ネットを検索していると、時に昔自分が発信した記事に出会うことがある。そして、希にそれが面白いと思うこともある。下記は、そのようなものの一つ。投稿の日付は2016年2月27日、3年10か月ほど以前のもの。
「ニントク君の回想ーボクって何者? ボクってなんの役に立っている?」
https://article9.jp/wordpress/?p=6490
新天皇のパレードという本日(11月10日)、このアーカイブを多少アレンジして、再掲したい。
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恐れ多くも畏くも、第16代の天皇となられたオホサザキノミコトには「仁徳」の諡が献じられています。本日パレードの126代とされる天皇のお名前は「徳仁」。偶然とはいえ、「仁徳」と「徳仁」、とてもよく似ているではありませんか。
「仁」とは古代中国における為政者としての最高の徳目ですから、仁徳天皇こそが古代日本の帝王の理想像なのであります。
その仁政と人徳を象徴するものが、「民の竈は賑わいにけり」という、あのありがたくもかたじけない逸話でございます。あらためて申しあげるまでもないのですが、あらまし次のような次第でございます。
ある日、ミカドは難波高津宮の高殿から、下々の家々をご覧になられたのです。賢明なミカドは、ハタと気が付きました。ちょうど夕餉間近の頃合いだというのに、家々からは少しも煙が上がっていないではありませんか。慈悲に厚いミカドは、こう仰せられました。
「下々のかまどより煙がたちのぼらないのは貧しさゆえであろう。とても税を取るなどはできることではない」
こうして3年もの長きの間、税の免除が続きました。そのため、宮殿は荒れはてて屋根が破れ雨漏りがするようなことにもなりました。それでもミカドはじっと我慢をなさいました。
そして、時を経てミカドが再び高殿から下々の家々をご覧あそばすと、今度は家々の竈から、盛んに煙の立ちのぼるのが見えたのでございます。
ミカドは喜んで、こう詠われました。
高き屋に登りて見れば煙立つ民の竈はにぎはひにけり
こののちようやく、ミカドは民草が税を納めることをお許しになり、宮殿の造営なども行われるようになったのです。なんと下々にありがたい思し召しをされる慈悲深いミカドでいらっしゃることでしょう。
これが、天皇親政の理想の姿なのでございます。何よりも下々を思いやり、下々の身になって、その暮らしが成り立つことを第一にお考えになる、これこそ我が国の伝統である天皇の御代の本来の姿なのでございます。消費増税によって、民の竈を冷え込ませたアベ政権には、仁徳天皇の爪の垢でも呑ませたいところでございます。
でも、この話には、いろいろとウラがございます。仁徳ことオホサザキノミコトご自身が、のちに次のような回想をしていらっしゃいます。ここだけの話しとして、お聞きください。
ボクって、天皇職に就職して以来、下々の生活なんかにゼーンゼン関心なかったの。何に関心あったかって。不倫。一にも二にも不倫。二股、三股。もっともっと。ボクって美女に目がないの。古事記にも恐妻の目を逃れての好色ぶりが描かれているけれど、まあ、あれは遠慮して書いてあの程度のこと。ホントはもっと凄かった。で、不倫って結構金がかかるんだ。それでもって、使い込んで…。結局民の竈の煙が立たなくなっちゃったんだ。
ある日ハタと気が付いたのは、下々の竈からの煙がなくなったってことじゃないんだ。毎日、上から目線で見慣れた景色だから、竈の煙が薄くなり消えそうになっているのは、前々から分かってた。
でも、ある日考えたんだ。このままだと、下々から税を取ろうにもとれなくなるんじゃないか、ってね。竈から煙が立たないって、民草は飢餓状態じゃん。これまで天皇や豪族が民草を「大御宝」なんて言ってもちあげてきたのは、ここからしか税の出所がないからさ。文字どおり金の卵を産み続けるニワトリだからなの。その民草が飢えて死にそうじゃ、税も取れなくなっちゃうじゃん。税が取れなきゃ、ボクの不倫経費も捻出できない。
もう一つ考えたのは、少し恐ろしいことになっているんじゃないかってこと。これまでは、下々や民草は、搾ればおとなしく言われたとおりに税を払うと思っていた。だけど、竈に煙も立たない状態となると、窮鼠となって反抗しないだろうか。考えてみれば、ボクと下々の格差はすさまじい。民草が怒っても、当然といえば当然。何も失うもののない民草が捨て鉢になって、団結して立ち上がってしまうことになるのではないだろうか。そして、宮殿に押し入って、火を付けたり公卿堂上や天皇にまで危害を加えたりしないだろうか。彼らが、突然にテロリストに化し、いままで甘い汁を吸ってきた私たちが、テロられることにはならないだろうか。
それで、方針を変えてみたんだ。金の卵を産むニワトリがやせ細ってきたのだから、しばらく卵をとるのは我慢して、ニワトリを太らせなくっちゃ。そして、よいテンノーを演出して、下々から攻撃されないよう安全を確保しなくっちゃというわけ。宮殿が荒れ果てたって雨漏りしたって、火を付けられるよりはずっとマシ。
こうして、税を取らないことにしたんだけど、誰でも思うよね。その間、何をしていたのかってね。もちろん、不倫はどうしてもやめられなかった。でも、ボクなりに相当の努力はしたんだ。不倫相手の数も減らして、出費も縮小した。そうして蓄えを少しずつなし崩しに減らしていった。とうとう金庫が底を突いたから、もう一度高殿に登って、「民の竈はにぎはひにけり」ってやったんだ。ニワトリは、もう十分に太った頃だろうからね。この程度で「仁政」だの「聖帝」だのといわれているんだから、ま、楽な商売。
でも、ここからは真面目な話し。この件のあと、いったいボクってなんだろう、天皇ってなんだろうって真剣に悩むようになった。自己肯定感の喪失っていうのだろうか。自分の存在意義に自信がなくなったんだ。ボクが税をとっているから、その分民が貧しくなる。3年でなく、ずっと税を取らなけりゃ、民の竈はもっともっといつまでも賑やかになっているはず。ボクって、実はなんの役にも立っていないことに気が付いたんだ。
おとなしい民草から、税を取り立てるだけのボク。自分じゃ働かず、人の働きの成果をむさぼっているだけのボク。おべんちゃらだけは言われているけれど、実は世の中にいてもいなくてもよいボク。いや、不倫の費用分だけ、いない方がみんなのためになるボク。こんなボクって、いったい何なのだろう。
ちょっぴりだけど反省して、河川の改修や灌漑工事など公共工事なんかやってみた。やってみたと言ったって、「よきにはからえ」って言うだけだったけど。それが、記紀に善政として出ている。せめてもの罪滅ぼし。それでも、不倫は生涯やめられなかったんだ。
ところで、仁徳ならぬ徳仁、つまり本日パレードの新天皇のことでございます。台風19号の被災者を慮って、予定されていた10月22日のパレードを20日ばかり先に延ばしたのは、大先輩の故事に倣ってのことでございましょうか。4回もございました飲み食いの饗宴は予定どおりにしておいて、パレードだけは形ばかりの先延ばし。本日は19号被災者の復旧を確認されたわけでもなく、大がかりな警備の下、華やかに挙行されたご様子でございます。
さて、新天皇がどのような心境でいらっしゃいますことやら、窺い知ることはかないません。象徴天皇という職について張り切られも困るのですが、自己肯定感に満ちておれることやら、あるいはニントク君のように自己喪失感に襲われているやら。そのことは、年を経た後に、主権者の一人として聞いてみたいところでございます。
(2019年11月10日)
