澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

園遊会こそが天皇の政治的利用ではないか

本日(10月31日)山本太郎参院議員が、赤坂御苑で開かれた秋の園遊会で、天皇に文書を手渡したとのこと。報道では「手紙」を渡した、とされている。山本自身が記者会見で明らかにしているところでは、文書の内容は「原発事故での子どもたちの被曝や事故収束作業員の劣悪な労働環境の現状を記したもの」だという。

田中正造の直訴事件を思い起こさせる。予てから、足尾銅山の鉱毒問題に取り組んでいた田中は、被害農民の「押し出し」に対する警察の弾圧に憤激し、1901年12月天皇に直訴を敢行する。名文家として知られた幸徳秋水に案文の起草を依頼して直訴状を作成。これを懐に日比谷で天皇の馬車を待ち伏せ渡そうとするが、警備の警官に取り押さえられて失敗する。

直訴には失敗したが、この事件は天下の耳目を集めた大騒ぎとなって、直訴状の内容は広く市民に知れ渡ることとなった。田中の直訴の意図如何に関わらず、「直訴事件」の結果として足尾鉱毒問題への政府の対応を批判する世論喚起には絶大なものがあった。その意味で田中のパフォーマンスは大成功だった。

山本太郎の今回の行為は、田中正造のパフォーマンス成功に学んでのものであろう。おそらく彼の心中に、天皇の神聖性も権威もない。「手紙」を読んだ天皇が何ごとかをなす政治力があると考えているはずもない。とにもかくにも、天下の耳目を集めること、とりわけテレビの画像に映ることと、その後の記者会見で自分の見解を語る機会を得ることが意図するところであったろう。

そこまでは彼の意図は成功した。しかし、その先にあるはずの彼の見解への世論の支持を獲得できるかはまた別の問題。田中の成功は、限られたその時代状況の中でのもの。その後100年余を経た今、山本が同じ効果を狙ってのパフォーマンスが世論の支持を得ることは難しかろう。このパフォーマンスによって、原発事故による被害自体や被害の対処に関しての山本の問題提起を社会が肯定的に受けとめてくれるか、おそらくは否ではないか。

山本の行為に対して、天皇の政治利用という観点からの批判が予想される。まさか、「神聖であるべき天皇に手紙を渡すなんて怪しからん」「天皇から声をかけられるのを待つべきなのに、庶民の分際で自分から話しかけるとはもってのほか」などと言える時代ではない。せいぜいが、「本来政治的に無色であるべき天皇に特定の意見を披瀝し」「自分の意見を世に広めるために天皇との接触の機会を利用した」ことを天皇の政治利用ということになろう。そのことをまったく否定はできず、褒むべきこととは言わない。しかし、たいへんに怪しからんことをしたとも思わない。

そもそも、園遊会とは何であろうか。「各界で活躍する人々を招待して春秋に行われる園遊会も、天皇家のパーティではなく、公的行事として位置づけられ、公的支出である宮廷費でまかなわれている」(横田耕一「憲法と天皇制」)というしろもの。憲法に規定のない講学上の「天皇の公的行為」の典型なのだ。憲法上天皇の行いうる行為は「憲法の定める国事に関する行為のみ」に限られている(4条1項)。「公的行為」について合憲説もあるが違憲説も有力である。

天皇の園遊会主催は「国事行為」ではない。端的に言って、国民への人気取りのパフォーマンスであり、内閣による天皇の政治利用である。天皇・内閣の側の「天皇の政治利用」に比較すれば、山本の行為は批判するほどのものとは考えがたい。

園遊会に呼ばれてのこのこ出掛ける見識は問われようが、呼んだのは天皇の側、呼ばれた山本は客の立ち場である。客である山本が天皇に話しかけても、会話は長くなるから文書を読んでくれと言っても、格別に無礼な行為でも、非常識でもあるまい。所詮は、天皇の人気取りパフォーマンスに参加のチャンスをとらえての新進議員の個人的パフォーマンス。大事件と騒ぐほどのことではない。100年前の統治権の総覧者であり神であった天皇への直訴とは、そのインパクトにおいて格段の差がある。

園遊会とは、違憲の疑いが濃い、少なくとも憲法が想定していない、天皇利用の国民の人気取りイベントである。このイベントが内閣の思惑どおりに進行しなかったとして、不快感を露わにしているのが現状。マスコミも、市民も、内閣の尻馬に乗って、山本批判をすべきではなかろう。それは、天皇神聖化や天皇の権威拡大につながる。

しかし、山本議員には、申し上げておきたい。国会議員たるもの、国民に語りかけるべきが本来の在り方ではないか。天皇に語りかける発想は、民衆の側に立とうとする議員のものではない。心ある議員は、天皇に呼ばれてホイホイと園遊会などには出向かないものだ。天皇が出てくる国会の開会式にも出席すべきではなかろう。天皇から「親授」される勲章などはもらってはならない。憲法を厳格に遵守する姿勢とは、象徴としての天皇を否定はしないが、その一切の政治利用を厳格に拒否するものである。天皇の神聖性や権威の拡大に手を貸すことをしてはならない。
(2013年10月31日)

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Published in 木曜日, 10月 31st, 2013, at 23:53, and filed under 未分類.

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