「表現の自由」が危ない?『DHCスラップ訴訟』を許さない・第10弾
本日は日民協の機関誌「法と民主主義」の編集会議。
10月号まではテーマが決まっている。11月号をどうするか。
編集担当者からの詳細な企画案メモが提出された。タイトルは、「日本国憲法21条の問題状況」。「現代の表現の自由を考える」という副題が付いている。
大きくは、3節から成る。「第1・メディアの現状」「第2・街角の表現の自由」「第3・プライバシーと表現の自由」というもの。各節に5項目のテーマが並んでいる。なるほど、今、「21条の問題状況」は問題だらけ。表現の自由は危機的状況にある。
議論が百出した。意見は容易にまとまらない。
「これだと全体状況はつかめても、メリハリがない」「ここが時代の中心問題だという押し出しが必要だ」「表現の自由をめぐっては、NHK問題が突出した重大性を持っているというべきだろう」「NHK問題は、『権力による表現の自由規制』という図式が分かり易い。しかも、安倍晋三のお友だち人事というメディアの私物化という特徴的な手法が顕著で、時代を象徴する事件だろう」「むしろ、時代を象徴するのは、権力的規制よりは社会的抑制ではないか。明確な権力の発動なくても、社会の雰囲気に言論が萎縮していることが重大だ」「憲法擁護や憲法の学習までが、政治的な色彩を帯びた行為として行政の末端で排斥される現場を励ます理論が必要だ」「表現の自由の現代性を考えるとすれば、ヘイトスピーチ問題を取りあげねばならない」「これは、自由な言論が人権を侵害している構図」「一見そうだが、安倍自民が一強と言われる状況と深く関わっているのではないか」「自由な言論の市場は悪質な言論を淘汰するだろう」「果たしてそう楽観できるだろうか。後戻りできないところまで、事態が進行するリスクは否めないのではないか」「いや、対抗言論と民事訴訟で克服しつつあると見るべきだろう」‥
この議論の中で、表現の自由を危うくするものの一つとして、言論封殺を目的とするスラップ訴訟の濫発が大きなテーマであると確認され、11月号の特集に取りあげられることとなった。
但し、「スラップ」、あるいは「スラップ訴訟」はやや多義的である。一昨日の東京新聞一面トップが、「スラップ訴訟 市民団体が最高裁に抗議」というもの。沖縄県・高江の米軍用ヘリパッド建設反対の市民運動をつぶす目的での国の住民に対する提訴を「スラップ訴訟」としている。
同紙の記事は、スラップ訴訟を「国や大企業が自らの事業に反対する住民らを訴える」ことによって「言論の自由を抑圧」するものとし、今後の市民運動への濫発を懸念している。スラップSLAPPとは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの頭文字を綴った造語だというから、市民運動・住民運動・内部告発などに打撃を与えることを目的とした訴訟が広く含まれるということではある。
もっとも、スラップには、運動対抗型とは別に言論封殺型がある。『DHCスラップ訴訟』はその言論封殺タイプの典型である。個人の言論を封殺する主体は直接には公権力ではない。社会的・経済的強者が、裁判所の威を借りて個人の言論を抑制しているのだ。原告にとって不都合な言論をしたとして、提訴による高額の請求は、被告となった個人を萎縮させる圧力として十分である。
『DHCスラップ訴訟』の提起は、政治的言論に対する直接的な敵対行為であることに本質がある。『DHCスラップ訴訟』が嫌忌した言論の内容は、「政治とカネ」をめぐる見解である。もっと具体的に言えば、「カネで政治を左右することは許されない」「政治はカネで左右されてはならない」という民主主義の根幹に関わる政治的意見の表明である。これを原告は封じようとしているのだ。
このことが根幹であり、その余は枝葉の問題にすぎない。『DHCスラップ訴訟』の提訴と応訴とは、政治的言論の自由が真に保障されるのか、それとも打ち捨て去られるのか、という憲法の最重要理念をめぐる厳しいせめぎ合いなのだ。
「法と民主主義」11月号には、今の課題としての「表現の自由」擁護の立場から、具体的なしかるべき論稿が掲載されることになろう。NHK問題やヘイトスピーチ、あるいは言論の萎縮問題などと並んで、『DHCスラップ訴訟』問題も紙幅を割いてもらえるはずである。
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蓮は泥より出でて泥に染まらず
上野不忍池の蓮が咲き始めた。今が、二分咲きといったところ。大ぶりの蓮の葉を渡る風は一段と涼しい。清々しい葉のうえにスックリと立ち上がった、大きくゆったりとしたピンクの花は「悠久の美」という言葉がぴったりだ。見物人もカメラマンも言葉を発する人もなく静かにみとれている。
不忍池は武蔵野台地の東端に位置し、上野台と本郷台に挟まれた湿地に、根津から藍染川が流れ込んでできた。その余り水は隅田川に流れ出た。入る川も流れ出る川も暗渠となって、今はうかがうこともできない。
いつからその不忍池に蓮が根付いていたかは定かではないが、1677年の「江戸雀」には
「涼しやと池の蓮を見かえりて、誰かは跡をしのばずの池」
とある。江戸の浮世絵には「不忍池と蓮」がお定まりの図柄となっている。1935(昭和10)年に調査をした大賀一郎博士は、近くに住んだ林羅山か、寛永寺の天海和尚か、不忍池に弁天島を築いた水谷伊勢守が植えたのではないかと推察している。ちなみに博士の調査によれば、当時、植えられていた蓮は10種類であったそうだ。(池畔に立てられた案内板より)
しかし、現在は素人目にはピンクの花が一種類咲いているだけだ。近年、東京都は池の観光整備にのりだした。遊歩道をめぐらせて、新しい種類の蓮を植えることにしたらしい。明鏡蓮(白花)、不忍池斑蓮(白弁をピンクの縁取り)、浄台蓮(ピンク)、大賀蓮(ピンク)、蜀紅蓮(紅花)の五種類。今見るところ小ぶりの浮き葉が水面に浮いているだけ。水面高く立ち上がる巨大な巻き葉(立ち葉)がみえないので、今年は残念ながら花を見ることはできないようだ。
「浮き葉 巻き葉 立ち葉 折れ葉とはちすらし」山口素堂
案内板に書かれていることをメモしていると、隣に立ったおじさんが「俺は土浦の出身なんだ。土浦の蓮はこんなもんじゃない」とのたまう。「レンコンをとるんでしょ」というと、「何で正月にレンコンを食べるか知っているか」と言うので、ちょっと花を持たせて「知りません」と答えた。この辺りから、酒臭いなと思う。「穴が開いているので先が見えるから縁起がいいんだ」という。「そうですか」と言うと「あんた、ほんとはなんでも知っているのに、答えさせたね」とからんでくる。ちょっと、クスッと笑いたくなるのを押さえて、「そんなことありませんよ。ありがとう。」と答えて逃げ出す。
上野というところは朝の7時にご機嫌な人がいる場所だ。酒を嗜んで、蓮の花を愛で、池を渡る風に吹かれるのはどんなに気分がいいだろう。もう少し話し相手になってあげればよかったかなと思う。
しばらく行くと、池のなかから「グェッ、グェッ」とウシガエルの声が聞こえる。立ち上がった緑の葉と美しい花の下には、弱肉強食の現実世界があるらしい。「表現の自由」や「裁判を受ける権利」という美しい花の下に、ヘイトスピーチやスラップ訴訟がうごめいているごとくに。
(2014年7月25日)