(2021年4月10日)
菅義偉内閣は、昨年(2020年)9月16日に発足した。この日の午後9時から首相官邸で新首相として記者会見に臨んだ菅はこう言っている。
「行政の縦割り、既得権益、あしき前例主義を打ち破って規制改革を全力で進める」
さて、「打ち破られるべき悪しき前例主義」とは一体なんだろうか。そして、「悪しき前例主義に守られた既得権益」とはなんだろうか。おそらく、その最大のものは天皇制にほかならない。
今、政府は不要不急の「安定的な皇位継承の在り方を検討する有識者会義」を発足させてヒアリングを始めている。どうも、あしき前例主義の典型としての天皇制を打ち破って、ぬくぬくと既得権益を享受している天皇の在り方を真剣に検討しようという中身ではなさそうだ。菅新政権の公約はどこに行ったのだ。
一昨日(4月8日)、首相官邸で開かれた有識者会義のヒアリングでは、櫻井よしこ、八木秀次、新田均といった面々が、皇位継承資格者を男系男子に限る現行制度の維持を求める意見を述べたという。櫻井は、男系男子のみに皇位継承を認める現行制度を、「これを守っていくことが皇室に対する国民の求心力を維持する方法だ」と主張したという。なんとも、そのバカげた感覚にあきれ果てるしかない。
つい先日、東京五輪の聖火リレーが、女人禁制問題に遭遇した。半田市に伝わる「ちんとろ祭り」で使う舟には、江戸時代以来女人禁制だという。当初は男性ランナーだけを乗せて聖火を運ぶ計画が、「悪しき前例主義」として批判を受け、女性も乗船できるよう半田市が急遽方針を変更した。
打ち破ってみれば、女人禁制など何の根拠も合理性もない愚行でしかないことが明白である。天皇制も、それ自体が、今存在すべきなんの根拠も合理性もない「悪しき前例」以外のなにものでもない。さらに、男系男子主義の固守となれば、もはや滑稽でしかない。
改めて日本国憲法14条を読み直してみよう。
「第1項 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
第2項 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
第3項 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」
この全ての人間の平等が憲法の精神であり、人類普遍の原理でもある。人は生まれによって差別されてはならない。優遇されてもならない。貴種を認めるということは、即ち卑種をも認めることである。尊い血に対する信仰は、卑しい血に対する差別を前提としている。万世一系とは、恥ずべき差別の歴史ではないか。
憲法体系の中で、天皇の存在が他と調和しない異物なのだ。憲法制定時、天皇(裕仁)は、「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」に不満だったと伝えられる。「せめて堂上華族」(高級公家の出自をもつ華族)だけでも残せないものかと口にしていたという。外堀を埋められて、次は自分の身が危ないとでも思ったのであろうか。いずれにせよ、日本国憲法における例外としての天皇の存在は際立っている。
だから、天皇制を「あしき前例主義」と言い、天皇の収入や財産や数々の特権を「既得権益」というのだ。菅義偉よ、その言葉のとおり、この「あしき前例主義」と「既得権益」に挑戦してみてはいかがか。
(2021年4月9日)
久しぶりに、DHCの吉田嘉明が自社の公式ホームページにコメントを掲載した。またまた、懲りないヘイトスピーチの繰り返しである。
https://top.dhc.co.jp/contents/other/kuji_about/
その全文が後記のとおりだが、次の言葉で締めくくられている。
「NHKは日本の敵です、不要です、つぶしましょう。」
これには驚いた。吉田嘉明乱心である。「NHKをつぶしましょう」というのだ。しかも、「NHKが日本の敵である」理由がこう語られている。「これはもう日本国民の誰もが気がついていることであると思うが、NHKは幹部・アナウンサー・社員のほとんどがコリアン系である。出演者についても、学者・芸能人・スポーツ選手の多くがコリアン系であり、ひどいことに偶然を装った街角のインタビューさえコリアン系を選んでいる。予めリストアップしているのである。特徴のある名前とつき出たあご、引きしまった小さな口元、何よりも後頭部の絶壁ですぐに見分けがつく。」
とうてい正気の人物の発言ではない。まともに批判の論評をする気持さえ失せる。DHCのブランドイメージに自ら傷を付けているのだ。こういう人物が経営する企業が永らえるとは思えない。
この異様な「NHK憎し」の原因は、本日のNHK総合【おはよう日本】の放映にある。テーマは「問われる企業の人権意識」。NHKのホームページから、その番組紹介を引用する。
「東京五輪が近づく中、五輪憲章にも根絶がうたわれる差別など人権に関する問題への関心が高まっている。
国は「ビジネスと人権」に関する行動計画を初めて策定した。社会における企業の影響力が増す中、多様性ある社会を実現するために企業に求められる人権への取り組みがまとめられている。
しかし、企業と人権をめぐっては課題を解決したとは言えない現実が横たわったままとなっている。
化粧品会社DHCのホームページの記述の一部が差別的だとして署名を集めていた。在日コリアンを蔑む表現をしていたということ。化粧品を愛用している在日コリアンの女性は「私たちが直接攻撃されているようなそんな気持ちにもなってしまう」と話す。
この記述をめぐっては国会でも議論になった。上川法相は“企業にはヘイトスピーチを含めあらゆる差別、または偏見をなくして人権に配慮した行動を取るということについて深く考えることが大事と思う”と述べた。
