安倍首相の伊勢神宮式年遷宮行事参列に異議あり
江戸時代には士農工商の身分制度があった。各身分内に更に細かな身分差が存在したし、四民の外に差別された身分もあった。明治維新での四民平等はタテマエで、士族や華族という新たな身分制度が拵えあげられた。もちろん、身分による差別が支配の道具として有効だったからだ。ようやくにして、20世紀半ばに現行憲法が成立して、人は平等(14条)となった。しかし、今もなお天皇や皇族などという身分制度の残りかすを払拭し切れていない。旧制度の残りかすが、もっともらしく永らえているのは、やはり統治の道具として、また現行秩序維持の装置としていまだに役に立っているからである。この点、江戸、明治期とさしたる違いはない。
今日なお、人に生まれながらの貴賤の別があると思い込んでいる者がいるとしたら、愚かの極みである。自らの血筋や家柄を誇る人物は、軽蔑すべき輩でしかない。問題は、この差別の残りかすを撤廃する方向に向かうのか、温存ないしは助長するのか、である。
旧憲法の時代、「天皇は神聖にして侵すべからず」(3条)とされた。憲法の起草者が、天皇を神聖なものとする演出が国民統合に有益で、彼らが望んだあるべき秩序の維持に有益と考えてのことである。この条文に則って、理性ある国民なら滑稽と吹き出さざるをえない噴飯もののクサイ演技が重ねられた。それだけではなく、天皇の神聖性を疑い攻撃するものには、仮借ない弾圧が加えられた。
天皇の尊貴は、人間の序列を形づくるためのものであった。その対極に差別された身分の存在を必然化した。しかし、それだけではない。身分制度一般が人を差別し序列化することによる統治の装置であったが、近代天皇制はさらに天皇を神と位置づけ、その架空の権威によって効率的な統治を行おうと意図するものであった。古代エジプトや古代中国と同様の、究極の身分制度といってよい。
その天皇の神聖性や権威は、記紀神話における伝承の神の付与に由来するものとされた。近代天皇制の演出者は、神々の序列までを拵えあげ、トップの神に由来するものとして天皇を権威づけた。時代によって異なるが、全国9万?11万といわれる神社は、政府によって社格を与えられて階層区分され、各社格の中でも序列を付けられた。数多の神社の中で、本宗とされた格付けナンバー1の神社が、天照大神を祭神とする伊勢神宮である。もちろん、天皇の祖先神を祀る神社であるが故の最高序列。神々の格付けにおいて伊勢神宮を最高の神社とし、最高格付神社祭神の末裔である天皇の権威を人の序列において最高の格付けとし、神聖性を裏付ける道具としたということなのだ。
その伊勢神宮の式年遷宮「遷御の儀」が、今日(10月2日)行われるという。安倍晋三はこの宗教行事に参列するため、本日同神宮を訪れた。訪れてどのようなことをしたのか、まだ報道はない。だが、菅義偉官房長官は本日午後の記者会見で、「私人としての参列だと承知している。国の宗教的活動を禁じる政教分離の原則にも反するものではない」と説明した。
かくも安易に済まされることではない。「私人としての参列」とすれば、公務員としての仕事は放棄してのことなのか。多忙な首相が、私人としてわざわざ伊勢まで行って「私的に参列しなければならない」とは、この人以前からそれほど熱烈な神道信仰者であったということなのだろうか。
憲法20条の政教分離規定は、現行憲法に天皇制という旧憲法の遺物を残存させるについて、憲法全体の理念と可及的に矛盾させないよう、徹底的に無害化する必要あっての制度である。天皇は旧憲法下において、統治権の総覧者であり、統帥権の主体としての大元帥であり、神なる神聖な存在とされた。現行日本国憲法においては、天皇は主権を失って「国政に関する権能を有しない」(4条)とされ、憲法9条によって統帥権を失ったが、それだけでは不十分なのだ。再び神としての地位に戻してはならない保証が必要とされた。それが、政教分離規定(憲法20条3項)である。
だから、政教分離の「政」とは政治権力あるいは権力を担う人のことであり、「教」とは、天皇を神とした神社ないし神道のことと読まねばならない。「教」の軍国主義的側面を象徴するのが靖国神社であるが、「教」において天皇の神聖性付与に最も重要な意味をもつのは、伊勢神宮である。「政」と「教」の分離は、首相と靖国だけではなく、首相と伊勢神宮においても、最も厳格にしなければならない。「政」のトップに位置する首相が、「教」のトップに位置する伊勢神宮の最大の宗教儀式への参列を、軽々に「私的な参列」として見過ごすことは出来ない。
もちろん、安倍晋三個人も人権の主体であって、私的な信仰の自由は保障される。しかし、その個人の信仰行為も、客観的に公的な資格をもってする参拝となれば、憲法の政教分離規定によって禁じられる。その意味では、私的な信仰の自由は、その信仰行為表現の次元では制約されざるをえない。
首相としての地位にある者において、純粋に私人としての宗教行事参加を認められることは極めて困難なこと。おそらくは、人に知られることなく、お忍びでの参拝という以外にはなかろう。
これまで、公人性排除のメルクマールとされたのは、三木武夫内閣の靖国神社私的参拝4要件が公式のものである。「公用車不使用」、「玉串料を私費で支出」、「肩書きを付けない」、「公職者を随行させない」というものである。
安倍が、東京伊勢間の交通に公用車をまったく使用せず航空運賃や新幹線費用を私費で支払い、玉串料・真榊料その他の宗教的意味合いのある金銭支出を一切私費で行い、肩書きを附した記帳をせず、公職者の随行員を一切付けない、ということに徹して初めて私的参列であり得る。なお、私は個人的に、もう3要件が必要だと考えている。「公職に就く以前において、当該宗教行事あるいは同等とみなされる宗教行事に複数回参加していること」「当該宗教行事への参加をメディアに漏らさないこと」「宗教行事への参加時間は通常人の勤務時間を外してすること」である。
