私は教育者ですよ。籠池さんと同業だ。もっとも、スケールはウチの方がはるかに大きい。権力との結びつきも、格段に深く緊密だ。森友学園問題と、ウチの問題とが同列というわけはないよ。格が違うんだから。影響の大きさも、うんと違うだろうね。
私のことを、「教育者ではなく『教育屋』じゃないか」とか、「学校屋」「授業料商売人」「教育産業経営者」、あるいは「補助金経営者」とかの悪口をいう人ももちろんいるさ。しかし、あれはすべてがやっかみ。気にしている暇はない。
ときおり、どんな教育理念をもっているのかと人から問われたりもする。ウチの学園歌というものがあってね、1番から6番までの最後のフレーズがリフレインになっている。「求めてやまぬ 建学の 理想の花に 酔いしれん」というんだ。あの歌詞、恥ずかしながら私と親父が作った。だから、「求めてやまぬ建学の理想」とはなんでしょうか、と聞かれるわけ。
でも、こいつは愚問。ウチに建学の理念も精神もない。真理の探究とか、学の独立とか、豊かな情操とか、人格の陶冶とか、主権者としての教養とか、そんなきれいごとのタテマエで生徒が集まるはずはなかろう。
大切なのは、「時代の流れを見据えながら、社会のニーズを先取りした特色ある教育」。これに尽きるね。飽くまで、社会が望む人材を育てることで、これ以外にはない。「長い物には巻かれろ」「出る杭は打たれる」という処世訓があるだろう。だから、我慢して「巻かれよう」「引っ込もう」と自制する人材ではダメなんだ。我慢などすることなく、心底、権力にも企業にも従順で、迎合的で、忖度が的確で、上のご意向に逆らわず、社会からはみ出ることのない人間。そのような、現体制・現政権が望む人物、企業が理想とする人材を育てること。それが、ウチの教育理念といえば言えるかも。
人権だとか、労働者の権利だとか、俺にもプライドがあるだとか、自分でものを考えようなんて、そんな人物を企業が喜んで採用すると思うか。現実的に考えてもみていただきたい。時代は21世紀。私たちを取り巻く社会は、とても複雑なものになっている。到底、凡夫ごときがこの複雑な世を自らの意思や理念を貫いて生きていくことなどできるはずもない。だから、学校教育も、徹底して社会に適応できる人材育成を心がけなければならない。そのような教育指導、カリキュラム編成、さらには教育環境の整備がウチの教育方針。
もう少し有り体に言えば、「社会に適応」とは「世渡り上手」であること。世の表と裏とを見分けて、上手に生きていく術を教えること。それこそがあるべき教育であり、社会から求められている教育であり、なによりも経営として成功する教育なんだね。当たり前のことだ。
大事なのは、このカネの世を生き抜く手練手管。政治や中央行政や地方自治体にどのように食い込んで、ビジネスチャンスとし金儲けの道具とするか、それこそが私の実践を通じて、子どもたちに教えていること。これは実に教育的なことがらではないかね。
何しろ、時の総理大臣が私のことを「どんな時も心の奥でつながっている友人、まさに腹心の友だ」という仲。これをビジネスに活かさぬ手はなかろう。学校教育は、緊密に認可行政と結びついている。事業拡大の要諦は、人脈を最大限に活用して、チャンスを逃さないことだ。これも当たり前のことだがね。
このたびは、晋ちゃんにはよく働いていただいた。もとはと言えば、ウチの学園の監事だったひと。それだけでなく、やはり腹心の友だ。たよりになる。晋ちゃんのえらいところは、敢えて瓜田に沓をいれて律儀に友情の証しを示してくれたことだ。なかなかできることではない。
そして、晋ちゃんの奥さんにも世話になった。ウチが経営する保育園の名誉園長におさまっている。これは、行政への睨みをきかすのに貴重な存在。それだけでなく、萩生田官房副長官も元はウチの大学の客員教授として録を食んでいた人。井上義行元首相秘書官も同じ立場だ。それだけじゃない。異例の人事として話題となった木沢克之最高裁判事も元は加計学園監事だ。また、元文部官僚で内閣参与だった木曽功が、現在はウチの大学の学長に就任し、ウチの法人理事にもなっている。そりゃあ、文科省の元高級官僚がいれば、なにかと便利だし心強い。今回の獣医学部設立認可問題でも、役人時代には後輩だったという前川事務次官に「よろしく」と声をかけてもらった。ウチの貴重な戦力だ。
どうだ。ウチと権力中枢との結びつきは縦横無尽。全てがメシのタネになっているというわけだ。たった一つの計算違いは、これまでは誰の目にも触れずに、闇の中でことを進めていくことができたんだ。ところが、このたびだけはどういうわけかすっかりことが露見して、私と晋ちゃんが、私利私欲のために政治を汚した、行政をまげたと、悪者になったような報道姿勢。いったい突然に何があったのだろう。やはり陰謀以外には考えられないな。
とはいうものの、これまでは順調にうまくやってきた。なにもかにも、究極はカネの力だ。そして、権力と結びつき、権力を利用しようという意思の力だ。ウチの学園で学ぶ子どもたち、若者たちは、このことをよく身につけて社会に出る。どう。やっぱり私は、教育者だろう。
(2017年6月1日)
本日(5月31日)の各紙朝刊が、沖縄県の国に対する提訴の方針が固まった旨を報じている。国は強引に名護市辺野古の新基地建設工事を強行している。これを差し止める訴訟。翁長知事は6月県議会に必要な議案を提案して予算措置を確保し、7月にも提訴の予定とのこと。県議会の議席配分は翁長知事を支える与党が多数を占めており、訴訟に必要な議案は可決される見通し。提訴した場合には併せて、判決が出るまでの工事の中断を求める仮処分も申し立てることになる。
本日の琉球新報社説は、ボルテージが高い。「『辺野古』で国提訴へ 堂々と県の立場主張せよ」というタイトル。主要部分を引用しておきたい。
「法的な疑義を残したまま、沖縄の民意に反する工事を強行する国の不当性を追及する場となる。堂々と県の立場を主張してほしい。
名護市辺野古での新基地建設工事で岩礁破砕許可を得ないまま作業を進める国に対し、県は7月にも工事差し止め訴訟を起こす。県議会6月定例会に、訴訟費用に関する議案を提出する。
翁長雄志知事は『あらゆる手段を使い、辺野古新基地建設を阻止する』と言明してきた。その一手としての国提訴であり、支持したい。
仲井真前知事が国に出した岩礁破砕許可の期限は3月末で切れている。それにもかかわらず、国は工事を強行した。沖縄側からすれば、岩礁破砕許可の免許を更新しないまま無許可で工事を強行し、辺野古の貴重な海を破壊していることになる。
辺野古新基地問題に絡んで、国は事あるごとに『法治国家』という言葉を用いて新基地建設を正当化してきた。しかし、法を逸脱する行為を繰り返してきたのは国の方だ。
法廷ではこのような国の姿勢が厳しく問われるべきだ。提訴に向け、県は論理構築を急いでほしい。さらには埋め立て承認の撤回にも踏み込むべきだ。」
同社説は法的な論点を次のように解説している。
「訴訟では名護市漁業協同組合による漁業権の一部放棄後、県に対する岩礁破砕許可の再申請が必要か否かが争点となる。
国の立場は、岩礁破砕許可の前提となる漁業権が消滅したため、再申請の必要はないというものだ。1988年の仙台高裁判決を論拠としている。しかし、正反対の判決も出ており、判例は確定したとは言い難い。
県の立場は、名護市漁協が放棄した漁業権はキャンプ・シュワブ周辺の一部であり、法的には『一部放棄による漁場の縮小』という『変更』に当たるため岩礁破砕許可の再申請は必要と主張してきた。」
馴染みのない論点で、必ずしも分かり易くはない。