策定された行動計画の中で政府も各企業に対して人権を守る啓発に取り組むとしている。しかし政府が民間である企業に行動を促すのは難しく限界があるという。(以下略)」
吉田嘉明は、この番組を放映されて少しは恥ずかしいと思ったろうか。内心は分からないが、反省の色を見せることなく、反対に逆ギレの反応を見せたのだ。DHCの社員、これではさぞかし肩身が狭かろう。
私は、 「DHCは人権と平和の敵です、不要です、つぶしましょう」とは言わない。しかし、声を上げ続けたい。「DHCは差別企業です。反省して差別言動をやめるまでDHC製品を買ってはいけません」と。
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(DHCホームページでの吉田嘉明コメントは以下のとおり。)
NHK「おはよう日本」報道局ディレクター大淵光彦と称する人物からDHCの広報部に電話が入り、当方の「ヤケクソくじ」の説明文に人種差別の問題が含まれていて、今に至ってもまだホームページに掲載が続いているがその理由を聞かせてくれとのことであった。名前を聞いて、明らかに在日系が好む日本名であることから、NHKを編るコリアン系の反日日本人かと思ったが、NHKに問い合わせてみると確かに在籍しているとのこと。小生は常々、日本の朝鮮化ということを何よりも危惧してい、るが、その元凶であるNHKからの問い合わせに小躍りした。NHKの状況を全国民に周知させる絶好の機会だからである、朝鮮化ということではNHKは最も触れられたくない問題のはずである。これはもう日本国民の誰もが気がついていることであると思うが、NHKは幹部・アナウンサー・社員のほとんどがコリアン系である。出演者についても、学者・芸能人・スポーツ選手の多くがコリアン系であり、ひどいことに偶然を装った街角のインタビューさえコリアン系を選んでいる。予めリストアップしているのである。特徴のある名前とつき出たあご、引きしまった小さな口元、何よりも後頭部の絶壁ですぐに見分けがつく。サントリーが日本海を「東海」と言おうが、社員・タレントをコリアン系ばかりにしようと・私企業であるから誰も文句は訪えない。NHKは全国民から強制的に受信料をむしりとっている公的機関であるから放置するわけにはいかない。誰がこんなふうにしてしまったのかというと自民党の一部のコリアン系の国会議員であるが、野党はコリアン系だらけだからNHKのやることには誰もストップをかけない。コリアン系は長い歴史の中で中国を常に宗主国としてきたから、宗主国のやることには逆らえないというDNAができている、韓国の歴代の大統領を見るとよくわかる。NHKは朝鮮半島の悪は絶対に言わない。これは同族だから当然のことだが、親分の中国にも何も言えない。党員のほぼ全員がコリアン系である立憲民主党は、総務省の役人がNTTの接待に応じたとかのどうでもよい文春の三流記事を盾にして連日のように国会でがなり立てている。そんな場合ではなかろう。国境を侵して侵入している敵には即座に銃撃して追い返すのが常識であろう。
小生のことをマスコミ(これもコリアン系ばかり)は人種差別圭義者だと言うが、人種差別というのは本来マジョリティがマイノリティに対して行う言動を指すのであって、今や日本におけるコリアン系はマイノリティどころか日本の中枢をほとんど牛耳っている大マジョリティである。毎日ものすごい数で帰化人が誕生している。数だけの同族でマジョリティではなく、彼らは東大・京大・一橋・早稲田を出ていることから政界・財界・法曹界・マスコミ界という日本の中枢をすべて牛耳っている大マジョリティである、小生はもともと経団連の会員であったが、呆れ果てて昨年の12月に退会した。経団連の会員は日本を代表する有名企業ばかりで、コリアン系などいないと思われるでしょうが、ここ数十年の間に続々とコリアン系が増殖して、幹部や一般会員だけでなく、会を支える事務局員までコリアン系で占められるようになった。そのため、彼らは目本のために働いているのではなく、何かあると必ず中国寄りの態度を示し、韓国には常に|司情的である。中国がウイグル族などの少数民族に対してやっていることは明らかに人種差別の最たるものです。アメリカで白人が大多数を占めていた昔なら黒人や朝鮮人は差別の対象になっていましたが、今は一大勢力を形成していますからもう差別とは言えないでしょう。数の力を頼って、西海岸の朝鮮人は今や市議会の中心層になっており、やりたい放題でマイノリティの日本人をいじめています、言いたい事はきりがありませんが、NHKに対してひと旨感想をと旨われれば、「NHKは日本の敵です、不要です、つぶしましょう。」
株式会社ディーエイチシー代表取締役会長・CEO 吉田嘉明
(2021年4月8日)
総務省とNHKと朝日新聞の三題噺である。「権力」と「その膝下にある公共放送」と、その「二者の関係を論評するメディア」の、それぞれの立ち位置のお話なのだ。主たる批判の対象は総務省であるが、問題はそれにとどまらない。NHK問題とは、まずはNHK自身の問題であり、次いで総務省とNHKの関係性の問題であり、この二者の関係について監視を怠らず鋭く切り込まねばならないメディア全体の問題でもある。そしてもちろん、終極的には国民の自覚の問題である。「それぞれの国民は、自らにふさわしいジャーナリズムをもつ」しかないというのだから。
話の順から述べれば、まず朝日がNHKの姿勢に関して社説を書いた。「NHK値下げ 政治の影に疑念が残る」という、このタイトルにピッタリの記事。これが、今年の1月28日のこと。
内容は、下記の要約のとおり、至極常識的で真っ当なものである。
「NHKが唱える「自主自律」とはいったい何なのか。こんな迷走ぶりで、市民の真の理解を得られると考えているのか。