昨日(11月8日)の参院予算委。質疑の中で、またまた安倍晋三の醜態が明らかとなった。改めて思う。こんな人物を行政府の長としている、わが国のみっともなさと不幸を。そして、最近よく聞く「安倍晋三こそ国内最大のリスク」というフレーズに同感する。
安倍の「醜態その1」は、一昨日の衆院予算委に続いての閣僚席からの野次である。
毎日が、簡潔にこう伝えている。「安倍首相、再びやじ 質問議員指さして」「金子参院予算委員長『厳に慎んで…』」
https://mainichi.jp/articles/20191108/k00/00m/010/282000c
首相が8日の参院予算委員会で、質問する立憲民主党の杉尾秀哉氏を指さしながらやじを飛ばしたとして、杉尾氏が抗議する一幕があった。首相は6日の衆院予算委でも野党議員にやじを飛ばし、棚橋泰文衆院予算委員長が不規則発言を慎むよう要請した。
杉尾氏によると、放送局に電波停止を命じる可能性に言及した2016年の高市早苗総務相の発言について質問した際、首相が自席から杉尾氏を指さして「共産党」とやじ。金子原二郎参院予算委員長が「不規則発言は厳に慎んでほしい」と注意した。
杉尾氏は取材に「国会は政策を論議する場であり、やじは首相の適性や品格に関わる問題だ」と語った。
安倍にとっては、「共産党」が悪口なのだ。戦前の天皇制時代に作られた時代感覚そのままの恐るべきアナクロニズム。それにしても、立憲民主党の杉尾秀哉氏を指さしながらの「共産党」である。意味不明。というよりも、理解を超えた発言。他人ごとながら、「この人、ほんとに大丈夫かね」と心配になる。
安倍の「醜態その2」は、共産党・田村智子議員の質問によって、明らかになった醜行。本日(11月9日)の赤旗トップ記事になっている。
「桜見る会を安倍後援会行事に」「参加範囲は『功労・功績者』のはずが」「税金私物化 大量ご招待」「田村氏追及に首相答弁不能」という大見出し。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-11-09/2019110901_01_1.html
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-11-09/2019110903_01_1.html
「安倍内閣のモラルハザード(倫理の崩壊)は安倍首相が起こしている」―。日本共産党の田村智子議員は8日の参院予算委員会で、安倍晋三首相主催の「桜を見る会」に安倍首相や閣僚らが地元後援会員を多数招待していた問題を追及しました。安倍首相は質問に答えられず、審議はたびたびストップ。安倍首相が先頭にたって公的行事・税金を私物化している疑惑が深まりました。
「桜を見る会」の参加者数・支出額は安倍政権になってから年々増え続け、2019年の支出額は予算額の3倍にもなっています。田村氏は、各界で「功労・功績のある方」を各府省が推薦するとしながら、自民党議員・閣僚の後援会・支持者が多数招待されていることを明らかにしました。
安倍首相の地元・山口県の友田有県議のブログ記事では、“後援会女性部の7人と同行”“ホテルから貸し切りバスで会場に移動”などの内容が記されています。
田村氏は「安倍首相の地元後援会のみなさんを多数招待している」「友田県議、後援会女性部はどういう功労が認められたのか」とただしました。
安倍首相は答弁に立てず、内閣府官房長が「具体的な招待者の推薦にかかる書類は、保存期間1年未満の文書として廃棄している」と答弁しました。田村氏は「検証ができない状態ではないか」と厳しく批判しました。
田村氏は「安倍事務所に参加を申し込んだら、内閣府から招待状がきた」という下関の後援会員の「赤旗」への証言を紹介。「下関の後援会員の名前と住所をどの府省がおさえられたのか。安倍事務所がとりまとめたとしか考えられない」とただしました。
さらに田村氏は、友田県議や吉田真次下関市議のブログに、「桜を見る会」とあわせて安倍首相夫妻を囲んだ前夜祭の盛大なパーティーの様子が紹介されていると指摘。「桜を見る会が『安倍首相後援会・桜を見る会前夜祭』とセットになっているんじゃないか」「まさに後援会活動そのものだ」と追及しました。
安倍首相は「お答えを差し控える」と答弁を拒否し、議場は騒然。田村氏は「桜を見る会は参加費無料でアルコールなどをふるまう。政治家が自分のお金でやれば明らかな公職選挙法違反だ。こういうことを公的行事と税金を利用して行っていることは重大問題だ」と強く訴えました。
なるほど、安倍晋三は共産党が嫌いなわけだ。が、問題は安倍自身がしたことの責任だ。田村議員が指摘するとおり、「政治家が自分のお金でやれば明らかな公職選挙法違反」なのだ。これに呼応して、山添拓議員が、「私費でやれば公選法違反。税金で堂々やるとは、私物化も甚だしい!」とツイートしている。さて、「政治家が自分のお金でやれば明らかな公職選挙法違反」だが、「税金で堂々やる」のは犯罪にならないのだろうか。そんなはずはなかろう。
問題の条文は公選法199条の2 第1項である。公選法の条文は、極めて読みにくく作られている。文意をとりやすいように整理すれば次のとおりである。
公職選挙法第199条の2
第1項 政治家は、当該選挙区内にある者に対し、いかなる名義をもってするを問わず、寄附をしてはならない。
その違反に対する罰則は、下記のとおり。
第249条の2
第1項 第199条の2第1項の規定に違反して当該選挙に関し寄附をした者は、1年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処する。
第2項 通常一般の社交の程度を超えて第199条の2第1項の規定に違反して寄附をした者は、当該選挙に関して同項の規定に違反したものとみなす。
もちろん、有罪が確定すれば、原則5年間の公民権(選挙権・被選挙権)停止となる。
問題は、この安倍晋三による「税金私物化 大量ご招待」を、「寄附」と見ることができるか、である。私は、できると思う。もしこの安倍晋三の税金私物化が、公職選挙法違反にならないとすれば、公選法は甚だしいザル法である。ザルの目を塞ぐ法改正が必要となる。
「寄附」の定義規定は次のとおりである。
公職選挙法第179条第2項
「この法律において「寄附」とは、金銭、物品その他の財産上の利益の供与又は交付、その供与又は交付の約束で党費、会費その他債務の履行としてなされるもの以外のものをいう。」
つまり、安倍晋三が山口1区の有権者に、「金銭や物品」を配ることだけが、公職選挙法で禁止された「寄附」に当たるものではない。禁じられているのは、「財産上の利益の供与」一切なのだ。
立法の趣旨は明らかである。カネを持つものが、カネで政治を壟断することを防止するためである。典型的には、カネで票を買うことは買収罪となり、カネを支払っての選挙運動員を使って票を集めることは、間接的に票を買うことになるとして、運動員買収罪となる。しかし、通常の選挙犯罪は、特定の選挙との具体的な関連性が要求される。たとえば、次のとおり。
第221条1項 次の各号に掲げる行為をした者は、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
第一号 当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて選挙人又は選挙運動者に対し金銭、物品その他の財産上の利益若しくは公私の職務の供与、その供与の申込み若しくは約束をし又は供応接待、その申込み若しくは約束をしたとき。
選挙「買収」は、「当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて」という形で、特定の選挙との具体的関連性が要件となっている。しかし、寄附にはその目的規定がない。特定の選挙との関連性が希薄ではあっても、カネの力で選挙民の投票行動が左右されるようなことがあってはならないとするのが法意なのだ。
