「2011年3月11日」から本日で8年になる。岩手を故郷とする私にとって、あのときの衝撃は生涯忘れることができない。例年、「3・1・1」という数字の連なりに特別の感傷が湧いて、 胸が痛む。例年、震災・津波・原発に関して何かを書かねばならないと思いつつ、筆が重い。
8年前の災害の直後に、石原慎太郎の「震災は天罰」という発言に接して、私は怒りに震えた。「天罰はオマエにこそふさわしい」と慎太郎に怒るとともに、この社会の慎太郎的なメンタリティに怒り、石原慎太郎ごときを都知事に選任している東京都民にも怒った。筆を抑えつつも、その怒りのほとばしりを、「石原慎太郎天罰発言・糾弾」の記事として書き連ねた。
そして、8年後の日刊ゲンダイが報じているのは、原発推進のための処理費用偽装である。当時は、「震災は天罰」とする天譴論をタチの悪い政治家の発言と怒ったが、今また、さらにタチの悪い原発偽装に怒らねばならない。
当時の私の「天譴論批判」記事から、2編だけを引用しておきたい。
「天は誰を咎めているのか」(2011年3月28日)
地震・津波・原発と続く災害のさなかに、「天譴」 という言葉を知った。辞書を引くと、漢籍では宋書(5世紀)に用例があり、和書では九条兼実の「玉葉」 (12世紀)に見えるという。 譴とは、譴責の熟語から推察されるとおり、咎めるということ。「天帝による咎め」は、為政者が過ったときに凶事としてあらわれる。ここには、権力批判のニュアンスが濃い。つまり、天の譴責は時の権力者に向けられる。
関東大震災後後にも、多くの人が 「天譴」 を論じた。このときの天譴論の多くは、時の権力を譴責するのではなく、国民や人類を批判するものだったという。
例えば、内村鑑三。「時々斯かる審判的大荒廃が降るにあらざれば,人類の堕落は底止する所を知らないであろう」。 あるいは山室軍平。「此度の震災は、物慾に耽溺していた我国民に大なる反省を与える機会であった。堕落の底に沈淪せる国民に対して大鉄槌を下した」。 あるいは北原白秋。「世を挙り 心傲ると歳久し 天地の譴怒いただきにけり」(以上、仲田誠 「災害と日本人」)など。
さらに警戒すべきは、自然の力に萎縮する人々の心理に付け込んで、強力に人心を誘導しようという、権力側からの天譴論である。都立高の歴史の先生から、陸軍のトップエリートであった宇垣一成が綴った日記の一節を教えられた。「物質文化を憧憬し思想壊頽に対する懲戒として下されし天譴としか思えぬ様な感じが、今次の震火災に就いて起りたり。 然り、かくのごとく考えて今後各方面に対する革新粛清を図ることが緊要である」
? 権力による人心の支配への災害利用の意図を読み取ることができよう。 かくて、「関東大震災を機に大正デモクラシーが終焉して、ファシズムの時代に向かう」 との図式を描くことが可能となる。
? 首都の都知事が言った 「震災は天罰」 は、その亜流である。しかも、国民による権力批判という本来の天譴論とは正反対の、権力による国民批判である。 これを新たな全体主義への第一歩としてはならない。
災害を「天罰」とするオカルティズムの危険(2011年03月19日)
未開の時代、人は災害を畏れ、これを天の啓示とした。個人の被災は個人への啓示、大災害は国家や民族が天命に反したゆえの天罰とされた。
董仲舒の災異説によれば、天は善政あれば瑞祥を下すが、非道あれば世に災異をもたらす。地震や洪水は天の罰としての災異であるという。洋の東西を問わず古くは存在したこのような考え方は、人間の合理的思考の発達とともに克服されてきた。
天罰思想とは、実は何の根拠もない独断にすぎない。天命や神慮の何たるかを誰も論証することはできない。だから、歴史的には易姓革命思想として利用され、政権簒奪者のデマゴギーとして重用された。
このたびの石原発言の中に、「残念ながら無能な内閣ができるとこういうことが起きる。村山内閣もそうだった」との言葉があったのに驚いた。政権簒奪をねらうデマゴギーか、さもなくば合理的思考能力欠如の証明である。このように、自然災害の発生を「無能な内閣」の存在と結びつける、非合理的な人物が首都の知事である現実に、肌が泡立つ。
また、天罰思想は災害克服に無効である。天の罰との理解においては、最重要事は災害への具体的対応ではなく、天命や神慮の内容を忖度することに終始せざるをえない。また、災害は天命のなすところと甘受することにもならざるをえない。
本来、災害や事故に対しては、まず現状を把握して緊急に救命・救助の手を差し伸べ、復旧の方策を講じなければならない。さらに、事象の因果を正確に把握し、原因を分析し、再発防止の対策を構築しなければならない。このことは科学的思考などという大袈裟なものではなく、常識的な合理的思考の姿勢というだけのことである。この常識的思考過程に、非合理的な天罰思想がはいりこむ余地はない。
アナクロのオカルト人物が、今、何を間違ってか首都の知事の座に居ることが明白となった。このままでは、都民の命が危ない。
都民は、愚かな知事をいだいていることの「天罰」甘受を拒絶しなければならない。都民の命と安全のために、知事には、即刻その座を退いていただきたい。
あれから8年。我が故郷岩手の復興は、まずまずというべきだろうか。問題はあらためて福島の原発事故の重さとその復旧の困難である。
本日付、日刊ゲンダイの報ずるところを抜粋する。
またデタラメ数値だ―。民間のシンクタンク「日本経済研究センター」は7日、廃炉や賠償などの処理費用が、総額35兆?81兆円になるとの試算を発表した。経産省が16年に公表した試算額は22兆円。経産省は思いっきり過少試算して、原発をゴリ押ししてきたのだ。
核燃料デブリを取り出して廃炉にした場合は81兆円、デブリを取り出さずコンクリートで閉じ込め、廃炉を見送った場合は35兆円とされている。35兆円には廃炉見送りで生じる住民への賠償や管理費は含まれていない。
?「原発を推進したい経産省は、変動要因をすべて楽観的に見て試算しています。『日本経済研究センター』は、反原発でも推進でもなく、試算は客観的にはじかれています。81兆円は経産省の22兆円よりも、圧倒的に信頼性がある数値といえます」「世耕経産相は22兆円を前提に『いろいろな費用を全部含めても、原発が一番安い』と繰り返しています。しかし、その22兆円が“真の数値”から懸け離れていた。つまり、国民はミスリードされていたのです。賃金やGDPをカサ上げしてアベノミクスの“成果”を見せかけた構図と同じ。原発推進も偽装の上に進められていたわけです」(横田一氏)
地震・津波は自然災害だが、原発事故は人災である。天譴論は愚かで底が浅いが、原発偽装は客観性を装ってる点の罪が深い。この期に及んでなお、原発推進政策を合理化しようとするものなのだ。慎太郎のオカルトよりも、ウソとごまかしのアベ政権恐るべし、なのだ。
(2019年3月11日)
3月10日。胸が痛む日。74年前の今日、東京大空襲で一夜のうちに10万人の命が失われた。その一人ひとりに、個人史があり、思い出があり、夢があり、親しい人愛する人がいた。自然災害による被災ではない。B-29の大編隊が、東京下町の人口密集遅滞に焼夷弾の雨を降らせてのことだ。東京は火の海となって焼失し、都市住民が焼き殺された。
広島・長崎に投下された原爆も、沖縄地上戦も、この世の地獄に喩えられる惨状であったが、日本各地での都市空襲被害も同様であった。その中の最大規模の被害が東京大空襲である。
1945年3月10日早暁、325機のB-29爆撃機が超低空を飛行して東京を襲った。各機が6トンのM69ナパーム焼夷弾を積んでいたという。米軍が計算したとおり、折からの春の強風が火を煽って、人と町とを焼きつくした。逃げれば助かった多くの人が、防空法と隣組制度で消火を強制されたために逃げ遅れて、命を失った。
この空襲被害は避けることができなかったものだろうか。1941年に始まった対米戦争の終戦が早ければ貴重な人命を失うことはなかったのだ。当時既に、情報を把握している当局者には、日本の敗戦は必至の事態であった。
前年(44年)7月9日にはサイパンが陥ちている。続いて、8月1日にはテニアン、8月10日にグアム。こうして、B-29爆撃機の攻撃圏内に日本本土のほぼ全域が入ることになった。これらの諸島を基地としたB-29の本土襲来があることは当然に予想されており、東条内閣はサイパン陥落の責任をとる形で7月18日に総辞職している。
東条内閣の成立は、太平洋戦争に突入の直前。その前に首相の座にあったのが近衞文麿である。この人が、45年2月14日、東京大空襲の1か月ほど以前に、天皇(裕仁)に面会して、近衛上奏文と言われる文書を提出している。「敗戦は必至だ。早急に戦争終結の手を打つ必要がある」という内容。
やや長文のうえ候文の文体が読みにくいが、要所を摘記してみる。
敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。
敗戦は我が国体の瑕瑾(かきん?傷)たるべきも、英米の與論は今日までの所国体の変革(天皇制の廃絶のこと)とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来如何に変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存候。国体の護持の建前より最も憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に御座候。
つらつら思うに我が国内外の情勢は今や共産革命に向って急速度に進行しつつありと存候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術即ち二段階革命戦術の採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存候。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざるは最近欧州諸国に対する露骨なる策動により明瞭となりつつある次第に御座候。
戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内の彼の一味の存在なりと存候。彼等はすでに戦争遂行の自信を失い居るも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ候。
此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく存奉候。以上
「勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続することは、全く共産党の手に乗るものと考えます。従って国体護持(天皇制維持)の立場よりすれば、一日も早く戦争終結の方法を実行するべきものと確信しています」というのが、近衛の情勢観。
