敢えて、何度でも繰り返そう。吉田嘉明よ、キミには今闘っているという自覚はないのか。ファイティングポーズをくずしてはならない。リングから逃げてはならない。逃げれば、永久に、卑怯・未練・怯懦と言われるばかりだ。それでよいのか。
吉田嘉明よ。逃げずに法廷に出て来たまえ。同じ日、同じ法廷で、私も語る。キミも、思うところを存分に述べたらどうだ。
そもそも、闘いを仕掛けたのは君の方だ。突然に私を訴えた。2000万円を支払えという損害賠償請求訴訟。私は逃げずにキミからの仕掛けを受けて闘った。もちろん、キミの提訴は言論の萎縮をねらった露骨なスラップだと反撃を開始した。私が「DHCスラップ訴訟を許さない」、という当ブログのシリーズを書き始めたら、何と2000万円の請求が6000万円に跳ね上がった。キミの言論抑圧の意図はそれだけで明瞭ではないか。
こんなメチャクチャなスラップ訴訟を、キミは同時期に10件も提訴している。とうてい勝算などあり得ない訴訟を、それでも提訴した思惑を語れ。一体幾らのカネをかけてこんな訴訟をやったのか。もしや、顧問弁護士から、勝訴の見込みがあるとでも吹き込まれたというのか。その経緯を、宣誓して法廷で語れ。
吉田嘉明よ、キミの私に対する6000万円請求訴訟は、当然のことながら私が勝訴した。キミは、明らかに勝ち目のない訴訟を提起して、地裁、高裁、最高裁まで争って敗訴確定となった。しかし、世の中に、「DHC・吉田嘉明を批判すると、高額請求訴訟の被告とされて面倒なことになる」という抜きがたい記憶だけは残したのだ。これこそ、スラップの効果だ。キミのねらいはそこにあったとしか考えられない。そして私は、降りかかる火の粉を払っただけ。火の粉を払うために要した労力も時間も費用も相当なものだ。だから、今はキミのやり得、私のやられ損だ。
吉田嘉明よ。第2ラウンドも、キミからの仕掛けだった。キミが原告となって私を被告とした債務不存在確認請求訴訟を提起した。私は、受けて立たざるを得ない。再びリングにのぼった。そして、今私は反訴原告となって、DHCと吉田嘉明を反訴被告とする660万円の損害賠償請求訴訟を提起している。
裁判所は、私とキミの両方の尋問を決定した。1月12日のことだ。尋問の期日は、4月19日(金)午後1時30分?、415号法廷だ。もちろん、私は法廷で尋問を受ける。DHCと吉田嘉明の違法を腹の底から訴える。当然にキミもそうするだろうと思っていた。
ところがどうだ。本日の進行協議、尋問の順番や時間配分をどうするかの協議の席で、キミの代理人今村憲弁護士は、「反訴被告本人は、今のところ出頭しない方向です。」と言った。本当だうか。自分の方からイクサを仕掛けておいて、いざとなったら逃げようというのか。
裁判所は本日中に呼出状を発送すると明言した。「もし、呼出に応じないというのなら、理由を付してその旨の返事を2月末までに」というのが、裁判所の指示だ。
私は、キミにお願いしたい。逃げずに、誰かの後ろに隠れずに、堂々と裁判所に出てきてしゃべってほしい。私もキミに直接の質問をしたい。キミから私に、質問もしてもらいたい。
キミも私も、文明社会に生きている。紛争の解決は、司法手続ですることになる。その文明がキミに言い分を語るチャンスを提供しているのだ。しかも、キミは弁明しなければなない立場にある。その弁明の機会を放棄しようというのか。
もとはと言えば、キミが週刊新潮に書いた手記の内容が私の批判を招いたのだ。その手記の内容や発表の意図について、他人が代わって説明できることではない。2000万円の提訴、6000万円への増額請求、普通にはあり得ないことをキミ自身の判断で行ったのだ。キミの内心や動機は、キミ以外には語れない。
もう一度言おう。私は、キミを批判の対象としている。しかし、けっしてキミを軽蔑してはいない。しかし、キミが、リングから逃げて、卑怯未練・怯懦の振る舞いをすることとなれば、軽蔑せざるを得ない。
キミは、「本物、偽物、似非もの」と並べる記事を書いたではないか。キミ自身が、「偽物」でも「似非もの」でなく、「本物」だと言うのであれば、堂々とリングに上がれ。せめてファイティング・ポーズをとれ。そうすれば、私がキミを軽蔑の対象として見ることはない。
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本日・2月7日(木)11時30分?
