「表現の不自由展・その後」の中止問題について、メディアがどんな見解を出しているか。すこし検索してみて、右派メディア状況の一端を見た。日本のメディアは、いつころからこんなにも劣化してしまったのだろう。
8月7日【産経主張】(社説)のタイトルにはすこし驚いた。「愛知の企画展中止 ヘイトは『表現の自由』か」。これに反論の形で、私の意見を語りたい。
ヘイトと言えば、嫌韓・反中、そして在日バッシング。当然に右翼の専売である。一瞬、産経も改心して、「嫌韓・反中、在日バッシングのヘイト表現を許さない」立場を宣言したかと錯覚したが、どうもそうではない。産経の言うヘイトとは、日本や日本人に対する批判の言論をいうものの如くなのだ。書き手によって、言葉の意味まで違ってくる。
芸術であると言い張れば「表現の自由」の名の下にヘイト(憎悪)行為が許されるのか。そうではあるまい。だから多くの人が強い違和感や疑問を抱き、批判したのではないか。憲法は「表現の自由」をうたうとともに、その濫用をいさめている。
「芸術であると言い張れば『表現の自由』の名の下にヘイト(憎悪)行為が許される」と言っている誰かがいるのだろうか。芸術であるか否かに関わらず、「表現の自由」が保障されるべきは当然だし、民族差別や蔑視のヘイト言論が違法になることも論を待たない。
産経その他の右派が、「表現の不自由展・その後」の展示中止を支持する根拠は、「多くの人の強い違和感や疑問」あるいは「批判」だという。その当否はともかく、ここで語られているものは、「少数派には多数派を不快にする表現の自由はない」という露骨な傲慢である。「自由を保障されるべきは、権力や多数派が嫌悪する表現である」という、自由や人権の基本についての理解が欠けている。
産経はまことに乱暴に、「表現の自由の濫用」を濫用している。「表現の自由も濫用にわたる場合には制約を免れない」という一般論から、中間項を省いて唐突に「表現の不自由展・その後」の展示も制約しうるとの結論に至っている。「表現の自由の濫用として例外的に規制が可能なのは、いかなる場合に限られるか」を検討し吟味し続けてきた、学問的な営みにまったく関心も敬意も持っていない。粗雑というよりは、没論理。安倍首相のいうところの「印象操作」をしているに過ぎない。
愛知県などが支援する国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が開幕から3日で中止された。直接の理由は展示内容に対する脅迫だとされる。暴力や脅迫が決して許されないのは当然である。
産経が「暴力や脅迫が決して許されないのは当然である」という枕詞のごとき一言には、怒りも本気も感じられない。はたして産経は、「暴力や脅迫が決して許されないのは当然である」と本気で思っているだろうか。怒っているだろうか。展示内容に対する賛否の意見はともかくとして、「暴力や脅迫によって、平穏な企画が中止に追い込まれた」という、この事態をどれほど深刻な問題として受けとめているだろうか。言論機関として、「暴力や脅迫による表現への攻撃」にこそ、由々しき事態として問題提起し、暴力の再発を戒めるべきではないのか。
一方で、企画展の在り方には大きな問題があった。「日本国の象徴であり日本国民の統合」である天皇や日本人へのヘイト行為としかいえない展示が多くあった。
まるで、企画展に問題があったから暴力を招いたと論じているごとくである。のみならず、産経は、表現の自由のなんたるかをまったく理解していない。
表現の自由とは、何よりも権力と権威を批判する自由を意味する。安倍政権も安倍政権支持者も、国民の政権批判の言論を甘受しなければならない。同様に、天皇も天皇支持者も、天皇制批判の言論を甘受しなければならない。それが、表現の自由保障の本来の意味である。憲法には、天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるとする記載がある。しかし、「日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴」を批判してはならないとする法理はあり得ない。表現の自由を含む基本的人権の尊重は、天皇存置よりもはるかに重い憲法理念である。むしろ、天皇は「日本国の象徴であり日本国民の統合の象徴」であればこそ、国民の批判を免れない立場にあると考えねばならない。
バーナーで昭和天皇の写真を燃え上がらせる映像を展示した。昭和天皇とみられる人物の顔が剥落した銅版画の題は「焼かれるべき絵」で、作品解説には「戦争責任を天皇という特定の人物だけでなく、日本人一般に広げる意味合いが生まれる」とあった。
大日本帝国憲法は、天皇を「神聖にして侵すべからず」とした。その憲法下、刑法に不敬罪や大逆罪まで設けた。国体(天皇制)の否定は治安維持法でも苛酷に処罰された。出版法、治安警察法が、天皇批判のあらゆる言論を取り締まった。そのような暗黒の時代の再来を許してはならない。産経が、いかに天皇に敬愛の念深くとも、天皇や天皇の戦争責任追及の表現を中止に追い込む事態に賛意を表してはならない。それは、自らが拠って立つ、言論出版事業の自由の否定につながるからである。
「慰安婦像」として知られる少女像も展示され、作品説明の英文に「Sexual Slavery」(性奴隷制)とあった。史実をねじ曲げた表現である。
?「史実をねじ曲げた表現」は当たらない。皇軍が、進軍するところに慰安所を設置し、組織的に「慰安婦」を管理したことは、否定することができない歴史的事実である。「史実をねじ曲げた表現」と決めつける前に、展示の内容に謙虚に耳を傾けてみるべきであろう。
同芸術祭実行委員会の会長代行を務める河村たかし名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる」として像の展示中止を求めた。これに対して実行委会長の大村秀章愛知県知事は、河村氏の要請を「表現の自由を保障した憲法第21条に違反する疑いが極めて濃厚」と非難した。これはおかしい。
おかしいのは、明らかに河村たかし名古屋市長であり、大村秀章愛知県知事の批判は、常識的で真っ当なものである。これは、水掛け論ではない。憲法の定めがそうなっているのだ。
憲法第12条は国民に「表現の自由」などの憲法上の権利を濫用してはならないとし、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と記している。今回の展示のようなヘイト行為が「表現の自由」の範囲内に収まるとは、到底、理解しがたい。大村氏は開催を反省し、謝罪すべきだろう。県や名古屋市、文化庁の公金支出は論外である。
ものには、原則と例外とがある。これを取り違えてはならない。「表現の自由の保障」が幅の広い原則で、「表現の自由の濫用」が極めて限定された例外である。まず原則を語るべきが常識で、例外から語り始めるのは、何とか表現の自由を圧殺しようという予めの下心あっての論理の運び以外のなにものでもない。言うまでもなく、例外に当たるというためには挙証の責任を負担するが、「到底、理解しがたい」では、到底挙証責任を果たしているとは言えない。また、公金支出は、特定の政治思想の表現のためになされているのではなく、民主主義の土台をなす表現の自由の現状を世に問うためという公共性高い事業になされており、なんの問題もない。むしろ、公金の差し止めが、恣意的に国策に反する見解を狙い撃ちするものとして問題となろう。
芸術祭の津田大介芸術監督は表現の自由を議論する場としたかったと語ったが、世間を騒がせ、対立をあおる「炎上商法」のようにしかみえない。
これは、産経流のものの見方。理由のない結論は、まったく説得力をもたない。
左右どちらの陣営であれ、ヘイト行為は「表現の自由」に含まれず、許されない。当然の常識を弁えるべきである。
この産経論説の一番のイヤミは、「左右どちらの陣営であれ」と、公平を装っているところである。自他共に最右派をもって任じる産経が、中立を装っていることが、胡散臭いというよりは滑稽というべきだろう。
産経論説子は、およそ日本国憲法のなんたるかを知らず、大日本帝国憲法への郷愁を「当然の常識」としてものを語っているに過ぎない。新聞の社説としては論証に欠けたお粗末なものというほかはないが、産経は、社説を読む読者を軽侮しているのではないか。
おそらくは、社の大方針の下、結論ありきで書いている社説である。この論調なら、今の社会で、権力に叩かれることも、脅迫にも暴力も遭遇することはない。そういう、温々とした、安全地帯の雰囲気芬々の表現。だから、読者の心を打たない。これに比して「表現の不自由展・その後」の表現者たちは、批判を覚悟、場合によっては脅迫や暴力にさらされることをも覚悟で、必死の表現をしているのだ。それだけで、その表現は貴重であり、表現者は尊敬に値する。
