大阪維新は改憲政党である
おおさか維新の会が、「2016年参院選マニフェスト」を公表している。
その公約集のタイトルが、「維新が変える。改革メニュー13」というもの。そのメニューの第1が、驚くなかれ「憲法改正」なのだ。もっとも、アベ自民の改憲草案と同工異曲では埋没するのみ。独自色がないはずはない。総論でのメニューには「憲法改正による教育無償化、道州制実現を含む統治機構改革、政治家改革」と書いてある。これが、トップに掲げられた公約である。
そこで、具体的な改憲内容に興味が湧くことになる。「教育無償化」と「道州制」についてはイメージが湧く。しかし、憲法改正のテーマとしての「政治家改革」ってなんだろう。
ところがマニフェストの具体的項目に目を通して見ると、次の3項目となっている。
(1) 教育の無償化
(2) 道州制実現を含む統治機構改革
(3) 憲法裁判所の設置
あれあれ。メニュー1の憲法改正による「政治家改革」はどこに行っちゃったの?
この(3)の「憲法裁判所の設置」は、「(2) 道州制実現を含む統治機構改革」の一部をなすものだろう。「政治家改革」という言葉は、メニュー2の「身を切る改革・政治家改革」の中にはある。しかし、当然のことだが憲法改正と結びつく内容としては語られていない。メニューのトップに置かれた「憲法改正による政治家改革」は文字通りメニューだけ。料理としては出てこない。
要するに、このマニフェストは真面目に読む有権者の存在を想定していない。メニューのトップに掲げた「憲法改正」問題についてこのありさまだ。相当ないい加減感覚で作成されたものというほかはない。これが、この政党の政策レベル。真面目さレベル。以下、まともに論評することに徒労感がつきまとう。
もちろん、「教育の無償化」という政策が悪かろうはずはない。しかし、維新の公約のキモは、「教育の無償化」を改憲と結びつけているところにある。これは「甘い罠」といわねばならない。気をつけよう、「甘い政策とおおさか維新」なのだ。
マニフェストの当該部分は、「すべて国民は、経済的理由によって教育を受ける機会を奪われないことを明文化。」「機会平等社会実現のため、保育を含む幼児教育、高等教育(高校、大学、大学院、職業訓練学校等)についても、法律の定めるところにより、無償とする。」という。これが全文。
「教育を受ける機会を奪われないことを明文化」とは、憲法に明文規定を置くという意味だろう。そして、憲法に「法律の定めるところにより、無償とする。」という条文を設けるという趣旨なのだろう。しかし、そんな迂遠な手間ひまをかける必要はない。憲法改正手続を待つことなく、すぐにでも教育無償化法案を提出すればよいことだ。予算はたいしたことはない。F35とオスプレイの買い付けをやめ、辺野古新基地建設を断念してその費用を転用するくらいで、十分ではないか。それで足りなきゃイージス艦も要らない。要はプライオリティの問題なのだ。
現行日本国憲法26条1項は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と定めている。その子どもの教育を受ける権利に対応する義務の主体は、「社会全体 (大人一般)」とされている(旭川学テ大法廷判決)。もちろん、「社会全体 (大人一般)」とは政府も議会も含む概念だ。「経済的理由によって教育を受ける機会を奪われない」ことこそ、現行日本国憲法の現代憲法としての面目である。憲法改正をしなければ実現しない課題ではないのだ。
憲法改正を要しない政策課題をことごとしく憲法改正テーマとして押し出す維新の底意はどこにあるのか。アベ改憲志向政権へのスリよりである。改憲という重要テーマを軽く見せることで、政権に秋波を送っているのだ。「憲法改正なんぞはたいしたことではない。安倍自民党の改憲提案を拒絶しませんよ」というシグナルでもある。
道州制については、もう言い古されてきた。地方自治強化の名で、実は国の福祉機能と責任を切り捨てる新自由主義政策の目玉の一つである。福祉を切り捨てて法人税軽減の財源とすべしという財界による財界のための政策。
そして、統治機構改革としての「憲法裁判所」。
