96条改憲批判ーその7 このワンフレーズを使いこなそう
「リベラル21」というインターネットメディアに、原水禁運動などの論評で高名なジャーナリストの岩垂弘さんが、「憲法記念日の社説を点検する」という記事を掲載している。
岩垂さんは国会図書館で、5月3日付の一般新聞53紙を閲覧した。そのうち46紙が憲法記念日にちなんだ社説を掲載しており、いずれも96条改定問題を論じていた。「その論調を大まかに分類すると『改定賛成』が6紙、『論議を深めよ』といった、いわば中立的な立場が5紙、『改定反対』が35紙であった。つまり、『改定賛成』13%、『中立』10%、『改定反対』76%という色分けだった」という。読売、産経は、この13%の少数派にはいることになる。
岩垂ブログはこれで終わらず、96条改定反対派の理由を次のように3分類できると整理している。
(1) 立憲主義を覆す、という反対論
(2) 本当の狙いを隠している、という反対論
(3) 96条改定より先にやるべきことがある、という反対論
一読に値する。ぜひ参照していただきたい。
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2376.html
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岩垂さんの報告を見ても、96条改憲の目論みが改憲勢力の思惑外れになりつつあることは明らかだ。しかし決着はまだ先のこと、批判の手を緩めてはならない。
私なりに、使えそうな「96条改憲批判・ワンフレーズ」を集めてみた。それぞれで補強し、工夫して、これを使いこなそう。
岩垂さんに倣って、3分野に分類してみる。
(1) 96条改憲は立憲主義を覆す
「96条改憲は、憲法を憲法でなくする禁じ手だ」
「96条改悪は、憲法を壊す道」
おそらく、この二つが王道。
「96条改定は、形式や手続きだけでなく憲法の根幹を根こそぎ変えてしまう」
立憲主義を語るきっかけのフレーズに。
「憲法は硬いところが値打ち」「軟らかい憲法は憲法ではない」
硬性憲法の理念を語るきっかけに。
「96条改正を許せば、全ての憲法原則が壊れる」
「96条に穴が開くことは、憲法の土台を崩すこと」
「ときの政権が96条改憲を言い出すなんぞ、本末転倒も甚だしい」
(2) 本当の狙いを隠している
「国民を欺いてはならない」
「正々堂々とやれ」
「卑怯・姑息・汚い」
「裏口の手口」
「敵は本能寺ではないか」
‥‥まだまだあるだろう。
「入り口は96条(改正)で、出口が9条(改正)」
「96条改憲の先に、9条改憲が待ち構えている」
「96条から手をつけて、9条改正に至る」
「表は96条、裏は9条」
「気をつけよう。くらい夜道と96条改憲」
「『手続くらい変えたって』甘い言葉に毒がある」
「うっかり信じちゃ泣きをみる。振り込め詐欺と96条改憲」
「96条の一穴は、平和と人権と民主々義を押し流す」
「何を変えるかを論じずに、変え方だけを論じるのは奇妙奇天烈」
「中身の合意を棚上げして手続だけ緩めるのは、不毛の混乱を招くばかり」
「嫁さんの顔を見せないで、ともかく結婚しろというが如し」
「改憲の狙いを明らかにしないのは、裏があるからだ」
(3) 96条改定より先にやるべきことがある
「改憲より復興を」
「どさくさに紛れた改憲策動に反対する」
「災害便乗の改憲を許すな」
「改憲ではなく、今こそ憲法の完全実施を」
いずれ、増補改訂版を掲出したい。
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『万緑の季節』
いつの間にか万緑の季節になってしまった。高い木も低い草もわれもわれもと競い合って、空間の奪い合いだ。遠慮会釈なく生命を謳歌している。万緑の下で、植物たちはとにかく忙しく自己増殖に励んでいる。おかげで我々は呼吸も出来るし、野菜や果物や穀物をいただけるという仕組みになっている。人間は圧倒されて、若者だって「五月病」で元気が出ない。
あんなに潔く散ったソメイヨシノはしっかりと小さな緑色の実を付けていて、それが赤から黒紫に変わる頃には小鳥がうるさいほど群がる。サクランボほどではないけれど、甘くて人間が食べたって美味しい。
タンポポは盛んにヘリコプターのような種を無数に飛ばして、どんなコンクリートの隙間にだって着地したら根を張らずにはおかない構えだ。ぺんぺん草も長く伸びた花軸に小さな三味線のばちのような種をつけて、風にさらさら鳴っている。カラスノエンドウもレンゲ草も小さな鞘の中に豆を作って大事そうに抱えている。
その種について、「園芸家12ヶ月」(カレル・チャペック著)の5月の園芸家より。
「どの園芸書にも「苗は種から育てるにこしたことはない」と書いてある。・・まいた種は一粒もはえないか、全部はえるか、どっちかだ。これが、つまり、自然の法則なのだ。・・種を一袋買ってきて、まき鉢にまき、種が美しく芽生えるのをたのしみにしている。しばらくたつと移植の時期になる。園芸家はみごとに育った実生苗を鉢に170本もつくり、歓声をあげてよろこぶ。そして、種から育てるのがいちばんだ、と考える。やがて実生苗を地面におろす時期がくる。だが、170本のアザミをいったいどう始末したらいいのか。すこしでもすきまのある地面を、あますところなく利用したが、それでもまだ130本以上あまっている。あんなに丹精して育てたものを、いくらなんでも、ごみ箱にほうりこむわけにはいかない。
「どうです、アザミの実生苗があるんですがね、2,3本お宅でお植えになりませんか。」
「そうですか、植えたっていいですよ」
さあ、ありがたい。助かった。隣の主人は実生苗を30本もらい、いま、それを持って途方にくれ、庭のなかをさかんにあっちこっち歩きまわって、植え場所をさがしているあとまだ左側と、向こう側のお隣がのこっている。」
ことほどさように、種の力は偉大なり。数だけでなく、時空をこえて、2千年後に芽をだす蓮の種さえあるのだから。