澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

自衛隊を憲法上認知することは、「日の丸・君が代」を国旗国歌と法的に認知したことの二の舞となる。

5月3日「第19回公開憲法フォーラム」におけるアベ晋三・ビデオメッセージで現れた「9条改憲新提案」に必要な反論をしておきたい。

アベ新提案は、「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」というもの。意外性十分である。
これまでの改憲案の最大テーマは、9条2項(戦力不保持)の存否をめぐってのものだった。たとえば自民党改憲草案は、9条2項を全面削除するものとなっている。その上で9条の2を新設して、1項から5項までの規定を置き、詳細に国防軍の設置を定めている。明らかに、現状の自衛隊とは異なる、戦争を目的とした実力組織をもつことを明文化しようとするもの。その結果、装備も編成も、自ずから対外戦争を遂行するに足りる水準のものにならざるを得ない。空母も原潜ももちうることになる。日本が、戦争を政策の選択肢の一つとする国家であることを明示し宣言することを意味し、近隣諸国への威嚇ともなって、確実に緊張関係を高めることとなろう。
ところが、新提案はそうなっていない。あっさりと「9条2項を残す」という。その上で、前後の文脈からは「(現在ある)自衛隊を、(現在ある自衛隊のまま、憲法上の存在として認めるよう)明文で書き込む」というだけの内容に読みとれる。この新提案には、本音の改正願望を抑制した「過小な」改憲提案と評価される余地がある。しかし、この新提案を「過小な」ものと見くびってはならない。

まず、なによりも、これまで囁かれてきた「現実的な発議の落としどころ」が、緊急事態に関連した衆議院の解散への制約程度の「些事」についての「お試し改憲」提案であった。言わば、本丸からははるかに遠い、二の丸、三の丸の、石垣の一部に爪を立てようという程度のものだったはず。それが、とにもかくにも9条の本丸に手を延ばしてきたことを深刻な重大事と受けとめなければらない。

また、この9条改憲新提案には、公明や維新も、あるいは民進の一部も抵抗なく受容するのではないかという思惑が感じられる。さらに、護憲派と言われてきた運動の一部にも、動揺が及ぶのではないかと懸念される。

かつて、東京新聞「こちら特報部」(2015年10月)が「平和のための新9条論」を大きく取り上げた。「安倍政権の暴走に憤る人たちの間からは、新9条の制定を求める声が上がり始めた」、「戦後日本が平和国家のあるべき姿として受け入れてきた『専守防衛の自衛隊』を明確に位置づける。解釈でも明文でも、安倍流の改憲を許さないための新9条である」との紹介の仕方だった。肯定評価という域を超えて、この方向に意見と運動を誘導しようという意図が見えた。

専守防衛に徹する自衛隊の存在を肯定し、個別的自衛権を行使容認を明記した明文改憲によって、新9条を制定しようというのだ。条文と現実との乖離を最小化して「解釈の余地を政権に与えない」憲法を制定しようとの発想だという。

この点について、2015年10月23日の当ブログで、次の批判の記事を書いた。
「新9条論」は連帯への配慮を欠いた提言として有害である
https://article9.jp/wordpress/?p=5803

目的や位置づけに差異があることは当然として、現象としては、アベの口から「新9条論」が語られたのだ。護憲の意味の再検討が迫られる。

憲法は現実を批判する規範として理想を語っている。現実との乖離は永遠の課題であって、常に現実を理想に近づける努力を続けなければならない。この乖離の存在を理由に、現実を理想に近づける努力を放棄して、理想の方を現実に合わせて引きずり下ろそうということには賛成しかねる。理想を一歩現実の方向に動かせば、現実は二歩も三歩も逃げていく。戦力不保持から一歩退いた「専守防衛」は、先制的防衛や予防的防衛という現実をもたらすことになるだろう。

9条護憲派には大別して2種ある。「自衛隊は違憲、安保条約も違憲。自衛権の発動としても一切の武力行使はできない」という伝統的護憲派陣営(A)と、「自衛隊は合憲、安保も合憲。集団的自衛権の行使は違憲だが、個別的自衛権の行使としてなら武力行使は可能」という旧来の保守本流の専守防衛陣営(B)。

統一した運動においては、A陣営は、B陣営との連携のために、Bの主張を前面に押し出すことになる。安倍政権と自公両党が、現状を大きく変えようと強権の発動をしている以上、現状を維持しこれ以上悪化させないためにはB論で一致することとなる必然性があったからだ。その逆の連携のあり方は非現実的で、あり得ることではない。一見すると(A+B)の全体が、あたかもBの見解で統一されたかのごとき観を呈したが、実際にはA陣営護憲派は、その見解を留保してきたのだ。

今、アベ新提案に、自衛隊違憲論のA陣営が揺らぐはずはない。専守防衛論のB陣営の人々に訴えたい。自衛隊を明文で認めることは、自衛隊を法的にコントロールすることにつながるよりは、自衛隊が大手を振って闊歩する時代の現出となる危険の大きいことを。

私は、国旗国歌法制定の国会審議を思い出す。首相も文部大臣も、口を揃えて言ったものだ。「法案は現状を追認するだけ」「人々になんの義務を課すものでも、権利を制限するものでもない」「教育現場になんの変化もない」「法は強制も制裁も予定していない」。しかし、法が制定されたあとは、国会での答弁とはまったく違った光景が現実のものとなった。教員に対する強制と処分の濫発がまかりとおる事態となり、権力による教育への管理統制の弊害は目を覆わんばかりである。確かに、国旗国歌法自体は強制の根拠とはなり得ない。しかし、「日の丸・君が代」に、国旗国歌としての法的認知がなされるや、公務員法、教育関係法の運用ががらりと変わったのだ。

おそらくは、自衛隊の憲法的認知は、同じ効果をもたらすことになろう。今、「新9条論」再論ではなく、これまで共闘してきた(A+B)の全体が、実質的にA論で統一して、アベ新提案を拒否する運動となることを望む。絶対に、アベに明文改憲をさせてはならない。
(2017年5月5日・連続第1496回)

「憲法改正は五輪音頭の囃子に乗せて」ーアベ流改憲メッセージ

ご来場の右翼の皆様、こんにちは。「自由民主党」総裁のアベ晋三です。
本日は、5月3日の憲法記念日にちなんだ、「第19回公開憲法フォーラム」に、私のホンネをビデオメッセージとしてお届けいたします。

この集会にご参加の「民間憲法臨調」や「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の皆様。世の中では「右翼」と蔑まれている皆様こそが私の同志、腹心の友であります。皆様方が常日頃から、打てば響くように、私の憲法改正への執念を忖度され、支えていただいていることを大変心強く感じております。また、皆様が陰に陽に、日本国憲法を論難し攻撃する言動を重ねておられることに、心からの敬意を表するとともに感謝申し上げる次第です。

私たち右翼にとって、憲法記念日とは、日本国憲法を改正して、大日本帝国憲法時代の輝かしい御代を取り戻す決意と覚悟を固める日。それがお約束ではありませんか。右翼の一端を担う自由民主党にとっても、憲法改正は立党以来の党是です。自民党結党以来の悲願でありながら、なんと70年間、この唾棄すべき日本国憲法に指一本触れることができませんでした。憲法はたった一字も変わることなく、施行70年の節目を迎えるに至りました。なんたる屈辱。なんたる国辱。歴代の総裁が受け継いでできなかった憲法改正を、このワタクシ・アベ晋三はどうしてもなし遂げたい。その決意です。

次なる70年に向かって日本がどういう国を目指すのか。今を生きる私たちは、少子高齢化、人口減少、経済再生、安全保障環境の悪化など、我が国が直面する困難な課題に対し、真正面から立ち向かい、未来への責任を果たさなければなりません。私は、そのように何度も声高に言い続けてまいりました。

正直のところ、「少子高齢化」「人口減少」「経済再生」の3点については、なぜ憲法改正の根拠となるのか、その対応策としてどのような改正が必要になるのか、実は私自身もよく分かりません。もしかしたら、憲法を変えなければ対処できないというのは、大きな嘘なのかも知れません。しかし、それでもよいのです。私は政治家で学者ではないのですから、正確なことをお話しすることが仕事ではありません。国民のみなさんが、それで良しという気分になっていただけば、万事オーライなのです。

フクシマ第1原発から、放射能の汚染水がダダ漏れなのは、日本人ならみんな知っていたこと。それでも敢えて、「完全にブロックされ、アンダーコントロールの状態にある」と平気で言ったことによって東京五輪誘致を成功させたではありませんか。あのブェノスアイレスでの発言のどこがまずかったというのでしょうか。真実よりも、結果なのです。

なんとなく世の中は変わってきた。だから、なんとなく憲法も変えた方がよいのではないだろうか。あまり深くものごとをお考えにならない多くの国民の皆様が、漠然とそう考えていただけたら、それで大成功なのです。アベ内閣の支持率も、そのようにして保たれているのですから。

「安全保障環境の悪化」はやや別です。これは、明らかに憲法九条の改正につながります。ですから、真実であろうとなかろうと、国民の意識に定着し、それによって国民世論が九条改憲を容認する仕掛けを作らなければなりません。