執行部が業務のスリム化に加えて、23年度に受信料を引き下げることを急きょ打ち出した。剰余金が多すぎるのは明らかで、視聴者に還元する方向性自体は妥当といえる。
それでも釈然としないのは、決定に至る過程に政治の圧力を明らかに感じるからだ。視聴者・国民よりも政権の顔色をうかがうことにきゅうきゅうとするNHKの体質も垣間見える。
受信料の値下げについて、前田晃伸NHK会長は、「物事には順番がある」「値下げできる環境を整えるのが私の役割」と語っていた。それが一転した。これまでの方針は何だったのか。「環境」はいつ、どう整えられたのか。納得できる説明はない。
おかしな話はまだある。20日になって突然、副会長(放送総局長)が「衛星契約の1割をめざす」と具体的な数字を示した。菅首相が施政方針演説で「月額で1割を超える思い切った引き下げ」を表明した2日後のことだ。
値下げに異を唱えているわけではない。しかしNHKは新年度から、これまでに例のない規模の事業の縮小に踏み出そうとしている。影響を受けるのは国民一人ひとりであり、私たちの社会だ。
これからの時代にNHKはどんな役割を担い、そのために必要な費用を、だれが、どのように負担するのか。その議論を深めないまま、受信料を人気取りの道具に使おうとしているとしか見えない政権にも、それに追従するNHKにも、不信の念を抱かざるを得ない。」
この社説を書いたのは、田玉恵美論説委員。田玉によれば、この社説掲載の日に、総務省の課長に呼び出され、抗議されたという。このことが、昨日(4月7日)の朝日(多事奏論)欄で明らかにされた。
これは由々しきことではないか。社説は明らかにNHK批判である。ところが、NHKからではなく、「政治の影」濃い総務省からの抗議なのだ。総務省の担当課は、NHKに関するメディアの動向に目を光らせ、好ましからざる記事には、執筆者を呼びつけて「抗議」までするのだ。このことを朝日が2か月余も黙っていたというのも、やや腑に落ちない。
(多事奏論)は、「NHK値下げ 社説書いた 総務省に呼び出された」という、表題。3段落に要約して引用させていただく。
「1月の末、総務省に呼び出された。霞が関へ出向くと、初対面の課長らが出てきて「事実と異なる。抗議させていただきたい」「何が言いたいかというと、政府の圧力でNHKが1割値下げを決めたなんて話じゃないんですよ」と言った。
社説で私は、NHKが受信料値下げを決めた背景に政治の圧力を感じると書いた。大臣が再三迫って方針が変わったからだ。まるで国営放送みたいだ。
私は思った。これが忖度というやつか。首相はかつて、意に沿わない同省のNHK担当課長を更迭した。目の前で私に抗議をしているのは、まさに今そのポストにいる課長だ。首相や大臣の顔に泥を塗られたと感じ、強気に出てみせたのか。
もう一つ課長は気になることを言っていた。『NHKの経営に自主自律なんてないですから。そんなことおっしゃる方は初めてなんでびっくりしてます。自主自律は放送番組の編集の話。人事も金も握られてる。もうちょっと制度を勉強してください』
翌月、ニュースを見ていて思わず声が出た。東北新社にいる首相の長男らから違法接待を受けて懲戒処分を受けた官僚の中に、あの課長の名前があった。外資規制違反問題でも渦中の人になっている。あの抗議の真意を知りたい。改めて課長に取材を申し込むと、国会対応などで相当多忙であり取材はお断りしたいと返事が来た。放送法を勉強しろとお怒りだった課長に、国家公務員倫理法の勉強はどうなっていたのかも聞きたかったのだが。」
これは重大な情報である。総務官僚は、「NHKの経営に自主自律なんてない」と決めてかかっている。おそらくはNHKも同様の見解なのだろう。なるほど、NHKの置かれている立場がよく見えてくる。それだけではない。総務官僚はメディアの各紙・各社にも「自主自律なんてない」と思っているのではないか。かくも威丈高に朝日の社説にまで圧力をかけようという姿勢なのだ。
NHKには、「倫理・行動憲章」がある。NHKの自主憲法と言ってよいものだろう。その冒頭に、次の一文がある。
NHKは、公共放送として自主自律を堅持し、健全な民主主義の発展と文化の向上に役立つ、豊かで良い放送を行うことを使命としています。
ここでいう、「自主自律の堅持」とは、歴史的な経緯から、再び「大本営の伝声管とはならない」という宣言と理解すべきであろう。そのような歴史を捨象しても、「自主自律の堅持」とは、権力からの介入を拒絶することが主旨でなくてはならない。この理念と、現実との落差が問題なのだ。
また、この憲章をやや具体化した「行動指針」というものがある。その冒頭が次のような宣言文となっている。
○公共放送の使命を貫きます。
◆ いかなる圧力や働きかけにも左右されることなく、みずからの責任において、ニュースや番組の取材・制作・編集を行います。
「いかなる圧力や働きかけにも」というとき、総務省や官邸、あるいは政権与党からの圧力を除外する合理性はない。いや、むしろ、他の何よりも公権力やそれを支える社会勢力からの圧力や働きかけからの自律をこそ大切にしなければならない。それが、NHKが自らに課した視聴者に対する責任なのだ。本来、総務省には、そのようなNHKの自主性を尊重すべき責務がある。
しかし、『自主自律は放送番組の編集だけに限られている。人事や金など、NHKの経営に自主も自律もない』という、総務省NHK課長の言い分は、「政権は、NHKの人事と金を握っている。だから時の政権に不都合な放送はさせない」という恫喝に聞こえる。そして、この『NHKの経営に自主も自律もない』という見解をジャーナリズムに押し付けようとしているのだ。このような公権力による「恫喝」があれば、すぐにでも市民に知らせてほしいものと思う。朝日の姿勢は評価に値するとしても、報道がやや遅れてはいないか。