本件では、安倍晋三がその選挙区の有権者を「参加費無料でアルコールなどをふるまう」会に招待し参加させたことが寄附に当たるか、が問われている。本来の「功労・功績者」への招待であれば公職選挙法条の犯罪とはならないが、欲しいままに予算を計上し、あるいは予算を大幅に上まわる人を招いて、事実上後援会員を「タダで飲み食いさせ」たのは,明らかに財産上の利益の供与であるから、寄附に当たる。問題は、「寄附」とは、自腹を切っての供与だけをいうもので、権力者が税金を欲しいままに使っての選挙民に対する利益供与は除かれるのか、という点に収斂する。
この寄附禁止規定は、「政治家が自分のカネでやる」ことを想定していたには違いない。しかし、身銭を切っての寄附の悪質性よりも、権力者がその地位を利用ないし悪用して、国民の財産を掠めとっての「寄附」がより悪質であることは、誰の目にも明らかではないか。
法の制定時、こんな安倍晋三流の悪質極まりない選挙違反は想定されていなかった。それが、安倍一強の驕りによってここまで腐敗が進行したということではある。しかし、実質的な負担者が誰であれ、有権者に利益を供与せしめた者すべてが、公選法199条の2 第1項違反と解すべきで、その解釈が罪刑法定主義に反するものではないと、私は思う。
それにしても、汚い。恥を知れ、安倍晋三。
(2019年11月9日)
日民協は、「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」をめぐる一連の問題について、一度は権力を持つ者などからの圧力によって中止に追い込まれたこと、そしていったんは決まったはずの補助金交付が事後的に不交付とされたことについて、看過できないとして下記の声明を出した。ことは、憲法の定める表現の自由に関わる。やや長文であるが、ぜひお読みいただきたい。できれば、拡散もしていただくようにお願いしたい。
なお、「法と民主主義」11月号は、この「表現の不自由展・その後」の問題を特集として取りあげる。タイムリーというだけでなく、興味深く読んでいただける内容になるはず。楽しみにしていただきたい。
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2019年11月7日
日本民主法律家協会
8月1日から愛知芸術文化センターで開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の一部を成す企画展「表現の不自由展・その後」について、翌2日に会場を視察した河村たかし名古屋市長は、展示物のなかに〈平和の少女像〉などが含まれていたことを理由に、「日本国民の心を踏みにじるもの」などと発言して展示の中止を求め、それを受けて同日、菅義偉官房長官も、「あいちトリエンナーレ」が文化庁の助成事業であることに言及し、「審査の時点では具体的な展示内容の記載はなかったことから、補助金交付の決定にあたっては事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と述べ、補助金交付の是非など対応を検討する考えを示しました。
これと前後して、インターネット上で企画展に対する批判や攻撃が数多くなされ、主催者側に対しては抗議の電話やメールが多数寄せられるとともにテロ予告や脅迫が相次ぎ、わずか3日間で企画展が中止されるに至りましたが、その後、企画展は、再開を望む多くの声を受けて、入場制限を課し、観覧方法を変更したうえで、10月8日、再開されました。
ところが、文化庁は、企画展の再開の方向性が決まった翌日の9月26日、円滑な運営に対する懸念があったにもかかわらずそれを申告していなかったという「手続上の不備」を理由として「あいちトリエンナーレ」への補助金、約7800万円の全額の不交付を決定しました。
私たちは、これら一連の出来事は憲法21条が保障する「表現の自由」を侵害する重大な問題を含むものであると考え、以下のとおり意見を表明いたします。
第一に、私たちは、河村名古屋市長や菅官房長官などの自治体や政府の主要ボストにある政治家による展示会中止に向けての圧力は、憲法21条の保障する「表現の自由」を侵害する重大な問題であると考えます。
憲法による「表現の自由」の保障の中心的意味は、政府に対する自由な批判を保障することにあります。政府や政治家が抽象的な理由で制限を加えることが看過されるならば、表現の自由の中心的な意味が失われ、民主主義が形骸化してしまうおそれがあります。
表現の自由が広く国民に認められ、国民が自由に表現を行うためには、その機会を提供することも重要です。政府や自治体が文化的な催しを後援することは、国民が表現する機会を豊かにし、多様な表現を確保するのに役立ちます。そのために公的な助成が行われる場合、表現の内容に介入しないことが前提になります。そのような態度を貫くことで、国民の表現の自由が実質的に確保されることになるからです。
また、「表現の自由」には「知る権利」の保障も含まれています。他者が表現したことを「受け取る」ことも「表現の自由」の一部です。多数者の表現だけが許され、少数者の表現が締め出されるならば、国民は多数意見にしか接することができなくなります。政府や自治体は多様な表現の機会を保障し、多様な少数意見にも接することができるようにすることが求められます。
このような観点からみると、河村名古屋市長や菅官房長官の企画展への介入は、憲法21条1項によって保障されている「表現の自由」を踏みにじる行為にほかならず、多くの観客が作品を目にすることを阻止しようとしたものとして、憲法21条2項によって禁止されている「検閲」に相当する効果を持つものです。
現在の日本に「表現の自由」があるのかを問い直そうという「表現の不自由展・その後」が攻撃を受けて中止されるという異常事態は、民主主義の根幹である「表現の自由」が奪われたことを意味します。表現者や表現行為に対する脅迫行為は決して許されてはなりません。政府や自治体には、表現の自由を妨害する行為を阻止し、「表現の自由」と「知る権利」を擁護することこそが求められます。一連の出来事の経過を振り返ってみると、名古屋市や政府の対応は、少数者が表現する機会を著しく狭め、多様な表現を「知る権利」を制限するものであったといわざるを得ません。
第二に、私たちは、文化庁による補助金不交付決定について、何よりもその理由が展示内容を理由としたものではないという言い分に疑問をもちます。
8月3日時点での菅官房長官の発言は、河村市長の発言に連動し、「具体的な展示内容」に言及した上で、「事実関係を精査して補助金交付の是非を検討する」としていました。一連の経過からみて、9月26日の文化庁の補助金不交付決定は、8月3日の菅官房長官の発言に呼応し、再開が決まった企画展の「表現内容」を理由として、いったん交付が事実上決まっていた補助金を不交付とすることにより企画展の再開を妨害する意図があったことが強く推測されるものであり、「検閲」と同視すべき違憲・違法な決定であった疑いがあります。
この点で、文化庁が「あいちトリエンナーレ」への補助金の不交付決定をするに際して、その意思決定に至る過程の記録を何も残していないことには重大な疑義があります。公文書管理法4条は、各行政機関に文書作成義務を課し、経緯も含めた意思決定に至る過程や行政機関の事務・事業の実績を合理的に跡付け、検証することができるよう、処理に係る事案が軽微なものである場合を除いて、文書を作成しなければならないとしています。