邪悪な近隣諸国がわが国に対する攻撃の意図をもっていると、繰りかえし繰りかえし煽ることで、実は「安全保障環境の悪化」は現実化するのです。
「中国も北朝鮮も恐いぞ、彼らはわが国を敵視している」「彼らの軍備増強はわが国への攻撃の意図あればこそだ」「だからわが国も軍備の増強を」。そういえば、相手国も、木霊のように同じことを言って、軍備の増強に精を出すことになります。これが、好循環。労せずして、九条改憲を実現する環境が調ってくるのです。

もっとも、わが国の国民の平和意識にはなかなかに強固なものがあります。一挙に、九条を全面改正して、日本を戦争ができる国にすることは容易なことではありません。そこで、ここは小手先の小細工が必要となります。国会議員の3分の2に以上の賛成を得たうえ、国民に提案して過半数の同意を獲得する現実的な提案が必要です。たとえば、こんな風に九条改正案を提案するのはどうでしょうか。

「今日、災害救助を含め、命懸けで、24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。『自衛隊は、違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのは、あまりにも無責任です。私は、少なくとも、私たちの世代の内に、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。」

このような国民への呼びかけが重要だと思うのです。自衛隊を語るには、なによりもまず真っ先に、「災害救助」を持ち出さなければなりません。「災害救助を含め、命懸けで、24時間、365日…その任務を果たしている」と言えば、あたかも「災害救助」が自衛隊の本務であるかの錯覚を呼び起こすことが期待できます。「災害救助」に真面目に取り組む自衛隊を憲法上の存在として位置づけよう。なかなかうまい作戦ではありませんか。

もちろん、ホンネは9条の1項も2項も変えたい。とりわけ、2項の「戦力不保持」は変えなければなりません。それは同志の皆様と同じ思い。しかし、ここは作戦として、「急がば回れ」でなくてはなりません。

だから、表向きにはこう言っておくのです。
「平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと、堅持していかなければなりません。そこで、『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方、これは、国民的な議論に値するのだろう、と思います。」

なんにせよ、70年間無傷という手強い憲法です。改正手続に一度でも失敗したら、半永久的に改正はできなくなります。下手をすると、逆方向の社会主義革命的な改正の機運が盛りあがって、われわれ右翼の側が「憲法を守れ」と言わざるを得ない事態にもなりかねないのです。

さてそこで、現実の問題です。右翼と自・公の与党だけでは、改憲を実現する勢力としては心もとない。そこで期待できる改憲グループとして、維新を仲間に入れる必要があります。そのためには、彼らが主張している教育無償化の問題を憲法改正のテーマとして取り上げる必要があります。

教育無償化の実現が、憲法改正を待たなければできないことであるかどうか。そんなことは、どうでもよいのです。維新の教育無償化政策をヨイショと持ち上げることで、仲間が増えるのですから、これを利用しない手はないのです。

さらに、問題は改憲の時期です。私の任期の間にやりたい。やらせていただきたい。たまたま、2020年が東京五輪の年です。ぜひとも、この年を改正された新しい憲法施行の年にしたいのです。

オリンピックと憲法。本来は何の関係もありません。でも、強引に結びつけることが大切なのです。それが政治というものなのです。問題は、時代の空気。空気だけなのです。なんとなく、国民のみんなが、そのような空気を感じ、なんとなくそのような風が吹いていると思えばそれでよいのです。

1964年の東京五輪を機に、日本は大きく生まれ変わりました。その際に得た自信が、その後、先進国へと急成長を遂げる原動力となりました。2020年にも、日本は新しく生まれ変わるのです。そのような気分になっていただき、オリンピックついでに、70年間無傷の憲法をリニューアルしようというのです。オリンピックをダシにした、憲法改正計画です。

本日は、「憲法擁護」「憲法改悪阻止」「改憲ではなく、憲法を生かせ」という、護憲派の集会が、日本中で大規模に開催されているようです。私は、行政府の長としては、憲法擁護・遵守義務を負う立場ですが、そちらの集会とはまったくの没交渉です。改憲派の皆様とだけ、親しくしたいと思います。

これを契機に、私もあらゆる権謀術数を弄して、憲法改正という歴史的使命をしっかりと果たしていく決意であることを改めて申し上げます。憲法改正に向けて、同志の皆様、ともに頑張りましょう。
(2017年5月4日・連続第1495回)

祝・憲法施行70周年の憲法記念日

古稀は、年老いたことへの慰めの日ではない。古来稀なるとされた長い人生を経てなお、矍鑠たることの祝いと励ましの日である。憲法も同じだ。今日は、単に日本国憲法が年を経たことの、懐古・懐旧の日ではない。70年日本国民が、平和憲法と平和を守り抜いた誇りの日として祝おう。そして、もっともっと憲法を使いこなすべく、決意をかためるべき日なのだ。

その憲法記念日の東京新聞。本日の「平和の俳句」が眼に突き刺さる。胸が痛む。
  長兄次兄戦死父焦土の首都に焼死せり 江川節夫(84)東京都練馬区

これに付された、いとうせいこうの解説も句作さながら。さすがのものだ。
「このゴツゴツした字余り。慟哭の呪文のごとき文字列。そこに作者八十四歳の思いがぎっしりと詰まっている。八人きょうだいの末っ子。」

社会面に、江川さんを取材した記事がある。「平和継がなければ」「戦争は家族を破壊する」「揺らぐ憲法の理念 あきらめムード危ぶむ」という大きな見出し。

その最後に、江川さんの言葉がある。
「平和を守り続けてきた憲法の大切さは、理論的に言うだけでは伝わらない。家族を破壊する戦争の悲しみ、苦しみを若い人に語り継がなければ」

まったくそのとおりだ。平和憲法は、理論的に生み出されたものではない。家族や知人を失った、生き残りの日本人の悲しみと苦しみこそが生みの親であった。70年間、この平和憲法を守り抜いてきたのもまた、日本人の戦争体験とその継承による、悲しみと苦しみの記憶だった。もちろん、これに加害責任の自覚も伴っている。

日本国憲法とは、なによりも平和憲法なのだ。戦争の惨禍に対する痛苦の反省から生まれたが、戦争の記憶が薄れると、再びの軍事大国化願望が首をもたげてくる。アベのごとき、平和憲法に露骨な敵意をもつ者に、政権を担わせてしまっているのだ。

本日・憲法記念日は戦争を忌避し、平和の価値を再確認すべき日。しかし、各紙の社説は、一様ではない。憲法に対する、とりわけその平和主義に対する姿勢のコントラストが著しい。

産経は極右と政権の立場を代弁して、「北朝鮮をめぐる情勢は、日本にとって戦後最大の危機となりつつある 日本国民を守る視点を欠く憲法は一日も早く正そう」と言っている。読売も、「憲法施行70年 自公維で3年後の改正目指せ」と改憲の応援団役を買って出て旗を振っている。

日経は、「身近なところから憲法を考えよう」という。時代に切り結んでいるかはともかく、改憲の旗は振っていない。毎日は「施行から70年の日本国憲法 前を向いて理念を生かす」。朝日は「憲法70年 先人刻んだ立憲を次代へ」と、それぞれ見識を示している。

感動的なのは、やはり東京新聞。「憲法70年に考える 9条の持つリアリズム」というタイトル。穏やかな語り口で、問題の核心に切り込んで説得力がある。

同社説は、次のリードを置いている。
「日本国憲法が施行されて七十年。記念すべき年ですが、政権は憲法改正を公言しています。真の狙いは九条で、戦争をする国にすることかもしれません。」

アベ政権の改憲のねらいを「戦争をする国にすること」と端的に喝破している。「戦争のできる国にすること」「戦争を政策の選択肢としうる国にすること」とまだるっこしいことをいわない。なるほど、政権の究極の狙いは「戦争をする国にすること」に帰着するのだ。

社説の本文は、冒頭に金森徳次郎の言を、末尾に石橋湛山の文を引用している。
<今後の政治は天から降って来る政治ではなく国民が自分の考えで組(み)立ててゆく政治である。国民が愚かであれば愚かな政治ができ、わがままならわがままな政治ができるのであって、国民はいわば種まきをする立場にあるのであるから、悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない>(金森)

<わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす>(湛山)

この湛山の言葉を受けて、同社説は「これが九条のリアリズムです。『そういう(国を滅ぼす)政治家には政治を託せない』と湛山は断言します。九条の根本にあるのは国際協調主義です。不朽の原理です」と解説する。

そして最後をこう締めくくっている。
「国民は種まきをします。だから『悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない』?。金森憲法大臣の金言の一つです。愚かな政治を招かないよう憲法七十年の今、再び九条の価値を確かめたいものです。」

同社説の中の次の各指摘を真摯に受けとめたいと思う。

「九条も悲惨な戦争を体験した国民には希望でした。戦争はもうこりごり、うんざりだったのです。かつて自民党の大物議員は『戦争を知る世代が中心である限り日本は安全だ。戦争を知らない世代が中核になったときは怖い』と言っています。今がそのときではないでしょうか。」

「それなのに一部は反省どころか、ますます中国と北朝鮮の脅威論をあおり立てます。同時に日米同盟がより強調され、抑止力増強がはやし立てられます。抑止力を持ち出せば、果てしない軍拡路線に向かうことになるでしょう。」

