3月15日の東京地裁527号法廷で、東京「君が代」裁判第4次訴訟の第15回口頭弁論。この日の法廷で弁論は終結し、判決言い渡しは9月15日午後1時10分と指定された。この日、一審最後の法廷で、二人の原告が結審にあたっての思いの丈を、裁判官に語った。
今月15日の当ブロクで、渡辺厚子さんの陳述はご紹介した。
https://article9.jp/wordpress/?p=8281
本日は、もうひとりの原告である現役教員の意見陳述をご紹介する。
その陳述内容は、教師として徹頭徹尾生徒の立場を慮ったものである。教員の良心において生徒の思想信条の自由を擁護しなければならないという真摯さに貫かれたもの。私たちの社会は、このような良心的で良質の教員を受容し得ない狭量なものに変質してしまっているのだろうか。国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の可否は、社会の寛容の程度である。表現を変えれば、社会の柔らかさ、生き易さのバロメータではないか。
そのような目で、この陳述書をお読みいただきたい。そして、そのような思いで、東京地裁民事11部の9月15日判決を注視していただきたい。
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東京「君が代」裁判四次訴訟 最終意見陳述? 2017.3.15
原告のKSです。第1回口頭弁論でも意見陳述しました。今回は現職の都立高校の教員として、原告らを代表して、10.23通達による生徒の被害について陳述します。
10.23通達のターゲットが生徒であるということがはっきりわかる出来事が今年ありました。都立高校では卒業式の3週間前までに卒業式の実施要項や式の進行表を都教委に提出しなければなりません。2008年から多くの学校で、進行表に「不起立の生徒がいたら司会が起立を促す」という文言が入れられるようになったのですが、これまではその文言がなくても都教委は受け取っていました。しかし今年から、進行表に生徒の不起立に対する対応が書かれていないと「司会は、生徒の不起立者多数の場合『ご起立ください』という」との文言を入れるよう、都教委から強い指導を受けるようになったのです。これは生徒への強制以外の何物でもありません。
10.23通達以前は、開式前に「内心の自由の説明」がありました。「内心の自由の説明を聞いて、安心して座ることができた」と喜んでいる生徒もいました。しかし、10.23通達以降は、内心の自由の説明をすることはできなくなりました。さらに都教委は2006年に「3.13通達」を出し、「適正に児童・生徒を指導することを、教職員に徹底するよう」通達しました。この通達は、教員が生徒に内心の自由の説明をすることを禁じたものです。
2005年の卒業式の前に、こんなことを作文に書いた生徒がいました。「間違っていることを『間違っている』と言えずに、従わざるを得ない先生たちは、どれだけ辛いだろうと思う。しかも間違っていると思うことを指導しなければならないのは、とても苦しいことだと思う。自分が通っている学校で、そんな風に間違ったことが行われ、そしてそれによって辛い思いをしている先生がいることが、私はとても悲しい。」
10.23通達発出当時、多くの生徒が教員に出された命令を「間違っている」と感じ、様々な形でその意思を表明しました。教員が苦しんでいる姿に接して、生徒たちも辛い思いをしていたのです。
「『君が代』を聞くと苦しくなる」と私に訴えてきた生徒がいました。彼は在日韓国人で、差別されているという思いを強く持っていました。私は彼の担任でもなく、特に私になついていたわけでもないのに、どうしてそんなことを私に訴えてきたのかわかりませんが、その気持ちには重いものがあると感じました。職員会議で、校長に「内心の自由の説明をしてほしい」と頼んだ時、この生徒のことも話しました。校長は「辛い思いをする生徒も実際にいるでしょう。けれど我慢してもらうしかないですね。」と答えました。生徒の入学や卒業を祝う喜ばしいはずの式で、その主人公の生徒が、どうして、何のために、苦しまなければならないのでしょうか。かけがえのない存在である一人一人の生徒を大切にし、一人一人の心の痛みに寄り添い、切り捨てないことが教育、特に公教育では重要です。毎年卒業式・入学式のたびに内心の自由を踏みにじられる生徒が確実にいるということを私たちは忘れてはならないと思います。
10.23通達は教職員に起立斉唱を命じるものですが、教職員が全員起立することは、生徒への圧力になります。先日、ある保護者が「子どもの入学式に参列し、国歌斉唱の時座ったが、周りは教員も含めてみんな立っていた。先生の中の一人でも座っている人がいたら、これからの学校生活にどれだけ希望が持てただろう」と話しているのを聞きました。内心の自由の説明もなく、会場にいる人全員が起立する中で立たないでいるのはとても難しいことです。それでもどうしても立てずに座っている生徒に対して司会が「ご起立ください」と言ったとしたら、その生徒は自分自身の思想信条の自由を守れなくなってしまうのではないでしょうか。起立するにしても座っているにしても、とても苦しい思いをするに違いありません。卒業式の進行表の問題は、生徒への強制がエスカレートしていること、10.23通達の目的が、教員に強制することを通して、生徒に強制することだということを示しているのです。
都立高校の生徒は自分たちの卒業式をとても大切にしています。10.23通達前は生徒たちは卒業式対策委員会を組織して、自分達の卒業式をどのように行うのか話し合って決めていました。卒業生と保護者が向かい合って座る「フロア形式」の式が行われたり、思い出のビデオを上映したり、5、6人の生徒が次々に自分たちの思いを語ったりと、生徒は自分たちの一生に一度の高校の卒業式を思い出深いものにしたいと一生懸命に考えて企画していました。けれど、10.23通達後は、こうした自由で創造的な卒業式は実施できなくなりました。画一的な卒業式しか許されなくなり、生徒が自分たちで決められることといったら、式歌を何にするかぐらいになったのです。
数年前に、式の最後にクラス代表の生徒たちで卒業式を感動的なものにするための企画を実施したいと生徒が言い出したことがありました。生徒の願いを叶えたいと思った担任は何度も何度も校長に交渉しましたが、校長は「厳粛な式にはふさわしくない」の一点張りで、生徒の願いをかなえることはできませんでした。一体卒業式は誰のためのものなのでしょう。10.23通達によって、画一的な式が押し付けられ、卒業式は卒業生のためのものではなくなったのです。
私は2007年卒業式の代表生徒の言葉が忘れられません。彼は「何かを大切に思う気持ち、愛する気持ちは自然にわき上がってくるものです。誰かにこれを大切にしなさい愛しなさいと強制されても心から大切にしたり愛したりすることはできません。」と語りました。愛する気持ちや敬意は自然にわき上がってくるもので、他から押しつけられるものではありません。
昨年アメリカではNFLのコリン・キャパニック選手が「人種差別がまかり通る国に敬意は払えない」として、試合前の国歌斉唱時に起立を拒否して話題になりました。オバマ大統領は、キャパニック選手は憲法で保障する意見表明の自由を行使しただけだと擁護し、「脇でただ座って何も気にかけないでいるよりも、若い人がもっと民主的手続きに則り議論に参加した方がいい」と述べました。
何かに対する敬意は強制すべきものではありません。敬意を表明したいと思えば表明すればいいし、敬意を表明できないと思えば表明しなくていい、それが許されるのが民主的な国家だと思います。有無を言わせず強制することよりも、生徒が自分の頭で考え、議論し、自分で判断すること、様々な考え方があることを知ること、異なる意見を認め合い尊重することを学ぶことの方が、教育の場では必要なのです。
国旗国歌に対する敬意は、生徒に対して強制できないのはもちろんですが、教員に対しても強制することは間違っています。都立高校の教員は公務員であり全体の奉仕者だから、上司の命令には従わなければならないと、再発防止研修では講義されましたが、私は全体の奉仕者だからこそ、間違った命令には従ってはいけないと考えています。教員には生徒の内心の自由を守る義務があるのです。また私は、生徒が主人公だったかつての都立高校の卒業式を取り戻すことも、教員の責務だと感じています。
10.23通達は、教育の自由や生徒の権利を守ろうとする教員を学校現場から排除するためのものです。物言わぬ教員を作るため、思考停止した教員を作るためのものです。物言わぬ教員、思考停止した教員は、物言わぬ生徒、思考停止した生徒を作り出します。10.23通達のターゲットは生徒なのです。10.23通達は、自分の頭で考えない、権力の言うなりになる生徒を作るためのものなのです。
裁判所におかれましては、どうか、10.23通達が生徒を苦しめていること、10.23通達を撤回することが日本のより良い未来につながっていることをご理解ください。そして、公正な判断をお願いします。
(2017年3月23日)
昨日(3月21日)政府は「共謀罪法案」を閣議決定し、国会に上程した。政府と自公両党は、4月中に法案の審議に入り、通常国会の会期末(6月18日)までに成立を目指す、としている。そんなことをさせてはならない。
「共謀罪」という罪名の犯罪を新たに作ろうというのではない。既にある277罪について、実行行為に着手する以前の「共謀」の段階で処罰を可能としようというのだ。政府の説明では、「共謀」だけでなく、実行に向けた「準備行為」への着手が必要とされているのだから、「何が犯罪となるか不明確ではない」というが、なんの説得力もない。実行行為への着手の有無が処罰の可否の分水嶺であり、刑事処罰と強制捜査のための権力発動の分水嶺である。『共謀罪』の創設は、その分水嶺のはるか手前の段階で、普通は犯罪とは言えない行為を処罰対象とするもの。まさしく、現行刑法の基本原則を根こそぎ覆す暴挙と評する以外にない。