開戦も終戦も、権限のすべてを握るものが天皇であった。「元首相」の立場では、精一杯のことだったろう。終戦のためには軍の実権を握る勢力(近衛は「此の一味」と言っている)を一掃しなければならず、それはなかなかに困難ではあったろうが、それができるのは天皇だけなのだ。
この日、天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」と言い、近衛は「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」と述べたとされている。
その後の経過において、天皇が言った「もう一度、戦果を挙げてから」のという機会は一度もなかった。すべては、近衛が「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか」と危惧したとおりとなった。
このあと1か月ほどで、3月10日を迎える。首都が壊滅状態となり、10万の人命が失われても本土決戦の絶望的作戦は変更にならない。4月1日には、本土への捨て石としての沖縄地上戦が始まり6月23日に惨憺たる結果で沖縄守備隊の抵抗はやむ。ここで日本側だけで19万人の死者が出ているが、まだ戦争は終わらない。全国の主要都市は、軒並み空襲を受け続ける。そして、ポツダム宣言の受諾が勧告されてなお、天皇は国体の護持にこだわり、広島・長崎の悲劇を迎え、ソ連の対日参戦という事態を迎えてようやく降伏に至る。
すべての戦争犠牲者が、天皇制の犠牲者ではあろうが、敗戦必至になってからの絶望的な戦闘での犠牲者の無念は計り知れない。とりわけ、空襲の犠牲者は、同胞から英霊と呼ばれることもなく、顕彰をされることもない。その被害が賠償されることも補償されることすらもない。
広島・長崎の原爆、沖縄の地上戦、そして東京大空襲‥。このような戦争の惨禍を繰り返してはならないという、国民の悲しみと怒りと、鎮魂の祈りと反省とが、平和国家日本を再生する原点となった。もちろん、近隣諸国への加害の責任の自覚もである。2度と戦争の被害者にも加害者にもなるまい。その思いが憲法9条と平和的生存権の思想に結実して今日に至っている。
3月10日、今日は10万の死者に代わって、平和の尊さを再確認し、平和憲法擁護の決意を新たにすべき日にしなければならない。
(2019年3月10日)
天皇代替わりの直前の時期に、改憲問題との関わりでお話しをさせていただきます。
憲法上、天皇は何の権限も権能も持ってはいません。内閣の助言と承認のもと、言われたとおりの国事行為をすることだけが職務。けっしてひとり歩きをしてはならないのです。それが、大日本帝国憲法とは異なる、日本国憲法上の天皇という存在です。
旧憲法では、天皇は主権者でした。しかし、日本国憲法では、主権者は国民です。その主権者が、天皇という公務員職は置いたけれども、権限も権能もないものとしました。ですから、天皇という公務員職に誰が就任するかで、国民生活に何の影響もあろうはずはありません。あってはならないのです。
通常、公務員は、その職にふさわしい能力を備えた人を選考して採用することになります。しかし、天皇という公務員職には格別の能力は求められません。その意味で選考は不要なのです。天皇に就任する資格は、血統と性別だけ。天皇家の直系として生まれたこと、そして男子であることだけが要件となります。
ですから、天皇の交替は本来重要事ではなく、騒ぐほどのことではありません。歴史は誰が天皇であるかとは無関係に進みます。時代を特定の天皇と結びつけることには、何の必然性もありません。
かつて、日本人は一君と万民からなっていました。一人の天皇以外は、すべて臣民とされていたのです。奴隷が奴隷主の温情に感謝したその精神の在り方を「奴隷根性」といいます。臣民には、「臣民根性」が求められました。臣民は、天皇の赤子として、天皇の温情に報い尽くすべきことを教えこまれました。遂には、臣民は自ら臣民根性の涵養に務めるようにさえなりました。こうして、一億総マインドコントロール体制が完成したのです。
もちろん、旧天皇制は暴力で強制されました。大逆罪・不敬罪・治安維持法があり、思想検事と特高警察が天皇に対する不敬の言動を徹底して取り締まりました。天皇に楯突く不逞の輩の多くが天皇制警察の手で虐殺もされました。しかし、天皇制を支えたのは、暴力装置だけではなかったのです。教育とメディアが作りあげた、臣民根性が大きな役割を果たしたのです。
暴力と精神支配とを車の両輪とする旧天皇制は維新期に意図的に作り上げられ、次第に肥大して、軍国主義・侵略主義の主柱となり、植民地支配と戦争とで、内外にこの上ない惨禍をもたらして、この国を滅ぼしました。その反省から、日本国憲法が成立しました。そして、天皇ではなく、国民こそが主権者だと高らかに宣言しました。
本来なら、このとき天皇制は廃絶されるべきはずでした。しかし、戦勝国が占領政策を効率的に遂行するために、あるいは戦後世界の対立構図における戦略上の思惑などから、天皇制は廃絶されず、象徴天皇制として残されました。
暴力的な押し付けを欠いた象徴天皇制が発足以来、70余年。日本国民の主権者としての自覚は十分に育っているでしょうか。臣民根性は克服されているでしょうか。
維新期、明治政府を構想した者は、徹底して天皇を利用することを考えました。士族階級には水戸学流の名分論から天皇統治の正当性が説かれ、それ以外の階級には、天皇は神の子孫であり現人神でもあると教えられました。20世紀中葉まで、こんなことが全国の学校で大真面目に教えられたのです。なぜか。御しやすい、支配しやすい、抵抗心のない、権力に従順な被支配民をつくり出すためにです。支配の道具として、天皇はこの上なく使い勝手のよい便利な存在だったのです。
天皇を利用したマインドコントロールから、日本国民は十分に覚醒しているでしょうか。私たちに今必要なことは、主権者としての自立した精神です。旧天皇にご苦労様でしたと持ち上げてみたり、無邪気に新天皇に旗を振るという、無自覚さこそが罪と言わねばなりません。
天皇代替わりを好機として、「新時代に、新憲法を」などというスローガンに乗せられてはなりません。天皇代替わりの今こそ、自覚的に臣民根性を払拭して、主権者意識を涵養しなければならないと思います。
権威とは、多くの人があると思うからあるだけの幻影に過ぎません。天皇の権威も同じです。そんなものは認めないとみんなが思えば、存在しないのです。舌を噛むような最大限敬語を使う滑稽は主権者の態度ではありません。「天皇に恐れ入らない精神」こそが、いまわれわれに求められています。
以下は、レジメの一部を抜粋しておきます。
※日本国憲法の基本性格と改憲問題の構図
☆日本国憲法は不磨の大典ではない。もちろん、理想の憲法でもない。
☆歴史的な所産として、
「人類の叡智の結実」の側面を主としてはいるが、
「旧制度の野蛮な残滓」を併せもっている。
☆すべての憲法条文は普遍性をもつとともに、特異な歴史性に彩られてもいる。
憲法のすべての条文は、歴史認識を抜きにして語ることができない。
☆戦後の進歩勢力は、憲法をあるべき方向に変える「改正」の力量を持たない。
さりとて、「改悪」を許さないだけの力量は身につけてきた。
「護憲」「改憲(憲法改正)阻止」という革新側スローガンの由来。
☆政治的なせめぎ合いは、いずれも革新の側が守勢に立たされている。
改憲(憲法改悪) ⇔ 改憲阻止
壊憲(解釈壊憲)? ⇔ 改憲阻止
※本日の学習会テーマに即して
☆「安倍改憲発議の企て」⇒「9条改憲」など4項目明文改憲提案
「天皇代替わり」(2016・8・8⇒2019・5・1)⇒改憲ではなく「壊憲」問題
その両者の基底に、自主憲法制定を党是とする自民党の基本方針がある。
「自民党改憲草案」(12・4・27)が、改憲・壊憲の本音を語っている。
☆保守政権(即ち国民の多数派)は、改憲と壊憲を望んでいる。
しかし、そのホンネは小出しにせざるを得ない。
明文改憲の小出しが、「改憲4項目・条文素案」であり、
壊憲の小出しが、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」である。
※自民党「改憲4項目・条文たたき台素案」(2019・3・25)
内容 【9条改正】【緊急事態条項】【参院選「合区」解消】【教育の充実】
スケジュール 「2010年を改正憲法施行の年に」⇒絶望的情勢
※改憲発議問題経過と手続
☆2017年5月3日 右翼改憲集会へのビデオ・メッセージと読売紙面
「アベ9条改憲」提案 9条1項2項は残して、自衛隊を憲法に明記。
☆その種本は、日本会議の伊藤哲夫「明日への選択」論文。
「力関係の現実」を踏まえての現実的提案というだけでなく、
「護憲派の分断」を狙う戦略的立場を明言している。
(「自衛隊違憲論派」と「自衛隊合憲(専守防衛)派」の共闘に楔を。)
☆3月25日 自民党大会 これまでに党内一本化
その後、改憲諸政党(公・維)と摺り合わせ→『改正原案』作成の予定
現在まで進展なし
☆議会の発議手続
衆院に『改正原案』発議→本会議→衆院・憲法審査会(過半数で可決)
→本会議(3分の2で可決)→参院送付→同じ手続で可決
『改正案』を国民投票に発議することになる。
60?180日の国民投票運動期間を経て、国民投票に。
国民投票運動は原則自由。テレビコマーシャルも自由。
有効投票の過半数で可決。
☆勝負は今。改正原案を作らせないこと。
3000万署名の成否が鍵。今夏の参院選が山場。
☆2019年の政治日程 元号・退位・即位の礼・大嘗祭・参院選・消費増税
☆「安倍のいるうち、両院で3分の2の議席あるうち」が、改憲派の
千載一遇のチャンス⇒安倍を下ろすか、各院で3分の2以下にすれば良い
☆安倍9条改憲は、どのような法的効果をもたらすか。
・9条1項2項の死文化。しかも、戦争法を合憲化し海外派兵も可能に。
・「ないはずの軍事力」が明文化される効果。
隊員募集協力への強制・土地収用法・
☆緊急事態条項の危険性
制憲国会での金森徳次郎答弁。
「緊急事態条項は権力には調法だが、民主主義と人権には危険」
※天皇代替わりにおける憲法理念の粗略化
☆いったい何が起きるのか。
4月1日 元号発表
4月末日 天皇(明仁)退位
5月1日 新天皇(徳仁)即位 剣爾等承継の儀(剣爾渡御の儀)
その後、一連の即位行事と宗教儀式
10月22日?????? 即位礼正殿の儀
11月13日?14日 大嘗祭
10月22日安倍晋三が発声する「テンノーヘイカ・バンザイ」の笑止千万
11月13日?14日 大嘗祭のおぞましさ
国民主権原理違反と、政教分離原則違反と。
☆ 憲法における天皇の地位
天皇とは、日本国憲法上の公務員の一職種であって、それ以上のものではない。象徴とは、なんの権限も権能も持たないことを意味するだけのもので、象徴から、何の法律効果も生じない。