501号(ラウンドテーブル法廷)での進行協議の結果の報告。
☆冒頭、裁判長から以下の発言。
前回の法廷で、Uさん(DHC総務部長)と、澤藤さん、吉田さんの尋問を決定しましたが、本日の進行協議は、反訴被告側に、吉田さん本人尋問の申請をするか否かをお考えいただき、それ次第で、尋問の順序や時間配分をどうするかを決めたいという趣旨としてのものです。
反訴被告代理人。吉田さん本人尋問の申請はされますか。
☆反訴被告代理人弁護士 今村憲
当方から吉田の尋問を申請はしません。
今のところ、出頭しない方向です。
☆反訴原告代理人
当人が出頭するかしないかはともかく、裁判所から呼出状を出していただくことが重要で、至急お願いします。
☆裁判長
呼出状は本日発送します。
出廷できるかできないか、理由を付して今月末までに返事をおねがいします。
☆その後の協議の結果次回法廷スケジュール
最初に反訴原告(澤藤)の尋問
主尋問30分 反対尋問30分。
次に、証人のUさん。
主尋問20分 反対尋問30分。
その次に、反訴被告(吉田)
主尋問30分 反対尋問30分。
次回の法廷は、4月19日(金)午後1時30分?
東京地裁415号法廷です。
(2019年2月7日)
通常国会は、統計不正問題がアベノミクス偽装問題に発展しての荒れ模様。だが、元祖偽装の森友事件はまだ終わっていない。終わらせてはならない。忘れてもならない。これは、安倍晋三とその妻の国家主義教育観を遺憾なく露呈した事件であり、安倍への忖度で行政が歪められいることの象徴であり、行政文書の無惨な隠蔽・改竄事件であり、議会での官僚の虚偽答弁事件でもある。
のみならず、最も国民的関心を呼んだのは、国有地を《只同然に》8億円値引いて払い下げたこと。これは、アベやアキエが介在して行われた犯罪である可能性がきわめて高い。その犯罪を隠蔽しようという姑息な策動が、関係者の諸々の隠蔽・捏造・改竄・虚偽の言動となった。
政治の頂点にいる者に関わる犯罪だから、疑惑解明は容易ではない。自浄作用は期待しがたい。メディアも野党もよく追求はしたが最後の決め手に欠けた。世論も憤ったが内閣の存続を許してしまった。結局のところ、司法に期待が寄せられるのは当然の成り行きで告発が相次いだ。
大阪地検特捜部に集約された告発は、被告発者数38名、6罪の告発罪名についてのものだった。被告発者38名の内訳は、財務省本庁・関係者23名、近畿財務局関係者10名、国土交通省・大阪航空局関係者4名、森友学園関係者1名。告発罪名は、背任、公用文書毀棄、虚偽有印公文書作成・同行使、有印公文書変造・同行使、証拠隠滅、公務員職権濫用である。
2018年5月1日大阪地検特捜部は、その全告発を不起訴処分とした。国民の信頼を裏切ったものと言うほかはない。その結果、舞台は大阪検察審査会に移った。
週刊金曜日・片岡伸行記者の取材によると、いま検審には6団体・個人が、9件の申立をしているという。そのすべてが、大阪第1検審に係属している。主な団体は以下のとおり。
「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」
「健全な法治国家のために声を上げる市民の会」
「森友・加計告発プロジェクト」
「森友学園問題を考える会」
私が代理人として関わっているのは、醍醐さんや湯山さんらの「幕引きを許さない市民の会」の会員が告発し審査申立をした下記の2事件。いずれも、2018年6月5日受理となったもの。なお、いずれも「嫌疑なし」ではなく、「嫌疑不十分」での不起訴処分となっている。
平成30年第13号(被疑者・池田靖に対する背任、及び被疑者・佐川宣壽に対する証拠隠滅)
平成30年第14号(被疑者・美並義人に対する背任)
実は、このところ議決の通知があるのではないかと、毎日気を揉んでいた。というのは、第一検察審査会の委員11名は、
2018年8月1日?19年1月31日の第1グループ(5名)と
2018年11月1日?19年4月30日の第2グループ(6名)とで
構成されているとのこと。
第1グループの任期終了となる、19年1月末までに決議がある可能性が高いと思っていたのだが、本日(2月6日)まで何の連絡もない。次は、4月の末だろうか。
なお、下記に、関係条文を引用しておくが、検察審査会の議決は3通りある。
(1) 「起訴相当」 (11人中8人以上の賛成)
(2) 「不起訴不当」(過半数=6人以上の賛成)
(3) 「不起訴相当」(過半数=6人以上の賛成)
もちろん、「起訴相当」の議決でなくてはならない。
[検察審査会法]
第39条の5 第1項 検察審査会は、検察官の公訴を提起しない処分の当否に関し、次の各号に掲げる場合には、当該各号に定める議決をするものとする。
? 一 起訴を相当と認めるとき 《起訴を相当とする議決》
? 二 前号に掲げる場合を除き、公訴を提起しない処分を不当と認めるとき
《公訴を提起しない処分を不当とする議決》
三 公訴を提起しない処分を相当と認めるとき
《公訴を提起しない処分を相当とする議決》
2 前項第一号の議決をするには、
検察審査員8人以上の多数によらなければならない。