辺野古新基地建設工事の是非を巡っては、公有水面埋立法に基づく県知事の承認取消の違法をめぐる訴訟が先行した。同法4条は、「其ノ埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノ」と認められない限り、知事は「埋立ノ免許ヲ為スコトヲ得ズ」と明記されている。国が埋立を申請する場合は、「免許」といわず「承認」というが(42条)同じこと。今さらながらの繰り言だが、仲井真前知事が県民を裏切って国に埋立承認をしなければ、大浦湾の埋立工事はできなかったわけだ。
仲井真承認に対する翁長取消の効力が争われたのが先行訴訟だったが、新たな提訴で解釈が問題となる法規は、沖縄県漁業調整規則である。条例ではなく、県知事が定めた規則。漁業法と水産資源保護法から授権された法の主たる趣旨は、「漁業調整」と「水産資源の保護」にある。
県漁業調整規則第39条は、「漁業権の設定されている漁場内において岩礁を破砕し、又は土砂若しくは岩石を採取しようとする者は、知事の許可を受けなければならない。」となっている。国が、新基地建設のために大浦湾の埋立工事をするためには、公有水面埋立法に基づく県知事の承認だけでなく、漁業調整規則第39条にもとづく「岩礁破砕許可」を得なければならない。仲井真前知事はこれも与えた。その許可の期限が今年の3月末まで。
県は国に対して、期限が切れた「岩礁破砕許可」の更新手続をするよう行政指導を行っているが、国(沖縄防衛局)はこれを無視している。話し合いの機会さえ持とうとしない。国は、今や知事の「岩礁破砕許可」は不要との見解なのだ。「漁業権の設定されている漁場内での岩礁破砕についてだけ許可が必要だ。しかし、漁業権の主体であつた名護市漁協が漁業補償に満足して、漁業権放棄の手続をした以上は、許可も更新手続も不要」というのだ。これに対する沖縄県の立場は前述の社説が解説しているとおり。
先行訴訟の判決の論理は、余りにも一方的に国の立場に肩入れをした、政治性の高いものとして評判悪いものだった。「政治判決」であり、「忖度判決」でもあったのだ。今度は、真っ当な法律論を展開した判決に接したいものである。
また、琉球新報の社説は、こうも述べている。
「県は仲井真弘多前知事の埋め立て承認書の規定を踏まえ、本体工事前の事前協議を求めたが、国は協議打ち切りを県に通告した。漁業権を巡る国と県の主張は対立したままだ。
漁業権放棄と岩礁破砕許可を巡る法的対立がある以上、国は少なくとも県が求める事前協議に応じるべきであった。現在の沖縄に対する国の態度は、民主主義や地方自治の精神にもとる『問答無用』というべきものだ。」
押さえながらも、国の傲慢な態度に、怒りを禁じえない県民の気持ちが伝わってくる。がんばれ沖縄。アベ政権に負けるな。
(2017年5月31日)
圧力など一切ありません。はっきり申しあげておきます。昨日(5月29日)の参院本会議で申しあげたとおり、ワタクシが総理として「圧力を働いた」などということは一切ございません。常識でお考えください。一国の総理であるワタクシの口から、実は「ワタクシの腹心の友が理事長を務める学校法人「加計学園」が国家戦略特区に獣医学部を新設する計画について、国家戦略特区諮問会議を主宰するワタクシ自身が圧力を働いて行政をねじ曲げました」などと告白できるはずがないじゃないですか。
新学部設立認可に至るいずれのプロセスも関係法令に基づき適切に実施しており、なんの問題もありません。もしあなたが、この経過を「不自然だ」とか、「透明性に欠ける」「説明責任が果たされていない」とか、あるいは何らかの忖度や圧力があったのではないかなどとお考えだとすれば、それはあなたの目の狂いによるものです。反日的な陰謀に乗せられて偏向しているのが原因と、自らを反省してください。偏向はいけません。すぐに糺さなくては。
とりわけ、突然に銓衡基準が変更されて加計学園一本に絞られたプロセスが不透明な疑惑と指摘されているようですが、疑惑があるというのなら、まずはちゃんとした証拠を出してくださいよ。ちゃんとした証拠も出さずに、圧力だの忖度だのというのは無責任じゃないですか。
あんな8枚の怪文書、ちゃんとした証拠にはなりませんよ。あんなもの。前川喜平・前文部科学事務次官の証言なんかダメですよ。あんな人。もっとちゃんとした証拠でなくっちゃ。文書なら作成名義と公印のはいった公文書。証言なら、在職中の人が職を掛けてお話しするのでなくては。辞めた人が、辞めたあと腹いせにしゃべったことなど信用できますか。それに、常に公正で偏向していないメディアとして知られている読売新聞が報じているとおり、いろいろ問題のある人ではありませんか。
「総理のご意向」とか、「官邸の最高レベルが言っていること」という、あの怪文書。文科省で真摯に調査をしたんですよ。でも、その結果、該当する文書の存在は確認できなかったと承知しています。誰がなんと言っても、確認できないものは、存在しないのです。あるものをないと言っているのではありません。ないものをないと言っているのです。黒は黒、青は青と言ったのですから、いったいどこに問題があるというのでしょうか。
ワタクシはですね、規制改革を全体としてスピード感を持って進めるよう常に指示してきたんですよ。規制緩和には必ず根強い抵抗勢力が存在します。既得権益にしがみついて、「労働者保護法制を守れ」とか、「消費者の権利を守れ」とか、食の安全が大切だ、危険な薬やサプリメントを取り締まれ、など言う輩が抵抗勢力ですよ。ワタクシは、これらの抵抗勢力と精一杯闘って、規制改革を推進しているんです。だから、そりゃ、「労働者の敵」、「消費者利益の敵」、「製薬企業やサプリメント業者の手先」、「大企業の走狗め」とワタクシの評判は悪いんです。
でも、規制緩和の推進に関しては、安倍内閣は決して抵抗勢力に屈することはありません。政局目当てで既得権益に妥協したり、抵抗勢力と手を結ぶようなことは決してしません。これからも、総理大臣であるワタクシが先頭に立って、内閣の総力を挙げてあらゆる岩盤規制に穴を開けて、企業利益擁護に徹した挑戦を続けていく決意です。そういう心意気で、ワタクシは、加計学園獣医学部設立認可の道を開いたのです。この場合の抵抗勢力って何か。もちろんワタクシに逆らう人々のことですよ。
これまでは獣医の人員過剰で、獣医学部設立の必要なしといわれていた岩盤規制でした。これをワタクシが骨を折って、ドリルで穴を開けたのです。長年の友人である同学園の理事長のために利益誘導を図ったのではないか、とは木を見て森を見ない類の近視眼的なものの見方。
ワタクシが大好きな、教育勅語にこうあります。「爾臣民…朋友相信シ(なんじしんみん、ほうゆうあいしんじ)」と。なんと言われようとも、ワタクシと腹心の友とが親友として、相信じて支え合い、お互いのために利益をはかり合っているのですから、これは美談ではありませんか。
今日(5月30日)になって、さらに報道がエスカレートしています。一番ひどいのが朝日新聞。
前川氏は、昨年9?10月に和泉洋人・首相補佐官と首相官邸に呼び出され、首相官邸の補佐官室で和泉氏と2人きりで複数回面会した。その際に、「総理は自分の口から言えないから、ワタクシが代わって言う」と言われたことをはっきり覚えている。「獣医学部新設を早く認めるよう求める趣旨だった」「『加計学園』という具体名は出なかったと記憶しているが、加計学園の件であると受けとめた」という記事。
なるほど、前川さんの証言は、内容が具体的で確かに臨場感があります。でも、一方の話だけを信じてはいけない。和泉洋人・首相補佐官は、ちゃんと「記録が残っておらず、確認できない」と言っているではありませんか。記録がなければ、事実もなかったということなのですよ。