本来、天皇は「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」だけのもので、国事行為の外に「象徴としての行為」や「天皇の公的行為」を認めてはならない。
☆ 天皇の地位は、「主権の存する日本国民の総意に基づく」ものであって、主権者である国民の意思によって天皇の地位を廃絶しうることは、もとより可能である。憲法改正の限界に関しては諸説あるものの、天皇・天皇制を廃止しうることは通説である。また、皇位継承法である皇室典範は一法律に過ぎず、国会が改廃しうることに疑問の余地がない。現行憲法においては、「天皇は神聖にして侵すべからざる」存在ではない。
☆ なお、日本国憲法の体系の中で、天皇の存在は他の憲法価値と整合しない夾雑物である。憲法自身がその99条で憲法尊重擁護義務を負う公務員の筆頭に天皇を挙げているところではあって、憲法解釈においても、人権・国民主権・平和等の憲法上の諸価値を損なわぬよう、天皇や天皇制をできるだけ消極的な存在とすることに意を尽くさなければならない。
☆ 天皇の生前退位発言
旧憲法下の天皇は、統治権の総覧者としての権力的契機と、「神聖にして侵すべからず」とされる権威的契機とからなっていた。日本国憲法は天皇の権力的契機を剥奪して「日本国と日本国民統合の象徴」とした。その「初代象徴天皇」の地位には、人間宣言を経た旧憲法時代の天皇(裕仁)が引き続き就位し、これを襲った現天皇(明仁)は「二代目象徴天皇」である。
その二代目が、高齢を理由とする生前退位の意向を表明した。2016年8月8日、NHKテレビにビデオメッセージを放映するという異例の手段によってである。1945年8月15日の「玉音放送」を彷彿とさせる。
そこで天皇は、「既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。」と語っている。天皇自らが、「象徴の努め」の内容を定義することは明らかに越権である。しかも、国事行為ではなく「象徴の努め」こそが、天皇の存在意義であるかのごとき発言には、忌憚のない批判が必要だ。憲法学は、「象徴としての公的行為」の範疇を可及的に狭小とすべく腐心してきた経緯がある。さらに、法改正を必要とする天皇の要望が、内閣の助言と承認のないまま発せられていることに驚かざるを得ない。
☆ ところが世の反応の大方は、憲法的視点からの天皇発言批判とはなっていない。「陛下おいたわしや」「天皇の意向に沿うべし」の類の言論が跋扈している。リベラルと思しき言論人までが、天皇への親近感や敬愛の念を表白している現実がある。天皇に論及するときの過剰な敬語の氾濫さえもみられる。
この世論の現状は、あらためて憲法的視点からの象徴天皇制の内実やその危険性を露わにしている。
☆ なお、憲法では「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」(第二条)とされ、「皇位世襲」以外のことは、「皇室典範」と名付けられた法律によって決めうるとされている。だから、生前退位を認めるか否かと、憲法改正の必要性との結びつきはまったくない。意図的に、生前退位の議論を「お試し改憲」の議論と結びつけようという議論が見られたが、この種の立論には警戒を要する。
☆ 生前退位要望への可否のは些事に過ぎない。結論はどちらでも、大事ではない。問題は、この件を取り扱う国民の姿勢ないし態度にある。「畏れおおくも、天皇の地位に関わる法の改正に着手させていただく」などという臣民のごとき卑屈な態度であってはならない。飽くまでも、主権者の立場で問題を考えなければならない。急ぐも急がないも、国民次第。
☆ 確認しておくべきは、天皇が象徴であることは、天皇に何らかの能力を要求するものではないということである。身体的能力も知的な能力もである。天皇は生存するだけで天皇なのだ。象徴とは存在するだけのもの。象徴であることから、なんらの法的効果が導かれることはない。ハタもウタも象徴である。ハタもウタも存在するだけで象徴としての機能を果たす。天皇も同様なのだ。
高齢の天皇が、現行の国事行為に関する執務の作業量が膨大でこなしきれないというのなら、作業量を最小限にしぼればよい。象徴が象徴であるがゆえに何らかの義務負担を強制されることはなく、象徴だからこれだけの執務をこなさなければならないという義務が生じるわけでもない。象徴としての天皇は、本来どこに出向く必要もなく身体的動作も必要ない。国会の開会式出席などは不要だし、皇室外交も象徴と結びつくものではない。ほとんどのことは辞めてもよいのだ。
☆ 天皇の国事行為は、書面に署名をする能力で足りる。「外国の大使・公使の接受」くらいが高齢で差し支えることになるだろうか。その場合は摂政を置けば足りる。あるいは、国事行為の臨時代行者選任という制度もある。それでなんの不都合もない。
☆ 近代天皇制とは、国民統治の道具として明治政府が拵えあげたものである。旧憲法時代の支配者は、神話にもとづく神権的権威に支えられた天皇を、この上なく調法なものとして綿密に使いこなし、大真面目に演出して、国民精神を天皇が唱導する聖戦に動員した。
そこでの政治の演出に要求された天皇像とは、神の子孫であり現人神でもある、徹底して権威主義的な威厳あふれる天皇像だった。「ご真影」(油絵の肖像を写真に撮ったものでホンモノとは似ていない)や、白馬の大元帥のイメージが臣民に刷り込まれた。
☆ 敗戦を経て日本国憲法に生き残った象徴天皇制も、国民統治の道具としての政治的機能を担っている。しかし、初代象徴天皇は、国民の戦争被害の報告に、責任をとろうとはしなかった。戦争責任を糊塗し、原爆被害も「やむを得ない」とする無責任人物としての天皇像。それが、代替わり後次第にリベラルで護憲的な天皇像にイメージを変遷してきた。
現在、国民を統合する作用に適合した天皇とは、国民に親密で国民に敬愛される天皇でなくてはならない。一夫一婦制を守り、戦没者を慰霊し、被災者と目線を同じくする、「非権威主義的な権威」をもつ象徴天皇であって、はじめてそれが可能となる。憲法を守る、リベラルな天皇像こそは、実は象徴天皇の政治的機能を最大限に発揮する有用性の高い天皇像なのだ。これを「リベラル型象徴天皇像」と名付けておこう。
国民が天皇に肯定的な関心をもち、天皇を敬愛するなどの感情移入がされればされるほどに、象徴天皇は国民意識を統合する有用性を増し、それ故の国民主権を形骸化する危険を増大することになる。天皇への敬愛の情を示すことは、そのような危険に加担することにほかならない。
※天皇代替わりにおける政教分離違反問題
☆政教分離とは、象徴天皇を現人神に戻さないための歯止めの装置である。
「国家神道(=天皇教)の国民マインドコントロール機能」の利用を許さないとする、国家に対する命令規定である。
・従って、憲法20条の眼目は、「政」(国家・自治体)と「教」(国家神道)との「厳格分離」を定めたもの
・「天皇・閣僚」の「伊勢・靖國」との一切の関わりを禁止している。
・判例は、政教分離を制度的保障規定とし、人権条項とはみない。
このことから、政教分離違反の違憲訴訟の提起は制約されている。
・住民訴訟、あるいは宗教的人格権侵害国家賠償請求訴訟の形をとる。
☆運動としての岩手靖国訴訟(公式参拝決議の違憲・県費の玉串料支出の違憲)
靖国公式参拝促進決議は 県議会37 市町村1548
これを訴訟で争おうというアイデアは岩手だけだった
県費からの玉串料支出は7県 提訴は3件(岩手・愛媛・栃木)同日提訴
☆訴訟を支えた力と訴訟が作りだした力
戦後民主主義の力量と訴訟支援がつくり出した力量
神を信ずるものも信じない者も 社・共・市民 教育関係者
☆政教分離訴訟の系譜
津地鎮祭違憲訴訟(合憲10対5)
箕面忠魂碑違憲訴訟・自衛隊員合祀拒否訴訟
愛媛玉串料玉串訴訟(違憲13対2)
中曽根靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
滋賀献穀祭訴訟・大嘗祭即位の儀違憲訴訟
小泉靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
安倍首相靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟(東京・大阪で現在進行中)
☆岩手靖国控訴審判決の意義と影響
・天皇と内閣総理大臣の靖国神社公式参拝を明確に違憲と断じたもの
・県費からの玉串料支出の明確な違憲判断は愛媛とならぶもの
・目的効果基準の厳格分離説的適用
目的「世俗的目的の存在は、宗教的目的・意義を排除しない」
効果「現実的効果だけでなく、将来の潜在的波及的効果も考慮すべき」
「特定の宗教団体への関心を呼び起こし、宗教的活動を援助するもの」
☆ 今、天皇が演出しようとしている「リベラル型象徴天皇像」と、自民党流の復古調「権威主義型象徴天皇像」とがせめぎ合っているように見える。
中道保守派が「リベラル型象徴天皇像」支持派として生前退位を認め、札付きの右翼たちが「権威主義型象徴天皇像」支持派として生前退位に反対の構図となっている。
しかしどちらも、タイプこそ違え、天皇の「権威」を通じての国民統合機能を認めるものとして五十歩百歩と言わざるを得ない。いま、「権威主義型象徴天皇像」では国民を味方に付けることはできまい。むしろ、強調すべきは「リベラル型象徴天皇像」の危険性である。
「安倍より数段マシだから、天皇の発言を支持する」などと言ってはならない。天皇制という制度の怖さを噛みしめなければならない。
(2019年3月9日)
石川逸子さんのお宅を訪問したのが、朝鮮の「独立運動」記念日に当たる3月1日。先週の金曜日のことだった。そのとき、石川さんの夫君(パートナーというべきか)関谷興仁さんともお目にかかった。石川さんへのインタビューの後、関谷さんの運転で小岩駅まで送っていただいた。
そのとき、益子に朝露館という陶芸展示館があり、関谷さんがその主宰者であることを教えられた。ものを知らないということは恐ろしい。私は、朝露館について、まったく無知だった。関谷興仁という陶芸家についても。
お土産に、「悼 ?集成?」と題する立派な写真集をいただいた。奥付を見ると、発行人関谷興仁、発行所朝露館とされている。一葉社から、2016年11月に発売されたもの。朝露館展示の陶芸作品とそれにまつわる詩が中心だが、並みの陶芸作品記録ではない。
「悼」とは、戦争で、植民地支配で、原爆で、弾圧で…。非業の死をやむなくされた無数の人々への鎮魂の意である。この本の惹句に、「もの言えぬ死者の声を聞き取りながら負の歴史に向かい合った作品を作り続ける関谷興仁の第4弾にして決定版の陶板作品写真集!」とある。『悼ー集成ー』の以前に、『悼』『悼II』『悼III』の出版があって、その集大成の写真集として、『集成』に至ったとのこと。