?第41条1項 検察審査会が第39条の5第1項第一号の(起訴相当の)議決をした場合において、議決書の謄本の送付があつたときは、検察官は、速やかに、当該議決を参考にして、公訴を提起すべきか否かを検討した上、当該議決に係る事件について公訴を提起し、又はこれを提起しない処分をしなければならない。
2項 検察審査会が第39条の5第1項第二号の(不起訴不当の)議決をした場合において、議決書の謄本の送付があつたときは、検察官は、速やかに、当該議決を参考にして、当該公訴を提起しない処分の当否を検討した上、当該議決に係る事件について公訴を提起し、又はこれを提起しない処分をしなければならない。
(2019年2月6日)
幾つかのことを確認しておきたい。
自衛隊は、憲法違反の軍事組織である。
自衛隊に限らず、軍隊とは大量殺人を本務とする。
どの軍隊も、「自国の防衛」のために存在するとされている。
どの戦争も、「自国の防衛」の名目で行われる。
そして、自衛隊こそは、隊員の人権を顧みるところのないブラック職場である。
だから、自衛隊を憲法に明記すれば、
自衛隊を違憲の存在から解放して、
大量殺人を本務とする組織として公認することになり、
「自国の防衛」のためとして国民を軍事動員することを容認し、
「自国の防衛」の名目での戦争を可能とすることにもなる。
だからこそ、大事な人をブラック職場にやることはできない。
1月30日の衆院本会議。自民党二階俊博幹事長代表質問に対する安倍晋三首相答弁を以下に抜粋する。私の突っ込みもいれておきたい。
平成の時代を通じた自衛隊に対する国民の評価と憲法改正の考え方についてお尋ねがありました。憲法改正の内容について、私が内閣総理大臣としてこの場でお答えすることは本来差し控えるべきものとは思いますが、私の気持ちを述べよとのことですので、丁寧にお答えをさせていただきたいと思います。
本来、口にしてはならないことだ。憲法は、主権者国民から内閣総理大臣を筆頭とする公務員に対する命令の文書。内閣総理大臣は、ひたすらこれを守るべき立場にある。それを気に食わないから変えようなどとはもってのほか。都合の悪いときは、「私の気持ちを述べることは適切ではありませんので、差し控えさせていただきます」としか言わないくせに、こんなときだけ「丁寧にお答え」の必要はない。
私が自民党総裁として一石を投じた考え方は、現行の憲法第9条の第1項及び第2項を残した上で、自衛隊の存在を憲法に明記することです。
いま、内閣総理大臣として答弁しているのに、「私が自民党総裁として一石を投じた考え方」を述べるのは、職権濫用も甚だしい。主権者が求めているのは、議場で立場を変える「カメレオン首相」ではない。
大きな自然災害が相次いだ平成の時代。困難な災害の現場には、常に自衛隊員の姿がありました。夜を徹し、泥にまみれ、雨に打たれながらも、危険を顧みず、黙々と任務に当たる隊員諸君は、被災された皆さんの心に寄り添い、被災地の力となりました。
消防も警察も市役所職員も青年団も、そしてボランティア諸君も「被災された皆さんの心に寄り添い、被災地の力となった」ではないか。ことさら、自衛隊だけを、褒めあげる必然性はない。また、「だから、自衛隊を憲法に明記せよ」ではなく、「だから、高度に専門化した恒久的な災害救助隊をつくるべきだ」となるべきだろう。
また、PKO法の制定以降、延べ約六万人の自衛隊員が、世界各地で平和と安定のため、汗を流してきました。現地の目線に立った支援、高い規律と丁寧な仕事ぶりで、国際社会から高い評価を得てまいりました。
これは、憲法9条あればこその効果というべきだろう。9条を背負った自衛隊だからこそ、絶対に実力行使をしてはならない、自衛隊なればこその平和的な振る舞い。それゆえにこそ、戦闘に巻き込まれることがなく、国際社会からの信頼を得ていることを肝に銘じなければならない。
自衛隊は、かつては厳しい目で見られた時代もありました。それでも、歯を食いしばり、ただひたすらに職務を全うしてきた。今や、国民の約9割は、敬意を持って自衛隊を認めています。
国民の多くは、国内での災害救助や世界各地での難民支援をする自衛隊員を好ましいと見ているのだ。武力装置としての自衛隊ではなく、飽くまで人道的支援の自衛隊員。自衛隊を憲法に明記すれば、衣の下の鎧を疑われることになる。
しかし、近年の調査でも、自衛隊は合憲と言い切る憲法学者は2割にとどまります。
えっ? 自衛隊は合憲と言い切る御用学者が2割も。それは学問の堕落だ。信じがたい。
「君たちは憲法違反かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ」というのは、余りにも無責任ではないでしょうか。
誰がそんなことを言ったというのかね。「命を張ってくれ」って? そんな言い方は、それこそ「余りにも無責任」。
多くの教科書に、自衛隊の合憲性には議論がある旨の記述があります。その教科書で自衛隊員のお子さんたちも学んでいるのです。
自衛隊の合憲性に議論があるのは当然のこと。子どもたち誰もが学ぶべき議論ですよ。軍事に頼って我が国の安全が守れるはずがないというのも根拠のある立派な見解。何ですか、晋三さん。「自衛隊員のお子さんたち」をダシに、教科書を書き換えろとでもいうのですか。そりゃオカシイ。