この規定をうけた文科省の文書管理規則では、文書作成義務に加えて、地方公共団体等を含む公私の団体に補助金等を交付する場合には、「交付の要件に関する文書」や「交付のための決裁文書その他交付に至る過程が記録された文書」については、交付に係る事業が終了する日から5年間保存しなければならないとしています。
「あいちトリエンナーレ」に対する補助金の交付は、専門家から成る審査委員会に諮って4月に補助金事業として採択する旨の通知がなされ、事実上決められていました。ところが、10月15日の参議院予算委員会における宮田亮平文化庁長官の答弁では、宮田長官自身は不交付の決裁をしておらず、文化庁側の答弁によれば、不交付については審査委員会に諮らず、審議官が9月26日に決裁したことも明らかにされています。
文科省も文化庁も、あくまで「手続上の不備」が不交付決定の理由であり、「表現の内容」に基づくものではないと主張していますが、不交付の決定に至る過程の記録が全く残されていないために、その適否を検証する手掛かりがないという不合理な事態に至っています。モリカケ疑惑の再現を思わせる文科省と文化庁の公文書管理法の趣旨を無視した対応に重大な疑問があることを指摘せざるを得ません。
すでに採択通知により補助金交付が実質的に決定され、それを前提として文化芸術事業が行われた後になって、補助金全額の不交付を決定するなどという事態が前例となれば、表現の自由に対する重大な萎縮効果をもたらすことは明白であり、絶対に許されてはなりません。補助金不交付決定は直ちに撤回されるべきです。まして、こうした異常な決定に至る意思決定過程が隠され、検証不能とされることは、看過できない暴挙というほかありません。
私たちは、「表現の不自由展・その後」の中止と補助金不交付問題が、憲法21条の保障する「表現の自由」の核心に関わるものであることを深刻に受け止め、上記のとおり意見を表明するとともに、すべての関係者に対して、一連の経過を振り返り、「あいちトリエンナーレ2019」が提起した問題を改めて検証し直すよう、求めます。
(2019年11月8日)
高校生諸君。おそらく普段は関心を持つこともない国会審議だろうが、昨日(11月6日)の衆院予算委の集中審議にだけには、目を光らせて報道をよく読んでいただきたい。審議の内容が、共通試験への民間業者導入という、君たちの大学進学に関係する身近な話題であるからだけではない。これから君たちが担うことになるこの社会の成り立ちの基本を活写するものとして、極めて教訓に富むものとなっているからだ。
結論から言おう。まず目に付くのは、オッチョコチョイの安倍晋三首相、「身の丈」大事をホンネとする文科大臣、そんな政治家に擦り寄って利益を得ようというベネッセを筆頭とするハゲタカ「教育産業」の醜さだ。この構図がよく読み取れる。
しかし、問題はその奥にある。オッチョコ首相の野次はなくとも、首相の腰巾着として成り上がった文科大臣の「身の丈」発言がなくても、教育が企業の儲けの手段となり、教育さえも市場原理に委ねられていくことの問題性をしっかりと捉えなければならない。そして、現政権が強力に推し進めている「民間活力導入」における、政・官・財の癒着の構造を見すえなければならない。
まずは、この国の首相たる者のオッチョコぶりに注目せざるを得ない。
6日の衆院予算委員会で、安倍晋三首相が着席中に飛ばしたヤジに野党が猛反発し、審議が一時中断した。今井雅人議員が加計学園問題で文部科学省内で見つかった文書に言及した際に首相が不規則発言。今井氏によると、首相は今井氏を指さして「あなたが(文書を)作ったんじゃないの」とヤジったという。(毎日から)
この文書は、首相側近の萩生田(当時内閣官房副長官)が文科省に、加計問題での首相の意向を伝達したという圧力の証拠となる重大メモ。署名はないが、手書きのメモとして、文科省に保管されていたもの。唐突に、その作成者だと言われて、今井議員は当然に怒った。「侮辱です、謝罪してください」と声高な訴えに対して、首相はしどろもどろになりながらもこう答えた。
「文科相(萩生田のこと)が与り知らないメモなのだから誰が作ったか不明。今井議員だって私だって可能性があるという趣旨だ。」とムチャクチャな答弁をして場の紛糾を招いた。そして、「自席から言葉を発したことは申し訳なかった」とは言ったものの、「あなたが作った」を撤回せず、謝罪もしなかった。小学生のケンカのレベル。こういう非常識が、わが国の首相の姿なのだ。
ミノタケ文科相の「身の丈」発言には正直のところ驚いた。これが彼らのホンネであることはよく分かってはいたが、まさかこうもあからさまに、普段思っていることを分かり易く口にするとは思わなかった。もちろん、失言などというものではない。
「身の丈」とはそれぞれの個人が抱えている人生の条件のことだ。誰の子として、どこに生まれ、どのような家庭環境と社会環境で育てられてきたか。経済的に恵まれているか否か。「身の丈に合わせる」とは、それぞれの不平等な人生の条件を文句を言わずに受け入れよ、ということである。これを教育行政のトップが発言した意味は大きい。不平等な格差を是正することが教育行政の役割と認識していれば、絶対に身の丈発言はあり得ない。上から目線で、「貧乏人は、貧乏人の身の丈で、できることをするしかなかろう」と言うホンネが,この発言の真意なのだ。
教育における格差是正問題は、社会観の根本に関わる。まず、人は平等であるべきかという問にどう答えるか。一方に、すべての人は当然に平等である、という近代社会の常識がある。日本国憲法のコアの部分も、この常識を取り入れている。
もう一方に、世襲によって固定した身分的差別を容認する非常識がある。王族やら皇族やらの存在をありがたがり、民族や人種や性による差別をも容認するアナクロニズムと言ってよい。日本国憲法も、コアでない部分で天皇制という前世紀の遺物を残している。天皇制は当然のごとく男女の平等も排している。
その中間に、形式的な平等だけを認める立場がある。けっして、結果の平等を認めない。人の経済活動の自由を認めその結果として現れる、格差や不平等を積極的に容認する立場だ。利潤を求める資本にとって、低賃金で働く労働者が不可欠なのだ。だから、資本を代表する立場の政治にとって、建前は人間の平等でも、ホンネは差別の容認となる必然性がある。
教育は、この差別社会における階層間の流動性を促進する機能をもっている。この国の建前は、誰もが平等に教育を受ける権利を謳っている。教育の機会均等こそは、低所得階層にとっての希望へのステップである。
従って、本来教育は,貧富の差なく誰もが平等に受けられるように,無償であることが望ましい。そうすることによって社会はより有為な人材を育てるメリッとを享受することができる。
ところが、政府は無駄な防衛予算には巨額を注ぎ込んでも、教育にはカネを出し渋る。それなればこそ、教育産業の出番が生じる。教育は、教育産業のビジネスチャンスの場となり、市場原理で動くものとなる。圧倒的にカネを持つ親の子が、高学歴を所得するに有利になるのだ。共通試験の民間委託とは基本的にそのような構造の中での出来事である。
加計問題で明らかになったのは、首相が議長を務める「国家戦略特別区域諮問会議」の露骨なオトモダチ優遇だった。今度も、政権と業者の癒着が疑われている。たとえば、次の報道。
「英語試験法人に天下り、旧文部省次官ら2人 衆院予算委」(東京新聞)