お分かりでしょう。事実の認定は、歴史の見方と同じです。南京大虐殺も、従軍慰安婦強制連行も、あなた方は「あった」というが、ワタクシは「ない」と信じています。忖度も圧力も「ない」のですよ。だって、記録がない。ちゃんとした証拠もないんですもの。ちゃんとした、ワタクシが納得できる証拠がね。
だから、前川さんの国会での証言なんて絶対に認められるはずはない。表向きこそ、「国会が決めること」なんて言ったけど、本当はそんな余裕はない。必死に圧力をかけまくって、忖度させているところなのですよ。
(2017年5月30日)
商業活動を行う者にとって、信用とはかけがえのない大切なものだ。商業の世界で、一度失った信用の回復は極めて困難である。目先の利益に飛びついて、信用を失うことは愚の骨頂なのだが、ついつい判断を誤ってあとで後悔するのが、愚かな人の性というもの。
江戸期の商道徳は信仰と結びついていたという。近江商人が真宗を信仰して、商業による自己の利益を顧客への奉仕による「御利益」と観念したことが広く知られている。彼らにとっては、日常の商業活動が菩薩行であって、顧客からの信用の保持は、経済的な打算よりは、むしろ信仰上の規範であったようだ。だから、老舗は近視眼的に判断を誤ることが少なかったと説かれる。
ジャーナリズムは権力に毅然としていなければならない。権力から独立しているとの社会的信用が、ジャーナリストにとってはかけがえのない財産である。「政府の公報担当」「権力の走狗」とレッテルを貼られて一度失った社会的信用の回復は極めて困難である。目先の利益に飛びついて、大切なジャーナリストとしての社会的信用を失うことは愚の骨頂なのだが、ついつい判断を誤ってあとで後悔するのが、浅はかな御用新聞の性というもの。
ジャーナリストとは、本来が本能的な権力批判者である。ジャーナリストの倫理とは、在野、反権力に徹した精神である。権力者と一緒に寿司を食えるセンスの持ち主はジャーナリストを志望してはならない。日常の取材論評の活動の根底に健全な権力批判の精神のあることが、社会的信用の根源である。そのジャーナリスト・スピリットは、記者の内奥に沈淪する倫理であって、打算とは無縁なもの。だから、尊敬されるジャーナリストは、すべからくやせ我慢をしてでも権力批判に徹している。
今や、アベから「読売新聞をよく読んで」と言われ、政府の窮地を救うべく、忠犬役を買って出た読売である。「政府広報紙と堕した」「アベ政権の走狗となった」と言われて、社会的信用を失墜した。その読売が、腹心の友学園問題についての社説を書いている。一昨日(5月27日)のことだ。
タイトルは、「加計学園問題 『特区指定』の説明を丁寧に」というもの。このタイトルで、読売が記事を書けば、アベ政権の走狗となるべくシッポを振って、自社の紙面を大きく割いたスキャンダル記事をどう釈明しているかの興味しか湧かない。今後しばらくは、読売の記事は、読売とアベ政権との距離についてどう書いているかだけの関心しか持てない。信用回復は困難と言うよりは、もう無理ではないだろうか。
と思いつつ、我慢して社説を読んでみよう。読めば、どうしても、突っ込みをいれたくもなる。
「前次官が在職中の政策決定を公然と批判する。異例の事態である。政府には、疑念を払拭する努力が求められよう。」
前次官の私的スキャンダルを暴く記事を掲載して、前次官の内部告発(公益通報)を妨害し、政府の疑念払拭懈怠の姿勢を援護した読売ではないか。まずは、自らの襟をただして、その姿勢の反省から出発せよ。
「学校法人『加計学園』が愛媛県今治市に大学の獣医学部を新設する計画を巡って、前川喜平・前文部科学次官が記者会見し、早期の学部開設は『総理の意向』と記した文書について『確実に存在していた』と明言した。内閣府との協議を踏まえ、文科省の担当課が作成したという。」
当該の文書の受領者の証言なのだから、疑問の余地のないこと。さすがに、読売もこの点に疑義をはさむことができないようだ。
「疑問なのは、前川氏が国家戦略特区による獣医学部新設を『極めて薄弱な根拠の下で規制緩和が行われた』と批判したことだ。」
それだけではない。「職員は気の毒だ」「赤信号を青信号にさせられた」とも語っている。読売は、政権にとっての不都合を、すべからく「疑問」というわけだ。
「獣医師の需給見通しなどが十分に示されないまま内閣府に押し切られたとして、『行政のあり方がゆがめられた』とまで語った。これが事実なら、なぜ現役時代に声を上げなかったのか。」
読売さんよ、自分のこととしてお考えいただきたい。現役の読売記者が、公然と「当社は政府広報機関と堕した」「読売はアベ政権の走狗となった」「ジャーナリズムの倫理を失った」「クォリティペーパーとしての社会的信用を失墜した」と声を上げることができると考えられるか。
「規制改革を主導する内閣府と、業界保護の立場から規制の例外を認めたくない関係省庁が対立することは、ままある。」
これが政権の構図。読売も、この件をそんな対立図式として見ているのが「権力の走狗」たる所以。もっと別の見方は、種々あり得る。また、仮に読売社説図式でものを見たとしても、「業界保護の立場から規制の例外を認めたくない関係省庁」とは、この場合文科省ではなく、農水相であり厚労省であって、文科省ではない。
「問題は行政手続きの適正性であり、菅官房長官は『国家戦略特区法に基づく手続きを経た』と強調している。」
信じがたい愚論。「問題が行政手続きの適正性である」なら、その具体的な検証をすべきが大新聞の責務であろう。権力側の言い分だけを引用してこと足れりとしているその姿勢は、まさしく「政府広報紙」と呼ぶにふさわしい。
「与党は、野党による前川氏の証人喚問要求を拒んでいる。政府は文書の存在を否定し、文科省の再調査も必要ないとしているが、その主張はやや強引ではないか。野党は、安倍首相が長年の友人の加計学園理事長に利益誘導したのではないか、と追及する。官僚が忖度した可能性も指摘する。首相は、「学園からの依頼は一切ない」と述べ、加計学園の特別扱いはなかったと言明している。内閣府も、『総理の意向』との発言や、首相の指示を否定する。政府は、特区を指定した経緯や意義について、より丁寧かつ踏み込んだ説明をすべきだろう。」
何と生温い。政権におもねって遠慮がちな、みっともない読売。一省の事務次官が、「極めて薄弱な根拠の下で規制緩和が行われた」「行政のあり方がゆがめられた」と断定しているのだ。首相の腹心の友の私的な利益のために、行政がゆがめられたとの指摘が本質的な問題。これを「より丁寧かつ踏み込んだ説明をすべきだろう」は、問題を説明の仕方、丁寧な説明の不十分にすり替えようという邪悪な魂胆。こんな社説でよかろうはずがない。
「今治市は2007年以来、特区指定申請を15回も却下された。民主党政権下の10年に「対応不可」から「実現に向けて検討」に格上げされ、16年に認められた。獣医学部は1966年を最後に新設が認められていない。獣医師の過剰を防ぐためだが、専門分野や地域で偏りがあり、開設を求める声も根強い。まず特区に限定した規制緩和は理解できよう。」
いや、理解できない。それは大新聞の言うべきことではない。新聞社の責任をもって「獣医師の専門分野や地域で偏りがある」のか否かを調査した後でなくては軽々に政権の肩をもった意見を述べるべきではない。
「規制緩和は安倍政権の重要政策であり、仮に首相が緩和の加速を指示しても問題はあるまい。」
