(2020年11月20日)
さすがはIOC会長、バッハは偉大である。プライベートジェットで日本にコロナの第3波を運んできた。これは、常人のできることではない。そう言いたくなるほどのタイミングでのコロナの拡大。あらためて、オリンピックどころではないコロナの蔓延状況を意識することになった。オリンピック準備の無駄なカネや人手があれば、コロナ対策にまわすべきではないか。世界の感染状況を見渡しても、来夏の東京オリンピックは、無理だろう。早めに断念するしかない。
バッハが、コロナ蔓延の危険を押して東京五輪開催にこだわっているのは、ひとえに経済的理由である。東京オリンピックとは経済利権のイベントであり、巨大な儲けのタネなのだ。もちろん、財界はコロナ蔓延抑制よりは、経済優先である。
バッハは、菅や小池の尻を叩いて、東京オリンピックをやらせようと躍起である。これは、経済の立場から、国家を利用しようという魂胆の表れ。経済の立場とは、財界の立場ということ。
しかし、コロナに怯える生活者の立場は、経済活動よりはまずは、生命と生活の安全・安心を求める。これが、国民の立場。その権利性を明確にすれば、人権の立場にほかならない。人権は、国家に安全を求め、さらには国家に生活の補償を求めることになる。
権力(国家)は、経済(財界)と人権(国民)との間で、揺れ動く。国民に自粛を呼びかけながらも、「go to 何とか」を断乎やろうというのだ。
コロナ蔓延の初期、今年(2020年)3月にインフル特措法が改正されてコロナが同法に取り込まれたときのこと。安倍政権は権力を振るいたいに違いない、そう身構えた。コロナを口実に、国民にも財界にも、権力のなし得ることを誇示するだろうと。しかし、その後の事態は必ずしもそうではない。むしろ、政権は強権を誇るよりは、強権発動に臆病であるように見える。これをどう評価すべきだろうか。
A 権力(国家)と、B 経済(財界)と、C 人権(国民)との三角形ABCは、互いに緊張関係をもって対峙しつつも、依存関係にもある。今のところ、この三角形は正常を保っていると言えるのではないか。
この三角形がいびつに崩れると、肥大したAが、Cを圧迫する。そのとき、BはAの側について、(A+B)がCを圧迫し収奪することになろう。望ましくは、(B+C)が正常な関係を保ちつつ、常にAを警戒し牽制する三角形を維持することである。
こしゃくな
小池が
コロナで
小細工
こじつけの
言葉遊びを
こね回し
(2020年11月19日)
一般には、千代田、中央、港を都心3区という。あるいは、新宿を加えて都心4区。不動産業界では、これに渋谷・文京を加えて、都心6区ともいうそうだ。文京区はギリギリ「都心」だが、都心のはずれに位置している。ここは、ギリギリ人が住める場所で、ギリギリ生き物も生活している。
その文京区本郷の私の事務所にネコの額ほどの庭があり、そのネコの額ほどの庭にホンモノの猫がしばらく住み着いた。明らかに野良猫である。毛並みは良くない。目つきは悪い。しかし、片耳に切れ込みのある、いわゆる桜猫。地域猫として不妊手術を受けているシルシ。都会の中で人と関わりつつも、野生の誇りを失わないなかなかの面構え。
この猫の出現が、ちょうど緊急事態宣言の出た4月7日直後のこと。それで、この猫を「コロナ」と名付けた。近所の飲食店の余り物をもらっていたのが、コロナ禍で店が閉まって食い詰め、餌場を探してこの庭まで来たのではないか。
人に対する警戒心が強い。軒下に置いたキャットフードを食べ、ミルクも飲む。時にはじっと食餌を待っているようにもなったが、貪るように食べたり飲んだりはしない。常に、食べ残していた。これは野生ゆえの習性なのだろうか。夜は、段ボールの寝床で寝るようになり、明らかに家の中に入ってみたいという素振りも見せたが、ペットからの感染のおそれが噂されていたとき。直接手を触れることも、家に入れることもしなかった。
少しなついた頃に、「コロナ」ではかわいそうと「ノラ」と呼び名を変え、さらに特に訳もなく「ネコ」となった。ネコとなった頃に緊急事態宣言が解除され、その後ネコは外泊を繰り返して、やがて姿を見せなくなった。まだ、段ボールの寝床は残されているが、ネコは戻らない。今ごろ、どこでどう暮らしているのやら。
ネコがいたのは、プラムの木の下。このプラムが実る夏にはハクビシンがやって来る。ネコは、ハクビシンに追われたのかも知れない。ハクビシンは、徒党を組んで行動する。独身のネコの敵う相手ではないのだ。