日本国憲法下、日本の国民は自由主義を信奉してきた。自由をかけがえのない価値とする社会を作ろうとしてきた。戦後の国政をになった保守政権も、政党名に自由を冠し、自由をスローガンとして、反対政党の政策を「自由の寡少」と攻撃してきたではないか。自由とは国家権力から守られるべきもの。自由主義とは、国家権力の発動による個人の行動への制約を極小化すべきとする原則である。アベ内閣は、本気でこれに挑戦しようというのだ。
国家権力が犯罪を処罰し、そのことを通じて社会の秩序の維持を図る役割を果たすべきは当然である。しかし、その必要を超えて、権力の恣意による国民の自由の制約があってはならない。国民の行為への処罰範囲の拡大は、厳密な立法事実を踏まえてのものでなくてはならない。
当初は676罪とした共謀処罰対象を277罪に絞ったという手柄顔の説明は、それこそ立法段階における政府の恣意性を自白するに等しい。277罪の共謀処罰についての必然性はなく、国民は、犯罪実行行為とは無縁の、無定型な日常行為を監視され、強制捜査され、処罰される不安の中で生活を余儀なくされる。これは、自由主義国家のありかたではない。
一方に、「政府を信頼せよ」「警察も検察も裁判所も、けっして法の濫用を許さないだろう」という論調がある。しかし、戦争法反対のデモに対する政府・与党の対応を見よ。沖縄での平和運動への弾圧を見よ。堀越事件・世田谷事件などで表面化した常軌を逸した尾行張り込みの監視の実態を見よ。数々の違法捜査に目をつぶってはならない。「政府も捜査機関も信頼してはならない」それが、健全な自由主義国家の国民の態度でなくてはならない。
のみならず、我々は戦前の治安維持法の猛威を、苦い教訓として知っている。構成要件曖昧な治安法規は、権力に好都合で、国民の人権には甚だしい害悪を及ぼすのだ。「天子様に弓引く非国民の極悪人の結社を処罰するだけ」だったはずの治安維持法が、処罰対象を拡散して、政府に不都合なあらゆる思想や行動を制圧したことを想起しなければならない。
本日の各紙社説(6全国紙)に目を通した。朝日・毎日・東京が批判の立場を鮮明にしている。日経も慎重な審議を求めており、読売だけが政権に提灯をもつ論説となっている。批判と提灯の数は3対1。東京が熱のある社説になっているし、朝日・毎日の論調にも説得力がある。それに比較して、読売の論説はおざなりで説得力に乏しい。せっかくの政権への提灯社説だが、大した明るさの提灯とはなっていない。産経は社説を掲載していないが、産経といえば読売と兄たり難く弟たり難い間柄。推して知るべしであろう。
地方紙は、軒並み原則的な社説を書いているようだ。論戦のスタート時の状況としては、悪くないのではないか。以下、全国紙5社説の概要を紹介する。
☆朝日社説のタイトルは、「『共謀罪』法案 疑問尽きない化粧直し」。
「化粧直しのポイントは、(1)取り締まる団体を「組織的犯罪集団」に限定する、(2)処罰できるのは重大犯罪を実行するための「準備行為」があった場合に限る、(3)対象犯罪を組織的犯罪集団のかかわりが想定される277に絞る―の三つだ。だが、いずれにもごまかしや疑問がある。」
「旧来の共謀罪についても、政府は『組織的な犯罪集団に限って成立する』と言ってきた。だとすれば(1)は新たな縛りといえない。安倍首相の「今度は限定している。共謀罪との大きな違いだ」との国会答弁は、国民を誤導するものに他ならない。(2)の「準備行為」も何をさすのか、はっきりしていない。共謀罪は組織犯罪防止の国際条約に加わるために必要とされた。そして条約の解釈上、重い刑が科せられる600超の犯罪に一律に導入しないと条件を満たせないというのが、政府の十数年来の主張だった。(3)はこれを一転、半減させるというものだ。融通無碍、ご都合主義とはこのことだ。」
「犯罪が実行されて初めて処罰するという、刑法の原則をゆるがす法案である。テロ対策の名の下、強引に審議を進めるようなことは許されない。」
朝日社説の『共謀罪』法案批判のキーワードは、「化粧直し」「融通無碍」「ご都合主義」である。これからも、このキーワードが多用されそうだ。
☆毎日社説の表題は、「『共謀罪』法案 説明の矛盾が多過ぎる」と厳しいもの。
「政府はかつて『共謀罪』新設の関連法案を3度提出したが、廃案になった。名称を変えた今回の法案も、組織犯罪が計画段階で幅広く処罰可能となる本質は変わらない。」
「こうした処罰の規定は人の内心に踏み込む。捜査側の対応次第で国民生活も脅かされる。」「日本の刑法は、犯罪行為に着手した時点で処罰の対象とするのが原則だ。…今回の法案は従来の原則からかけ離れている。」
「それにしても、これまでの政府の説明には矛盾が目立つ。最大のほころびは対象犯罪数だ。条約が法整備を求める4年以上の懲役・禁錮の刑を定める犯罪数は676あり、選別はできないと政府は説明してきた。だが、公明党の意見をいれ、今回の法案では対象犯罪を277に絞り込んだ。これでは過去の説明と整合しない。」
「法案の再提出に当たり、唐突にテロ対策の看板を掲げたことも理解できない。条約はマフィアによる犯罪収益の洗浄などへの処罰を目的としたものだ。」「安倍晋三首相が、東京五輪・パラリンピックのテロ対策を理由に『法整備ができなければ開催できないと言っても過言ではない』などと発言するに至っては、まさに首相が批判する印象操作ではないか。」
毎日社説のキモは、「『共謀罪』提案はテロ対策」というアベの説明を、「まさに首相が批判する印象操作ではないか。」と言い放っているところ。
☆東京社説は長い。タイトルは「『共謀罪』閣議決定 刑法の原則が覆る怖さ」と本質を衝くものとなっている。
「政府が閣議決定した組織犯罪処罰法改正案の本質は『共謀罪』だ。277もの罪を準備段階で処罰できる。刑事法の原則を覆す法案には反対する。」
「共謀罪の考え方は、日本の刑事法の体系と全く相いれない。日本では既遂を処罰する、これが原則である。心の中で考えただけではむろん犯罪たり得ない。犯罪を実行して初めて処罰される。未遂や予備、陰謀などで処罰するのは、重大事件の例外としてである。
だから、この法案は刑事法の原則を根本からゆがめる。しかも、277もの罪に共謀罪をかぶせるというのは、対象犯罪を丸暗記していない限り、何が罰せられ、何が罰せられないか、国民には理解不能になるだろう。」
「安倍晋三首相は国会答弁で『東京五輪のために必要な法案だ』という趣旨の発言をした。これは明らかな詭弁というべきである。そもそも日本はテロに対して無防備ではない。テロ防止に関する13もの国際条約を日本は締結している。ハイジャック防止条約、人質行為防止条約、爆弾テロ防止条約、テロ資金供与防止条約、核テロリズム防止条約…。同時に国内法も整備している。例えば爆発物に関しては脅迫、教唆、扇動、共謀の段階で既に処罰できる。サリンなど化学物質などでも同じである。
むしろ、政府は当初、『テロ等準備罪』の看板を掲げながら、条文の中にテロの定義も文字もなかった。批判を受けて、あわてて法案の中に『テロリズム集団』という文字を入れ込んだ。本質がテロ対策でない証左といえよう。『五輪が開けない』とは国民に対する明白な誤導である。本質は共謀罪の創設なのだ。」
「危惧するのは、この法案の行く末である。政府は普通の市民団体でも性質を変えた場合には適用するとしている。米軍基地建設の反対運動、反原発運動、政府批判のデモなどが摘発対象にならないか懸念する。」
「英米法系の国ではかつて、共謀罪が労働組合や市民運動の弾圧に使われたという。市民団体の何かの計画が共謀罪に問われたら…。全員のスマートフォンやパソコンが押収され一網打尽となってしまう。もはや悪夢というべきである。実は捜査当局が犯行前の共謀や準備行為を摘発するには国民を監視するしかない。通信傍受や密告が横行しよう。行き着く先は自由が奪われた『監視社会』なのではなかろうか。」
東京社説のキーワードは、「監視社会化」である。
☆日経社説は、「十分な審議が必要な『共謀罪』」というもの。
「この法案の必要性や意義について、そもそも国民の間に理解が深まっているとは言いがたい。国会審議の場では成立を急ぐことなく、十分な時間をかけて議論を尽くす必要がある。」
「今回政府は国民が理解しやすいテロを前面に出して必要性を訴えてきた。」「当初の法案の中に「テロ」の文言がなく、与野党から指摘を受け慌てて盛り込むことになった。」
「テロも組織犯罪の一形態とは言えるが、国会審議ではまず、資金洗浄や人身売買、薬物取引など条約がうたう「本来」の組織犯罪対策のあり方などについて十分に議論すべきではないか。現に日本は暴力団犯罪など組織犯罪の脅威にさらされている。」
ともかく、日経も法案に賛成はしていない。慎重審議も、今は政権のやり方批判となり得ている。
☆そして読売社説である。「テロ準備罪法案 政府は堂々と意義を主張せよ」という、自民党広報紙並みのタイトル。興味深いのは、政権の肩をもちながらも、法案の問題点や弱点を問わず語りに告白していること。そして、このあたりが世論説得のポイントと教えてくれているところである。その意味では、貴重な資料というべきだろう。敢えて、全文を転載しておきたい。
「テロ対策の要諦は、事前に犯行の芽を摘むことである。政府は、法案の早期成立に万全を期さねばならない。
テロ等準備罪の創設を柱とする組織犯罪処罰法改正案が国会に提出された。2020年東京五輪を控え、テロ対策は喫緊の課題だ。改正案が成立すれば、国際組織犯罪防止条約への加入が具体化する。締約国間で捜査共助や犯罪人の引き渡しが円滑にできるようになるなど、メリットは計り知れない。