さらには、今なお、自衛隊に関するいわれなき批判や反対運動、自治体による非協力な対応といった状況があるのも事実です。例えば、自衛隊の、自衛官の募集は市町村の事務ですが、一部の自治体はその実施を拒否し、受験票の受理さえも行っていません。また、防衛大臣からの要請にもかかわらず、全体の6割以上の自治体から、自衛隊員募集に必要となる所要の協力が得られていません。
何ですか、晋三さん。「自衛隊に関するいわれなき批判や反対運動」はけしからんと。そりゃ、首相としての発言? 総裁として? 個人的意見? いずれにせよ、自治体行政に対する干渉でしょう。自衛隊内での、イジメや体罰の凄まじさは、旧軍以来の伝統として、みんながよく知っていること。隊の慢性的欠員は、隊自身の体質の問題。
優秀な人材確保のためには、地域に密着した採用活動が重要ですが、自衛隊の採用説明会等の取りやめを求める要請がさまざまな団体により行われており、このため、昨年、採用説明会が取りやめとなった事例もあります。
自衛隊の採用説明会等の取りやめを求める要請運動があってこその民主主義国家、平和国家ではありませんか。でもヘンですね。「今や、国民の約9割は、敬意を持って自衛隊を認めています」というのなら、そんなことにはならないのでは。本当に国民に支持されているのなら、隊員募集に苦労することはないでしょうに。
自衛隊は、これまで4万回を超える災害派遣を行い、助けを求める自治体に直ちに駆けつけ、献身的な働きを行っています。このような現状はまことに残念と言わざるを得ません。このような状況に終止符を打つためにも、自衛隊の存在を憲法上明確に位置づけることが必要ではないでしょうか。
今、自衛隊募集かうまく行かないから、憲法に自衛隊明記が必要だというんですね。そりゃダメだ。自衛隊は、もっと自助努力をしなくちゃね。
同時に、国民のため命を賭して任務を遂行する隊員諸君の正統性を明文化し、明確化することは、国防の根幹にかかわることだと考えています。
おっと、語るに落ちちゃった。アベ改憲は、「国防の根幹にかかわる憲法改正」。そんなことはしちゃいけない。世界の各国が身構えますよ。日本は憲法を変えて、本格的な軍隊をもって、再び「富国強兵の日本を取り戻そうとしているのだ」と。これって、あなたが普段言っていることだけど、危険と思いませんか。
自衛隊に対する国民の信頼は政治の力で得たものではありません。自衛隊員の諸君はみずからの手で国民の信頼をかち得たのであります。次は、政治がその役割をしっかりと果たしていかなければなりません。全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整える、これは今を生きる政治家の責任であります。
晋三さん。あんたが言うと、こう聞こえるね。
強く豊かな国をつくるには、戦争を辞さない精強な軍隊が必要です。精強な軍隊は、国民の信頼あってのもの。被災者救援によって、自衛隊はようやく、市民権を得るに至りました。次は、憲法を改正して、自衛隊を憲法に位置づけなければなりません。そこまで行けば、その次は自衛隊を国防軍とし、一人前の戦争のできる組織に変えていく。今が、その大事な一歩のところ。この大事な一歩を踏み出すのが、私という政治家の使命なのであります。
(2019年2月5日)
マリーモンド(MARYMOND)をご存知ですか?
ええ、実は最近知りました。これまでは、そんな言葉もそんなブランドがあることもまったく知りませんでした。でも、急に有名になりましたね。
私も詳しくは知らなかったのです。あらためてネットで検索してみたら、ステキなサイトが開けました。
https://www.marymond.jp/
なかに、こんなページがあります。
Donation
社会貢献するソーシャルビジネス
マリーモンドは韓国の若者たちが立ち上げた
ライフスタイルブランドです。
社会貢献するソーシャルビジネスとして
今、世界中の若者たちに愛されています。
売り上げの一部は、「慰安婦」被害者女性たちや
虐待被害児童への支援に寄付されています。
マリーモンドジャパンでご購入されると
売り上げは経費をのぞく全てが
性暴力問題解決のためのプロジェクトに使用されます。
そんな素敵なベンチャーなら、応援したくもなりますね。
私も、こんな言葉を見つけました。
負けずに堂々と 宋神道さん
花ハルモニ
「花ハルモニ」は、日本軍「慰安婦」被害者であるハルモニたちに、一人一人の特徴に合った花をマッチングさせることで、ハルモニの尊さを浮かび上がらせる、
マリーモンドのヒューマン・ブランディング・プロジェクトです。
昔の絵の中にしばしば登場し、長い間、私たちの
近くにいたセキチクは、1年中負けずに花を咲かせます。
固いものを柔らかくしてしまうセキチクの種と、
岩にも花を咲かせる姿は、負けない強い気持ちを持ち続けた
宋神道さんを思い出させます。
ハルモニは韓国語で親しみを込めた「おばあさん」の意味ですね。日本軍「慰安婦」被害者だった在日の宋神道(ソン・シンド)さんのことをセキチクにたとえて、「花おばあさん」と言っているのですね。
