満腔の怒りをもって安倍政権を糾弾するーこれは憲法決壊事態だ
日程と体力の余裕の限りだが、このところ連日国会周辺に出向いている。自分に何ができるわけでもないが、そうせずにはおられない。議員に聞こえるところで声を上げたい。何が起こったかを見届けたくもある。
昨日(9月17日)は雨中の集会だった。降りしきる雨の中、参加者の熱気はすさまじかった。そして今日(9月18日)は、夜分になってから続々と詰めかける人の列が途切れない。驚くべき数の集会参加者の人波に国会周辺は埋めつくされている。今日のコールは、「強行採決絶対反対」と「強行採決徹底糾弾」だ。
先日、鬼怒川の堤防決壊による洪水の被害が報じられた。一昨日は、眼前で警察が設置したバリケードが決壊して、群衆の渦が国会正面の車道になだれ込む瞬間を目にした。たった一個所の堤防の決壊が堤防全体の機能を喪失させ、広範な流域に甚大な洪水被害をもたらす。
憲法は堤防だ。権力という暴れ川の暴走を止め、洪水を防ぐ装置なのだ。政治は憲法に基づいて行われることによって秩序を獲得し、暴走が未然に防止される。公権力は憲法に基づいて、暴走せぬよう、溢水せぬよう、洪水を起こして国民に被害を及ぼすことのないよう行使されなければならない。
もともと権力は奔流となって暴走しようとする本能をもっている。これを憲法が堤防となって制御しているのだ。戦後保守政権は、これまで比較的抑制的な姿勢を示してきた。が、安倍政権だけが例外となった。富国強兵を国是とし、侵略と植民地主義を国策とした、あの時代のDNAによって形成された政権。その軍事大国たらんとする願望を解き放って暴走し、ついに戦争法の成立という形で憲法を決壊させようとしている。
この安倍政権の暴走によって決壊したのは、直接には憲法の平和主義であり9条である。しかし、洪水の被害はもっと広範囲に及ぶことを覚悟しなければならない。閣議決定で解釈を変えることによって事実上憲法を変えるという憲法破壊のこの手法は、無数の堤防決壊をもたらす危険を孕んでいる。
しかも、今回の強行に次ぐ強行採決の強引な審議のあり方はどうだ。政権と多数党とが法の支配を放擲したというほかないではないか。これで日本も立派な一党独裁国家だ。価値観を共有する国と言えば、「ならず者国家」と言われる諸国以外になくなったではないか。
決壊した堤防を修復し、洪水で水浸しとなった被害を少しずつ回復する作業は、なまなかなことではない。しかし、国民は自分たちの力で、これを始めなければならない。
本日の国会前集会に参加して、この修復は案外可能ではないかという希望を実感する。参加者に、諦めや敗北感が微塵もないのだ。この多数の参加者にみなぎっているものは怒りだけではない。この日からの再スタートの決意と自信とを共有しているように見える。
安倍政権というデビル、あるいはモンスターを、ここまで追い詰めた。姑息で粗暴な強行採決をせざるを得なかったのは、奴らの弱みだ。彼らは、議論ではボロボロだったではないか。法案反対勢力は、安倍政権を追い詰める中で自分たちの力量を自覚した。とりわけ、大きな共闘が成立したこと、中高年層から若者層へのバトンタッチができたことの意味は大きい。さらに、広範な人々が、これまでは社会的に孤立した存在でしかないとの無力感から脱皮して、政治的な課題の活動に参加を始めたことの意味ははかりしれない。
戦争法が成立したとしても、これを発動させないたたかいは新たに始まることになる。また、戦争法案反対の運動は次の課題に繋がる。まずは沖縄・辺野古新基地建設反対の共闘がある。各地へのオスプレイ配備反対もだ。さらには労働者の権利闘争にも展望が開けてくるだろう。
安倍晋三は、憲法破壊の巨悪として歴史にその悪名を刻むことになる。と同時に案外と、国民に対して自覚的な運動に起ち上がる契機を与えた反面教師としても、名を残すことになるのではないだろうか。
(2015年9月18日・連続901回)