澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「アベ友学園疑惑」解明阻止のための「会計検査院丸投げ」の術

「隠すよりあらわるるはなし」(莫見乎隠)とは至言である。派生して、「隠すこと千里」「隠すほど知れる」「隠すより現わる」「隠せばいよいよ現わる」などともいうようだ。古今東西、権力者は知られたくないことは隠す。もちろん、やましいところがあるからだ。しかし、隠せば隠すほど、かえって疑惑を大きくし、隠したものの印象が強く深くなる。

アベ友学園問題が事件となった発端が、木村真豊中市議の国有地売却問題情報公開請求だった。近畿財務局の公開文書が黒塗りだらけで、驚くべきことに売却金額が非開示とされていたのだ。2月8日、同市議は「国有地の売却価格に関する情報を非開示とした近畿財務局の決定」の取消を求めて大阪地裁に行政訴訟を提起した。これをきっかけに、朝日が2月9日に最初の報道をした。

さらに驚くべきは、関連文書が破棄されて存在しないという。意図的な隠蔽との批判を甘受するしかなかろう。すべての情報が最初は隠され、隠しきれなくなると小出しに明らかにされる。だれもが、「やっぱり隠したいことがある」「その裏に、やましいところがあるにちがいない」と考え、小出しに明らかにされたことの積み重ねによって、疑惑は次第に不当ないし違法の確定となりつつある。

知られたくないことを聞かれて、防戦しようとする際のアベの常套手段が、質問者に「レッテル貼り」というレッテルを貼ること。そして、「印象操作」(あるいは「イメージ操作」)という言葉を投げつけることでの意図的な印象操作。いずれも愚策である。質疑を聞いている国民の耳には、「やっぱり隠したいことがあるのだ」「その裏に、明らかにしたくないやましいところがあるにちがいない」と聞こえてしまうのだから。

「あなたたちはすぐにそうやってレッテル貼りをしようとしている。この問題についてもですね、まるで、まるでわたしが関与しているがごとくの、ずーっとそういうですね、えーイメージ操作をこの予算委員会のテレビつきしつぎの時間を使ってですね、えんえんと繰り返していますが、みなさんそれが得意だし、それしかないのかもしれない。それしか、ま、ないのかもしれませんが、隠ぺいというのはですね、隠ぺいというのはー、隠ぺいというのはじゃあ、わたくしが隠ぺいしたんですか?」という具合だ。

アベが相手をおとしめる常套句の一つに「恥ずかしい」がある。しかし、こんな答弁しかできないお恥ずかしい首相をもつ日本国民の方が、よっぽど「恥ずかしい」。

もちろん、まだ徹底した疑惑解明には道半ばである。疑問の一つが分かると、さらに二つの疑問が出て来るというのが、この「アベ友学園疑惑」なのだから。この疑惑を徹底して解明できるか否かに、日本政治の自浄能力が問われている。

今、疑惑解明手続の焦点は、国会(参議院予算委員会)への参考人招致の実現である。関連文書が不存在である以上は、疑惑の解明には当事者の証言が不可欠なのが当然。籠池夫妻とアベの妻、そして当時の理財局長は、参考人招致に不可欠と言わねばならない。アベの妻に遠慮する必要はない。都合悪くなるまでは、首相夫人の肩書を最大限利用してきた人ではないか。公人として取り扱って何の不都合もない。参考人招致に消極的な姿勢は、かえって疑惑を大きくすることになる。

強調しなければならないのは、解明すべき疑惑の内容が、けっして国有財産処分価格の適正性にとどまらないことだ。むしろ、ここを出発点に政治的な疑惑解明を進めなくてはならない。アベ友学園の教育内容についての法的な評価も、このような反憲法的教育に感動したアベ夫妻の資質も、アベ夫妻との関係あればこそと思われる異例の(ただ同然の)国有財産払い下げのからくり。その経過と背景を、参考人によって具体的に解き明かさねばならない。

この解明を妨害し、参考人招致を防止しようという策動が、「すべてを会計検査院にお任せしよう」というアベ陣営の「会計検査院丸投げ作戦」である。

しかし、会計検査院の職責は、あくまで会計経理が正しく行われているかの監督に尽きる。これを離れての権能はない。国有財産処分価格の適正性以外の疑惑解明は、そもそも会計検査院の任務にはなり得ないのだ。この問題を会計検査院に丸投げしようというのは、アベ夫妻と口利き政治家免責の策略である。

いま、「アベ友学園疑惑」を通じて、国民はアベ政権を見つめている。「隠すよりあらわるるはなし」とつぶやきながら。国民はさらに目を凝らして見つづけている。だれがこの疑惑解明に熱心で、だれがおざなりであるかを。疑惑解明に手を抜く者は、「やっぱり隠したいことがある」「やましいところがあるにちがいない」のだ。
(2017年3月5日)

石原の無責任と、天皇の戦争責任免責論

以下は、井上清『天皇の戦争責任』(現代評論社)「はしがき」の抜粋である。著者の息遣いが伝わってくる。くり返し読むに値するものと思う。

「かつての大日本帝国が、大東亜侵略戦争に敗北し、連合国に降伏してから、三〇周年の日を迎えようとしているいま、私は、あの戦争のぎせい者たち、日本人であると外国人であるとを問はず、軍人もそうでないものも、すべてのぎせい者たちに、真心こめて、一冊の小さな本をささげたいと思う。
その本は、あの戦争における天皇裕仁の責任を、確実な資料によって明らかにしたものである。
天皇は、大日本帝国の唯一最高の統治権者であり、大日本帝国軍隊の唯一最高の統帥権者であった。そればかりでなく、天皇は日本国創造の神の万世一系の子孫であると称する神的権威であった。この最高の権力・神的権威である天皇陛下の命令・統帥なしには、日本国とその軍隊は対外戦争はできなかった。そして日本国民は、天皇に無条件絶対の忠誠をささげるよう、教育され、あるいは強制されて、あの戦争にしたがった。
こういう地位にある天皇裕仁に、戦争責任がないなどとは、ふつうの人間世界に通用するはずのない論理である。しかし、それが日本では通用している。「天皇は立憲君主として、政府や大本営など、輔弼(天皇をたすける)機関が適法に決定して天皇の裁可を請うたことを、裁可しなければならなかった。したがって責任はすべて輔弼者にある」というのが、天皇裕仁自身の論理であり、また天皇に戦争責任なしとするすべての人の論理である。
この本は、そういう論理がなりたたないこと、天皇裕仁は、たんなる捺印器でもなければロボットでもなく、まさに自分が日本国の唯一最高の統治権者であることの責任をはっきり自覚し、主体的に判断し、決意して、あの戦争を発動し指揮したことを、克明に論証した。払が用いた資料は、すべて印刷出版されているので、読者は、もし必要ならば、資料批判もふくめて、私の見解の当否をたやすく検討できるであろう。
((略))
この小さな研究が、日本軍国主義の再起とたたかう人びとのお役に立つならば幸いである。
一九七五年七月一六日 井上清」

併せて、天皇裕仁の記者会見の発言も引用しておこう。

─天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

天皇「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」

─陛下は(中略)都合三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられましたが、原子爆弾投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか。おうかがいしたいと思います。

天皇「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむおえないことと私は思っています」

この天皇(裕仁)の無責任ぶりが国民的な批判を受けることはなかった。天皇の戦争責任は、「一億総懺悔」の底に沈み込んでしまったのだ。日本の国民は、いまだにあの戦争の責任の構造を明らかにし得ていない。そのことの影響は大きい。

昨日(3月3日)の石原慎太郎弁明会見における石原の「責任」の語り口の軽さもここに原因していると言ってよい。石原の無責任ぶりは、天皇(裕仁)の亜流であり、その自己免責の理屈は、井上のいう「天皇裕仁自身の論理」の借り物である。
石原の理屈はこうだ。
「(私は)当時の最高責任者として、審議会なり専門家の特別委員会なり、あるいは議会は調査権を持っていろんな調査して、委員会でもきわどい採決で可決されたわけですけども。それを踏まえて、私は最高責任者として、とにかく豊洲移転に裁可願いたいということで、それを承諾して裁可しましたということで、私のハンコを預かっている課長さんが私のハンコを押してことが決まったわけです
これは、「天皇は立憲君主として、政府や大本営など、輔弼(天皇をたすける)機関が適法に決定して天皇の裁可を請うたことを、裁可しなければならなかった。したがって責任はすべて輔弼者にある」という、天皇免責論そのものではないか。

