澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

新知事の就任で都教委は変わるだろうか

悪名高い都教委の10・23通達。その通達に基づいた、教員への「日の丸・君が代」強制はまだ終わりを見ない。既に処分件数は457件だが、まだまだ続きそう。そして、この強権行政に対する闘いも終わらない。

本日は、東京都人事委員会での口頭公開審理。2010年?12年に処分されて人事委員会に審査請求している教員のうち8人が意見陳述を行った。それぞれが極めて個性豊かに、「日の丸・君が代」の強制に服することができない理由を語った。教育者としての信念や真摯さが、痛いほどに伝わってくる。とりわけ、障がい児教育、定時制あるいは「荒れた」生徒に向かいあう教師たちの陳述が胸を打つ。

また、異口同音に語られたのは、10・23通達後10年の教育の荒廃である。校長も教員も、教育を語らなくなった。ただただ、上命下服の行政だけが語られている。卒業式の主人公は生徒ではなくなった。その座は「日の丸・君が代」が象徴する国家に取って代わられている。都教委の監視下に、管理職はなによりも「日の丸・君が代」強制の貫徹を最重要の課題としている。不服従の教員には、徹底した嫌がらせが行われる。「もはや都教委が行政としての正常な感覚を失い、民間でいうところの『ブラック企業』に身を落としている」とまで言われた。

そして幾人もが、改憲と教育破壊を志向する、安倍政権の動向を憂れえた。「再び教え子を戦争に送ってはならない。それが自分の教員としての出発点だった。今こそ、初心に返って、子どもの将来を守るために、この危険な動向と対峙しなければならない」と決意が語られた。みんなが、他の人では語れない自分の言葉で語った。

さらに、教育行政による教育への露骨な支配・介入が語られた。ある教員の陳述書には、「話し合おうとしない人たちへ」というタイトルが付されていた。「話し合おうとしない人たち」とは東京都教育委員のことである。「話し合うということは、とりわけ教育の世界では大切なこと。話し合うことのできる人間を育てることが教育のおおきな目標と言ってもよい。話し合うことが、争い解決の唯一の手段なのですから」という立ち場からの問題提起。

「学校では、たとえ生徒の稚拙な論理であってもじっと耳を傾け、一緒に考え、理解しあう努力をしなければなりません。一方的な強制は、生徒の人間としての成長には良い影響をもたらしません。かつての教育現場は、卒業式に限らず学校行事の企画・運営については教職員の間で実にさまざまな意見が出され、充実した話し合いがなされてきました」

「ところが、10・23通達以来の10年間、学校現場では、職員会議での賛否を問うことすら禁止され、ひたすら上意下達の徹底が図られ、話し合うということが無くなりました。話し合いに代わるものが、教育の世界にあるまじき問答無用の命令と服従なのです」

「10・23通達とは、現場での話し合いを拒否して、問答無用で行政が教育に介入しようというもの。まさしく教育基本法のいう「不当な支配」そのものです。教育に携わる者が権力に支配されてはならない。権力をもつ者が直接的に教育を支配することの危険性は、歴史からいやというほど学んだではありませんか」

「正しいことでも間達った内容でも、権力が教育に介入することは絶対に避けなければならないことです。まして、10・23通達のように、独断にもとづき、話し合いすら否定するものは、現代の社会においては認めてはなりません」

また、石原慎太郎やその後継をもって任じた猪瀬直樹の罪の深さに触れつつ、こんな陳述もなされた。

「新しい都知事を迎えて、教育委員会は今までどおりの教育行政を惰性的に継続するのでしょうか。人事委員会は私たちへの処分をこのまま認めるのでしょうか。誤りを糺すよい機会ではありませんか」

舛添要一新都知事についての教育現場からの評価は、まだ定まっていない。少なくも、石原のような極右ではなさそうだ。猪瀬のように石原都政に縛られる立ち場でもない。教育の自由や、教育行政の謙抑性や、公権力がイデオロギーを持ってはならない、という常識くらいは弁えていよう。市民的な思想・良心の自由尊重の姿勢も、石原・安倍よりは、ずっとマシなのではないか。もしかしたら、「ブラック官庁・都教委」の変身のチャンスなのかも知れない。

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           ラン(藍)藻が作るバイオプラスチック
プラスチックを作る藻があるなんて、植物好きには見逃せない。2月20日の毎日は、理化学研究所(理研)が、ラン藻の遺伝子を改変して、従来の10倍も効率のよいバイオマスプラスチック生産に成功したと報じた。

「ラン藻」とは植物ではないらしい。藍色っぽい緑色をしたバクテリアで、植物のように、葉緑体が光と二酸化炭素から酸素を発生して光合成を行う。もとは植物の藻類に分類されていたので、名前に藻がつく。単細胞生物は植物であるか動物であるかの区別が難しい。

日本では1960年代頃からプラスチック製品が日用品として使われるようになり、今では身近にあふれかえっている。塩ビ製の雨樋、水道管、ペットボトル、ポリエチレン製の袋、家電製品やコンピューターの外枠など。大変便利なものだが、大きな問題を抱えてもいる。これらプラスチック製品は有限な石油から作られる。また、腐敗しないので廃棄が難しい。

そこで追及されたのが、石油ではなく生物から合成される「バイオマスプラスチック」や自然に分解される「生分解性プラスチック」だ。ところが、強度や耐熱、耐久性が低い。加工が難しい。原料(生ゴミ、稲わら、海藻、サトウキビ、トウモロコシなど)が高価だ。ポリマー化が難しい。これらが原因となって、石油からできるプラスチックに較べると価格が3?5倍になり、太刀打ちができない。

そこに登場したのが、バイオマスプラスチックの原料となるポリヒドロキシ酪酸(PHB)である。「ラン藻」が光とCO?を使ってPHBを光合成してくれる。そうなればCO?が削減できる。自然に腐って水と有機物になるので、廃棄物処理も容易である。ダイオキシンの発生もない。頭の痛い地球規模の環境問題の一端が解決できる。

今回の理研の発表によれば、この「ラン藻」培養には、栄養もわずかの酢酸だけでよく、「『ラン藻』の乾燥重量の14パーセントに相当する量のプラスチックを合成した」(2月20日毎日)という。今話題のSTAP細胞にも酢が使われている。理研の研究成果には酢が付きもののようだ。

小さな記事だが、ワクワクする報道ではないか。この際、日本は原発につぎ込む助成金などやめて、国を挙げて「ラン藻」研究をしてみてはどうだろう。サステナビリティは「ラン藻」から。原発に代えて、ラン藻プラスチックとその技術を世界中へ輸出すのだ。そうすれば、「自国の繁栄のために地球を破滅に導いた国」との汚名から逃れることができる。いやむしろ、「破滅から地球を救った国」として人類史に名を残せる…かも知れない。
(2014年2月21日)

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Published in 金曜日, 2月 21st, 2014, at 22:59, and filed under 未分類.

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