目次が下記のとおりだ。
ハルラ山
千鳥ヶ淵
SHOAH
チェルノブイリ
フクシマ
中国人強制連行
ヒロシマ
詩歌
オブジェ
「ハルラ山」は、韓国・チェジュ島の中央に位置する高山。ここは「済州島四・三事件」の舞台。権力に抵抗して蜂起した人々に対する虐殺の場。「千鳥ヶ淵」は、靖国と対置される、無名の太平洋戦争犠牲者の墓苑。「SHOAH」は、ユダヤ人に対するジェノサイドのこと。「チェルノブイリ」「フクシマ」は、多くの人の平和な故郷を奪った文明の陥穽。「中国人強制連行」は天皇制日本の蛮行の象徴。関谷さんは、「当時これを実施したのは現政権中枢の祖父たち。この子孫がいまだ政権に蟠踞している」とメモしている。もちろん、岸信介と安倍晋三を念頭においてのこと。「ヒロシマ」は、あのヒロシマ。ここでは石川逸子さんの詩が、多く陶板に書き込まれている。「詩歌」の最初は、金芝河。そして伊東柱。坂口弘なども。「オブジェ」の冒頭作品は、「石のインティファーダへの『呼びかけ』」と評題されたもの。これでほぼ、「朝露館」と「悼」の骨格がお分かりいただけるだろう。
「朝露」は、はかない「あさつゆ」かと思ったのは間違いで、韓国では誰もが知っている抵抗の歌からの命名だという。1970年朴正煕政権下において、22歳のジョンテイル(全泰壱)青年が抗議の焼身自殺をした。これを悼む歌として、作られたのが、キムミンギ(金敏基)作詞・作曲の「アッチミスル」、即ち「朝露」である。
次のような訳詞が紹介されている。勇ましくはない。政権や体制への直接の批判の言葉もない。
長い夜を暮らし草葉に宿る
真珠より美しい朝露のように
心に悲しみがみのるとき
朝の丘に立ち微笑を学ぶ
太陽は墓地の上に赤く昇り
真昼の暑さは私の試練か
私は行く、荒れ果てた荒野に
悲しみ振り捨て私は行く
それでも、この歌は、民衆の抵抗歌として歌われ、軍事政権によって74年に「禁止歌謡」に指定されたという。もちろん、禁止されれば、なおのこと人は唱うものだ。民主化運動のうねりの昂揚のたびに、この歌は脈々と唱い継がれてきた。この抵抗のスタイルが、関谷さんの気持ちにピッタリだったのだろう。
安倍や、菅や、麻生や、河野太郎のような、「差別根性を丸出しにした」「政権中枢に蟠踞している輩」だけが日本人ではない。同胞の中に、関谷興仁さんや、石川逸子さん等がいることを誇りに思う。強者の不当な仕打ちに心から怒り、弱者の側に立って寄り添おうという人だけが、民族間の架け橋にもなり、平和を築く土台を作りうる。
益子に行ったら、朝露館を訪ねてみよう。
〒321-4217栃木県芳賀郡益子町益子4117-3
電話番号 0285-72-3899
但し、開館時期は限られている。
春期(4月?6月) 秋期(9月?11月)
開館日:金曜・土曜・日曜
開館時間:12:00?16:00まで
※開館時期以外のお問い合わせはこちら
TEL:03-3694-4369(9:00?16:00)
なお、ホームページが充実している。
http://chorogan.org/
http://chorogan.org/access.html
案内のユーチューブもある。
https://www.youtube.com/watch?v=_n2xAHwSpEY
朝露館では、夥しい無辜の理不尽な死に想いを致そう。
これ以上の過ちは繰り返させないという決意を新たにしつつ。
(2019年3月8日)
「変装」とは、「変な装い」という意味ではない。他人の目から自分だと覚られぬように、別人を装うことである。昨日(3月6日)保釈されたゴーンが、マスクと作業服姿に身をやつした変装の意味が分からない。この奇妙な変装がもたらしたものは、この人案外にプライドのない人という印象のみ。
誰の進言なのかはどうでもよいことで、ゴーンが断れなかったはずはない。「私は私」「変装などあり得ない」と、なぜ言わなかったのだろう。堂々と、不当な長期勾留を受けた自分の素顔を曝すことで、検察権力と闘う闘志を見せればよかったのに。こそこそと身を隠した印象を残念に思う。
ゴーンはこの格差社会で、不当な利益を得ている階層を代表する人物である。多くの人からの搾取と収奪で財をなしている経済人の典型。しかもその性は傲岸不遜。社会的には指弾されて当然だが、権力に対峙すればやはり弱者でしかない。はからずも、長期の勾留を許す制度と闘う立場に立ったからには、姑息な策を弄せず、堂々としてもらいたい。
同じ日、大阪地裁の刑事法廷で、籠池泰典・諄子夫妻が、第1回公判の補助金詐欺事件の被告人席に着いた。この人の右翼的な思想や言動には辟易するが、臆するところなく堂々と権力に対峙しているところは評価せざるを得ない。報道では、紺色のスーツと金色のネクタイ姿だったという。作業服にマスクのゴーンとは雲泥の差。
この日、籠池は冒頭に自ら意見を述べている。「豊中の国有地が森友学園の学校敷地として大幅に値引きした価格で売却されたのは、官邸からの意向と忖度があったからだ」「補助金不正事件で自らが逮捕・起訴されたことは、国民の目をそらせるための別件逮捕」「口封じのための長期勾留だった」という批判。「安倍首相は自らの保身に舵を切った」とも指摘したという。一々もっともではないか。
この人、この日の入廷前に、メディアにサービスの一句を披露している。
「世直しの 息吹たちぬる 弥生かな」
句になっているかはともかく、この裁判を世直しの一歩にしようという心意気はよく表れている。もちろん、安倍が支配する今の世は歪んでいるという含意がある。自分の裁判を通じて、安倍政権の歪みを、真っ直ぐに糺そうというわけだ。
そして、長い意見陳述の最後を、また一句で締めくくった。
「りんと咲く 日の本一の 夫婦花」
句作のできばえではなく、安倍晋三・昭恵の夫妻に対する当てつけの心情をこそ読むべきである。かつては、右翼的信条をともにする仲間として、神風を吹かせてくれたのが安倍晋三と昭恵の夫妻。それが、いったん形勢利あらずと見るや、保身のために手のひらを返して仲間のはずの籠池夫妻を切り捨てたのだ。そのために、籠池夫妻は300日を越える勾留の憂き目を見ることになった。おそらくは、ハラワタが煮えくりかえる思いであろう。その思いを抑えてのサービスの一句なのだ。
籠池夫妻は、安倍晋三らの冷酷な仕打ちに負けることなく、300日を乗り切ったというプライドを堅持している。それを「りんと咲く」「日の本一」と表現した。夫婦の絆は、安倍夫妻とは比較にならずに強いと言いたいのだ。なるほど、そのとおりと頷かざるを得ない。
この日の安倍晋三のコメントは、報道に見あたらない。朝日によると、「菅義偉官房長官は首相官邸で開かれた午後4時過ぎの記者会見で、籠池氏の初公判について問われ、『個別の事件についてコメントは控えたい。ただ、あらゆる行政プロセスが公平、そして適切に行われるのは当然のことであり、今後ともこうした点に対して国民のみなさんの信頼が揺るぐことがないように取り組んでまいりたい』と語った。」という。
えっ? ホントはこうだろう。
「あらゆる行政プロセスが公平、そして適切に行われねばならないのは当然のことでありますが、安倍晋三の周囲では、不公平、不適切が際だっていることは否定しようもありません。しかしこれまで、こうした点に対して国民のみなさんには、極めて寛容にお目こぼしいただいてまいりました。国有地売却の値引き額が8億円なんて、些細な問題ではないか。総理大臣のオトモダチにそのくらいことは騒ぐほどのことはない。こうお考えいただいた結果、今日の安倍政権の安泰があるのです。今後とも、少々のことには目をつぶっていただくようお願いすることで、国民の皆様の安倍政権に対する盲目的信頼が揺らぐことがないように取り組んでまいりたいと思います」
森友問題の核心は、籠池夫妻の補助金詐欺疑惑にあるのではない。彼らが、「自分たちの起訴や長期勾留は、国民の目を暗ますための国策」と言うのは、まことにもっともなことなのだ。問題の核心は、国有地値引きの経過と動機と背景とにある。安倍晋三夫妻の口利き、少なくとも政権への官僚の忖度が、只同然の国有地払い下げになったのだ。これをどこまで暴くことができるか。それこそが、日本が真っ当な国家であるかの試金石である。
近畿財務局長をはじめとする担当者に対する背任罪告発が、事件の核心を暴き、政権を真正面から撃つものになる。告発案件は大阪検察審査会に係属している。その行方が、国民の最大関心事だ。検察審査会審査委員諸氏の勇気と見識に期待したい。
(2019年3月7日)
韓国の旅の報告をしなければならない。もちろん、わずか5日間の旅では群盲象を撫でたに過ぎない。それでも、私が撫でた部分では、韓国の市民運動の強さ、民主主義の根深さに手応えがあった。学ぶべきところ多大との印象だった。中でも、革新ソウル市のあり方に驚いた。もちろん、東京都と比較してのことである。
2月19日(火)、韓国ピースツアー2日目の早朝は寒かった。しかも、相当に激しい雪だった。宿泊先のコリアナホテル22階から間近に見えるはずのソウル市庁舎が、雪に煙ってまったく見えない。寒さに震えて訪ねたソウル市庁舎で、温かい歓迎を受けた。
ソウル特別市の人口は約1000万人。24行政区を抱えて、東京都に相当する。革新市政だと聞いてはいたが、これほど緻密に理念を尊重しながら行政を行っていることは知らなかった。
市長は、朴元淳(パク・ウォンスン)。文在寅と同期の弁護士である。市長選では、野党統一候補として与党候補を破っての当選で、現在3期目。文在寅大統領の後継者だと、あちこちで聞かされた。
至るところにあったソウル市のロゴマークが、「I・SEOUL・U」。よく見ると、文字列の中央にある「O」の字の上に、小さいヒゲがついている。これが、何か意味あるものなのか、単なる視覚的デザインなのかは分からない。2015年以来のものだとのこと。「SEOUL」を動詞として読むのであれば、使う人のイメージ次第でどうとでも解することができる。市政が優しく暖かいイメージを持ってもらおうとしての、このロゴの採用なのだろう。市庁舎全体が暖かく、「どなたもおいでなさい」「どんなご意見にも耳を傾けます」という雰囲気だった。
ツアーの主催者からは事前に格別の要望はしていなかったようだが、市側は、我がツアー参加者35名のはいる部屋を用意してくれた。3名の職員が、行き届いた資料を準備して、2時間余りの時間を割いて、市政の一端をレクチャーしてくれた。市が用意したテーマは二つ。「ソウル特別市における非正規職の正規職化」と、「訪問する住民センター ?公共と住民がともに作る革新?」というもの。それぞれ、担当者が日本語パワポを駆使しての説明。これがおざなりなものではない。そして、みごとな日本語通訳。正直のところ驚いた。その生真面目さと、その熱意に、である。