石原は「最高責任者として裁可したことに関しては責任があるが、私一人というよりも行政全体の責任だ」「総意として上がってきたものを認可した。議会も是とした。責任はみんなにある」とした。その文脈で、「つかさつかさで」という言葉を5度使い、あとは「知らない」「聞いていない」「分からない」と9度繰り返したそうだ。これは、まさしく「一億総懺悔」ではないか。

天皇は、戦争責任を「言葉のアヤ」という「文学方面」の問題と言った。戦没者遺族のすべてが戸惑ったろうが、死者のために心底怒った人は多くはなかった。石原の「最高責任者として裁可したことの責任」も、「言葉のアヤ」程度の自覚でしかない。都民や国民は、これを怒る資格があるか、考えてみる必要があるのではないだろうか。

驚くべきことに、石原がいう「最高責任者として裁可したことに関しての責任」には、民事的な損害賠償責任は含まれていないことだ。「専門家の意見も聞いた上で、議会でみんなで決めたことで私個人の裁可の責任を攻められるのは違うと思います。そんなことで損害賠償訴訟を起こされるなら、私は不当提訴しますよ」とまで述べている。(「私は不当提訴しますよ」は「違法な提訴として、逆に提訴者を訴えますよ」という意味であろう)

これが「国士」を気取って「憂国」を語り、「逃げているとか、隠れているとか言われることが一番嫌い」と言ってきた人物の責任感覚である。

いまさらにして思う。このような人物を知事にして持ち上げてきた都民の責任を。石原とは較べものにならない、超弩級の天皇の責任回避に目をつぶってきた国民の責任を。石原にだけ、「責任逃れ、恥さらしではないか」と言うことに、「何か、割り切れない」ものが残るのだ。
(2017年3月4日)

教育勅語暗唱の「洗脳」に批判と怒りを

一昨日(3月1日)の朝日新聞が、「森友学園 公教育を逸脱している」と、異様な塚本幼稚園の教育内容を批判する社説を掲載した。
http://www.asahi.com/articles/DA3S12819044.html

森友学園とアベ政権の関係をめぐるこの一連の疑惑。その根底にある最も本質的な問題は森友学園の教育内容にある。反憲法的な復古主義教育に、政権が無批判であるだけでなく、異例の優遇を重ねてきたことが大問題なのだ。この偏頗な教育内容をこそ、批判の対象としなければならない。「私立学校だから教育方針は自由」との「屁理屈」を許してはならない。キーワードは「公教育」である。私立学校といえども、公教育である以上は教育基本法を頂点とする教育法体系を尊重しなければならない。
朝日社説は、このことを明確に意識したものとなっている。

子どもの教育法として望ましい姿とはとても思えない。
 学校法人森友学園(大阪市)が運営する幼稚園が、運動会の選手宣誓で園児にこんな発言をさせていた。
 『日本を悪者として扱っている中国、韓国が心改め、歴史でうそを教えないようお願いいたします』『安倍首相がんばれ』『安保法制国会通過、よかったです』
 運動会とはおよそ関係のない話で、異様さに耳を疑う。
 教育基本法は、特定の政党を支持するなどの政治教育や政治的活動を禁じている。安倍首相自身、自らへの『応援』について国会で『適切でないと思う』と述べた。当然だ。
 深く理解できる年代でもない子に、他国名をあげて批判させたり、法の成立をただ『よかった』と言わせたりすることが、教育に値するだろうか。
他者を排し、一つの考えを植えつけるような姿勢は、公的制度にのっとった公教育としてふさわしくない。『自他の敬愛と協力』の重視を求める教育基本法の趣旨にも反する。
 この幼稚園は、園児に教育勅語を素読させてもいる。学園が4月に開校予定の小学校でも同様に素読させるとしている。
 教育勅語は、天皇を頂点とする秩序を説き、戦前の教育の基本理念を示したものだ。『基本的人権を損ない、国際信義に対して疑問を残す』などとして、48年に衆参両院で排除・失効の確認が決議されている。この経緯からも、素読は時代錯誤だ。
首相の妻の安倍昭恵氏は、幼稚園での講演で『この幼稚園でやっていることが本当にすばらしい』と語ったという。教育内容をどこまで知っていたのか。小学校の名誉校長を辞したが、経緯はなお不明なことが多い。
 首相は当初、学園や理事長について『妻から先生の教育に対する熱意は素晴らしいと聞いている』と肯定的に語っていたが、その後、『学校で行われている教育の詳細はまったく承知していない』などと距離を置き始めた。いかにも不自然だ。(以下略)」
そして、本日(3月3日)の毎日新聞社説が続いた。森友学園の教育内容を厳しく批判したもの。題して、「森友学園 教育機関と言えるのか」。
http://mainichi.jp/articles/20170303/ddm/005/070/098000c

果たして教育機関を名乗る資格があるのか。学校法人「森友学園」の実態が明らかになるにつれて疑念が深まる。
 学園が運営する幼稚園の運動会で「安倍(晋三)首相がんばれ。安保法制、国会通過よかったです」などと園児に選手宣誓をさせていた。この映像を見て異様さを感じた人は少なくないはずだ。
 教育基本法は思想が偏らないよう教育の政治的中立を求めている。園児にこうした宣誓をさせることが法を逸脱しているのは明らかだ。
 政治について理解する力が身についていない幼児に、大人の思想を押しつけるのは教育ではなく、まさに洗脳である。
 子供の健全な成長に影響を及ぼしかねない深刻な事態だと受け止めなければならない。
 この幼稚園は教育勅語を園児に暗唱させており、新設予定の小学校でも素読させるとしている。
 明治憲法下の教育理念である教育勅語は忠君と国家への奉仕を求めていた。1948年、『基本的人権を損ない、国際信義に対して疑いを残す』などと衆参両院で排除と失効確認が決議された。公式決議の意味は重く、教育現場での暗唱はふさわしくないはずだ
 強引に戦前回帰を進めようとする籠池泰典理事長らの姿勢は時代錯誤と言わざるを得ない。
 学園を監督する大阪府は、教育基本法の趣旨を踏まえた教育内容に改めるよう指導を徹底すべきだ。(以下略)」

両紙の社説に賛同し、敬意を表したい。毎日の「政治について理解する力が身についていない幼児に、大人の思想を押しつけるのは教育ではなく、まさに洗脳である。」という一文が、本質を衝いている。

教育とは、特定の価値観を押しつけることではない。多様な見解に柔軟に接して咀嚼する姿勢を基本に、自らの価値観を形成する能力を育成することではないか。教育勅語こそは、天皇制権力による臣民への偏頗な國體意識刷り込み教育の象徴であった。現代の公教育の場にあってはならないものと言うべきである。これを口を揃えて幼児に暗唱させるなど、醜悪でおぞましい洗脳以外のなにものでもない。新設小学校でこのようなことがあれば、入学児童に対する人格破壊行為と言って過言でない。

森友学園に突出して見えている問題は、実は政権も抱えている。幼稚園児や保育児童に対して、「日の丸・君が代」に親しませるというのだ。まさしく、三つ子の魂に、ナショナリズムを吹き込もうということではないか。

森友学園への批判と怒りは、アベ政権への批判と怒りにしなければならない。
(3月3日)

籠池夫妻と首相夫人を参考人招致せよ

事態の推移が目まぐるしい。昨日(3月1日)の当ブログで、「アベ友学園疑惑」問題での攻防の焦点は4月開校予定の「瑞穂の國記念小學院」の開設許可を阻止できるか否かだ、と書いた。ところが、本日(3月2日)の毎日夕刊に、年度内の設立認可は保留となって、「開校は早くても来年4月になる見通し」の記事が出た。緒戦の勝利だ。これで、疑惑の全容解明に弾みがつこうというもの。昨日(3月1日)の参院予算委員会での共産党小池晃質問の衝撃の効果が大きい。

昨夕の鴻池議員の記者会見も衝撃だったが、本日の朝日夕刊には、「森友学園と国の交渉仲介か 鴻池氏の事務所、接触25回」の記事。「事務所は籠池氏と国の交渉を仲介し、籠池氏や国との接触は2年半で25回に上った。籠池氏の要求は次第にエスカレートし、具体的な金額を提示して金額を低くするよう国への働きかけを求めていた。」という。これこそは、今後解明すべき疑惑の本流であろう。

これは、甘利問題に続いての、あっせん利得処罰法(正確には、「公職にある者等のあっせん行為による利得等の処罰に関する法律」)違反疑惑ではないか。もちろん、「コンニャク」(100万円)まがいを差し出したという籠池夫妻側にも、同法4条違反の「利益供与罪」の疑惑がかかることになる。法定刑は、「1年以下の懲役または250万円以下の罰金」である。