(2019年8月11日)
昨日(8月9日)から、高枕をしてぐっすり眠れるようになった、あの二人に詩を贈ろう。
? 晋三をねむらせ、晋三の屋根に雪ふりつむ。
? 昭恵をねむらせ、昭恵の屋根に雪ふりつむ。
疑惑は深く埋められて、ふりつむ雪の底の底。
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昨日(8月9日)のこと。学校法人森友学園への国有地売却や、これに関わる財務省関連文書の改ざんなどをめぐる問題で、大阪地検特捜部は、被告発者全員を再び不起訴処分とした。
もともと被告発者は38名に上るものだった。大阪地検特捜部は、これを一括全員不起訴として国民の怒りを招いた。さすがに、大阪第一検察審査会は、そのうち10名について、「不起訴不当」と議決した。その中には、近畿財務局の国有財産管理官(当時)や、佐川宣寿・元同省理財局長らが含まれ、大阪地検特捜部はこれを再捜査していた
再捜査後の2度目の不起訴処分については、8月10日現在告発人代理人である私の許には通知が届いていない。だから、正式には処分があったとは言いがたいのだが、大阪地検特捜部が記者を集めて発表したのだから間違いはなかろう。
大阪第一検察審査会の本年3月15日議決(通知書は同月29日付で作成されている)が強制起訴につながる「起訴相当」でなく、「不起訴不当」であったため、検審による2度目の審査は行われず、強制起訴への道はない。この2度目の全員不起訴処分をもって、特捜部は捜査を終結する。なんということだ。安倍政権への濃厚な忖度疑惑を解明することなく、刑事事件としては幕引きにするのだ。
「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」の会員で、告発人となった19名とその代理人は、昨日(8月9日)、以下の「見解」を公表した。
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2019年8月9日
大阪地検の不起訴処分決定に関する私たちの見解
(原処分)平成29年検第17422号
刑事告発人 醍醐聰外18名
同告発人ら代理人弁護士 澤藤統一郎
同 杉浦ひとみ
同 佐藤 真理
同 澤藤 大河
(1)大阪地方検察庁は、私たちが背任で告発した森友学園への国有地の不当な値引き売却事件について、本日、再度、不起訴処分を発表した。
大阪地検は不起訴処分の理由を公にしていないが、いわゆる「前打ち報道」によると、地中にごみが一定量存在していたことは確かだとし、起訴には至らないと判断したとのことである。
しかし、私たちは、様々な証拠資料を挙げて、地下埋設物が存在したとしても、それは値引きの根拠となる「瑕疵」、すなわち、工事の支障となるものではなかったと訴えたのであるから、上記の不起訴理由は私たちの告発に全く答えない不真面目なものである。
(2)大阪地検は当初の不起訴処分の理由として、瑕疵に見合う値引きをして売却を急がなければ森友学園側から損害賠償の訴えを起こされる可能性があったと語った。しかし、大阪第一検察審査会も不起訴不当の議決をした理由として記載したように、そうした提訴は、森友学園の顧問弁護士でさえ、勝算の見込みが乏しいものだった。
このような反証を再捜査でどう解明したのか、説明もないまま、再度の不起訴で幕引きを図ることを私たちは到底、容認できない。
(3)加えて、財務省は近畿財務局に交渉記録の改ざんを指示したり、森友学園側にゴミ撤去を偽装する口裏合わせの工作を持ち掛けたりしたことが国会の場で明らかになった。そうした一連の工作は、近畿財務局や財務省がやましい背任があったことを認識し、それを隠ぺいする工作を行なった事実を赤裸々に物語るものである。
大阪地検が、こうした事実に目を背け、参議院選挙が終わったこのタイミングで再度、不起訴処分の決定を発表したのは、安倍首相夫妻が深く関与した本件を、出来レースの国策捜査で幕引きしようとするものに他ならず、司法の威信、国民からの信頼を失墜させるものである。
私たちは巨悪を眠らせる今回の不起訴処分に厳重に抗議するとともに、これからも公文書の改ざん問題も含め、真相解明を願う多くの市民と協力して事件の真相を追求する努力を続けていく。
以上
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「巨悪を眠らせるな」は、東京特捜から検事総長となった伊藤栄樹の言葉であった。「巨悪を眠らせるな、被害者と共に泣け、国民に嘘をつくな」というのが、彼の部下に対する訓示であったという。
統治の機構は、法の支配を貫き人権侵害を防止する観点から、相互監視と牽制の実効性が確保されていなければならない。とりわけ、権力機構の頂点に立つ者の独善や暴走を許さない検察の役割はこの上なく重要である。検察が「巨悪」と表現するのは総理大臣、あるいは、総理クラスの大物政治家を意味する。佐藤栄作・池田勇人・田中角栄・金丸信…等々。
かつては、検察の「巨悪を眠らせるな」というセリフには、リアリティが感じられた。今はなくなってしまったが、安倍忖度へのメスを入れることが、その汚名を挽回する千載一遇のチャンスだった。にもかかわらず、検察は自らそのチャンスをつぶしたのだ。「巨悪を眠らせるな、被害者と共に泣け、国民に嘘をつくな」と言った検察の魂は、今どこへ行ったのか。
刑事事件としては幕が引かれても、市民運動は幕を下ろさない。この疑惑を追及し続けよう。安倍政権の政治の私物化を糾弾する声を上げ続けよう。
(2019年8月10日)
東京は暑い。熱い。アツ?イ。8月上旬の東京の暑さは尋常ではない。油断していると命に関わる、と言って誇張ではない。
この暑さのさなかに、来年は東京でオリンピックだという。とても正気の沙汰ではない。いったい誰が、こんな無謀なことをたくらんだのか。来年確実に起きるであろう悲劇に、誰がどのように責任をとれるのか。
一旦始まった戦争が、今さら引き返すことなどできないと、国の破滅まで突っ走ったのと、同じ構造ではないか。
その戦争の実態を語り伝えようという、平和を願う文京・戦争展「日本兵が撮った日中戦争」。猛暑のさなかに出足は好調である。昨日(8月8日)午後だけで、ほぼ400人が訪れた。狭い展示室に熱気が感じられる。
アンケートの回収率がとても高いというのが、主催者の感想。みな、戦争に対して一言いわねばならないという気持になっている。
東京新聞の記事を読んで、後援申請を不承認とした文京区教育委員会に抗議の意味で参加という人がかなりいた。あと2日、ぜひご来訪いただきたい。まず、この企画を宣伝したい。
「日本兵が撮った日中戦争」
平和を願う文京・戦争展
文京・真砂生まれの村瀬守保写真展
DVD上映 証言1 侵略戦争
証言2 中国人強制連行
文京空襲 語り部 小林暢夫さん
(8月10日午後2時より)
と き 8月 8日(木) 13:00?18:00
8月 9日(金) 10:00?20:00
8月10日(土) 10:00?16:00
ところ 文京シビック1階 アートサロン(展示室2)
入場無料
2年半にわたり中国各地で撮影し、家族に送られた日本兵の日常
村瀬守保さん(1909年?1988年)は1937年(昭和12年)7月に召集され、中国大陸を2年半にわたって転戦。カメラ2台を持ち、中隊全員の写真を撮ることで非公式の写真班として認められ、約3千枚の写真を撮影しました。天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国各地を第一線部隊の後を追って転戦した村瀬さんの写真は、日本兵の人間的な日常を克明に記録しており、戦争の実相をリアルに伝える他に例を見ない貴重な写真となっています。一方では、南京虐殺、「慰安所」など、けっして否定することのできない侵略の事実が映し出されています。
?一人一人の兵士を見ると、
?みんな普通の人間であり、
?家庭では良きパパであり、
?良き夫であるのです。
?戦場の狂気が人間を野獣に
?かえてしまうのです。
?このような戦争を再び
?許してはなりません。
村瀬守保
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この企画展の後援申請を不承認とした文京区教育委員会の委員5名の氏名を再度明示しておきたい。そして、ぜひとも、汚名を挽回していただきたい。
教育長 加藤 裕一?