最初のレクチャーは、「労働民生政策官室」の担当者によるものだった。ソウルは、自らを『労働尊重特別市』と宣言して、まず自らが勤労者の利益を守る実例を示すことで、市内の企業を「模範的な使用者に導く」方針を持っているという。このことを「公共部門が模範例となり、民間部門に拡散させる」とスローガン化している。
こうして、「自治体として初めて、市政全般において労働問題を政策化した」と胸を張る。その成果として、最も顕著なものが、「非正規職の正規職化」であるという。
正規職化の取り組みは、2012年から始まった。その理念は、「社会的・経済的二極化の是正、持続可能な発展に向け、非正規職問題に市が他に先駆けて取り組む」というものだった。
市は、緻密なプロセスを策定し、業務委託の「間接雇用労働者」を、直接雇用の「期間制・準公務員」に切り替え、さらに正規職の公務員労働者に切り替えたという。2019年2月までの正規職化が実現した人数は、10,209人に上るという。
この間、平均賃金は年間180万円上昇し、休日、有給休暇、福利厚生も拡大した。今、取り組みの中心は、「所属感や自尊感情の低下など、不合理な処遇における差別」の払拭だという。
何より感心させられたのは、労働条件と福利の向上だけを問題にするのではなく、「労働尊重文化の政策化」だという。この取り組みの成果は、中央政府新政権の非正規職解決のモデルにもなり、光州市など他の自治体にも波及しているという。
資本の要請をどこまでも追認して非正規化容認の日本の労働行政とは、まさしく正反対の方向。自治体が先頭を切って正規職化し、これを民間に拡げていこうという政策に、度肝を抜かれた思い。
報告が終わるや、矢継ぎ早に質問の手が上がった。予算はどれだけ増えたのか。その財源は。労働組合はどんな役割を果たしたのか。議会の意見はどうだったか。何よりも、ソウル市の住民は納得しているのか。予算を切り詰めよ、そのために、職員の給与を抑えよ、という声をどう説得したのか…。とても、時間か足りない。
「訪問する洞住民センター ?公共と住民がともに作る革新?」は、市の「訪問する洞住民センター」推進支援団長のレクチャーだった。「洞」とは、最小単位の行政機関として、洞ごとにある「住民センター」が、住民と密着しながら福祉行政を進めている。「訪問する洞住民センター」とは、待ちの姿勢ではなく、自ら福祉を必要とする現場に出向く姿勢を強調したネーミング。
しかも、住民福祉を公務員だけが担うというのではなく、「公共」と「市民」との緊密な連携のもとに、民間の力を引き出して、住民自治を基本に総合的な政策を行うという。
ここでも驚くべきは、貧困・疾病・社会的孤立などを解決するために、福祉の人手が不足として、2015年から2018年までに、福祉関係職員を2,802人増員したという。
こうして、福祉国家的理念からは「人間としての尊厳を維持するに足りる生活を権利として享受できる制度的な保障」を、市民社会的観点からは「自分の暮らしと社会環境に対する自己決定権の獲得と実行」を、目指すものだという。
この報告の最後に、パク市長の記者会見の言葉が引用されている。「『訪問する洞住民センター』の人々は、行政の効率より人間を最優先する『人権公務員』になります」というのだ。
熱く語る担当者に気圧された感があった。「どうして、そんなに熱心になれるの?」という質問に、こんな答が印象的だった。
「自分の場合は、セウォル号事件の影響が大きい。あのときの国民の問いかけが、『これが国家なの?』というものでした。この問いかけは、地方公務員である私にも向けられたものだと思いました。セウォル号事件を批判する大きな国民の声と行動に私も真剣に応えなければならない。その思いが、自分を変えたはずです」
私たちには野田市の児童虐待死事件が生々しい記憶としてあった。児童相談所の消極的な姿勢を歯がゆく思う気持ちが強く、「積極的に福祉に必要なところに訪問する人権公務員」には、大きな拍手を惜しまなかった。
この日ソウルは寒い雪の空だったが、市庁舎の中での報告には熱気がこもっていたた。今、韓国はどこも熱い。そう思わせるソウル市庁舎訪問。それにしても、嗚呼、彼我の差かくも大なる小池百合子都政を何とかしなくては。
(2019年3月6日)
私は、産経は読まない。が、産経人士が何を言っているかには関心がある。もちろん、批判の対象としてのことである。都合の良いことに、右翼言論を丹念に拾って配信してださる奇特な方が、何人かいらっしゃる。まことにありがたい。そのルートで、産経の[正論]欄(2月28日)に、「靖国150年に聴く鎮魂の曲」という記事があることを知った。「文芸批評家、都留文科大学教授」の肩書をもつ新保祐司の記事である。これを抜粋して引用させていただく。
「今年は、靖国神社創立150年である。改めて英霊に深く思いを致す機会とすべきである。その思いをさらに深いものにする一助として、英霊に関係した名曲を2つ紹介したいと思う。これを聴くことによって靖国の英霊に対する感謝と崇敬の念は極まるであろう。」
「靖国の英霊に対する感謝と崇敬の念」は右翼や安倍晋三の常套句であるが、大きな違和感を禁じえない。「愚かな為政者の愚策によって貴重な命を失った戦没者と遺族の無念さへの共感」なら分かるが、「感謝と崇敬」はまったく分からない。しかし、戦没者遺族には「靖国の英霊に対する感謝と崇敬の念」と言われることが、少しでも心安まることになろう。これが、靖国の仕掛けである。
「こういう音楽が貴重なのは、戦争を経験した人間が少なくなっていく中で、真正の芸術によって表現されたものの裡(うち)に英霊の記憶は受け継がれていくからである。今後、日本人はこのような音楽を聴くことによって、民族の歴史としての戦争を回想することができるであろう。2曲とも「海ゆかば」と交声曲「海道東征」を作曲した信時潔の作品だが、これも何か宿命的なものを感じさせる。」
「民族の歴史としての戦争」「真正の芸術によって表現されたもの」「英霊の記憶は受け継がれていく」などの表現には、被侵略国の民衆の被害は眼中にない。靖国神社は戦争と戦没者を意識的に美化する装置である。産経の記事などは、靖国を美化することによって、無反省に戦争と戦没者を美化するものである。
「1つ目は、「やすくにの」という昭和18年9月に作られた曲である。作歌は大江一二三である。
靖国の宮に御霊は鎮まるも をりをり帰れ母の夢路に
この歌は、若くして戦死を遂げた孝心あつい立山英夫中尉の英霊に捧(ささ)げられたもので、当時の部隊長だった大江一二三少佐が、中尉の郷里で町葬が行われる日に電報に託して届けたものである。これを紹介した津下正章著『童心記』がJOAKより朗読放送され、これをたまたま聴いた信時が、感激して直ちに曲をつけたものである。
当時、東京音楽学校の教師であった信時は、政府をはじめとしてさまざまなところからの依頼で作曲することが普通であったが、この「やすくにの」は自発的に作曲した稀(まれ)な例で、信時の「感激」がいかに深かったかが分かる。
『童心記』には、「この歌こそは、中尉に捧げられたものであるが、同時に靖国の神とまつられた全将兵に捧げられたものであり、またその全母性に寄せられた涙の感謝である。しかも一部隊長大江少佐の美しい温情であり熱祷(ねっとう)であると共に、全将校全部隊長が寄せる亡き部下とその母への『武人の真情』なのである」と書かれているが、信時は、この「武人の真情」に深く感動したに違いない。
この大江一二三の歌については、かつて私のブログで2回にわたって取りあげたことがある。そのときの見出しは、「国家に子の命を奪われ、靖国に子の魂を奪われー『九段の母』の二重の悲劇」というものである。これこそが、母の心情であったに違いない。
https://article9.jp/wordpress/?p=7419
(2016年9月4日)
https://article9.jp/wordpress/?m=201608
(2016年8月31日)
これを、以下に抜粋して再掲したい。新保祐司の記事と併せ読んでいただきたい。
靖國神社には、月毎の「社頭掲示」というものがある。2008年8月の靖國神社社頭掲示は以下のものであった。
遺 書
陸軍歩兵中尉 立山英夫命? 熊本県菊池郡隈府町出身
昭和十二年八月二十二日歩兵第四七聯隊支那河北省辛荘附近にて戦死
若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
己生あるその中は 子の身に代わらんこと思い
己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ
あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬ゆべき
あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む
母死に給うそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
これは、「覚悟の遺書」ではない。母にも他人にも読まれることを想定して書いたものではない。斥候として偵察に出た初陣で戦死した若い見習い士官のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモである。
メモ前半の長歌は、当時よく知られていた「感恩の歌」の一部をとって、独自の創作を付け加えたもの。そして、24回繰り返された「お母さん、お母さん、お母さん……」。母を思う子の心情が溢れて胸を打つ。ここには、「大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」などというタテマエや虚飾が一切ない。
私は、このメモを読むたびに、不覚の涙を禁じ得ない。我が子の死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。
靖國神社には二面性がある。その一面は、上から見おろした、国家が拵え上げ国民に押しつけた側面。戦没将兵を顕彰することで、戦争を美化し国民を鼓舞して、君のため国のための戦争に国民精神を総動員する装置としての側面。飽くまでこちらがA面である。
だがそれだけではない。国家によって拵え上げられた擬似的「宗教」装置ではあっても、夥しい戦没者の遺族にとっては、故人の死を意味づけ、これを偲ぶ場でありえている。確実に民衆が下から支える側面がある。こちらがB面。B面あればこそのA面という関係ができあがっている。
「お母さん、お母さん…」のメモは、B面に徹した遺品。A面だけではなく、B面も靖國にとっては、なくてはならない存在なのだ。
私は、B面に涙する。同時に、この涙する心情をA面に掠めとらせ利用させてはならないとの痛切の思いを新たにする。A面は擬似的にもせよ宗教的に構成されているのだから、政教分離とはA面の国家利用を絶対に許さないとする法原則と理解しなければならない。
