他人の痛みへの共感能力を育てよう
孟子は、人の性を善なるものと説いた。孟子公孫丑編の四端説の章に、次の有名な一節がある。高校時代に漢文の授業で習った。
「人みな人に忍びざるの心有り。…人みな人に忍びざるの心有りと謂ふ所以は、いま、人たちまち孺子の将に井に入らんとするを見れば、みな怵惕惻隠の心有り。交わりを孺子の父母に内るる所以にあらず、誉れを郷党朋友に要むる所以にあらず、其の声を悪みて然るにもあらざるなり。これに由りてこれを観れば、惻隠の心なきは、人にあらざるなり。羞悪の心なきは、人にあらざるなり。辞譲の心なきは、人にあらざるなり。是非の心なきは、人にあらざるなり。惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり」(今里禎の読み下し)
次のような大意であろう。
「誰にだって、思いやりの心がある。だってね、ちっちゃい子が井戸に落ちそうになっているのを見たら、誰だって、『あっ危ない、何とかしてあげなくちゃ』って思うだろう。その子の親に取り入ろうとか、周りの人たちに褒めてもらおうとか、なにもしなけりゃ悪口を言われるからってわけじゃない。だからね、思いやりの心というのは誰にでもあるんだ。これなくちゃ人間じゃない。悪を恥じる心も、譲り合う心も、善悪を判断する心もおんなじだ。」
その上で「四端」が説かれる。惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が、それぞれ仁・義・礼・智の各「端」(今里訳では、端を「芽生え」としている。「糸口」などという洒落た訳もある。)であるというもの。高校時代、よくは分からないながら、「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」「惻隠の心は仁の端なり」のフレーズが印象に残った。
「孟子」には、人が生来もっているはずの善として、惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が語られている。中でも、「惻隠の心」である。どう理解すればよいのだろう。
藤堂明保の「漢字源」によれば、惻とは「いつも心について離れない。ひしひしと心に迫る」の意という。「惻隠」は、「ひしひしといたわしく思う」とされている。広辞苑もこれによったか、「いたわしく思うこと。あわれみ」とある。「同情する心」、「痛ましく思うこと」、「慈しむこと」などとも解されているようだ。私には、「思いやり」の語が一番しっくりする。
今にして思う。孟子の説いている善とは、人の痛みへの共感のことではないのだろうか。子どもが井戸に落ちそうになれば、とっさに助けたいと思う。もし、落ちてしまえば、その子の苦しみは自分の苦痛となる。その子の母の嘆きは、自分の悲嘆でもある。人間の尊厳を尊重し、人間の尊厳の侵害に対して、侵害された人に寄り添い、共感をもってともに痛む心、それが「惻隠の心」ではないか。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」は今に通じる名言だと思う。
韓国の旅客船セウォル号が一昨日(4月16日)珍島付近で沈没し、多数の死者と行方不明者を出している。リアルタイムの報道に胸が締めつけられる。狂わんばかりに、わが子の安否を案じる母親の姿に心の痛まない者はない。
「船内にいる子どもからメッセージが届いた」という報道があった。沈没した船内に取り残されたという男子生徒から、兄に携帯電話の文字メッセージが届いた。生存者がおり、救出を求める内容で、「今ここは船の中、何も見えない。男子数人と女の子が泣いている。まだ私は死んでいない」と記されたものだったという。涙がこぼれそうになる。いま、韓国民だけでなく、日本国民も「惻隠の心」を感じている。ヘイトスピーチの連中も、人として同様であろう。
ところが、残念なことに、「惻隠の心」を持ち合わせていない人もいる。性善説が揺らぎかねない。
今月13日、米カンザス州オーバーランドパークのユダヤ教系施設で、銃撃によって3人が殺害された。犯人として逮捕されたのはフレージャー・グレン・クロス(73歳)。コミュニティーセンターの駐車場で14歳の少年と祖父を射殺し、さらに近くの高齢者介護施設の駐車場で女性1人を殺害した。白人至上主義者集団クー・クラックス・クラン(KKK)に関連する団体の元幹部で、極端な反ユダヤ主義活動家であり、黒人への嫌がらせを繰り返してもいたという。事件が起きた13日は、ユダヤ教の行事「過越の祭り」開始日の前日だった。地元テレビ局の映像には、逮捕された容疑者がパトカーの後部座席から「ヒトラー万歳」と叫ぶ姿が映っていた(CNNの報道)。
死亡した少年は、歌唱コンテストのオーディションに出場するため祖父の車でセンターを訪れていた。祖父は現役の医師。皮肉なことに、2人ともキリスト教徒だった。被害者の女性は、介護施設に入居中の母親を毎週末見舞っており、その施設の駐車場で撃たれた。視覚障害児の施設で作業療法士を務め、この人もカトリック教会に所属していた。
この犯人には、惻隠の情がない。彼がユダヤ人と思い込んだ3人に、それぞれの人生があり、家族があり、交流する人々がいることを考えられない。死への恐怖や、心の痛み、周りの人の悲哀に共感すべき心が失われている。井戸に落ちそうな子どもを救うはずの人間が、子どもを井戸に突き落としたのだ。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」というほかはない。