なお、この件については、醍醐聰さんが、(元総務省情報通信審議会委員)という肩書で、昨日の内に総務省に抗議のファクスを送っている。なんと迅速な行動力。
https://twitter.com/shichoshacommu2/status/1379721599595651076
(2021年4月7日)
ウソとゴマカシの常習犯・安倍晋三が、原発事故後のフクシマの事態を、「アンダー・コントロール」とホラを吹いて承知した2020東京五輪。招致委員会理事長竹田恆和の贈賄疑惑も大きな話題となったところ。薄汚なさのつきまとう東京オリパラである。天網恢々因果はめぐって、思いもかけぬコロナ禍に見舞われた。
2020年の開催は1年延期となったが、21年開催も無理だろう。いや、早期に中止を宣言すべきなのだ。アベ後継のスガが、アベ並みに「日本のコロナ禍は、アンダー・コントロール」とホラを吹くことは、もう許されない。
1年遅れの東京五輪開会まで、あと107日。コロナ禍は、確実に第4波に突入している。完全に「アウト・オブ・コントロール」の事態である。本日、大阪府は感染急拡大で重症者の病床がひっ迫したとして、「医療非常事態」を宣言した。その後、本日の新たな感染者(陽性者)を878人と発表した。東京都の新規感染者数は555名、全国では3000人を越えた。これは、ただごとではない。
こんな折も折、沿道に密集した人を集めて、聖火リレーなるものが今日も行われている。本日は三重県、四日市市からのスタート。ゴールは、伊勢神宮周辺を巡って伊勢市の県営総合競技場だという。商業主義のオリンピックと、天皇教総本山の伊勢神宮、両者が結託してもコロナには勝てない。
今日のリレーの第一走者は、瀬古利彦だった。かつての東京都教育委員の一人。教育現場に、日の丸・君が代を強制した戦犯の一人。
走り終えて、瀬古は「第1走者を務められたことが光栄。開会式でともされる火を想像して走りました。コロナ禍で国民全体に閉塞感がある。聖火の火でコロナを吹き飛ばしてもらいたい」と語ったという。ノーテンキに呆れると言うほかはない。、
一方、大阪府の吉村知事は「大阪府全域での公道を走る聖火リレー」を中止とした。聖火リレーどころではない。オリンピックどころの話ではない。今や多くの人命にかかわる事態なのだ。吉村も、緊急事態宣言の早期終了のツケを自覚せざるを得ないのだ。
スガのバイデンに対する参勤交代は、このような深刻な事態でのこととなった。4月16日首脳会談予定日には、日本のコロナ禍は今よりさらに深刻になっているだろう。スガは、アベのセリフを真似て「コロナ禍について、大統領に私から保証をいたします。状況は、アンダー・コントロールされています。100日後の東京五輪準備には、これまでいかなる悪影響もなく、今後とも、ありません。」などとウソを言ってはならない。
正直にそして誠実に、こう言うべきなのだ。「コロナ禍に対して、われわれはこれまで無力・無為・無策でした。状況は、完全にアウト・オブ・コントロールです。しかし、このまま座して成り行きに任せているわけにもまいりません。100日後の東京五輪は直ちに中止を宣言して、国を挙げてコロナ禍対策に全力で策を講じなければなりません。貴国の皆様に、ご理解をいただきたいと存じます」
(2021年4月6日)
昨日のブログに、1971年4月5日の原体験を書いた。その原体験を共有する同期の仲間が、50年目にあたってそれぞれの思いを語る書籍を刊行した。題して、「司法はこれでいいのか。ー 裁判官任官拒否・修習生罷免から50年」。
もちろん、「司法がこれでよい」はずはない。50年前、私たちは最高裁が、日本国憲法の想定する「憲法の砦」とはほど遠い実態にあることを痛感した。それでも、その後を何とか、人権や民主主義、平和を目指して、法曹として闘ってきた。その50年を語る書である。50年を経て司法は少しはまっとうになっただろうか。その問いかけを続けていかなければならない。
書籍の詳細は、現代書館の下記URLを参照願いたい。第1版第1刷の発行が、2021年4月5日である。
https://gendaishokanshop.stores.jp/items/60581c83a11abc0c9e4971d1
著者は、「23期・弁護士ネットワーク」となっている。従来から「23期有志」に親密な交流はあったが、名称などは不要だった。急遽出版の話が出て名前が必要となって、急拵えに付けたのが、「ネットワーク」。あんまりなじまないカタカナの名称。
【23期・弁護士ネットワーク】のメンバーとして名を連ねているのは、下記の29名だが、そのうち4名が故人である。
阪口徳雄 梓澤和幸 井上善雄 宇都宮健児 海川道郎 大江洋一 河西龍太郎 木嶋日出夫 木村達也 郷路征記 児玉勇二 小林和恵 澤藤統一郎 城口順二 瑞慶山茂 豊川義明 中山武敏 野田底吾 藤森克美 本多俊之 松岡康毅 宮地義亮 村山晃 持田穣 森野俊彦 山田万里子 山田幸彦 安田秀士 吉村駿一
出版社が惹句とした、【内容】の解説は以下のとおり。
1960年代後半から、民意を反映する判決を書く裁判官に対する最高裁事務総局による転勤先や報酬額を巡る嫌がらせが横行するようになる。その象徴的な事件が、1971年4月5日の司法修習終了式で起こった阪口徳雄氏の修習生罷免であった。半世紀前に、裁判官任官拒否、修習生罷免を体験したことは法律家たちに厳しい試練の時を刻んだ。しかし青年たちは苦難を乗り越え、法曹資格を回復し、多様性豊かに人々の希望を開いた。本書は、その群像の記録である。一人でも多くの読者に、良心という力のメッセージを届けたい。
司法が骨抜きにされたターニングポイントを克明に記録し、苦難を乗り越えて希望を開いた法律家たちの群像を活写!