本日の「施行70年 いいね!日本国憲法?平和といのちと人権を!5.3憲法集会」は55000人の参加で盛りあがり、インパクトのある集会となった。憲法改正阻止の大運動に向けて、力強さを感じる。4野党の党首クラスと、沖縄の風の伊波洋一が、護憲とアベ政権打倒を訴えた。

護憲の理念は、単に成文憲法の改悪阻止にとどまらない。その時々に、憲法の理念をめぐっての、個別のテーマが必ず存在する。

本日の集会で、繰り返し訴えられたテーマは、「共謀罪」「沖縄」「戦争法廃案」「脱原発」「軍学共同反対」「脱格差・反貧困」「反ヘイト」。そして「アベ政権の暴走を許さない」「野党と市民の共闘」であった。

あらためて、憲法の平和主義の理念の内実と、これをないがしろにする日米安保体制への批判を再確認した。帰りのバスで見た歩行者天国の平和で穏やかな風景。これを守るのは、断じてカールビンソンではない。市民の生活の平穏を守るのは、平和憲法であり、憲法に依拠して平和を守ろうとする人々の熱い思いと行動なのだ。
(2017年5月3日・連続第1494回)

アベ改憲願望発言に見える焦り

超党派の「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根康弘元首相)という組織がある。これが、昨日(5月1日)「新しい憲法を制定する推進大会」を開催した。同集会には、自民党のほか、民進、公明、維新、こころの各党から、改憲派議員が出席したという。日本を昔の暗い時代に逆戻りさせようとの「組織的改憲共謀」の準備行為に該当する。

この集会開催は例年のことだそうだが、昨日はアベ晋三が現職の首相として初めて出席して、壇上から発言した。「憲法改正について強い意欲を示した」と報じられている。

「新憲法制定議員同盟」の「新憲法制定推進大会」である。「新憲法制定」は「憲法改正」とはまったくの別物。この集会で「憲法改正」を語ることが腑に落ちないが、アベの頭の中では、どう整理されているのだろうか。

産経が「首相の発言詳報」を掲載している。アベ自身が「本日は自民党総裁の安倍晋三としてここに立っておりますので、念のため申し上げたいと思います。」と断っているのに、「首相の発言」である。産経のことだ。含むところがあるに違いない。

産経の伝えるところを読んでの限りだが、アベの改憲論は「憲法のどの条項でもよい、ほんの少しでもよい。どのようにでも、なんでもよいから、ともかく改憲」というもの。改憲を自己目的化してしまって、なにゆえ、憲法のどこをどう変えようというのか、その具体案の提示がまったくない。だから、理念も理想も語るところはない。それゆえ、彼の語りかけにはまったく迫力がない。人に訴え、心を揺さぶる力がない。改憲の焦点が定まらない以上どうしようもないのだ。

「機は熟した。今求められているのは具体的な提案だ。理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すときで、しっかりと結果を出さなければならない」「この節目の年に必ずや歴史的一歩を踏み出す。新しい憲法を作っていくことに全力を傾けると誓う」との言葉が空回りだ。

客観情勢は、アベ改憲願望に順風を送ってはいない。「自民党は、圧倒的な第一党として現実的かつ具体的な議論を憲法審査会においてリードしていく覚悟だ」「憲法改正を党是に掲げてきた自民党の歴史的な使命ではないか」と、彼は訴えたという。しかし、今国会での憲法審査会審議は、衆院でも3回に過ぎず、参院はまだない。明らかに改憲機運は停滞しており、アベ発言は焦りにも聞こえる。

産経によるアベ発言の詳報は次の通り。太字がアベ発言(抜粋)で、細字が私の突っ込みである。

 60年の節目にあたっても(私が)内閣総理大臣でしたが、この年ようやく国民投票法が成立しました。憲法改正に向けた大きな一歩をしるすことができたと考えています。あれから10年がたち、18歳投票権など3つの宿題も解決された中にあって、憲法改正の国民的な関心は確実に高まっている。かつては憲法に指一本触れてはいけないという議論すらもありました。しかし、もはや憲法を不磨の大典だと考える国民は非常に少数になってきたと言ってもいいのではないでしょうか。

「憲法を不磨の大典だと考える国民」は昔から非常に少数だ。憲法改悪阻止派の多くの国民は、できることなら憲法をよりよいものに変えたいと思ってきた。たとえば、天皇という公務員職をなくし、自由や平等を形式的なものから実質的な保障に裏打ちされたものに進歩させ、人権と民主主義と平和をより豊かで確実なものにしたいと願ってきた。だから、「アベ自民党には、憲法に指一本触らせない」とは言っても、憲法を完成した「不磨の大典」として、拝跪の対象とすることはない。「憲法改正の国民的な関心は確実に高まっている」は、本当だろうか。各種世論調査に表れた結果は、少なくとも9条など憲法の中核に関しては、改正賛成派は過半数に達していない。むしろ、減少しているではないか。

いよいよ期は熟してきました。
まったくそうは思わないね。国民の関心は、憲法改正からは確実に薄れている。

今求められているのは具体的な提案であります。もはや改憲か護憲と言った抽象的で、そして不毛な議論からは私たちは卒業しなければいけないと思います。

勝手なことを言ってもらっては困る。「もはや改憲か護憲と言った抽象的で、そして不毛な議論からは私たちは卒業しなければいけない」という改憲派の願望は分かる。しかし、現実は「改憲か護憲か」という綱引きがこの国の政治の基軸をなしている。しばらくは、「卒業」などできっこない。そもそも「改憲か護憲か」と言う議論は抽象的ではない。わが国を軍事大国化し、権力を集中強化して、人権を抑制しようという「改憲派」の策動と、それと対峙する「護憲派」の対峙ではないか。その議論を「不毛」とごまかし、切り捨ててはならない。

この国をどうするのか、わが国の未来へのビジョン、理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すときです。そして、しっかりと結果を出していかなければならない。

今こそ、「理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すとき」? まだ示してないの? 2012年の「自民党改憲草案」は、「理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示した」ものではなかったというわけ?

政治とは結果であります。自民党は谷垣(禎一)総裁の時代に憲法改正草案をまとめ、国民にお示ししました。これは党としての公式文書であります。しかし、私たちはこれをそのまま憲法審査会に提案するつもりはない。どんなに立派な案でも衆参両院で3分の2を形成できなければ、ただ言っているだけに終わってしまいます。

あっ、そう。「自民党改憲草案」は当て馬だったという訳ね。

どんなに立派な案でも衆参両院で3分の2を形成できなければ、ただ言っているだけに終わってしまいます。政治家は評論家ではありませんし、学者ではない。

なるほど。だから、失言も放言も妄言も「でんでん」も、いい加減なことが言えるんだ。勉強不足も恥ずかしくないんだ。

ただ立派なことを言うことに安住の地を求めてはいけない。
おやおや、こうも開き直れるものかね。たまには立派なことを聞きたいと思うのだが、どだい無理な話か。

70年前、日本は見渡す限り焼け野原でした。しかし、先人たちは決して諦めなかった。先ほど中曽根先生から大変力強いごあいさつをいただきましたが、中曽根先生をはじめ、多くの尊敬すべき先人たちが廃虚の中から敢然と立ち上がり、祖国再建のため、血のにじむような努力をされました。そして70年後を生きる私たちのために、世界第3位の経済大国、世界に誇る自由で民主的な日本を作り上げてくれました。

えっ? 国民が日本国憲法を守り続けてきた戦後70年を積極評価するというの? 日本国憲法による統治の70年を「世界に誇る自由で民主的な日本」と言って、なぜ改憲が必要だというの?

私たちもまた先人たちにならい、この節目の年にあたり、今こそ立ち上がるべきときです。
わけが分からない。「先人たち」は日本国憲法の下で「世界に誇る自由で民主的な日本」を作ってきたと言いながら、突然どうして、今こそ改憲に立ち上がるべきとき、となるというのか。アベ君、論理が混乱しているよ。

私たちの世代に課せられた責任をしっかりと果たさなくてはなりません。次なる70年、私たちの子や孫、その先の世代が生きる日本の未来をしっかり見据えながら、大きな理想を掲げ、憲法改正、そして新たな国造りに挑戦していこうではありませんか。

むしろ、こう言うべきだろう。
「私たちの世代に課せられた責任をしっかりと果たさなくてはなりません。次なる70年、私たちの子や孫、その先の世代が生きる日本の未来をしっかり見据えながら、大きな理想を掲げたこの憲法を遵守し、憲法の理念をいっそう具体化し充実させることによって、新たな国と社会の構築に挑戦していこうではありませんか。」

少子高齢化、厳しさを増す安全保障情勢。平和で豊かな日本をどうやって守っていくのか。私たち全員が顔をあげ、その視線を未来に、そして世界に向けていく必要があります。足下の政局、目先の政治闘争ばかりにとらわれ、憲法論議がおろそかになることがあってはいけません。憲法を最終的に改正するのは国民です。しかしそれを発議するのは国会にしかできません。私たち国会議員はその大きな責任をかみしめなければなりません。

分かることは、とにもかくにも「改憲」ありきの結論にもっていきたいという執念だけ。妄念と言ってもよい。これで国民を説得出来るわけがない。改憲の焦点が定まっていないのだから、空回りにしかなりようがない。