3日前の朝、玄関前の道端でアオスジアゲハを拾った。どんな宝石もかなわない、美しいデザインと色。神々しいまでの鱗粉の光彩。季節外れの孵化なのだろう。弱ってはいたが、事務所の中で安穏に過ごしている。
蘭の蜜を吸うのではないか、菊の花はどうだ。図鑑ではキバナコスモスがよいようだ。突然に、無風流な私の仕事場が、「蝶よ、花よ」の環境と化した。
少し元気になったアゲハは、窓ガラスで羽ばたいて、外の世界にあこがれを示す。外は寒い、危険だ、と言い聞かせても聞く耳を持たない。
ネコは家の中に入りたくて入れてもらえず、アゲハは外に出たくて、出してもらえない。人生、なかなかに難しい。
(2020年11月18日)
昨日(11月17日)の毎日新聞夕刊が、「最高裁判事が高校生にオンライン講義 法曹の魅力伝える初の試み」という記事を掲載している。
「若い世代に法曹の仕事の魅力を伝えようと、最高裁の木澤克之判事(69)が16日、須磨学園高校(神戸市)の2年生400人に向けてオンラインで講義した。初の試みで、生徒らは「憲法の番人」と称される最高裁の判事の声に耳を傾けた。」
最高裁と学校の教室をウェブ会議システムで結び、2016年に弁護士から最高裁判事に就任した木澤判事が約50分にわたって語り掛けて、こう言ったという。
「『社会のルールを巡るトラブルを一つ一つ解決するのが裁判の役目。ルールを安定させ、信頼できるものにするのが法律家の仕事』と解説した。『裁判官として一番大事にしていることは』との質問には『結論が正義にかなっているかどうか、よく考えること』と答えた。」
同じ言葉も、誰が言うかで印象は大いに異なる。ほかの判事がこう言えば無難な内容だが、この人が口にすれば大いにシラける。
彼は、1974年に立教大法学部を卒業し77年に弁護士登録をしている。東京弁護士会に所属し、東京弁護士会人事委員会委員長(念のためだが、人権委員会委員長ではない)や立教大学法科大学院教授などを務めたという。それだけなら、なんの問題もない、普通の弁護士。
この人、立教大学で、加計孝太郎という有名人と同級生だったという。その誼で、加計学園という学校法人の監事の役に就いた。これも、まあ、問題とするほどのことではなかろう。
よく知られているとおり、加計孝太郎には、安倍晋三という「腹心の友」がいた。木澤は、加計孝太郎に誘われて、安倍晋三とゴルフを楽しむ仲となった。こうして、加計を介して、「アベ・カケ・キザワ」の濃密な関係ができた、と思われる。濃密の評価は推測だが、少なくも、そう見られる状況ができた。これで、問題を孕むこととなった。もっとも、これだけならまだ問題は顕在化しない。
問題は、木澤克之が最高裁判事に任命されたことだ。任命したのは、もちろん安倍晋三である。これは、大問題ではないか。安倍晋三は、加計孝太郎のために、岩盤にドリルで穴をこじ開けて、加計学園が経営する大学の獣医学部開設に道を開いている。腹心の友のために、不可能を可能としたのだ。これが行政私物化と世の顰蹙を買ったアベノレガシーのひとつである。
その安倍晋三が、加計学園監事の弁護士を最高裁判事に任命したのだ。トモダチのトモダチの任命である。行政の私物化だけではない、司法の私物化ではないか。
この木澤という人、立教大学出身の初めての最高裁判事だという。周囲がその姿勢や人格を評価した結果であれば、その経歴は誇ってよい。しかし、オトモダチのお蔭で加計学園監事となり、オトモダチのオトモダチと懇意になっての、最高裁判事任命はいただけない。子どもたちの前で、正義を語る資格に疑問符が付く。
この人、既に前回(2017年10月)総選挙の際の最高裁裁判官国民審査を経ている。その際の、「最高裁判所裁判官国民審査公報」における経歴欄に、加計学園監事の経歴を掲載しなかったことが、話題となった。最高裁ホームページには、今も明記されているにもかかわらず、である。
私も東京弁護士会所属だが、この人のことは、最高裁判事就任まで知らなかった。知っての後は、とうてい「正義を語る人」のイメージではない。「有力な人、権力をもつ人に擦り寄って仲良くすれば世の中を上手に渡れますよ」と、子どもたちに「教訓」を垂れるにふさわしい人のイメージなのだ。大新聞が、無批判に木澤の行動を報じていることに、違和感を覚える。
(2020年11月17日)