【主要目次】
第1章 任官拒否、修習生罷免、そして法曹資格回復
第2章 群像――1971年春
本田雅和(ジャーナリスト)
第3章 生涯と生きがいを語る
第4章 司法官僚――石田和外裁判官の戦後
西川伸一(明治大学政治経済学部教授)
定価 2200円(税込み)
頁数 368ページ
さて、23期有志は「司法はこれでいいのか」を表題とする書籍を出版し、この書籍にふさわしい出版記念の集会を持つことにした。
「司法はこれでいいのか―裁判官任官拒否・修習生罷免から50年―」出版記念集会
4月24日(土)13:30? アルカディア市ヶ谷(私学会館)およびオンライン
主催:司法はこれでいいのか23期弁護士ネットワーク
共催:青年法律家協会 弁護士学者合同部会
協賛:日本民主法律家協会
詳細は、下記URLを参照いただきたい。
https://jdla.jp/event/pdf/210424.pdf
(2021年4月5日)
私にとって、4月5日は特別な日である。私は、1971年の春4月に司法修習を終えて弁護士となった。その司法修習の終了式が、ちょうど50年前の今日、4月5日であった。その日、私は怒りに震えた。あの日の怒りが、その後の私の職業生活の原点となった。その怒りの火は今なお消えない。そして、今後もこの怒りを忘れまいと思う。
法曹(弁護士・判事・検事)資格を取得するには、司法試験合格後に司法修習の課程を履修しなければならない。1969年春4月に私は23期の司法修習生となった。戦後、法曹三者の統一修習制度が発足して以来23年目の採用ということ。同期生は500人。修習期間は当時2年だった。国費の給付を受けて、修習専念義務を課せられた準公務員という立場。
その2年間、司法研修所と東京地裁・東京地検・二弁の法律事務所で、生の民刑事の事件を素材とした実務の修習に余念はなかったが、同時に課外の自主活動にも積極的に参加して多くのことを学んだ。
私が弁護士を志望した60年代後半は、司法が比較的健全な時代であった。反共の闘士・田中耕太郎最高裁長官(1950年3月?1960年10月)以後で、裁判官の独立を蹂躙した石田和外長官(1969年1月?1973年5月)以前の、比較的穏やかな司法の時代だった。国会には、護憲勢力の「3分の1の壁」が築かれ、60年安保闘争の国民的盛り上がりの余韻の中で、労働運動も学生運動も盛んだった。その社会の空気を反映して、裁判所が真っ当な判決、あるいはずいぶんとマシな判決を重ねていた時代。裁判所に正義があると国民からの信頼を得ていた、今は昔のことと語るしかない頃のこと。
当時憲法理念に忠実でなければならないとする若手の弁護士だけでなく、裁判官や司法修習生も、憲法と人権擁護を旗印とする青年法律家協会(青法協)に結集していた。時の自民党政権には、これが怪しからんことと映った。当時続いた官公労の争議権を事実上容認する方向の判決などは、このような「怪しからん」裁判官の画策と考えられた。いつの時代にも跋扈する反共雑誌の「全貌」が執拗に青年法律家協会攻撃を始め、自民党がこれに続いた。驚くべきことに、石田和外ら司法官僚上層部はこの動きに積極的に迎合した。こうして、裁判所内で「ブルーパージ」と呼ばれた青法協会員攻撃が行われた。
攻撃側の中心にいたのが、「ミスター最高裁長官」石田和外(5代目長官)である。彼は、青法協会員裁判官に、協会からの脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知の発送までを強要した。
私は、当然のごとく青年法律家協会の活動に加わった。東京で修習した実務期には修習生部会議長を引き受けもした。時節柄、この時の活動は最高裁当局との対決色を濃くするものとなり、22期から2名の青法協会員任官拒否者(裁判官への任官を希望しながら、最高裁から採用を拒否される者)が出たことで、決定的になった。私たちは、これを最高裁の思想差別ととらえた。そして、この差別は自民党や右翼勢力の策動に司法部の独立性が脆弱であることの反映と理解した。
菅義偉内閣の学術会議会員任命拒否とよく似た構図である。修習後半の1年は、ひたすら同期の仲間から任官拒否者を出すな、教官は青法協脱退工作に加担するな、逆肩たたき(任官辞退誘導)をするな、という具体的なテーマを追及する運動に明け暮れた。
2年の修習を終えて、忘れることのできない71年4月を迎える。
最高裁は、23期7人の任官志望を拒否した。そのうち6名が青法協会員だった。当局の覚え目出度くないことを知悉しつつ、良心を枉げることはできないと覚悟した潔い人びとである。運動は目的を達成できなかった。その意味では手痛い敗北だった。
それに先んじて、最高裁は13期裁判官である宮本康昭氏の(採用10年目での)再任を拒否していた。青法協裁判官部会活動の中心人物と見なされてのことである。われわれは、最高裁の頑迷な、そして確固たる意思を思い知らされた。
23期の修習修了式4月5日の前日、松戸の研修所の寮で話し合いがあった。「この事態を看過できない。明日の式では、修習生を代表して誰か抗議の一言あってしかるべきではないか」。クラス連絡会の代表だった阪口徳雄君がその役を引き受けた。
終了式の式場は、当時紀尾井町にあった木造司法研修所庁舎の講堂。当日開式直後に挨拶に立った守田直研修所長に、阪口君は「所長、質問があります」と語りかけた。500人の出席者から、「聞こえない。マイクを取れ」「こちらを向いて話せ」と声が飛んだ。所長も、耳に手をやって聞こえないというしぐさをした。彼が少し前に出て一礼し、所長の黙認を確認してマスクを取り、あらためて任官拒否の不当について話し始めた。とたんに、かねてからの手筈ででもあったかのように、司会の研修所事務局長から、声がかかった。「終了式は、終了いたしまーす」。この間、わずか1分15秒である。
そして、そのあとの長い長い教官会議があり、夕刻、最高裁は阪口君を罷免処分とした。私は、その酷薄さに怒りで震えた。同時に、権力というものの非情さと理不尽さを、肌身で知った。このときの怒りと反権力に徹しようという決意は今に続いている。
最高裁のこの暴挙には、国民的な抗議の世論が巻き起こった。なんと、最高裁自身が思想差別の張本人となっている。しかも、そのことを不当と声を上げようとする者を問答無用で切り捨てたのだ。これが、司法部の実態であれば、わが国の人権も民主主義も危うい。弁護士となった私の最初の活動は、この抗議の市民運動に参加することだった。阪口君は、資格を剥奪されたまま最高裁の不当を訴えて、全国を行脚していた。同期の者が安閑としておられるはずはなかった。