ところで、小池質問にアベが答弁を渋ってもち出したのが、「私の妻は私人」の論理。私人の行為についての質問に回答の義務はなかろう、という文脈での理屈。まともな理屈にならないことはアベもよく分かっているのだろう。一応は拗ねてみたものの、結局は不誠実ながらも回答はしているのだから。

この「首相の妻は公人か私人か」論争。結構紙面を賑わせている。たとえば、朝日が、「首相は、学園が開校予定の小学校の名誉校長になっていた昭恵氏について、『私人だ』と主張。これに対して、野党側は『学園のパンフレットや講演会でも『内閣総理大臣夫人』の肩書で紹介されている。明らかに公人だ』(共産党の小池晃書記局長)と批判している」という具合に。

小池質問とアベ答弁の該当個所を、産経の報道に基づいて抜粋してみる。
小池「『安倍晋三小学校をつくりたい』という話があったのは、総理を辞めたときとおっしゃっていますが、これはいつか?」
安倍いつかというのは、辞めた後でして、いつかということは記憶には定かではない。夫婦の会話ですから、それは、いつそういう会話をしたかは明らかではないのは当たり前なのではと思います
小池「『辞めたときに、妻が知っておりまして』ということは、それ以前から夫人は籠池氏を知っていたということか? 総理夫人は、籠池氏といつからの知り合いか? これまで何度会われているのか?」
安倍これは総理を辞めた後ですから、いつかはわかりませんよ。そして妻は私人なんです。いちいち、その妻をまるで犯罪者扱いするのは、極めて、私は不愉快です。極めて不愉快ですよ! 本当に私は不愉快ですよ、そういう犯罪者扱いするのは。それは、いつ知ったかということについてはこれは、私は承知をしておりません
小池「『私人』とおっしゃいますが、パンフレットにも出ている。講演会でも『内閣総理大臣夫人』という肩書が紹介されている。肩書が困るのであれば『やめてください』と言うべきだ。そのまま講演して、パンフレットに載っている。学校案内に載っている。明らかに公人としての活動だ。」

「公人」「私人」二分論が、論争の前提にある。「公人」にプライバシーはなく、批判の言論に高度の受忍義務が課せられる。「私人」のプライバシーは尊重を要するし、名誉毀損言論を甘受しなければならない筋合いはない。この分類において、いかに線引きがなされるのか。

「公人」という言葉は、法律の条文には出てこない。一般的な法律用語とも言いにくい。定評ある「法律学小辞典」(有斐閣)の項目になく、索引にも出て来ない。必ずしも明確な定義のある概念ではない。

「公人」は、アメリカの名誉毀損訴訟における判例紹介の中で、特有の意味を付与された用語だと考えられる。「公務員あるいは議員」として、公務についている人のみをさす言葉ではない。

アメリカの名誉毀損訴訟には、「現実的悪意の法理」というものが定着している。言論による名誉毀損被害者を「公人」と「私人」とに分け、公人に対する名誉毀損表現を手厚く保護する。表現者に現実的悪意(間違った表現であることを知っていてなお敢えてする故意)ない限り、違法とはならない。だから、公人と私人の区別は極めて重要となっている。

アメリカの名誉毀損判例法理では、公人は「公職者(public official)」だけでなく、「公的人物(public figure)」をも含む概念である。公的人物とは、「公職者と同等の政治的重要性をもった人物」「公衆が正当で重要な関心をもつ論点に関与した人物」などとされる(「表現の自由と名誉毀損」松井茂記)。あるいは、「公的な論争に自ら参加したり名声を得たりしたことで批判にさらされる『危険』を引き受け、しかもメディアにアクセスする手段を持つ人のこと」とも(「名誉毀損」山田隆司)。

いかなる定義を与えようとも、アベの妻が「公的人物(public figure)」に該当すること、つまりは「公人」であることにいささかの疑問の余地もない。「公務員でも議員でもないから、『公人』ではない」は、通用しない。国家からの録を食まず、選挙の洗礼も受けていないから、「私人」であるとも言えない。

この人、「公職者と同等の政治的重要性をもった人物」ではないか。「国民が正当で重要な関心をもつ論点に関与した人物」でもある。何よりも、「敢えて右翼教育礼賛の公的な論争に自ら参加したことで、真っ当な世論の批判にさらされる『危険』を引き受け、しかもその右翼教育機関の広告塔を引き受けて、メディアとの積極的な接点をもつ人」にほかならない。

ことは、わが国の政治体質の根本に関わる。徹底して疑惑を解明しなければならない。政治家への口利き依頼の有無については籠池夫妻を国会に招致しての質疑が必要である。そして、政権と右翼教育との橋渡し疑惑には、アベ妻の参考人招致が必要ではないか。けっして私人ではない。いずれも、「公的人物」として、公人としての資格において。
(2017年3月2日)

松井一郎大阪府知事は、「瑞穂の國記念小學院」の設置認可をしてはならない

暦は、今日から草花の弥や生ふ春。夕方から降り始めた雨も、木の芽にやさしい。
この春の、与野党の攻防のテーマは、以下の「隠蔽・4点セット」なのだそうだ(毎日)。なるほど。
(1)文部科学省の天下りあっせん
(2)南スーダンに派遣された陸上自衛隊部隊の日報隠し
(3)「共謀罪」を巡っての法相の「質問封じ」
(4)森友学園の国有地格安取得

だが、問題はこれだけではない。「隠蔽セット」には豊洲の闇の解明を付け加えるべきだろうし、沖縄・辺野古新基地建設強行問題もある。アベ政権のトランプ追随姿勢も大きな問題だ。

数ある問題の中で、「アベ友疑惑事件」は、ようやく世間とメディアの大きな関心を惹くものとなってきた。極右とアベ妻との接触が出発点で、疑惑のデパートの様相を呈している。ここに来て森友学園のすさまじい極右教育の内容が話題となり、こんな教育を行う学校への設立認可に積極的だった橋下・松井の維新府政問題となっている。

この問題での攻防の焦点は、4月開校予定の「瑞穂の國記念小學院」の開設許可を阻止できるか否かとなっている。明らかに、松井知事は森友学園を見限っている。こんな「学校」を認可して、維新が日本会議の同類と見られることは避けたいという思惑。

そのような状況下で、本日(3月1日)自由法曹団大阪支部が、大阪府知事と府教育長宛てに、この小学校の設置認可をしないよう求める下記の要請書を提出した。要請の理由として、以下の5点を挙げている。
 1 教育基本法に反する行為
 2 財務基盤の脆弱性
 3 予算計画の杜撰さ
 4 土壌汚染の残存
 5 その他(民族差別・児童虐待など)

時宜を得た適切なものと思う。全国の多くの団体や個人が、これに倣った要請行動をされるよう、期待したい。

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学校法人森友学園「瑞穂の國記念小學院」の設置認可をしないよう求める要請書
大阪府知事? 松井一郎殿
大阪府教育長? 向井正博殿
2017年3月1日
自由法曹団大阪支部

第1 要請の趣旨
学校法人森友学園が認可申請をしている「瑞穂の國記念小學院」(大阪府豊中市)の設置認可をしないよう求める。

第2 要請の理由
1 学校法人森友学園は教育基本法に反する行為をする学校法人であること
報道によれば、学校法人森友学園(以下単に「森友学園」という。)が設置運営している塚本幼稚園は、運動会で園児らに「大人の人たちは日本が他の国々に負けぬよう尖閣諸島、竹島、北方領土を守り、日本を悪者として扱っている中国、韓国が心改め歴史教科書で嘘を教えないようお願いします。」「安保法制、国会通過、よかったです。」「安倍首相がんばれ、安倍首相がんばれ」と選手宣誓させている。
また、森友学園の理事長である籠池泰典氏は、「美しい日本憲法をつくる1000万人賛同の輪を! 私は憲法改正に賛成します」の署名用紙を塚本幼稚園園児の保護者らに配布するなど署名活動を行っている。
これらの行為は、教育基本法が禁止する特定の政党を支持する政治教育その他の政治的活動(法14条2項)にあたり、違法であることは明らかである。
森友学園という同一の学校法人が運営し、瑞穂の園記念小學院と塚本幼稚回とは教育理念や教育方針が共通していることや、幼稚園と小学校には連続性があり、申請されている「瑞穂の國記念小學院」のカリキュラムを見ても、道徳の時間が国の基準では年34時間から35時間であるのに対し、年50時間と多く、これに加えて特別活動を1学年次、2学年次では、それぞれ年105時間を充てるとされていることからすれば、仮に小学校が設置認可されれば、塚本幼稚園と同様もしくはそれ以上の違法な政治活動が小学校でも行われる可能性が高いものと言わざるをえない。
このような違法行為を行う森友学園が認可申請している小学校を大阪府が設立認可するということは、森友学園が行う違法行為を大阪府が放置するにとどまらず、積極的に違法行為を援助、助長、促進させるという態度の表明に等しいことを特に銘記しなければならない。

