもの。その冒頭が、「お年寄りは、長く社会に尽くしてくれている。だから敬いたい。」という気持ちの悪い一文。
杉田水脈は、こう言った。
「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同を得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。」
杉田は、愚かにも本音を漏らしてお仲間からも批判を受けた。しかし、実のところ、この杉田の言こそが今権力を握っている勢力の本音なのだ。「国家・社会に役に立たない人間は、存在する価値がない」「資本が利潤を生むに寄与するところのない人物は無価値」というのだ。
すべての人は、人として生を受けたというそのことだけで、等しく尊厳をもっている。人種・民族・宗教の別なく、男女・年齢・障害の有無に関わりなく、平等に生きる権利をもっている。このことはけっしてだれにも自明なことではなく、常に意識し、自覚し直し、発言し続けなければならない。人類の長年の努力がようやく到達したこの公理としての理念。努力を積み重ねることなくして維持することもできないのだ。
老人は、LGBT以上に「生産性」をもたない。だから、当然に「そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」の本音が感じられる。老人福祉を「枯れ木に水をやる」と表現した政治家もいた。
産経とはひと味違う社説を掲載しているのが東京新聞。本日付社説は「敬老の日に考える 物語をしてください」。これは秀逸だ。
「戦中戦後を生き抜いた人たちは、誰もが“鍵”を持っています。私たちの未来を開く鍵。だからおじいさん、おばあさん、今宵また物語をしてください。」という書き出し。
で、採話した物語の語り手が、在韓被爆者なのだ。17歳直前での広島爆心地近くでの被爆体験者。今は、「韓国のヒロシマ」と呼ばれている韓国南東部にある陜川(ハプチョン)の「陜川原爆被害者福祉会館」で暮らしている人。当時は、まぎれもない日本人だった。達者な広島弁で記者に「自分の物語り」を語ったという。
「あたしは金日祚(キムイルチョ)。日本名は松本君代。君が代ね。学校の友達にはキミちゃんと呼ばれてました。昭和3年9月18日生まれ、数え年91歳。もう年寄りでね、耳が遠いけん…」
以下は、下記のURLで。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018091702000153.html
この記事には、産経のような「上から目線」がない。高齢者に対するシンパシーにあふれている。
この社説が言うとおりだ。私も、亡き父と母に、話しをしてもらえばよかったと思う。戦争のこと、戦地のこと、銃後のこと、戦前と戦後とが違うのかつながっているのか。生活苦のこと、学校のこと、故郷のこと、天皇のこと…。若者が高齢者に、「伝えておきたいことをゆっくり話して」といわせる余裕のある社会であって欲しいと思うが、そんな文化も今はなかろう。その余裕もない社会を作ってきたのが、私たち自身なのだと、後悔しきりである。
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いまこそウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を! 賛同署名のお願い。
https://article9.jp/wordpress/?p=11058
安倍政治に即刻の終止符を求める人々の熱い言葉の数々。
https://article9.jp/wordpress/?p=11073
ネット署名にご協力を。そして、是非とも拡散をお願いします。
9月10日に開始して、賛同者は本日(1 7日)6600筆余と足踏み状態です。
署名は、下記URLからお願いいたします。
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(2018年9月17日・連続更新1996日)
私は、「瑞穂の國記念小學院」なるもの開校が頓挫してほんとうによかったと思っている。その理由の一つは、この学校の教育理念の反〈日本国憲法〉性である。親〈大日本帝国憲法〉性と言っても同じこと。国家主義であり、天皇中心主義であり、滅私奉公の時代錯誤も甚だしい。