このブランドの商品は、携帯電話のケースや布製のバッグ、それに文房具や小物類。何かを買って応援したい気持になりますよね。
このブランド、これまでも、話題にはなっていたようです。でも、突然有名になったのは、「チェジュ航空の日本協力企業が韓国人職員に対し、勤務地では日本軍慰安婦被害者を後援するブランド『マリモンド(MARYMOND)』のカバンを持たないよう指示していたことが分かった。」というニュースがあって以来のこと。
少し調べてみたのですが、このニュースは、1月28日にソウル新聞が初めて掲載し、この記事をもとに29日の韓国有力紙・中央日報が大きな記事にし、それを30日に共同通信が日本の各メディアに配信したという経緯のようですね。
31日の夕方に、「韓国人空港スタッフへの『慰安婦支援ブランド禁止』令。企業はどこまで縛れるのか」という、Business Insider Japanの行き届いたネット記事が掲載されています。これで、問題点が過不足なく理解できます。
https://www.businessinsider.jp/post-184309
中央日報の見出しが、「チェジュ航空の日本協力企業 『慰安婦後援ブランドのカバン持つな』」というものでした。共同通信記事の見出しは、「成田の航空業務企業 勤務中の慰安婦支援製品所持禁止」。穏やかではありませんね。
この日本協力企業というのは、成田空港でチェジュ航空のアウトソーシングを請け負っているFMGという会社。そして、「マリーモンドブランドのカバンを持つな」と言われたのが、この会社で働く韓国人の地上職スタッフの女性。日本企業と韓国人労働者が慰安婦問題をめぐって対立、という構図となったわけです。日韓関係の微妙な時期に、もう一つの火種となったのが残念です。
中央日報記事のリードの日本語訳が、(FMGは)「日本の空港に勤務するチェジュ航空担当のグランドスタッフ(地上職)に『マリモンドのカバンを持つな』と禁止令を下した。」という、ややトゲトゲしい表現ですね。さらに、「『会社は政治的・宗教的意味を込めた物を許可していない』と公示した。」というのですから、韓国の人々の、日本の企業はそこまでやるのか、という気分が伝わってきますね。
日本側の反応ですが、共同通信がこの件を報じるとTwitter上には「思想警察、一歩手前」「『トラブルを避けたい』だけの過剰反応」などFMGの判断を疑問視する投稿が多く見られたということです。中には「ディオール製品を見かけたら『フェミニズム支援のブランドではないか』と苦情を入れるのか。苦情が入ったらディオールの所持を禁止するのか」などの意見もあったとか。会社が、慰安婦問題だから、神経を尖らしたと受けとめられています。
ニュースで指摘されているとおり、そのカバンには政治的なスローガンや元慰安婦の女性たちを支援していると分かるような具体的なメッセージが記されていたわけではありません。それでも会社が禁止したのはどうしてなんでしょうかね。
問題の発端は、「スタッフがマリーモンドのバッグを持っているのを見た社外の人物から『慰安婦支援のブランドではないか』などの指摘があった」ことだそうです。「社外の人物」が何者かは明らかにされていません。会社の過剰反応だった印象ですね。「社外の人物」からの指摘を恐れる雰囲気が問題ですね。何の対応もしないことで、大きな非難を受けることになると考えたのでしょう。
問題は、それだけでなく、スタッフの労働環境にもあったようですよ。ソウル新聞とのインタビューで、この労働者は「慰安婦おばあさんを後援する会社のカバンだから持つなというのは不合理ではないかと思った。だが、入社1年内に退社するとひと月分の月給より多い違約金を支払うことになっている雇用契約のため、異議を提起できなかった」「日本人上司が持続的に『まだカバンを変えていないのか』と指摘し、結局カバンをショッピングバッグに入れて持ち歩いた」とのことです。
これはひどい話。「入社1年内に退社するとひと月分の月給より多い違約金」というのは、労働基準法第16条「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない」に違反します。もちろん、民事的には無効ですし、罰則もあります。労基法第119条で、「6か月以下の懲役又は30万円以下の罰金」に処せられます。成田の中にある労働組合と連絡をとって、労基法違反を確認のうえ、労働基準監督署に申告すべきでしょうね。
FMG問題はそのくらいにして、マリーモンドのことを。「I MARYMOND YOU」という言葉をつくっているそうです。「あなたは今日も尊く美しい」という意味として。
慰安婦問題を支援するにふさわしい、品格と美しさを感じます。
Business Insider Japanの記事の最後が、「今の私たちは隣人にとって尊敬される存在だろうか。」という問いかけで締めくくられています。記者は、マリーモンドの品格に較べて日本社会の対応の品格のなさを嘆いています。
「隣人にとって尊敬される存在」になることは難しいでしょうね。尊敬されずとも、対等に仲良くしたいものです。せめて、粗暴だと恐れられたり、非情で冷酷などと思われぬようでありたいと思いますよ。