アベ発言の最後は、超党派の改憲派出席議員に向かって、「皆さん、一緒に頑張っていきましょう。」で結ばれている。「皆さん、憲法改正のために一緒に頑張っていきましょう。」の意味だが、「憲法改正」を「憲法擁護」に一括変換して、「皆さん、憲法擁護のために一緒に頑張っていきましょう。」と結んでも、さしたる違和感がない。それほどの抽象的議論であり、その程度の改憲指向発言なのだ。
(2017年5月2日・連続第1493回)

本日はメーデー。働く者の祭典。労働者の団結万歳。

働く者は、よりよい労働条件と労働環境を求めて闘い続けてきた。
座して得られるものはない。団結して闘うことこそ、働く者の誇り。

働く者は、暮らしを営む者でもある。
よりよい暮らしも、団結して闘うことで初めて得られる。
平和で自由な社会を求めて、労働者の力を確かめ合うメーデー。万歳。

今日、第88回メーデー(全労連系)のメインスローガンは、
「働くものの団結で生活と権利を守り、平和と民主主義、中立の日本をめざそう」
というもの。異論のあろうはずはない。

そして、喫緊の課題としてのサブスローガンがならぶ。
*戦争法廃止!許すな共謀罪!憲法改悪を許さない!
*市民と野党の共闘で安倍「暴走」政治STOP!
*なくせ貧困と格差 大幅賃上げ・底上げで景気回復、地域活性化
*いますぐどこでも最賃1000円に 全国一律最賃制の実現
*安倍「働き方改革」反対 なくせ過労死 8時間働いて暮らせる賃金を
*年金・医療・介護など社会保障制度の拡充 消費税10%増税の中止
*被災者の生活と生業を支える復興 原発の再稼働反対、原発ゼロの日本
*南スーダンからの自衛隊即時撤退 特定秘密保護法の廃止
*安倍「教育再生」反対 辺野古新基地建設反対 オスプレイ全国配備・訓練反対
*核兵器全面禁止条約の実現

トップに、「戦争法廃止!許すな共謀罪!憲法改悪を許さない!」という政治課題。そうだ、そのとおり!!
次に、その政治課題を実現する不可欠の手段としての「市民と野党の共闘で安倍『暴走』政治STOP!」だ。
そして、経済課題の根本は、「なくせ貧困と格差」。さらに「大幅賃上げ・底上げで、景気回復・地域活性化」という好循環の実現を!!

共産党が例年、党独自の長大なメーデースローガンを掲げる。今年のものは以下のとおり。
☆ 安保法制=戦争法廃止!立憲主義の回復を。
?内心の自由を侵す共謀罪阻止。
?教育勅語容認の閣議決定を撤回せよ。
?憲法改悪反対。
?「戦争する国」づくり許さず、憲法を生かす政治へ。
☆ 8時間働けばふつうに暮らせる社会を。長時間労働を規制せよ。
同一労働同一賃金と均等待遇を実現しよう。
最低賃金時給いますぐどこでも1000円に。1500円をめざそう。
中小企業には本格的支援を。
格差をただし貧困をなくそう。
大企業の内部留保を活用し、大幅賃上げと安定した雇用の拡大で、経済と社会の健全な発展を。
☆ 消費税10%への増税を中止せよ。富裕層と大企業に応分の負担を。
税金の使い方を、社会保障・若者・子育て優先に改め、軍事費を削れ。
☆ 中小企業と農林水産業の振興で地域経済の再生を。
経済主権と食料主権、くらしを守る公正・平等な貿易と投資のルールを。
☆ 東日本大震災、熊本地震からの復興に全力を。自然災害から国民の命と財産を守る政治を。
☆ 原発再稼働を許さず「原発ゼロの日本」を。再生可能エネルギーの飛躍的普及を。
福島原発事故の収束に全力をあげよ。
政府と東電の責任ですべての被災者の生活と生業(なりわい)の再建を。
☆ 辺野古新基地建設反対、普天間基地無条件撤去。オスプレイの配備・訓練を許すな。沖縄と本土の連帯で全国の基地強化に反対しよう。
?日米安保条約を廃棄し、米軍基地のない日本を。対等・平等の日米友好条約を結ぼう。
?軍事対軍事の対米追随でなく、憲法9条を生かした平和外交で北朝鮮の非核化を。
北東アジアでも平和の地域共同体を。
☆ 核兵器禁止条約の実現を。「ヒバクシャ国際署名」を推進しよう。アメリカの「核の傘」から離脱し、非核の日本を。
☆ 森友疑惑徹底究明。南スーダン「日報」隠蔽許すな。
安倍暴走政権打倒!
?野党と市民の共闘をさらに発展させ、野党連合政権をつくろう。
都議選に勝利し、総選挙で新しい日本への道を切り開く確かな力=日本共産党の躍進を。

総花的との印象も拭えないが、なるほど全面的だ。中小業者や農林水産業者の要求も出てくる。課題は広がっているのだ。毎年、そう思いを新たにさせられる。

ところで、連休前に済まされる「連合メーデー」のスローガンはどうなっているのだろう。私は、労使協調、闘わない、労働貴族の巣、資本ベッタリ、などと批判されるような組合でも、労働組合の存在自体が貴重だと思っている。職場に組合が、「ある」と「ない」とでは雲泥の差。連合への批判はあっても、期待は失わない。

連合メーデーのスローガンに、政治課題はおそらくないのだろう。安倍政権打倒などとは言えないよね。原発についてのスローガンは無理だろうな。せめて、平和や民主主義くらいは掲げているのかも。そう思いつつ、調べて見たが、よく分からない。

連合のホームページには、下記の「7つの絆」が掲載されている。
>平和運動
>核兵器廃絶・被爆者支援
>人権を守る(差別撤廃・拉致問題)
>被災地支援と自然災害に負けない
>愛のカンパ(NGO支援/災害支援)
>メーデー
>より強固な絆にしよう

とはいえ、この6番目の「メーデー」を開いても、要求やスローガンは出てこない。代わって、次のような説明がある。

「連合は、毎年、私たち働く者たちの祭典『メーデー中央大会』を開催しています。近年の会場となっている東京・代々木公園には、連合の組合員をはじめ中央労福協、労金協会、全労済などの関係団体、NGO・NPOといった諸団体からおよそ40,000?50,000名の仲間が結集し、中央式典や各種イベントに参加しています。」

メーデーの歴史や果たしてきた役割についての記述は別として、連合メーデーについての解説はこれが全部。

そこで、連合メーデーのポスターをよく読んでみる。書いてある文字を全部書き出してみよう。
「第88回メーデー中央大会」
日時4月29日(土)10:00?14:30 会場:代々木公園」
長時間労働の撲滅
ディーセント・ワークの実現
今こそ底上げ、底支え、格差是正の実現を!
☆暮らしの底上げ
☆36協定に上限時間の規制を
☆インターバル規制を導入しよう
☆もう、過労死はなくそう

これで全部。ウーン、示唆に富む。
それでも、メーデーはメーデー。労働者の祭典。けっして、次のようには言わない。

「日本が他の国に負けぬよう、尖閣列島・竹島・北方領土を守り、
日本を悪者として扱っている、中国、韓国が、
心改め、歴史で嘘を教えないよう、お願い致します。
安倍首相、ガンバレ! 安倍首相、ガンバレ!
安保法制国会通過よかったです!
日本ガンバレ!えいえいおー!」

その程度ではあれ、とにもかくにも、メーデー万歳!
(2017年5月1日・連続第1492回)

安倍首相靖国参拝違憲訴訟に、東京地裁の「安倍忖度判決」

一昨日(4月28日)東京地裁で、「安倍靖国参拝違憲訴訟・東京」での判決言い渡しがあった。すべて、却下と棄却。原告側の全面敗訴である。この判決について、私なりにコメントしておきたい。

安倍晋三は、第2次政権発足1周年に当たる2013年12月26日に、靖国神社を昇殿参拝した。「内閣総理大臣 安倍晋三」と肩書を記帳してのことである。

靖國神社の教義によれば、皇軍戦没将兵の霊魂は靖國神社臨時大祭における招魂祭(あるいは合祀祭)において、靖國神社に降霊する。降霊した霊魂は、「霊璽簿(れいじぼ)」(旧称「祭神簿」)と称される名簿に宿り、靖国神社の神体とされる鏡によって「人霊」が「神霊」になるという。あの神社には、246万余柱の祭神(神霊)が籠もっているとされるのだ。

安倍晋三は、内閣総理大臣という公的資格において、特定宗教法人の宗教施設に祭神(神霊)が祀られているという超自然的な宗教観念を承認して、礼拝という宗教的意義をもつ行為に及んだ。このことによって、国と靖國神社とは、許されざる過度の関わりを持った。

この安倍晋三の参拝は、「国及びその機関は、…いかなる宗教的活動もしてはならない。」(憲法20条3項)という命令に反する宗教的活動に当たる。国家機関に特定の宗教との結びつきを禁ずる、政教分離原則に反することになる。

政教分離の「政」とは政治権力(国家)のこと、「教」とは宗教(信仰)を意味する。国民のすべてが関わって構成する政治権力(国家)と、純粋に私的で内心の領域に属する宗教(信仰)とは原理的に相交わりがたい。理念上、国家は全国民のものだが、宗教はその性質上一部のもので、国家が特定宗教と関わることは、一部国民が信仰する特定宗教への助長となり、その反面として他の特定宗教への抑圧あるいは弾圧ともなりかねない。このことから、近代憲法の普遍的な原理として、国民の信仰の自由を保障するために憲法原則として政教分離が確立している。