法案化の過程で、対象となる「組織的犯罪集団」が「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団」に修正された。テロの文言がなく、与党の批判を招いたためだ。
組織的犯罪集団は「共同の目的が一定の犯罪を実行することにあるもの」と定義される。修正により、テロ対策という立法の趣旨は、より明確になったと言える。
「その他」に想定されるのは、暴力団や振り込め詐欺集団だ。犯罪の抑止効果が期待できよう。テロ等準備罪の成立には、犯行計画に加え、資金調達などの準備行為の存在が不可欠だ。要件を満たさない限り、裁判所は捜索や逮捕に必要な令状を発付しない。適用範囲が恣意的に拡大される、といった民進党などの批判は当たるまい。「一般市民も対象になりかねない」という指摘も殊更、不安を煽るものだ。
対象犯罪について、政府は当初の676から、組織的犯罪集団の関与が現実的に想定される277に絞り込んだ。「対象の団体を限定した結果、犯罪の絞り込みも可能になった」との見解を示す。公明党が「対象犯罪が多すぎる」と主張したことにも配慮した。理解を広げるために、一定の絞り込みは、やむを得ない面もある。政府は過去に「条約上、対象犯罪を限定することは難しい」と説明している。これとの整合性をどう取るかが課題だ。
今国会の審議では、共謀罪法案との違いを際立たせようと腐心する政府の姿勢が目立つ。共謀罪法案を3度も提出したのは、必要性が高かったからだろう。差異を付けることを優先するあまり、今回の改正案が捜査現場にとって使い勝手の悪いものになっては、本末転倒である。国民の安全確保に資する法案であると、堂々と主張すべきだ。
金田法相の答弁は不安材料だ。要領を得ない受け答えが多く、「成案を得てから説明する」と繰り返してきた。緊張感を持って、審議に臨んでもらいたい。」
読売社説を対象にしてこそ、説得力のある反論を組み立てられる。そのような目で、これを読み込みたい。
(2017年3月22日)
アベ友学園疑惑とは、アベの口利きによって、国有財産がただ同然で払い下げられたとの嫌疑である。
だれが名付けた「アッキード」。だれが言ったか「疑惑の3日」。だれの言葉か「疑惑のキーマン」。だれもが疑う「口利き疑惑」。「忖度」程度じゃ収まらない、のだ。
アベ友学園疑惑は、次々と小出しの事実が露わにされて目が離せない。明後日(3月23日)に衆参両院で籠池の証人質疑があって新段階を迎える。手負いの籠池が失うものは既にないとして真相をぶちまけるのか、あるいはブラフの切り札を温存しようと寸止めするのか。それは読めない。
情報が拡散し全体像が曖昧になりつつある「アベ友学園疑惑」だが、疑惑の追及は焦点を定めなければならない。いま、分かりつつあることから、何をもって疑惑の核心とし、何を標的に「疑惑解明」をなさんとしているのか、その視座と視点を明確にしなければならない。
☆アベ友学園疑惑の核心とは、現職首相の口利きによって、国有財産がただ同然で払い下げられ、国民が損害をこうむったことにある。もちろん、今は「疑惑」のレベルであるが、このことを「疑惑」ではなく、証明された事実として暴き出すこと、それが事件に関心をもつ者の共通の課題として確認しなければならない。このような課題を明確にすることなしに、迷宮の奥にある真実にたどり着くことはできない。
☆アベ友学園疑惑の構造は、右翼である現職首相の極右教育への礼賛ないし共鳴が底流にある。右翼首相と極右学校経営者との二つの合い寄る魂を、財務官僚と地方教育行政が支えた。校地取得の面では理財局と近畿財務局、そして私立小学校設立認可の面では大阪府知事と大阪府教育庁である。この4者の連携・協働の構造を骨格として確認しなければならない。
☆以上のアベ友学園疑惑の構造において、最重要の関係はをなすものは、右翼首相と極右学校経営者との二つの魂の遭遇であり親密な接近である。新設予定小学校の校名が「安倍晋三記念小学校」とされ、現職首相の名が寄付の勧誘に用いられた。
これほどの、現職首相とアベ友学園経営者の親密な関係の接点で、首相の妻が重要な役割を演じている。これが、「アッキード」という所以。学園の教育を褒めそやし、複数回の講演をし、新設予定小学校の名誉校長を引き受け、経営者の妻とのメール交換もしている。さらに、新たな100万円寄付疑惑である。寄付を受けたとする者が、「安倍晋三からです」との金の出所の口上まで詳細に語っている。これに寄付をしたと名指しされている者が、自らは口を閉ざして反論していないというのが現状。「民間人」は宣誓の上証言させ、首相の妻という「準公人」を糺そうとしない、この不公正。ここにも遠慮や忖度が見て取れる。
この100万円寄付疑惑は、事実が明らかとなれば、アベ側の右翼教育への共鳴・礼賛の証左として重要な意味をもつ。間接的には、口利き疑惑、少なくも忖度疑惑の有力間接事実となる。「100万カネを出すほどに思い入れが深かったのだから、理財局に口利きくらいはしたことを否定し得ない」との新たな疑惑推認の根拠になるということ。
☆「疑惑の3日」とは、2015年9月3日から5日までの3日。戦争法反対のデモの高揚期でのこと。9月3日午後に、首相は迫田英典理財局長と会っている。財務省の岡本薫明官房長も同席が確認されている。理財局長は国有地の管理や処分を管轄する最高責任のポスト。本件国有地の払い下げはこれ以後異例の進捗を見ているではないか。
その翌日9月4日午前午前中に、近畿財務局9階の会議室で近畿財務局幹部が「瑞穂の國記念小學院」の建設会社の関係者と、双方2人づつの計4人で会合を開いている。そして、4日午後には「テレビ出演」のために、首相が大阪入りしている。
そして、翌日の9月5日にアベの妻がアベ友学園で講演し、新設予定小学校の名誉校長に就任。就任の挨拶は、「こちらの教育方針は大変主人もすばらしいという風に思っていて、(籠池)先生からは、安倍晋三記念小学校という名前にしたいと…」まで述べている。100万円寄付疑惑は、その日のことだ。
☆国有地払い下げが異例ずくめだったことは疑いがない。まずは、異例の国有地についての借地契約がなされ、それに基づいて異例の認可適当との答申があり、さらに異例の超低価格での国有地払い下げがあって、しかも分割払いという至れり尽くせりである。その上、すべての交渉資料が破棄済みだというのだ。今のところ、アベの口利きがあったであろうと考えるのが、最も合理的な推認。その口利きの機会として考えられるのが、9月3日のアベ・迫田面談である。アベの選挙区出身で事件後異例の出世を遂げているというこの迫田英典(現国税庁長官)が「疑惑のキーマン」にほかならない。
だから、言いたい。だれが名付けた「アッキード」。だれが言ったか「疑惑の3日」。だれの言葉か「疑惑のキーマン」。だれもが疑う「口利き疑惑」。「忖度」程度じゃ収まらぬ。
(2017年3月21日)
「二度あることは三度ある」というが、さすがに「四度目もある」とは言わない。「仏の顔も三度まで」であって、通常四度目はない。
アベは、籠池を指して「非常にしつこい」と評し、「簡単に引き下がらない」「教育者としていかがなものか」という。が、アベのしつこさは、これに輪をかけてのもの。
政府は、「『共謀罪』こと組織犯罪処罰法改正案」を明日(3月21日)に閣議決定する方針だという。これは過去3度の廃案法案の蒸し返し。「なんとしつこい」「政治家としていかがなものか」と言わざるを得ない。
4度目の特徴は、テロ対策を金看板に押し出し、東京五輪成功のためと銘打っていることである。これで、世論を誘導しようとの思惑なのだ。昨日(3月19日)の東京新聞が、この点について真っ向からの批判記事を掲載している。その姿勢が小気味よい。
まずは一面のトップ記事。大きな見出しが、「政府の『治安対策戦略』」「テロ対策計画『共謀罪』触れず」「組織犯罪の章で言及」というもの。
これだけではやや分かりにくいが、この見出しに言葉を補えば、「政府の『治安対策戦略』を調べて見ると、《テロ対策計画》の章では『共謀罪』はまったく触れられていない。『共謀罪』に言及しているのは《組織犯罪》の章だけ」というもの。記者の言わんとするところは、「だから、政府自身の考え方が、共謀罪は《組織犯罪》とだけ関連するもので、《テロ対策》とは無関係としているのだ」「ということは、共謀罪法案提出を《テロ対策》として動機づけている政府の説明は、真っ赤な嘘ではないか」「あるいは、甚だしいご都合主義」ということになる。
リードは以下のとおり。「国連では、《国際組織犯罪》と《テロ》とは理論上区別されている」ことを意識して読むと分かり易い。
「政府はテロ対策として『共謀罪』法案が不可欠とするが、これまで策定してきた治安対策に関する行動計画では、テロ対策として『共謀罪』創設が必要との記述がないことが分かった。『共謀罪』はテロ対策とは別の組織犯罪対策でしか触れられていない。政府の行動計画を詳細にチェックすると、『共謀罪』法案がテロ対策とする政府の説明は根拠が弱いことが分かる。」
本文中に以下の指摘がある。
「政府は『共謀罪』について国際組織犯罪を取り締まるために必要と指摘してきたが、2020年東京五輪・パラリンピックの招致が決まったあとは、テロ対策に必要と指摘。『共謀罪』の呼称を「テロ等準備罪」に変更した。
だが、五輪開催決定を受けて13年12月に閣議決定した政府の治安対策に関する行動計画「『世界一安全な日本』創造戦略」では、東京五輪を見据えたテロ対策を取り上げた章に『共謀罪』創設の必要性を明確に記した文言はない。