「政治・行政による恣意的憲法解釈を許さないよう、憲法裁判所を設置する」という。マニフェストには掲載されていないが、報道では「12人の裁判官で構成し、一審制とする」という。憲法裁判所は、具体的争訟とは無関係に法令の合違憲適合性の審査権を持つ裁判所をいう。うまく機能すれば、「政治・行政による恣意的憲法解釈を許さない」役割を果たすことになる。しかし、その反対に、「立法や行政に、迅速に合憲のお墨付きを濫発する」機関にもなりかねない。実はアベ政権が喜びそうな改憲案なのだ。
ドイツや韓国ではかなりうまく機能しているようだが、果たして日本でも適正な運用が期待できるかどうか。私は懐疑派である。この点慎重を要する問題というほかはない。
以上の憲法問題だけからも、おおさか維新の基本的な立ち位置が見えてくる。政権に擦り寄りながら票を集めねばならない、ということなのだ。
かつては「みんな」や「維新」を第三極といった。この表現には、政権与党と野党の対立軸とは、別の平面に位置しているという持ち上げのイメージがある。今、それはない。注目すべきは、維新自身が、政策の独自性発揮に苦労を隠していないことである。
マニフェストに「維新は他党とここが違う」という1項目が設けられている。わざわざ、そう言わなければならない苦しさが滲み出ている。しかも、そこに掲げられている表をよく見ても、他党との違いは見えてこない。
自らつくったこの表は、「民共」を左欄に、「自公」を右欄において、その中間の「維新」の政策が、左右の欄の政策とどう違うかを際たせようというもの。この表を見ると、「民共」対「自公」の対立はよく見えてくる。しかし、維新の独自性はよく見えない。目立つ独自政策は、あっけらかんとした「TPP賛成」くらいではないか。この点は新自由主義政党としての面目躍如というべきだろう。とても、全国で有権者の支持は得られまい。
たとえば、毎日が松井一郎について、こう言っている。
「初の大型国政選挙に挑むおおさか維新の会は憲法改正に賛成し、安倍政権には是々非々の立場。『自公』対『民共』が注目される中、いかに埋没を防ぐか。橋下徹前代表の政界引退で、『党の顔』としての重責を背負う」
これが、維新の今の立場をよく表している。要するに、票を取ろうと思えば、政策は『民共』に似てこざるを得ないし、さりとて「自公」に擦り寄るメリットは捨てられないし…。喜劇のハムレットなのだ。早晩消えゆく政党ではあるが、消えるまでに改憲の土台を整備し、改憲ムードという遺産を残されたのではたまらない。
赤旗は辛辣だ。
「『身を切る改革』を参院選の公約の1番目に掲げる、おおさか維新の会。一方で、母体となる地域政党・大阪維新の会の議員による政務活動費の不正支出は後を絶ちません。
たとえば、堺市の小林由佳市議は、印刷や配布の実態がない政策ビラの代金などに計約1040万円を支出。返還をめぐって訴訟にまで発展しています。北野礼一元堺市議は、ゴルフコンペの景品購入代などに約1050万円を支出し、辞任に追い込まれました。
大阪市の伊藤良夏市議は、トヨタの高級車「レクサス」の購入費の一部に政務活動費を充てていました。
言行が一致しないのは、政務活動費の問題だけではありません。
兵庫県議会で維新は、一昨年末に期末手当(ボーナス)を引き上げる議案に賛成しました。神戸市議会でも同年、議案の共同提案者となってまでボーナスを引き上げました。
『退職金をゼロにした』と訴える松井一郎代表(大阪府知事)も、実際には廃止分を毎月の給与に上乗せし、総額で348万円も給与を増額させただけです。
政党助成金についても、『必要経費』と言って手放しません。
選挙のたびに『身を切る』と叫んで政治家としての『身分』を守り、公約をほごにして税金で身を肥やす。これが、おおさか維新の会が唱える『身を切る改革』の実態です。」
おおさか維新に集まる連中の質の低さは、赤旗が指摘するとおりである。問題議員はもっともっと多くいる。それが、この党の抱える本質的問題と言ってよいかどうかは分からない。しかし、おおさか維新は政党助成金をぬくぬくと受領し、けっして政党助成金の制度廃止を言い出さない。このことだけで、身を切る改革の本気度を信じることは到底できない。
こんな不誠実な政党への支持は、多くの有権者にとって自らの首を絞めることと強く警告せざるを得ない。だから申しあげる。「およしなさい。おおさか維新への投票」。
(2016年7月2日)