委 員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
委 員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
委 員 坪井 節子(弁護士)
委 員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)
なお、教育委員の報酬は月額231,500円である。月一回の定例会に欠席しても全額が支払われる。ぜひ、区民の期待に応える委員であって欲しい。
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河村名古屋市長に抗議し、「表現の不自由・企画展」の再開を求める緊急署名に引き続きご協力を
こちらの緊急署名もぜひご参加よろしくお願いします。
8月1日に愛知芸術文化センターで始まったばかりの「表現の不自由展」。テロを予告した犯人の一人が逮捕されましたが、表現の自由擁護派と妨害派の衝突は、抜き差しならないところまで来ています。
安倍官邸と、河村名古屋市長そして維新の松井・吉村が、歴史修正主義と表現の自由妨害派としてのタッグを組む構図が鮮明になってきました。
「表現の不自由展」を中止のままにしておくことは、今後に禍根を残すことになります。ぜひとも、再開させなければならないと思います。
署名簿は、8月13日(火)に、第一次集約の上、8月15日(木)の午後に署名簿を持参して愛知県知事宛提出と決まりました。記者会見も予定しています。
署名の趣旨は、下記の2点です。
1.主犯者というべき河村名古屋市長に謝罪を求める。
2.企画展を即時、再開すること
この署名は短期・集中的に成し遂げなくてはなりません。
下記の要領で、よろしくお願いします。
署名用紙のダウンロード(プリントしてお使い下さい)
→ http://bit.ly/2Ynhc9H
ネット署名 → http://bit.ly/2YGYeu9 メッセージもぜひ
ネット署名に添えられたメッセージ一覧 → http://bit.ly/2LZz0RR
(2019年8月9日)
8月は、戦争を語り伝えるべきとき。あの戦争とは、いったいなんだったのだろう。戦地の生活とは、どんなものだったのか。そして銃後は。戦争とは、日常とどのようにつながり、どのように離れていたのだろうか。その戦争は、どうして起こったのか。どうして防げなかったのか。誰が、どんな思惑で戦争をたくらんだのか。いや、全国民の熱狂が戦争を欲したのだろうか。どうすれば、戦争の体験は、世代を超えて継承できるのだろうか。
そのようなことを語り伝え、考えるべき8月には、いくつもの恰好の企画がある。私の身近にも、今日から3日間、こんな企画がある。まず、これを宣伝したい。
「日本兵が撮った日中戦争」
平和を願う文京・戦争展
文京・真砂生まれの村瀬守保写真展
DVD上映 証言1 侵略戦争
証言2 中国人強制連行
文京空襲 語り部 小林暢夫さん
??????????? (8月10日午後2時より)
とき8月 8日(木) 13:00?18:00
8月 9日(金) 10:00?20:00
8月10日(土) 10:00?16:00
ところ 文京シビック アートサロン(展示室2)
入場無料
2年半にわたり中国各地で撮影し、家族に送られた日本兵の日常
村瀬守保さん(1909年?1988年)は1937年(昭和12年)7月に召集され、中国大陸を2年半にわたって転戦。カメラ2台を持ち、中隊全員の写真を撮ることで非公式の写真班として認められ、約3千枚の写真を撮影しました。天津、北京、上海、南京、徐州、漢口、山西省、ハルビンと、中国各地を第一線部隊の後を追って転戦した村瀬さんの写真は、日本兵の人間的な日常を克明に記録しており、戦争の実相をリアルに伝える他に例を見ない貴重な写真となっています。一方では、南京虐殺、「慰安所」など、けっして否定することのできない侵略の事実が映し出されています。
?一人一人の兵士を見ると、
?みんな普通の人間であり、
?家庭では良きパパであり、
?良き夫であるのです。
?戦場の狂気が人間を野獣に
?かえてしまうのです。
?このような戦争を再び
?許してはなりません。
?????????? 村瀬守保
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さて、ここからが暑苦しい話題。
この企画の主催者は、日中友好協会文京支部(代表者は、小竹紘子・元都議)である。同支部は、今年の5月31日付で、文京区教育委員会に後援を申請した。お役所用語では、「後援名義使用申請書」を提出した。
その申請書の「事業内容・目的」欄にはこう記載されている。
「保護者を含めて戦争を知らない世代が、区民の圧倒的多数を占めています。従って子どもたちに1931年から1945年まで続いた戦争日中戦争、太平洋戦争について語り伝えることも困難になっています。文京区生まれの兵士、村瀬守保氏が撮った日中戦争の写真を展示し、合わせて文京空襲の写真を展示し、戦争について考えてもらう機会にしたい。」
なんと、この申請に対して、文京区教育委員会は「後援せず」という決定にしたという。このことが、8月2日東京新聞朝刊<くらしデモクラシー>に大きく取りあげられた。
同記事の見出しは、「日中戦争写真展、後援せず」「文京区教委『いろいろ見解ある』」、そして「主催者側『行政、加害に年々後ろ向きに』」というもの。
日中戦争で中国大陸を転戦した兵士が撮影した写真を展示する「平和を願う文京・戦争展」の後援申請を、東京都文京区教育委員会が「いろいろ見解があり、中立を保つため」として、承認しなかったことが分かった。日中友好協会文京支部主催で、展示には慰安婦や南京大虐殺の写真もある。同協会は「政治的意図はない」とし、戦争加害に向き合うことに消極的な行政の姿勢を憂慮している。
同展は、文京区の施設「文京シビックセンター」(春日一)で八?十日に開かれる。文京区出身の故・村瀬守保(もりやす)さん(一九〇九?八八年)が中国大陸で撮影した写真五十枚を展示。南京攻略戦直後の死体の山やトラックで運ばれる移動中の慰安婦たちも写っている。
同支部は五月三十一日に後援を区教委に申請。実施要項には「戦場の狂気が人間を野獣に変えてしまう」との村瀬さんの言葉を紹介。「日本兵たちの『人間的な日常』と南京虐殺、『慰安所』、日常的な加害行為などを克明に記録した写真」としている。
区教委教育総務課によると、六月十四日、七月十一日の区教委の定例会で後援を審議。委員からは「公平中立な立場の教育委員会が承認するのはいかがか」「反対の立場の申請があれば、後援しないといけなくなる」などの声があり、教育長を除く委員四人が承認しないとの意見を表明した。
日中友好協会文京支部には七月十二日に区教委が口頭で伝えた。支部長で元都議の小竹紘子さん(77)は「慰安婦の問題などに関わりたくないのだろうが、歴史的事実が忘れられないか心配だ。納得できない」と話している。
村瀬さんの写真が中心の企画もあり、二〇一五年開催の埼玉県川越市での写真展は、村瀬さんが生前暮らした川越市が後援。協会によると、不承認は文京区の他に確認できていないという。
