都知事選の供託金は高額か
先日、東京都選挙管理委員会の事務局で、まったく偶然に、とある都知事選立候補予定者と言葉を交わす機会があった。前回都知事選にも立候補されたとのことだったが、失礼ながら当方はまったくそのお名前を存じ上げない。供託金は確実に没収されるだろうにまたなぜと、興味津々で余計なことを口ばしった。
「供託金300万円はご負担ではありませんか」
その方は、やや訝しげな表情で、「いいえ。少しも高いとは思いません」「私には訴えたい政策がありますから。むしろそのチャンス」ときっぱりした態度。続けて、「私は、どうしても三つのことを都民に訴えたいのです」と短く政策を語った。何度となく繰り返しているのだろうと思われる滑らかな口調。物腰も柔らかだった。「私は一介の労働者ですが」という言はあったが、300万円の供託金が高額に過ぎるとも負担とも本心思ってもないという態度だった。いま、我が家に配布された選挙公報に、細かい字でびっしりとその方の政策が掲載されている。おそらくは、懸命に、その方なりの選挙運動に邁進しておられるのだろう。
また、私の知人の弁護士が立候補しており、いかにも彼らしい断固たる政策を掲げている。「1000万人の怒りで安倍を倒そう」「改憲・戦争・人権侵害を許さない」「戦争させない」「被曝させない」「貧困・過労死許さない」そして、「だからオリンピックはやらない」など。口当たりのよい当選のためのスローガンではなく、自らの固い信念の披瀝。その彼から選挙葉書が届いた。彼も、都知事選を自分の信念や政策を広く世に問う場として、精いっぱい活用している。彼にも、供託金が高額という思いはないだろう。
ところで、私が「立候補をおやめなさい」といさめた、別の知人の弁護士も立候補している。この人は、「日本の選挙における供託金は高額に過ぎる」「財産による差別ではないか」と繰り返している。この種の議論はよく聞くところだが、私は当たらないと思う。とりわけ、都知事選の供託金300万円は廉い。現実にバラエテイに富む候補者が多数立候補している。この程度の額の供託金が立候補のハードルになっているとは思えない。
私のブログを読んだ旧友が、わざわざ手紙をくれた。
「供託金は、自分の家を抵当に入れてでも自分で作らなければならない。金が作れないなら、立候補はあきらめるべきだ。なんとなく人に勧められたから、人がお膳立てをしてくれたから立候補するという感じがする。そんな根性では当選しても良い仕事ができるわけがない」
なるほど、そういう見方もある。
確かに、諸外国の制度と比較して日本の供託金は高額である。しかし、日本の選挙公営の制度は極めて充実している。選挙公営は、経済的に恵まれない候補者にも最低限の言論による選挙運動手段を保障する「民主主義のコスト」である。選挙公営による負担額は、供託金額をはるかに上回っている。このことを抜きにして、日本の供託金は高額と言うべきではなかろう。選挙制度をどう作るかについて、著しく不合理で国会の裁量の範囲を逸脱しているとは到底考えがたい。
前々回(2011年4月)都知事選は立候補者11人で経費は42億円かかった。前回(2012年12月)は9人で38億円。今回都知事選実施の総費用は50億円と報じられている。単純に16人の候補者数で割れば一人当たり3億円。300万円はその100分の1に過ぎない。微々たるものであるといって差し支えなかろう。
東京都選挙管理委員会による選挙公営の趣旨と内容の解説は、以下のとおりである。
「選挙公営制度は、選挙運動の公正を確保するため、候補者間の機会均等を保障するとともに、選挙人の政治参加を保障する趣旨で設けられている。現在、都選挙管理委員会が管理執行している選挙公営は、概ね次のとおりである。
(1) 通常葉書の交付
(2) ポスター掲示場の設置
(3) 新聞広告の掲載
(4) 政見放送
(5) 経歴放送
(6) 個人演説会の施設公営
(7) 選挙公報の発行
(8) 投票所内の氏名等掲示
(9) 特殊乗車券の交付
(10) 選挙運動費用の公費負担」