とんでもない。問題大ありである。規制緩和一般を善とする無原則な姿勢こそ、権力にある者の利権や、政治の私物化の根源ではないか。
「野党は、首相の交友関係に焦点を当て、学校法人「森友学園」問題と関連づけている。しかし、獣医学部誘致は今治市が中心になって長年取り組んできた懸案だ。同列に論じるのは無理があろう。」
読売の正体見たり、である。今治市への獣医学部誘致は、安倍晋三という政治家の腹心の友の利益と一体であった。長年取り組んできてできなかった懸案が、国家戦略特区構想として突然に実現したからおかしいと言っているのだ。他の有力候補に優越して、どうして腹心の友学園だけに絞られたかも疑惑だらけ。
世は闇だ 赤は青なり 黒も白
読売の紙面凍てつく 寒さかな
やせがえる負けるな アベにもメデイアにも
(2017年5月29日)
昨日(5月27日)の公益財団法人第五福竜丸平和協会2017年度定時評議員会で、協会人事が大きく入れ替わった。協会の歴史にも反核運動にも、節目の時を感じる。
これまで長く代表理事を務めて、第五福竜丸の顔として知られた川崎昭一郎さん(千葉大名誉教授)が退任され、新たな代表理事に山本義彦さん(静岡大学名誉教授)が選任された。初代・三宅泰雄、2代・川崎昭一郎に続く、3代目の代表理事である。なお、川崎さんに代わる新理事として、高原孝生さん(明治学院大学教授)が選任された。
新理事会メンバーは以下のとおり。
・奥山修平(中央大学教授)
・川口重雄(高校教諭、丸山眞男手帖の会代表)
・坂野直子(日本青年館職員)
・高原孝生(明治学院大学教授・新任)
・山本義彦(静岡大学名誉教授・代表理事に)
理事だけでなく、評議員も大きく入れ替わった。浅見清秀(元都労連副議長)、岩佐幹三(被団協)、岩垂弘(元朝日新聞記者)、猿橋則之、高原孝生(理事に)の諸氏が退任して、新評議員会は以下のメンバーとなった。
・大石又七 (元第五福竜丸乗組員)
・桂川秀嗣 (東邦大学名誉教授・物理学者)
・岸田正博 (墨田山多聞寺住職)
・榛葉文枝 (元中学校教諭)
・日塔和彦 (文化財木造建造物修復)
・竹内 誠 (東京都生活協同組合連合会専務理事) (新任)
・長田三紀 (全国地域婦人団体連絡協議会事務局長)(新任)
・西原美香子(日本YWCA常務理事/総幹事) (新任)
・山田玲子 (東友会副会長、日本被団協中央相談所委員長)(新任)
・若林克俊(自治労東京元執行委員、東京平和運動センター副議長)(新任)
なお、私は浦野広明さんとともに、もう1期(任期4年)監事を務める。
会合のあと、新旧役員の懇談会があって、顧問の杉重彦さん、山村茂雄さんらも出席され、全員のスピーチがあった。大石又七さんも、やや不自由なお体で出席され、思いの丈を語られた。
岩垂弘さんのスピーチだけを紹介しておきたい。
ビキニ事件が世を震撼させた1954年3月、岩垂さんは高校を卒業して大学に入学直前の時期だった。入学早々の早稲田での集会で、当時の総評事務局長高野実の原水爆反対運動への呼びかけの演説が印象に深いという。そして、岩垂さんは、夢の島に捨てられた第五福竜丸を記者として取材することとなり、その契機から反核運動の報道に携わることとなった。
岩垂さんは、初代三宅泰雄さんの原水禁運動における功績を、次のように語った。
「当時の原水禁と原水協との組織的対立は、一緒に運動することができないなどというレベルではなかった。お互い同席もできないんですよ。両者の反目激しいなかで、唯一、第五福竜丸の運動だけが、両組織が共同して参加できるもので、それは三宅さんが心を砕いた結果だった。」
そして、「2代目川崎さんの時代は、三宅さんの築いた基礎の上に、順調に広く社会に第五福竜丸の保存・展示を中心とした反核平和運動を展開した時期だった。今、時代は移り、ビキニも第五福竜丸も知らないという若い人々が増えている。この時期に、これまでの遺産をどう活かすか。それが3代目・山本代表理事の課題となることでしょう。」
おそらくは、同席する人々の賛意を得たスピーチであったと思う。
同日の会合で配布された資料の中に、昨年(2016年)の「展示館開館40周年」を伝える幾つかの新聞報道のスクラップのコピーがある。いずれも、「開館以来40年間で、来場者総数は530万人になっている。」と、核実験の被害を伝えてきた意義を確認しつつも、朝日は、「だが、原水禁運動の起点になったビキニ事件を知らない世代が増え、最盛期には30万件を超えた年間来館者数も、東日本大震災発生後の2011年度に10万人を割り込むなど、下落傾向に歯止めがかからない」と辛口の報道。対して、東京新聞は、「来場者の4分の1は学校見学できた子どもたち。成人して子供を連れてくる人もいる。世代を超えて、記憶を継承する役割を果たしている」と明るい展望を描いている。もちろん、両面とも真実。現実を見つめつつ、反核・平和に寄与する運動を進めなければならない。なお、2016年度(16年4月1日?17年3月31日)の年間入館者数は10万人の大台を回復している。山本義彦新執行部の幸先は悪くない。
公益財団法人第五福竜丸平和協会の公式サイトのURLは以下のとおり。よろしくご協力、ご支援のほどを。
http://d5f.org/kyokai.html
(2017年5月28日)
醍醐聡さんから下記のご連絡をいただいた。
お知り合いの皆様へ
ここ数日、文部科学省の前川喜平・前事務次官の証言を機に加計学園問題をめぐって緊迫した政治状況になっています。
そうした中、私も参加する「森友問題の幕引きを許さない市民の会」主催で6月13日に次のようなシンポジウムを開きます。
http://sinkan.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-7be4.html
「森友・加計問題を考えるシンポジウム」
日 時 6月13日(火)14時30分?(14時から入館証渡し)
会 場 衆議院第一議員会館 大会議室(地下一階)
パネリスト 小川敏夫(民進党 参議院議員)
宮本岳志(日本共産党 衆議院議員)
杉浦ひとみ(弁護士)
青木 理(ジャーナリスト)
コーディネ?タ? 醍醐 聰(東京大学名誉教授)
主 催 森友問題の幕引きを許さない市民の会
資料代 500円
◆ご参加と広報にご協力ください
シンポジウムのチラシのURLは次のとおりです。
http://sinkan.cocolog-nifty.com/LASTsin-moritomo210x297outlined.pdf
◆当日は早めにお出かけください
会場の収容人数は300人です。消防法の規制のため、入館証は300人分しか、発行されません。300人に達したところで受付は終了します。
参加くださる方は入館証渡しを始める時刻(14時)より早めに会場へお出かけください。
◆昭恵夫人らの証人喚問を求める署名の広報にご協力ください
今、こういう取り組みもやっています。
ツイッター、FACEBOOK、をお持ちの方は下記URLから、
リツイート、シェア、いいね、等で拡散していただけるようお願いします。
安倍昭恵氏らの証人喚問を求める署名(ツイッター)
https://twitter.com/toketusa98/status/867852029019832320/photo/1
安倍昭恵氏らの証人喚問を求める署名(FACEBOOK)
https://www.facebook.com/NHKhouiJikkoCOM/posts/552549888466533
諸々のサイト
・署名用紙のダウンロード: http://bit.ly/2qkwucT