もう一つの理由が、この学校がアベ晋三という薄汚い政治家との縁によって開校寸前まで漕ぎつけていたことである。一時期「安倍晋三記念小学校」の名称で寄付を募っていただけでなく、認可申請先の大阪府(私学課)にも、この校名での説明を行っていたことが明らかになっている。アベの妻が、開校予定学校の名誉校長となっていたことも、天下周知の醜悪な事実だ。
この二つの理由は、実は緊密に結びついている。アベ晋三という権力者が、日本国憲法が大嫌いなのだ。アベに取り入ろうとすれば、右翼でなくてはならない。極右であればなおさらよい。だから、教育勅語による教育を標榜する恐るべきアナクロ小学校が、アベが関与していると思わせるだけで、開校寸前にまで至ったのだ。違法に違法を重ねてのこと。カミカゼは、吹くべくして吹いたのだ。
とはいえ、森友学園の願望は潰えた。本当によかった。アベ晋三と組んでも碌なことにはならないという見本。これが大切な教訓なのだ。ところが、加計学園の野望は成功しつつある(ように見える)。岡山理大・獣医学部は今年(2018年)4月に開校した。これはよくない。アベと親しいと思わせるだけで無理が通る、事業もうまく行く。こんな成功体験を野放しにしていてはならない。「やっぱり、権力とつるむようなところに擦り寄ったらアカン」「安倍晋三なんか当てにしたら、たいへんなことになる」ことの実証が大切なのだ。
昨年(2017年)の12月のこと、刑法研究者を中心としたある会合で、1人の参加者がスピーチに立った。「実は私、今話題の岡山理科大学の教員です」。この自己紹介に、会場がどっと沸いた。沸き方が、何とも名状しがたい雰囲気だった。縁のあるべくもない別世界の異人種が突然この世に現れた、とでもいうような。
ところが、その人の発言は、実に真っ当で、とても立派なものだった。それがまた、聴衆の意外感を掻きたてた。あの加計孝太郎の学園に、あのアベの親友といういかがわしい理事長の学園に、これはまたどうしてこんな真っ当な人がいることができるのだろうか、という共通の印象であったろう。
加計学園、岡山理科大学。いずれも、「あの」「例の」「ほら、アベ首相と関係の」という冠詞抜きでは語られない運命が刻印されたと言わざるをえない。とりわけ、今治の獣医学部新入生186名だ。生涯、「あの」「例の」「ほら、アベ首相と関係の」「アベさんが、『いいね』と言ってできた」学校を出たことがついてまわる。そのことは覚悟しなければならない。18歳は大人だ。自分の選択の結果は、自分で引き受けるしかない。
もちろん、この学校が新入生諸君の卒業までもつかは保証の限りではない。愛媛県も今治市も、こんな学校に補助金を出し続けることができるだろうか。
話題となった愛媛県文書の中の2015年2月25日アベ晋三と加計孝太郎との面談記録。ここから、アベの息がかかった獣医学部建設計画として歯車が動き出す。アベと加計には、この面談記録はまずい。「当時の担当者が実際にはなかった総理と理事長の面会を引き合いに出し、県と市に誤った情報を与えてしまった」としたうえで、加計学園の事務局長渡辺良人が、「自分がウソをついた」と名乗り出て揉み消そうとした。しかし、どうやらこの弁明が嘘だとばれつつある。愛媛県民も今治市民も、こんな学校に補助金を出し続けることを納得できるはずがない。
獣医学部の新入生諸君は、さぞや肩身の狭い不安な思いをしているのだろうと思いきや、どうもそうでもないらしい。学生の声を伝える「女性自身」からの引用記事がネットに紹介されている。
「不満なんてないですね。校舎は新しいし、学食もおいしい。サークル活動も、すべてイチからのスタートです。『こんなサークルを作ろうよ』など、みんなの意見が活発に飛び交っていますよ」
「大学の外で起こっていることは、私たちにはどうしようもありません。ここに入った以上、私たちにできることは勉強することだけ。だから『国家試験に合格して、世間を見返してやろう』と、みんなで言っていたところです」
「みんな『ほかに合格できなかったから、この大学に入ったんだろう』と思っているみたいですが、それは違います。僕たちはみな、獣医になりたくてあえて県外からここにやってきたんです。だから不安なんてありません。もちろん大学が廃校になるというなら、また話は別ですが……」
教育をビジネスとしてきた人物が、薄汚い政治家と結託して、公正であるべき行政を枉げて作り出した獣医学部だ。学生諸君には、その自覚が必要ではないか。その自覚があってなお、こんな脳天気なことが言っておられるだろうか。