この司法の独立を求める市民運動への関与は、阪口君が2年後に世論を背景として資格の回復を勝ち取り弁護士になるまで続いた。弁護士になった彼は、私と同じ法律事務所で机を並べて同僚としてしばらく仕事をした。
こうして、「司法の嵐」「司法の危機」あるいは「司法反動」といわれた時代に、私は実務法律家となった。「憲法改正を阻止し、憲法の理念を擁護する」だけではたりない。独自の運動課題として、憲法が想定する真っ当な裁判所をつくる必要がある。司法の民主化なくして人権も民主主義もありえない。人事権を握る司法官僚が、第一線裁判官の採用・再任・昇進・昇格・任地を左右する権限を恣にしている実態を改革しなければならない。
1971年4月5日の出来事こそが、私の弁護士人生の原点となった。反権力を貫こうというだけではない。政治からも、行政府や立法府からも独立した司法への改革が必要なのだ。50年前のあの日の震えるほどの怒りを忘れまい。あの日に身に沁みた権力の理不尽と非情を忘れまい。今もなお、《憲法の理想》は《司法の現実》によって曇り続けている。この相克を解決すべく努力を続けたい。
(2021年4月4日)
澁谷知美著『日本の包茎 男の体の200年』(発刊2021年4月4日、筑摩選書)が話題である。一つは、ジェンダーやセクシュアリティに関しての学術的な関心からの話題であるが、もう一つは「消費者問題」や「医療・医師のあり方」としての話題である。しかも、後者の話題には、大村知事リコール問題での大規模な署名偽造問題の渦中にある高須克弥が絡んでいることで関心は高い。
澁谷知美とは1972年生まれの社会学者。東大大学院で教育社会学を専攻し、現在は東京経済大学教育センター准教授という肩書。ジェンダー及び男性のセクシュアリティの歴史を専門分野としているという。学問の世界も多様化してきたものだ。
昨日(4月3日)の毎日新聞書評欄に渡邊十絲子(詩人)がこの書を取りあげ、大要、こう述べている。
「包茎は日本人男性の多数派なのに、なぜ恥ずかしいのだろうか。病気でないのに手術を受けるのは、不自然ではないのか。…この書にまとめられた熱意あふれる調査研究は、これが男性の自意識や生き方にかかわる大問題であることを示している。
著者(澁谷)が調べた文献は、江戸後期から現代まで、医学書から週刊誌までと幅広い。包茎を恥とする文化は「男性による男性差別」であると著者は見ている。その背景にあるのは、男性の自己肯定感の築き方がとても偏っているという事実だ。
このような事情で男性は劣等感を抱きがちだが、それを巧妙に刺激して大儲けしたのが、包茎手術を勧めるクリニックだ。ひところは、いくつもの男性向け雑誌がタイアップ記事(実質的には広告)で「女は包茎が大嫌い」というキャンペーンを展開した。そこで「女性の意見」として紹介されていたのは、実は男性が作為的に用意した言葉だ。本来は必要のない手術を受けさせるために包茎をこきおろし、でも「悪口を言っているのは女性」という体(てい)にしたずるさに、強い怒りをおぼえる。」
同じ4月3日。文春オンラインが、同じ問題意識の記事を掲載した。
「手術失敗を苦にして自殺した14歳少年も…多数派なはずの“仮性包茎”が“恥ずかしい”ものになってしまった理由とは」
https://bunshun.jp/articles/-/44070
「包茎は過去の商品になってしまったな」“常識”を“捏造”して日本を包茎手術大国にした仕掛け人の本音
https://bunshun.jp/articles/-/44071
その記事の中に、「手術の不要性と消費者問題」という小見出しがある。なるほど、これは歴とした消費者問題なのだ。以下はその一節。
「仮性包茎は医学上、病気ではなく、手術の必要性もない。しかし、「そのままでは女性に嫌われる」といった喧伝から、手術に走る男性は後を絶たなかった。こうしたコンプレックス商法はいったい誰の手によって、どのように市場をつくりだしてきたのだろうか。
ここでは、社会学者である澁谷知美氏の著書『日本の包茎 男の体の200年史』(筑摩書房)を引用。コンプレックス商法で包茎手術が一大ブームとなった背景、そして、男性性を手玉に取り、包茎を「商品」にした仕掛け人の言葉を紹介する。」
文春オンラインは、澁谷論文を引いて、包茎手術を「コンプレックス商法」による消費者被害と構成する。大衆消費社会では消費者の需要や、消費者の欲望すらも、企業の操作によって創出される。つまり、本来要らない商品やサービスを売り付けられるのだ。そのようにして、ぼろ儲けする仕掛け人がいる。数々の悪徳商法に共通の構図である。その仕掛け人こそ高須克弥なのだ。
ネットで検索すると、澁谷知美論文を読むことができる。
戦前期日本の医学界で仮性包茎カテゴリーは使われていたか
―1890-1940 年代の実態調査の言説分析―
https://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/10920/1/jinbun140-07.pdf
その中(61ページ)に、下記の記述がある。
「包茎手術をビジネス化し,「金勘定ばかりの“実業家”」(大朏博善,『美容(外科)整形の内幕』医事薬業新報社。1991:149)とも評価される,美容整形外科医の高須克弥がこのような証言をしている。
『僕(高須)が包茎ビジネスをはじめるまでは日本人は包茎に興味がなかった。僕,ドイツに留学してたこともあってユダヤ人の友人が多いんだけど,みんな割礼しているのね。ユダヤ教徒もキリスト教徒も。ってことは,日本人は割礼してないわけだから,日本人口の半分,5千万人が割礼すれば,これはビッグマーケットになると思ってね。雑誌の記事で女のコに「包茎の男って不潔で早くてダサい!」「包茎治さなきゃ,私たちは相手にしないよ!」って言わせて土壌を作ったんですよ。昭和55年当時,手術代金が15万円でね。〔中略〕まるで「義務教育を受けてなければ国民ではない」みたいなね。そういった常識を捏造できたのも幸せだなぁって(笑)』(「鈴木おさむの伝説の男10人目 高須クリニック院長 高須克弥」『週刊プレイボーイ』2007年6月11日:81?82ページ)