共同通信が「五輪反対派が都庁前で抗議」という記事を配信し、ロイターがこれを記事にした。東京オリンピック反対運動も、その抗議行動も巷にあふれている。バッハ訪日に合わせての都庁前での抗議行動というだけではニュースとしてのインパクトに欠ける。なぜ、大きな記事になったか。
この、ごく小さな抗議行動にニュースバリューを与えたのは、バッハ自身である。IOC会長自らが身体を張って、小さな抗議行動に大きなニュースバリューを進呈したのだ。言わば、価値あるオウンゴールである。
記事は以下のとおり。
「国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長が東京都の小池百合子知事との会談に訪れた都庁前で16日、五輪反対派の市民数人が「オリンピックやめろ」「これ以上オリンピックに税金を使うな」などと声を上げる場面があった。
バッハ氏は都庁に到着した際と出発する際、横断幕を持って抗議する反対派に自ら歩み寄る場面も。開催に反対の立場の人もいることを伝えにきたという女性は「優先すべきは人の命だと伝えにきたが、そこまで伝わったかどうか。五輪をやめると決断してほしい」と話した。」
さすがに共同通信は、バッハの行動について、「都庁に到着した際と出発する際(の2度にわたって)、抗議する反対派に自ら歩み寄る場面も(あった)」と、品良く書いているが、反対派(「反五輪の会 NO OLYMPICS 2020」)のツィッターでは、「歩み寄る」が、「詰め寄ってきて」「突っかかってきた」と書かれている。
「都庁から出てきたIOCバッハ会長と一触即発!1メートルの距離まで詰め寄ってきて『おまえら意見を言いたいのか叫びたいのかどっちだ』的なことを言ってきた。どっちもだよ、オリンピックいますぐ止めろ!」
「今日11/16都庁で反五輪の会を見つけ突っかかってきたIOCバッハ会長のこの顔つき、このふるまい、写真見てください。「対話を求めた」とか記者会見で言ったらしいがどの口が?さっさと五輪中止しろ!」
「街宣を続けていると、再びバッハと他関係者が玄関からゾロゾロと出てきた。そびえ立つ都庁に反響したAbolish IOC! No Olympics anywhere! のコールが直撃。バッハは車に誘導されるが、苛立った表情でSPの静止も振り切り反五輪の会にズカズカ詰め寄ってきた! 1mの距離で一触即発! 後ろから小池百合子が慌てて止めに入る。…」
バッハという人、過剰に血の気の多い人なのだろう。東京都民の、「東京五輪反対」には心穏やかではおられないのだ。あるいは、どうしてもIOC会長にしがみついてなければならない裏の事情があるのかも。いずれにせよ、都民や日本人のオリンピックに対する醒めた気分を理解していない。
もう一つ、バカげたオウンゴールがある。16日、バッハは安倍晋三に、五輪運動への貢献をたたえる「五輪オーダー」なるものを授与した。「五輪運動への貢献」の具体的内容については、特に報道されていない。
こんなことをすれば、日本人がよろこぶだろうとでも舐めたカン違いをしているようなのだ。アンダーコントロールという、あの大嘘を思い出す。安倍晋三の嘘とゴマカシの数々を、あらためて反芻せざるを得ない。安倍の薄汚いイメージが、東京オリンピックの薄汚さにピッタリ重なる。反東京オリンピック世論の高揚に貢献することだろう。
バッハにも、菅にも、小池にも、「これ以上オリンピックに税金を使うな」「優先すべきは人の命だ」という当たり前の訴えに耳を傾けてもらいたい。
(2020年11月16日)
首相である菅義偉が目指す社会像として「『自助、共助、公助』、そして『絆』」が語られている。実は、これがよく分からない。
首相就任演説では、「私が目指す社会像、それは、自助・共助・公助、そして絆であります。まずは自分でやってみる。そして家族、地域でお互いに助け合う。その上で政府がセーフティーネットでお守りをする。こうした国民から信頼される政府を目指していきたいと思います」と言った。
この文脈での「自助」とは、自助努力・自己責任のことだ。「自分のことは自分でおやんなさい」「うまくいこうと、失敗しようと、そりゃご自分で責任を」という突き放し。一人ひとりの自助努力の環境を整備し調整をするのが政治の役割なのだろうが、このことは語られない。