(2018年6月14日・連続更新1901日)
中村敦夫が一人芝居として演じる朗読劇「線量計が鳴る?元原発技師のモノローグ」が話題となっている。
「原発の町で生まれ育ち、原発で働き、そして事故で全てを失った主人公のパーソナル・ヒストリー」だそうだ。中村が演じる老いた元原発技師のモノローグで原発が作られた経緯や仕組み、事故の実態、また原発を動かしている本当の理由、その利権に群がる「原子力ムラ」の相関図が浮き彫りにされる。
双葉町に生まれた主人公は原発で働くが、不正を内部告発してクビになる。そして原発事故ですべてを失う。老いた元原発技師が人生を振り返ることで、原発がつくられた経緯や事故の実態、利権に群がる「原子力マフィア」などの問題が浮かび上がる。劇中で、国は「除染したから村に帰れ」と避難者に指示する。主人公は帰らないことを決意して、ここで有名になった決めゼリフを言う。
「右を向けと言われたら右を向き、左と言われれば左を向き、死ねと言われたら死ぬと。俺はもう、そんな日本人にはなりたくねえんだ。」
原発を推進した国策の構造は、戦争を推進した国策にそっくりだ。日本人はその国策に唯々諾々としたがった。中村の決めゼリフは、原発の推進を許した国民の責任を、戦争を許した当時の国民の責任と重ねている。
日本人は、戦犯を自らの手で裁くことができなかった。それどころか、再びの天皇美化にさえ手を染めている。メディアが提灯記事をかき、国民も提灯を手に天皇を歓迎するの図柄だ。戦争への反省が中途半端だった日本人が原発の推進を許し、再稼働をたくらむアベ政権の存続を許している。あまつさえ昨日(6月10日)の新潟知事選では再稼働反対を明言する野党共闘候補を落選させてもいる。中村敦夫が、「あっしには関わりのないことでござんす」とは言っておられない。「俺はもう、そんな日本人にはなりたくねえんだ。」と叫ばずにはおられない思いなのだ。
それにしても、この決めゼリフ。いくつものパロディが可能だ。
右を向けと言われたら右を向き、
左と言われればいつまでも左、
天皇のために死ねと言われたら死ぬと。
俺はもう、そんな日本人にはなりたくねえんだ。
起立しろと言われたら「日の丸」に起立し、
唱えと言われれば「君が代」を唱い、
国や会社のためなら死ぬほどはたらくと。
そんな日本人がまだいるんだ。
隠蔽と言われたら隠蔽し、
改ざんと言われれば改ざんし、
辞職と言われたら辞職する。
俺はもう、そんな官僚にはなりたくねえんだ。
圧力と言われたら圧力だと言い、
完全に一致してますなどとゴマを擂り、
ハシゴをはずされてもへらへらと。
俺はもう、そんな首相はがまんがならねえんだ。
共鳴したから名誉校長を引き受け、
都合が悪くなったら知らん顔、
ほとぼり冷めるまでダンマリと。
私はもう、そんな首相夫人はまっぴらだ。
「いいね」と言われたから頼ったんだ、
口裏合わせてここまでがんばって、
いまさらダメなんてあり得ない。
もう学部を閉めるなんてできっこねえんだぜ。
監督に命令されたら逆らえない、
相手選手を壊せと言われたら壊しに行き、
おかしいだろ反省しろと言われたら反省してみせる。
俺はもう、そんな体育系はやになっちゃった。
完全・絶対・不可逆なんて
あんたが言うからその気になって、
ヘイト、ヘイトでついてきた。
今さら北の将軍にお世辞使って会談なんて
俺はもう、日本会議をやめたくなった。
右を向けと言われたら左を向き、
左と言われれば右を向く。
そこまではっきりしなくても、
面従腹背の日本人ばかりなら戦争なんてできねえんだ。
(2018年6月11日・連続更新1898日)
本日(6月9日)の毎日新聞朝刊25面に、「是枝監督 文科相のお祝い辞退」の記事。「公権力と距離保つ」と横見出しがついている。私には、カンヌの「パルムドール」がナンボのものかはよく分からない。しかし、「文化は公権力と距離を保つべきもの」「そのために、文科相のお祝いは辞退する」という、是枝裕和監督の心意気はよく分かる。権力への摺り寄りやら忖度やらが横行する昨今。清々しいことこの上ない。
毎日の記事を引用しておこう。
フランスで先月開かれた第71回カンヌ国際映画祭で、メガホンを取った「万引き家族」が最高賞「パルムドール」を受賞した是枝裕和監督に対し、林芳正文部科学相が文科省に招いて祝意を伝える考えを示したところ、是枝監督が自身のホームページ(HP)に「公権力とは潔く距離を保つ」と記して辞退を表明した。
