96条改憲批判ーその6 「樋口陽一さんは、こう語った」
昨日(5月11日・(土))の午後、日弁連の講堂で、久しぶりに樋口陽一さんの講演を聞いた。演題は、「国会・民意・反映ー憲法理論から問題を取りあげる視角」というもの。その中での、「憲法96条と民意」についての部分を抜粋してお伝えしよう。録音していたわけではない。斯界の権威の言の要約であるが、飽くまで私が理解した内容としてのものである。
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ある学者が、「ノーマル・ポリティクス」(通常の政治)と、「コンスティテューショナル・ポリティクス」(憲法政治)という言葉の使い分けをしています。その学者が各用語に込めた考え方はさておいて、この二つを区別した用語法だけに着目して転用すれば、「通常の政治過程における民意」とは区別された「憲法そのものに対面する場合の民意」というものを考えることができます。
ノーマルな民意は単純過半数をもって確定できるとしても、コンスティテューショナルな民意においては必ずしもそうはなりません。日本国憲法96条においては改憲の要件としての民意を単純過半数ではたりず、もっと厳格なものにしています。これは多くのデモクラシー諸国のとるところで、各別に日本国憲法が厳格というわけでもありません。
これを不当とする考え方もあります。「今日の国民が明日の国民を縛ってはならない」とするものです。しかし、この理はノーマルな民意についてはともかく、コンスティテューショナルな民意においてはあてはまりません。どうして、憲法はそのような自己制約の制度を採用しているのでしょうか。
まだ自民党が政権を取る以前のことですが、安倍さんは「たった3分の1を超える国会議員の反対で国民投票が邪魔されて発議できないのはおかしい。そういう横柄な議員には退場してもらう以外にない」という趣旨の発言をしています。この「横柄」という言葉に引っかかりを感じて確認しましたが、このとおりだったようです。
憲法改正の発議要件が両議院の3分2を要するとされているのは、3分の2の多数意見形成に至るまでとことん議論を煮詰めること、そこに至るプロセスを明らかにすることが国会の職責とされているということなのです。その国会の職責が全うされて初めて、国民のインフォームドコンセンサス(正確な情報を提供されたうえでの合意形成)が可能になります。憲法は、そのようにして、コンスティテューショナルな民意を形成するように求めているのだと考えます。
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『小選挙区制の違憲論』
なお、樋口講演は、日弁連と東京3会が共催した「国会は民意を反映しているか」というシンポジウムの基調講演。当然に小選挙区制が議論の中心テーマだが、小選挙区制の功罪や憲法論に焦点が集中せず、よくいえば幅広い視野からの議論、遠慮無くいえば、消化不良のぼけた印象の議論に終わった。
この日私が、「質問・意見書」に記載した内容を少し整理して記載しておきたい。時間がないとして、結局は読み上げてはもらえなかったのだから。
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私が、「一票の格差訴訟」判決を評価するのは、選挙制度の設計における国会の裁量の幅が意外に小さいものであることを大法廷が確認したことにおいて。この判断の射程が、小選挙区制といういびつな制度設計の合理性判断にどう及ぶか、それが関心事である。
パネルディスカッションにおいて、五十嵐仁さんが政治学的立場から明らかにされた小選挙区制の不当・不合理は極めて説得的で反論はなしがたい。これを憲法論として考察する場合には、選挙制度としての合理性の問題と、選挙民の基本権侵害という両面からとらえる必要がある。
とりわけ不足している議論が、基本権としての参政権の平等性侵害の議論。今回の総選挙では、小選挙区制に限っていえば、自民党へ投票した有権者数は2564万3309票、これで237議席を獲得してるから、自民党投票者は、10万8000人で1議席を獲得している。一票の議席反映価値は、その逆数つまりは11万分の1になる。ところで、日本共産党の立候補者は小選挙区で470万0289票を得ているが、全て死票となって1議席の獲得にも結びついていない。「11万票で1議席」対「470万票で0議席」である。
これは、憲法14条にいう「信条による政治的差別」に該当し、平等原則に違反するといわざるを得ない。この不平等を合理化する憲法上の対抗価値がありうるか。唯一考えられるのは、選挙制度設計に関する立法の裁量である。しかし、「一票の格差判決」で示された、「居住地域による一票の格差」を合理化しないとされた国会の裁量が、支持政党の如何における一票の格差を合理化するものとは到底考えがたい。
もう一つ、小選挙区という選挙制度設計が基本権に及ぼす影響について指摘したい。いわゆる小選挙区効果といわれる現象がある。当選を争うとされる政党に投票が集中するということだ。選挙民の側から見ると、少数しかとれないと予想される政党の支持者が、心ならずも、当選可能な他党候補者に投票を余儀なくされることである。共産党の支持者が、無念ではあるが、自民や維新よりはマシな民主党候補者に一票を投じるということは現実にあり得ること。他のより合理的な制度設計が可能であるにかかわらず、このような自らの思想に反する投票行動を余儀なくさせる選挙制度の設計は、憲法論的にいったい何をもって合理化されるだろうか。端的に、憲法19条違反というべきではないだろうか。
いずれにせよ、小選挙区は罪が深い。選挙制度の設計として最悪というだけでなく、選挙民の参政権の平等や思想良心の自由を侵害する。