それにしても、FMGへの通報者と、FMGの頑なな対応のおかげで、私もマリーモンドの存在を知りましたし、マリーモンド応援の気持になりました。きっと多くの人が、マリーモンドファンになってくれると思います。
(2019年2月4日)
最近、散歩コース新開拓の意欲はない。昨日も今日も、不忍池をゆっくりとまわった。はや春の萌し。風はなく、雲一つない青空。幼い子どもたちが、はしゃぎながら駆け回っている。外国人観光客のいくつもの言語が耳に心地よい。
梅が咲き始めた。福寿草も咲いている。マンサクも満開。雪割草が美しい。水鳥も草木ものんびりとしている。平和な風景。
走っている人がいる。達者にバラライカを爪弾く人がいる。句作に没頭している人がいる。そして、野鳥の会が水鳥の説明をしている。
あれがアオサギです。ちょっと見えにくいですが、鶴くらいの大きさ。ここでは、ダイサギ・チュウサギ・コサギも見ることができますよ。
アオサギ。きれいですね。最近は、増えているんですか。減っているんですか。
実は、郊外の鷺山が開発でつぶされたのですが、結構都心で増えているようなんです。昔は、鳥は食糧としてねらわれましたが、今の時代、野鳥を食べようという人もいませんからね。平和が何より。
ホントにそのとおりですね。安倍改憲に反対して、平和憲法を守らなくては。
そうです。そうです。
噴水広場には、なにかのイベントで人が集まっている。鬼に扮した人が、風船芸をやっていた。器用に、金棒や鬼の面やらを風船でつくっている。そういえば、今日は節分。子どもたちか、「鬼は外」とやっていた。
本日は盛大に、「アベは外」とまいりたい。「安倍辞めろ」「アベ退陣」「アベ出てけ」。安倍がいなくなれば、当面「福は内」「国は平和」なのだ。
ところで、五條神社境内の掲示板に、月替わりで、「生命の言葉」が掲げられている。「神社は心のふるさと 未来に受け継ごう 「美(うるわ)しい国ぶり」」とある。神社が「美しい国ぶり」などという言葉をいつころから使い出したのだろうか。
この毎月の「生命の言葉」は、東京都神社庁が作成して配布し、傘下の各神社が掲示しているもの。 今月の「言葉」は、皇太子(徳仁)の歌。
皇太子 徳仁親王殿下
いとけなき 吾子の笑まひに
いやされつ 子らの安けき
世をねがふなり
13年前、2006年の歌会始に、「笑み」の題で詠んだ歌とのこと。
文意明瞭となるよう、二行に書き分ければ、
いとけなき 吾子の笑まひに いやされつ
子らの安けき 世をねがふなり
1行目の「吾子」は自分の実の子で、二行目の「子ら」は子ども一般を指すのだろう。「自分の子どもの愛らしい微笑みに親として心癒されながら、自分の子だけでなく日本中の子らが、あるいは世界中の子らが、安心して暮らせる平和な世の中であって欲しい」という至極分かり易く、真っ当な内容。「世をねがふなり」は、少しエラそうな感じもするが、全体として好ましい印象を受ける。「吾子」が幼児であったこの頃には、この家族にとっての心落ちつく環境があったのだろう。
その皇太子(徳仁)は、もうすぐ天皇に就位する。そのことを意識して、東京都神社庁は今月の「言葉」に、この人の歌を取りあげたのだろう。さて、改めて思うのだ。この人、天皇となること、あるいは天皇にならざるを得ないことを、本心ではどのように思っているのだろうか。
私の尊敬する友人が、ごく最近、ある団体の通信にこんな文章を寄稿している。
私たちの憲法が、天皇を「国の象徴」「国民統合の象徴」で、「皇位は世襲」などと定めているために、私たち国民は、天皇をはじめ皇室の人たちの人権を、無茶苦茶に無視して、この70年を過ごしてきた…。…およそ、人間を「象徴」にしてしまうような憲法は、「象徴」にさせられた人間の基本的人権を蹂躙せずにはすまない。
皇太子は、13年前には「吾子の笑まひに いやされつ」と詠んだ。しかし、今そのような余裕ある心境ではなさそうだ。敬語を使いながらも意地の悪い、そして遠慮のない報道によれば、妻も、子も、そして自分自身も、押し潰されんばかりの重圧の下にあるという。しかし、今のところ、その境遇から逃れる術はない。非人間的な制度のために。
(2019年2月3日)
「総選挙はこのようにして始まった 第一回衆議院議員選挙の真実」(稲田雅洋著・有志舎、2018年10月刊)が滅法面白い。知らないことばかりが満載。いや、これまで関心を持たなかったが、なるほどと思わせられる記事で満ちている。
権力の抑制を担保するための三権分立。法の支配を前提に、立法権・行政権・司法権と分かれるが、これは立法⇒行政⇒司法という統治行為のサイクルの各部分でもある。そのサイクル始動の位置に選挙がある。民主主義的政治過程は、選挙から始まるのだ。選挙制度も運用も、それにふさわしいものでなくてはならない。
権力の正当性の根拠は人民の意思にある。神のご意思だのご託宣ではなく、選挙によって立法府の議席に結晶した人民の意思だけが権力行使を正当化する。だから、我が国の選挙の在り方に関心を持たざるを得ないが、これまで多く語られてきたのは、1925年「男子普通選挙」実施以後の選挙の歴史。