2 森友学園の財務基盤が脆弱であること
私立学校の運営主体である学校法人は、継続的かつ安定的に責任ある学校運営を図るために、財務基盤が脆弱であってはならない。
この点、私立学校法に基づき設置を義務づけられた知事の諮問機関である大阪府私立学校審議会(以下「私学審」という)の2014年12月の定例会において、学校法人森友学園が本件小学校の設立にあたり私立学校会計基準の第2号準備金の積み立てを全くしていないこと、借入金が保有している流動資産よりも多いことが報告され、委員から同法人の財務基盤を懸念する意見が相次いで出ている。
現段階でも、森友学園は、私立学校を設置運営する主体として財務基盤が脆弱であるため、永続的かつ安定的な責任ある学校運営がそもそも期待できないものと言わざるをえない。
これに加えて、小学校敷地に供される予定の国有地(以下「本件国有地」という。)がその売買代金が1億3400万円と破格の値段で売買されており、本件国有地の売買は、国の財産は適正な対価なくしてこれを譲渡してはならないと規定する財政法9条1項違反の疑いがある。
今後の事態の推移によっては、本件国有地の適正価格と売却価額の差額分の返還を求められる可能性がある。そうなれば、現状でさえ脆弱な森友学園の財務基盤は一気に崩れ、危機的な状況に陥ることは明らかである。

3 予算の計画が杜撰であり、審査基準に適合しないこと
(1)上記第2号準備金の積み立てがなされず、小学校設置自体の計画性に疑問があることに加え、収入や支出の見通しについても委員から疑問視する意見が出されてきた経過がある。
私学審の2014年12月定例会では、入学者数の見込みの根拠資料となる豊中市内の幼稚園在園者の保護者に実施したとするアンケートについて、アンケートの配布状況や抽出の精度に偏りがあり、アンケートの結果は入学者予定数の見積もりの根拠として正確性を欠くのではないか等、入学者の見涌しについて委員から疑問視する意見が出されていた。
また、支出の面では人件費の割合が低いこと、収支計画についても、初年度から黒字というのは通常ありえない等の意見が委員から出され、開設7年目には借入れもなく土地まで購入できるとする計画についても委員から疑問視されていた。
(2)その後、条件付き認可答申を出したとされる2015年1月の臨時審議会でさえ、寄付金の割合が他の幼稚園に比べ多く、寄付金の申込内容の確証があるのか、寄付が実行されているのかどうか等、児童生徒を募集する前に精査するべきではないかとの意見が委員から出ていた。
また、支出の面では、他の「人件費の割合が30%も行かないような状態で小学校を経営できるのでしょうか、高校の場合なら相当ひどいことをしないといけない」との意見も委員から出ていた。
(3)これ以後の私学審の定例会でも森友学園からの報告について審議を継続していたが、4月1日の開校予定日まで残り1か月強となった2017年2月22日に開かれた臨時の私学審においても、財務状況や教育方針を疑問視する意見が委員から相次ぐなど、疑問や不安は依然として払拭されておらず、これは条件付きの認可答申を維持することに対して懸念する意見が表明されたものと理解できる。
このように、開校予定日の40日前になって、依然として学校法人森友学園の学校運営に係る財務状況や予算の計画等に対する疑念が払拭されないということは、もはやこれ以上疑念を払拭させる材料が提出される見込みはないと考えなければならない。
私学審は児童、保護者への影響を最小限にとどめるためにも、早急に認可撤回の判断をし、大阪府知事は森友学園の「瑞穂の園記念小學院」を認可しないとの結論を速やかに出すべきである。
学校法人森友学園による認可申請に伴い提出された予算計画については、適正な計画とはいえず、「開設年度から少なくとも2年間の学校運営に係る予算について、適正な計画を立てており、授業料、入学料等現金の経常的収入その他の収入で収支の均衡を保つことが可能であると認められること。」とする「大阪府私立小学校及び中学校の設置認可等に間する審査基準」(第1の7(8))に適合しないと大阪府知事、大阪府教育長は速やかに判断するべきである。

4 土壌汚染が残存している可能性があり児童の安全を確保できないこと
学校法人森友学園は、国から本件国有地を事業用定期借地権の契約を2015年5月29日に締結した。
その後、本件国有地の地下埋蔵物の撤去と土壌汚染対策を実施したとして、地下埋蔵物撤去費8632万4000円、土壌汚染対策費4543万6000円の内訳で合計1億3176万円が有益費として、国(大阪航空局)から学校法人森友学園へ2016年4月6日に支払われた。
さらに、同年6月20日、学校法人森友学園は国と売買契約を締結し本件国有地の売渡をうけたが、その売買価格は鑑定価格9億5600万円から地下埋蔵物撤去及び処理費用として約8億2000万円を差し引き、売買価格が1億3400万円とされた。
しかしながら、地下埋蔵物の撤去がされたのは実際には校舎の底地部分のみであり、その他の校庭部分などは、掘り起こしたものを敷地内に埋め戻し、撤去していないと森友学園理事長の籠池氏は明らかにしている。地下埋蔵物のみならず、汚染物質の除去が適正になされたのかについても疑問が残ると言わざるをえない。
そもそも、ヒ素や鉛等の有害物質がなぜ本件国有地から検出されたのか、その由来が明らかにされていない。由来が明らかになっていない以上、本件国有地の地下の深い箇所まで汚染されている可能性がある。一旦掘り起こした地下埋蔵物の埋め戻しをしたのであるから、学校予定敷地内の土壌には今もなお汚染物質が残存しているのではないかという疑念が生じる。
敷地内の土壌改良が適正になされ、ヒ素や鉛等の汚染物質が確実に除去されていることを検査し、土壌の安全を確認することは、児童の生命、身体の安全を確保するためには不可欠である。豊中市の協力を得ながらも、土壌の安全確認は、最終的には小学校の設置認可に関わる大阪府の責務として行うべきである。
仮に、大阪府が本件国有地の土壌改良後の安全確認をしないまま、設置認可をすることがあれば、児童の生命・身体の安全を軽視するものとの誹りを免れない。

5 結語
以上の理由のほかにも、森友学園が運営する塚本幼稚園では、園児の保護者に対し中国人や韓国人を蔑視する書面を交付したり、園児を決まった時間以外にトイレに行かせない等、園児を虐待する事案があるなどと報道されている。日を追うごとに森友学園の私立学校運営の適格性に疑念を生じさせる事態が次々と明るみになっている。
以上により、自由法曹団大阪支部は、児童、保護者の人権を擁護する見地から、森友学園による「瑞穂の國記念小學院」の設置認可をしないよう貴殿らに要請する次第である。

(2017年3月1日)

「共謀罪」とは、曖昧模糊な条文をもってなんでも処罰可能とすることを本質とする。

本日(2月28日)、「組織的犯罪処罰法等の一部を改正する法律案」が発表された。いよいよ、政権はこの3月10日に、閣議決定を経て共謀罪の法案提出の意向を固めたのだ。いつものパターンのとおり、強権アベ自民と下駄の雪公明の巧妙タッグによるもの。

発表されたのは、「法律案の概要」と「改正法案条文」、そして「新旧対照条文」である。その「法案の概要」(正確な標題は、「組織的犯罪処罰法等の一部を改正する法律案の概要」)に目を通しておこう。A4の一枚ものだが、ここにも共謀罪の本質的な危険性が表れている。

「概要」には、冒頭に3行のリードが掲記されている。どのような理由があって、どのような法改正を行うかをまとめたものだ。
「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴い、実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画等の行為についての処罰規定、犯罪収益規制に関する規定等を整備する。」というもの。分かりにくい文章だが、よく読んでみれば文意を把握できないではない。

文意が把握できれば、真偽の判断も可能だ。「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約の締結に伴い」という立法理由はウソだ。「実行準備行為を伴う」が、これまでの批判をかわそうという魂胆。「重大犯罪遂行の計画」が、これも対象を絞りましたというアピール。「等」が曲者。いずれにしても、「共謀罪」の新設宣言なのだ。