要は、首相と天皇制との結びつきの切断の維持という憲法の要請を損なうことなく、安倍晋三の個人としての信仰の自由にも配慮する方法の選択である。「個人としての信仰の自由」を口実にしさえすれば、靖国神社参拝も、伊勢神宮式年遷宮行事参加も自由に出来るとさせてはならない。
天皇を神聖なものとし現人神とした時代において、国家神道が国民をマインドコントロールしていたその反省に立っての政教分離条項の厳格な解釈でなくてはならない。天皇制を支えこれを権威づけた宗教施設に、権力を担う者との接触を安易に認めてはならない。そもそも、天皇という身分制度の遺物を、いささかも権威付け助長させてはならないのだ。
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「シリアと大久野島の化学兵器」
国連安保理でシリアの化学兵器全廃決議が採択されて、少しだけほっとした。しかし、これからも気が抜けない困難が待ち受けている。交渉の相手方であるアサド大統領は、とうてい信頼できる相手ではない。「19カ所の化学兵器保管場所のうち7カ所が反体制派の占拠している場所にある」とアサド政権のムアレム外相はいっている。もしそれを信じれば、ますます化学兵器の量、種類、保管場所も闇の中ではないか。化学兵器禁止機関(OPCW)の査察官の身の安全や行動の自由の保障も危うい。世界一治安の悪いシリアで、「14年前半まで」と切られた期限に廃棄が完了するとはとうてい思えない。
化学兵器の処理の責任はアサド政権にあるわけだが、推定1000トンの処理費用は数千億円にものぼるという。後始末を任せておいてもらちが明くはずはない。OPCWは不足する資金、人材を加盟国に求めるといっている。廃棄作業の実績のあるのはアメリカ、ロシア、日本、中国、リビアだけである。日本は現在、中国で第二次大戦中に遺棄してきた化学兵器の処理をしている最中で、日本の移動式化学兵器処理施設の提供を期待されているようだ。自衛隊が出ていく必要はない。現在、民間機関が廃棄処理を行っているのだから、平和国家としての軍縮活動の一貫として協力すべきだろう。
日本軍が中国に遺棄した毒ガス兵器は、瀬戸内海の大久野島(広島県)の「陸軍造兵廠火工廠・忠海(ただのうみ)兵器製造所」(1929?1945年8月)でつくられた。この工場では、近隣の農民、漁民、勤労学生など6500人が働いた。技能者養成所がもうけられ、高等小学校を卒業した、貧しくて進学できないけれど向学心の強い、14,5歳の子どもたちが集められた。
「先生から『大久野島で子どもを養成する制度ができた、はいらんか』と言われたんです。給料をもらいながら勉強できる、というでしょう。私は中学へ進学することはできない状況だったので、その条件は輝かしいものでした。しかも、3年の学習期間がすめば基幹工員にもなれる。努力次第で出世の道も開かれていくということに、すごく夢を持った。これは社会への登竜門なんだと思いました。」「初日に全員が『誓約書』の提出を求められました。誓約書の内容のなかに『大久野島は軍の秘密に属する島であるから、秘密は一切もらさない』という一項がありました。島での仕事の内容は決して、親兄弟にも言ってはならないと言われました。自分たち養成工は軍属ですから、もし秘密をもらすようなことがあれば軍法会議にかけられる、と」
少年たちは毒ガスの被害の一端を垣間見て、実体験するようになるにつれて、徐々に自分たちが作るものが何であるか気づいていく。「こんなことだと知っていたら、来るのではなかった。入所をすすめてくれた先生に相談したい、先生に手紙を書こうかと思ったけれど、『何も言わない』という誓約書を交わしとるでしょう。その約束を破ったら軍法会議ということだから、誰にも相談することができない。」(「戦争で死ぬ、ということ」島本慈子著 岩波新書)
1925年のジュネーブ議定書で化学兵器の使用は禁止されていた。日本はこの条約を批准していなかったとはいえ、国際社会に秘密にしなければという後ろ暗さはあった。くしゃみ・嘔吐性ガスは「あか1号」、催涙性ガスは「みどり1号」、びらん性ガスは「きい1号」、「きい2号」、青酸ガスは「ちゃ1号」と名付けられた。第二次大戦終戦まで、総量6616トンの毒ガスがつくられ、中国戦線に送られ使用された。そして敗戦。大久野島には3000トン以上のイペリット、青酸ガスなどが残された。「毒ガスをつくっていたお前たちは戦犯になる」と脅かされ、ガスや装置は証拠隠滅のため、海へ捨てさせられた。「しばらくすると、魚が腹を見せて浮かんできた。メバル、大きなチヌ(クロダイ)、そして小さい魚たち」
戦争の罪の深さを思う。大久野島で製造された毒ガス兵器の犠牲者たちの悲惨。そして、心ならずも加害者として兵器作りに従事した子どもたちの良心の呵責。現在、シリアにも化学兵器を作らされた子どもたちがいるのだろうか。大久野島同様、証拠隠滅があちこちで計られているのだろうか。
第一級の戦犯であるアサド大統領が何も罰せられないまま、政権に着き続けることは許されない。そして、化学兵器だけではなく、地雷や劣化ウラン弾、核兵器も製造してはならない。いや通常兵器と言えども、人を殺傷する道具として、製造したり、使用したり、輸出したりしていいはずはない。アサドも、アサドに原材料や技術や武器を輸出した国も罰せられなければならない。
(2013年10月2日)