戦争の犠牲者は自国民だけではない、軍人軍属だけでもない。戦没者の追悼のあり方は、祭神として靖國の社頭に祀ることだけではない。「お母さん…」と書き付けて亡くなった子と母の痛切な心情を、国家や靖國に囲い込ませてはならない。
戦死者を顕彰したり戦争を美化するのではなく、再びの戦争犠牲者を絶対につくらないと決意すること。いかなる理由によっても、いかなる戦争も拒否すること。国際協調と平和主義を貫徹する誓約をすること。これこそが真に戦死者を悼み、戦死者と遺族の心情を慰めることになるのだ。(以上、2016年8月31日)
国家に子の命を奪われ、靖国に子の魂を奪われー「九段の母」の二重の悲劇
8月31日の当ブログで紹介した、2008(平成20)年8月靖國神社社頭掲示の立山英夫「遺書」には後日談がある。
陸軍歩兵見習士官立山英夫は、日中戦争開始直後の1937年8月、初陣での斥候任務の途中で戦死した。その血まみれの軍服のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモには、天皇陛下も万歳も、「大君の辺にこそ死なめ」もなく、ひたすら「母恋し」の心情に溢れた歌が書き込まれ、そのあとに「お母さん お母さん お母さん…」と24回書き付けてあった。撃たれてから書いたのではなく、書き付けたものをポケットに忍ばせていたのだ。我が子の戦死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。
死んだ兵の上官は、大江一二三(後に大佐)。この「遺書」に心を揺さぶられた大江は、立山の葬儀に弔電を送る。この弔電が、
「ヤスクニノミヤニミタマハシヅマルモヲリヲリカヘレハハノユメヂニ」
(靖国の宮にみ霊は鎮まるも をりをりかへれ 母の夢路に)
という歌になっていた。これに、当時の著名な作曲家である信時潔が曲をつけて国民歌謡となり、全国で歌われた。
この歌の意味は、当時の国民にはよく分かったのだろうが、今では解説なくしては理解しえない。野暮は承知で解釈してみれば、
「故人の魂は神となって靖国の宮に鎮座してはいるが、ときどきは恋しい母のもとに帰って、その夢にあらわれたまえ」
というところであろうか。
靖国の祭神となった子の魂は母の許にはない。国家が魂を独占し管理しているのだ、母の夢路に「をりをり帰れ」と言うのが精一杯なのだ。
わたしはこの話を、大江一二三の長男である大江志乃夫さんから聞いた。岩手靖国訴訟で、大江さんに学者証人として盛岡地裁の法廷に立っていただいた1983年夏のこと。このことは、法廷に提出された陳述書をもとに上梓された大江志乃夫『靖国神社』岩波新書(1984年3月)の終章にまとめられている。抜粋して引用しておきたい。
この歌は、太平洋戦争中の日本放送協会(NHK)国民歌謡のひとつである。国民歌謡は1936(昭和11)年6月から放送がはじめられ、翌年10月からさらに国民唱歌の放送がはじめられた。
太平洋戦争の記憶とわかちがたく結びついている「海行かば」は、万葉集にある大伴家持の歌に信時潔が作曲したもので、国民唱歌第一号であった。
「靖国の」は信時潔の作曲である。作詞は大江一二三となっている。大江一二三つまり私の亡父である。私の父は陸軍の職業軍人であった。1937年日中戦争がはじまった当時、九州の第六師団に属しており、戦争が開始された直後の7月27日に動員が下命され、ただちに出動した。おなじ部隊に若い見習士官立山英夫がいた。出征わずか三週間後の8月20日、将校斥候として偵察に出た初陣で戦死した。母親思いの立山の血まみれの軍服のポケットには彼の母親の写真があり、裏に「お母さんお母さんお母さん……」と二四回もくりかえし書かれていた。
立山の遺骨が郷里に帰り、葬儀がおこなわれたとき、私の父は転勤して宮崎県の都城市にいた。父の打った弔電の文面が冒頭に紹介した短歌である。電報の配達局の消印は「12・11・17」の日付となっている。…
作曲家の信時潔は1963年11月に文化功労者となった。そのときのNHK「朝の訪問」の番組で「今まででいちばん印象に残る作曲は?」と質問したインタビューアーにたいして?彼は当然「海行かば」という答を予期していたようであるが、?信時は「大江さんという軍人さんの歌ですが」と言い、自分でピアノに向かって「靖国の」を歌ったという。
父が歌にこめた思いもおなじであろうが、私がいだいた素朴な疑問は、一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか、ということであった。
あれほど母親思いの青年の魂だけでも「をりをり」ではなく、永遠に母親の許に帰ることをなぜ国家は認めようとしないのであろうか。父の友人でもあったある歌人はこの歌を「全国民の唱和に供した悲歌」と評したが、そのとおりであると思う。父のこの歌の存在が私に靖国神社への関心を呼び起こした。
「をりをりかへれ」としか言わせない靖国神社の存在とはいったい何なのか、国家は戦死者の魂を靖国神社の「神」として独占することによって、その「神」たちへの信仰をつうじて何を実現してきたのか、あるいは実現することを期待したのか。
「戦死者の魂を国家が独占する」ことについては、敗戦まで靖国神社の宮司であった鈴木孝雄(陸軍大将)がこう言っている。(「偕行社記事 特別号」)
「人霊をそこへお招きする。此の時は人の霊であります。いったんそこで合祀の奉告祭を行います。そうして正殿にお祀りになると、そこで始めて神霊になるのであります。…遺族の方は、其のことを考えませんと何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「遺族の心理状態を考えますというと、どうも自分の一族が神になっている。…一方に親しみという方の点が加わるものですから、なんとなく神様の前の拝礼あたりも敬神というような点に欠けていることがまま見られるのであります。…それは確かに、自分の一族の方が神になっておられるんだという頭があるからだと思います。そうではなく、一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないかと思います。」
これが靖国を通じて、国家が戦死者の魂を独占し管理するということなのだ。大江一二三は「せめて、をりをりは母の許に」と言ったが、靖国の宮司はこれをも、「何時までも自分の息子という考えがあってはいけない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないか」と叱責の対象にしかねない。
「九段の母」とは、子の命を天皇と国家に奪われ、さらには死後の魂までも国家に奪われた「二重の悲劇」の母なのだ。(以上、2016年9月4日から)
(2019年3月5日)
私(澤藤)が、当事者になっているDHCスラップ訴訟。第1ラウンドは、DHC・吉田嘉明が私を被告として、6000万円の損害賠償請求訴訟を提起した。私の言論がDHC・吉田嘉明の名誉を傷つけたというのだ。言論の自由を弁えぬ輩による典型的なスラップ訴訟である。
1審東京地裁・2審東京高裁とも、私(澤藤)が勝訴した。これを不服としたDHCと吉田嘉明は、まったく成算のない上告受理申立までしたが、結局不受理となって確定し、第1ラウンドは終了した。
第2ラウンドも、DHC・吉田嘉明からの仕掛けで始まった。債務不存在確認請求事件として、再び私を提訴したのだ。事件は、東京地裁民事第1部に係属し、私が反訴を提起した。私が反訴原告となって、DHC・吉田嘉明に対する損害賠償請求額は、ささやかな660万円である。
双方主張の応酬がなされるのが普通だが、本件では、気合いのはいった澤藤側書面と、やる気のないDHC・吉田嘉明側の言い訳めいた書面のやり取りの後に、次回4月19日の期日にはいよいよ証拠調べが行われる。反訴原告本人の私(澤藤)と、同被告本人の吉田嘉明、そしてDHCの社員(総務部長のUさん)の3名の尋問が決定されている。
ところが、吉田嘉明は、被告本人尋問に逃げ腰なのだ。第1ラウンドも、第2ラウンドも自分から仕掛けた訴訟でありながら、自らの尋問を申請しない。そこで、澤藤側から反訴被告本人(吉田嘉明)の尋問を申請し、尋問が必要な理由を詳細に主張した。その結果、裁判所が吉田嘉明の尋問を採用決定し、裁判所から吉田嘉明に呼出状が発送された。
ところがどうだ。裁判所から呼出を受けてなお、吉田嘉明は法廷に出て来ないというのだ。部下を盾にして、その後ろに隠れようというこの姿勢は、怖じ気づいたと見られてもやむを得ないではないか。あるいは、普通の社会感覚からは卑怯な振る舞いというしかないではないか。訴えられた方の私(澤藤)は出廷する、訴えた吉田嘉明よ、あなたも出廷してはどうだ。
出廷を拒否する連絡は、訴訟代理人今村憲弁護士名の以下の「意見書」のとおりである。
平成29年(ワ)第38149号損害賠償請求反訴事件
反訴原告 澤藤統一郎
反訴被告 吉田嘉明,株式会社ディーエイチシー
意 見 書
平成31年2月28日
東京地方裁判所民事第1部合議係 御中
反訴被告ら訴訟代理人弁護士 今 村 憲
平成31年2月8日付当事者尋問呼出状について、次のとおり、意見を述べる。
尋問事項については、すべて反訴被告本人ではなく、採用済みの証人が主位的に決定しているため、同人が回答するのが最適かつ十分であり、反訴被告本人の出頭の必要性はないので、同日には出頭しない。
わずか4行。念ために申しあげるが、これで全文である。何という投げやりな、何と白々しい、そして何とぶざまな書面ではないか。出廷拒否の理由をまったく語っていないに等しい。前回2月7日(木)11時30分?、501号(ラウンドテーブル法廷)での進行協議の模様を再度報告しておきたい。
☆冒頭、裁判長から以下の発言。
前回の法廷で、Uさん(DHC総務部長)と、澤藤さん、吉田さんの尋問採用を決定しましたが、本日の進行協議は、反訴被告側に、吉田さん本人尋問の申請をするか否かをお考えいただき、それ次第で、尋問の順序や時間配分をどうするかを決めたいという趣旨のものです。
反訴被告代理人。吉田さん本人尋問の申請はされますか。
☆反訴被告代理人弁護士 今村憲
「当方から吉田の尋問を申請はしません。」
「今のところ、出頭しない方向です。」
☆反訴原告代理人
「当人が出頭するかしないかはともかく、裁判所から呼出状を出していただくことが重要で、至急お願いします。」
☆裁判長
「呼出状は本日発送します。」
「反訴被告は、出廷できるかできないか。理由を付して今月末までに返事をおねがいします。」
☆その後の協議の結果次回法廷スケジュールが次のように決まった。
最初に反訴原告(澤藤)の尋問 主尋問30分 反対尋問30分。
次に、証人のUさん。 主尋問20分 反対尋問30分。
最後に、反訴被告(吉田嘉明)。主尋問30分 反対尋問30分。
☆次回の法廷は、4月19日(金)午後1時30分?