しかし、孟子の性善説も、次のように解釈されている。
「人間の本性が善である、という命題は、けっして現実の人間が善であることを意味しない。『性』を全面的に開花させるためには、人格完成のための努力が必要である。ここに実践倫理としての孟子独自の修養論が内省を中心として展開されるのである」(松枝茂夫・竹内好監修「中国の思想・孟子」)
国籍・言語・宗教・人種・性別・門地・職業・障がいの有無等の一切を捨象して、誰もが等しく人間としての尊厳を尊重されなければならない。「等しく」とは、「弱い立場にある者ほど手厚く」という意味でもある。自己と他者をともに人間としての尊厳あるものとする姿勢は、「性善」だからといって当然に現実化しているわけではない。その本来の善を開花させるために、人権尊重の教育が必要なのだ。徹底して差別を戒める教育が重要なのだ。惻隠の情の獲得は、具体的に心身の痛みを背負う人々と接触し、その人たちの痛みや嘆き苦しみ悲哀を身近に感じることが糸口であろう。そのことから、人間としての尊厳を傷つけられた者に対しての、共感能力が育つ。私は、現代の教養とは、人権侵害の被害に対する共感能力のことだと思っている。人権侵害に、敏感でありたい。
*******************************************************************
八重の「御室桜(オムロザクラ)」が世代交代で一重の桜に
昨日、恒例の根津神社のツツジ祭りへ行ってきた。まだ2分咲き程度で、入場券にプリントされた写真とはだいぶ様子が違っていたが、緑に混じった色とりどりのツツジは初々しく美しかった。見物客が少なくてゆっくり見られたこともなによりだった。
ツツジ山を下りたところによしず張りの植木屋の店が出ている。今年はもう絶対、植木は買わないと強い決意で、「見るだけ、見るだけ」と覗いてみると、シロ花のハナズオウと八重桜が私をがっちりとらえて、「つれてって、つれてって」と放してくれない。どうしたって運命的出会いには抗えるものではない。紫色のハナズオウはよくあるけれど、白は珍しい。八重桜は「キクシダレ(菊枝垂)」。これもなかなかお目にかかれるものじゃない。花は濃いめのピンクの八重咲き。小さな花弁がギッシリ集まってボール状になって、それが3から5花ぐらいづつかたまってぶら下がっている。何とも可憐である。置いて帰るわけにはいかない。
さて、帰宅して、花弁の数を数えてみたら、一花につき91枚、116枚、124枚と花を3つまで分解して数えたが、それ以上は根気が続かずやめてしまった。径3センチメートルの小花に大体100枚以上の花弁がついている。雌しべは1本、雄しべはかすかに3,4本。雄しべは花弁に変化してしまったのだ。真ん中の花弁は糸くずのように細くて小さい。こんな花弁数が極端に多い八重咲きをキク咲きという。
枝垂れない普通の「キクザクラ(菊桜)」は花弁が、100枚から180枚。「ケンロクエンキクザクラ(兼六園菊桜)」は100枚から300枚。「ライゴウジキクザクラ(来迎寺菊桜)」は2段咲きで90枚から270枚。「フジキクザクラ(富士菊桜)」は2段咲きで300枚から400枚。トップクラスは「ヒヨドリザクラ(鵯桜)」で、2段咲きで280枚から450枚。以上は「日本の桜」(木原浩ほか著 山と渓谷社)からピックアップしたもの。ヤマザクラのような5弁花に飽き足らない人たちは、400枚もの花弁をもつようなサトザクラをつくりあげたのだ。おかげで春になると、ソメイヨシノやヤマザクラのシンプルな美しさとサトザクラの豪華さの前で、どちらがいいか心が引き裂かれる思いがする。
京都仁和寺の「御室桜(オムロザクラ)」は京都の春の最後を飾る遅咲きの八重桜。種類は「オムロアリアケ」。ヤマザクラの影響の見られるサトザクラで花弁が5から10枚のふっくりとした八重の白い花を咲かせる。
その御室桜について4月15日付け京都新聞は次のように報じている。
江戸時代に貝原益軒の「京城勝覧」(1718年)は「境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす」と記している。また、昭和初期の研究者香山益彦の「御室の桜」には「八重が多数を占める」と書いてある。ところが、今回調査したところ、212本のうち八重はわずか18本しかなかった。樹齢360年のサクラが枯れて植え変えられたわけではなく、大枝が枯れて、根もとからでてきた「ひこばえ」で世代交代を繰り返しているうちに、そこに咲いた花は一重になってしまったのだ。品種改良された八重のオムロアリアケが先祖返りしてしまったということらしい。
仁和寺の立部佑道門跡は「御室桜は枝が大きくなると枯れてゆく特性があるが、それもまた花の姿の一つ。桜から学んでいこうという気持ちがあるので、御室桜を新しい苗に植え替えるということはしない」と述べている。もっとも、2010年に芽の組織から苗木を作る研究が行われ、今年の4月11日143センチに成長したクローン桜の蕾が一輪開花した。それを報じた朝日新聞の写真を見ると、白いふっくりとした八重桜が映っている。
この話を聞けば、理研の小保方さんのスタップ現象もありうることかもしれない気分がしてくる。組織細胞にお酢をかけて、初期化すれば八重も一重も思いのままなんて、楽しいようでもあり、恐いようでもある。
(2014年4月17日)