・ネット署名のフォーム: http://bit.ly/2rdgyXe
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よろしくお願いいたします。
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安倍昭恵氏らの証人喚問を求める署名運動、今日からスタート(2017年5月17日)
政府・与党は安倍夫妻が疑惑の中心にいる森友学園問題の幕引きを図ろうと執心しているが、逆に疑惑は深まる一方である。8億余円もの値引きの根拠として、地下9mのゴミの撤去費用が挙げられてきたが、工事業者自身、そのようなゴミの存在を確認していないと語っているし、籠池理事長も約3m以上、掘った覚えはないと証言している。国会でも、地下9mとは沖積期時代の地層であり、そのような地層にゴミが存在するはずがないという指摘もされている。
このような指摘に対し、安倍首相は悪意の「印象操作」と突き放すばかりで、疑惑を払しょくする答弁を全く行っていない。昭恵夫人に向けられた疑惑についても「妻は妻は」と無内容なはねつけを続け、夫人の証人喚問をかたくなに拒む一方で、野党を挑発するすり替え答弁を切れ目なく続けている。
しかし、昨日、今日の報道では疑惑は加計学園(岡山市内の学校法人)にも及んでいる。政府が国家戦略特区として同学園が新設を計画していた獣医学部を認定するにあたって、内閣府が文科省に対し、「安倍首相の意向だ」と伝えた文書があるという指摘が国会で出された。
このように安倍首相がらみの疑惑が深まり、広がるなか、各界の有志15人は連名で「安倍昭恵氏ほかの国会証人喚問を求める要望署名」の運動を企画し、準備が整った今日から、この署名運動をスタートさせた。署名用紙の全文は次のとおりである。
署名の第一次集約日 6月14日
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安倍昭恵氏ほかの国会証人喚問を求める要望署名
衆議院議長 大島理森 様
参議院議長 伊達忠一 様
呼びかけ人
池住義憲(元立教大学大学院特任教授)/太田啓子(弁護士)/丘修三(児童文学作家)/きどのりこ(児童文学作家)/小林和子(『週刊金曜日』編集長)/笹井明子(老人党リアルグループ「護憲+」管理人)/佐々木江利子(児童文学作家)/杉浦ひとみ(弁護士)/醍醐聰(東京大学名誉教授)/武井由起子(弁護士)/根本仁(元NHKディレクター)/藤田高景(村山談話を継承し発展させる会・理事長)/八木啓代(健全な法治国家のために声をあげる市民の会・代表)/湯山哲守(元京都大学教員・NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ)/ 渡辺眞知子(キリスト者政治連盟)
森友学園問題に関するどの世論調査をみても回答者の7,8割が「政府の説明に納得できない」と答えています。その最大の理由は鑑定価格9億円余の国有地が約8億円も値引きされて森友学園に払い下げられた経過、根拠について政府が納得のいく説明をしていないことにあります。また、国有地払い下げの経過を記した公文書を廃棄したと繰り返す財務省理財局の答弁にも強い批判が向けられています。
さらに、時の総理大臣夫人・安倍昭恵氏が、教育勅語を礼賛するなど教育基本法の理念に反する教育を進める森友学園の小学院(2017年4月開校予定)の名誉校長に就任したことに批判が起こっています。また、昭恵氏が同夫人付きの政府職員を介して、問題の国有地の払い下げに深く関与していた疑惑も指摘されています。にもかかわらず、安倍夫人が沈黙を続けていることに批判が広がり、安倍夫人も籠池泰典氏と同じ条件で証人喚問を行うべきという意見が高まっています。
そこで私たちは、皆院議長に次のことを申し入れます。
申し入れ
安倍昭恵氏、迫田英典氏(前財務省理財局長)、武内良樹氏(前財務省近畿財務局長)、田村嘉啓氏(財務省国有財産審理室長)、松井一郎氏(大阪府知事)、酒井康生氏(森友学園元弁護士)をすみやかに国会に証人喚問し、国有地の格安売却など森友学園をめぐる一連の疑惑を徹底究明すること
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私たちは主権者だ。私たち一人ひとりの意思の集積が政治を形づくることになる。一人ひとりの意思は、表現しなければ無に等しい。権力の理不尽には、怒りの声を上げなければならない。総理の友人や支援者への利益供与という私利私欲政治を許してはならない。
政治家や政党にお任せでも、メディアにお任せでも、主権者としての責務は果たせない。声を上げよう。
「アベ友学園事件の疑惑は解明されていないではないか。このままでの幕引きは許さない。」「腹心の友学園事件の疑惑解明はこれからだ。徹底して明らかにせよ」「二つの事件は偶然のきっかけで発覚した。実は、アベ政権が隠し通している疑惑の事件は、もっともっとあるのではないか」「全ての政治過程、行政過程の透明性を確保せよ」。
集会への参加や、署名によって、主権者としての怒りを表明しよう。
(2017年5月27日)
前川喜平前文科省事務次官の肚をくくった発言に驚いた。驚いただけでなく、爽快感と感動をさえおぼえた。なんと言っても、つい先日までの事務次官である。腹心の友学園設立認可問題の当事者中の当事者。その人が決然と、ホイッスルを吹き鳴ならしたのだ。政権への衝撃は計り知れない。
人は、どこかで迷いを吹っ切って決断する。後戻りのできないことを覚悟で、ルビコンを渡るのだ。多くの場合、自分のプライドを守るために。一寸の虫にも五分の魂があることを、自分にも言い聞かせ、人にも知ってもらうために。
この人の場合も、黙っていれば安穏な立場。政権に不愉快なことを言えば首が寒くなることは百も承知で、危険を冒して敢えて言わねばならないことを言ってのけたのだ。その心意気やよし。拍手を送りたい気分。
誰もが知っている。組織の中の人間は、組織に縛られている。発言も行動も組織に制約される。官僚機構において、人事権を握られている立場であればなおさらのことだ。「辞めたあとではなく、在職中に言うべではなかったか」とは、ためにする愚論。そんなことができるはずもない。在職中に言ってみろ。炙り出されて、叩かれ踏みにじられて追い出されるのがオチとなる。
今にして思えば、この人が天下り問題で引責辞任したのは、日本国民にとっての僥倖だった。しかも、「8枚のレク文書」について、政権が怪文書扱いとし、文科大臣に「存在を確認できなかった」と言わせたことも。「あったものをなかったことにはできないということを申し上げたい。」と、発言を決断したのだから。これも、菅官房長官のお手柄であったと言ってよい。
今や前川発言は、文書の存在・真正の問題をはるかに飛び越え、たくまずしてアベ政権の醜悪な心臓部を射貫くことになった。アベ政権の醜悪とは、総理の腹心の友の利益のために、行政機構をあげての密室政治のことだ。行政の公平・公正が大きく歪められていることだ。それを外に漏らさぬように内部を締めつけ、秘密が漏れそうになるとスキャンダル情報を収集し御用メディアを使って個人攻撃をする。これを醜悪と言わずしてなんと言うべきか。
幾つかの感想があるが、最初に述べておきたいのは、毎日新聞西山記者事件の苦い経験を思い起こさねばならないということ。スキャンダル問題への論点ずらしの策略に乗せられてはならない。