協会事務局長の矢崎光晴さん(60)は、今回の後援不承認について「承認されないおそれから、主催者側が後援申請を自粛する傾向もあり、文京区だけの問題ではない」と話す。「このままでは歴史の事実に背を向けてしまう。侵略戦争の事実を受け止めなければ、戦争の歯止めにならないと思うが、戦争加害を取り上げることに、行政は年々後ろ向きになっている」と懸念を示した。
なんと言うことだろう。戦争体験こそ、また戦争の加害・被害の実態こそ、国民が折に触れ、何度でも学び直さねばならない課題ではないか。「いろいろ見解があり、中立を保つため」不承認いうのは、あまりの不見識。「南京虐殺」も「慰安所」も厳然たる歴史的事実ではないか。教育委員が、歴史の偽造に加担してどうする。職員を説得して、後援実施してこその教育委員ではないか。
「戦争の被害実態はともかく、加害の実態や責任に触れると、右翼からの攻撃で面倒なことになるから、触らぬ神を決めこもう」という魂胆が透けて見える。このような「小さな怯懦」が積み重なって、ものが言えない社会が作りあげられてていくのだ。文京区教育委員諸君よ、そのような歴史の逆行に加担しているという自覚はないのか。
文京区教育委員会事案決定規則(別表)によれば、この決定は、教育委員会自らがしなければならない。教育長や部課長に代決させることはできない。その不名誉な教育委員5名の氏名を明示しておきたい。
すこしは、恥ずかしいと思っていただかねばならない。そして、ぜひとも、汚名を挽回していただきたい。
教育長 加藤 裕一?
委員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
委員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
委員 坪井 節子(弁護士)
委員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)
なお、教育委員の報酬は月額231,500円である。月一回の定例会に欠席しても全額が支払われる。その勤務ぶりについて、下記の区議のブログがある。これに、寄せられた区民の声に耳を傾けていただきたい。
http://a-kaizu.net/blog/archives/224
https://blogs.yahoo.co.jp/bunkyokugi/7234471.html
(2019年8月8日)
皆さまへ
街宣車を繰り出した威嚇と脅迫、それをバックにした地元市長の露骨な介入、官房長官の補助金を絡めた介入発言で、日本の過去を知らせ、表現の自由を考える企画展が中止に追い込まれるという異常事態が起こりました。8月1日に愛知芸術文化センターで始まったばかりの「表現の不自由展」のことです。
私たち有志は、こういう理不尽な、権力による事実上の検閲を絶対に許してはならないと声を上げるため、緊急に次の2項目の署名を呼びかけることにしました。
1.主犯者というべき河村名古屋市長に謝罪を求める。
2.企画展を即時、再開すること
この署名は短期・集中的に成し遂げなくてはなりません。
そこで、8月13日(火)を第一次集約日とし、集約後、すみやかに、大村愛知県知事、河村名古屋市長へ提出します。
すでに同様の署名も行われていますが、この署名にも、皆様のご賛同と拡散へのご協力を心より、お願いいたします。
署名用紙のダウンロード(プリントしてお使い下さい)
→ http://bit.ly/2Ynhc9H
ネット署名 → http://bit.ly/2YGYeu9 メッセージもぜひ
ネット署名に添えられたメッセージ一覧 → http://bit.ly/2LZz0RR
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愛知県知事・大村秀章様
名古屋市長・河村たかし様
「あいちトリエンナーレ2019」の企画展に対する
河村名古屋市長など公権力の介入に抗議し、企画展の再開を求めます
呼びかけ人:
池住義憲(元立教大学大学院特任教授)/岩月浩二(弁護士)/小野塚知二(東京大学大学院経済学研究科教授)/小林緑(国立音楽大学名誉教授)/澤藤統一郎(弁護士)/杉浦ひとみ(弁護士)/醍醐聰(東京大学名誉教授)/武井由起子(弁護士)/浪本勝年(立正大学名誉教授)
8月1日に愛知県内でスタートしたばかりの国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)の実行委員長の大村秀章・愛知県知事と津田監督は8月3日、その企画展「表現の不自由展・その後」を突然中止すると発表しました。
各種報道によれば、この愛知芸術文化センターを会場に開催されたこの企画展では、慰安婦を象徴する「平和の少女像」、日本国憲法第9条をテーマとする俳句、天皇を含む肖像群が燃える映像作品等各地の美術館から撤去されるなどした二十数点を展示したものです。
この展示に対し、河村たかし・名古屋市長は「あたかも日本国全体がこれ(少女像)を認めたように見える」「多額の税金を使ったところで(展示を)しなくてもいい」などと述べ、少女像の撤去を求める抗議文を提出しました。また、愛知県によれば、電話やメールなどの抗議が多数寄せられるとともにテロ予告や脅迫の電話もあったとのことです。
こうした状況下で実行委員長の大村秀章・愛知県知事と津田監督は「安心して楽しく」鑑賞してもらうことが困難と判断し、この企画展の中止を決定しました。
しかし、名古屋市長が展示内容に介入したり、菅義偉官房長官が補助金交付の差し止めを示唆したりするなどの公権力による様々な「介入」や、テロや脅迫予告などに屈して企画展を中止することは、この企画展が主張する「表現の不自由」を雄弁に物語るものであり、許されません。
申し入れ
1.企画展の中止を迫った河村市長の圧力は、日本国憲法が保障する「表現の自由」(第21条)を侵害・蹂躙し、事実上の「検閲」ともいえるもので、直ちに撤回と謝罪をすること。
2.大村知事、河村市長は愛知トリエンナーレ実行委員会会長・副会長として、直ちに企画展を再開すること。その際は、テロや脅迫などに屈することなく、行政が毅然とした姿勢を示すことによって、憲法が保障する「表現の自由」守るよう努めること。
私は上記の申し入れに賛同し署名します。
*署名の第一次集約日は8月13日(火)です。署名は次のいずれかでお送りください。
用紙の郵送:〒285-0858 千葉県佐倉市ユーカリが丘2?1?8 佐倉ユーカリが丘郵便局 局留
表現の自由を守る市民の会 醍醐 聰 宛て
この署名用紙のダウンロードは→http://bit.ly/2Ynhc9H からできます。
*ネット署名は下記URLの<以下はネット署名です>のところに記入して「送信」をクリックしてください。
メッセージもお願いします。(ネット署名フォームの短縮は以下です。)
URL:http://bit.ly/2YGYeu9
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なお、ネット署名での「私の想い」(400字以内)は、下記のとおりです。
表現の自由とは、権力を批判する自由であり、権威に恐れ入らない表現の自由であり、社会の多数派に与しない言動の自由を意味します。けっして、安倍政権に忖度をする自由ではなく、天皇に阿諛追従する自由でもなく、国民の時代錯誤の差別意識に便乗して韓国や在日をバッシングする自由でもありません。