この戦略で『共謀罪』は「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約締結のための法整備」として、国際組織犯罪対策を取り上げた別の章に記されている。例えばマネーロンダリング(資金洗浄)は組織犯罪対策とテロ対策の二つの章に記述があるが、『共謀罪』を示す法整備が登場するのは組織犯罪対策の章だけだ。」
誰が見ても、「テロ対策を前面に打ち出したのは今回が初めてで、世論を意識した後付けの目的にすぎない」というべきなのだ。東京新聞は、品がよいからこの程度だが、私に言わせれば、「共謀罪はテロ対策に必要」という政府の説明は真っ赤な嘘と言ってよい。
さらに2面に、追い打ちをかける記事が載っている。いまはやりの「ファクトチェック」という趣向。見出しは、「首相の招致演説『ファクトチェック』」「東京は世界有数の安全都市⇒五輪『共謀罪』ないと開けぬ」
これは上手だ。見出しだけで、我が国の首相が嘘つきであることが、よく分かる。
「安倍晋三首相は世論の理解を得ようとテロの脅威を訴え、2020年東京五輪・パラリンピック開催には、(『共謀罪』の成立が)不可欠と主張しているが、3年半前の五輪招致演説では東京の安全性をアピールしていた。本紙の担当記者があらためて招致演説を「ファクトチェック」したところ、数々の疑問が浮かんだ。」
以上の問題意識から、ごく短い「アベ五輪招致演説」の4個所を、東京新聞の「共謀罪担当」、「原発取材班」、「東京五輪担当」記者がチェックしている。こんな短い文章中の4個所。中身は、ほとんど全部ウソと誇張であるといってよい。次のようにである。
ファクトチェック(1)
「首相は今国会で、『共謀罪』法案について「国内法を整備し、国際組織犯罪防止条約を締結できなければ東京五輪・パラリンピックを開けないと言っても過言ではない」「法的制度の中にテロを防ぎ得ない穴があれば、おもてなしとして不十分だ」と強調している。
ところが、首相は13年9月、ブエノスアイレスでの国際オリンピック委員会(IOC)総会で、東京は「20年を迎えても世界有数の安全な都市」と強調して招致に成功した。同法案が成立しなければ五輪は開けないという今の主張とは大きな差がある。」
ファクトチェック(2)
「首相の五輪招致演説といえば、東京電力福島第一原発事故について「状況は、統御されています」と訴えたことで有名。実際には汚染水の流出が続いていたため「根拠がない発言」と批判された。今でも、汚染水は増え続け、溶け落ちた核燃料の状況もほとんど確認できていない。」
ファクトチェック(3)(4)
「これだけではない。演説で首相は「ほかの、どんな競技場とも似ていない真新しいスタジアム」と「確かな財政措置」が、確実に実行されるとも訴えた。
現実には、演説時に決まっていた女性建築家のデザインは迷走の末、白紙撤回。
大会開催費も、当初を大幅に上回る最大1兆8千億円との試算が出て、分担を巡る話し合いが続いており、財政措置が裏付けられているとは言いがたい。」
なお、同日の東京新聞は、一面に、「辺野古反対派リーダー保釈」というキャプションで、支援者と抱き合って喜ぶ山城博治さんの写真を掲げた。よい写真だ。また、社会面トップで「抗議中に逮捕 山城議長」「拘束5カ月、保釈」「『不当な弾圧だった』」の記事を掲載した。「不当な弾圧だった」という山城さんの記者会見の批判を見出しに使った、その姿勢や大いに良しというべきである。だれがどう見ても、不当に長期の勾留。批判は当然なのだから。山城さんと支援の方々に心からの敬意を表し、声援を送る。
(2017年3月20日)
昨日(3月17日)、前橋地裁(原道子裁判長)が「福島第1原発事故 避難者訴訟」の判決を言い渡した。全国各地の原発事故損害賠償集団訴訟は20件を数え、原告総数1万2000人と言われる。その集団訴訟最初の判決として注目されていたもの。各地の訴訟への、今後の影響が大きい。
本日(3月18日)の毎日新聞朝刊社会面の見出しが、「原告、笑顔なき勝訴」「苦労報われず落胆」「認定137人の半分以下」というもの。「勝訴」ではあったが、各原告には「落胆」と受けとめられた判決。毎日が伝えるところを抜粋する。
笑顔なき「一部勝訴」だった。17日の原発避難者訴訟の判決で、前橋地裁は東京電力と国の賠償責任は認めたものの、命じられた賠償額は原告の請求からは程遠かった。古里を奪われた代償を求めて3年半。大半の原告が周囲に知られないように名前も伏せ、息をひそめるようにして闘ってきた。「もっと寄り添ってくれる判決を期待していたのに」。苦労が報われなかった。原告の顔には落胆の表情が浮かんだ。
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「国と東電の責任を認めさせた。心からうれしいのは間違いない」。判決後の集会で壇上に立った原告の丹治(たんじ)杉江さん(60)はこう言った後、言葉に詰まった。「この6年間つらいことばかりだった。納得できるかな……」
「国と東電の責任が共に認められ、他の訴訟の追い風になる」と話す一方、「原告の主張すべてが認められたわけではなく、残念だ」とも述べた。
原告たちを突き動かしてきたのは「ふるさとを奪われた苦しみへの賠償が不十分」という思いだったが、判決で賠償が認められたのは原告の半分以下の62人だけだった。
「もっと温かい判決を期待していたのに」「私たちの被害の実態や苦しみが分かっていないのではないか。お金のために裁判をやっているのではないが、損害認定には納得できない」と不満をもらした。
損害賠償訴訟実務の論点は、「責任論」(被告に責任があるか)と「損害論」(損害額をどう算定するか)とに大別される。前橋判決は、責任論ではまさしく「勝訴」であったが、損害論では原告らに笑顔をもたらすものとならなかった。以下にその問題点を整理しておきたい。
判決書は、膨大なものだという。入手していないし、到底読み切れない。判決当日、裁判所が判決骨子(3頁。判決主文の全文が掲載されている)と、判決要旨(10頁)とを配布した。これで、必要なことがほぼ分かる。
裁判所が下記の【参考データ】を作成している。
1 判決文全5冊総数1006頁
2 当事者 原告提訴時合計137名
うち、訴訟提起後死亡 3名
本件事故時出生前 4名
被告 東京電力ホールディングス株式会社
被告 国
3 請求関係
原告の請求は1名あたり1100万円(うち、弁護士費用100万円)
請求金額合計15億700万円
認容金額合計3855万円
全部棄却72名
一部認容62名
避難指示等区域内の原告数72名 うち認容19名
最高額350万円 最低額75万円
自主的避難等区域内の原告数58名 うち認容43名
最高額73万円最低額7万円
(相続分を合算した者102万円)
4 弁済の抗弁等
上記認容額は、被告東電が原告らに対して既に支払った金員(訴訟係属中の支払を含む。)のうち、裁判所が、本件訴訟における請求(平穏生活権が侵害されたことによる慰謝料)についての弁済に該当すると認めた金員を控除した金額である。
(1) 被告東電が主張した既払額総額12億454万3091円
そのうち、被告東電が主張した慰謝料に対する既払額総額
4億5830万5860円
(2) 裁判所が弁済の抗弁として認めた金額の総額
4億2093万5500円
以上のとおり、原告総数137名の内、一部でも認容された者は62名、72名が全部棄却されている。請求金額合計15億700万円に対する認容金額合計3855万円は、認容率において2.5%、40分の1に過ぎない。「もっと温かい判決を期待していたのに」「私たちの被害の実態や苦しみが分かっていないのではないか。損害認定には納得できない」との原告らの不満も当然であった。
責任論では、原告に満足のいく内容だった。ということは被告両名(東電と国)には極めて厳しい判断となった。
判決は、「当裁判所の判断」の冒頭で、「被告東電に対する民法709条に基づく損害賠償請求の可否」と表題する項を設け、「立法者意思等に基づく原賠法3条1項の解釈からすると、原告らは被告東電に対し、原子力損害に係る損害賠償責任に関しては、民法709条に基づく請求はできない。」との判断を示す。
不法行為に基づく損害賠償請求の根拠が民法709条(「故意又は過失によって、他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」)で、被告に過失あることを要件に賠償責任を認めている。一方、原賠法(原子力損害の賠償に関する法律)3条1項は、「原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者(東電)がその損害を賠償する責めに任ずる。」と定めて、過失を要件としていない。
裁判所は、原発事故には、民法709条適用の余地なく、原賠法3条1項だけの適用ありというのだから、責任論において被告東電の過失の有無を検討する必要はないことになる。
ところが判決は、「原告らは、慰謝料算定における考慮要素として被告東電の非難性を挙げ、被告東電の非難性を基礎づける事情として、被告東電に、本件事故についての予見可能性及び結果回避可能性があったこと、を中心として主張していることなどから、被告東電の津波対策義務に係る予見可能性の有無及び程度について検討する。」として、「津波対策義務に係る予見可能性」を詳細に述べる。
民法709条にいう責任根拠としての「過失」とは、「注意義務違反」とされるが、注意義務は「予見可能性」のないところに成立し得ない。したがって、本件においては、「東電が3・11の規模の大津波の襲来を予見可能であったか」が、争点となる。予見可能なら、当然に防潮堤を嵩上げし、冷却水供給用の電源を浸水させぬよう処置するなどの、作為の注意義務の存在を認定できる、過失ありということになる。
