澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

赤穂浪士討ち入りと福沢諭吉

1702(元禄15)年12月14日深夜、元赤穂藩士47名が本所松坂町吉良邸を武装襲撃し、高家筆頭吉良上野介義央と警護者16人を惨殺した。負傷者は23名とされている。

この徒党を組んでの大量殺傷事件に対して、切腹の刑が内示されたのは翌年2月3日。翌4日に、犯罪者らが預けられていた細川(熊本)・松平(伊予松山)・毛利(長門長府)・水野(三河岡崎)の各藩邸で、46人の切腹実施となった(1人足りないのは、寺坂吉右衛門が討ち入りの顛末を各方面に報告の任務を帯びて逃げ延びたため)。

前年3月14日赤穂藩主浅野内匠頭長矩が殿中松の廊下で吉良に斬りつけた殺人未遂事件への裁断が「即日の切腹」だったことに比較して、科刑の判断が年を越して、事件から50日後と大きく遅れたのは、助命嘆願の運動が大きかったことと、江戸市民の世論動向に幕府も神経質になって迷いがあったからである。将軍綱吉自身が迷いを見せていたことが記録(「徳川実紀」)に残っているという。

47人の行為は、明らかな集団犯罪。しかも、幕府の秩序に対するあからさまな擾乱行為として、取り締まり当局としては到底看過し得ない。一方、支配階級である武士のイデオロギーにおいては、「忠」こそ最高道徳。死を覚悟して主君の仇を討った「義士」の刑死は封建道徳への侮蔑ともとらえられかねない。

秩序維持のための処罰要請と、封建道徳称揚のための助命の要請との矛盾をどう解決すべきか。

構成要件該当性は明確だが武士の徳目の追求という高次の正義実現という行為の目的によって違法性が阻却されて無罪とはできないか。あるいは、有罪はやむを得ないとしても、恩赦はあり得ないか。との考慮の期間として1か月余を要した。理屈もさることながら、おそらくは各方面の意見分布や処分に対するリアクションを探っていたということなのだろう。

結論は、「義士と賞しつつの処罰」。名誉刑としての「切腹申しつけ」を科することで、法治主義の要請と封建道徳(武士道)称揚の要請を不十分ながら折衷させた。荻生徂徠の建言によるところが大きかったとも伝えられている。さらに、被害者側にも知行地没収という制裁が科せられている。明らかな市民感情への配慮であったろう。

この問題は、「秩序優先か道徳優先か」と問題を整理することもできるし、「武士階級社会の道徳において、幕府への忠誠と藩主への忠誠といずれが優先するか」とも、「法治主義において復讐が容認しうるか」とも考えられる。幕政と言えども、法は整備されていた。いかに世人からの喝采があつたにせよ、陰惨な復讐劇が許容される余地はない。にもかかわらず、浪士らの襲撃行為を「義挙」とする江戸市民の「市民感情」が存在した。幕政への批判の空気の反映と見るべきだろうが、「犯罪」か「義挙」か幕政も迷った難しさがあった。

現代人の眼からは、奇妙奇天烈な「事件」と言わざるを得ない。播州赤穂の地に、正社員300人余。非正規や系列を含めば、おそらく3000人規模を誇る地元随一の大企業が社長の不祥事で一夜にして倒産したという、大量の雇用喪失事件だ。責任は、明らかに雇主の側にある。

失業社員の怒りが、思慮のない軽率な社長に向かわず、社長とのトラブルで斬りつけられ負傷した被害者側に向けられた。「君が君たらずとも、臣は臣たれ」という、支配者に好都合な特殊な道徳観念が社会に蔓延していた。これが、浪士らの犯罪に対する処罰の判断を難しいものとさせていたのだ。

このことに関して、「福翁自伝」の一節を思い出す。緒方洪庵塾の熟生時代の叙述として次のくだりがある。
「例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果して義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルト私は『どちらでも宜しい、義不義、口の先で自由自在、君が義士と言えば僕は不義士にする、君が不義士と言えば僕は義士にして見せよう、サア来い、幾度来ても苦しくない』と言って、敵になり味方になり、さんざん論じて勝ったり負けたりするのが面白いというくらいな、毒のない議論は毎度大声でやっていたが、本当に顔を赧らめて如何(どう)あっても是非を分ってしまわなければならぬという実の入った議論をしたことは決してない。」

ずいぶんと昔にこの文章に接して、福沢諭吉という人物のイメージを固めてしまった。これが彼の本性なのだと、今でも思い込んでいる。彼にとっては、諸事万端が「本当に顔を赧らめてどうあっても是非を分ってしまわなければならぬという実の入った議論」の対象ではないのだ。「どちらでも宜しい、義不義、口の先で自由自在、君が義士と言えば僕は不義士にする、君が不義士と言えば僕は義士にして見せよう、サア来い。さんざん論じて勝ったり負けたりするのが面白い」というくらいな議論でしかないのだ。

こういう人の言っていることは怪しい。言ってることは本音ではない。ホンネは計り知れない。ホンネが分からないから、言っていることに信が措けない。そう思って以来、諭吉の言っていることすべてが、信用できないつまらない義論ではないか。

そんな議論のひとつとして、彼は、脱亜入欧を説き、中国・朝鮮の人民に対する差別意識を露骨に語ったのだ。彼こそは、ヘイトスピーチの元祖であり、本家でもある。

意見とは、「どちらでも宜しい、義不義、口の先で自由自在」であってはならない。迷うことは当然。そのときは真摯に「ここまで考えているが、その先は分からない」というべきだ。「口の先で自由自在」に、浪士討ち入りからヘイトスピーチまで論じられたのでは、不愉快千万。
(2013年12月14日)

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Published in 土曜日, 12月 14th, 2013, at 23:44, and filed under 未分類.

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