東京地裁415号法廷。
ところで、相争う相手は、けっして軽蔑の対象ではない。場合によっては、争いつつも、争い方のフェアプレイに尊敬の念を懐かざるを得ないこともある。その反対に、大物を相手に争訟をしていたつもりが、つまらぬ小物が相手だったか、と思わされることもある。
私の趣味ではないが、いかにも右翼が好みそうな「抜刀隊」という歌を紹介しよう。官軍の軍歌ではあるが、作詞は外山正一という贅沢な軍歌。この歌詞は、一興をそそる。
我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で
之に從ふ兵(つはもの)は 共に慓悍决死の士
鬼神に恥ぬ勇あるも 天の許さぬ叛逆を
起しゝ者は昔より 榮えし例あらざるぞ
敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に
玉ちる劔拔き連れて 死ぬる覺悟で進むべし
この歌は、敵將を「古今無雙の英雄」と讃え、敵兵を「共に慓悍决死の士」と褒めそやしている。英雄たる敵と闘うことを誇りとして、自軍の勇を鼓舞しているのだ。
ところがどうだ。私(澤藤)の闘う相手は「古今無雙の英雄」の片鱗もなく、部下を戦場において自分は逃亡の体という、卑怯な小物なのではないか。これは、私(澤藤)たちの戦意を殺ごうという高等作戦なのだろうか。
敢えて、何度でも言おう。吉田嘉明よ、逃げてはならない。逃げれば、永久に、卑怯・未練・怯懦・臆病と言われるばかりだ。それでよいのか。吉田嘉明よ。逃げずに法廷に出て来たまえ。同じ日、同じ法廷で、私も語る。キミも、思うところを存分に述べたらどうだ。
そもそも、闘いを仕掛けたのはキミの方だ。突然に私を訴えた。2000万円を支払えという損害賠償請求訴訟。私は逃げずにキミからの仕掛けを受けて闘った。もちろん、キミの提訴は言論の萎縮をねらった露骨なスラップだと反撃を開始した。私が「DHCスラップ訴訟を許さない」、という当ブログのシリーズを書き始めたら、何と2000万円の請求が6000万円に跳ね上がった。キミの言論抑圧の意図はそれだけで明瞭ではないか。
こんなメチャクチャなスラップ訴訟を、キミは同時期に10件も提訴している。とうてい勝算などあり得ない訴訟を、それでも提訴した意図や思惑を語れ。一体幾らのカネをかけてこんな訴訟をやったのか。もしや、顧問弁護士から、勝訴の見込みがあるとでも吹き込まれたというのか。その経緯を、宣誓して法廷で語れ。
私は、キミにお願いしたい。逃げずに、誰かの後ろに隠れずに、堂々と裁判所に出てきてしゃべってほしい。私もキミに直接の質問をしたい。キミから私に、質問もしてもらいたい。
もう一度言おう。私は、キミを批判の対象としている。しかし、これまでのところ、けっしてキミを軽蔑してはいない。しかし、キミが、裁判所の呼出から逃げて、卑怯未練・怯懦の振る舞いをすることとなれば、軽蔑せざるを得ない。
「本物、偽物、似非もの」と並べる記事を書いたキミではないか。キミ自身が、「偽物」でも「似非もの」でなく、「本物」だと言うのであれば、堂々と法廷で語れ。そうすれば、私はキミを全力で追及するが、軽蔑の対象として見ることはない。
(2019年3月4日)
1954年3月1日、アメリカは太平洋ビキニ環礁で史上最大規模の水爆実験を行った。「ブラボー」と名付けられた広島型原爆の1000倍の破壊力を持つ水爆は、爆心から160キロ離れたマグロ漁船「第五福竜丸」(静岡県焼津市)に死の灰を降り注いだ。その被爆の日が「3・1ビキニデー」。あれから65年が経過した。まだ人類は、この悪魔の兵器を廃絶し得ていない。東京・夢の島に展示されている第五福竜丸は、世界から核をなくする使命を、なし終えていない。
今年(2019年)の第五福竜丸平和協会「3・1 記念行事」は、映画上映会となった。豊島区のシネマハウス大塚を会場に、昨日(3月2日)下記のプログラムで行われた。
◆上映映画◆
?10:30? 「西から昇った太陽」(監督舞台挨拶)
?13:30? 「死の灰」/「荒海に生きる」(トークを予定)
?15:30? 「わたしの、終わらない旅」(監督舞台挨拶予定)
?18:00? 「西から昇った太陽」(監督舞台挨拶)
各回ともチケット完売で、【満員御礼】となった。
目玉は、完成したばかりのビキニ事件を題材としたドキュメンタリー「西から昇った太陽」(2018年75分)。アメリカ人の若い監督が作ったことに格別の意義がある。
以下は、同映画の宣伝。
1954年3月1日、第五福竜丸の乗組員たちは太平洋上で巨大な水爆実験を目撃した。「西から太陽が昇ったぞ・・・!!」
映画「西から昇った太陽」は、水爆実験に遭遇するという怖ろしい出来事が漁師たちにもたらした苦悩と人生の困難を、当時を体験した乗組員3名のインタビューと1000枚を超えるイラストによるストップモーションアニメで再現しました。
米・ピッツバーグに拠点を置く製作チームは2014年から度重ねて来日し、3人の第五福竜丸元乗組員を取材。過去の資料や映像、写真だけに頼らない、体験者の生の声を映像化することを目指しました。
イラストとCGの独特な味わいと、静かな語りから悲しみが立ち昇る、アメリカの若手作家たちによる新しい第五福竜丸の物語です。
監督・プロデューサー:キース・レイミンク
製作:ダリボルカフィルム
演出デザイン・イラストレーション:Josh Lopata
アニメーション:Jsutin Nixon
音楽:Troy Reimink
現地インタビュー:Peter Bigelow
2月28日、「3・1ビキニデー」行事のひとつとして、静岡で特別試写会が先行している。この映画「西から昇った太陽」は、元乗組員の見崎進さん、池田正穂さん(86)=焼津市=、大石又七さん(85)=東京都=による証言映像と、日本の紙芝居に着想を得たアニメーションで構成するドキュメンタリー。元乗組員が船上で目撃した爆発の光景や放射能の影響だけでなく、漁師の暮らしや帰国後の治療の経過、家族との絆など、一人一人の歩みを丹念に追った。
以下は、NHK(静岡放送局)報道の抜粋。
アメリカ人の監督が制作した映画「西から昇った太陽」は、1954年3月1日、南太平洋で操業中だった「第五福竜丸」が、アメリカの水爆実験で放射性物質を含んだ「死の灰」を浴び、乗組員23人が被ばくで苦しみ1人が亡くなった状況や、周囲の偏見を乗り越えて生きていく姿などを、3人の元乗組員のインタビューやアニメーションで描いた1時間15分の作品です。
映画では、4日前に92歳で亡くなった元乗組員の見崎進さんが「夜明け前に一面に光って、西から太陽が出るわけがないと大騒ぎになった。最年長の乗組員が亡くなり今度は自分の番だと悪いことばかり考えた」と証言していました。
キース・レイミンク監督は「核兵器の問題はアメリカではあまり論じられていないが、日本人とアメリカ人が協力して事実を共有することが重要だ」と話していました。
?映画を鑑賞した静岡市の40代の女性は、「この事件を知らないアメリカの若者にも広まってほしい。核の廃絶を訴えていきたい」と話していました。
静岡新聞はこう報じている。
第五福竜丸元乗組員の見崎進さん(92)=島田市=が(2月)25日、亡くなった。晩年はビキニ事件の記憶を語り継ごうと取材や聞き取り調査に応じてきた。米国人映像作家が見崎さんら元乗組員の人生を描いた映画が、28日のビキニデー集会に合わせて日本で初めて披露される直前の訃報だった。被ばくから65年。事件の実情を伝える数少ない証人がまた一人この世を去った。
見崎さんが出演したのは、米国人映像作家のキース・レイミンク監督による映画「西から昇った太陽」。元乗組員らの証言を基に約4年間の制作期間を経て完成した映画を、見崎さんは昨年、自宅で視聴し「ええっけよ。よくできているよ」と喜んだという。
レイミンク監督の取材をサポートしたのは同市の粕谷たか子さん(69)。2013年に地元の中高生が行った聞き取り調査をきっかけに見崎さんとの交流を続けてきた。「本当にたくましく、明るく前向きな方」と人柄をしのび、「被害に遭った人にしか分からない痛みや苦しみを、若者たちへ真剣に伝えてくれた」と惜しんだ。