包茎を「商品」にした消費者問題の仕掛け人とは、ほかならぬ高須クリニック院長・高須克弥なのだ。この男のこの語り口のなんという下劣さ。これが人の生命と健康を預かる医師の言葉だろうか。
文春オンラインに戻る。高須は、「包茎は過去の商品になってしまったな」と見切りを付けているという。これも、澁谷の引用である。
「2013年は「ひとつの時代の終わり」を感じさせる出来事がふたつ起きた。ひとつは、包茎ビジネスを牽引してきた高須がその終焉を宣言するかのようなツイートをしたことである。「香料、お茶、阿片と儲かる商品は移り変わる。今度は何かな?包茎は過去の商品になってしまったな」と書いている(8)。包茎手術が意図的に作り上げられた「商品」であることを高須は2007年のインタビュー(9)ですでに暴露していたが、その商品も売れなくなっていることを示唆する内容である。」
*(8)https://twitter.com/katsuyatakasu/status/304393036325076992、2020年9月18日アクセス
*(9)『週刊プレイボーイ』2007年6月11日、81?82頁
なるほど、この男の頭の中では、包茎手術は、「香料、お茶、阿片」と並ぶ、「儲かる商品」だったのだ。しかも、その商品需要はこの男が「捏造」したことを得意げに語っているのだ。「今度は何かな?」というのは、医師の職業倫理から出てくる言葉ではない。まことに、「金勘定ばかりの“実業家”」と呼ばれるにふさわしい。これが、「ネトウヨ」として高名な高須の本性なのだ。澁谷知美の学術書が、思わぬ副産物をもたらしている。
(2021年4月3日)
本日の東京新聞第6面に、以下の見出しの記事。
「沖縄戦慰霊碑を『顕彰碑』」「高校教科書 元学徒ら『戦争美化』」「批判受け訂正へ」
見出しをつなげるとこういう意味だ。「ある高校教科書が、沖縄戦犠牲者の慰霊碑を『顕彰碑』と記載した。元学徒らは、この記載を『戦争美化』と批判し、批判受けて教科書の記載は訂正されることになった」
この記事。いくつもの問題を孕んでいる。何よりも、戦没者追悼のありかたが問われている。今に生きる者の戦争に対する評価が、戦没者追悼のあり方を決することになる。ことは、学徒隊の戦没者追悼の問題にとどまらない。維新以後の軍国日本の侵略戦争における戦没者を「英霊」と呼ぶ歴史風土に根底的な問題が横たわっている。
この東京新聞の記事のリードは、共同通信配信記事のようだが、以下のとおり。
文部科学省が検定結果を公表した2022年度の高校教科書のうち明成社(東京)の歴史総合が、沖縄戦の戦没学徒の慰霊碑「一中健児之塔」(那覇市)を「顕彰碑」と表記し、報道機関の指摘を受け「慰霊碑」に訂正申請する考えを示したことが1日、分かった。文科省によると、検定で修正を求める意見は付かなかった。元学徒らは「戦没者を英雄視し、戦争を美化することは許されない」との声明を発表した。
明成社とは、人も知る右翼出版社。日本会議の本を多く出している。教科書としては、「日本人の誇りを伝える最新日本史」を出版している。その編者が、渡部昇一・小堀桂一郎・櫻井よしこ・中西輝政・国武忠彦という、目の眩むような御仁たち。自ら、この本のキャッチを「新教育基本法に最も適った高校用歴史教科書。この教科書は、自虐史観・反日史観にとらわれない初の歴史教科書…」と言っている。
その、同じ明成社の歴史総合教科書の記述が、「▲一中健児の塔 県立第一中学校の戦没学徒の顕彰碑」としている。「顕彰」とは、明らかに戦没者を「褒め称えている」含意をもっ用語。右翼にとっては、「君のため国のために闘って死んだ」ことは、悲惨であるよりは、褒めそやすべき立派な行跡なのだ。
「顕彰」碑という言葉遣いの中に、戦争の肯定的評価がある。「英霊」という言葉が、あの戦争を侵略戦争だと言い切ることをためらわせる効果があるように、である。
東京新聞の記事本文の重要部分を略記する。
元学徒らはその説明文の中で、ひめゆり学徒隊を「ひめゆり部隊」と表記したことも「独立編成で軍隊と一緒に戦った印象を与える」と問題視した。
塔を管理する養秀同窓会によると、明成社から3月末、顕彰碑の表記と写真の無断使用について謝罪の連絡があり、訂正申請する意向を伝えられた。
沖縄戦に動員された沖縄県内21校の出身者らで作る「元全学徒の会」が今月1日、那覇市で記者会見し、共同代表の与座章健さん(92)は、「世の中が戦争を肯定するような方向に動き出していないか非常に心配だ」と危機感を示した。
中学生(旧制)の戦死に対して、一方は悲惨な死と見、他方は国に殉じた称賛すべき死とみる。「元学徒の会」は、徹底して前者の立場に立つことで、後者の立場が台頭しつつある風潮を深刻に嘆いているのだ。
だが、靖国という装置は、まさしく戦死者の美化による戦争肯定の役割を担うものなのだ。そこでは、慰霊という言葉も悪用されている。死者は、万人によって悼まれるべきものであって、死者の霊魂を慰めるという宗教性を一般化してはならない。ましてや、特定の信仰に結びつけて戦死者を「英霊」などに祀り上げてはならない。戦死者を神として崇めることは、その戦争を美化し肯定することにほかならないのだから。
(2021年4月2日)
憲法の全体像をどうイメージし、どんな形のものとして把握し説明するか。それは、憲法の理念をどう捉えるか、各理念の関係をどう捉えるか、つまりは体系としてどう理解するかに関わる。
憲法の全体像をタマゴの形としてイメージすることの有用性について、当ブログに記事にしたことがある。今読み返してみると、それなりに面白い。
https://article9.jp/wordpress/?p=13765
憲法の構造として「卵黄と卵白」をイメージしよう。(2019年11月15日)
この記事は、「(象徴)天皇制」をどう憲法の体系に位置づけるかを意識したものだが、天皇制を論じることは憲法の隅っこの課題でしかない。むしろ、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制問題に関連付けて「憲法の形」を再論してみたい。これは、憲法体系の最重要課題を語ることに通じる。
憲法の基本構造を「3本の柱」で説明したのが、文部省が中学校1年生用社会科の教科書として発行した「新しい憲法のはなし」。この教科書では、「いちばん大事な考えが三っつあります」として、「民主主義」と「国際平和主義」と「主権在民主義」を挙げている。