林氏は7日の参院文教科学委員会で、立憲民主党の神本美恵子氏から「政府は是枝監督を祝福しないのか」と質問され、「パルムドールを受賞したことは誠に喜ばしく誇らしい。(文科省に)来てもらえるか分からないが、是枝監督への呼びかけを私からしたい」と述べた。今回の受賞を巡っては、仏紙「フィガロ」が安倍晋三首相から祝意が伝えられないことを「是枝監督が政治を批判してきたからだ」と報じていた。
答弁を受け、是枝監督は同日、HPに「『祝意』に関して」と題した文章を掲載。今回の受賞を顕彰したいという自治体などからの申し出を全て断っていると明かした上で「映画がかつて『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、公権力とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないか」とつづった。
是枝裕和のコメントは、下記URLで読める。
http://www.kore-eda.com/message/20180607.html
『祝意』に関して 2018年6月7日
6月5日にブログで発表した『「invisible」という言葉を巡って』には思った以上に沢山の感想が寄せられました。ありがとうございました。
あれで終わりにしようと思っていたのですが、まぁ僕が語った趣旨がすぐにその通りに浸透するわけもなく…。
国会の参院文科委員会で野党の議員が「(是枝に)直接祝意を表しては? 現場をとても鼓舞する。総理に進言を」と文科相に問いただしているやりとりを目にし、更にその後「林文科相が文科省に招いて祝福したいという意向を示した」と伝えられたとNHKのニュースで目にしました。他に多くの重要な案件がありながら、このような私事で限られた審議や新聞の紙面やテレビのニュースの時間を割いて頂くのも心苦しく、もう一言だけ(笑)僕なりの考えを書いておくことにしました。
実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。先日のブログの中で僕はこう書きました。
「大きな物語」に回収されていく状況の中で映画監督ができるのは、その「大きな物語」(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な「小さな物語」を発信し続けることであり、それが結果的にその国の文化を豊かにするのだ
もちろん、例えば敗戦からの復興の時期に黒澤明の『羅生門』がベニスで金獅子賞を獲得したことや、神戸の震災のあとに活躍したオリックスの球団と選手を顕彰することの意味や価値を否定するものでは全くありません。
しかし、映画がかつて、「国益」や「国策」と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような「平時」においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています。決して波風を立てたいわけではないので「断った」などとはあえて口にしないでおりましたが、なかなかこの話題が収束しないようなので、本日ここに公にすることにいたします。なので、このことを巡る左右両派!のバトルは終わりにして頂きたい。映画そのものについての賛否は是非継続して下さい。『万引き家族』明日公開です。「小さな物語」です。
最後に一言だけ。今回の『万引き家族』は文化庁の助成金を頂いております。ありがとうございます。助かりました。しかし、日本の映画産業の規模を考えるとまだまだ映画文化振興の為の予算は少ないです。映画製作の「現場を鼓舞する」方法はこのような「祝意」以外の形で野党のみなさんも一緒にご検討頂ければ幸いです。
6月5日付ブログ『「invisible」という言葉を巡って』の記事はかなり長い。その中から、『メッセージと怒り』と小見出しを付けた部分だけを紹介しておきたい。
http://www.kore-eda.com/message/20180605.html
映画監督なのだから政治的な発言や行動は慎んで作品だけ作れというような提言?もネット上でいくつか頂いた。僕も映画を作り始めた当初はそう考えていた。95年に初めて参加したベネチア映画祭の授賞式でのこと。ある活動家らしき人物がいきなり壇上に上がり、フランスの核実験反対の横断幕を掲げた。会場にいた大半の映画人は、立ち上がり拍手を送った。正直僕はどうしたらいいのか…戸惑った。立つのか立たないのか。拍手かブーイングか。この祭りの空間をそのような「不純な」場にしてもいいのか?と。しかし、23年の間に気付いたことは、映画を撮ること、映画祭に参加すること自体が既に政治的な行為であるということだ。自分だけが安全地帯にいてニュートラルであり得るなどというのは甘えた誤解で不可能であるということだった。