いま、眼前に展開しているのは、権力と社会の多数派とが結託した差別的ナショナリズムが、表現の自由を圧殺している構図です。
明らかに憲法の理念に反する、このような悪しき前例を作ってはなりません。中止となった展示の速やかな再開を求めます。
(2019年8月7日)
だれの言葉かは知らないが、「8月は6日9日15日」である。8月こそは、鎮魂の月であり、戦争の悲惨と愚かさを語り継ぐべき時、そして、あらためて平和の尊さを確認して「憲法第9条」擁護を誓うべき季節。なお、「6日9日15日」は、安倍晋三が、気の乗らない挨拶文の朗読を強いられる日でもある。
被爆から間もないじきに、広島の小学校に入学した私には、8月6日は特別の日である。その日の8時15分が人類史の転換点だとも思っている。その時、人類は、種としての自死の能力を手に入れたのだ。
それから74年目の今日。広島平和記念公園で恒例の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式典」が営まれた。雨の中のしめやかな式典だったという。
松井一実市長の平和宣言は、列席した安倍晋三の目の前で朗読され、核兵器禁止条約に背を向ける日本政府に対し、「被爆者の思い」として署名・批准を求めると明確に宣せられた。
安倍晋三首相はいつものとおり、ホントにつまらない、気持ちのこもらない挨拶文を朗読した。紋切りの美辞麗句はあったが、「被爆者の思い」に応えるところはまったくなかった。
記者会見では「核兵器禁止条約には保有国が一カ国も参加していない」としてその実効性を疑問視し、「被爆者代表から要望を聞く会」に臨んでは、被爆者を前に日本政府による核兵器禁止条約の署名・批准を否定する姿勢をあらためて明確にした。この人は、本当に日本の首相なんだろうか。それとも、アメリカの属領長に過ぎない人なのだろうか。被爆者にも、被爆運動にも敵対する、日本の政府とは、首相とはいったい何なのだろう。
今日の式典で、耳目を惹いたのは、湯崎英彦広島県知事のあいさつだった。要点を抜粋してご紹介したい。
絶望的な廃虚の中、広島市民は直後から立ち上がりました。水道や電車をすぐに復旧し、焼け残りでバラックを建てて街の再建を始めたのです。市民の懸命の努力と内外の支援により、街は不死鳥のごとくよみがえります。
しかしながら、私たちは、このような復興の光の陰にあるものを見失わないようにしなければなりません。緑豊かなこの平和公園の下に、あるいはその川の中に、一瞬にして焼き尽くされた多くの無辜の人々の骨が、無念の魂が埋まっています。かろうじて生き残っても、父母兄弟を奪われた孤児となり、あるいは街の再生のため家を追われ、傷に塩を塗るような差別にあい、放射線被ばくによる病気を抱え今なおその影におびえる、原爆のためにせずともよかった、筆舌に尽くし難い苦難を抱えてきた人が数多くいらっしゃいます。被爆者にとって、74年経とうとも、原爆による被害は過去のものではないのです。
そのように思いを巡らせるとき、とても単純な疑問が心に浮かびます。
なぜ、74年たっても癒えることのない傷を残す核兵器を特別に保有し、かつ事あらば使用するぞと他を脅すことが許される国があるのか。
それは、広島と長崎で起きた、赤子も女性も若者も、区別なくすべて命を奪うような惨劇を繰り返しても良い、ということですが、それは本当に許されることなのでしょうか。
核兵器の取り扱いを巡る間違いは現実として数多くあり、保有自体危険だというのが、米国国防長官経験者の証言です。
明らかな危険を目の前にして、「これが国際社会の現実だ」というのは、「現実」という言葉の持つ賢そうな響きに隠れ、実のところは「現実逃避」しているだけなのではないでしょうか。
核兵器不使用を絶対的に保証するのは、廃絶以外にありません。しかし大国による核兵器保有の現実を変えるため、具体的に責任ある行動を起こすには、大いなる勇気が必要です。
唯一、戦争被爆の惨劇をくぐり抜けた我々日本人にこそ、そのエネルギーと勇気があると信じています。それは無念にも犠牲になった人々に対する責任でもあります。我々責任ある現世代が行動していこうではありませんか。
?(2019年8月6日)
昨日(8月4日)、一入暑い夏の盛りに、日本民主法律家協会・第58回定時総会が開催された。自ずと主たる議論は、改憲情勢と、改憲情勢に絡んでの参議院選挙総括に集中した。そして、「相磯まつえ法民賞」受賞対象の各地再審事件弁護団が語るホットな再審審理状況と裁判所のありかた、さらに降って湧いたような「表現の不自由展」の中止問題が話題となった。
冒頭に、渡辺治・元協会理事長から、「参院選の結果と安倍改憲をめぐる新たな情勢・課題」と題した記念講演があった。参院選の結果は安倍改憲を断念させるに至っていない。情勢は引き続いて厳しいという大筋。「法と民主主義」(8・9月合併号)に掲載の予定となっている。
政治状勢も、国際情勢も、憲法情勢も、けっして明るくはない。それでも、総会や法民賞授賞式、懇親会での各参加者の発言が実に多彩で、元気に満ちていた。年に一度、こうして集う意味があることを確認した集会となった。
名古屋から参加した会員が、「表現の不自由展」の中止問題を生々しく語り、誰もが由々しき問題と受けとめた。右翼に成功体験をさせてはならない。現地での取り組みにできるだけの支援をしたい。
伝えられる内容の脅迫電話による展示の中止は、明らかに威力業務妨害である。脅迫電話の音声を公開し、速やかな告訴があってしかるべきで、刑事民事の責任を追及しなければならない。こんなときこそ警察の出番ではないか。この件の経験を今後の教訓とすべく、詳細な報告が欲しい。
採択された、憲法問題と司法問題での2本の「日本民主法律家協会第58回定時総会特別アピール」をご紹介して、総会の報告とする。
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2019参院選の成果を踏まえ、市民と野党の共闘のさらなる前進で、安倍改憲に終止符を
2017年5月3日の安倍首相の改憲提言以来、自民党は、改憲勢力が衆参両院で3分の2を占める状況に乗じて、さまざまな改憲策動を繰り返してきました。しかし、市民の運動とそれに支えられた野党の奮闘により、改憲発議はおろか改憲案の憲法審査会への提示すらできずに2年が過ぎ、この参院選で改めて3分の2の維持をはかるしかなくなりました。選挙戦での安倍首相の異様な改憲キャンペーンは、その証左です。
ところが、改憲勢力は発議に必要な3分の2を維持できませんでした。この3分の2を阻止した直接の要因は、市民と野党の共闘が、安倍政権による改憲反対、安保法制廃止をはじめ13の共通政策を掲げて32の一人区全てで共闘し、前回の参院選並みの10選挙区で激戦を制して勝利するなど、奮闘したことです。また、「安倍9条改憲NO! 全国市民アクション」が提起した3000万署名の運動が全国の草の根で取り組まれ、私たち日民協も参画する「改憲問題対策法律家6団体連絡会」は、自民党の改憲案の危険性をいち早く解明し、政党やマスコミへの働きかけ、バンフの発行や集会などを通じて、安倍改憲に反対する国民世論を形成・拡大する上で大きな役割を果たしてきました。