だから通常、予見可能性の有無は責任論の範疇で論じられる。しかし、本件では、無過失責任を前提に、「被告東電の津波対策義務に係る予見可能性の有無及び程度についての検討」が、「慰謝料算定における考慮要素」として、損害論の範疇で論じられているのだ。
判決が予見可能性を認めた判断についての各紙の評価は高い。
「原発避難訴訟、国に賠償命じる判決 予見可能だった」「判決は津波の到来について、東電は『実際に予見していた』と判断。非常用ディーゼル発電機の高台設置などをしていれば『事故は発生しなかった』と指摘した。国についても『予見可能だった』とし、規制権限を行使して東電にこれらの措置を講じさせていれば「事故を防ぐことは可能であった」とした。原告の主張をほぼ認める判決となった。」(朝日)
「国の責任についても、『東京電力に津波の対策を講じるよう命令する権限があり、事故を防ぐことは可能だった。事故の前から、東京電力の自発的な対応を期待することは難しいことも分かっていたと言え、国の対応は著しく合理性を欠く』として、国と東京電力にはいずれも責任があったと初めて認めました。」(NHK)
本件判決では、予見可能性の検討結果は、「東電には、本件事故の発生に関し、特に非難するに値する事実が存するというべきであり、東電に対する非難性の程度は、慰謝料増額の考慮要素になると考えられる」とされるのだが、それにしては認容金額は異様に低額と言わざるを得ない。
損害論について、判決要旨は下記のとおり述べているにとどまる。詳細は、判決書きそのものを読むしかない。
本件での請求は、すべて慰謝料(精神的損害の賠償)である。
※個々の原告が被った損害等(相当因果関係及、ぴ損害各論)総論
(1)個々の原告が被った損害については、平穏生活権の侵害により精神的苦痛を受けたかについて検討し、これにより精神的苦痛を受けた場合の慰謝料について、侵害された権利利益の具体的内容及び程度、避難の経緯及び避難生活の態様、家族等の状況その他年齢、性別等本件に現れた一切の事情を斟酌するのが相当と考える。
(2)健康被害に係る精神的苦痛に対する慰謝料は、請求の対象となっていないから慰謝料算定の考慮要素にはならず、上記苦痛に対する慰謝料についての支払いは本件請求についての弁.済とはならない。
(3)仮に.原告らが被ばく線量の検査を受けていなかったとしても、受けていないとの一事をもって、あるいは、被ばく線量の検査を受け原告の一部につき、検査結果が健康に影響のある数値とは認められなかづたことをもって、当該原告が本件事故により放出された放射性物質による被ばくについて、不安感を抱いていることを否定することにはならない。
(4)被告東電が、原告らのうち自主的避難等をした者に対して、合計12万円の支払をした場合には、そ.のうち4万円が精神的損害についての支払である。
※「個々の原告が被った損害等(相当因果.関係及び損害各論) 各論
「判決要旨」には、個々の原告が被った損害等(相当因果.関係及び損害各論)の掲載がない。何をもって慰謝料の算定要素とし、各原告をどのように分類して、各原告の慰謝料額を算定したのか、定かではない。
それでも、判決の評価は次のようにできるだろう。
責任論については、明るい展望を切り開いた判決である。各原告団・弁護団が抱える訴訟の責任論に自信を与えるものとなった。裁判所が無過失責任論を採るにせよ、過失責任主義を採るにせよ、被告東電の有責は揺るがない。
そして、損害論の課題が浮き彫りになった。裁判所を動かす論拠として足りないところを見極め、各弁護団内の議論と、弁護団の垣根を越えた意見交換で、原告らの「笑顔の伴った勝訴判決」を目ざすことになるにちがいない。
(2017年3月18日)
天皇(明仁)の退位希望を可能とする法整備に関し、異例のこととして、衆参両院の正副議長が議論のとりまとめを行った。一昨日(3月15日)その成案が各会派に示され、本日(3月17日)午後、そのとりまとめによる提言書が、首相に手渡された。政府は、この提言を尊重して法案化を進め、5月の大型連休明けに国会に提出する方針と報じられている。これで、法案が今国会で成立するのは確実だという。何とも釈然としない。
こういうことではないだろうか。天皇の退位法制化という微妙な問題なのだから、できるだけ論争を避け、波風立てぬように、全会一致となるよう事前のとりまとめが必要と判断した。この姿勢は、天皇に関する問題を国会における議論の対象とすることは、遠慮すべきだとするものである。もしかしたら、天皇の明示の希望を拒絶するような議論を封じておこうという意図もあるのではないだろうか。
国民こそが主権者である。天皇は主権者国民の意思に基づいて、その地位にある。主権者の多様な意思・意見を忌憚なく述べ合い、主権者の合意を形成すべき国会が、こと天皇の問題となったら、何という腰の引けよう。
我が国の表現の自由の試金石は、天皇に関する批判の自由如何にある。天皇や天皇制に関しての批判を躊躇してはならない。そのことこそが表現の自由を放擲する萎縮の端緒にほかならない。
いったい、何のために両議院の正副議長が、天皇に関わる制度の論議を特別扱いとしたのか。予め各会派の合意をとりまとめ、このあたりなら議論を避けて、天皇や天皇制に対する批判の意見が表立つことなく、波風立たない審議が可能だと、内閣に申し出たのではないか。天皇や天皇制に関わる議論についても、遠慮することなく、国会論戦のテーマとすべきが当然ではないか。国会の天皇批判の萎縮は、国民全体の天皇批判の萎縮となるのだから。
本日、大島理森衆院議長は、「政府が法案提出前に骨子を各党に説明し、要綱を与野党代表者による全体会議に示すよう要請した」という。これも、天皇に関する法案だから波風立たぬように、という配慮である。そのような国会の配慮は、ますます「皇室タブー」を拡大し、我が国の表現の自由度を低下させることになるだろう。
報道では、自由党は提言案に反対を表明。共産党は、提言自体は容認したものの、「陛下のお言葉を各党が重く受け止める」との記述が憲法に抵触しかねないなどと指摘のうえ、「今後の国会審議を縛るものとしてはならない」と賛否を留保したという。全会一致でなかったのは、救いといえよう。
「『天皇の退位等についての立法府の対応』に関する衆参正副議長による議論のとりまとめ」の全文が報道されている。その中の釈然としない部分を引用しておこう。
1.はじめに?立法府の主体的な取組の必要性
「天皇の退位等」に関する問題を議論するに当たって、各政党・各会派は、象徴天皇制を定める日本国憲法を基本として、国民代表機関たる立法府の主体的な取組が必要であるとの認識で一致し、我々四者に対し、「立法府の総意」をとりまとめるべく、御下命をいただいた。
この考え方が、そもそもおかしい。「天皇の退位等」に関する問題に限らず、すべての国政の課題、国民生活に関する課題には、国民代表機関たる立法府の主体的な取組が必要であることは明らかではないか。どうして、「天皇の退位等」だけが特別な取り扱いをすべきなのか、どうして「天皇の退位等」だけが「立法府の総意」とりまとめの必要があるのか、説明は不可能だろう。
2.今上天皇の「おことば」及び退位・皇位継承の安定性に関する共通認識
その上で、各政党・各会派におかれては、ともに真摯に議論を重ねていただき、その結果として、次の諸点については、共通認識となったところである。
(1) 昨年8月8日の今上天皇の「おことば」を重く受け止めていること。
(2) 今上天皇が、現行憲法にふさわしい象徴天皇の在り方として、積極的に国民の声に耳を傾け、思いに寄り添うことが必要であると考えて行ってこられた象徴としての行為は、国民の幅広い共感を受けていること。
このことを踏まえ、かつ、今上天皇が御高齢になられ、これまでのように御活動を行うことに困難を感じておられる状況において、上記の「おことば」以降、退位を認めることについて広く国民の理解が得られており、立法府としても、今上天皇が退位することができるように立法措置を講ずること。
(3) 上記(2)の象徴天皇の在り方を今後とも堅持していく上で、安定的な皇位継承が必要であり、政府においては、そのための方策について速やかに検討を加えるべきであること。
「今上」「おことば」「重く受け止め」「御高齢」「御活動」の敬語使用は不要というべきだ。言うまでもなく、今は天皇主権の時代ではない。国民主権の時代の国会が天皇を語る際の用語には、もっと工夫が必要だ。
そして、「次の諸点については、共通認識となったところである」は、信じがたい。多数派による少数意見の切り捨て、ないし、多数意見への変更の押しつけ以外のなにものでもない。多数派による、「これが全体意見だ」という僭越な意見表明は民主主義社会にふさわしくない。とりわけ、国会がこんなことをしてはならない。
3.皇室典範改正の必要性とその概要
(1) さらに、各政党・各会派においては、以上の共通認識を前提に、今回の天皇の退位及びこれに伴う皇位の継承に係る法整備に当たっては、憲法上の疑義が生ずることがないようにすべきであるとの観点から、皇室典範の改正が必要であるという点で一致したところである。
(中略)
この規定により、?憲法第2条違反との疑義が払拭されること、?退位は例外的措置であること、?将来の天皇の退位の際の先例となり得ることが、明らかになるものと考えられる。
結論が、???にまとめられている。?に関しては、賛否両論あろう。しかし、「?退位は例外的措置であること」と「?将来の天皇の退位の際の先例となり得ること」の両者がならべられていることには、「そりゃいったいどういうことだ」と驚嘆せざるを得ない。いったい、どっちを向いた提言をしているのか、さっぱり分からない。こんなことで、国会の論戦を避けてはならない。