報じられているこの人のスキャンダルが真実かどうか、どの程度のものかは知る由もない。それがどのようなものであってもこの際問題ではない。問題は、政権がスキャンダルをもちだして、論点ずらしをたくらんでいることなのだ。
論点の中心は、飽くまで行政の公平・公正が害されたことにある。前川発言は、「非常に行政のあり方として問題だ。きわめて薄弱な根拠のもとで規制緩和が行われた。また公正公平であるべき行政のあり方がゆがめられたと認識している」「これ以上、行政のあり方をゆがめることがないようにしてほしい」と言っている。これが、腹心の友学園に大学設立認可を与えた文科省の事務方トップの言なのだ。
行政は公正公平なものでなければならない。しかもその過程が透明で、説明責任を全うするものでなくてはならない。いやしくも、総理の腹心の友に利益を供与するために行政がゆがめられてはならない。それだけではなく、行政の公正性に国民が信頼をおけるものでなくてはならない。疑惑を払拭できなければアウトなのだ。
「平成30年4月開学を大前提に、逆算して最短のスケジュールを作成し、共有いただきたい。これは官邸の最高レベルが言っていること」「総理のご意向」「30年4月で決まったことだ、大前提である」。こんな文字が踊っている文書がホンモノだというのだ。納得できる根拠の説明あるまでは、疑惑を否定しえない。
「いったん設置が認可された大学は、国民から預かった税金から私学助成もしなければならない。したがって大学の認可はきちんと根拠をもって行わなければならない。」「獣医師の将来需要について、農水省に、きちんと見通しをたててもらわないといけない。文科省としては将来の人材需要についてきちんと見通してくれなければ、責任がもてないといい続けてきた。ところが農水省、厚労省も明確な見通しを示してくれなかった。その中で規制改革が行われた。獣医学部の新設について特例を認めるという結論が出てしまった。」
このことをもって、「行政のあり方として問題」「きわめて薄弱な根拠のもとで規制緩和が行われた」「公正公平であるべき行政のあり方がゆがめられた」と言っているのだ。
「危険にして醜悪なるアベ政治」。もう、国民の手で舞台から降ろさねばならない、その潮時ではないか。
(2017年5月26日)
私は、歴史に記憶さるべき本日1925年3月7日のこの日、第50帝国議会通常会の衆議院本会議において、ただいま議題となりました治安維持法案について、賛成の立場から討論いたします。(拍手)
治安維持法案については、国民の一部から、とりわけ無産政党の諸君から、これは政府の恣意的な刑罰権の発動を許すことにつながる弾圧立法である、ひいては思想そのものを取り締まるもので近代刑法の原則を逸脱するなどという、いわれのない非難が浴びせられています。しかし、本法案は、国民の不安や懸念を払拭するのに十分な処罰範囲の限定と明確化が図られていることを、まずもって申し述べます。
まずは、構成要件が厳格に規定されている点です。
法案は、わずか7箇条。極めて簡明な条文となっています。その中心をなす第一条の条文を朗読いたします。
「國体ヲ變革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス」「前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス」極めて明確ではありませんか。
この構成要件における行為は、「結社を組織すること」または「情を知って結社に加入する」ことです。しかし、全ての結社が違法となり禁止されるはずはありません。本罪はこれを限定し、目的犯として「國体ヲ變革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的」とする結社のみが、違法とされるのです。「國体ヲ變革」しようという皇国臣民にあるまじき目的、また「私有財産制度ヲ否認」という唾棄すべき共産主義や無産主義者だけを処罰するものであることが、法文上明確に限定されています。畏れおおくも、皇室の尊厳を否定しようと言うがごとき、非国民や一部の極端な主義者だけが、処罰対象で、さらに、主義そのものを処罰するのではなく、「結社」や「加入」という外部に明らかな行為があって初めて処罰が可能となるのですから、内心の自由を害するのではないかとの懸念も払拭されております。このような何重もの限定により、これらの非国民集団との関わりを持たない一般の善良な国民が処罰されることはなく、まったく心配する必要のないことを強調しておきたいと思います。
次に、本法案が成立した際の運用面に関し申し述べます。
法案審議の中で、一般の方々が捜査の対象になるのではないかとの懸念が示されました。しかし、捜査は、任意捜査、強制捜査を問わず、「國体ヲ變革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トスル結社」の成員に限定されている以上、これとかかわりのない一般の方々に犯罪の嫌疑が発生する余地はなく、捜査の対象になることは考えられません。
また、本法案の成立により一億総監視社会になるとか、戦争に近づくとか、「政府の悪口も言えなくなる治安維持法」などといった批判、主張がありました。しかし、本法案は、手続法ではなく実体法の制定であって、治安維持法の成立は現在の捜査のあり方に何ら影響を与えるものでもありません。しかも、捜査機関が一億人を常時監視するのにどれはどのコストとマンパワーが必要になるのか。余りに非現実的な主張であります。
法的根拠に基づかないレッテル張りによって国民の不安をあおり、その自由な言動、活動を萎縮される暴挙を行っているのは一体誰なのか。一部の野党、とりわけ無産政党の諸君には猛省を促すものであります。
なお、ことさらに捜査機関が本法の濫用をするであろうという荒唐無稽な主張もありました。しかし、わが帝国は、法治国家であります。文明国でもあります。国体を変革することを目的とした結社を処罰すること以上に、その執行において拷問や司法手続を経ない身柄の拘束などする必要は毫もありません。
大日本帝国憲法によって、行政手続は法定され、大審院以下の司法制度も整い、臣民の自由と権利は憲法上保障されているではありませんか。立憲主義は、あまねく帝国に満ち、新聞や雑誌、あるいはラジオなどの報道機関の監視が行き届いている現在、捜査機関の権限の濫用の問題が生じる可能性は皆無です。不見識きわまりない主張であると断じざるを得ません。
原案のとおり、すみやかなる法の成立を求めるものであります。
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第193通常国会 衆院本会議2017年5月23日における共謀罪法案賛成討論
公明党の吉田宣弘です。
私は、ただいま議題となりました組織的犯罪処罰法改正案、いわゆるテロ等準備罪処罰法案並びに自由民主党、公明党及び日本維新の会の共同提出による修正案について、賛成の立場から討論いたします。(拍手)
テロ等準備法案は、国民の不安や懸念を払拭するのに十分な処罰範囲の限定と明確化が図られていることを申し述べます。
一点目は、構成要件が厳格に規定されている点です。
まず、犯罪主体を、重大な犯罪の実行を結合の目的とする組織的犯罪集団に法文で明確に限定しています。そして、行為は、具体的、現実的な計画と、それに基づく準備行為を必要としています。
この三重の限定により、組織的犯罪集団とのかかわりのない一般の方々が処罰されることはなく、従前政府が提出した共謀罪に対し示された、内心の自由を害するのではないかとの懸念も払拭されております。