3項目の具体的内容の第1項目が、政権の悲願である「共謀罪の新設」である。しかし、そのような言葉は使われていない。政権は、共謀罪の呼称を「テロ等準備罪」としているが、ここには「テロ」も「テロの回避」も書かれていない。まずは発表のとおりの文章を紹介しよう。

1 実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪の新設〔組織的犯罪処罰法〕

別表第四に掲げる罪に当たる行為であって、?組織的犯罪集団(団体のうち,その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるもの)の団体の活動として,当該行為を実行するための組織により行われるもの,又は?組織的胞罪集団の不正権益の獲得等の目的で行われるものの遂行を二人以上で計画した者は、計画に基づき犯罪を実行するための準備行為が行われたとき処罰するものとする罰則を新設[計画をした犯罪の法定刑が死刑又は無期・長期10年を超える懲役・禁錮の場合は5年以下の懲役・禁錮、それ以外の場合は2年以下の懲役・禁錮]

この文章を一読して理解できた人は、自分の日本語読解能力の異常性を恐れなければならない。あなたはおかしいのだ。巷の「文章読本」の類は、「美しくも読み易い品格ある文章を志す者は、悪文に近づいてはならない」として、法律(家)の文章を悪文の典型として挙げるのが常である。法律(家)の文章にも、出来不出来のあることは避けられないが、この文章は悪文の最たるものではないか。これを理解できる方が、おかしいのだ。

理解に努力しよう。まずはタイトル。
「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪の新設〔組織的犯罪処罰法〕」とは、現行の〔組織的犯罪処罰法〕を改正して、これまでにない罪を新設する。その罪の名は、「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」というのだ。

お分かりだろうか、「実行準備行為を伴う組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」という表現。

犯罪主体は、「組織的犯罪集団」のようである。
行為は、「重大犯罪遂行の計画」のごとくである。
では、「組織的犯罪集団による重大犯罪遂行の計画の罪」で良さそうなものだが、「実行準備行為を伴う」が目玉なので、これを冒頭にもってきた。

だから、「実行準備行為を伴う」という修飾語句が、「組織的犯罪集団による」を飛び越して、「犯罪遂行の計画」という被修飾語句と離れてしまっているから、文意がとりにくい。

それだけではない。「実行準備行為」とはなにか、「伴う」とは何か、「組織的犯罪集団」とは何か、「重大犯罪」とは何か、「その遂行の計画」とは何か。さっぱり分からないのが、当たり前。このわかりにくさ、曖昧さ。これこそが「共謀罪」の本質であり、その危険性の根拠なのだ。

本文は、さらに分からない。理解のためには、もっと努力が必要だ。改行で文の構造を明確化してみよう。

次の罪(共謀罪)を新設する。
別表第四に掲げる罪に当たる行為であって、
 ?組織的犯罪集団の団体の活動として,当該行為を実行するための組織により行われるもの、または
 ?組織的犯罪集団の不正権益の獲得等の目的で行われるもの
の遂行を二人以上で計画した者は、
 計画に基づき犯罪を実行するための準備行為が行われたとき処罰するものとする罰則を新設

なお、「組織的犯罪集団」とは、(団体のうち,その結合関係の基礎としての共同の目的が別表第三に掲げる罪を実行することにあるもの)のことをいう。

また、罰則は、「計画をした犯罪の法定刑が死刑又は無期・長期10年を超える懲役・禁錮の場合は」5年以下の懲役・禁錮とし、「それ以外の法定刑の犯罪の場合は」2年以下の懲役・禁錮とする。

文の構造は分かったこととして、実は、具体的にいかなる場合のいかなる行為が処罰対象となるかの肝腎なところは曖昧にして模糊のまま。実のところは、曖昧であるから、権力にとって使いやすく、市民にとっては恐るべき凶器なのだ。

刑法学の教科書を開くと、その第1頁の冒頭で、刑法の人権保障機能が語られる。権力の恣意的な刑罰権発動を防止するために、刑法典は厳格な犯罪構成要件を定めめている。もちろん、これに該当しない行為を処罰することを禁じて市民の人権を擁護しているのだ。

だから犯罪構成要件は明確であることが必要である。構成要件としての行為も結果も日常用語でだれにも分かるように書かれていなければならない。構成要件的行為は、「人を殺す」「他人の財物を窃取する」「放火する」などの、日常生活における行為とは区別された定型性を持っている。だから、実行行為の着手があったか否かの判断は明瞭である。実行行為に着手して結果が発生すれば既遂、しなければ未遂。実行の着手の有無が、通常は犯罪となるかどうかの分水嶺である。

ところが、共謀罪は、実行行為着手前の犯罪の計画段階で処罰しようとするもの。実行行為への着手のない段階で、犯罪としての定型性を欠いた日常行為を犯罪の準備行為として処罰対象とする立法なのだ。近代刑法の原則からは、乱暴きわまるものと言わねばならない。何をもって犯罪の実行行為となるか予想が付かないことが、共謀罪の共謀罪たる所以なのだ。だから、何が犯罪になるかを明確に記すことができない。むしろ、曖昧でなんでも処罰可能なところに、その本質があることを見極めなければならない。

なお、新設の罪の数は従来案では676に上ったが、今回法案の別表第四では91法律の277罪まで減らしたとされている。だから、大した弊害はない? とんでもない。刑法の人権保障機能が崩れるのだ。小さく生まれて大きく育った治安維持法の例も学ばなければならない。
(2017年2月28日)

DHCサプリメントを買ってはいけないー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第101弾

沖縄が心配だ。辺野古新基地建設の工事が本格的な進行を始め、巨大なコンクリートブロックがつぎつぎと海に沈められて珊瑚礁を破砕している。反対派の現地リーダー山城博治さんは逮捕されて勾留4か月にも及ぶ。そして、本土からの沖縄に対する差別意識丸出しで、沖縄の平和運動に対するデマを垂れ流したMXテレビのニュース女子報道に対する制裁が見えてこない。

本土の我々がもっと沖縄に目を向けなければならない。政権と対峙している沖縄の平和運動を支援しよう。そのような無数にある運動体の一つとして、「基地のない平和な沖縄をめざす会」がある。私は、会費を払って機関誌を読むだけの会員だが会の発足直後から20年近く、手作りの機関紙『沖縄』を読み続けている。典型的なミニコミ紙だが、今号が236号。ともかく、継続していることに頭が下がる。

この『沖縄』のメインスローガンは、「沖縄の心を一つに?『建白書』を実現し、未来を拓く『オール沖縄』のたたかいに連帯します。」というもの。そして、毎号下記のサブスローガンが並んでいる。

オスプレイ配備撤回!
普天間無条件返還!
沖縄基地全面返還!
辺野古新基地建設阻止!
憲法改悪反対・日米安保条約廃棄!
高江ヘリパッド建設阻止!
伊江島基地拡張反対!

曖昧さなく、「普天間無条件返還」「沖縄基地全面返還」「日米安保条約廃棄」と言っているところに好感。

2017年2月20日発行の第236号の最も目につく記事が、「DHCとTOKYO MXテレビ」と標題した、次の寄稿。じっくりお読みいただきたい。

「DHCの化粧品を見かける機会は少ないが、DHCの『健康食品』とやらはコンビニエンスストアにいっぱい並んでいる。これらの売り上げ利益で、真っ赤なウソ番組をつくってそれを東京MXテレビが流し、『人を殺す基地は、もういらない』と崇高なたたかいを続ける沖縄の人々、身銭やカンパで遠くからも駆けつける人々を侮辱した。侮しくて涙が出る。
あの『健康食品』とやらには毒がはいっている、そんな気がしてしまった。日当を払って情け容赦もない人権無視の弾圧をさせているのは、安倍政権である。
ますます負けられないたたかいになった。思いだけがつのってかけつけられないのがツラいけど、私は、DHCと東京MXテレビに抗議する!!
『私達は、私達の上地に、海に、基地をつくるな』と当たり前のことを言っているだけである。それを踏みにじるモノに抗議しているだけである。みっともない番組をつくって国民をだまさないで下さい!」(上原文子)

気持ちのあふれた一文ではないか。まったくそのとおりだと肯かざるをえない。寄稿者については知らない。「上原」は沖縄に多い姓。「私達の土地に海に、基地をつくるな」という言葉遣いからは沖縄出身者かも知れない。市井のひとりの声として、人々を励ます文章になっている。

その指摘のとおり、「DHCは『健康食品とやら』の売り上げ利益で、デマ番組をつくっている」。まったくそのとおりだ。だから、DHCの製品を買ってはならない。DHCの『健康食品とやら』を買うことは、デマとヘイトの番組の作成に加担することだ。沖縄に新基地を作らせてはならないと思う人、大浦湾の美ら海を守ろうと思う人は、けっしてDHCの製品を買ってはならない。