それでも、安倍首相は改憲をあきらめていません。それどころか、選挙直後の記者会見で「(改憲論議については)少なくとも議論すべきだという国民の審判は下った」などと述べて、改憲発議に邁進する意欲を公言しています。「自民党案にこだわらない」とも強調することで、野党の取り込みをはかり3分の2の回復を目指すなど、あらゆる形で改憲の強行をはかろうとしています。しかし、参院選の期間中もその後も、「安倍政権下の改憲に反対」が世論の多数を占めていることに確信を持ちましょう。
いま、安倍9条改憲を急がせる国内外の圧力が増大しています。アメリカは、イランとの核合意から一方的に離脱して挑発を繰り返した結果、中東地域での戦争の危険が高まっています。トランプ政権は、イランとの軍事対決をはかるべく有志連合をよびかけ、日本に対しても参加の圧力を加えています。こうしたアメリカの戦争への武力による加担こそ、安倍政権が安保法制を強行した目的であり、9条改憲のねらいです。辺野古新基地建設への固執、常軌を逸したイージスアショア配備強行の動きも9条破壊の先取りにはかなりません。
私たち日本民主法律家協会は、こうした安倍改憲の企てに終止符を打つべく、今後とも「改憲問題対策法律家6団体連絡会」や「安倍9条改憲NO! 全国市民アクション」の活動に邁進するとともに、市民と野党の共闘のさらなる前進に協力していくことを、ここに宣言します。
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「国策に加担する司法」を批判する
司法の使命は、憲法の理念を実現し、人権を保障することにあります。司法は、立法からも行政からも、時の有力政治勢力からも毅然と独立して、憲法に忠実にその使命を果たさなくてはなりません。その司法の使命に照らして、長く司法の消極性が批判されてきました。違憲判断があるべきときに、司法が躊躇し臆して、違憲判断を回避してきたとする批判です。その司法消極主義は、戦後続いてきた保守政権の政策を容認する役割を果たし、憲法を社会の隅々に根付かせることを妨げてもきました。
そのため、砂川事件大法廷判決(1959年12月16日)に典型的に見られる司法消極主義を克服することが、憲法理念実現に関心を寄せる法律家の共通の課題と意識されてきました。ところが、近時事態は大きく様変わりしていると言わねばなりません。
2018年10月に開催された、当協会第49回司法制度研究集会のメインタイトルは「国策に加担する司法を問う」というものでした。司法は、その消極主義の姿勢を捨て、むしろ国策に積極的に加担する姿勢に転じているのではないか、という衝撃的な問題意識での報告と討論が行われました。
その先鞭として印象的なものが、沖縄県名護市辺野古の米軍新基地建設に伴う「海面埋め立ての可否をめぐる一連の訴訟です。とりわけ、国が沖縄県を被告として起こした「不作為の違法確認訴訟」。国は、翁長雄志知事(当時)による「前知事の埋立承認取り消し」を違法として、撤回を求める知事宛の指示を出し、知事がこれに従わないとして提訴しました。一審となった福岡高裁那覇支部への提訴が2016年7月22日、判決が9月16日という異例の超スピード判決。その上告審も、国への手厚い慮りで、同年12月20日判決となり国の勝訴が確定しました。「海兵隊航空基地を沖縄本島から移設すれば、海兵隊の機動力、即応力が失われることになる」とする国の政治的主張をそのまま判決理由とした福岡高裁那覇支部の原判決を容認したのです。
また、同じ時期に言い渡された、厚木基地騒音訴訟最高裁判決は、夜間早朝の飛行差し止めを認めた1、2審判決を取り消し、住民側の請求を棄却しました。「自衛隊機の運航には高度の公共性がある」としてのことで、国策の根幹に関わる訴訟での、これまでにない積極的な国策加担と指摘せざるを得ません。
以来、原発訴訟、「日の丸・君が代」強制違憲訴訟などで、最高裁の「親政権・反人権」の立場をあからさまにした姿勢が目立っています。最近では、地裁・高裁での再審開始決定を破棄した上「再審請求棄却」を自判した大崎事件の特別抗告審決定(2019年6月25日)、また、現職自衛官が防衛出動命令に従う義務はないことの確認を国に求めた戦争法(安保法制)違憲訴訟において「訴えは適法」とした2審・東京高裁判決を「検討が不十分」として破棄し、厳しい適法要件を設定して、審理を同高裁に差し戻した最高裁判決(同年7月22日)があります。
このような最高裁の姿勢は、最高裁裁判官人事のあり方と無縁なはずがありません。既に、最高裁裁判官の全員が第2次以後の安倍内閣による任命となっています。人権擁護の姿勢を評価されてきた弁護士出身裁判官が、必ずしも日弁連推薦枠内から選任されていないとも報道されています。最高裁裁判官の人事のあり方が重大な課題となっています。
私たち日本民主法律家協会は、こうした政権に擦り寄った司法を厳重に監視するとともに、国民のための司法制度確立のために、努力を重ねていくことを宣言します。
?(2019年8月5日)
「令和」は使いたくない。使用強制はまっぴらだ。
「令和」という文字を見るだけで、神経がざらつく。そもそも元号にアレルギーではあるが、「令和」の採択に安倍や菅など現政権が関わっていることも、嫌悪感の大きな一因となっている。何の違和感もなく、「令和」を使用している人のセンスを疑う。この場合のセンスとは、歴史に対する感覚、政治に対する感覚、体制との間合いの取り方についての感覚、つまりは憲法感覚を指している。
先月の参院選で野党統一候補として当選したある弁護士が、立候補前だったが5月になるやさっそく「令和」で書面を送ってきたのには驚いた。えっ? 「革新」の候補者が? 私は、この人の憲法感覚を信用しない。
反対に、「これは立派だ。この人たちなら信頼できる」というのが、北海道合同法律事務所の姿勢。8月1日の同事務所ホームページに次の記事。
http://www.hg-law.jp/news/entry-3078.html
札幌地方裁判所の元号の強制問題についての当事務所の取り組み
北海道合同法律事務所
1 2019年5月1日、天皇が明仁天皇から、徳仁天皇に代わり、元号も平成から令和に代わりました。こういった矢先に、札幌地方裁判所で元号の使用を強制するという事件が起きました。
具体的には、本年7月初め、私たちの事務所の事務職員が、札幌地方裁判所の破産係の受付に自己破産申立書を提出したところ、対応したA書記官は、事務職員に対して、申立書の「申立日」や「申立人の生年月日」の年数を西暦表記ではなく元号で表記するように訂正を求め、以後、「報告書の年月」や「債権者一覧表の借入日」等も元号表記することを要求しました。このことについて、あらためてその趣旨と理由を確認しに出向いた私たちの事務所の事務局長に対して、「合同さんはそういう主義主張だとわかっていますから、もういいです。合同さんに対してはもう言いません。」との返答をしました。
元号法が制定された1979年の国会において、元号法は「一般国民に元号の使用を義務づけるものではない」と国務大臣が答弁していますが、このようなA書記官の対応は、元号使用のお願いの範囲を超えて、強制に至るものと評価せざるを得ませんし、それが、A書記官の個人的な対応なのか札幌地方裁判所としての対応なのかも判然としませんでした。