ニ点目は、本法案は、我が党の意見も踏まえ、対象犯罪を、六百七十六から、組織的犯罪集団が関与することが現実的に想定される二百七十七の罪に限定されている点です。
次に、本法案の運用面に関し申し述べます。
法案審議の中で、一般の方々が捜査の対象になるのではないかとの懸念が示されました。しかし、捜査は、任意捜査、強制捜査を問わず、組織的犯罪集団に限定されている以上、これとかかわりのない一般の方々に犯罪の嫌疑が発生する余地はなく、捜査の対象になることは考えられません。
また、本法案の成立により一億総監視社会になるとか、LINEもできない共謀罪などといった批判、主張がありました。しかし、テロ等準備罪は通信傍受洗の対象犯罪ではなく、LINEやメールが本罪の嫌疑を理由に傍受されることはありません。また、本法案は、手続法ではなく実体法の改正であって、テロ等準備罪の新設は現在の捜査のあり方に何ら影響を与えるものでもありません。しかも、捜査機関が一億人を常時監視するのにどれはどのコストとマンパワーが必要になるのか。余りに非現実的な主張であります。
法的根拠に基づかないレッテル張りによって国民の不安をあおり、その自由な言動、活動を萎縮される暴挙を行っているのは一体誰なのか。一部の野党諸君には猛省を促すものであります。
なお、本法案を治安維持法と同視するような荒唐無稽な主張もありました。しかし、治安維持法は、国体を変革することを目的とした結社を処罰し、その執行において拷問や司法手続を経ない拘束までもが行われた悪法です。本法案とぞの内容が根本的に異なります。しかも、治安維持法の問題は、旧憲法下での制度、戦時体制が前提となっています。成熟した民主主義と司法手続、マスコミ等により監視が行き届いている現在、治安維持法と同様の問題が生じる可能性は皆無です。不見識きわまりない主張であると断じざるを得ません。
よって、すみやかなる法の成立を求めるものであります。
(2017年5月25日)
3月21日に上程され、ズタボロになりながら5月23日衆院を通過した共謀罪法案。数の力でゴリ押ししようという「保守ブロック(アベ政権+自民・公明・維新)」と、人権や民主主義の理念でこれを廃案に追い込もうという「野党(民進・共産・自由・社民)+市民」勢力のせめぎあいが続く。その舞台は、参議院だけではない。街頭も、メディアも、市民の会話も、メールもブログも闘いの場だ。
その緊迫の事態に、廃案を求める勢力に思いがけなくも強力な助っ人が登場した。国連の看板を背負った助っ人である。政府や与党には、面白くないこと甚だしい。何しろ、法案推進の錦の御旗が「国連の条約批准のために必要」というものだった。正式に国連から任命された人の「共謀罪法案への懸念の表明」は、大きな打撃だ。世論にも、大きな影響を及ぼすことが必至である。しかも、菅官房長官が、余計な反発をして、ことを大きくした。形勢に逆転を及ぼしかねない。
衆院法務委員会強行採決の前日となる5月18日のこと、国連プライバシー権に関する特別報告者であるジョセフ・ケナタッチが、共謀罪(政府の言う「テロ等準備罪」)法案に関する書簡を安倍首相宛てに送付するとともに、これを国連のウェブサイトで公表した。書簡の内容は、「共謀罪法案は、プライバシー権と表現の自由を制約するおそれがあるとして深刻な懸念を表明する」という内容。
その書簡の全文(英文)は次のURLで閲覧できる。
http://www.ohchr.org/Documents/Issues/Privacy/OL_JPN.pdf
国連の特別報告者とは何者か。国連人権理事会に任命されて、特定の個別テーマまたは個々の国について、調査のうえ報告義務を負い、人権に関する助言を行う独立した人権問題専門家であるという。
国連広報センターのホームページ(下記URL・日本語)では次のように解説されている。
http://www.unic.or.jp/activities/humanrights/hr_bodies/special_procedures/
特別報告者と作業部会
人権に関する特別報告者と作業部会は人権擁護の最前線に立つ。人権侵害を調査し、「特別手続き」に従って個々のケースや緊急事態に介入する。人権専門家は独立している。個人の資格で務め、任期は最高6年であるが、報酬は受けない。そうした専門家の数は年々増えている。2013年4月現在、36件のテーマ別、13件の国別の特別手続きの任務があった。
人権理事会と国連総会へ宛てた報告書を作成するに当たって、これらの専門家は個人からの苦情やNGOからの情報も含め、信頼にたるあらゆる情報を利用する。また、最高のレベルで政府に仲裁を求める「緊急行動手続き」を実施する。多くの調査は現地で行われる。当局と被害者の双方に会い、現場での証拠を集める。報告は公表され、それによって人権侵害が広く報じられ、かつ人権擁護に対する政府の責任が強調されることになる。
これらの専門家は、特定の国における人権状況や世界的な人権侵害について調査し、監視し、公表する。
ケナタッチはマルタ出身の研究者(マルタ大教授)で、プライバシーの権利に関する特別報告者。2015年に国連人権理事会により任命されたという。「プライバシーの権利」は、「世界人権宣言」12条と「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(「自由権規約」)17条で定義されており、国連人権理事会に報告する任務(マンデート)を果たす立場にある。
その人権専門家である国連特別報告者の書簡が、「法案はプライバシーや表現の自由を不当に制約する恐れがある」と言ったのだ。「対象となる犯罪が幅広く、テロや組織犯罪と無関係なものも含まれる可能性がある」とした。さらに具体的に、法案の「計画」や「準備行為」、「組織的犯罪集団」の文言があいまいで、恣意的な適用のおそれがあること、対象となる277の犯罪が広範に過ぎ、テロリズムや組織犯罪と無関係の犯罪を多く含んでいることも指摘し、いかなる行為が処罰の対象となるかが不明確で刑罰法規の明確性の原則に照らして問題があると詳細に言及している。当然に影響は大きい。
これに対して、菅義偉官房長官は精一杯の不快感を表明した。5月22日の記者会見で、「政府が直接説明する機会を得られることもなく、公開書簡の形で一方的に発出された。内容は明らかに不適切なものであり、強く抗議した」「特別報告者は国連の立場を反映するものではない」。また、「法案は、187の国・地域が締結する条約締結のために必要な国内法整備であって、プライバシーの権利や表現の自由を不当に制約するとして恣意的運用がなされるということは全くあたらない」と反論。外務省を通じて国連に抗議したことも明らかにしている。さて、この記者会見、国連を背負った特別報告者の意見への反応としていかがなものか。
この菅の抗議に対する特別報告者の反論が、待ち構えていたように素早い。その内容が23日に公表されている。報道では、民進党か抗議書を入手して発表したという。本日(5月24日)の赤旗が、次のとおりに内容を要領よく要約している。
日本政府の抗議への反論(要旨)
▽私の書簡は、日本政府が、提案された諸施策を十分に検討することができるように十分な期間の公的議論を経ることなく、法案を早急に成立させることを愚かにも決定したという状況においては、完全に適切なものだ。
▽私が(5月18日に)日本政府から受け取った「強い抗議」は、ただ怒りの言葉が並べられているだけで、全く中身はなかった。その抗議は、私の書簡の実質的内容について、一つの点においても反論するものでもなかった。