このときに、治安維持法と抱き合わせで「普選法」と通称される「衆議院議員選挙法改正」が成立し、これが日本の選挙制度戦後の骨格を形作って、戦後の公職選挙法につながっている。25年改正法で、初めて立候補の制度ができ、供託金の制度ができ、世界に冠たる「べからず選挙」の選挙運動規制法制ができあがった。
それ以前の選挙制度については語られることは少ない。ほとんど何も知らなかった。漠然と思い込んでいたのは、選挙権・被選挙権とも、直接国税15円以上の納入者に限られていた制限選挙。当時の税制は地租が中心だったのだから、地主階級が議席の大半を占めていたのだろう。そもそも、自由民権運動の敗北が天皇主権の大日本帝国憲法制定と制限選挙での帝国議会開設となったのだから、第1回総選挙も議会も熱い政治運動の舞台とはならなかったろう。
ところが違うのだ。どんな制度でも、良質な人々は、知恵を出しあい、汗も金も出しあって、制度を使いこなそうとするものだ、という見本のような話が発掘されている。人々の知恵の働かせ方が、滅法面白いのだ。
出版社の惹句は以下のとおりだ。
1890(明治23)年の第一回総選挙で当選して衆議院議員になった者の中には、実際には15円以上の国税納入資格を満たしていなかった者がかなりいた。彼らは、支持者たちの作った「財産」によって、資格を得たのである。中江兆民・植木枝盛・河野広中・尾崎行雄・島田三郎など、自由民権運動の著名な活動家をはじめとして、数十人は、そのような者であったといえる。本書は「初期議会=地主議会」という通説のもとで解明されずにきた「財産」作りの実態や選挙戦の有り様を、長年にわたる膨大な史料の博捜により解明、貴重な史実を明らかにする。
「財産作り」とは、著者の造語。名望ある者に被選挙者としての資格を得させるために、名義上の財産(多くは耕地)を集めて15円以上の納税者とし、議会に送り出したのだ。こうして、自由民権運動の著名な活動家の多くが議員となった。これは脱法得行為のごとくでもあり、そうでもないようにも見える。まさしく、知恵と工夫の賜物。
最初に、中江兆民の具体例が出てくる。保安条例で東京を追われて、大阪で「東雲新聞」の主筆を務めていたが、収入はわずか。その彼に、支持者が議員となることを勧める。「財産」作りは自分たちがするから、是非出馬を。固辞していた彼も、支持者たちの熱意に動かされて、「新平民の代表者としてなら出よう」ということになる。
こうして彼は、大阪4区(小選挙区)から出馬する。自ら本籍を大阪の被差別部落に移し、被差別部落民らの「財産作り」で資格を得て、当選する。支持者にも、兆民にも頭が下がる。このような手法を、著者は「勝手連型」の「財産」作りと呼んでいる。
また、高知県の例では、植木枝盛等民権活動家の議会出馬の意欲を支持者らが支え、用意周到に「財産」を作って全県の定員4名の自由派系候補者を擁立し、全員が当選している。著者はこれを「win-win 型」の「財産」作りと読んでいる。
自由民権運動のなかで培われた支持者たちの信頼という「人格的財産」が、全国至るところで「勝手連型」や「win-win」型の「財産」作りとして結実した。それが、次第に議会を天皇制政府の協賛機関に納まらない力量を付けることになる、というのが著者の見方。また、このような「財産」作りには、選挙権を持たない多くの市民が参加したともいう。
制度の改善は常に必要な課題だが、現行制度の中でできるだけの知恵を出しているか、と問われる思いがする。司法のあり方には、大いに不満がある。しかし、制度の責任にして実は個別事件の中で知恵を出し切っていないのではないか、と。
(2019年2月2日)
本日(2月1日)、久しぶりの最高裁庁舎。何度行っても、重苦しい雰囲気。訪ねて楽しいところではない。この雰囲気に慣れることはできそうにない。それでも出かけたのは、東京「君が代」裁判・4次訴訟が係属しているからだ。
東京「君が代」裁判は、都内公立校教職員が「日の丸・君が代」強制による懲戒処分を争う集団訴訟である。都教委は「日の丸・君が代」強制が大好きなのだ。タチの悪いことに、それが正しいことだと思い込んでいること。戦前の特高や思想検事も、「陛下に刃向かう」非国民や不逞鮮人を懲らしめることは正しいことだと本気で思い込んで職務に精励したのだ。
いま、都教委が正しいと思い込んでいることは、生徒・児童の全員が「日の丸」に向かって直立し不動の姿勢で口を揃えて「君が代」を唱うこと。卒業式・入学式は、このように厳粛な式典でなくてはならないという思い込み。教師は、そのように児童生徒をしつけなければならない、という思い込み。
全員が一糸乱れぬ行動をすることが素晴らしいことだという思い込みを、全体主義という。日本人である以上は日の丸・君が代に敬意を表する心性を持たなくてはならないという思い込みを国家主義という。そして、お上が決めたことには逆らずしたがうべきだという思い込みが権威主義である。これが、右翼の心象における原風景。その全体主義・国家主義・権威主義が、国民多くのものになったとき、いよいよ軍国主義の出番となる。
この「日の丸・君が代」強制を始めたのは、石原慎太郎という極右・レイシストの政治家。民主主義や人権にとっての不幸は、このような人物を東京都知事にしたことにある。
