澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「落語の歴史 江戸・東京を舞台に」  (本の泉社)の著者に

柏木新さま、著書をお送りいただきありがとうございます。しかも、ご署名と落款まで付けていただいて。たいへん面白く拝読させていただきました。

落語大好き人間の私は、「落語の歴史 江戸・東京を舞台に」が、東京民報連載中から充実した連載と注目して愛読していました。「好評連載」の惹句に偽りも掛け値もないことをよく知っています。

先年、たまたま東京民報の荒金編集長とお話しする機会があって、この連載を話題としたことがあります。筆者が同社のスタッフだと伺って驚きました。しかも、「話芸史研究家」の肩書だけでなく、護憲の落語を演じることもされるとか。世の中には、器用なお人もいらっしゃるものと感嘆しました。

この書は、江戸落語の通史として信頼できる力作だと思います。
鹿野武左衛門から江戸落語の始まりを説き起こし、江戸期の寄席や噺家の歴史を追って、明治期の円朝、珍芸四天王、三代目小さんと漱石に触れ、青い目の落語家や女流を語って、震災とラジオ放送開始のここまでが、いわば「歴史編」でしょうか。

後半の戦前編以後が「同時代史編」として緊張した内容になります。戦争を目前にした時代の落語の試練と、落語家の戦争被害の悲劇を描いて、戦後の平和のありがたさと庶民文化としての落語の再生が描かれます。志ん生、圓生、金馬、文楽、正蔵など、私にもなじみの名人上手が出てきて隆盛の時代を迎えますが、けっして順風満帆ではない。団体の分裂や席亭との軋轢など深刻な事態の経過も語られています。

その中で、愛好家がさまざまに落語をもり立てる努力を重ねていることが明るい話題として提供されています。これだけの歴史を重ねた落語はけっして柔なものではない、庶民とともにしたたかな生命力を持っている、そのようなメッセージが伝わってきます。

時代背景をしっかりと書き込み、「笑いの文化は平和であってこそ花開く」「時の権力に翻弄されながらも、したたかさを失わなかった」という観点からの落語の通史として本書は意義があるものと思います。そして、多くのゆかりの地の写真が、落語散策の手引きとしても好個の書となっています。

この書で、知らなかったことをたくさん教えていただきました。前半、圓朝の解説に相当の紙幅が費やされています。そこでは圓朝を持ち上げるだけでなく、政府の方針に迎合したこと、井上馨との交友が体制順応の傾向を加速させたことが的確に指摘されています。

私は、落語こそが近世以来の庶民文化の華だと思っています。反体制とまでいえずとも、少なくも「非体制」が真骨頂。圓朝の墓を探して初めて全生庵を訪れたときには驚きました。圓朝が、山岡鉄舟だの、井上馨だのという胡散臭い体制派人物と深く交流していたことを、そこで初めて知ったからです。天皇の「ご養育係」であった鉄舟も、三井などの政商と癒着していた薄汚い井上も、圓朝と明治落語の双方にとって疫病神でしかなかったと思っています。上品ぶらず、市井の人物のありのままを活写する、落語の伝統が生き続けてほしいものです。

ところで、私は、毎日欠かさず就寝時に名人上手のCDを聞いています。なんたる贅沢の極みと毎夜幸福感に浸っています。圓朝の録音は世にありませんが、漱石が「彼と時を同じくして生きているわれわれは仕合わせである」と言わしめた三代目小さんの「粗忽長屋」は手許にあります。もっとも、これを聞いても漱石の絶賛は理解できませんが。

そして、たまに鈴本や池袋演芸場に出かけます。プロの芸は凄い。いつも満足して帰ってきます。落語という庶民文化は確実に生きています。

いつか、貴兄の、護憲落語、九条落語、平和落語、民主落語、人権落語、革新落語、を聞かせてください。私も非才を顧みず、いつか憲法落とし話のシナリオ作りに挑戦してみたいと思います。

さらに、充実した次作を楽しみにしています。

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  『後発白内障と「鎌倉権五?」』
2年前の真夏、黄斑前膜剥離術をうけた。眼球の網膜の中心部にある黄斑に細胞が増殖して膜がかかった状態になって目が見えにくくなる。厄介な症状ではあるが、その膜をはがす手術をすれば、視力が回復するということであった。
その手術のついでに白内障の手術もうけた。日常生活に適したレンズを入れてもらったので、眼鏡の必要もなくなり、物も鮮明に見えるようになり、室内のほこりが目について困るほどだった。しかし、左右の視力差が改善されなかったため、読書用と遠景用の2つの眼鏡を作ることにはなった。
ところが近ごろどうも、またまた物がよく見えなくなっているような気がしてきた。少しづつ進行する事態はどうも自覚しずらい。担当医師によると「後発白内障」で、年齢相応、平均的な発症状況だという。「2年前、白内障手術をした時、眼内レンズを入れるあたって、レンズを固定するため、水晶体の袋を残しておいた。その袋に徐々に混濁した細胞が増殖して、光を通さなくなったためものがすべて霞んで見えるようになっている。だから、レーザーでその袋の真ん中を破って、濁りのつく袋の部分を取りのぞく。そうすれば、もう再発はない。手術は痛みもないし、数分で終わる」とのこと。2年前の手術の時にも立ち会ってもらっているこの主治医には全幅の信頼をおいている。即、レーザーによる手術をお願いする。
目の玉の手術というのは不思議なものだ。2年前の剥離術の時は、さすがに局部麻酔をかけての施術だったが、手術の経過がすべて見えるのがおかしい。小さなピンセットが膜をはがそうとして、ガサガサさぐりまわり、膜の端をつまんで一生懸命引っ張る。麻酔は効いているけれど、それを見ているだけでひりひり痛くなる。
今回は、レーザーで何カ所かカットして、袋の膜を丸く(たぶん)切ると、サランラップのようなものがクシャクシャになって、目の下の方に落ちていくのが見えた。麻酔はしていないけれど、ひとつも痛くない。でもいい気分はしない。
ところで、鎌倉権五郎景政は16歳で、八幡太郎義家に従い、奥州後三年の役に出陣した(1083年)。戦いのさなか右目に矢をいられたけれど、敵を討ち取って帰陣した。このとき、味方の三浦為次が権五郎の顔を足で踏んで矢を抜こうとした。ところが、五郎は刀を抜いて「弓に当たって死ぬのは武士の本望だが、生きながら足で顔を踏まれるのは武士の恥辱である。おまえを切って自分も死ぬ」と言ったそうだ。為次は畏れいって謝罪し、膝をかがめて矢を抜いた。これを多くの者が賞賛し、権五郎は鎌倉党の要になった。今でも彼は鎌倉御霊神社に祀られている。
とうてい私は権五?の足元にも及びもつかないが、目の手術をする時は「かまくらごんごろうさま」と唱えることにしている。目の玉の中に落ちたサランラップがなくなるまで「飛蚊症」どころか「飛ゴキブリ症」になっているけど、「鎌倉権五?」のことを考えれば、たいしたことではないと思える。
(2013年6月2日)

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Published in 日曜日, 6月 2nd, 2013, at 21:55, and filed under 未分類.

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