▽日本政府は、これまでの間、実質的な反論や訂正を含むものを何一つ送付して来ることができなかった。いずれかの事実について訂正を余儀なくされるまで、私は、安倍首相に向けて書いた書簡のすべての単語、ピリオド、コンマにいたるまで維持し続ける。日本政府がこのような手段で行動し、これだけ拙速に深刻な欠陥のある法案を押し通すことを正当化することは絶対にできない。
▽日本政府は、2020年の東京オリンピックに向けてTОC条約を批准するためにこの法案が必要だと主張する。しかし、このことは、プライバシーの権利に対する十分な保護措置のない法案の成立を何ら正当化するものではない。
5月18日付ケナタッチ書簡は、威儀を正した公式文書である。このときには、「懸念」が述べられていたに過ぎない。しかし、23日付反論では、日本政府の姿勢に「腹に据えかねる」という「怒り」が滲み出ている。同時に、けっして引かないという決意も読み取れる。このように特別報告者の決意を固めさせたのは、ひとえに菅官房長官の手柄だ。
日本政府はこれまで共謀罪制定の根拠として国連のTOC条約批准のためとしてきた。同じ国連の人権理事会が任命した特別報告者という専門家から、「日本政府は、2020年の東京オリンピックに向けてTОC条約を批准するためにこの法案が必要だと主張する。しかし、このことは、プライバシーの権利に対する十分な保護措置のない法案の成立を何ら正当化するものではない。」と、真っ向から批判されたことの意味は大きい。
事態は、ゴリ押し勢力にとっても極めて深刻である。参院は、ケナタッチ報告者を招いて、TОC条約批准にこの法案が必要か否かの意見を聞いてみてはどうだろうか。
いずれにせよ、せめぎあいの力学に小さからぬ変化が生じた。国会内だけを見れば、廃案を求める勢力の議席は少数である。しかし、国会外の世論はけっして廃案派が少数ではない。さらに国連に代表される世界の良識は廃案派の味方なのだ。世界の良識、国会外の世論の動向が、国会内に影響をもたらさぬはずはない。このせめぎあいは、まだまだ続く。帰趨はまだ見えてこない。
(2017年5月24日)
本日(5月23日)夕刻、仕事を切り上げて国会前に駆けつけた。5時少し過ぎころだったが、衆議院の本会議は既に終わっていた。共謀罪法案は、自民・公明・維新の保守3党の数の力で、衆議院を通過した。4野党は、論戦に力を尽くしたと思う。しかし、衆寡敵せず、数の力に押し切られた。この数の力を、自民・公明・維新の非立憲・非民主3党に与えたのは、国民自身だ。
本来、民主主義とは多数決主義ではない。討議によって国民に利益をもたらす政策を見いだし合意して決定するプロセスである。言うまでもなく、重要なのは審議時間ではなく、よりよい政策に到達すべき議論の深まりこそが重要だ。
国民の自由にかくも危険きわまる法案である。討議を通じて、その欠陥が炙り出されつつあった。当然に廃案になるか、大きく修正されるべきことが明らかとなってきていたではないか。277罪の共謀罪を作ろうという法案。1罪について4時間の議論を重ねれば1000時間が必要だ。30時間では、ようやく議論が緒に就いたばかり。熟議にはほど遠い醜態をさらしての審議打ち切りと採決の強行。
自・公・維の思惑は、「この欠陥法案は審議を重ねるほどにボロが出る。日が経つに連れ反対世論が大きくなるのだから、無理は承知で早めに審議を打ち切って成立させるに越したことはない。国民がこの法案の危険性を見抜いて、大きな反対運動が盛りあがらないうちに」というもの。そのよこしまな思惑を潰しきることができない。これが、私たちの国の民主主義成熟度の現状なのだ。
もちろん、共謀罪法案(組織犯罪処罰法改正案)は衆院を通過しただけで、まだゴールは先のことだ。ようやく、法案の危険性は国民の間に浸透しつつある。メディアも本格的な報道や論評をするようになってきた。
これまで、「テロ等準備罪」という、取って付けた法案名の印象操作が功を奏してきたのがもどかしい。「テロ制圧のためなら、多少の人権制約に行き過ぎがあっても、やむをえないじゃないか」「テロ対策は、屋上屋を重ねてもよいじゃないか」「安全のためだ。自由だの人権だのと言っておられないのでは」という、気分がありはしないか。
しかし、この法案はテロ対策を目的としたものではない。テロ防止に役に立たない。もともとは、TOC条約(パレルモ条約)の締結に必要という政府の説明だった。同条約は、マフィアやヤクザという組織暴力に対する経済面からの封殺を目的とするもので、政治的テロの予防や制圧を目的とするものではない。
しかも、277もの犯罪について実行行為着手以前の「共謀」の段階で摘発しようという無茶な法律を作ろうというのだ。犯罪の実行行為がないのに処罰の対象となるのだから、「内心を処罰する悪法」と言われ、刑罰権の恣意的な発動に道を開くことになる。何が国民に禁止される行為で、何が自由になしうる行為なのかの境界が不明なる。権力は、その恣意でどんな行為も摘発しうることになる。暗い監視社会が到来しかねない。
その指摘に、政権の側はこう反論する。「それは杞憂だ。この法は、『テロリズム集団その他の組織的犯罪集団』の活動として行われる行為だけを処罰するもので、「一般人が捜査の対象になることはない」。これに欺されてはならない。
そもそも、「一般人」とは何だ。定義なしに「一般人が捜査の対象になることはない」ということはまったく無意味である。刑法は、殺人・窃盗・詐欺・放火等々の犯罪行為を定める。「犯罪を犯す者は、一般人ではない」と言えば、「全ての刑事法の全ての犯罪は、犯罪者だけを対象とするもので、一般人を対象とするものではない」ことになる。
むしろ政権は、特定のグループに属する人々を念頭において、それに属しない人々を「一般人」と言っているとの疑念を払拭できない。政権の頭の中では、国民が二分されている。処罰対象の「組織的犯罪集団たりうる、特定グループ」とそれ以外の「一般人」に。『テロリズム集団その他の組織的犯罪集団』の定義は極めて曖昧なのだ。だから、「特定のグループ」は、法の運用次第、どのようにでも構想できることになる。
1925年成立の治安維持法においては、「特定のグループ」は、法文に書きこまれていたわけではないが、明らかに共産党であった。つまり、「この法律は、共産党だけに適用します。それ以外の『一般人』が捜査の対象になることはない」「だから、『一般の方』が案ずるには及ばない」としての立法だった。
しかし、治安維持法がその後大きく育ち、共産党だけではなく、社会民主主義者にも、労働運動にも、在日の民族独立運動にも、平和運動にも、報道の自由にも、教育運動にも、宗教家にも弁護士にも、猛威を振るったことは周知の歴史的事実。「特定のグループ」は限りなく肥大し、「一般人」は限りなくその範囲を狭めていったのだ。
歴史的教訓として確認しなければならないことは、弾圧立法の下において、国民はけっして「自分は一般人の範疇」として安閑としてはおられないということなのだ。それは、特定の人の自由を見殺しにするにとどまらず、自分が享有するものでもある自由一般を失うことにつながる。共謀罪法案とは極めて曖昧な構成要件で、日常行為が広く犯罪として摘発される危険性をもつことにある。まずは、「特定グループ」がターゲットになるのではあろうが、やがては誰をも、摘発の対象にしかねないのだ。
これからが、反対運動の本番だ。私も非力ながら、できるだけのことをしなければならない。あとになって悔やむよりは、今の苦労を選ぶべきなのだから。
(2017年5月23日)