「NO WAR IN UKRAINE」「NO WAR IN THE WORLD」「FUNDAMENTAL RIGHT IN CHINA」
(2022年2月14日)
北京オリンピックで大きく印象に残るものといえば、中国当局の強権的姿勢、それに対する各国の宥和的態度、不公正な審判、ドーピング等々、白けることばかり。人権を無視したこの国でのこんなオリンピック、どこにやる意味があるのか。何ともつまらぬと思っているところに、たった一つだけ興味のある「事件」が生じた。
2月11日のスケルトン男子に出場したウラジスラフ・ヘラスケビッチ(ウクライナ)が3回戦のレース後、「NO WAR IN UKRAINE(ウクライナに戦争はいらない)」と英語で書いたプラスターをテレビカメラに向けた。ロイター通信などによると、2度目の五輪となる23歳のヘラスケビッチは「私は戦争を望んでいない。母国と世界の平和を願っている。それが私の立場だ」と訴えたという。
言うまでもなく、ウクライナはロシア軍による軍事侵攻の危険に曝されており、米国のサリバン大統領補佐官は、「五輪期間中にもロシア軍による侵攻が始まる可能性がある」と表明している。その危機のさなかでの、「NO WAR IN UKRAINE」である。インパクトは大きい。
五輪憲章第50条は、「政治、宗教、人種的な意思表示」を禁じている。が、昨夏の東京五輪では、試合前や選手紹介中などであれば、節度ある範囲での行為は容認する方針に変わったとされる。東京五輪では、サッカー女子の試合開始前に人種差別に抗議するために片ひざをつく所作(ニーダウン)が見られた。
ヘラスケビッチのこの日の行動について、「IOCは『選手とこの件について話し合った。一般的な平和への願いなので、この件は決着した』としている」(朝日)。あるいは、「『平和を求める一般的な呼びかけだ』として、処分の対象にはならないという見解を示したということです」(NHK)と報じられている。
平和を求めることを「政治的意思表示」というだろうか。さすがにIOCも『平和を求める一般的な呼びかけ』を「政治的意思表示」として禁止するとは言えなかった。その意味するところは大きい。
「NO WAR IN UKRAINE」が許されるのだから、「NO WAR IN THE WORLD」が許されないはずはない。平和を求める一般的な呼びかけだけでなく、自由や人権や人種間の平等という普遍的な価値を求める一般的な呼びかけが、許されないはずはない。
オリンピックは世界から切り離された特殊な空間ではない。ここでも、人間の尊厳が確保され、人権が尊重され、差別が禁止され、そして表現の自由が保障されてしかるべきではないか。
とすれば、「世界に基本的人権を」「中国に表現の自由を」「新疆ウイグル自治区になきなき民族間の平等を」などというスローガンの意思表示が禁止されてはならない。