「衆院予算委員会は6日、安倍晋三首相と関係閣僚が出席して集中審議を行った。2020年度の大学入学共通テストへの導入が延期された英語民間検定試験に関し、実施団体の一つベネッセの関連法人に旧文部省、文部科学省から二人が再就職していたことが明らかになった。野党は、英語民間試験導入の背景に官民癒着があるのではないかと追及した。文科省の伯井美徳高等教育局長は予算委で、旧文部省の事務次官経験者が同法人に再就職し、10月1日まで理事長を務めていたことを明らかにした。国立大学の事務局長を務めた文科省退職者も同日まで参与を務めていたと述べた。
また、立憲民主党の大串博志氏は「(民間試験導入が)民間に利益が及ぶ形で考えられているのではないか。疑念を呼ぶこと自体が大きな問題だ」と批判した。
おそらく高校生諸君は、怒るだろう。君たちは食い物にされているのだ。直接には教育産業に、そして教育改革を推進するという政治家たちに。また、今の社会や政治はこんなひどいものだと呆れることだろう。その責任は、私も含めた君たちの親やその親の世代にある。君たちの世代には、こんなオッチョコ首相やミノタケ大臣ではないマシな政治家を選任し、資本の論理が横行する社会ではなく、真に人間を尊重する社会を実現してもらいたい。
なお、明日(11月8日)には、参院予算委でも集中審議が予定されている。こちらにも、ぜひ関心をお寄せいただきたい。
(2019年11月7日)
今の時代、はたして「表現の自由」というものが保障されているのだろうか。忌憚なく、誰もが必要な表現をしているのだろうか。
いつの時代にも、完全な「表現の自由」の保障は夢想に過ぎず、「表現の自由」とは常に不自由を強いる様々な勢力とのせめぎ合いの渦中にある。そのように理解はしているが、ほかならぬ今が、表現に覚悟が必要な時代となってしまっているのではないか。個人の言論についても、メディアの報道についても。そして、報道の自由を通じての国民の知る権利も危ういのではないか。
今さらいうまでもないが、表現の自由とは、毒にも薬にもならぬことを述べる自由ではない。「天皇と皇后の笑顔がステキでした」とか、「安倍首相のリーダーシップで日本経済は活況を取り戻した」「掲揚台の日の丸に感動しました」「日本チームのメダル獲得を祝します」「うちの社長は、日本一」などのおべんちゃらを述べることの「自由」を、「権利」として保障する必要はない。それは、安全地帯でのおしゃべりに過ぎず、法が関わることではない。
表現の自由が保障されるべきは、「天皇は、無数の無辜の民を死に至らしめたことの責任に無自覚ではないか」、「元徴用工問題についての、安倍政権の請求権協定解釈は根本的にまちがっている」「日の丸・君が代は、皇国日本の軍国主義・侵略主義の象徴としてとうてい受容できない」「うちの社の宣伝は大ウソだ。効かないサプリをさも効くように印象操作している」という、権威や権力あるいは社会的強者に対する批判の言論である。謂わば、毒を含む言論。批判される対象にとっての毒であればこそ、社会にとっての薬にもなり得る。
河村たかし名古屋市長は、「どう考えても日本人の心を踏みにじるもの」と「表現の不自由展・その後」の展示を非難した。しかし、まさしく「日本人の心を踏みにじる表現」こそが、権利としての自由を保障されなければならない。
天皇という権威、内閣という権力、与党という政治権力、企業という社会的権力、圧倒的多数派の同調圧力…。これら強者に対する批判が、貴重であり不可欠であるがゆえに、その自由が保障されなければならない。
とは言うものの、そのような言論には、ビビリがつきまとう。ビビリを断ち切っての、ある種の覚悟がなければ,真に必要な表現ができない。なにしろ、今の世の言論状況は、天皇・皇族に対する歯の浮くような,あるいは舌を噛みそうな過剰敬語が氾濫し、ナショナリズムの昂揚にも歴史修正主義の横溢にも無批判で、「日本素晴らしい」一色。明らかに、権威や権力批判をビビらせる状況が蔓延しているのだ。
しかし、今ビビってはならない。ビビって一歩を譲ることは、ビビらねばならない状況をさらに一歩分拡大することになる。生理学に、廃用性機能障害という概念がある。生体の使わない機能も臓器も衰退するのだ。同様に、表現の自由を行使しないことは、表現の自由に、廃用性の機能障害をもたらす。だから、ビビらずに表現を続けねばならない。
昨日(11月5日)の朝日が、「主戦場、上映中止覆した叫び『ビビリは検閲加担と同じ』」という記事を出した。「ビビリは検閲加担と同じ」とは、厳しい言葉。
KAWASAKIしんゆり映画祭は4日夜、ドキュメンタリー「主戦場」が上映され、閉幕した。川崎市の懸念を受け、開幕時点では上映が見送られることになっていたが、映画関係者らから抗議の声が上がったため、一転して上映する運びとなった。上映に先立ちあいさつしたミキ・デザキ監督は「日本の表現の自由の大勝利だと思っている」と語った。
ジャーナリストで映画監督の綿井健陽氏が「(恐怖による)『ビビリズム』が中止の理由にどんどん使われている。それは検閲に加担することと同じだ」と指摘。また、映画監督のジャン・ユーカーマン氏は自粛が繰り返されることによる危険性を指摘、「自己検閲や忖度というかたちで制作側が空気を読むようになってしまう」と訴えた。
ビビリが高じると忖度となる。忖度に慣れて、長いものに巻かれていれば気は楽だ。逆に、意地を通せばまことに窮屈だ。表現の自由を行使するとは、敢えて意地を通して窮屈を求めることでもある。とかくに住みにくい人の世を、これ以上に窮屈で過ごしにくくせぬように、いま、ビビリと忖度を克服して表現しなければならない。そのように実践している人びとも少なくないのだ。
そう考えたら、足下の落ち葉がかさこそと鳴って返事をした。「そうだよ。そうだよ。そのとおりだよ」と。
(2019年11月6日)
本日のシンポジウムは、「日本郵政と経営委首脳によるNHK攻撃の構図を考える」というもの。「NHK攻撃」とは、「クローズアップ現代+」の「かんぽ生命」不正販売事件追及報道に対する介入のことです。NHKに、かんぽ生命不正販売の報道をされた郵政グループは、報道されて反省するのではなく、「報道が怪しからん」、「NHKが怪しからん」と逆ギレしました。そして、経営委員会を巻き込んで、番組作成現場のスタッフに対する圧力を掛けたのです。
日本郵政と経営委員会が、NHKにイチャモンを付けたキーワードが、「ガバナンス」。つまりは、NHK会長が「クローズアップ現代+」の現場を掌握していなかったことが、コーポレートガバナンスの不備に当たるということです。実は、このことが本件の本質的な問題点となっています。
経営委員会が言うガバナンスは、二つの命題を含んでいます。一つは、NHKの番組制作現場の自律性は認めない。番組制作は一元的にNHK会長の統制に服して当然だということ。そして、もう一つは、NHK会長たる者は、総務省や政権を忖度すべき立場にある、ということです。この二つが合わさって、NHKの番組は、すべからく政権の意向に沿うものでなければならないというわけです。何のことはない、NHKに欠けているものは、ガバナンスではなく、忖度だというだけのことなのです。
これは、重大事件です。報道の自由一般の問題としても看過できませんが、この上なく影響力の大きな公共放送NHKの番組編成に直接関わる事件。NHKを通じての国民の知る権利の脆弱性が誰の目にも明らかになったのですから。しかも、この「逆ギレ・NHK攻撃」は、一定の成果をおさめました。不正を報道された事業者が、NHKの押さえ込みに、一定の成功をおさめたのです。こんなことが許されてはなりません。今のままでは、NHKは忖度放送局ではありませんか。
今回のNHK番組制作現場に対する攻撃の「構図」は次のとおりです。
官邸⇒総務省⇒日本郵政⇒経営委員会⇒NHK会長⇒現場スタッフ