我が国においては、さらに特有の厳格な政教分離を必要とする事情があった。戦前、大日本帝国は、紛れもない宗教国家であった。元首である天皇は、神の子孫であるとともに自身が神であり、かつ祭司でもあるとされた。天皇は、統治権の総覧者であり、大元帥でもあったが、その正統性の根拠は記紀神話における神勅(神のお告げ)に求められた。

天皇の統治権を正当化するために神様がもち出された。その宗教的教義の体系が国家神道である。これは、天皇が教祖であり神様でもあるのだから、端的に「天皇教」と言った方が正確でもあり分かり易くもある。こんなバカバカしい教義が、20世紀前半まで国家の礎とされ、大真面目で信奉されていたのだ。恐るべきことではないか。

バカバカしいことだからこそ、政権は「王様は裸だ」と言い出す不埒者が出ることを極端に恐れ、全国民にこの天皇教の信仰を徹底的に強制した。

戦後、天皇制は廃絶されることなく中途半端なかたちで生きながらえた。天皇は統治権の総覧者でも大元帥でもなくなったが、まだ国民のなかに、叩き込まれ培われた「臣民根性」の名残がある。まだ、天皇も天皇制も単なる過去の遺物ではなく、生々しい危険な存在なのだ。

だから、日本国憲法は、再び天皇を神としないために、歴史の逆転を防止する歯止めを必要とした。その天皇教復活阻止条項、国家神道禁止条項が、憲法20条の政教分離にほかならない。

天皇教の効果が最も有効に働いたのは、軍国主義への国民精神総動員においてのことであった。国家神道の軍国主義側面を代表するものが、陸海軍が共同管轄する靖國神社。天皇のために死ね。天皇のために死ぬことが臣民の誉れ。天皇のために死ねば神として祀られ、かたじけなくも天皇の親拝を賜ることができる。これが、靖国の思想であり機能なのだ。

もちろん憲法には、特定の宗教名や宗教施設の名称は出てこない。しかし、政教分離の「教」の第一として憲法が意識しているのは、靖國神社にほかならない。国家が再び靖国と積極的な関係を持とうとするとき、新たな戦争を準備し、新たな英霊の創出とその慰霊の方式を具体化しようという意図あることについて忖度せざるをえないのだ。

だから、中曽根参拝にも小泉参拝にも、これを違憲とする大型訴訟が提起された。そして今回の安倍靖国参拝にも、東京と大阪に2件の各違憲訴訟が提起された。

東京訴訟の原告は中国人や韓国人を含む633人。被告は、安倍本人と国と宗教法人靖国神社の3者である。原告らの請求の趣旨は以下のとおり。
(1) 被告安倍晋三は,内閣総理大臣として靖國神社に参拝してはならない。
(2) 被告靖國神社は,被告安倍晋三の内閣総理大臣としての参拝を受け入れてはならない。
(3) 原告ら(3名)と被告国との間で,被告安倍晋三が2013(平成25)年12月26日に内閣総理大臣として靖國神社に参拝したことが違憲であることを確認する。
(4) 原告ら(3名)と被告靖國神社との間で,被告靖國神社が2013(平成25)年12月26日に被告安倍晋三による内閣総理大臣としての参拝を受け入れたことが違憲であることを確認する。
(5) 被告らは,各自連帯して,原告それぞれに対し,金1万円及びこれに対する2013(平成25)年12月26日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(6) 訴訟費用は被告らの負担とする。
との判決及び第5項につき仮執行の宣言を求める。

判決は、第3項と4項について却下、その余は全部棄却であった。

これに対する原告団・弁護団の抗議声明を、まず紹介する。

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安倍首相靖国神社参拝違憲訴訟 東京地裁判決への抗議声明
2017年4月28日
本日、東京地方裁判所民事第6部(裁判長岡崎克彦、田邉 実、岩下弘毅)は、安倍首相靖国神社参拝違憲訴訟において、違憲判断を示すことなく、原告らの請求のいずれも却下ないし棄却するという不当な判決を下した。
私たち安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京の原告団及び弁護団は、この判決に強く激しく抗議する。

本件訴訟は2013年12月26日に、安倍晋三首相が政権成立1周年を機に、周囲の反対を押し切って靖国神社を強行参拝したことに対して、国内のみならず中国、ドイツ、韓国、香港等の原告ら633名が政教分離違反等の違憲確認と人格権等の侵害を理由として損害賠償を求めたものである。
約3年に亘る審理の中で、本件参拝及び参拝受入行為が、?明白な政教分離違反行為であること、?国のために死ぬことが名誉なことであるとの靖国の思想を国民に浸透させ、戦争に向かう精神的基盤を確立する行為であること、?集団的自衛権の行使容認・武器輸出禁止原則の廃止・改憲による立憲主義の否定などの安倍政権の諸政策と連動するものであることなどを、膨大な書証と延べ18名に及ぶ原告ら本人尋問その他意見陳述によって明らかにしてきた。

今まさに、共謀罪法案がテロ対策を口実に上程され、日本政府が国民の人権を蹂躙して戦争国家への道を突き進む中で、いかなる判決が下されるのか、憲法の番人である司法の使命が問われる判決でもあった。

しかるに、岡崎克彦裁判長は、これらの主張立証等を一顧だにすることなく原告らの請求をすべて排除する判決を下したものであり、この点で本判決は、司法が安倍政権に全面的にへつらった「安倍忖度(そんたく)判決」のそしりを免れないものである。憲法の番人たる地位を放棄した司法権の恣意的行使と言わざるを得ない。

私たちは、このような行政追随判決を到底容認することはできない。これに対して強く抗議するとともに、首相その他閣僚らの靖国神社参拝行為が根絶されるまで、また安倍政権による立憲主義の蹂躙と戦争国家への道を阻止するために闘い続けることを宣言する。

安倍靖国参拝違憲訴訟・東京
原告団
弁護団

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以下は、同判決を伝える時事配信の記事。大方の報道はこの線でのもの。
「…岡崎克彦裁判長は『原告らの法的利益を侵害していない』と述べ、請求を棄却した。憲法判断についても『必要がない』とした。原告側は控訴する方針。
岡崎裁判長は、安倍首相が参拝後に発表した談話について、「恒久平和への誓いを立てたと理解できる。参拝を戦争準備行為などと理解するのは困難だ」と指摘。原告側が訴えた平和的生存権などの侵害はないと判断した。
原告側は参拝が政教分離に反するか判断を求めたが「結論を導くのに必要な場合を超えて判断するのは相当でない」とし、憲法判断は不要と結論付けた。
安倍首相の靖国神社参拝をめぐる判決は3件目。大阪地裁は16年1月、憲法判断せずに請求を棄却し、大阪高裁も支持していた。
原告側は判決後に記者会見し、「司法の職責を完全に放棄して首相に迎合した『安倍忖度(そんたく)判決』で到底容認できない」と批判した。

朝日は次のとおり。
「判決は、靖国参拝をめぐり、最高裁が06年の判決で示した『首相の参拝によって宗教上の感情が害され不快に思っても、ただちに法的に権利が侵害されたとして損害賠償を求められない』との判断を引用。首相の参拝は原告の信仰に対して強制や圧迫をするものではなく、損害賠償を求める対象にはならないとした。

政教分離原則については、『政教分離規定に反する国の行為があったとしても、(直ちに)個人の間の権利や自由を侵害することにはならない」と述べた。参拝が違憲であることの確認を求めた原告の訴えは却下した。」

報道でやや驚いたのは、東京新聞が「首相靖国参拝は『平和への誓い』 違憲訴訟、東京地裁判決」と見出しを打ったこと。

首相の靖國神社参拝が政教分離違反であることは、上述のとおり明らかといってよい。しかし問題は、それだけでは必ずしも訴訟のテーブルに乗らないということにある。

訴訟の提起が可能なのは、具体的な権利侵害があって権利救済の必要がある場合(あるいは権利侵害が迫っていて権利を予防しなければならない場合)に限られる。少なくも、法的保護に値する私的利益の侵害がなければならない。原告の権利や利益の侵害を離れて、国家機関に違憲・違法な行為があったから、その是正を求めるという訴えは不適法として却下の憂き目に遭う。だから、安倍晋三の違憲・違法な靖國神社参拝によって、各原告にどのような権利侵害(あるいは、法的保護に値する利益の侵害)があったかを特定し、立証しなければならない。

政教分離は信仰の自由という基本権を擁護するための制度的保障ということになっているのだが、政教分離違反があるだけでは必ずしも信仰の自由が侵害されたとは言えない。だから、具体的な信仰の自由の侵害がない限り、政教分離違反があったという訴えは取り上げない。政教分離違反の主張があっても判断の必要はない。司法は、このような頑なな姿勢を維持し続けている。