4.特例法の概要
特例法においては、以下のような趣旨の規定を置くことが適当ではないか。
(1)今上天皇の退位に至る事情等に関する規定に盛り込むべき事項
?今上天皇の象徴天皇としての御活動と国民からの敬愛
?今上天皇・皇太子の現況等
?今上天皇の「おことば」とその発表以降の退位に関する国民の理解と共感
以下は省略するが、「今上天皇の象徴天皇としての御活動と国民からの敬愛」「国民の理解と共感」と並ぶ言葉に、気恥ずかしさを禁じ得ない。こんな言い回しをしなければならない時代状況なのだろうか、そのことに考え込まざるを得ない。少なくとも、国民すべてが天皇を敬愛しているというのは事実に反する。このような事実に反する表現はやめていただきたい。
私は、憲法に規定がある以上、天皇という公務員職が設けられていることは否定しない。しかし、天皇への「敬愛」の感情は持っていない。「退位に関する理解と共感」の情もない。敬愛や共感の押しつけはおやめいただきたい。
国会・国会議員には、主権者の代表としての自覚と気概を堅持していただきたい。天皇制のかたちを決めるのは、国会の仕事である。議員は、忌憚なく遠慮なく十分な議論を尽くして、天皇制のあり方についての合意を形成されるよう切実に希望する。
(2017年3月17日)
昨日(3月15日)、東京「君が代」裁判第4次訴訟の最終弁論。
2014年3月17日に提訴し、以来3年間15回の口頭弁論を経て、本日弁論終結した。判決言い渡しの指定日は9月15日である。
私は、この裁判の弁護団の一員として多くのことを考えさせられ、また学んだ。乱暴に教育を破壊しようとする権力の潮流が一方にあり、真摯に生徒の立場を思いやり真っ当な教育を取り戻そうとする多くの教員の抵抗がある。怒らねばならない場面にも遭遇し、また心温まる多くの経験もした。
国旗・国歌(日の丸・君が代)にまつわる憲法論を考え続けて、今確信していることがある。日本国憲法は、国家と国民(個人)との対峙の関係を規律することを最大の使命としている。国民は国旗国歌を通じて国家と対峙するのだから、公権力による国旗国歌への敬意表明強制の是非こそは、憲法が最も関心をもつべきテーマなのだ。
また、「日の丸・君が代」は、戦前の旧天皇制のシンボルであった。「日の丸・君が代」への敬意表明強制の是非は、旧体制を徹底して否定して成立した現行憲法の価値観を尊重するか否かの試金石だ。
私は、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制が許されるか否か、それは日本国憲法の理念を生かすか、殺すかの分水嶺だと確信する。憲法を殺してはならない、是非とも生かしていただきたい。そのような思いで、東京地裁民事11部の9月15日判決に期待したい。
結審の法廷で、お二人の原告が堂々たる意見陳述をした。まさしく、呻吟する憲法が叫んでいるの感があった。そのうちのお一人、渡辺厚子さんの陳述をご紹介する。もうひとかたの陳述も、ご了解を得たうえで、近々紹介することにしたい。
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私は昨年7月27日第11回口頭弁論の際、原告本人の陳述をさせていただきました。今回は、結審に当たり、原告を代表して、障がい児への人権侵害について陳述いたします。
学習指導要領の片隅に国旗国歌条項が入れられて以来、どこの学校でも、保護者や子どもたちのなかにある多様な価値観を、「指導」と云う名で、否定するようなことはしてはならないと、心を砕いてきました。
小平養護学校では、毎年卒業式に向けて、学校として保護者に手紙を出してきました。「日の丸・君が代」に対してどのような態度を選択するかは子ども自身や保護者の権利であると告げてきたのです。そうやって子どもたちの多様性、思想良心の自由の権利、思想良心形成の自由の権利を守ろうとしました。教員が個人的に「日の丸・君が代」をどう思うのかとは別次元の、学校や教員の職務責任であると考えてきたからです。
しかし通達はそれを一変させました。
教職員に起立するよう職務命令を出す。全教職員の起立という圧力で子どもたちを起立させる。通達は私達に、全員の子どもを起立させる道具、加害者になるよう命じました。
通達後、子どもたちは教員起立がもたらす同調圧力によって起立させられています。そればかりか学校は、不起立を表明する子どもに圧力を加えています。
町田特別支援学校では、母親と相談して不起立を決めた生徒に、本当に家庭で話したのか、と校長は家庭への思想調査をしようとしました。生徒は一緒に話し合って不起立を決めた母親が悪いのか、と泣いて訴えました。白鷺特別支援学校など様々な学校で、全員の子どもを起立させるために、お尻を持ち上げたり、手を引っぱったりして起立させています。教員起立に同調できない子どもには、文字通り力づくで起立をさせているのです。
昨年10月、卒業生の人工呼吸器が緊急音を発し職員が対応したところ、跳んで来た管理職はあろうことか起立を命じた、ということを証言いたしました。これに対し都教委は、“結果的には何ごともなかったのですね?”と言われました。私は愕然としました。生命軽視の事実があったことを知りながら「何事もなかったから問題ない」とでも言うのだろうか。たまたま無事だっただけで、「教員の起立を優先させるあまり子どもの生命を軽んじている事態が起きている」ということに、都教委は戦慄しないのだろうか。反省しないのだろうか。我が耳を疑いました。
城北特別支援学校では、身体の痛みに苦しむ子どもを抱きあげて座った教員を、不起立だと校長がとがめました。そして、介助をしないで起立をしろ、さもなくば子どもを式に参加させないという選択肢もある、と言い放っています。多摩特別支援学校の校長は「儀式では体に負担がかかるものだということを、車椅子にのせたままで教えていく必要がある」と発言し、床におろすことを許しませんでした。様々な学校で、子どもが泣き叫んでも斉唱中は連れ出すな、子ども同士が喧嘩をしても斉唱中は放置しろ、トイレ介助のために式場をでるな、子どもにおむつをつけろ、などと言われ、教員は怒り、悔しさ、悲しみに血の涙の出る思いでした。
都教委は、子どもに「決して苦痛を与えていない」と主張します。しかし実際は教員を起立させようとして、子どもの生命や安全や人権を様々に侵害しているのです。
現在の職務命令書には、緊急事態には校長に指示を仰ぎ対処すること、と記されています。校長がとなりの席ならば指示を仰ぐのも可能です。ですが遠くはなれた体育館の端からは、緊急事態の子どもを放置して、指示を仰ぎに走っては行けません。君が代斉唱中に、緊急事態です!と大声で叫ぶこともできません。結局は「指示を仰げず」ネグレクトするか、処分覚悟で命令に違反するか、教員個人が即断を迫られているのです。子どもたちの危機は回避されていません。
起立職務命令は、本来は第1義であるべき急を要する子どもへの関わりを、「管理職に許可をもらって初めて可能になる」第2義的なことにしてしまいました。
起立斉唱命令の本質は、ここにこそ現れていると私は思います。「日の丸・君が代」強制は命をないがしろにする。国家や国家シンボルへの敬愛強制は、個人を支配し、果ては命まで支配する、ということです。
職務命令による教員起立によって、子どもの思想良心の自由は侵害され、のみならず、生命や安全までもが実際に脅かされているという現実をどうか直視して下さい。
10・23通達と同時に出された実施指針は、フロアー会場の使用を禁じ、全員の子どもに壇上に上がるよう命じました。
04年3月光明特別支援学校では、卒業生の保護者全員がこれに反対し、式をボイコットするとして紛糾しました。04年当時、強弱はあるものの、すべての障がい児学校で、壇上しか認めないことに反対の声が上がっています。教職員も保護者も、どのような会場形式にするのかは、学校で決めさせてほしい、と都教委に訴えました。各学校では卒業生の特徴により、壇上にしたりフロアーにしたり、その年々の会場形式を決めてきたからです。殆どの子どもが車椅子を使用する肢体不自由学校ではフロアー会場をずっと選んできました。
しかし都教委は、学校が会場形式を決めることを許さず、壇上を使用しろ、壇上で証書を受け取れ、の一点張りでした。
この13年間、障がい児学校のなかで、ステージの下で渡すことを許されたのはたった1例のみです。これは、祐成八王子東特別支援学校元校長が自分で証言しているように、あまりに大きい寝台タイプの車椅子のためステージ上で向きをかえられなかったからです。子どもへの「配慮」ではなく「不可能」だったからです。
たどたどしくとも自分で電動車椅子を操作して証書をもらいたいと涙ながらに訴える子ども・保護者・教員の懇願を、都教委は一切聞き入れませんでした。これが最後の姿になるかもしれない夭折の危険の中でいきている子どもたちの、痛切な願いを無碍に却下しました。
本来自分の力で動きたいというのは許可を受けることではなく、権利なのではないでしょうか。都教委には保障すべき義務があるのではないでしょうか。
ところが都教委は“バリアーフリーの考えとは、「通常の学校」で行われている壇上儀式と同様の経験ができること”なのだと言うのです。“フロアー式は最初から壇上が無理と決めつけて一律に特別扱いしていること”だと言うのです。
障害のない子どもが「通常」であって、障害のある子どもはその「通常」をめざして奮闘すべき存在だ、とでもいうのでしょうか?子どもの様々な有り様、ニーズに応じたあり方を保障することが「特別扱い」だというのでしょうか?子どもたちは1人1人の個性に応じた支援を受ける権利があります。都教委の特異なバリアーフリー論には根本的に、障がい児が、ありのままの姿でありのままに存在することを認めようとしない差別がある、と感じます。津久井やまゆり園障がい者殺傷事件は、 “ありのままの姿”の尊厳を否定した行き着く先のことであったのではないでしょうか。