放送番組を制作しているのは現場スタッフ。その現場の上にこれだけの多重圧力の重みがかかっているのです。直接接するのは、NHK会長を頂点とする上層部。その会長に意見を言える立場にあって、今回会長に「厳重注意」をしたのが経営委員会。経営委員会に働きかけたのが、逆ギレの日本郵政グループ。そして、日本郵政グループは総務省をバックとし、上級副社長は元総務次官という肩書で経営委員会とNHKに圧力を掛けました。
さらにその日本郵政グループの上に、総務省があります。そのトップが、高市早苗総務大臣。かつての総務大臣時代に、停波の恫喝で、日本の表現の自由度ランキングを一挙に押し下げた実績の持ち主。そして、その上に、官邸の意向が大きく働いてていると考えざるを得ません。何しろ官邸のトップが、20年前に、NHK・Eテレの「戦時性暴力問題」の番組に直接介入した張本人なのです。どのような忖度を望んでいるのか、明らかではありませんか。
本来、NHK上層部は、外部圧力からの防波堤とならねばなりません。しかし、上田良一・NHK会長の毅然たらざる姿勢は、公共放送トップにふさわしくありません。
経営委員会は個別番組に介入してはなりません。敢えて、これをした石原進・経営委員長の責任は重大でと言わねばなりません。
日本郵政グループは不正を指摘された報道対象者でありながら、逆ギレしての個別番組へ介入はもってのほか。総務省の威を借りた鈴木康雄・日本郵政上級副社長の番組介入は、明らかに違法といわねばなりません。
さらに、高市早苗・総務大臣には、明るみに出た事態の重大性に鑑み、日本郵政・経営委員会に、適切な行政指導をして報道に対する干渉を止めさせなければなりません。
最後に、官邸もこの事態を傍観していてはなりません。高市総務大臣の任命責任を自覚して事態を適切に収拾する責任を免れません。
この事件の重大性にふさわしい、世論と、メディアと、野党の追及が必要だと思います。憲法と放送法の理念に乗っ取って、上田良一・石原進・鈴木康雄・高市早苗、さらに安倍晋三らのそれぞれの責任を追及していこうではありませんか。
(2019年11月5日)
昨日(11月3日)の毎日新聞「みんなの広場」(投書欄)に、北九州市・67才男性からの「よみがえった詩の一節」という投稿が掲載されている。
先日行われた即位礼正殿の儀に招待された沖縄県の高校生、相良倫子さんの笑みを見て、その成長ぶりをうれしく思った。昨年の沖縄の「慰霊の日」、糸満市摩文仁での「沖縄全戦没者追悼式」で、当時中学3年の相良さんは、平和の詩「生きる」を沖縄の穏やかな海風に黒髪をなびかせるように堂々と朗読した。その時の表情、詩のフレーズが、かすかによみがえった。 (略)
即位礼正殿の儀に出席した相良さんは「天皇陛下のおことばに、令和の時代を平和にしていく決意が感じられました」などと語った。素晴らしい感想で、私は胸に刻んだ。
私も、相良倫子さんの平和の詩「生きる」に感動した一人だ。その思いは、当日付下記の私のブログに書き留めてある。
この上なく感動的な「平和の詩」と、この上なく凡庸なアベ来賓挨拶と。
https://article9.jp/wordpress/?p=10581
投書子は、「先日行われた即位礼正殿の儀に招待された沖縄県の高校生、相良倫子さんの笑みを見て、その成長ぶりをうれしく思った。」というが、私はまったく別の感想を持った。わたしには、新天皇就任を祝賀する儀式へ参列して何とも凡庸な感想を述べたこの高校生と、素晴らしいきらめく感性で平和の詩を書いたその人とが、どうしても重ならない。あの凛とした気迫に溢れた詩が、私の気持ちの中で色褪せてしまった。残念でならない。
報道での相良さんの感想は、「平和の詩の朗読がきっかけで参列のお話をいただいたと聞き、本当にありがたく光栄に思います。天皇陛下のおことばを聞いていて、平和を希求する思い、令和の時代を平和にしていく決意が感じられ、とてもすてきなことだと思いました。天皇皇后両陛下がとても堂々とされていたのと、天皇陛下がずっとほほえんでいらっしゃった姿が印象に残りました。本当に貴重な体験をさせていただきました」「平和を希求する天皇陛下のお言葉に触れ、令和の時代を平和にしていく決意を感じられた。すてきな言葉だった。平和を祈り、願う気持ちは陛下も私も同じ」などというもの。「『とても貴重な体験をさせていただき、ありがたい気持ちと光栄な気持ちがある』と感激した様子で話した。」というものもあった。「平和を祈り、願う気持ちは陛下も私も同じ」「光栄な気持」というコメントが、胸に突き刺さる。
私は思う。彼女は、天皇制の承継を祝賀する場に行くべきではなかったし、天皇の賛美を語るべきでもなかった。改めて思う。ほかならぬ沖縄の若き感性をも呑み込んでしまう、天皇制というものの不気味さと怖さを。
相良さん、あなたの詩を反芻したい。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
私は今、生きている。
そのように自分の生を謳った相良さん。
あなたは、天皇の宮殿で、「私は今、生きている。」と実感していただろうか。
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
こう綴ったあなたは、天皇賛美の儀式のあとに「光栄な気持」と語ったあなたと、本当に同じあなたなのだろうか。
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
あなたが愛する島をこの阿鼻叫喚の地獄に陥れたのは、天皇が唱道する侵略戦争だったのではないか。当時の天皇は、沖縄を捨て石とし、戦後も、米軍に沖縄を売り渡したではないか。
その天皇は、自分の名で行われた戦争の非道と悲惨に反省の弁はなく、責任を取ろうとはしなかった。
そして、その子も、孫も、天皇の戦争責任に触れることはない。
沖縄に謝罪する言葉もない。
そのような天皇の地位の継承を祝賀し賛美する行事に、あなたはどんな気持で出かけたのだろうか。
「テンノーヘイカバンザイ」と、あなたも唱和したのだろうか。
長い「平和の詩」の最後は、素晴らしい言葉でこう締めくくられている。
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。
過去を見つめなければ、現在も未来も語ることはできない。沖縄の過去を見つめることは、虐げられた沖縄の悲劇を心に刻むことだ。「鎮魂すべき悲しみの過去」をもたらしたのは天皇制の日本ではなかったか。武力による琉球処分に続いた皇民化教育、その末にもたらされたものが「鉄の嵐」だった。神なる天皇の名のもとにおこされた侵略戦争の最終局面での悲劇。沖縄を本土の捨て石とした地上戦は、単なる敗戦ではなかった。皇軍は沖縄の住民をスパイとして摘発し、避難の豪から追い出し、あまつさえ集団自殺まで強いたではないか。
しかし、天皇制の真の恐ろしさは、皇軍の軍事力にあるのではない。不敬罪・治安維持法を駆使した暴力にあるのでもない。むしろ、高貴の血への信仰に支えられた天皇の権威と仁慈の姿で「赤子」を慈しむ虚像にこそある。それあればこそ、天皇は荒唐無稽な神話に基づいて、臣民を洗脳し「神」となり得た。
いま、皇軍はなく、不敬罪・治安維持法を武器に天皇制を支えた特高警察も思想検事もない。しかし、血への信仰に支えられた天皇は残っている。その仁慈の姿で平和を語り、国民を慈しむ虚像こそ危険なのだ。そして、政権は天皇の権威を高めることに躍起となっている。そのことが、象徴天皇制の危険を象徴している。
沖縄の若い知性や感性は、国民主権の異物としての象徴天皇制の危険を、そして人間差別の根源としての象徴天皇制への不快を、肌で感じるのではないか。私はそう期待している。
相良倫子さん。私のような意見は、活字にはなりにくいだけで、けっして特別なものではなく、少なくはない者の見解であることを知って欲しい。