上記の(1)?(9)までは、全候補者に平等に提供される。(10)のみが、供託金没収されない法定得票(有効投票の10%)を得た者だけが受益者となる。
その具体的な内容は、以下のとおりなかなかのものである。
(1) 通常葉書の交付
1候補者当たり95,000枚(50円×95000枚=475万円相当)
(2) ポスター掲示場の設置
あのポスター掲示板は、全都で1万4132台ある。候補者は、ここにポスター掲示による宣伝の権利を得る。
(3) 新聞広告の掲載
新聞広告は、各候補者が選挙期間中4回の無料掲載をしてもらえる。
(4) 政見放送
テレビはNHK2回、民放3回。無料で放送できる。
ラジオはNHK2回、民放1回。無料で放送できる。
(5) 経歴放送
テレビはNHK1回。ラジオはNHKと民放と併せて5回。無料。
(6) 個人演説会の施設公営
公営施設を利用して個人演説会を開催する場合、候補者一人につき、同一施設ごとに1回に限り無料。
(7) 選挙公報の発行
発行部数は700万部。立候補者の政見を全所帯に配達してくれる。
(8) 投票所内の氏名等掲示
各選管の義務となっている。
(9) 特殊乗車券の交付
関係区域内でJR等の無料特殊乗車券15枚支給
(10) 選挙運動費用の公費負担(一定額まで)
*選挙運動用自動車の使用
*選挙運動用ビラの作成
*ポスターの作成
至れり尽せりではないか。これで300万円は高かろうはずがない。選挙葉書の発送費用を負担してもらうだけで、おつりが来る。訴えるべき政策のある人なら、都知事選に出馬して、堂々と都民に自説を披瀝しようという気持ちになろうというもの。少なくとも、300万円が高額に過ぎて立候補を妨げるハードルとなっているということには無理があろう。
なお、公職選挙法には選挙に関する争訟についての定めがある。「供託金が高額に過ぎて立候補の権利の障害となっているのは憲法違反」、「財産による差別」という選挙無効訴訟は、選管を被告としてくり返し起こされている。
東京都選挙管理委員会でも近時の例として次のものが報告されている。
2010年7月11日執行の参議院議員選挙(東京都選出)についての「選挙無効訴訟」。
「公職選挙法の定めによって、立候補に際し供託金を納めさせ、その金銭を得票数や当選人数に応じて没収する規定は財産と収入による差別にあたり、憲法に違反しているので無効である。この規定に基づいて行われた参議院議員東京都選挙区の選挙は無効である」との訴えが2010年7月21日東京高裁に提訴され、同年10月28日東京高裁判決(原告の請求棄却)、2011年11月8日最高裁上告棄却(判決確定)。
2011年4月24日執行の豊島区長選挙・豊島区議会議員選挙の「選挙無効訴訟」。
「選挙供託制度は財産により、選挙権や被選挙権を差別するもので憲法に違反しているので無効である」との訴えについて、同年9月5日東京高裁に提訴。同年12月14日請求棄却判決。2012年4月27日上告受理申立て不受理決定により確定。
国権の最高機関であり唯一の立法機関である国会は、最も民意に近い機関としての権威に基づいて立法裁量の権利をもっている。その裁量の範囲を逸脱して初めて、司法の出番となって違憲審査の対象となる。選挙の制度設計についても、この事情は変わらない。
供託金制度の存在理由は、かつては無産政党の進出防止にあったであろうが、今はそのようには言えまい。「売名目的の立候補乱立防止」についても、それだけでは供託金額の妥当性ははかりようがない。制度設計としては、「公営選挙のない供託金額の減額」か「公営選挙を伴う供託金額の維持」かの選択にあるのだろうと思う。少なくとも、都知事選における300万円の供託金の金額は、立候補者に与えられる公営選挙のメリットに鑑みるとき、これが国会の裁量の範囲を逸脱して、不当に被選挙権の行使を妨げているものとは言えない。すくなくとも、国会の立法裁量を逸脱するということには大きな無理があると言わざるをえない。
(2014年2月3日)