「吉田調書」が教えるものー原発制御不能の恐怖
朝日新聞が、原発政府事故調が作成した、「吉田調書」に関する本年5月20日付報道記事を取り消し謝罪した。スクープが一転して、不祥事になった。この間の空気が不穏だ。朝日バッシングが、リベラル派バッシングにならないか。報道の自由への萎縮効果をもたらさないか。原発再稼動の策動に利用されないか。不気味な印象を払拭し得ない。
朝日の報道は、事故調の調査資料の公開をもたらしたものとして功績は大きい。そのことをまず確認しておきたい。その上で不十分さの指摘はいくつも可能だ。「引用の一部欠落」も、「所員側への取材ができていない」「訂正や補充記事が遅滞した」こともそのとおりではあろう。もっと慎重で、信頼性の高い報道姿勢であって欲しいとは思う。ほかならぬ朝日だからこそ要求の水準は高い。大きく不満は残る。
この朝日の報道を東京新聞すらも誤報という。しかし、朝日は本当に「誤報」をしたのだろうか。問題は、5月20日一面の「所長命令に違反 原発撤退」の横見出しでの記事。本日(9月12日)朝刊一面の「木村社長謝罪の弁」では、「その内容は『東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東電社員らの9割にあたる、およそ650人が吉田昌郎所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した』というものでした。…『命令違反で撤退』という表現を使ったため、多くの東電社員の方々がその場から逃げ出したかのような印象を与える間違った記事になったと判断しました。『命令違反で撤退』の記事を取り消すとともに、読者及び東電福島第一原発で働いていた所員の方々をはじめ、みなさまに深くおわびいたします。」となっている。
この部分、吉田調書では、「撤退」を強く否定し、「操作する人間は残すけれども…関係ない人間は待避させます」と言ったとされている。どのように待避が行われたかについては、「私は、福島第1の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回待避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2F(福島第2原発)に行ってしまいましたと言うんで、しょうがないなと。」
これは、明らかに所長の指示がよくない。650名もの所員に、「何のために、どこで、いつまで、どのように、待避せよ」という具体性を欠いた曖昧な指示をしていることが信じがたい。「福島第一の近辺で待機しろ」と言ったつもりの命令に、「2F(福島第2原発)に行ってしまいました」という結果となったことを捉えて、朝日が「命令違反」と言っても少しもおかしくはない。この場合の命令違反に、故意も過失も問題とはならない。「撤退」と「待避」は厳密には違う意味ではあろうが、この場合さほどの重要なニュアンスの差があるとも思えない。しかも、枝野官房長官は、「間違いなく全面撤退の趣旨だった」と明言しているのだ。
朝日に対して、もっと正確を期して慎重な報道姿勢を、と叱咤することはよい。しかし、誤報と決め付け、悪乗りのバッシングはみっともない。そのみっともなさが、ジャーナリズムに対する国民の信頼を損ないかねない。
各紙が報じている限りでだが吉田調書を一読しての印象は三つ。一つは、原発の苛酷事故が生じて以降は、ほとんどなすべきところがないという冷厳な事実。なすすべもないまま、事態は極限まで悪化し、「われわれのイメージは東日本壊滅ですよ」とまで至る。原発というものの制御の困難さ、恐ろしさがよく伝わってくる。「遅いだ、何だかんだ、外の人は言うんですけれど、では、おまえがやって見ろと私は言いたいんですけれども、ほんとうに、その話は私は興奮しますよ」という事態なのだ。3号機の水素爆発に際しては、「死人が出なかったというので胸をなで下ろした。仏様のおかげとしか思えない」という。
二つ目。官邸・東電・現場の連携の悪さは、目を覆わんばかり。原発事故というこのうえない重大事態に、われわれの文明はこの程度の対応しかできないのか。この程度の準備しかなく、この程度の意思疎通しかできないのか、という嘆き。これで、原発のごとき危険物を扱うことは所詮無理な話しだ。
もう一つ。吉田所長の発言の乱暴さには驚かされる。技術者のイメージとしての冷静沈着とはほど遠い。この人の原発所長としての適格性は理解しがたい。たとえばこうだ。
「(福島第1に異動になって)やだな、と。プルサーマルをやると言っているわけですよ。はっきり言って面倒くさいなと。…不毛な議論で技術屋が押し潰されているのがこの業界。案の定、面倒くさくて。それに、運転操作ミスがわかり、申し訳ございませんと県だとかに謝りに行って、ばかだ、アホだ、下郎だと言われる。くそ面倒くさいことをやって、ずっとプルサーマルに押し潰されている。」
一日も早く辞めたいと。そんな状態で、申し訳ないけれども、津波だとか、その辺に考えが至る状態ではごさいませんでした」
「吉田神話」のようなものを拵えあげて、東電の免責や原発再稼動促進に利用させてはならない。
朝日の誤報という材料にすり替えあるいは矮小化するのではなく、吉田調書は、原発事故の恐怖と、原発事故への対応能力の欠如の教訓としてしっかりと読むべきものなのだと思う。
(2014年9月12日)