私は、子どもへの加害行為を黙認してはならない、加担してはならない。教員として、子どもと教育に誠実でありたい。誠実であろうとしてきたこれまでの自分自身を否定してはならない、とギリギリの思いで命令に従いませんでした。
14名の原告たちは皆、一人ひとり、教員としての自分はどうあるべきか真剣に悩んだ末に不起立に至りました。これは教育と言う職務に忠実であろうとした結果です。決して個人的なわがままではありません。裁判官のみなさまにはこの私達の思いをぜひとも分かっていただきたい。
私達の不起立は、教育の変質、子どもの人権無視、に対する止むに止まれぬ良心的不服従なのだ、ということを強く申し上げます。
私達原告全員の処分を取り消してください。そして私達の処分の取り消しが、子どもたちの権利回復にどうか良い影響を与えるものになりますよう、心から願っています。
(2017年3月16日)
本日の憲法学習会例会にお招きの電話をいただいた際に、二つ返事で承諾申しあげました。3月15日を特に選んでの共謀罪をテーマにした学習会。これは、お引き受けしなければならない、と思ったわけです。
この地域のみなさまが、10年以上の長期にわたって、毎月の憲法学習会例会を続けていらっしゃることに敬意を表します。ご期待に応えるような、ご報告となるよう努めたいと思います。
今日は「3・15」の当日ですから、最初に治安維持法のお話しをさせていただき、次に「治安維持法」と「共謀罪」とがつながっていることを理解するための幾つかのキーワードをご説明し、そのあとに共謀罪を語りたいと思います。共謀罪がどのように危険で、かくも危険な共謀罪を導入必要という政府説明のウソをあばくかたちでレポートしたいと思います。
1928年3月15日は、治安維持法の最初の本格的発動の日として記憶されています。治安維持法は1925年に普選法成立と並んで成立しています。政府によるアメとムチの使い分けとも言えますが、ときは大正デモクラシーの時代、民衆の側に普通選挙を実現させるだけの力量があったのですから、けっして治安維持法が無警戒に成立したわけではありません。
その危険性については、ジャーナリズムも院内勢力も指摘したところです。それでも、1923年の虎ノ門事件(摂政襲撃事件)やコミンテルンなどによる、「テロの危険」防止の必要が政府側から強調されたことは、いま想起されるべきことだと思います。
また法案を提出した政府側は、法案を言論の自由を直接取り締まるものではなく結社を規制するにとどまっているとし、濫用の危険はないと防戦に務めました。このことも、教訓としなければなりません。
1925年成立時の法は、「国体の変革」と「私有財産制の否定」を目的とする結社を禁じました。だれが見ても、これは共産党弾圧の法です。天子に弓引く国賊とされた共産党。多くの人が、国民の結社の自由弾圧を怒ることなく、共産党を孤立させました。権力にも、そのような計算があったはずと思われます。
最初の弾圧対象は意識的に共産党とされ、次第に弾圧対象は拡散して政権にまつろわぬ者へと無限に拡散していくことになります。
とりわけ、1928年改正で追加された「目的遂行のためにする行為」罪の新設が決定的でした。組織の設立や加入だけでなく、「結社の目的遂行のためにする行為」という曖昧模糊な漠然とした犯罪類型の創設が権力の側にとっては、この上なく使い勝手のよい、民衆の運動弾圧に調法な道具となったのです。権力にとっての調法は、民衆にとっての大迷惑。
労農弁護士団事件では、弁護士の弁護活動が「結社の目的遂行のためにする行為」とされました。3・15事件や、4・16事件で検挙され起訴された共産党員を弁護した弁護士が、治安維持法の「共産党の目的遂行のためにする行為」を行ったとして逮捕され、起訴され、多くは執行猶予付きでしたが有罪判決を受けました。そして、弁護士資格剥奪となったのです。
人権を擁護する弁護士の任務遂行が犯罪とされる時代、それが現首相が取り戻したいとする日本なのです。教育勅語が子どもたちに刷り込まれた時代の日本の姿なのです。
治安維持法の危険の本質は、
(1) 表だって、国体に反する思想そのものを弾圧対象としたこと
(2) いかようにも使える権力にとっての調法さ
にあったと考えられます。
実は、(2)については共謀罪もまったく同じです。そして、そのことを通じて、政権が不都合とする思想を弾圧したり、萎縮させたりすることができるのです。
日本国憲法の根幹には自由主義があります。権力を恐るべき警戒対象とし、その暴走の抑制によって国民の自由を擁護しなければならない、とする考え方です。
この自由主義の理念が刑法に表れて、刑法の人権保障機能を形づくることになります。その際の原則が罪刑法定主義であり、その核をなすものとして求められるものが、構成要件の厳格性です。とりわけ、犯罪構成要件における「実行行為」こそが、が権力発動の可否を画する分水嶺です。
犯罪構成要件における「実行行為」は、それぞれの犯罪に相応した定型性をもっています。「人を殺す」「人の財物を窃取する」「火を放つ」等々、明らかに日常的な行為とは性質を異にする、違法が明確な特別の行為、と言えます。
ところが、「共謀罪」は、そのような実行行為着手の段階での取り締まりでは遅い、もっと前の段階で取り締まらなければテロの防止はできない、と言うのです。ここに、共謀罪の無理があります。自由や人権を擁護する体系として積み上げられてきた刑法の体系を崩さなければ、あるいははみ出さなければ、共謀罪は創設し得ないのです。
実行行為の着手に至らない予備・陰謀・「準備」・「共謀」などで、犯罪を覚知するためには、実行行為としての定型性がない行為を犯罪と認定しなければなりません。日常生活の一部である会話、電話、買い物、預金の引出し、などのそれ自身では違法性のない行為が、共謀罪として犯罪にされるのです。
このような共謀罪が、どうしても必要だという政府説明はウソです。?国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約(パレルモ条約)といわれる国連決議に基づく条約締結のために共謀罪の立法が必要だということはウソです。名前を変えて、「テロ等準備罪」としていますがその名称もウソ。「組織的犯罪集団」に適用限定というのもウソ。「準備行為」が権力濫用の歯止めになるというのもウソ。
「安全・安心の獲得」という宣伝に欺されて、国民の自由や人権を売り渡してはならない。強くそう思います。
「アベ内閣は強そうに見える。共謀罪を廃案に追い込むだけの展望をどう考えているか」というご発言がありました。私は、廃案にできる、と考えています。もちろん、自動的にそうなるのではないが、運動の成果は結実するに違いない。
共同通信社が3月11、12両日実施した全国電話世論調査によると、「共謀罪の構成要件を変えた組織犯罪処罰法改正案については反対が45・5%、賛成は33・0%だった。賛成42・6%、反対40・7%だった一月調査とは賛否が逆転。政府はテロ対策が目的だと説明しているが、与党に当初示した条文案に「テロ」の表記がなかったことなどが影響したとみられる。」と報道されています。
アベ政権は、自衛体を南スーダンから撤退させると決断しました。隊員からの死亡者が出たら政権はもたない、との判断からだと思います。オスプレイの横田配備も当分ないことになった。
アベ政権は世論に押されつつあり、また、世論は変わりつつあります。政府与党は、内部の摺り合わせを終了して、近々閣議決定の上法案提出の予定とされていますが、提案されても、きっと4度目の「共謀罪」廃案を実現することはできると考えています。
(2017年3月15日)
本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま。毎月第2火曜日の昼休みに続けております、「本郷湯島九条の会」からの訴えです。
春に似つかわしくない陰鬱な日に、陰鬱な話題となりますが、皆さま、しばらく耳をお貸しください。
今日は3月14日。明日が、忘れてはならない『3・15事件』の当日となります。小林多喜二が小説「1928年3月15日」で描いたとおりの、野蛮きわまる天皇制政府による思想の大弾圧事件です。
89年前の、3月15日払暁午前5時。全国1道3府(東京・大阪・京都)27県の警察が一斉に日本共産党との関連を疑われる組織や個人宅を襲いました。合法政党だった労農党、全日本無産青年同盟、日本労働組合評議会、日本農民組合などの団体の事務所や個人宅百数十か所。検挙者数は1600名。押収文書1万余点とされています。
3・15事件は、治安維持法の最初の本格的発動の日として記憶されています。治安維持法とはなんだったのでしょうか。いまにつながる問題として、思い返してみなければなりません。参議院のホームページで、「治安維持法犠牲者に対する国家賠償法の制定に関する請願書」を読むことができます。ここに、治安維持法とは何であるかが、簡潔に記されています。その要旨は以下のとおりです。
「戦前、天皇制政治の下で主権在民を主張したため、あるいは平和を望んで侵略戦争に反対したために、多くの国民が治安維持法で弾圧され犠牲を被った。治安維持法が制定された一九二五年から廃止されるまでの二十年間に、逮捕者数十万人、送検された人七万五千六百八十一人(起訴五千百六十二人)、警察署で虐殺された人九十五人、刑務所・拘置所での虐待・暴行・発病などによる死者は四百人余に上っている。