(2019年11月4日)
11月3日。明治天皇(睦仁)の誕生日で、かつては「天長節」とされ、その死後は「明治節」となった日。日本国憲法は1946年の明治節を選んで公布され、その半年後の1947年5月3日が憲法施行の記念日となった。その後、憲法公布の日である明治節は「文化の日」となって今日に至っている。
明治節は、四方拝・紀元節・天長節とともに、四大節のひとつとされた祝祭の日。四大節には、それぞれの唱歌がつくられて、祝賀の儀式に唱われた。「明治節」の1番と2番は以下のとおり。神なる天皇の讃歌であり、天皇教の宗教歌である。天皇を神と信ずる者には大真面目で歌えるのだろうが、そのような信仰を持たない者にとっては、大仰で馬鹿馬鹿しい限りの歌詞。
亞細亞の東日出づる處
聖の君の現れまして
古き天地とざせる霧を
大御光に隈なくはらひ
教あまねく道明らけく
治めたまへる御代尊(たうと)
惠の波は八洲に餘り
御稜威の風は海原越えて
神の依せさる御業を弘め
民の榮行く力を展ばし
外つ國國の史にも著く
留めたまへる御名畏(みなかしこ)
その3番が少し趣が変わって、やや興味を惹く歌詞となっている。
秋の空すみ菊の香高き
今日のよき日を皆ことほぎて
定めましける御憲を崇め
諭しましける詔勅を守り
代代木の森の代代長(とこし)へに
仰ぎまつらん大帝(おほみかど)
3行目の「御憲」(みのり)とは、大日本帝国憲法のこと。4行目の「詔勅」(みこと)は、言わずもがなの教育勅語。この二つが歌詞に取り入れられて、軍人勅諭が入っていない。
明治天皇制定の憲法を、臣民皆が崇めなければならないというのだから、欽定憲法の解釈としても本末転倒も甚だしい立憲主義への無理解。そして、上から賜る教訓を守りなさいというお説教。こんなもの、子どもが唱いたいか。
最後が、「今日のよき日を皆ことほぎて…代々とこしえに仰ぎまつらん大帝(おほみかど)」と、祝意と敬意の押し売りで締めくくられている。実は、これ昔のことでは済まされない。今また、新天皇就任で、祝意の押し付けが甚だしい。衆参両院が賀詞の決議をしている。地方議会でも、これに倣うところがある。主権者の矜持はどこにいったのだ。
ところで、この3番の歌詞に、「秋の空すみ菊の香高き」と、「菊」が読み込まれている。春なら桜、秋は菊。なんでも、天皇讃歌の小道具として動員されるのだ。
私の手許に、「日本植物記」という東京書籍発行の一冊がある。著者は、本田正次。1897年生まれで、東京帝大を卒業して帝大(植物学)教授になった人。同大学理学部付属職植物園長、東大教授を経て、この書物発刊の1981年には、同大名誉教授という肩書だった。
この本、100話ほどの植物にまつわるエッセイ集で、けっこう面白い。この方、歴史や文学に造詣の深い人とは思えないが、さすがに植物に関する専門家として、素人が知りたいことをよく書いてくれている。
ところが、菊の解説でのけぞった。まず、表題が、「“禁裏様の紋”と教えられたキクの花」というのだ。以下本文の抜粋である。はからずも、無自覚無批判に天皇信仰に取り込まれた愚かな臣民の独白となっている。
私のような明治生まれの人間にとっては、十一月三日の天長節はとても懐しい思い出である。今の天皇誕生日と違って学校や役所などがただ休むだけの形式的な祝日でなく、その日は国民こぞって天皇陛下の万歳を心から慶祝したものである。そして学校、役所はもちろん、その他家庭でもどこででも黄ギク白ギクの花を飾ってお祝いをした。天長節とキクの花とは切っても切れぬ思い出が私には繋がっている。
学校の講堂では演壇に一抱えもあろうという大きな花瓶に黄ギク白ギクの花束がぎっしりと活げてあって、せっかくフロックコートに威儀を正して立っておられる校長先生の姿さえ見えないくらい、そして講話を始めようと真顔になって、まず大きな咳払いをされる校長先生に初めて気がつくというありさまであった。
(略)
私が東大の学生のときに分類学の講義を聴いた松村任三先生はキクの属名Chrysanthemumを覚えるには禁裏様の紋といって覚えると覚えやすいといわれた。キンリサマノモンとクリサンセマム、教えられた通り、自分で口に出して何度もいってみてなるほどと思った。そして同時に大学の先生というものは偉いことを知っているものだとつくづく感心したことがある。
小学校のときは演壇のキクの花に隠れた校長先生、大学では分類学の先生から禁裏様の紋で学名を覚えたことなど、私にとってキクの思い出はなかなかつきない。
帝大の先生というものはまことにつまらぬことを教え、東大の先生になろうという人はまことにつまらぬことに感心するものと、つくづく呆れるよりほかはない。
(2019年11月3日)
11月になった。
「戦争の8月」、「差別の9月」、「新天皇就任儀式の10月」を経て、「大嘗祭の11月」である。また、今年の8月から10月までは、「あいちトリエンナーレ」での、わが国の「表現の不自由」を見せつけられた3か月でもあった。
いうまでもなく、最高にして最大の戦争責任は天皇(裕仁)にある。国民主権下の戦後日本は、その天皇の責任を断罪し得ていない。いや、追及すらしていない。「戦争の8月」において戦争の加害・被害両面の悲惨を語るとき、天皇と天皇制の果たした決定的な負の役割から目を背けるのは欺瞞も甚だしい。意識的にせよ無意識的にせよ、天皇の責任から目をそらすことは、ワイツゼッカーが言う「過去に目を閉ざす者」となることで、「現在にも将来にも盲目」の姿勢である。
「差別の9月」は私の造語であり、私の思いである。1923年9月、関東大震災後の日本人は、在日の朝鮮人・中国人を残酷に虐殺した。軍や警察だけでなく、自警団という名の一般人が、逃げる人を追いかけ追い詰め縛り、撲殺や刺殺をしたのだ。この歴史的事実は重い。この事実の重みを真摯に受けとめることなくして、近隣諸国との真の友好関係を築くことは難しい。
この国の国民の奥底にある対朝鮮・韓国差別意識は、対外侵略を国是とした天皇制権力が意図的に作りあげてきたものである。ここにも、天皇制が絡んでいる。なによりも、天皇制の存在こそが差別の根源である。人に貴賤の別などあるはずがない。天皇を貴と認めるから、その対極に賎が生じる。天皇を尊崇しあるいは容認する者は、必然的に人間の平等を認めない差別容認主義者である。
そして、「天皇交替儀式の10月」。主権者国民の「代表」が、国民の総意に基づいて存在するとされる天皇を下から仰ぎ見て、「テンノーヘイカバンザイ」をやったのだ。今どきに信じがたい愚行。今なお天皇制のしがらみから解放されないわが国の現状を嘆かざるを得ない。
そして、「大嘗祭の11月」。大嘗祭が行われる月。これから、その報道が溢れることになる。これは、天皇を現人神にする信仰上の皇室儀式。国が関わってはならない。大いに、政教分離の本質を語り合わなければならない。
ところで、ネット上に、政教分離の理解に関するこんな記事が目に留まった。この記事の掲載者は「小林よしのり」氏。一部の引用では不正確になりかねないので、全文を引用する。
憲法20条の政教分離がおかしいのではないか?
神道を宗教とするから即位礼正殿の儀にも大嘗祭にも「政教分離」の問題が出てくる。これが本当にウザイ。
例え津地鎮祭判決(目的が宗教的意義を持たないなら許される)があっても、神道が宗教なら宗教的意義があるに決まってるだろと思ってしまう。
憲法20条に政教分離原則がある限り、最高裁も解釈で言い逃れをしているように感じる。だからこそ秋篠宮さまは「宗教色が強い儀式を国費で賄うことが適当か」と疑問を投げかけたのだろうし、昭和天皇も皇室の内廷費を節約して積み立ててはどうかと仰ったのではないだろうか?