「共助」とは、「家族、地域でお互いに助け合う」ことのようだ。ここでも、政治や行政の出番はない。そう覚悟せよと宣言されているのだ。そして、自助・共助に失敗してセーフティーネットが必要となったときに、初めて政府の出番となる。「セーフティーネットでお守りをする」だけが、政府の仕事だというのだ。
いやはや、たいへんな政治観であり国家観。この首相の頭の中には、「セーフティーネット」以外の行政サービスは皆無なのだ。所得の再分配も福祉国家思想もない。あるのは、ケイタイ料金値下げと不妊治療助成程度のもの。そんなことで、「国民から信頼される政府」であろうはずはなく、「こうした政府を目指」されてはたまらない。
さらに、「絆」は皆目分からない。誰と誰との、どのような支え合いをイメージしているのだろうか。それを教えてくれるのが、「菅首相と慶應卒弟のJR“既得権益”」なる「文藝春秋」12月号の記事。「菅義偉首相の実弟が自己破産後、JR関連企業の役員に就任していた」という。なるほど、そういうことなのか。
菅義偉の実弟は、51歳で自己破産した直後にJR東日本の子会社(千葉ステーションビル)に幹部として入社しているそうだ。異例の入社の背景には菅首相とJR東日本との蜜月関係があった。ノンフィクション作家・森功の取材記事。
なるほど、絆とは麗しい。「菅義偉とその誼を通じた者との間の絆」であり、「菅義偉とその支持者との間の持ちつ持たれつの絆」なのだ。かくて、権力者の周りには“既得権益”のおこぼれに蝟集する輩が群れをなす。腹心の友や、妻の信奉者やらに利益を振りまいた前任者のあの体質を、現政権も継承しているのだ。
そしてもう一つの絆。IOCやら、スポンサー企業やら、電通やら、森喜朗らとの麗しからざる絆。嘘まみれ、金まみれ、ウイルスまみれの、東京五輪絆。
本日(11月16日)菅は、「来年の夏、人類がウイルスに打ち勝った証しとして、また東日本大震災から復興しつつある姿を世界に発信する、復興オリンピック・パラリンピックとして、東京大会の開催を実現する決意だ。安全安心な大会を実現するために緊密に連携して全力で取り組んでいきたい」と述べたという。
国民には冷たい菅だが、オリンピック開催に向けては、なんという暖かいサービスぶり。しかし、そんなことを言っておられる現状か。もっと地道に、もっと真面目にコロナと向き合え。無理にオリンピックを開催しようとすれば、却ってウィルスの蔓延を招いてしまうことになる。来年の夏、人類と政権の愚かさの証しを見せつけられることになる公算が高い。
(2020年11月15日)
ネットを漂流していると、人々のつぶやきに絶望的な気分になる。日本人の知性や理性や矜持は、どこへ行ってしまったのだろう。人は、かくもたやすく権力の情報操作に欺され操られてしまう愚かな存在なのか。また、かくも権力になびきへつらうみっともない存在なのだろうか。
鈴木宗男という日本維新の会の参議院議員がいる。自ら「私は国策捜査によって逮捕されました」「437日間勾留され」「(刑の確定後)丸1年塀の中におりました」と述べている人。身をもって権力の恐ろしさを体験した人だ。
過日(10月4日)、この人の学術会議会員任命拒否問題についての政権寄りのブログを目にして、以下の記事を掲載した。
鈴木宗男さん、菅義偉政権の学術会議人事介入問題、考え直していただけませんか。
https://article9.jp/wordpress/?p=15743
しかし、効果はなかったようだ。この人が、一昨日(11月13日)のブログに、最高裁裁判官任命問題について、菅官房長官(当時)を擁護するこんな記事を掲載している。
毎日新聞朝刊5面に「最高裁でも人事圧力 前政権『複数人示せ』」という見出し記事がある。正確を期すために一部活用したい。
「2012年12月の第2次安倍政権発足以降、退官する最高裁判事らの後任人事で、首相官邸への説明方法が変わった。『なんで1人しか持ってこないのか。2人持ってくるように』。官邸事務方トップの杉田和博官房副長官が、最高裁の人事担当者に求めた。
最高裁は以降、2人の後任候補を官邸へ事前に届けるようになった。2人のうち片方に丸印が付いていたのは、最高裁として優先順位を伝える意図があった。しかし、当時の官房長官、菅義偉首相は突き返した。『これ(丸印の方)を選べと言っているのか。今までの内閣がなぜこんなことを許してきたのか分からない』」
最高裁判事は、任命は政府がし、国会同意人事で決める。当然任命する側の判断があって当然でないか。