その『健康食品』とやらには毒がはいっている気がする」。これも同感だ。もちろん、比喩としての「毒」。平和運動への猛毒だ。また、それだけでなく、あらゆるサプリメントがけっして安全を保障されてはいないことが、今や健全な常識になっている。食品から普通に摂取している限りは安全な成分も、サプリメントに高濃度に詰め込まれれば、生体に危険ものとなりうる。その意味では「毒」は適切な表現なのだ。

本土から派遣の警察官に日当を払って、情け容赦もない人権無視の弾圧をさせているのは、安倍政権である」。これもご指摘のとおりだ。平和運動への敵意の点で、アベ政権と、DHC、TOKYO MXとはつがっている。それだけではない。安全性確認不十分なサプリメントの出荷量拡大をアベノミクスの第3の矢に位置づけている点でも、アベ政権とDHC、TOKYO MXとは利益を共通にしているのだ。

私も、一緒になって声を上げよう。平和のためのたたかいを続ける沖縄の人々やカンパで遠くから駆けつける人々を侮辱したDHCと東京MXテレビへの抗議の声を。そして、根本原因を作っているアベ政権への抗議も。

「みっともない番組をつくって国民をだまさないで下さい!」。
そして、「人を殺す基地は、もういらない」と。
(2017年2月27日)

日の丸・君が代の強制は、憲法20条(信教の自由)違反である。

「君が代裁判・4次訴訟」で、今月末を期限とした最終準備書面の作成に忙しい。私の分担部分の憲法20条(信教の自由)侵害論の一節(第3部 第2章 第2)を要約してご紹介したい。もちろん、違憲の根拠として主張しているものは、20条だけではない。19条もあれば、23条も、26条も、13条も、そして99条もある。20条は論点としては隠れがちだが、決しておろそかにしてはならない。以前にも申しあげたが、多くの人に、何を問題にしているかを知っていただきたい。その一端である。

※原告らの中には、自らの信仰ゆえに「日の丸・君が代」に対する敬意表明の強制に服しがたいとする複数の者がいる。
当該信仰をもつ原告らに対して、国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを強制する10・23通達、同通達に基づく職務命令、そして当該原告に対する本件各処分は、いずれも当該原告の信教の自由を侵害するものとして、憲法20条に違反する。
また、その余の信仰をもたない原告らについても、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよとの強制は消極的な信教の自由(信仰をもたず、信仰を強制されず、一切の宗教的関わりからの自由)を侵害するものとして、同じく憲法20条に違反する。

※ 信教の自由は、憲法史において、常に基本権カタログの先頭に位置するものであった。近代憲法における精神的自由はなによりも信教の自由を意味し、王権や為政者に対して被治者の信教の自由を認めさせるために近代憲法が成立したとさえ語られる歴史的事実の積み重ねがある。
しかし、我が国においては、20世紀の中葉まで信教の自由はなかった。1889年制定の大日本帝国憲法28条は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背サル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とし、天皇制を支える国家神道に抵触しない範囲でしか信教の自由は認められなかった。
その結果、国体思想に抵触する信仰は、天皇の神聖性を毀損することから「安寧秩序ヲ妨ケ」るものとして苛酷な宗教弾圧の対象となった。また、すべての国民に対して、明らかな宗教行事である神社参拝や宮城遙拝が「臣民タルノ義務」の範疇の行為として強制された。
日本国憲法は、旧憲法体制が国民の信教の自由を蹂躙した過去の反省から、憲法20条1項前段に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と厳格な信教の自由保障の規定をおき、その2項で「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」と明記した。

※ 「日の丸・君が代」は、大日本帝国の慣習法上の国旗国歌であった。大日本帝国が国家神道という特殊な宗教教義に基づく宗教国家であった以上、「日の丸・君が代」は、国家の象徴であるだけでなく国家神道という宗教上のシンボルでもあった。「日の丸・君が代」は、天皇の祖先神と現人神としての現天皇の弥栄を祈念する宗教儀式に必須の存在としての宗教的性格を持つ旗であり歌とされた。
日の丸は、太陽神を象形した宗教的デザインである。その象形が国家神道のシンボルとされたのは、天皇の祖先神(皇祖)であるアマテラスが太陽信仰に由来するところからとされる。また、君が代の歌詞は、神なる天皇の治世が代々継承して永久に続くように、という宗教的な祝祭歌である。
20世紀中葉まで、そのような意味付けをされていた「日の丸・君が代」は、象徴天皇制の日本国憲法下、かつての「日の丸・君が代」の宗教的性格を払拭し得ていない。とりわけ、自らの信仰を持つ者にとっては、「日の丸・君が代」が公的に宗教と結びついていた時代の記憶はいまだに生々しい。のみならず、現在なお天皇とその祖先を神と祀る宮中の皇室祭祀が連綿と継承され、これに追随する全国の神社神道が社会に根を下ろしている今日、「日の丸・君が代」をアマテラス信仰やアラヒトガミ信仰と切り離して考えることのできない現実的な社会基盤がある。

※ 信仰者である原告らにとっては、「日の丸」も「君が代」も、自らの信仰と厳しく背馳し抵触する存在であって、信仰という精神の内面の深奥において、この両者を受容しがたく、強制に服することができない。
このような信仰を有する者に、「日の丸・君が代」を強制することによる精神の葛藤や苦痛を与えてはならない。それこそが、日本国憲法が旧憲法時代の苦い反省のうえに国民に厳格な信仰の自由を保障した積極的な意味である。また、人類史が信教の自由獲得のための闘いとしての一面をもち、各国の近代憲法の基本権カタログの筆頭に信教の自由が掲げられ続けてきた普遍的意味でもある。

※ また、信仰者ではない原告らにとっても、宗教的性格を払拭し得ていない「日の丸・君が代」を強制されることは、信仰を有するものとは違った形で、自己の消極的な信仰の自由の侵害にあたるものである。

※ 「日の丸・君が代」の宗教的性格の有無や宗教的な意味付けの判断は、特定の宗教的行為を強制される側、すなわち被人権侵害者の認識を基準とすべきである。百歩譲っても、被侵害者の認識を最大限尊重しなければならない。人権侵害者の側である公権力においてする意味付けは、ことの性質上まったく意味をなさない。また、一般的客観的な基準によるときには、少数者の権利としての人権保障の意味は失われることにならざるを得ない。
とりわけ留意されるべきは、問題の次元が政教分離原則違反の有無ではなく、個人の基本的人権としての信教の自由そのものの侵害の有無であることである。公権力への禁止規定としての政教分離原則違反に関しては一般的客観的な判断になじむにせよ、基本的人権そのものである信教の自由侵害の有無を判断するに際しては、人権侵害の被害を被っている本人の認識を判断基準としなければならない。

※ 公権力の行使によって、原告らに対して「日の丸・君が代」への敬意表明を強制することが憲法20条に保障された信教の自由の侵害に該当するか否かの判断の過程では、憲法19条についての判断の枠組みと同様、一応は、原告らに対する起立や斉唱という外部行為の強制が、原告らの内面における宗教的信条を侵害すると言えるかが検討の対象となる。
しかし、信仰をもつ原告らについては、その判断の帰趨は自明というべきである。当該原告らにとっては、「他宗の神への礼拝の強制」にほかならず、「日の丸・君が代」に敬意を表明するよう強制されることは、信仰する教義と深く結びついた自己の人格そのものを否定されることであり、精神の深奥にあるものへの受け容れがたい破壊的攻撃以外のなにものでもない。

※ 江戸時代初期に、当時の我が国の公権力が発明した信仰弾圧手法として「踏み絵」があった。この狡猾な弾圧手法は、公権力が信仰者に対して聖像を踏むという身体的な外部行為を命じているだけで、直接に内心の信仰を否定したり攻撃しているわけではない、と言えなくもない。しかし、時の権力者は、信仰者の外部行為と内心の信仰そのものとが密接に結びついていることを知悉していた。だから、踏み絵の強制が信仰者にとって堪えがたい苦痛として信仰告白の強制になること、また、強制された結果心ならずも聖なる像を土足にかけた信仰者の屈辱感や自責の念に苛まれることの効果を冷酷に予測し期待することができたのである。
事情は今日においてもまったく変わらない。都教委は、江戸時代のキリシタン弾圧の幕府役人とまったく同様に、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制が、教員らの信仰や思想良心そのものを侵害し、堪えがたい精神的苦痛を与えることを知悉しているのである。
また、信仰をもたない原告らについても、事情は本質において変わらない。信仰をもつ原告においては侵害されるものが自己の信仰であるのに対して、信仰をもたない原告らにおいて侵害されるものは、特定の信仰の強制や干渉から自由であることである。
踏み絵の強制は、信仰をもたない一般人に対しても精神の静謐に対する被害を及ぼしうる。本来すべての人が、いかなる宗教とも、いかなる態様においても、関わりのなく精神生活を送ることについての自由を有する。「日の丸・君が代」の宗教性が払拭されていない以上は、これに対する敬意表明を強制される原告らは、宗教から完全に自由であるべきとする精神への侵害となるものである。