? 映画祭とは、自らの存在が自明のものとしてまとっている「政治性」というものを顕在化させる空間なのである。目をそむけようが口をつぐもうが、というかその「そむけ」「つぐむ」行為自体も又、政治性とともに判断される。しかし、このようなことは映画監督に限ったことではもちろんなく、社会参加をしている人が本来持っている「政治性」に過ぎない。日本という国の中だけにいると意識せずに済んでしまう、というだけのことである。少なくともヨーロッパの映画祭においては、こちらの方がスタンダードである。今僕はその“しきたり”に従っている。もちろん公式会見や壇上のスピーチではそういった行為は避ける。「作った映画が全てだ」という考え方がやはり一番シンプルで美しいと思うから。しかし、これは個人的な好みの問題でしかない。個別の取材で記者に問われれば、専門家ではないが…と断りを加えた上で(この部分は大抵記事からはカットされる)自分の社会的・政治的なスタンスについては可能な限り話す。そのことで自分の作った映画への理解が少しでも深まればと思うからである。これを「政治的」と呼ぶかどうかはともかくとして、僕は人々が「国家」とか「国益」という「大きな物語」に回収されていく状況の中で映画監督ができるのは、その「大きな物語」(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な「小さな物語」を発信し続けることであり、それが結果的にその国の文化を豊かにするのだと考えて来たし、そのスタンスはこれからも変わらないだろうことはここに改めて宣言しておこうと思う。その態度をなんと呼ぶかはみなさんにお任せいたします。
この映画監督が、頭の中に「大きな物語」と「小さな物語」の対立構図を持っていることがまことに興味深い。「大きな物語」とは、「国家」とか「国益」に収斂する物語だが、これは空虚でウソの匂いがつきまとう。一人ひとりの人生は、「小さな物語」でしかなく、泣いたり笑ったり感動したりは、この「小さな物語」の中にしかない。ところが、いまは「人々が『大きな物語』に回収されていく状況」と捉えられている。
「回収」という言葉が、言い得て妙。回収する主体は「国家」や「国益」を司る者。今は安倍政権である。これが、生活ゴミを回収するがごとく、産廃を回収するがごとくに、一人ひとりの「小さな物語」を「大きな物語」の一部として取り込み、回収しようとしているのだ。
「回収の道具」はいろいろある。日の丸・君が代・元号・勲章などは、個人の「小さな物語」を国家の「大きな物語」に取り込み、回収するための分かり易い小道具。オリンピックも、ワールドカップもそんなものなのだろう。
ジャーナリズムも文化も教育も、気をつけないとそんな「回収のための小道具・大道具」に堕してしまうことになりかねない。
だから、是枝は、大切なことは、「『大きな物語』(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な『小さな物語』を発信し続けること」だという。「そのスタンスはこれからも変わらないだろうことはここに改めて宣言しておこうと思う。」という、その言やよし。
もう一言。ネットでの右翼諸君の発言に、「是枝監督の 辞退表明、政府から助成金もらっておきながら『公権力とは潔く距離を保つ』って違うんじゃない?」というものが多い。
この言は、薄汚い権力者のホンネだ。ネトウヨが、アベ政権の本心を代理して発言しているのだ。
「国民の税金はすべて我が政権の手中にある。この政権に従順な者だけに金を配分してやろう。政権に楯突く不逞の輩にはカネをやらない。」「だから是枝よ、胸に手を当ててよく考えろ。」「映画を作るには金が要るだろう。助成金が必要なら、『公権力とは潔く距離を保つ』などと格好つけていてはならない。『魚心あれば水心』って、あながち知らないわけでもなかろうに。」
助成金は国民の税金だ。国民に還元しなくてはならない。還元は先は、けっして公権力でも政権でもない。政権の意向を忖度しない映画の制作こそ、最も適切な国民への還元なのだ。
(2018年6月9日)