当たり前の事を言っていると考えるが、この当たり前の事にクレームをつける頭づくりはどこからくるのか。
これまでメディアが報じてきたことは、すべて正しかっただろうか。19年前、メディアスクラムによる事実でない、真実でない「ムネオバッシング」を経験した者として、厳しく指摘したい。(以下略)
この人は、保守派の議員として、権力から欺されるだけの立場ではなく、国民を欺す立場でもある。本気でこのとおり考えているのか、このように考えているフリをしているのか、よく分からない。
この「鈴木宗男見解」は、社会科授業のよい教材ではないか。高校あるいは中学校の公民の教師の方にお勧めする。三権分立という統治機構の大原則について、教科書的解説をしたあとに、生徒にこう問いかけてみてはどうか。
「最高裁裁判官の選任・任命の実態について、毎日新聞がこのようになっていると報道しています。毎日新聞は、《最高裁でも人事圧力 前政権『複数人示せ』》と批判する立場で見出しを掲げていますが、鈴木宗男さんという国会議員は、《当然任命する側の判断があって当然でないか》という立場を明らかにしています。本日学習した三権分立という原則に照らして、あなたの意見を述べてください」
想定の典型解答例は、こんなところだろうか。
「私は、毎日新聞の立場が正しいと思います。権力が集中すると行政権が強くなり過ぎて人権を侵害する恐れが大きくなります。これを防ぐのが三権分立で、とりわけ、司法が行政や立法をチェックできなければなりません。でも、行政権の長が、自分の意思のとおりに最高裁裁判官を任命できるということでは、三権分立も司法の独立も形式だけのものになってしまうからです」
「ボクは、鈴木さんの立場が正しいと思います。どうしてかというと、国会議員が間違ったことを言うはずはないからです。それに、『毎日新聞は、反日的な立場が強すぎる』と父が言っていました。だから、毎日新聞は、菅義偉首相の名前を出して、日本を弱くするような記事を書いているのだと思います」
「私は、鈴木宗男さんがきちんと考えて意見を言っているとは、とても思えません。『最高裁判事は、任命は政府がし、国会同意人事で決める。』は、明らかに間違いです。最高裁判事の任命権が内閣にあるとしても、その任命権の行使には三権分立や司法の独立を保障するような工夫が必要だと思います。行政権内部の公務員と同じように、『任命する側の判断があって当然』という態度は、憲法を良く理解していないからだと思います」
「ボクは、国益を守るということが何よりも大切だと思います。そのためには、強い政府が必要なのですから、司法の役割などはどうでもよいのではありませんか。だから、三権分立は形だけでよいと考えるべきです。きっと、菅首相も、鈴木宗男さんも、ボクと同じ考えのはずです。弱い政府を作るための三権分立は無意味ですから、最高裁裁判官は政府が自分の都合で決めたら良いと思います」
「最高裁裁判官をどう選ぶかは、難しい問題だと思います。内閣は、自分にとって都合の良い、言うことを聞くおとなしい人を裁判官に任命したいと思うでしょうが、それでは三権分立の精神に背くことになります。ですから、内閣の思惑よりは、最高裁の判断を尊重しなければならないと思います。最高裁の推薦を突っ返したという『当時の官房長官、菅義偉首相』は恐ろしい人だと思います。鈴木宗男さんの意見は、菅さんにゴマを摺っているだけではないでしょうか」
(2020年11月14日)
素晴らしい小春日和の土曜日。午後は、引きこもっての「第51回司法制度研究集会」だった。昨年に続いて、今年も自由法曹団/青年法律家協会弁護士学者合同部会/日本民主法律家協会の共催。ズームで参加できるのが、ありがたい。
「今の司法に求められるもの ― 特に、最高裁判事任命手続きと冤罪防止の制度について」を総合タイトルとして、基調報告が豊秀一さん(朝日新聞編集委員)による「今の司法、何が問題か―新聞記者の視点から」。これに、梓澤和幸さんの「司法の民主化のために」と、周防正行さんの「冤罪防止のための制度の実現を」という報告。
今回の集会企画の段階では学術会議問題は出ていなかった。予定されたテーマとして学術会議問題関連のものはない。しかし、当面する最重要課題として学術会議問題を語らざるを得ない。司法を語りながらも学術会議問題を論じ、学術会議問題を論じつつも、司法を語る集会となった。