原告らは、自らの「宗教的人格権が傷つけられた」とし、また「平和的生存権が侵害された」とした。平和的生存権侵害の主張に対する判決の応答が以下のとおりで、やや長いが全文を引用する。
「原告らは,侵略戦争それ自体を賛美する靖国神社への本件参拝及び本件参拝受入れは,精神的な側面から戦争を受け入れる状況を作り出し,日本を戦争ができる国にする戦争準備行為であるのみならず,国際的緊張を高めて軍事的衝突を引き起こす可能性を高め,原告らの生活に脅威と不安をもたらし,日本を含む諸国を戦争の危機に陥れる行為であるから,原告らの平和的生存権が侵害された旨を主張する。
しかしながら,平和とは,理念あるいは目的等を示す抽象的概念であって,憲法前文にいう『平和のうちに生存する権利』もこれを主張する者の主観によってその内容,範囲が異なり得るものであり,いまだ具体的なものではないから,平和的生存権を被侵害利益と認めるのは困難である。加えて,前記認定事実によれば,被告安倍は,本件参拝後にインタビューに応じ,『恒久平和への誓い』と題する談話を発表したが,その内容は,国のために戦い,尊い命を犠牲にした英霊に哀悼の誠を捧げ,尊崇の念を表し,御霊安らかなれと冥福を祈ったこと,日本は二度と戦争を起こしてはならず,過去への痛切な反省の上に立って,今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を新たにしたことなどを表明するものであったことが認められ,少なくともこれを素直に読んだ者からは,被告安倍が本件参拝によって恒久平和への誓いを立てたものと理解されるものであって,本件参拝が戦争準備行為であるとか,本件参拝によづて国際的緊張を高めて軍事的衝突を引き起こす可能性が高まるといった理解をするのは困難であるといわざるを得ない。
したがって,本件参拝及び本件参拝受入れにより平和的生存権が侵害されたことをもって被侵害利益とする原告らの主張は,理由がない。」

東京新聞は、上記のうちの「少なくともこれを素直に読んだ者からは,被告安倍が本件参拝によって恒久平和への誓いを立てたものと理解される」から、「首相靖国参拝は『平和への誓い』」と見出しを打ったもの。

一見して明らかなとおり、原告らの主張は、「侵略戦争それ自体を賛美する靖国神社への本件参拝及び(靖国による)本件参拝受入れは,精神的な側面から戦争を受け入れる状況を作り出し,国際的緊張を高めて軍事的衝突を引き起こす可能性を高め」るものだから、「原告らの生活に脅威と不安をもたらし,原告らの平和的生存権が侵害された」というものであって、靖国とは何であるか、それに首相が参拝することの客観的な意味を問うている。

ところが、判決はこれに応えていない。むしろ、安倍談話を無批判に引用している点で、担当裁判官の見識を疑わざるをえない。原告団・弁護団声明が、「『安倍忖度(そんたく)判決』のそしりを免れないもの」と怒りを露わにするのも当然なのだ。
(2017年4月30日・連続第1491回)

「昭和の日」に、「昭和天皇の戦争」を読む

本日(4月29日)は、大型連休の初日となる「昭和の日」。昭和天皇と諡(おくりな)された裕仁の誕生日。この人、1901年の生まれで1926年に神様(憲法上は「神聖にして侵すべからず」とされる存在)となった。以来1945年までは、4月29日が「天長節」とされた。46年に人間に復帰し、以来89年に亡くなるまで、この日は「天皇誕生日」であった。その没後、前天皇の誕生日は、「緑の日」となり、次いで2007年から「昭和の日」となって現在に至っている。

祝日法では、「昭和の日」の趣旨を「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」としている。当然に、昭和天皇(裕仁)の存在を意識し念頭に置いた記載である。「激動の日々」とは、天皇制ファシズムと侵略戦争の嵐の時代のこと。「復興を遂げた昭和の時代を顧み」とは、敗戦を機として社会と国家の原理が民主主義へと大転換したことを指し、「国の将来に思いをいたす」とは再びの戦前を繰り返してはならないと決意をすること、である。

いうまでもなく、昭和という時代は1945年8月敗戦の前と後に2分される。戦前は富国強兵を国是とし侵略戦争と植民地支配の軍国主義の時代であった。戦後は一転して、「再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることの決意」から再出発した、平和憲法に支えられた時代。戦前が臣民すべてに天皇のための滅私奉公が強いられた時代であり、戦後が主権者国民の自由や人権を尊重すべき原則の時代、といってもよい。

「国や社会の将来に思いをいたす」ためには、過去に目を閉ざしてはならない。「昭和の日」とは、なにゆえにあの悲惨な戦争が生じたのか、加害被害の実態はどうだったのか、誰にどのような戦争の責任があるのか、を主権者としてじっくりと考えるべき日。とりわけ、この日には昭和天皇の戦争責任について思いをいたさなければならない。同時に、「戦後レジームからの脱却」などと叫ぶ政権の歴史認識検証の日でもある。

だから、今日(4月29日)は「昭和天皇の戦争?『昭和天皇実録』に 残されたこと・消されたこと」(山田朗・2017年1月27日刊)に目を通し、昭和天皇の戦争責任を再確認した。
同書は、「昭和天皇の戦争指導、戦争を遂行するシステムとしての天皇制に焦点をあて」、戦後期に形成された「天皇平和主義者論」や「情報は天皇に達していなかったとする見方」を拡大再生産している『実録』の記載を検証する労作である。

この書についての岩波の惹句は以下のとおり。
「軍部の独断専行に心を痛めつつ、最後は『聖断』によって日本を破滅の淵から救った平和主義者ー多くの人が昭和天皇に対して抱くイメージは果たして真実だろうか。昭和天皇研究の第一人者が従来の知見と照らし合わせながら、『昭和天皇実録』を読み解き、『大元帥』としてアジア太平洋戦争を指導・推進した天皇の実像を明らかにする」
まさしく、この惹句の通りの内容となっている。

冒頭のかなり長い〈はしがき〉が、「はじめに?『昭和天皇実録』に 残されたこと・消されたこと」と表題され、その中に次の一文がある。

本書の構成と各章のねらいについて説明しておこう。
第?部 「大元帥としての天皇―軍事から見た『昭和天皇実録』の特徴」(第一章・第二章)では、昭和戦前期における天皇と国家戦略・軍事戦略との関係、天皇と国民統合・軍隊統率との関係など様々なファクターを全体的に検討し、第?部「昭和天皇の戦争-j即位から敗戦まで」(第三章〜第六章)では、天皇の戦争指導に焦点をあてて「実録」が何を歴史的記録として残し、何を残さなかった(消去してしまった)のかを検証する。

そして、「終わりに」で、著者はこう語っている。
本書は、『実録』で残されたこと、消されたことという観点から、その叙述の検討をしてきた。
『実録』において軍事・政治・儀式にかかわる天皇の姿が詳細に残されたことは、歴史叙述として大いに評価してよい点であるが、過度に「平和主義者」のイメージを残したこと、戦争・作戦への積極的な取り組みについては一次資料が存在し、それを『実録』編纂者が確認しているにもかかわらず、そのほとんどが消されたことは、大きな問題を残したといえよう。なぜならば、『実録』が発表・刊行された以上、昭和天皇について、あるいは昭和戦前期における天皇制について調べようとする人々は、まず、この公式の伝記に目を通すからである。その際、史料批判の観点を十分に有さない読者にあっては、『実録』によって強い先入観を植え付けられてしまう恐れがある。
『実録』における歴史叙述は、従来の「昭和天皇=平和主義者」のイメージを再編・強化するためのものであり、そのストーリー性を強く打ち出したものである。‥『実録』は、私たちが掘り起こし、継承し、歴史化していかなければならない〈記憶〉を逆説的に教えてくれるテキストであるといえよう。

著者に敬意と謝意とを表したい。

ところで、「天皇誕生日」をキーワードに検索していたら、4年前の当「憲法日記」にぶつかった。少しだけ、バージョンアップしたものにしてその一部を再掲する。

かつて、祝日には学校で、「祝日大祭日唱歌」なるものを歌った。1893(明治26)年8月12日文部省告示によって「小学校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞並楽譜」として『祝日大祭日歌詞並楽譜』8編が撰定された。その「第七」が「天長節」という唱歌。その歌詞を読み直すと、当たり前のことだが天皇制と「君が代」とが切っても切れない深い関係にあることが思い知られされる。それにしても、これは聖歌だ。神に捧げる信仰歌を全国民に歌わせていたのだ。臣民根性丸出しの天皇へのへつらいこれに過ぎたるはなく、歌詞を読むだに気恥ずかしくなる。

  今日の吉き日は 大君の。
  うまれたまひし 吉き日なり。
  今日の吉き日は みひかりの。
  さし出でたまひし 吉き日なり。
  ひかり遍き 君が代を。
  いはへ諸人 もろともに。
  めぐみ遍き 君が代を。
  いはへ諸人 もろともに。

なお、『祝日大祭日歌詞並楽譜』に掲載8編の全部を挙げれば、以下のとおり。
?  第一  君が代 
?  第二  勅語奉答
?  第三  一月一日
?  第四  元始祭
?  第五  紀元節
?  第六  神嘗祭
?  第七  天長節
?  第八  新嘗祭

不動の第一は、さすがに「君が代」。あまり知られていないが、第二が今話題の「教育勅語奉答」歌である。その歌詞も紹介しておこう。教育勅語の「核」となるものが天皇賛美と天皇への忠誠であることがよく分かる。こんなものを子どもたちに歌わせていたのだ。気恥ずかしさを通り越して、腹が立つ。天皇制とは、コケオドシと虚飾の押しつけで成り立っていた。まさしく、日本中が塚本幼稚園状態であり、オウム真理教状態だったのだ。なお、この作詞者は旧幕臣の勝海舟だという。