権力は天皇を儀式的に仰ぎ見て高御座の下で、万歳三唱をするのだけれど、いつも儀式的に仰ぎ見ているだけで、天皇の言葉に耳を貸さないし、天皇の望みは一切聞かない。
天皇は「憲法」を守る存在で、あくまでも「立憲君主」に徹しようと努力なさる。
ならばわしはいっそのこと憲法20条を変えてしまった方がいいのではないかと思える。
解釈改憲に対して、わしは警戒感が強いのだ。
文意明晰とは言い難いが、このような漠然とした政教分離に対する疑問を多くの人が持っているのではなかろうか。気になるので、コメントしておきたい。
まず、タイトルはとうてい容認できない。
「憲法20条の政教分離がおかしいのではないか」は、「わが国の憲法原則として、政教分離は不要」「いっそのこと憲法20条を変えてしまった方がいい」という趣旨だが、政教分離は憲法原則の要の一つである。おそらくは憲法改正できない。この原則をなくせば、日本国憲法は,もはや日本国憲法ではなくなる。軽々に「なくせ」と言うべき対象ではない。
ただ、小林氏が言う「政教分離(という憲法原則)がおかしいのではないか」という根拠は、「本当にウザイ」という程度のもので、確信に裏付けられた見解ではなさそう。同氏には、ぜひとも、津地鎮祭訴訟の最高裁判決の全文をお読みいただきたい。よく知られているとおり、この著名な最高裁大法廷判決は、原審名古屋高裁の立派な違憲判断の判決を、10対5の評決で合憲判断にひっくり返した評判のよくない判決である。それでも、政教分離の本来の趣旨を、極めて微温的にではあるが書き込んでいる。その部分を,抜き書きして最後に引用しておく。
政教分離とは、形式的には「政治権力」と「宗教一般」の分離のように読めるが、実はその神髄は、「政治権力」と「神道」との分離にある。戦前、神社神道が天皇制国家と結び付き、国家神道となって、神なる天皇に対する尊崇を全国民に強要した。全国の学校で、軍隊で、天皇の神性が国民に叩き込まれた。それでも、神なる天皇を受容しない者には、大逆罪・不敬罪・治安維持法というムチが用意されていた。
敗戦時には、天皇制廃絶の可能性もあった。が、GHQと支配層とは何とか天皇制を存続することに成功した。もちろん大日本帝国憲法時代の天皇制ではなく、国民主権や、平和主義・人権尊重と矛盾しない形に変えての「天皇」制としてのことである。
そのために新憲法制定上留意された主要なものは、天皇という三層の構造に相応した3点であった。大日本帝国憲法において、天皇とは主権者(=統治権の総覧者)であった。その地位は、統帥権の主体として軍事力に支えられていた。のみならず、「天皇は神聖にして侵すべからず」(旧憲法3条)とされた宗教的権威の体現者でもあった。
この天皇の3層構造を、日本国憲法はすべて否定することで、かろうじて象徴天皇制を維持し得たのだ。日本国憲法の国民主権原理が天皇の主権を奪い、憲法9条が天皇の軍事大権を無用のものとし、そして、政教分離原則が、国家神道を否定して天皇の宗教的権威の復活を許さないのだ。
だから、日本国憲法の政教分離原則とは、比喩的に言えば、「神から人になった天皇を、再び神にしてはならない」という歯止めの装置なのだ。国家神道とは、天皇を神とする「天皇教」のこと。政治権力の天皇教利用も、神道の政治権力利用もけっして許さないための、国家(自治体)と神道との完全分離が本来の姿。
だから、小林氏が言うように「神道を宗教とするから即位礼正殿の儀にも大嘗祭にも『政教分離』の問題が出てくる」のではない。「神道こそが,憲法上政権と分離を要求される『宗教』なのだから、新天皇の即位式からは、厳格に神道色を排除しなければならない。」「大嘗祭は、新天皇を現人神にする皇室の宗教行事の最たるもので、これは皇室の家内行事として、『身の丈』の範囲でひっそりと行うしかない」のだ。
大嘗祭をめぐっては、今後も当ブロクで、何度も取りあげたい。
(2019年11月2日)
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http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/189/054189_hanrei.pdf
(津地鎮祭訴訟の最高裁判決からの抜粋)
一般に、政教分離原則とは、およそ宗教や信仰の問題は、もともと政治的次元を超えた個人の内心にかかわることがらであるから、世俗的権力である国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は、これを公権力の彼方におき、宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。
もとより、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によつて異なるものがある。わが国では、過去において、大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という。)に信教の自由を保障する規定(二八条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴つていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた等のこともあつて、旧憲法のもとにおける信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかつた。
しかしながら、このような事態は、第二次大戦の終了とともに一変し、昭和二〇年一二月一五日、連合国最高司令官総司令部から政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)が発せられ、これにより神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の法的基礎に立つものとされると同時に、神道を含む一切の宗教を国家から分離するための具体的措置が明示された。
昭和二一年一一月三日公布された憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたのである。元来、わが国においては、キリスト教諸国や回教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であつた。
これらの諸点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。(以下略)
11月5日、NHK問題のシンポジウムのお知らせ。
「圧力はなかったのか? 報道の自律はどこに?日本郵政と経営委首脳によるNHK攻撃の構図を考える?」
13時? 参議院議員会館B109(地下1階)
パネリスト
田島泰彦(元上智大学教授)/皆川学(元NHKプロデューサー)
/小林緑(元NHK経営委員)/杉浦ひとみ・澤藤統一郎(弁護士)
チラシのダウンロードはこちら→http://bit.ly/31tpSYI
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なお、下記「10月11日(金)夕刻、NHKに激励と抗議を」もご覧下さい。
https://article9.jp/wordpress/?p=13490
かんぽ生命保険の不正販売は底なしの様相。だが、この問題を機に、はるかに大きな問題がもちあがっている。この、かんぽ不正販売を暴いたNHK番組「クローズアップ現代+」の制作に対する外部からの干渉である。しかも、干渉したのは単なる外部ではない。NHKと監督官庁(総務省)を共通にする日本郵政による番組への露骨な干渉。日本郵政の先頭に立って干渉を加えたのは、総務省の元次官である。NHKからみれば、総務省からの圧力に見える構図なのだ。
さらなる問題は、NHKの経営委員会がこの干渉に一枚加わったこと。驚くべきことに、経営委員会が日本郵政の意を受けて、NHK会長に厳重注意をした。そして、NHK会長はこれを撥ね除けることをせず、唯々諾々と受け容れた。番組制作現場を守る、外部の干渉から報道の自由を守るという姿勢を露ほども見せていない。会長としての見識に欠け、頼りないことこの上ない。
この日本郵政・経営委員会の干渉は、明らかに番組制作現場に対する「かんぽ生命保険の不正販売追及報道などはやめておけ」というメッセージ。現場は萎縮せざるを得ない。予定されていた、「かんぽ不正販売」報道の続編放映は無期延期となった。関連するホームページも削除となった。然るべき立場からのNHKへの圧力や干渉は、有効に利くことが立証された。これは、恐るべき事態ではないか。
今のところ、役者は3人である。まずは元総務事務次官の鈴木康雄・日本郵便上級副社長、これが元兇。次いで、その意を受けてNHK会長を厳重注意とした石原進・NHK経営委員会委員長。そして、情けなくもこれを受け容れた上田良一・NHK会長。昨年11月に郵政側に上田会長名の事実上の謝罪文が届けられている。さらに、この3人の背後には、4人目の役者として高市早苗総務大臣が控えている。総務大臣は、経営委員会の判断を積極的に後押ししてはいないが、消極的には是認している。
全体像はこんな具合に見える。
《総務省・高市早苗⇒日本郵便・鈴木康雄⇒経営委員会・石原進⇒会長・上田良一》
この4階建ての圧力が、NHK現場の番組制作スタッフにかかってきているのだ。この圧力と露骨な干渉が、制作現場を萎縮させ、報道を歪めている。これを座視してはおられない。
権力の干渉はどんな場面でも望ましくはないが、とりわけ介入してはならない分野がいくつかある。権力が介入の衝動をもち、介入の結果が取り返しのつかない重大な結果をもたらす分野。
まずは教育である。そして学問、信仰、文化・芸術。さらに、司法も報道も。報道の自由は、なによりも権力の干渉・介入からの自由を意味する。その自由が保障されていなければ、国民は真実を知ることができない。再び、NHKが大本営発表の伝声管となる時代を繰り返してはならない。
この当然の理を明確ににするものとして、放送法第3条は(放送番組編集の自由)と題して、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」と定める。
念のためだが、NHK経営委員会は飽くまでNHKの経営面の基本方針を定め、役員の職務の執行を監督する機関であって、放送法第29条(経営委員会の権限等)「経営委員会は、次に掲げる職務を行う。」と限定列挙されているが、放送番組編集に関与する権限はない。
むしろ、放送法第32条(経営委員の権限)は、「第1項 委員は、この法律又はこの法律に基づく命令に別段の定めがある場合を除き、個別の放送番組の編集その他の協会の業務を執行することができない。」「第2項 委員は、個別の放送番組の編集について、第3条(放送番組編集の自由)の規定に抵触する行為をしてはならない。」と、個別番組への干渉を禁止されている。
さらに、内規である「NHK経営委員会規程」は、第3条(権限)において、「第5項 委員は、放送法または放送法に基づく命令に別段の定めがある場合を除き、個別の放送番組の編集その他の協会の業務を執行することができない。」「第6項 委員は、個別の放送番組の編集について、放送法第3条の規定に抵触する行為をしてはならない。」と念入りに、経営委員が、個別の放送番組の編集に介入することを固く禁じている。
今回の、経営委員会の行為は、少なくともこの法の理念に違背する行為と言わねばならない。世論による、《総務省・高市早苗、日本郵便・鈴木康雄、経営委員会・石原進、NHK会長・上田良一》への厳しい批判と、現場スタッフに対する激励が必要ではないか。
そのような観点からのシンポジウムである。ぜひ、ご出席を。
(2019年11月1日)