2003年10月23日、都教委は悪名高き「10・23通達」を発して、都内公立校の全校長に命じた。管轄下の全教職員に対して、卒業式・入学式に際しては、「日の丸・君が代」に起立・斉唱するよう職務命令を出せ、というのだ。以来、都内の全校でこの信じがたい職務命令が実行され続けてきている。
世は、多様性の時代ではないか。「日の丸・君が代」大好き人間がいてもよい。しかし、すべての人に強要することはできない。それが、憲法に書き込まれた「思想・良心の自由の保障」である。問われているのは、思想・良心の自由と、秩序との衡量。「日の丸・君が代」大好きとは、秩序大切の思い込みなのだ。
「10・23通達」は、当然に多くの教職員からの反発を招き、現場の混乱は今なお続いている。以来、多くの処分がなされ、多くの訴訟が重ねれてきた。この訴訟もその一つ。
地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。14名の原告(教員)が、19件の処分の取消を求めて争った。処分の内訳は以下のとおり。
《停職6月》 1名 1件
《減給10分の1・6月》 2名 2件
《減給10分の1・1月》 3名 4件
《戒告処分》 9名 12件
計 14名 19件
1審の係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)。2017年9月15日の判決は、減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。しかし、一方同判決は戒告処分(9名についての12件)については、いずれも違憲違法との主張を否定して処分を取り消さなかった。
裁判所の判断は、「君が代斉唱時に不起立を貫いた者が戒告を受けるのはやむを得ない。しかし、減給以上の懲戒処分はいくらなんでも重すぎる、懲戒権の逸脱濫用として取り消す」とした。
都教委は、敗訴の判決で取り消された処分7件のうち、5件については控訴をあきらめた。そして、残る2件についてだけ控訴した。このけん、2件ともQ教員である。
Qさんが取消を求めた懲戒処分は、以下のとおり5件ある。
1回目不起立 戒告
?2回目不起立 戒告
?3回目不起立 戒告
?4回目不起立 減給10分1・1月
?5回目不起立 減給10分1・1月
都教委は、「不起立と処分を3回も重ねのだ。4回目以後は減給にしてよいだろう」という考え。これが正しい教育の在り方だと思い込んでいるのだ。しかし、2018年4月18日の控訴審判決も、都教委の控訴を退けた。それでも、都教委はあきらめない。飽くまで争う姿勢を見せることが大切だとの思い込みがあるのだろう。もしかしたら、最高裁への同志的親近感を懐いているのも知れない。最高裁に上告受理申立をしたのだ。最高裁なら分かってくれるはず。きっと何とかしてくれるという思い込み。
4次訴訟関連で、当方(教員側)は、憲法論で上告申立をし、判例違反と法令解釈の誤りとで上告受理申立をしているが、都教委もQさんに対する減給処分にこだわって上告受理申立をした。だから、今、4次訴訟関連では3件の事件が最高裁に係属中。
そのQさんの件に関する都教委の上告受理申立には、当方は2018年9月11日付で、答弁書を提出している。本日、弁護団の弁護士3名が最高裁を訪れ、担当書記官と面会して、本日付答弁書補充書を提出した。
郵送でも良し、ともかく窓口にポンと提出でもよいのだが、「内容をかいつまんで口頭説明したい。できれば、担当調査官(判事)に面会したい」と申し込んでの、答弁書持参の訪問。
応対の書記官は、たいへん丁寧な態度で、「ご説明を受けたことは調査官にお伝えいたします」「重ねて、調査官面会の希望があったこともお伝えします」とのことだった。すくなも、当方の熱意は伝わったのではないか。
当方の説明は、「補充書」の目次を示してのもの。
本件の相手方(Qさん)は、「自らの思想・良心の命じるところに従って不当な制裁を甘受するか」、あるいは「処分を免れるために心ならずも思想・良心を曲げてこの強制に服して起立・斉唱するか」の、どちらにしても苛酷な選択を強いられることになった。本来は違憲の判断であるべきだが、せめて公権力行使の裁量権逸脱・濫用論の活用をもって妥当な解決をはからねばならない。思想・良心にもとづく真摯な不起立に対しては、そもそも懲戒権行使の効果を認めるべきではないが、少なくとも、実害を伴う処分を科すべきではない。このことが、「2012年判決」(2012年1月16日第1小法廷判決)が示した、裁量権逸脱・濫用論の実質的理由であり、同判決の神髄をなす判断である。
以上の裁量権逸脱・濫用論は、不起立の回数や、過去の処分歴の回数によって、処分量定の変化はあり得ないということになる。
相手方教員の思想・良心は一つである。この一つ思想・良心を何度叩いても、同じ結果とならざるをえない。思想・良心の内容を変えることはできない。むしろ、不起立の回数で、処分量定を加重するやり口は、思想や良心を鞭打って、転向を迫ることにほかならない。最高裁判例はこのような転向強要を戒めているものである。
都教委の上告受理申立は、すみやかに不受理とすべきである。
(2019年2月1日)