そこで、以下の公開質問状を提出しました。
2019年7月22日
札幌地方裁判所長 本多知成 殿
公 開 質 問 状
〒060-0042 札幌市中央区大通西12丁目
北海道合同法律事務所
弁護士 池田賢太 弁護士 石田明義 弁護士 内田信也
弁護士 小野寺信勝 弁護士 加藤丈晴 弁護士 川上有
弁護士 笹森 学 弁護士 佐藤博文 弁護士 佐藤哲之
弁護士 中島 哲 弁護士 長野順一 弁護士 橋本祐樹
弁護士 桝井妙子 弁護士 三浦桂子 弁護士 山田佳以
弁護士 横山浩之 弁護士 渡辺達生 以上18名
本年7月2日及び同月5日、当事務所の事務職員が、貴庁民事第4部商事部受付に自己破産申立書を提出しました。対応したA書記官は、事務職員に対して、申立書の「申立日」や「申立人の生年月日」の年数を西暦表記ではなく元号で表記するように訂正を求め、以後、「報告書の年月」や「債権者一覧表の借入日」等も元号表記することを要求しました(以下、「本件元号使用要求」といいます。)。このことについて、同月5日、あらためてその趣旨と理由を確認しに出向いた事務職員に対して、「合同さんはそういう主義主張だとわかっていますから、もういいです。合同さんに対してはもう言いません。」との返答をしました。
あらためて、年数の表記方法について、公開質問状を提出いたしますので、1週間以内に文書でご回答ください。
(※ 実際の公開質問状では書記官の実名を記載していますが、この書面の公開に当たっては実名である必要がないので、A書記官と記載しています。)
2 この質問状に対し、7月29日、札幌地方裁判所の民事次席書記官と総務課長が私たちの事務所に来て、裁判所の見解を口頭で説明をしてくれました。
その説明の要旨は次のとおりです。
・ 今回の元号使用要求が札幌地方裁判所の方針なのか否かについて
今回の元号使用要求は、A書記官の個人的見解であり、札幌地方裁判所としての方針ではないし、破産係を所管する民事第4部としての方針でもない。
・ 元号使用要求の法的根拠について
指摘された国務大臣の答弁のとおり、元号の使用を強制する法的な根拠は一切なく、あくまでも出来るのはお願いであり、今回のA書記官の対応はお願いを越えたものであり、元号の使用を強制したと評価されても仕方がないものである。
ただ、A書記官としては、生年月日について戸籍との照合の便宜も踏まえると元号で記載したほうが良いとの思いがあった。
・ 裁判所の対応
A書記官が元号の使用を強制したことについて謝罪すると共に、今後、このようなことがないように職員に対して指導を徹底する。
書面による回答はいただけませんでしたが、回答期限までに裁判所のしかるべき方が上記のとおり説明をすると共に謝罪もしてくれましたし、回答等を公開することも了解してくれました。私たちは、このような札幌地方裁判所の対応は責任ある対応と評価します。
このような事件が他の裁判所や他の役所等で起きることがないよう、社会に訴えることも含め、この事件を社会に公表いたします。 以上
北海道合同の弁護士諸君の姿勢は立派だし、札幌地裁の対応も適切だったと思う。皆さん、あらゆるところで、「令和」使用強制をきっぱりと拒否しようではありませんか。
(2019年8月3日)
表現の自由は、民主主義社会の血液である。表現の自由が十分に保障されている社会こそが、活性化した民主主義社会である。表現の自由が枯渇するとき、民主主義も窒息し死に瀕する。民主主義社会においては、表現の自由は最大限尊重されなければならない。
表現の自由とは何か。権力を批判する自由のことである。権威に恐れ入らない自由である。社会の多数派に与しない言動の自由である。けっして、安倍政権に忖度をする自由ではなく、天皇に阿諛追従する自由でもなく、国民の時代錯誤の差別意識に便乗して韓国や在日をバッシングする自由ではない。権力や権威や社会の多数派には、相応の寛容の姿勢が求められるのだ。
日本に表現の自由はあるか。国境なき記者団が毎年発表しているのは「世界報道自由度ランキング(Press Freedom Index)」。表現の自由よりは狭い「報道自由」についてのものだが、日本の地位は180か国中67位である(2019年)。安倍政権成立前の2011年が11位。12年が22位だった。安倍政権成立後の13年に突然53位と順位を下げ、以後、59位、61位、そして72位となって、70位前後を低迷している。韓国(41位)、台湾(42位)などの後塵を拝している。さもありなん。
そのことを自覚せざるを得ない事態が今進行しつつある。愛知で行われている「トリエンナーレ 『表現の不自由展・その後』」でのことである。「表現の自由展」ではなく、「表現の不自由展」というタイトルが刺激的である。この展覧会のホームページには、展示の趣旨をこう述べている。
「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。今回は、「表現の不自由展」で扱った作品の「その後」に加え、2015年以降、新たに公立美術館などで展示不許可になった作品を、同様に不許可になった理由とともに展示する。
権力から、権威から、そして社会的多数者の側から排斥された表現、つまりは保護さるべくして保護されなかった表現の実例を集めた「表現の不自由展」なのだ。わが国における表現の自由保障が、いかに形骸化し脆弱であるかの展覧会。ところが、その展覧会自体の成立が危うくなっている。まさしく、忖度や、多数派の暴力的恫喝によってである。わが国における表現の自由の喪失を満天下にさらけ出す事態となった。
主催者側は、「開会初日の8月1日だけでテロ予告や脅迫ともとれる内容を含む批判的な電話が200件とメールが500件」「2日も、ほぼ同数の電話やメールが殺到した」と公表している。この社会は病んでいる。恐るべき事態ではないか。
8月2日、展覧会を視察に訪れた河村たかし名古屋市長は、「平和の少女像」に関して、次のように述べたと報じられている。
「ほんとにまあ、ワシの心も踏みにじられましたわ、これ。ということで展示を即刻中止して頂きたいですね」「芸術かどうかは知りませんけど、10億も使っている」とコメント。「これを反日作品だと解釈しているのは市長の側では?」との質問には「なにを言ってるの。誰でもそう思ってるじゃないですか?」と応じた。
「ワシの心も踏みにじられましたわ」は、舌足らずで意味不明。この「平和の少女像」自体が人の心を踏みにじる作品ではあり得ない。少女像をめぐる一連の論争によって、「ワシの心も踏みにじられた」ということなら、あり得ることだろう。が、近代の日韓の歴史を真摯に見つめようとする立場からは、それこそが心ない物言いというしかない。「ということで展示を即刻中止」という表現の差し止め要求は、表現の自由を蹂躙する傲慢極まりない姿勢と言うほかはない。
日本有数の大都市の市民を代表する市長ともあろう人が、このような粗暴な発言をすることを日本の社会が許容している。いや、むしろこの市長は、韓国民や韓国との協調を望む日本人に不愉快な思いをさせることを承知で、声高にこの少女像の撤去を求める発言をしているのだ。この粗暴な発言が自分の政治的な支持者にアピールすることになると計算してのことである。