  あやに畏き 天皇(すめらぎ)の。
  あやに尊き 天皇の。
  あやに尊く 畏くも。
  下し賜へり 大勅語(おほみこと)。
  是ぞめでたき 日の本の。
  国の教(をしへ)の 基(もとゐ)なる。
  是ぞめでたき 日の本の。
  人の教の 鑑(かがみ)なる。
  あやに畏き 天皇の。
  勅語(みこと)のままに 勤(いそし)みて。
  あやに尊き 天皇の。
  大御心(おほみこころ)に 答へまつらむ。

なお、現天皇明仁が誕生したとき(1933年12月23日)には「皇太子さまお生まれになった」(作詞北原白秋・作曲中山晋平)という奉祝歌がつくられ唱われた。

  日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
  サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
  天皇陛下喜び みんなみんなかしは手
  うれしいな母さん 皇太子さまお生まれなつた

  日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
  サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
  皇后陛下お大事に みんなみんな涙で
  ありがとお日さま 皇太子さまお生まれなつた

  日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
  サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
  日本中が大喜び みんなみんな子供が
  うれしいなありがと 皇太子さまお生まれなつた

皇位継承者(皇太子)誕生への祝意強制の社会的同調圧力には、背筋が冷たくなるものを感じる。天皇を中心とした「君が代」の時代は、戦争と植民地支配の時代であり、自由のない時代であった。本日、昭和の日は、「君が代」「教育勅語」そして、「皇太子さまお生まれになった。日本中が大喜び。うれしいなありがと」などと唱わされる時代をけっして繰り返してはならない。今日はその決意を刻むべき日である。
(2017年4月29日・連続第1490回)

「君が代斉唱時の不起立」は、「わいせつ」「傷害」「公金横領」よりも悪質だというのか?東京高裁永野厚郎判決に怒る

敗訴判決の味は、この上なく苦い。一昨日(4月26日)の午後1時30分。東京高裁511号法廷で、弁護団の一人として、東京「再雇用拒否」第3次訴訟で敗訴判決の言い渡しを受けた。

事案は、定年後の再雇用申請に対する拒否を違法と争うもの。卒業式で「君が代」斉唱時に起立しなかったことを理由に「職務命令」違反として懲戒処分を受けた教員は、定年退職後に再雇用を申請しても拒否されるのだ。再雇用希望者は、ほぼ全員が採用されているのだから、再雇用拒否は事実上の解雇に等しい。「君が代斉唱時の不起立者」だけに対する懲戒処分に重ねての不利益。これは、思想差別だ。

最高裁は、「日の丸・君が代」処分を違憲とはしていない。しかし、戒告はともかく減給も出勤停止も、処分対象の行為の悪質性に比較して処分の量定が過酷に過ぎて、著しく均衡を欠くものとして裁量権の逸脱濫用であり、違法と認めている。最高裁の立場は、「君が代斉唱時の不起立は確かに職務命令違反ではあるが、自らの良心の発露としてやむにやまれぬ行為なのだから、法的に何の不利益も伴わない戒告であればともかく、実質的な不利益をもたらす減給や出勤停止の処分は、重きに失して著しく妥当性を欠く」ということなのだ。この理は、当然に定年退職後の再雇用時にも貫徹されなければならない。

都職員の再雇用制度は、定年制導入とセットになったもので、職員の定年時から年金支給開始年齢までの雇用と生計を確保することが主たる目的。だから、処分歴ある者を含めて原則として希望者全員が採用されてきた経過がある。ところが、「日の丸・君が代」処分者なのだ。

東京「再雇用拒否」第2次訴訟(一審原告22名)での結論は、最高裁判例の意を酌むものとなり、一審東京地裁判決(2015年5月)、二審東京高裁判決(2015年12月)とも、君が代斉唱時の不起立を理由とした再雇用拒否は、原告らの「期待権を侵害」し「(都の)裁量権の逸脱濫用で違法」として、東京都に約5370万円の損害賠償を命じた。この高裁判決に対する東京都からの上告受理申立に、最高裁はまだ判断を示していない。

判決のうちの「平等原則違反」の主張に対する部分を引用する。読み易いように段落を付けるが、当該部分全文の引用である。誰が読んでも、「これっておかしい」と同意してもらえると思う。

控訴人(「君が代斉唱時に不起立の教員」)らは,
非常勤教員制度ができた平成19年度から平成26年度までの間に再雇用教員合格者と非常勤教員合格者のうち過去に懲戒処分をされた者は83人であり,争議行為(31件),わいせつ行為(2件),体罰(2件),公金横領(2件)を行って懲戒処分を受けた者であっても,また免職・減給という重い懲戒処分を受けた者であっても,合格しており(甲84の1, 2, 3の1から3の83),特に,都教委は,
?男子児童に対してわいせつ行為を行い,停職3か月の懲戒処分を受けた者,
?親睦旅行の際に女性教諭にわいせつ行為をして停職3か月の懲戒処分を受けた者,
?生徒の登校態度を理由として生徒に暴行を加え,傷害を負わせたことを理由に停職の懲戒処分を受けた者,
?宿泊助成金を不正受給するという公金横領で減給処分を受けた者
のように破廉恥又は明白な犯罪行為を理由に重い停職・減給の懲戒処分を受けた者を合格させながら,自らの思想・良心及び信仰を理由に,本件職務命令に従わなかっただけである控訴人らを不合格にするのは,著しく社会通念に反する
と主張する。

さらに,控訴人らは,
都教委は,地方公務員法37条に違反した争議行為禁止違反の者を非常勤教員に採用しているが,その理由は,公務員の争議行為が,本来,憲法28条に保障された基本的人権であるという側面を有していることから,その行為のみを殊更重大視して,それだけで「勤務成績が良好でない」と判断しなかったものにほかならないところ,不起立行為を法律上禁止した規定は存在しておらず,不起立行為が,思想良心及び信仰の自由の行使であるという側面を有しているにもかかわらず,これを殊更重大視して,採用拒否の理由とすることは,争議行為禁止違反の者と比較して,平等原則に著しく反するものである
とも主張する。

しかし,非違行為に対する評価は,懲戒処分の量定の場合と非常勤教員の採用の場合とでは,考慮、の仕方や裁量の範囲が異なりうることは既に述べたとおりであり,また,非常勤教員の採用の場面で過去の懲戒処分歴の評価に平等原則違反があるか否かの判断に当たっては,懲戒処分の種類,理由及び処分量定を個別に比較するほか,懲戒処分後の期間の経過も考慮に入れる必要があることから,控訴人らが主張する事例をもって,直ちに平等原則に違反するとはいえない。

永野判決の「論理」がお分かりいただけるだろうか。
同判決は、
?児童へのわいせつ行為によって停職3か月の懲戒処分を受けた者
?女性教諭にわいせつ行為をして停職3か月の懲戒処分を受けた者
?生徒に暴行を加え,傷害を負わせたことを理由に停職の懲戒処分を受けた者
?宿泊助成金を不正受給するという公金横領で減給処分を受けた者
?争議行為禁止違反で懲戒処分を受けた者
が再雇用されている事実を認めた。それでもなお、君が代不起立者に対しては一律不採用とすることを「平等原則に違反するとはいえない。」というのだ。

これは、「君が代斉唱時の不起立」は、「わいせつ」「傷害」「公金横領」よりも悪質だといっているに等しい。「わいせつ」も「傷害」も「公金横領」も、教員として不適切なことは自明ではないか。「君が代斉唱時の不起立」は、思想や信仰がやむにやまれぬものとしたものであり、教員としての良心の発露でもある。裁判官の憲法感覚が、世間の常識と大きく外れているものと指摘せざるをえない。

永野さんよ。この判決を高校生に向かって説明してみてはどうか。はたして、生徒諸君の納得を得られる自信をお持ちだろうか。私は、あなたのこの判決に、高校生からの合格点は付かないと思う。

「怒るべきときに、泣いていてはならない」とは至言である。落胆せずに、怒りを燃やして前進のエネルギーとしたい。
(2017年4月28日)

「すくっと 立ち上がる」言葉を

かごめかごめ
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの池で
晋と朋が滑った
後ろの政治家だあれ?