よく分かったことは、司法の独立侵害の問題と、学術会議の自主性侵害問題とは同質、同根の問題であること。そして、学術会議の会員任命問題と最高裁裁判官任命問題とについては、同じ法理で考えるべきことである。
司法の独立とは、権力分立を実効化するための制度である。司法部のみならず裁判官は、権力とりわけ行政権から独立して、権力の憲法や法からの逸脱を是正する機能をもたなければならない。行政権力から独立していない司法部も、司法官僚の権力から独立していない裁判官も、権力の暴走を止めることができない。
学術会議も、学術の国家的利用の在り方に関して、権力から独立して提言をなすべき存在である。政府からの掣肘を受けることのない、自律性あってこそ、学術を国策に反映させることができる。権力から独立していない学術会議では、権力の暴走を止めることができず、その使命を達することができない。
いま、司法の独立も、日本学術会議の自律性も危うい。ここを持ちこたえないと、大学にも、教育にも、メディアにも、法曹にも、文学や芸術や宗教にも、累が及ぶことになりかねない。そのような危機感をもたざるを得ない。
私も、ズームで短く発言した。次のような内容。
今回の6名の学術会議会員任命拒否は、49年前の23期司法修習からの裁判官希望者7名に対する任官拒否問題の再現という側面を持っている。
あのとき、採用人事を梃子として組織全体を統制する手法の有効性が確認された。司法部は成功体験を持ったのだ。「人事のことだから理由は言わない」という開き直りつつ、それでいて組織全体の萎縮効果を狙う狡猾さ。今度は、同じことを官邸が行っている。49年前のあの時の教訓をどう生かすべきかを総括し直さなければならない。
本日の司法制度研究集会の発言は、いずれ「法と民主主義」に掲載される。是非、ご一読をお願いしたい。
豊さんの基調講演も充実したものだったが、フロアからの岡田正則さんの発言がさすがに印象に残るものだった。その大要をご紹介したい。
6人の任命拒否が、違憲であり違法であることは明らかで、法律解釈論争は既に決着がついている。政権は既に詰んでいるのに、それでも「参った」と言わずに居直っている。そのような違法の居直りを許しているのが今の日本の政治状況なのだ。
自由・平等・連帯という市民革命のスローガンの内、利潤追求の自由のみが神聖化されつづけられる一方、歪んだ政治空間の中で本来の連帯が失われている。既得権益・特権を叩くという名目で、公務員や教員、正規労働者までが攻撃対象とされ、研究者や科学者などの専門家も同じような攻撃対象となっている。
さらに、国民に対する情報操作によって、任命を拒否された6名は、「反政府的傾向の連中」というレッテルを貼られつつあり、それゆえの混沌とした政治状況となっている。このままでは、大学の自治も、メディアの在野性も、日弁連の独立性なども、危うくなってしまいかねない。
(2020年11月13日)
タイの首都バンコクが、若者たちの大規模なデモで揺れている。デモの要求は、プラユット軍事政権の退陣、憲法の改正、そして王政改革の三本柱。中でも注目されるのが王政改革の要求であるという。これまでタイでは王政批判はタブーとされてきた。いまだに不敬罪があり、王室批判は最長15年の刑になりうるという。その不敬罪を覚悟での民主化要求のデモのうねりなのだ。素晴らしいことではないか。日本の我々も、この心意気を学びたいと思う。
私にとって、タイは身近な国ではない。30年も昔、自衛隊のPKO活動を視察にカンボジアに行ったとき、空路がバンコク経由だった。行きと帰りの各一泊。それだけが、タイに触れた体験。チャオプラヤー川に沿った寺院様の建築が立ち並ぶ仏都の風景と、道路の混雑・喧噪が印象のすべてである。
思い出すことがある。大学で多少言葉を交わした同学年のタイからの留学生がペンケ・プラチョンパチャヌックさんという女性だった。「ペンケ」とは、三日月のことだと聞いた記憶があるが、半世紀以上昔のこととて自信はない。たまたま彼女は、私たちに王室への敬愛の念を語り、私たちは冷笑で応じた。「日本では、良識ある市民は、まったく皇室を尊敬などしていませんよ」などと言った覚えがある。印象に残ったのは、世界にはこんな若者までが王制を肯定している国もあるのか、というカルチャーショック。
そのタイで、この夏ころから政権批判が王政改革要求運動に発展してきている。王室への公然たる批判は前例のないことだという。これまでタブーとされてきた王室批判が噴出し、公然と「王室改革」の要求が語られ、大規模なデモの要求になっている。多くの人の意識改革なしにはなしえないことだ。
