自民党改憲草案は「国民の義務」をこう変える
IWJ(インターネット・テレビ)の「自民党憲法改正草案批判」鼎談が6回目となった。本日の私の発言の一端。もっとも、以下の文章のように滑らかにしゃべれたわけではない。考えながらの発言をまとめるとこうなる。
現行憲法に、国民の義務とされている条項が3箇所ある。
26条2項「子女に教育を受けさせる義務」、27条1項「勤労の義務」、30条「納税の義務」である。
自民党の改憲草案では、この義務規定のいずれにも変更はない、‥ように見える。しかし、実は大きく変わるのだ。字面の変更はなくても、位置づけがまったく変わるからだ。
憲法とは国家権力に対する制約の体系である。制約の目的は、国家権力による国民の基本的人権侵害を予防することにある。制約の主たる手段は、人権の目録を作成して、これを国家に遵守させることである。つまりは、国民の国家に対する諸権利の総和が、憲法の主要部分となっている。憲法とは、本来的に「国民の権利」の目録にほかならない。
では、憲法に記載された「国民の義務」とは何なのだろう。それは、本来的な憲法事項ではない。もちろん憲法の主役ではない。必要な存在ともいえない。脇役というほどの重要性ももたない、なくしてしまってもいっこうに差し支えのない影の薄い条項なのだ。
成立の過程を見ても、GHQの原案には3義務の一つもなかった。制憲議会に政府が提出した原案には「教育の義務」だけがあった。あとの二つは、衆議院での審議過程で、つけ加えられたもの。いずれも、存在の必然性をもたない、盲腸みたいなもの。その中身は、権利義務関係の創設であるよりは、宣言的な効果しか考えられず、「国民の3大義務」などと言うほどのことはない。
これに反して、旧憲法時代には、「兵役の義務」(20条)と「納税の義務」(21条)とが、主役級の条項としてあった。教育を受ける義務は勅令上のものではあるが、併せて「臣民の3大義務」とされた。統治権の総覧者である君主、あるいは君主が主権を有する国家に対する「臣民の義務」は、欽定憲法においてふさわしい位置を占めていた。宣言的な効果にとどまらない、国家と臣民の間の権利義務関係創設規定と理解することが可能である。
現行憲法の盲腸にしか過ぎない「国民の義務」規定を、戦前の主役級の権利義務創設規定に格上げしようというのが自民党の改憲草案なのだ。そのような役割を担うものが、同草案102条「全て国民はこの憲法を尊重しなければならない」という「国民の憲法尊重義務」規定である。
国民の義務が、盲腸ではなくなる例証として、草案の第3条を挙げることができる。憲法に、「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする」と書き込むだけではなく、「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」(3条2項)と、国旗国歌尊重義務を謳う。これと同様に、盲腸同然の国民の義務3か条は、具体的な義務創設規定として主役級の位置を占めうることになる。憲法の構造を大転換したことの効果の一つである。
恐るべし、自民党憲法改正草案。
本日も、新装開店大サービス。
『携帯本のこと』
電話に固定と携帯があるように、本も同じだ。たとえ片時も離したくないと思っても、「ヒマラヤ植物大図鑑」(吉田外司夫解説 山と渓谷社)とか「入江泰吉写真集 法隆寺」(小学館)などは絶対固定だ。重くて持って歩けやしない。外出したり、旅行するとき持って行く携帯本の筆頭は、カレル・チャペック「園芸家12カ月」(中公文庫)だ。213ページ、140グラムのこの本を出かけるときは必ずバックに入れる。リュックサックにも入れてある。「その絶妙のユーモアは、園芸に興味のない人を園芸マニアにおちいらせ、園芸マニアをますます重症にしてしまう。無類に愉快な本」と裏表紙に紹介されている。たとえば「4月の園芸家」のところは「4月、これこそ本格的な、恵まれた園芸家の月だ。・・・話を芽にもどそう。どうしてだかわからないが、ふしぎなくらい何度でもやる。枯れ枝を一本ひろおうとして、でなければ、いまいましいタンポポの根を抜こうとして、花壇に足を入れる。するとたいがい、土の下にあるユリかキンバイソウの芽をふむ。足の下でポキッという音がすると、おそろしさとはずかしさでからだじゅうが寒くなる。この瞬間には誰でも、自分がまるで、そのひづめで踏んだ場所には草がはえなくなる、なにかの怪物のような気がする。でなければ、最大限の用心深さで、花壇の土をそっとやわらかに耕す。ところが、その結果は、かならずうけあいだ。芽の出ている球根を鍬でこま切れにしなければ、かならずアネモネの芽をシャベルで切り落とす。」といった具合だ。どこを開いてもいい。何回読んでもおかしくて笑い転げる。気分がうきうきしてくる。
しかしながら、著者のカレル・チャペック(1890年?1938年)はこの本の軽妙洒脱さからはとうてい想像できない生涯をおくった人だ。チェコ(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)の誇る国民的大作家でジャーナリストであった。戯曲「R.U.R」のなかで、ロボットという言葉を作ったといわれている。大作「山椒魚戦争」を書いて、第2次大戦中、アドルフ・ヒトラーとナチズムに渾身の戦いを挑んだ 。残念ながら、1938年病死した。翌年ドイツ軍がプラハを占領して、ゲシュタボがチャペック邸を襲撃したとき、チャペック夫人は夫の死亡を皮肉を込めて告げたという。
そして、「園芸家12ヶ月」のユーモラスな挿絵を描いているのは、カレルの同士としていっしょに仕事をしてきた実兄のヨゼフだが、彼は占領してきたナチスドイツによって逮捕され、1945年強制収容所で殺されている。カレルだって生きていれば同じ運命をたどったにちがいない。
そんな気配を微塵も感じさせない「園芸家12ヶ月」は、病めるときも飢えるときも良き生涯の友となってくれるはずだ。今日もお出かけにはこの一冊を。