表現は、権力や多数派にとって歓迎すべからざる内容であればこそ、その自由を保障することに意味がある。「ワシの心も踏みにじられる」表現こそ、保護されなければならない。「カネを出しているのだから、県や市の意向に従え」と言ってはならない。ましてや、「これを反日作品だと解釈」して、撤去を要求するのは、政治的弾圧というほかはない。日本における表現の不自由はここまで来ている。日本の民主主義は、本当に危うい。
(2019年8月3日)
戦前の話だ。天皇が神であり統治権の総覧者でもあったころにも、貴衆両院からなる帝国議会というものがあった。が、帝国議会は立法権の独立した主体ではなかった。当然のこととして、立法権は天皇に属し、帝国議会はその協賛機関に過ぎないとされた。
そのことを、臣民どもによく分からせるために、会期の冒頭には貴族院で開院式が行われ、ここで毎回天皇が勅語を述べた。貴族院本会議場の正面、議長席真後ろの奥、一段と高いところに天皇の玉座がしつらえられた。天皇が議員を見下ろす位置にである。勅選の貴族院議員も、選挙を通じて議員となった衆議院議員も、天皇を仰ぎ見、天皇に低頭して拝謁した。
その開院式における勅語。その典型的な一例を引用しておこう。第79回帝国議会(1941年12月26日)太平洋戦争勃発直後の時期におけるものである。
朕茲に帝國議會開院の式を行ひ貴族院及衆議院の各員に告く
朕か外征の師は毎戰捷を奏し大に威武を中外に宣揚せり 而して友邦との盟約は益益固きを加ふ朕深く之を欣ふ 朕は擧國臣民の忠誠に信倚し速に征戰の目的を達成せむことを期す 朕は國務大臣に命して昭和十七年度及臨時軍事費の豫算案を各般の法律案と共に帝國議會に提出せしむ卿等克く時局の重大に稽へ和衷審議以て協贊の任を竭さむことを期せよ
これが、帝国議会開会式での天皇の発言。天皇制の時代の雰囲気がよく伝わってくるではないか。あれは、昔のことか。いや、実は今もたいして変わってはいないのだ。
貴族院が参議院に変わり、勅語が「お言葉」に変わりはした。その余は、今も昔も大きくは変わっていない。
昨日(8月1日)が臨時国会開会。その開会式で、新任の天皇が原稿を読みあげて発語した。その朗読原稿は、下記のとおりと報道されている。
本日、第199回国会の開会式に臨み、参議院議員通常選挙による新議員を迎え、全国民を代表する皆さんと一堂に会することは、私の深く喜びとするところであります。
ここに、国会が、国権の最高機関として、当面する内外の諸問題に対処するに当たり、その使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します。
これは、開会宣言ではない。開会の式辞でもない。開会式に参加して、一言感想と希望を述べたという発言に過ぎない。なぜ、こんなものが必要なのだろうか。
通常の言語感覚からは、やや奇妙な物言いである。公的な場では「全国民を代表する皆様」と言うのが普通の日本語だろうが、天皇たるもの、国民に「様」付けはできないようだ。おそらくは、「さん」までが許容範囲なのだろう。「私の深く喜びとするところであります」も、もってまわった、ヘンな言い方。単に「皆さんと一堂に会する」程度のことを、「深く喜びとする」というのが、いかにもわざとらしくて不自然。勅語の時代の「朕深く之を欣ふ(これをよろこぶ)」の名残なのかも知れない。
後半の「国権の最高機関として、当面する内外の諸問題に対処するに当たり、その使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します」というのは、この上なく徹底した無内容。
もちろん、内容のある発言では、あちこちに問題が生じることになるから、無内容に徹することにならざるを得ない。ならば、こんな無内容なことをなぜ言わねばならないか、聞かされなければならないか、また見せつけられなければならないのか。それが大きな問題なのだ。
憲法には、天皇のなし得る行為が限定列挙されている。そのなかに、国会の開会式への出席も、そこでの発言も書かれてはいない。当然のことながら、天皇は憲法に書かれていないことをするべきではない。
憲法第4条1項には、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」と明記されている。「この憲法の定める国事に関する行為」というのが、憲法第6条と7条に列挙されている国事行為のことであって、天皇がなし得るのはこれのみ。これ以外のことをしてはならない。だから、本来は国会の開会式に出かけたり、発言したりしてはいけないのだ。内閣が呼び出してはいけないわけだ。
もちろん、天皇にも人格はあり、制約・制限は大きいが一応人権の保障もある。天皇の私的な生活は認められ、そのための金銭の支給もなされている。国の関与と切り離されたところでなら、家代々の宗教儀式だってできるのだ。たとえば、大嘗祭だって、政府と関わりなくひっそりと、私的な収入と貯金を使ってやる分には問題はない。
つまり、天皇の行動には、「国事行為」と「私的行為」の2種類だけがある。それが原則のはずだった。ところが、その中間領域があるという解釈がある。解釈があるというのは不正確で、そのような既成事実が積み重ねられて、これを追認する解釈が生まれたのだ。
この、私的領域の行為ではないが国事行為でもないという、中間領域の天皇の行為を「公的行為」とか「象徴としての行為」と名付けられている。前天皇(明仁)は「象徴としての行為」の実績作りに熱心だった。見方によれば、違憲行為の実績作りに熱心だったことになる。
問題の核心は、天皇という存在の位置づけにある。大日本帝国時代と同様に、天皇が議会正面上階の玉座から、国民の代表を見下して、無内容なことを述べることが、国会の開会式に権威を付与することになる、という考え方がある。これが、時代錯誤の危険な考え方だといわなければならない。
かつて、人の理性が覚醒に至っていなかった時代、権力の正当性の根拠は宗教的権威に求められた。あるいは、血統への信仰にである。古代エジプトでも、ヨーロッパ近世の絶対主義王政でも。近代市民社会の理性は、このような蒙昧を排して、統治の正当性を人民の意思のみに求めるに至った。
大日本帝国憲法は神聖なる万世一系の天皇が統治した宗教国家であった。統治の正当性の根拠は、8世紀に成立した神話に求められ、神なる天皇の権威に臣民らがこぞってひれ伏すことによって成立した。これに対して、日本国憲法は、神なる天皇の権威を否定し、主権者国民の意思のみを統治の正当性の根拠とした。が、徹底していない。その不徹底の部分が、歴史の産物としての、象徴天皇制である。
日本国憲法下の日本社会の歴史は、この象徴天皇制という曖昧模糊なるものの肥大化を許すか、極小化してゆくか、常にその岐路に立ち続けてきたのだ。
無内容でも国会の開会式に天皇を招いて発言させることが、有権者の意思のみによって成立したはずの国会に、有権者の意思を凌駕する天皇の権威を国会に付与することになるというのが、今の国会開会式の慣行を支える思想なのだ。天皇が上から目線で国民代表を見下ろし、国民代表が天皇に頭を下げる。どうして、こんなとんでもない構図が、戦後からこれまでも生き続けているのだろうか。
少なくとも、私が一票を投じた議員や政党には、こんな開会式に出席して、天皇に頭を下げてもらいたくはない…のだが。
(2019年8月2日)