※ 以上の理は、基本的に「エホバの証人」剣道実技受講拒否事件最高裁判決(1996(平成)8年3月8日最高裁第二小法廷判決民集50巻3号469頁)において最高裁がとるところと言ってよい。
「エホバの証人」を信仰する神戸市立工業高等専門学校の生徒が受講を強制された剣道の授業受講は、一般的客観的には、宗教的な意味合いをもった行為とは言いがたい。しかし、当該の生徒の信仰に抵触する行為として、その強制の違法を最高裁は認めた。宗教性の認定に一般的客観的基準ではなく、被人権侵害者本人基準を採用したものというべきである。

本件でも、事情は同様であり、しかも「日の丸・君が代」への敬意表明という強制される行為は、剣道の授業受講とは比較にならない宗教性濃厚な行為である。(以下略)
(2017年2月26日)

事件名提案ー「豊中アベ疑惑事件」・「国有地払下げ・アベ友疑惑事件」ではどうだろう

言葉は大切だ。用語の選び方次第で、同じものを逆にも見せることができる。そう考えて、自民党は11本の戦争法案を、「国際平和支援法」(1本)と「平和安全整備法」(10本一括)と命名した。「国際平和」であり、「平和安全」である。これが、集団的自衛権行使や海外での自衛隊の武器使用を可能とする戦争法なのだ。そのほかにも、「積極的平和主義」だの、「一般的には戦闘だが法的には衝突」だの、枚挙に暇がない。自民党に倣って、ネーミングには工夫をしよう。

今、ようやく話題となりつつあるあの事件。正確にいえば、「安倍晋三夫婦関与疑惑の極右学校法人新設予定小学校敷地の国有地ただ同然払い下げ事件」をどうネーミングするか。この問題に火をつけた朝日は、「森友学園問題」といっているが、随分と腰の引けたネーミング。「森友学園」は覚えにくいし、覚えるに値しない。これではダメだ。毎日の本日の朝刊は、「大阪市の学校法人『森友学園』が小学校用地として大阪府豊中市の国有地を鑑定額より大幅に安く取得した問題」だ。これも長すぎて使えない。運動の中で使えるような事件名作りに、知恵を寄せ集めよう。

ネーミングは、この事件のどこをどのように主要問題点として把握するかによる。問題点が多岐にわたるとき、そのすべてを盛りこむことはできない。ネーミングに盛りこむべき要素を書き出してみよう。

その1 「アベ関与疑惑」
これが本質的なメインファクターだ。アベが極右勢力と親密で、極右復古主義教育に賛辞を呈していることが何よりの問題。国会でも「学園の教育への熱意は素晴らしいと聞いている」とまで述べている。国有財産ただ同然払い下げという、国からの不当きわまる極右学校法人に対する便益供与。その原因としてアベの関わりが疑われるところ。アベ疑惑として徹底した解明を要するところだ。

その2 「アベ妻疑惑」
臆面もなく、右翼幼稚園教育礼賛を繰りかえし、その広告塔となることで、アベと極右学校法人との橋渡しとなっていたのがアベ妻。「こちらの教育方針は、たいへん主人(安倍晋三)も素晴らしいと思っている。(卒園後)公立小学校の教育を受けると、せっかく芯ができたものが揺らいでしまう」として、新設予定とされた小学校の名誉校長就任を引き受けた。これが、近畿財務局や航空局に影響なかったはずはない。

一昨日(2月23日)に森友学園のホームページから削除された記事では、アベ妻が名誉校長として「理事長の教育への熱い思いに感銘を受け、(名誉校長に)就任させていただいた」「優れた道徳教育を基として、日本人としての誇りを持つ子どもを育てます」と記していた。疑惑を追及されて「名誉校長」の任を放棄して逃げ出したのは不可解。右翼勢力との関係を究明するとともに、アベの取引への関わりの有無について徹底して疑惑を解明しなければならない。

その3 「極右学校法人」疑惑
森友学園が経営する塚本幼稚園の極右復古主義教育の内容はすさまじい。理事長の個人的な政治的主張のために、子どもたちに皇室や自衛隊礼賛の旗振りをさせて手駒として使っている。また、極右にふさわしいヘイト文書や、児童虐待等々が報道されている。その一つ一つを徹底して事実究明していくことが必要だ。すなわち、アベ夫妻が共鳴し褒めたという教育の実態を明らかにしなければならない。

その4 「国有財産ただ同然払い下げ」疑惑
当初は右翼法人が定期借地権を設定して国から借地し、土地の汚染除去を理由に1億3200万円を国に支払わせ、次いで埋設ゴミ除却費用分8億円を値引かせて1億3400万円で払い下げを受けたという。結局のところ、この右翼法人は、わずか200万円で9億5000万円相当の不動産を手に入れた。当初は、隠蔽されていたこのような国有財産管理のからくりの究明が必要だ。アベの存在あればこそ、このような破格の、あるいは通常は考えられない馬鹿げた不当取引が実現したのだろうと考えざるをえない。何らかのかたちでアベが口を利いたのか、あるいは、学校側がアベの存在をチラつかせたか、それとも近畿航空局側が勝手にアベの意向を忖度したか。徹底して洗い出す必要がある。

その5 「私立小学校設立認可(予定)」疑惑
財政状態劣悪な森友学園がどうして、私学審で「認可適当」となったのか。この点も、きちんと解明されなければならない。また、入学希望予定生徒の保護者は、広告塔として利用された安倍夫妻の推薦によってこの学校を選択したのか否か。そして、既に入学金や寄付金を支払っているのかどうか。

その6 その他にも、豊洲同然の校地土壌汚染問題あり、南スーダンPKO同然の書類破棄問題あり、公開請求に棄却決定の問題まである。

これらの「疑惑点」を繋げると、寿限無の如く、「安倍晋三夫婦関与疑惑の極右学校法人新設予定小学校敷地の国有地ただ同然払い下げ・その他付随疑惑事件」となる。思い切ってハサミを入れよう。

飽くまで中心のテーマは、学校法人が右翼的思想で安倍首相と通じていたから、特別のはからいを受けたのではないか。それでなくては、こんなに安くし、こんなに秘密にした理由の説明はつかない、という政治的な疑惑。

当ブログでは、最初「学校法人『森友学園』の『アベ友疑惑小学校』設立認可問題」とし、その後「『アベ疑惑小学校』設立問題」とした。最終的には、学校認可問題と思ったのだが、修正しなけばならない。

「国有地ただ同然払い下げアベ友疑惑事件」ではどうだろうか。長すぎるのなら、「国有地払い下げアベ関与疑惑」。これでも長ければ、「豊中アベ疑惑事件」「国有地払下げ・アベ友疑惑事件」ではどうだ。
(2017年2月25日)

公権力は主権者国民に、国旗国歌への敬意表明を強制する権限をもたない

「君が代裁判・4次訴訟」は、次回3月15日期日に結審して判決を迎える。
弁護団と原告団は、今月末を期限とした最終準備書面の作成に忙しい。本日も、各自の分担原稿を持ち寄っての検討会議がほぼ3時間。私の分担もなんとか間に合いそうで、胸をなで下ろしているところ。

とはいえ、書面を書いているとあらためて腹が立ってくる。どうして国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制などという馬鹿げたことがまかり通るのだろうか。人権の砦であるはずの最高裁が、どうしてしっかりと違憲判断をしないのか。教育は、現場の教員のはつらつたる力量と連帯感あってのものだ。真面目な教師ほど悩まざるをえない環境の中、教育が公権力に絡めとられ、教師の連帯が切断されていく。明日の主権者を育成する教育の力が著しく低下しているではないか。

腹を立てつつも、裁判に絶望するわけにはいかない。弁護団も原告団も懸命だ。私の分担部分の一節を要約してご紹介したい。多くの人に、何を問題にしているかを知っていただきたいのだ。その一端である。