治安維持法は日本がポツダム宣言を受諾したことにより政治的自由への弾圧と人道に反する悪法として廃止されたが、その犠牲者に対して政府は謝罪も賠償もしていない。世界では、ドイツ、イタリア、アメリカ、カナダ、韓国、スペイン、イギリスなど主要な国々で戦前、戦中の弾圧犠牲者への謝罪と賠償が進んでいる。日本弁護士連合会主催の人権擁護大会(一九九三年)は「治安維持法犠牲者は日本の軍国主義に抵抗し、戦争に反対した者として…その行為は高く評価されなければならない」と指摘し、補償を求めている。再び戦争と暗黒政治を許さないために、国が治安維持法犠牲者の名誉回復を図り、謝罪と賠償をすることを求める。…」
治安維持法は、1925年4月に制定され、1928に大改正、さらに1941年に全面改正されています。言わば、小さく生まれて、大きく育てられたのです。
治安維持法は、もともと「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者」を処罰する法律でした。教育勅語で教えられた國體つまりは天皇制を変革しようとする思想や行動、そして私有財産制度を否定する思想や運動を取り締まるための法律でした。まさしく、時の政権に不都合な思想を取り締まり弾圧する道具としての稀代の悪法でした。
しかも、1928年改正で追加されたのが、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の禁止規定です。端的にいえば、共産党の目的遂行ノ為にする行為とレッテルを貼ることによって、政権や公安警察にとって不都合なあらゆる行為を弾圧の対象とすることができたのです。
こうして弾圧されたのは、最初は共産党でした。しかし、共産党にとどまることなく、弾圧の対象が拡大していったのは、皆さまご存じのとおりです。労働組合活動、農民運動、生活協同組合活動、ジャーナリスト、宗教者、平和主義者、リベラリスト、学生、教員、軍国主義批判、綴り方運動…。天皇制を賛美することのないあらゆる思想や活動が弾圧の対象となり、批判の言論を失った国家は暴走して破滅に至りました。その轍を再び踏んではなりません。
今、共謀罪が、治安維持法の再来であり復活を目ざすものとして、表舞台への登場をたくらんでいます。権力にとって、自らの政策に反対する人や組織や、その運動を取り締まる便利な道具があれば、何と調法なことでしょう。その道具を振り回さずとも、国民を萎縮させることができれば、こんなに好都合なことはありません。治安維持法はまさしく、そのようなものでした。そして、共謀罪も同様の役割を期待されているのです。
治安維持法が悪法であった理由は、表だって思想の弾圧を掲げた法律であったこと、そして、刑罰を科する対象の行為に限定なく、なんでも弾圧できたことにあります。さすがに、共謀罪が表向き特定思想の弾圧を掲げていることはありません。しかし、刑罰を科する対象の行為に限定なくなんでも弾圧できる危険をもっていることは治安維持法と変わりません。このことを通じて、政権は特定の思想や、特定の政党を狙い撃ちにした弾圧が可能となるのです。
いつものパターンのとおり、自民党が共謀罪の最悪シナリオを発表し、公明との協議で「少しマイルドになりました」という与党案を提出しようとしています。共謀罪ではなく、「テロ等準備罪」だ。「組織的犯罪集団」だけが刑罰の対象だ、と言いますが、実はその危険性に変わりはありません。
これまで3度廃案になった「共謀罪」。4度目に通してはなりません。治安維持法の前史から、誕生の経過、そしてそれがどう改悪を重ねて、どのように猛威を振るったかを、教訓として、「共謀罪」の成立を阻止するよう訴えます。陰鬱な、あの時代を繰り返すことがないように。
(2017年3月14日)
世の中のできごとは、9分9厘までは常識的な理解の範囲にある。ところが、1厘にも達しない確率ではあるが、ときに常識では理解し難い驚くべきできごとが明らかになる。
豊中市では、路線価を基準に値踏みすれば10億円を下るはずのない国有地が、わずか1億3400万円で新設小学校敷地として売却された。しかも、代金の支払いは10年の分割払いだという。それだけではない。国は既にこの土地の土壌汚染除去費用1億3200万円を支払い済みである。ただ同然での払い下げと言って良い。校舎建設にも、6000万円近い補助金が支払われている。いたれりつくせりというほかはない。
今治市では、これまで52年間認可が下りなかった大学獣医学部の開設が国家戦略特区構想の利用で実現し、来年4月開校予定だという。同市は36億7500万円相当の学校敷地を無償で提供した。それだけではない。今後8年間で校舎建設等に補助金64億円も拠出するという。これまた、いたれりつくせりというほかはない。
どちらも、外面だけを眺める限りにおいては常識では理解し難いできごとだ。何かウラがある、と考えるのが健全な思考である。何にも考えようとしない者を愚民といい、あるいは奴隷という。どんな「ウラ」か、さしたる推理力は必要ない。どちらにもアベ・シンゾーとその妻の影があるのだ。いや、これ見よがしにアベと妻が大っぴらに存在感を際立たせている。「なるほど、それなら常識で理解できそうなこと」と合点がいく。合点がいくだけでなく、猛烈に腹が立つ。
前者の件で異例の利益を受けたのは、その極右思想においてアベとの同志的連帯を誇示する真正右翼の学校法人経営者。当初当該土地に新設される予定の校名は、「安倍晋三記念小学校」であり、現実にその校名を売り物にした寄付の募集も行われた。アベの妻は、この法人が経営する幼稚園で3度講演し、その教育方針に大いに共鳴して新設予定小学校の名誉校長職を引き受けて、広告塔となった。
後者の件で、異例の利益を受けたのは、アベの「腹心の友」を喧伝する学校法人理事長。ここでも、アベの妻が、この法人が経営する保育園の名誉園長を引き受けて、今なお広告塔におさまっている。
衆目の一致するところ、両事件とも「アベ友・疑惑」というほかはない。常識的には、アベ自身か、あるいはその取り巻きが、担当者に口利きをしたのだろうと推察される。それが、健全な思考による推認というほかはない。しかし、このような口利きは、通例密室で行われ、表に現れることは稀である。だから、直接証拠はなく、疑惑が疑惑にとどまることが多いこととなる。それをよいことに、アベは激昂して否定する。「失礼だ」「証拠を出せ」「私は一切関与していない」。うろたえて、ムキになるアベの姿は、ますます疑惑を深めるものとなっている。
口利きの事実は、状況証拠を積み上げて推認するしかない。既に積み上げられた状況証拠に基づく国民の心証は、アベ疑惑クロまではともかく、クロに近い濃い灰色の域にまでは行っている。仮に、口利きの事実がないというなら、アベやその取り巻きの側で、立証責任を負担するレベルに達している。積極的に、関係者の参考人招致実現を図らなければならないのは、そちらの側ではないか。
もし、アベやその取り巻きの口利きの事実がなく、関係者の忖度だけで、これだけのことが運んだとすれば、これまた恐るべき事態というほかはない。アベ自身が口も出さず手も汚さず、アベの意思が忖度されて実現したことになる。「アベ友」と思われる者に、自然と不公平な利益が集中するという、不公正きわまる政治社会が完成しているというのだろうか。
さて、今治のアベ友疑惑解明はこれからだが、豊中アベ友疑惑は新たな展開を見せた。前日まで強気一辺倒だった理事長が、3月10日態度を豹変させて小学校設立認可の申請を取り下げた。またまた、ウラに何があるかを推察せざるを得ない。追及の手を緩めることはできないが、この段階で法的手段行使の報である。
この問題に最初に切り込んだ、木村真豊中市議のグループが、刑事告訴を予定しているという。被告発人を近畿財務局の「氏名不詳」とし、「著しく低い価格と知りながら、学園に利益を図り、国に損害を与える目的で売り渡した」とする背任容疑。3月22日に、大阪地検に告発状提出の予定だという。木村市議は、「いびつな契約が結ばれた経緯を、検察に明らかにしてもらいたい」と話した旨、報じられている。
刑法第247条(背任罪)の条文は以下のとおり。
「他人のためにその事務を処理する者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたときは、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」
この条文中の「他人のためにその事務を処理する者」が被告発人(近畿財務局員)、「第三者」が森友学園、「本人」が国にあたる。そう考えて、条文を読んでいただきたい。
背任罪の主体は「他人のためにその事務を処理する者」とされているが、本件被告発人(近畿財務局員)は「国家公務員として国のために公務を処理する者」であって、この要件を充足することに問題はない。
「その任務に背く行為」とは、法令に従って国有財産の管理や処理を適正にしなかったことを指すことになろう。森友学園への貸付・売却が適正であったか、売却金額が適正であったかが、問われることになる。
「財産上の損害を加えた」は、国に損害が生じたかということで、結局は背任行為の有無と同じ判断になる。
問題あるとすれば、図利加害目的である。背任罪成立のためには、被告発者である近畿財務局員が、森友の利益を図ったか(図利)、あるいは国に損害を加える(加害)目的をもっていたことが必要とされる。
森友の利益を図ったという判断の過程で、誰か政治家の口利き圧力に屈してのことなのか、あるいは単に被告発人が行政の上層部や政権の意向を忖度した結果として異例のサービスをしたのかが、解明されなければならない。
ここまで解明されれば、国民はあらためて「アベ政治を許さない」との決意を固めることができるだろう。
(2017年3月13日)