学生を中心とする政権民主化要求のスローガンの中には、
「王室を巡る表現の自由の容認」
「不敬罪の撤廃」
「王室予算の見直し」
などが掲げられているという。
改革要求は王室に向けられたものだが、現国王のワチラロンコンなる人物の評判が最悪である。この人、タイ国元首としての仕事に関心はない。バンコックには不在で、ドイツのリゾートホテルに滞在して優雅に暮らすご身分。4度の結婚や100年ぶりの側室復活ということでも話題の人。およそ、国民からの敬愛を受ける人ではない。
一方、この評判悪過ぎの現国王の前任者が、父王のプミポン。こちらは、人格者として国民からの敬愛を一身に集めた人だったという。在位期間70年に及んだが評判は最高だった。貧困対策で農村に足を運び、軍と市民が衝突する危機的状況をたびたび仲裁した。国民に寄り添い、国民の模範となる姿勢をアピールした。
興味深いことは、追い詰められているプラユット政権の態度。首相はこう言うのだ。
「若者たちの政治的意見の表明はよい。しかし、君主制を巡る議論は行き過ぎだ」と。
評判の悪い王でも、王は王。王政が軍事政権を支える強靱な土台の役割を担っていることを、軍事政権はよく認識しているのだ。それゆえ、民衆の王政批判は許せないと言うのだ。
極端に評判の良かった前国王と、極端に評判の悪い現国王。思考のシミュレーションに格好の教材である。評判のよい王も悪い王も、王は王。民主主義の対立物である。しかし、その役割は飽くまで異なる。国民からの評判のよい前国王の時代には王室批判は困難であった。前国王とて巨万の富を国民から奪い貪っていたにもかかわらず、である。しかし、今や評判最悪の現国王には遠慮のない批判が盛り上がっている。
評判最悪の王なればこそ、王室批判の運動に火を付け、その火に油を注いでいる。客観的には、評判の良い国王は民主化のブレーキとなり、評判最悪の現王が民主化のアクセルとなった。
客観的には、「悪王こそが、民主化推進のよい働きをする王」である。これを裏から見れば、「評判の良い王こそが、民主化推進に障碍として立ちはだかる悪王」なのだ。どこかの国の、誰かのことを評価する際に噛みしめねばならない。
(2020年11月12日)
昨夜(11月11日)の時事配信記事のタイトルが、「中国、『忠誠』なき議員を排除 香港民主派は抗議の辞職表明」である。権力がその本性を剥き出しに、権力に抵抗する者の排除を断行したのだ。中華人民共和国、さながら臣民に忠誠を求めた天皇制の様相である。しかし、果敢に抵抗する人々がいる。
民主主義社会では、民衆が権力をつくり、民衆の承認ある限りで権力の正当性が保たれる。だから、権力は民衆に「忠誠」を誓う立場にある。権力が民衆に「忠誠」求めることは背理である。権力が「反忠」の人物を排斥してはならない。
原理的に権力には寛容が求められる。民衆を思想・信条で選別し差別してはならない。政治活動の自由を奪ってはならない。権力に抵抗する思想や表現や政治活動を弾圧してはならない。いま、天皇制ならぬ、「人民」の「共和国」がそれをやっているのだ。
「今ごろ何を騒いでいるのだ。中国ではごく当たり前のこと」「香港が中国並みになったというだけのこと」という訳知りの声もあろうが、かくもたやすく、かくも堂々と、権力がその意に沿わない民主主義者を排除する図に衝撃を受けざるを得ない。
報道では、民主派議員19人が11日夕に会見し、4人以外の15人も抗議のため一斉辞職すると表明。定数70の立法会で21人いた民主派は2人に激減することになり、今後は親中派の独壇場になるという。
この民主派議員たちの抗議の辞職は、香港社会だけでなく、国際社会に向けての捨て身のアピールなのだ。この香港民主派の抵抗を支持する意思を表明しよう。
時事は、こんな報道もしている。
《「独立思想広めた」教師失職 当局、現場への介入強化―香港》(20年10月06日20時48分)
香港政府の教育局は6日までに、「香港独立思想を広めた」として、九竜地区の小学校教師1人の教師登録を取り消したと発表した。独立派の主張を授業で扱ったことによる登録抹消は異例で、教育現場に対する当局の介入強化や教員への萎縮効果が懸念されている。