※公権力行使における権限の踰越
そもそも公権力は、国旗国歌に対する敬意表明を、公務員を含む国民に強制する権限をもたない。
(1) 国旗に対して起立し国歌を斉唱することは、国旗国歌に対して敬意を表明する行為である。少なくとも、主として敬意表明の行為としての側面(ないし要素)を主とする行為である。
起立斉唱の強制に関する一連の最高裁判決は、「一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる」と述べている。職務命令を発して国旗起立・国歌斉唱を命じ、その違反に懲戒処分を科することは、その処分軽重の程度にかかわらず、「国旗国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為」を義務付けて懲戒処分によりこれを強制することにほかならない。

(2) 一連の最高裁判決は、前述のとおり「国旗国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為」であることを認めながら、いわゆる間接的制約論を展開して、制約可能性の拡大に途を開いてしまった。しかし、そもそも「敬意」という価値観ないし道徳的評価を公権力が個人に強制することは許されない。このことは、間接的制約論のかげに隠れてしまって、最高裁でも論じられないままになってしまっているが、本来は、司法が真正面から答えなければならない問題である。

(3) 国旗国歌に対する敬意表明の要素を含む行為の強制が、「式典における慣例上の儀礼的な所作として」おこなわれるからといって、許容されるということはできない。儀礼的所作の面があるとしても、それと当時に、敬意表明の要素を含む行為であることは、最高裁判決も認めるとおり、否定しがたいところである。
最高裁愛媛玉串料大法廷判決(最大判平成9年4月2日民集51巻4号1673頁)は、「本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない」としつつ、「そのことゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない」と判断している。同じ法理が本件にも妥当しなければならない。

(4) 国旗国歌に対する敬意表明は国家に対する敬意表明にほかならない。
国旗国歌は、国旗国歌法によって定められた国家制度としての国家シンボルである。シンボルとは、形のない抽象的存在を形のある物体に具象化したものである。国旗国歌は、国家という抽象的存在を、旗や歌という感覚で把握可能なものに具象化して表現したものである。
旗と歌という国家のシンボルに対して敬意を表明する行為は、それが象徴する国家そのものに敬意を表明する行為にほかならない。

(5) 国旗国歌に対する敬意表明の強制は憲法的秩序に違背する背理である。
ア 憲法はその前文で、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と宣明している。国家の権威は国民に由来する。けっしてアプリオリに存在するものではない。神から与えられるものでもなく、あくまでも国民に由来する。
国家の権威は、国民から強権的に調達しうるものではないく、国民の任意の意思に依拠する権威であってこそ、国家の権威は正当化されるのである。
さらに、憲法は第1条で国民主権を、第13条で個人の尊厳を宣明する。国家の主人は国民であって、国家が国民の主人ではない。個人の尊厳の尊重と人権擁護こそが国家の存立意義であって、国家のために個人があるのではない。これらが憲法の予定する憲法的秩序である。この憲法的秩序は、公権力を規制する憲法の根本原理によって保たれる。憲法の条項としては、憲法前文とともに第99条(公務員の憲法尊重擁護義務)がそのことを明定する。

イ 敬意を表明するとは、対象の権威を承認するという意味である。したがって、国家シンボルである国旗国歌に敬意を表明する行為は、国家それ自体の権威を承認してその受容を確認する行為としての意味を持つ。
国旗国歌に対する起立斉唱によって国家に対する敬意を表明し、その都度、個人が国家の権威を承認してその受容を自発的に行う限りは、個人の自由であり問題が生じる余地はない。
ところが、これを公権力が「強制」するとなれば、様相が一変する。それは、国家が国民に対して、国家の権威を承認しこれを受容することを強制することになるからで、近代立憲主義を標榜する国家のなし得ることではない。国家の権威を受容せよと個人に「強制」することは、権威の源泉である国民に対して、権威の受容を「強制」する倒錯といわねばならない。このような国家の権威の由来をめぐる倒錯は、憲法的秩序に明確に反する背理である。

ウ 国民こそが主権者であつて、国家の権威を受容することも、受容しないこともできる地位にある。断じて、国民は、国家の権威の受容を強制される立場にはない。これを認めれば、立憲主義が崩壊する。したがって、その強制は国家の権威の正当性を否定する論理とならざるをえず、その意味でも背理となる。

エ したがって、公権力が、国旗国歌への敬意表明を呼びかけることはよいとして、その行為を行わない者に不利益処分を科してこれを「強制」することは、立憲主義からの逸脱として、公権力が本来なしうる限界を超えるものである。

(6) 公務員に対しても強制はできない
ア 一連の最高裁判決は、前記間接的制約が「許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる」と判示するなかで、「住民全体の奉仕者として法令等及び上司の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性に鑑み」と述べている。
公権力が強制しうる権限の限界を超えるという前述の原告らの主張に対しても、市民・国民一般と公務員(地方公務員・教育公務員)とを峻別し、「住民全体の奉仕者」「地方公務員の地位の性質及び職務の公共性」が主張されると思われる。すなわち、一般に国民・市民に対しては国旗国歌に敬意を表明することを強制できないとしても、公務員(地方公務員・教育公務員)は話が別で、住民全体の奉仕者であり権力機構内部の一員なのであるから、公務員に対しては、国旗国歌に対する敬意表明を強制することができる、という主張である。
しかし、これに対する反論としては、次の4点で足りる。

イ 第1に、原告らの主張は、立憲主義からの逸脱ゆえに公権力が本来なしうる限度を踰越しているとするものであって、これは、特定の名宛人との関係についてではなく、当該の公権力行使を一般的に違憲とするものである。言い換えれば、だれに対しても、そのような公権力の行使は憲法適合的にはなしえない。
そもそも、公務員としての身分を有しない一般国民に対する関係では、国旗国歌への敬意表明の「強制」はあり得ない。これは、ただ単に根拠法規がないというレベルの問題ではなく、国家の権威の由来に関する倒錯であり、立憲主義の論理に悖る背理であるからこそ、憲法がその「強制」を許容しないのである。学校儀式においては、参列の生徒や保護者、来賓への起立・斉唱の強制は当然に違憲である。
それでは、教育公務員である教職員に対してならば、公務員法等を根拠として職務命令という形での強制が可能になるのであろうか。
そのようなことはありえない。立憲主義の原則を逸脱した公権力の行使は、名宛人の属性如何に関わらず違憲であり権限を欠くものであるから、当然に不可能と言わなければならない。

ウ 第2に、公務員だからといって国家に対する敬意表明を強制できるとする考え方は、憲法的秩序にそぐわないというべきである。
くり返しになるが、国家シンボルである国旗国歌に対する敬意表明は、そのシンボルが象徴する国家に対する敬意表明にほかならない。そして、国家に対する敬意を表明する行為は、国家の権威を承認することである。
しかし、日本国憲法は、国家の権威を承認することを公務員に対して当然に要求しているわけではない。憲法が公務員に対して求めていることは、この憲法を尊重し擁護することである(憲法99条)。
憲法が公務員に義務づけているのは、あくまでも憲法を尊重し擁護することに限られるのであって、憲法は、国家の権威の承認の義務付けを認めてはいない。
したがって、公務員だからといって、国家に対する敬意表明を義務付けてもよいと考えることは、憲法的秩序から逸脱するものといわねばならない。

エ 第3に、「住民全体の奉仕者」であることは、公務員からその「国民」性を奪い去ってしまうものではない。
前述のとおり、国家の権威は国民に由来するのであり、国家の権威を受容せよと国民に「強制」することは、権威の源泉に対して権威の受容を「強制」する倒錯となる。そのような「国民」であることは、公務員になったからといって、消えてなくなるわけではない。
公務員であっても、国家の権威がそれに由来する「国民」であることに変わりはないのであって、公権力が公務員である個人に対して国家シンボルに対する敬意表明を強制すれば、それは、権威の源泉に対して権威の受容を強制する倒錯であり、公権力がおこなってはならない背理であることに変わりはない。

オ 第4に、公務員たる教職員への「強制」を合憲適法と認めれば、強制された教職員の行為を介在して生徒やその保護者にも、つまりは一般市民に対して国旗国歌への敬意表明「強制」の効果が及ぶ。国民への強制ではないと言いつつも、教員である公務員への「国家への敬意表明の指導の強制」は、卒業式での国旗国歌尊重儀式を通じて、国民全体に強制していることと変わるところはない。
すなわち、教職員に対する「強制」の効果は、生徒や父母、一般市民にまで及ぶのである。このような効果を容認する解釈は、とうてい憲法が許容するところではない。
(2017年2月24日)

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