この憲法体系イメージのミソは、「天皇」という柱を取っ払ったことである。「主権在民」という柱は、天皇主権を否定してそびえている。「民主主義」も「国際平和主義」も、大日本帝国憲法の理念のアンチテーゼとして確立されたもの。当時の「新しい憲法」の解説としては、優れものだったろう。
しかし、この3本柱イメージは、「人権」が欠落している点で、大きな違和感を禁じえない。近代立憲主義の視点からの整理がなされているともいいがたく、そもそも体系性に欠けるのだ。
私の世代は、「国民主権」・「恒久平和」・「基本的人権」の3本の原理を柱として、憲法体系が成り立っているという憲法構造の把握に馴染んできた。この3本柱の構造も、天皇制の旧憲法とは異なる「新憲法の特徴」を取りあげて「重要な柱」として列記したもの。もちろん間違いではないが、各柱それぞれの位置づけや関係性には無頓着で、これも体系的なものとは言いがたい。
私は、憲法の全体系をタマゴの形と把握したい。もう少し正確に言えば、卵の内側の構造。黄身(卵黄)と白身(卵白)の関係のイメージである。大切な黄身(卵黄)を壊さぬように、白身(卵白)が優しく包んで支えているという構造。もちろん、黄身(卵黄)が人権である。その中核に「個人の尊厳」が位置している。白身(卵白)が統治機構である。黄身(卵黄)を支え、黄身(卵黄)を保護するものとしての役割を担っている。
本来的な憲法価値は黄身(卵黄)にある。しかし、白身(卵白)がなければ、黄身(卵黄)は保護されない。だから、白身(卵白)も黄身(卵黄)を守るためのものとして、その限りで価値を認められる。が、それ以上の価値があるわけではない。
黄身(卵黄)は繊細で傷つきやすい。ともすると、黄身(卵黄)を守るべき白身(卵白)によって傷つけられる。白身(卵白)が肥大し、あるいは硬直化して黄身(卵黄)を押し潰す危険が大きいのだ。そこで、白身(卵白)は、黄身(卵黄)を傷つけることのないように自制しなければならず、そのためのいくつものサブシステムをもっている。それが、三権分立であり、民主主義であり、戦力の不保持であり、検閲の禁止であり、学問の自由であり、政教分離であり、教育への不当な支配の禁止であり、司法の独立であり、平和主義であり、租税法定主義…等々である。
この至高の価値としての人権とこれを支える統治機構の関係の比喩は、卵黄と卵白でなくてもよい。ウニと棘皮でも、貝の身と貝殻でも、カンガルーの赤ちゃんと母親の袋でも、ひなと鳥の巣でも、小銭と財布でも、果実のタネと果肉でも、あるいは電力と送電線でも、コンテンツと通信手段でも、なんでもよいのだ。が、大切に黄身(卵黄)を抱く白身(卵白)のイメージがふさわしいように思われる。
国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制に関する問題を意識して、もう一つ「リンゴ箱・憲法」論を提案したい。かつて、リンゴは木製の木箱で運搬された。木箱には、リンゴを保護するための籾殻が詰められていた。このリンゴと籾殻をイメージしていただきたい。リンゴが人権である。その芯として、個人の尊厳がある。これを傷付けてはならないとして、統治機構としての籾殻がリンゴを支えているのだ。
統治機構の総体が国家にほかならない。国家は、個人の尊厳を擁護するための籾殻として重要な存在ではあるが、それ以上のものではない。国旗・国歌(日の丸・君が代)とは、国家の象徴である。「国旗(日の丸)に向かって正対し、国歌(君が代)を斉唱せよ」と命じるのは、籾殻がその分を弁えずにリンゴに向かって、「汝リンゴよ、籾殻たる我に敬意を表明せよ」と言っている滑稽な構図なのだ。そもそも、籾殻の役割はリンゴの保護にある。リンゴにエラそうなことを言う資格はないし、リンゴを傷付けるなどもってのほかなのである。
(2021年4月1日)
年度替わりの本日(4月1日)は、当ブログの連載開始記念日である。「憲法記念日」ではなく、「憲法日記・記念日」。「日本国憲法の理念をこよなく愛する憲法日記の連載開始を祝うべき日」である。人権と民主主義と、そして恒久平和の発展を期するべき日でもある。
当ブログは、第2次安倍政権の発足に刺激されて誕生した。思い起こせば、2012年12月16日の第46回総選挙。この選挙で自民党は第一党に返り咲き、総裁安倍晋三は、12月26日に第2次安倍内閣を組閣した。当時、これはたいへんなことになったと思った。
安倍晋三こそは、典型的な歴史修正主義派政治家であり、軍事大国化路線の主犯である。戦後民主主義を否定し戦前日本への復古を目指す、改憲派とも靖国派とも呼ばれる勢力の頭目として、日本国憲法の天敵である。安倍には教育基本法改悪の前科がある。「こんな男に負けるわけにはいかない」「憲法の視点からの批判が不可欠である」。そう思って書き始めたのが、「澤藤統一郎の憲法日記」なのだ。
少なくとも、「アベが政権を去るその日までは、憲法擁護のブログを書き続けよう」と連載を開始したのが、2013年1月1日。そのときには、日民協ホームページの軒先を借り受けてのこと。直後に窮屈な間借り生活から飛び出て、自前の独立した本ブログを立ち上げた。多少の助走期間を経て同年4月1日を第1回として、今日の形での連載を始めた。以来、満8年。2923回の毎日連載となって、今日を迎えている。
昨年の「憲法日記・記念日」には、その安倍晋三がまだ総理の座にいた。その政権の私物化、ウソとゴマカシの政治を国民から強く批判されながらもである。その安倍は、何度も繰り返し「憲法改正を実行する」と言いながら、その端緒もつかめないままに、政権の座を下りた。
しかし、安倍後継の首相となった菅義偉も、実は安倍晋三と大同小異。同じ穴のムジナである。まだ、筆を擱くわけには行かない。もう少し、連載を続けざるを得ない。
当ブログのモットーは「当たり障りのあることだけを書く」ということ。当たり障りのないことなら書く意味がない。権力をもつ者、権勢を誇る者、富貴を貪る者、出自をひけらかす者、そして多勢を恃む者らの耳に痛いことでなければ語るにも書くにも値しない。
そのような心意気で、もうしばらく当ブログの連載を続けたい。願わくば、政権が改憲を断念するその日まで。そして、ブログの字数を縮めて、読み易くしよう。できるだけ…。