「右派言論ウォッチャー」を自ら称する佐藤恵美さんの作。「靖国・天皇問題 情報センター通信」の最新号(通算517号)の「新編右翼事情」欄の末尾に載っていたもの。

「かごめかごめ」の元歌がなにやら不可解で、不可解ながら不気味で陰鬱な色合いをにじませている。「籠の中の鳥は いついつ出やる」とは、囚われ人の溜息が言葉になったものだろう。こんな、絶望の雰囲気に満ちた童謡がまたとあろうか。

佐藤恵美版「かごめ」は趣を異にする。「籠の中の鳥」とは、アベ政治のおぞましさ、まがまがしさの根源にある行政を私的にコントロールする仕組みの秘密。「晋」は極右の「朋」には、ねぎらい、振る舞うのだ。行政機構は、忖度を重ねて「晋の朋」のために、大判振る舞いをする。おぼえめでたきを良しとして、見返りを期待するというわけだ。

籠の中に閉じ込められて、なかなか外からはうかがい知れない。この「鳥」が、もう一息でうまく出そうなのだが、出そうでいて実はなかなか出てこない。そのもどかしさが、「いついつ出やる」と愚痴になる。

それにしても、「晋」と「昭」と、その「朋」らが、みっともなくも滑ったことは間違いない。籠からは真実を開け放ち、代わって「晋」と「昭」らを逃さず閉じ込めなければならない。

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何の解決も見ることなく、事態生煮えのままやや下火になった「アベ友学園」問題。このままでよいはずはない。ようやく、このところ再燃の兆し。新たな資料も出てきた。「『森友』音声記録 土地交渉中 昭恵氏に言及〈籠池氏、財務省と面会時〉」(東京)、「森友の国有地取得、財務局が手助け 書類の案文も添付」(朝日)などと、新資料に基づいて、問題解明に積極的に切り込む報道が増えている。

本日(4月27日)の東京新聞「こちら特報部」は、出色。「共謀罪」と「森友問題」をならべて、「ふたつの共通項とは?」と記事にしている。「政府・与党 禁じ手連発」「揺らぐ法の支配」「機能不全の国会」「説明できぬ大臣 反対意見抑圧」「野党の資料要求も拒む」と、大きな活字の見出しが並ぶ。

特報部記事の中に、「デスクメモ」という囲み記事がある。ここに「息苦しい新たな『戦中』がかたちになり始めている。押し返さねば、塗り固められる。いたるところで抵抗を」と書かれている。切実な思いの込められた重い言葉。

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4月21日の当ブログ「森友への国有地低額売買をうやむやにしてはならない」ーそのための具体的提案」で話題にした、近畿財務局への第三者委員会の設置等を求める要請行動。この短期間に、弁護士と学者の要請賛同者は280名を超えた。

本日、代表者が、近畿財務局に要請書を提出し、連休明け5月10日までの回答が約束されたという報告。

MBS(毎日放送)が下記のように取り上げている。
http://www.mbs.jp/news/kansai/20170427/00000023.shtml

「学校法人「森友学園」が大阪府豊中市に小学校を建設するために国有地を取得したいきさつについて、弁護士らのグループが近畿財務局に対し、第三者委員会の設置を求める要望書を提出しました。
去年6月、森友学園は小学校を建設するために豊中市の国有地を買い受けましたが、約8億円が値引きされた算定根拠などは今も不透明なままです。このため、弁護士や法学者など約280人のグループは 土地を売却した近畿財務局に対して交渉経緯などを調査する第三者委員会の設置を求めています。

『国民の大多数は疑問に思っている。法的な手段で可能なものを全てやる』(阪口徳雄弁護士)
グループは、国が交渉記録を廃棄したことについて行政訴訟を起こすことも検討しているということです。」
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この報道のタイトルが、「『法的な手段全てやる』弁護士ら森友問題で要望書」というもの。阪口徳雄君の、「国民の大多数は疑問に思っている。法的な手段で可能なものを全てやる」発言は、短くて歯切れがよい。

ところで、本日の東京新聞「筆洗」からの引用である。

捨てる。捨てない。
忘れる。忘れない。
戻る。戻れない。
帰りたい。帰れない。
遠い。近い。
どうする。どうしようもない。
陽炎の 向こうに。
ゆれて見える。

これは、福島県相馬市に住む根本昌幸さん(70)の詩集『荒野に立ちて』に収められた詩「わが故郷」だという。微妙で複雑な気持ちが、そのまま言葉になっている。
また、根本さんは、こういう詩も書いているという。

人が人を 虫けらや獣のような 扱いをしたとき。
言葉はすくっと 立ち上がるだろう。
そして人に向かって行くだろう…。

復興相の「東北でよかった」発言にちなんでの、「筆洗」の引用であって、まことに適切である。だが、この詩はそのような状況を越えて、普遍性の高い、立派な作品であり、言葉だと思う。

『荒野に立ちて』も、東京新聞「デスクメモ」も、阪口君の「法的な手段で可能なものは全てやる」発言も、言葉がすくっと立っている印象がある。

そういえば、最近「すくっと 立ち上がった」、見事な言葉を聞いた。

多喜二多喜二 総理の夢に現れよかし  山路家子(81)東京都

東京新聞4月20日の「平和の俳句」である。いとうせいこうが、「特高警察に殺された小林多喜二の命日、2月20日にさまざまな句が寄せられた。共謀罪の閣議決定に私たちは過去を見る。そして歌う」と解説している。この句の凜々しさ、厳しさに、解説が追いつかない。

私も、「すくっと 立ち上がる」言葉を発したい。切実にそう思う。
(2017年4月27日)

今村復興大臣辞任をめぐってー「失言・放言・暴言・妄言」再論

2011年3月。私は、故郷岩手の3・11被害に驚愕し動顚し、うろたえてもいた。その心理状態で、石原慎太郎の「震災・津波は天罰」という発言に接して文字通り激怒した。「石原慎太郎天罰発言」批判のブログ連載はその怒りのほとばしりである。4年後の3月11日に、そのダイジェストをアーカイブとして当ブログに掲載している。再度、お読みいただけたらありがたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=4563

その中の一文が、「失言・放言・暴言・妄言」(2011年3月31日)という以下のもの。本日なればこそ、再掲したい。

石原の「津波をうまく利用して『我欲』を洗い落とす必要がある」「これはやっぱり天罰」とは失言であろうか。
失言とは、「不注意に本音を漏らす」 こと。つまりは、本来本音をもらしてはならないとされる場面で、うっかり本音をさらけ出してしまうことをいう。
しかし、問題のこの発言、けっして口を滑らしてのものではない。発言者には、「自分の本音を口にしてはならない場面」という認識が決定的に欠けていた。日常の用語法において、このような場合には、「うっかり本音をさらけ出した」とも、「不注意に本音を漏らした」とも言わない。傍若無人に自分の見解を述べたに過ぎないのだ。失言というよりは、放言というべきであろう。「うっかり言ってしまった」のではなく、確信犯としての発言なのだから。

彼には、自分の発言が死者を冒涜したこと、被災者に配慮を欠いたこと、言ってはならないことを言ってしまったことについての自覚がない。むしろ、エラそうに浅薄で危険な文明観のお説教を垂れたのだ。記者から「被災者に配慮を欠いた発言では」と指摘を受けて直ちには撤回も謝罪もしなかったのはその故である。

翌日、発言を撤回し謝罪したのは、ひとえに選挙対策として。そうしておいた方が選挙に有利とアドバイスを受けた結果であることが透けて見えている。

放言が、傍に人無きがごとしという域を超え、人の心を直接に傷つけるに至った場合を暴言と呼ぶ。今回の彼の「天罰発言」はまさしく暴言というにふさわしい。あるいは、妄言というべきであろう。

失言においても、一度露わになった本音は、撤回しても謝罪しても、それこそが発言者の本心であり本性である以上、消し去ることはできない。むろん、放言でも暴言でも妄言でも事情は変わらない。

思えば彼は、これまでも数々の暴言や妄言を重ねてきた。社会の片隅で、威張り散らすのはまだ罪が軽い。天下に露わとなったこの本性のまま、責任ある地位で権力をふるうことは、もう、いい加減にしていただきたい。

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以上の拙文の、「津波をうまく利用して『我欲』を洗い落とす必要がある」「これはやっぱり天罰」という発言内容を、「これはまだ東北でですね、あっちの方だったから良かった」「自主避難者が帰還するかどうかは自己責任。裁判でもなんでもやればいい」に置き換えれば、そのまま昨日(2017年4月25日)の今村復興相発言批判に通用する。石原慎太郎と今村雅弘とは、似た者同士で同罪相哀れむの仲。いずれも、問題は失言にではなく、彼らが抱えているホンネにあるのだ。今村だけではない。イナダ以下の閣僚皆がそうではないか。

そしてアベ本人には、「失言・放言・暴言・妄言」以外に、「呆言(ほうげん)」というものがある。呆は痴呆の「呆」。官僚が書いた原稿の「云々」を、自信たっぷりに「でんでん」と読む、あの手の「呆言」。これが、日本国民にふさわしい内閣なのか。

なお、執拗に繰り返されたイマムラ放言には、被災者切り捨ての方針を打診する意図があったのではないか。批判がなければ確実に東北の切り捨てが進行したと思う。イマムラにもアベにも、厳しい批判が必要なのだ。
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そして、同アーカイブから、もう一つの記事(2011年04月04日)を。

ばちあたり

「なんてかなしいこと」というと
「なに、てんばつさ」という。

「ほんとにてんばつ?」ときくと
「ほんとにてんばつさ」という。

「ほんとにほんと?」と、ねんをおすと
「てっかいしてしゃざいする」という。

そうして、あとでもういちど
「ほんとにしゃざいしたの?」ってきくと
「せんきょがちかいからね」って、小さい声でいう。

こだまでしょうか、
いいえ、あのひと。

「天罰」はだれにも見えないけれど
「天罰」と口にする人の品性はだれにもよく見える
「天罰」は本当はないのだけれど
「天罰という人の罪」は深い

これも、「天罰」を「自己責任」に、「しゃざい」を「辞任」に、「あのひと」をアベあるいはイマムラに置き換えてお読みいただきたい。
(2017年4月26日)

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