この教師は、昨年、小学5年生の授業で独立派の活動家である陳浩天氏が出演したテレビ番組を紹介。「番組によると、独立を訴える理由は何か」「言論の自由がなくなれば香港はどうなってしまうか」などと尋ねる質問用紙を配布した、という。教師自身が独立を主張したとは報じられていない。
それでも、教育局は「教材が偏っており、生徒に害を与えた」と指摘。この教師は既に離職しているが、今後他の教師による「問題行動」が確認された場合、同様に処分はあり得ると表明した、と報じられている。
強権とたたかっている香港の人々に敬意を評したい。こんな社会はごめんだ。中国のようにはなりたくない。
いや、日本も危うい。菅政権は、政権批判の立場を堅持する日本学術会議を快く思わず、政権批判の発言をした6名の任命を拒否した。思想・良心の自由、表現の自由、学問の自由を侵害する行為だとの批判を覚悟しての強権の発動である。中国共産党の香港に対する強権的姿勢と、本質において変わるところはない。
まだ、私たちは声を上げることができる、政治活動もできる、選挙運動もできる。選挙で政権を変更することもできる。三権分立も何とか守り続けている。この自由や民主主義を錆び付かせないように、大切にしたい。まずは、粘り強く学術会議任命拒否を撤回させねばならない。
(2020年11月11日)
新華社電は、本日、中国の全国人民代表大会常務委員会会議が、香港立法会の議員資格として「中国や香港政府への忠誠心を求める」ことを決定した、と伝えた。「香港独立を宣伝したり、外国勢力に香港への介入を求めたりすれば、議員資格を失う」と明示したという。
その決定を受け、香港政府は即日、香港民主派議員4人の資格を剥奪した。北京の指示に香港政府が忠実に従った。北京は、香港の民衆の全てに、同様の忠誠を求めているのだ。
この中国の蛮行の犠牲となって議員資格を剥奪された、香港民主派4人の氏名を、畏敬の念をもって記しておこう。
楊岳橋(Alvin Yeung)氏
郭栄鏗(Dennis Kwok)氏
郭家麒(Kwok Ka-ki)氏
梁継昌(Kenneth Leung)氏
【AFP=時事】は、「今回の措置は、中国全人代の常務委員会が、地方政府は国家安全保障上の脅威とみなす議員の資格を剥奪できると決定したことを受けてのもの」と伝えている。
共同は、「香港への統制を強める習近平指導部は、中国に批判的な香港の民主派議員を「忠誠心に欠ける」と見なして排除を進めるとみられる。香港に「高度の自治」を約束した「一国二制度」の形骸化が一段と鮮明になった。」と報じている。
昨日の毎日の記事には、「民主派議員19人は9日夜に記者会見し、議員資格の剥奪が決まれば、集団辞職して抗議する方針を表明した。民主派は「反対派の存在を許さない中央政府のやり方は1国2制度に反している」と強く反発した。」とされている。
「決定前の立法会の議席は親中派が41、民主派が21、欠員が8。民主派が4人欠けることで、重要法案を否決できる3分の1を大きく下回り、影響力が大きく後退するのは必至だ。さらに残りの民主派議員も辞職すれば、立法会はほぼ親中派議員だけとなり、異例の事態となる。」(朝日)
朝日によれば、「(資格を剥奪された)議員4人は7月、国安法に反対し、立法会選で民主派が過半数をとれば政府提案の法案を否決すると表明したことなどが問題視されていた。また10月以降も議事妨害をしているとして、全人代常務委メンバーの譚耀宗氏は、常務委員会が開かれるのを前に「香港の特別区に忠誠を誓い、基本法を守るという原則に反している」と語った。」という。
なるほど、林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官が語ったとおり、「6月末に香港国家安全維持法(国安法)が施行された後、香港に三権分立は存在しない」のだ。三権分立だけではない。民主主義もない。立憲主義もない。そもそも法の支配すらないのだ。
中国には、思想・良心の自由が存在しない。表現の自由もない。政治的活動の自由もない。つまりは、中国においては、国家権力は万能なのだ。意に沿わない議員の資格を剥奪することが自由にできる。権力が恣になんでもできるというこの中国のありかたを「独裁」と言い、野蛮という。
菅政権が、学術会議が推薦した6名の新会員候補の任命を拒否して、その理由を語ろうとしない。これも、野蛮な権力の行使である。決して、中国を嗤う資格はないが、この超大国の大地には民主主義の芽は育たないのだろうか。暗澹たる思いを禁じえない。