3・1ビキニデー県実行委員会運営委員会代表の成瀬実さん(82)=焼津市=は「事件の後、家族のためにじっと耐えてきた。生きざまがそのまま歴史になっている」と振り返る。記憶を語り続けた見崎さんの思いを「仲間が亡くなる中で『伝えなければ』という危機感があったのでは」と推し量った。同実行委員会事務局長の大牧正孝さん(69)=静岡市葵区=は「事件を風化させないために、われわれが伝えていかなければならない」と言葉に力を込めた。
試写会後、監督を務めた米国在住の映像作家キース・レイミンクさんは「言葉の壁や金銭的な問題もあり完成に時間がかかったが、事実を正確に記録した良い映画ができた」とあいさつした。
第五福竜丸の乗員23名は、全員が被爆して、東京の国立第一病院に1年2か月余入院する。その間に最年長の久保山愛吉さんが亡くなり、生存者も不安の日々を過ごすことになる。病室のテレビに映った地元焼津の未婚女性が、「被爆者との結婚は考えられない」という言葉にショックを受ける。退院後も、「放射能がうつる」との差別がつきまとい、再就職も困難となり、婚約を破棄された人もある。被爆の事実や、被爆の被害を伏せざるを得ない。
この映画のインタビューに応じた3人の内の一人が亡くなって、第五福竜丸乗組員の生存者は4人となったという。平和協会の安田和也事務局長が言うとおり、「半世紀もの時間が流れたことで、明かされた証言もある。若い人にこそ、映画を通じて今日まで続く核被害の歴史に触れてほしい」ものと思う。
なお、第五福竜丸展示館は、1976年の開館から42年となる。現在、大規模改修工事中で全面休館となっている。あと1か月の準備の後、本年4月2日にリニューアルオープンする。新しい第五福竜丸展示館に、ご期待とご支援を。
(2019年3月3日)
昨日(3月1日)、石川逸子さんをご自宅に訪ねた。石川さんは知られた詩人であるが、花鳥風月や雪月花を詠む人ではない。被爆者・戦争犠牲者・日本軍「慰安婦」・徴用工など、常に虐げられた人・苦しい境遇の人、そしてひっそりと忘れられた人々に思いを寄せての詩作をされる。3月1日にお目にかかるに、まことにふさわしい方。そのインタビュー記事は、間もなく「法と民主主義」に掲載となる。
石川さんから、「最近はこんなとをしています」と、小冊子をいただいた。「風のたより」と題する不定期刊行物で第16号とある。32頁の縦書きパンフだが、帰宅後に目を通してその内容の充実ぶりに驚いた。
南京事件の証言、台湾人「慰安婦」の証言、中国人強制連行事件、朝鮮人強制連行犠牲者への追悼。戦場の父からの手紙、翁長知事への追悼・日米地位協定、三井三池炭坑炭塵爆発事故、フクシマの事故、核兵器禁止条約…。書き下ろしと、詩と証言と手紙と運動体の通信からの転載など、いずれも読むに値するものばかり。石川さんのところに、読むに値するものが集まってくるのだ。
なかで、興味を引く一文を紹介させていただく。関東大震災後の朝鮮人虐殺事例は数多く報告されているが、このようなかたちで虐殺から救った日本人がいたことは知らなかった。特筆に値する事例だと思う。
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大きな愛
関東大震災時朝鮮人虐殺に抗して
京都在住の詩人、片桐ユズル氏から、お手紙をいただいた。
お手紙によると、日中戦争がはじまる前は、大人が集まると話題は関東大震災のことだったという。そのとき、幼いユズル少年がチラと耳にはさんだのは、白分のひいばあちゃん、片桐けいが、朝鮮人を肋けて警視庁から表彰されたとのこと。それ以上、知らないままでいたところ、当時18歳だった父、片桐大一氏が、そのことをのちに英文で記していたのである。
そして、大一氏(享年90)の葬儀のとき、ユズル氏の弟、中尾ハジメ氏が日本語訳し、コピーして会葬者に配ったのだという。
以下、その文章を載せさせていただく。
25万5000の家屋を倒壊させ、さらに44万7000棟を焼失させた関東大震災で、首都東京は平地と化してしまった。一週間ほどで私たちは、めちゃめちゃにひっくり返ってしまったものをもう一度たてなおそうと、気を取りなおし始めていた。私たちのつぶれかけた家は、引きたおし、建てなおさねばならなかった。その日の午後、荻窪駅の近くで建築業者と材木商との打ちあわせを終えて、私は家へ帰るところだった。
未曾有の破壊は東京周辺のいくつかの地域でどうにも手のつけがたい無秩序をもたらしていた。大異変が人びとの理性の平衡を失わせたのだ。最も野蛮な不法行為まで起こっていた。
もっともらしく歪められ拡大された恐ろしい噂が、またたくまに、広く走り、朝鮮人たちが反乱を企んでいる、あちこちの井戸に毒を役げこんだ、そして何人かはその場で捕えられ殺されたというのだ。家にむかいつつあった私は、近所の大地主の一人飯田さんの畑で一人を斬首刑にすると、通りがかりの人たちが話しているのを耳にした。好奇心で私はその私刑の場へと急いだ。
数分で私はそこにいた。たくさんの人が集まっている。異常に張りつめた空気を感じとることができる。たぶん何も悪いことをしていない一人の朝鮮人に行われようとしている非法な斬首刑をはっきり見ようと、私は厚い人垣をかきわけて、最前列にまで無理やり進んだ。この男が捕らわれたのは、ただ彼が朝鮮人だったからだ。
この白昼、これほど多くの目撃者のまえで一人の人間が殺されるのを見る。なんという衝撃か。どうして、これほど多くの者がこの光景を傍観できるのか。法治社会でこんな刑罰が許されるのか。
犠牲者は地面にはだしで坐らされている。若く見える。が、私には、その背中しか見えない。彼は動かず、じっと静かにしている。逃げることは不可能だ。逃げようとはしていない。運命をあきらめているのか。取りかこんで立つ男たちの手にする、にぶく光る刀が触れる瞬間、血がほとばしるのを知っているのか。やがて永遠の瞬間がきて、刀がひらめき、無抵抗の肉と骨に落ちていくのを知っているのか。私の心臓は、のどにまで上がり、息がつまる。周りのだれも動かなかった。この逃れがたい死の場面はいつ終わるのか。何という瞬間だ!
反対がわに立っている群集のなかにざわめきがあがった。何だろう。厚い人垣をかきかけて一人の女が出てきて、自警団の輪のまんなかに身を投げだした。大地に自分をたたきつけるようにして、その朝鮮人のまぢかに、その背中によりかからんばかりに坐った。
何と! なぜ! どうして! この新た闖入者は私白身の祖母に他ならなかった。私のおばあちゃん、年老いてひ弱な。おばあちゃんは、何をしようというのか。
「さあ、まず私を殺しなさい。先にこの老いぼれた私を殺しなさい。この罪もない若者を殺すまえに、私を殺しなさい。」わめいたのではなかったがその声はみんなに聞こえた。だれもしゃべらず、だれも動かなかった。おばあちゃんは同じ言葉を数回くりかえし、くりかえすごとに、ますます毅然と決意が見えてきた。あの威厳はどこからくるのか。
ほっとしたことに、この危機的な瞬間は長くはつづかなかった。引き抜かれた刀は、血を流すことなく元の鞘に収められた。死刑執行者たちは、この二人の坐ったままの老人と若者に背をむけると、一人また一人と去っていった。何という変わりようだ、ほんのわずかの間にこんなに従順でおとなしくなってしまうとは。ほっとした様子を見せたものさえいたし、負け犬のように立ち去ったものもいた。
群集は去り、私はおばあちゃんを連れて家に帰った、というか、おばあちゃんが帰ろうといったのだろうか? 彼女は、もはや決意も威厳も見えず、普通の年寄りになっていて、私のわきをとぼとぼと歩くのだった。
その若い朝鮮人は、後で大工だということがわかった。私たちの近所を回り修理仕事をしていたのだ。彼の名はダル・ホヨンで、日本名をサカイといった。
何日も何週間もたち、私たちはあの事件には何も触れずにいた。というのも、あの恐ろしい私刑の場面を思い出すのが怖かったからだ。何か月かたって、おばあちゃんは警視庁に出頭せよといわれた。彼女はそこで人命救助により「警視総監賞」を受けた。
友のために自分の命をあたえるばど人きな愛はない。…それにしても、なんと大きな勇気をもち、断固として、非道な行為に、武器をかざした一団に立ち向かわれたことであろうか。(以下略)
(2019年3月2日)